
長久保赤水(ながくぼ せきすい)は、常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)の農家に生まれましたが、名は玄珠(はるたか)と言いました。幼くして父母を失い、継母の手で育てられ、1730年(享保15)には、鈴木玄淳(松江)の私塾に入り漢詩などを学ぶようになります。
1733年(享保18)に江戸に遊学し、服部南郭に学び、1742年(寛保元年)には、鈴木玄淳及び松岡七友と共に名越南渓に師事し、朱子学・漢詩文・天文地理などの研鑽を積みました。1753年(宝暦3)に、松岡七賢人として水戸藩から賜金を給せられ、1760年(宝暦10)には、東北地方(奥州南部と越後)を20日間にわたり旅し、旅行記『東奥紀行』(刊行は1792年)を著します。
1765年(明和2)に、磯原村(現北茨城市)の姫宮丸が遭難し、ベトナムに漂着、1767年(明和4)には、立原翠軒らの尽力により、この漂流民引き取りのため庄屋の代理として水戸藩の役人に随行して長崎を訪れ、『長崎行役日記』、『安南漂流記』を著しました。1768年(明和5)には、『改製日本分里図』を完成させ、学問の功により水戸藩の郷士格(武士待遇)に列せられます。
1773年(安永2)に藩政に関する意見書『芻蕘談(すうじょうだん)』を著し、1774年(安永3)には、地図の完成に向けて識者の意見を得るため京・大坂を訪ね、柴野栗山、高山彦九郎、中井竹山、大典顕常、皆川淇園らと交流を持ちました。1775年(安永4)に『新刻日本日本輿地路程全図』を完成させ、1777年(安永6)に水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川の水戸藩邸に住むようになり、翌年には、建白書『農民疾苦』を上書します。
1779年(安永8)に『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)が完成、翌年に大坂で出版されました。1783年(天明3)に中国図『大清広輿図』、1785年(天明5)には、世界地図『改正地球万国全図』を完成させます。
1786年(天明6)に水戸藩主治保の特命により『大日本史』の地理志の編集に従事、1791年(寛政3)からは、江戸の水戸藩邸に留まり、この編纂に専念しました。1797年(寛政9)に帰郷し、1801年(享和元年7月23日)には、郷里の赤浜村において、数え年85歳で亡くなっています。
1733年(享保18)に江戸に遊学し、服部南郭に学び、1742年(寛保元年)には、鈴木玄淳及び松岡七友と共に名越南渓に師事し、朱子学・漢詩文・天文地理などの研鑽を積みました。1753年(宝暦3)に、松岡七賢人として水戸藩から賜金を給せられ、1760年(宝暦10)には、東北地方(奥州南部と越後)を20日間にわたり旅し、旅行記『東奥紀行』(刊行は1792年)を著します。
1765年(明和2)に、磯原村(現北茨城市)の姫宮丸が遭難し、ベトナムに漂着、1767年(明和4)には、立原翠軒らの尽力により、この漂流民引き取りのため庄屋の代理として水戸藩の役人に随行して長崎を訪れ、『長崎行役日記』、『安南漂流記』を著しました。1768年(明和5)には、『改製日本分里図』を完成させ、学問の功により水戸藩の郷士格(武士待遇)に列せられます。
1773年(安永2)に藩政に関する意見書『芻蕘談(すうじょうだん)』を著し、1774年(安永3)には、地図の完成に向けて識者の意見を得るため京・大坂を訪ね、柴野栗山、高山彦九郎、中井竹山、大典顕常、皆川淇園らと交流を持ちました。1775年(安永4)に『新刻日本日本輿地路程全図』を完成させ、1777年(安永6)に水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川の水戸藩邸に住むようになり、翌年には、建白書『農民疾苦』を上書します。
1779年(安永8)に『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)が完成、翌年に大坂で出版されました。1783年(天明3)に中国図『大清広輿図』、1785年(天明5)には、世界地図『改正地球万国全図』を完成させます。
1786年(天明6)に水戸藩主治保の特命により『大日本史』の地理志の編集に従事、1791年(寛政3)からは、江戸の水戸藩邸に留まり、この編纂に専念しました。1797年(寛政9)に帰郷し、1801年(享和元年7月23日)には、郷里の赤浜村において、数え年85歳で亡くなっています。
〇長久保赤水の主要な著作
・『東奥紀行』(1760年著・1792年刊行)
・『安南国漂流記』(1767年著)
・『長崎行役日記』(1767年著・1805年刊行)
・『改製日本扶桑分里図』(1768年)
・『天文管窺鈔』(1774年刊行)
