
茅誠司(かや せいじ)は、明治時代後期の1898年(明治31)12月21日に、神奈川県愛甲郡愛川町において、大きな農家の二男として生まれました。旧制厚木中学校(現在の神奈川県立厚木高等学校)を経て、1920年(大正9)には、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)電気科を卒業します。
その後、東北帝国大学理学部物理学科へ進み、1923年(大正12)に卒業、金属材料研究所助手となり、本多光太郎に師事して磁性体を研究しました。1926年(大正15)に、本多と共に単結晶の結晶方向の磁化曲線を発見、東北帝国大学助教授となり、1928年(昭和3)には、欧米に留学します。
1929年(昭和4)に論文「強磁性結晶体の磁化」により、東北帝国大学より理学博士を得、1930年(昭和5)には、北海道帝国大学助教授となりました。1931年(昭和6)に教授に昇任され、1935年(昭和10)に報公賞を受賞、1942年(昭和17)には、「強磁性結晶体の磁気的研究」で帝国学士院賞を受賞します。
1943年(昭和18)に東京帝国大学教授となり、太平洋戦争後の1948年(昭和23)に文部省科学教育局長を務め、日本学術会議設立に尽力、翌年の設立時には、同会議第4部長となりました。1954年(昭和29)に日本学術会議会長、社団法人日本アイソトープ協会会長となり、1955年(昭和30)には、世界平和アピール七人委員会の結成に参加します。
1957年(昭和32)に東京大学総長、1959年(昭和34)に科学技術会議議員、1960年(昭和35)に本多記念賞を受賞、1961年(昭和36)には、日本学士院会員となりました。1963年(昭和38)に卒業式告辞で「小さな親切」の重要性について言及、社団法人小さな親切運動の本部設立に伴い初代代表になります。
1964年(昭和39)に、東京大学名誉教授となり、文化勲章を受章しました。その後も、1965年(昭和40)に第10回日本金属学会賞、1967年(昭和42)に日本学術振興会会長、1969年(昭和44)に勲一等瑞宝章、1970年(昭和45)にNHK放送文化賞、1975年(昭和50)に勲一等旭日大綬章と数々の栄誉に輝きます。
1985年(昭和60)に“緑の文明学会”会長に就任したものの、1986年(昭和61)には、小さな親切運動本部代表を退任、1988年(昭和63)11月9日に、東京において、満89歳で亡くなり、従二位、賜銀杯一組を追贈されました。
その後、東北帝国大学理学部物理学科へ進み、1923年(大正12)に卒業、金属材料研究所助手となり、本多光太郎に師事して磁性体を研究しました。1926年(大正15)に、本多と共に単結晶の結晶方向の磁化曲線を発見、東北帝国大学助教授となり、1928年(昭和3)には、欧米に留学します。
1929年(昭和4)に論文「強磁性結晶体の磁化」により、東北帝国大学より理学博士を得、1930年(昭和5)には、北海道帝国大学助教授となりました。1931年(昭和6)に教授に昇任され、1935年(昭和10)に報公賞を受賞、1942年(昭和17)には、「強磁性結晶体の磁気的研究」で帝国学士院賞を受賞します。
1943年(昭和18)に東京帝国大学教授となり、太平洋戦争後の1948年(昭和23)に文部省科学教育局長を務め、日本学術会議設立に尽力、翌年の設立時には、同会議第4部長となりました。1954年(昭和29)に日本学術会議会長、社団法人日本アイソトープ協会会長となり、1955年(昭和30)には、世界平和アピール七人委員会の結成に参加します。
1957年(昭和32)に東京大学総長、1959年(昭和34)に科学技術会議議員、1960年(昭和35)に本多記念賞を受賞、1961年(昭和36)には、日本学士院会員となりました。1963年(昭和38)に卒業式告辞で「小さな親切」の重要性について言及、社団法人小さな親切運動の本部設立に伴い初代代表になります。
1964年(昭和39)に、東京大学名誉教授となり、文化勲章を受章しました。その後も、1965年(昭和40)に第10回日本金属学会賞、1967年(昭和42)に日本学術振興会会長、1969年(昭和44)に勲一等瑞宝章、1970年(昭和45)にNHK放送文化賞、1975年(昭和50)に勲一等旭日大綬章と数々の栄誉に輝きます。
1985年(昭和60)に“緑の文明学会”会長に就任したものの、1986年(昭和61)には、小さな親切運動本部代表を退任、1988年(昭和63)11月9日に、東京において、満89歳で亡くなり、従二位、賜銀杯一組を追贈されました。
〇茅誠司の主要な著作
『強磁性結晶体論』(1936年)
『金属の物理』(1948年)
『強磁性』(1952年)
『科学技術の進歩と原子力の利用』(1958年)
『青少年とともに 茅誠司講演集』(1968年)
『雪椿』(1969年)
『続雪椿』(1969年)
『現代社会を考える』(1972年)
☆茅誠司関係略年表
・1898年(明治31)12月21日 神奈川県愛甲郡愛川町において、大きな農家の二男として生まれる
・1920年(大正9) 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)電気科を卒業する
・1923年(大正12) 東北帝国大学理学部物理学科卒業、金属材料研究所助手となり、本多光太郎に師事する
・1926年(大正15) 本多とともに単結晶の結晶方向の磁化曲線を発見、東北帝国大学助教授となる
・1928年(昭和3) 欧米に留学する
・1929年(昭和4) 論文「強磁性結晶体の磁化」により、東北帝国大学より理学博士を得る
・1930年(昭和5) 北海道帝国大学助教授となる
・1931年(昭和6) 北海道帝国大学教授となる
・1935年(昭和10) 報公賞を受賞する
・1942年(昭和17) 「強磁性結晶体の磁気的研究」で帝国学士院賞を受賞する
・1943年(昭和18) 東京帝国大学教授となる
・1948年(昭和23) 文部省科学教育局長を務め、日本学術会議設立に尽力する
・1949年(昭和24) 日本学術会議設立時に同会議第4部長となる
・1954年(昭和29) 日本学術会議会長、社団法人日本アイソトープ協会会長となる
・1955年(昭和30) 世界平和アピール七人委員会の結成に参加する
・1956年(昭和31) 産業計画会議委員となる
・1957年(昭和32) 東京大学総長となる
・1959年(昭和34) 科学技術会議議員となる
・1960年(昭和35) 本多記念賞を受賞する
・1961年(昭和36) 日本学士院会員となる
・1963年(昭和38) 東大総長退任をひかえた最後の卒業式告辞で「小さな親切」の重要性について言及、社団法人小さな親切運動の本部設立に伴い初代代表になる
・1964年(昭和39) 東京大学名誉教授となり、文化勲章を受章する
・1965年(昭和40) 第10回日本金属学会賞を受賞する
・1966年(昭和41) 1967年東京都知事選挙への立候補を大久保留次郎らに推薦されるが、健康を理由に辞退する
・1967年(昭和42) 日本学術振興会会長となる
・1969年(昭和44) 春の叙勲で勲一等瑞宝章を受章する
・1970年(昭和45) NHK放送文化賞を受賞する
・1975年(昭和50) 春の叙勲で勲一等旭日大綬章を受章する
・1980年(昭和55) 放送文化基金理事長となる
・1982年(昭和57) 東京工業大学学百年記念事業資金募金名誉顧問となる
・1983年(昭和58) 復旦大学より名誉博士号授与(中国の学術機関から日本人に対して初)される
・1985年(昭和60) “緑の文明学会”会長に就任する
・1986年(昭和61) 小さな親切運動本部代表を退任する
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