・『改正日本輿地路程全図』(1779年刊行)
・『大清広輿図』(1785年刊行)
・『地球万国山海輿地全図説』(1788年頃)
・『唐土歴代州郡沿革地図』(1790年刊行)
・『隠密兵策、赤水老兵法』(1792年著)
・『清槎唱和集』(1892年刊行)
☆長久保赤水関係略年表
・1717年(享保2年11月6日) 常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)の農家に生まれる
・1730年(享保15年) 14歳の時、鈴木玄淳(松江)の私塾に入り漢詩などを学ぶ
・1733年(享保18年) 17歳の時、江戸に遊学し、服部南郭に学ぶ
・1739年(天文4年) 23歳で結婚する
・1742年(寛保元年) 26歳の時、鈴木玄淳及び松岡七友と共に名越南渓に師事し、朱子学・漢詩文・天文地理などの研鑽を積む
・1753年(宝暦3年) 37歳の時、松岡七賢人として水戸藩から賜金を給せられる
・1760年(宝暦10年) 44歳の時、東北地方(奥州南部と越後)を20日間にわたり旅し、旅行記『東奥紀行』を著す
・1765年(明和2年) 49歳の時、磯原村(現北茨城市)の姫宮丸が遭難し、ベトナムに漂着する
・1767年(明和4年) 51歳の時、立原翠軒らの尽力により、安南国漂流民の引き取りのため庄屋の代理として水戸藩の役人に随行して長崎を訪れる。『長崎行役日記』(『長崎紀行』)、『安南漂流記』を著す
・1768年(明和5年) 52歳の時、『改製日本分里図』(かいせいにほんぶんりず)が完成、学問の功により水戸藩の郷士格(武士待遇)に列せられる
・1773年(安永2年) 57歳の時、藩政に関する意見書『芻蕘談(すうじょうだん)』を著す。農村で横行していた間引きを憂い、立派な人物になる可能性もあるから富者の家の前に捨て子をしたほうがましだと啓蒙し、間引きの悪習を減らした
・1774年(安永3年) 58歳の時、地図の完成に向けて識者の意見を得るため京・大坂を訪ねる。この際、柴野栗山、高山彦九郎、中井竹山、大典顕常、皆川淇園らと交流を持つ
・1775年(安永4年) 59歳の時、柴野栗山の序文であり、赤水図の内題でもある『新刻日本日本輿地路程全図』が完成する
・1777年(安永6年) 61歳の時、水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川の水戸藩邸に住む
・1778年(安永7年) 62歳の時、建白書『農民疾苦』を上書する。役人が年貢米で公然と賄賂を得ていた「再改め」をなくすよう、命を賭して藩主に提言、農政改善の第一歩に尽力する
・1779年(安永8年) 63歳の時、『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)が完成する
・1780年(安永9年) 64歳の時、大坂で『改正日本輿地路程全図』が出版される
・1781年(天明元年) 65歳の時、高山彦九郎たびたび来訪する
・1783年(天明3年) 67歳の時、中国図『大清広輿図』が完成する
・1785年(天明5年) 69歳の時、世界地図『改正地球万国全図』が完成する
・1786年(天明6年) 70歳の時、水戸藩主治保の特命により『大日本史』の地理志の編集に従事する
・1789年(寛政元年) 73歳の時、『唐土州郡沿革図』が完成する
・1790年(寛政2年) 74歳の時、高山彦九郎、赤水のもとを訪れ、東北地方に旅立つ。
・1791年(寛政3年) 75歳の時、江戸の水戸藩邸に留まり『大日本史』の地理志の編纂に専念する
・1792年(寛政4年) 76歳の時、「隠密兵策、赤水老兵法」を著し、『東奥紀行』を出版する
・1797年(寛政9年) 81歳の時、帰郷する
・1801年(享和元年7月23日)、赤浜村において数え年85歳で亡くなる
・1911年(明治44年) 従四位を追贈される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1937年(昭和12) | 「日独伊防共協定」が調印される | 詳細 |
1938年(昭和13) | 北海道の北炭夕張炭鉱(天竜坑)で爆発事故が起こり、死者161人、負傷者21人を出す | 詳細 |
1943年(昭和18) | 大東亜会議において「大東亜共同宣言」が出される | 詳細 |
1945年(昭和20) | GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する | 詳細 |
1975年(昭和50) | 俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の命日(桂郎忌) | 詳細 |
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