
安政南海地震(あんせいなんかいじしん)は、江戸時代後期の1854年(嘉永7年11月5日)午後4時頃に起きた、紀伊水道南方を震源とする巨大地震(マグニチュード8.4)でした。これによって、大津波が発生して、東海地方から九州にかけて各地に大きな被害をもたらします。
特に、沿岸地域の被害は甚大で、豊後大分藩領内では、家屋倒潰4,546軒、死者18人、土佐藩領内では推定波高5~8mの大津波が襲い、倒壊家屋3,000余戸、焼失家屋2,500余戸、流失家屋3,200余戸、死者372人余、紀州藩領内では、家屋全潰・破損18,086軒、同流失8,496軒、同焼失24軒、死者699人を出しました。ちなみに、紀州広村の津波災害中に同村の名家の生まれ浜口儀兵衛(梧陵)が、下総(千葉県)銚子で醤油製造業(ヤマサ醤油)を営んでいたが、同村滞在中この地震と津波に遭遇し、村人を避難させるため、道端の稲むら(乾燥させるため稲を積んだもの)に火を放ち、これによって村人を誘導して津波から救ったという逸話が残され、名作「稲むらの火」の原点になっています。
この32時間前の11月4日9時過頃には安政東海地震(マグニチュード8.4)が発生し、被害は東海地方を中心に、関東地方から近畿地方にまで及んでいました。2つの地震が重なった地域もあって被害の判別が難しく、併せて、伊豆から四国までの広範な地帯で死者数千人、倒壊家屋3万軒以上という大きな被害をもたらしたとされています。
この2つの地震を機に元号が「安政」に改められたので、安政大地震とも総称されました。この後、11月7日の豊予海峡地震(マグニチュード7.4)、翌安政2年2月1日の飛騨地震(マグニチュード6.8)、10月2日の安政江戸地震(マグニチュード6.9~7.4)、安政3年7月23日の安政八戸沖地震(マグニチュード7.8~8.0)、安政4年8月25日の伊予大震(マグニチュード7.3)、安政5年2月26日の飛越地震(マグニチュード7.0~7.1)などの大きな地震が続き、これらを含めて「安政の大地震」とも呼ばれています。中でも、安政江戸地震の被害は甚大で、倒壊した家屋は2万軒、死者は1万人余と考えられ、小石川の水戸藩邸では藤田東湖、戸田蓬軒らが圧死しました。
以下に、『初等科国語 六』四 稻むらの火を掲載しておきましたので、ご参照下さい。
特に、沿岸地域の被害は甚大で、豊後大分藩領内では、家屋倒潰4,546軒、死者18人、土佐藩領内では推定波高5~8mの大津波が襲い、倒壊家屋3,000余戸、焼失家屋2,500余戸、流失家屋3,200余戸、死者372人余、紀州藩領内では、家屋全潰・破損18,086軒、同流失8,496軒、同焼失24軒、死者699人を出しました。ちなみに、紀州広村の津波災害中に同村の名家の生まれ浜口儀兵衛(梧陵)が、下総(千葉県)銚子で醤油製造業(ヤマサ醤油)を営んでいたが、同村滞在中この地震と津波に遭遇し、村人を避難させるため、道端の稲むら(乾燥させるため稲を積んだもの)に火を放ち、これによって村人を誘導して津波から救ったという逸話が残され、名作「稲むらの火」の原点になっています。
この32時間前の11月4日9時過頃には安政東海地震(マグニチュード8.4)が発生し、被害は東海地方を中心に、関東地方から近畿地方にまで及んでいました。2つの地震が重なった地域もあって被害の判別が難しく、併せて、伊豆から四国までの広範な地帯で死者数千人、倒壊家屋3万軒以上という大きな被害をもたらしたとされています。
この2つの地震を機に元号が「安政」に改められたので、安政大地震とも総称されました。この後、11月7日の豊予海峡地震(マグニチュード7.4)、翌安政2年2月1日の飛騨地震(マグニチュード6.8)、10月2日の安政江戸地震(マグニチュード6.9~7.4)、安政3年7月23日の安政八戸沖地震(マグニチュード7.8~8.0)、安政4年8月25日の伊予大震(マグニチュード7.3)、安政5年2月26日の飛越地震(マグニチュード7.0~7.1)などの大きな地震が続き、これらを含めて「安政の大地震」とも呼ばれています。中でも、安政江戸地震の被害は甚大で、倒壊した家屋は2万軒、死者は1万人余と考えられ、小石川の水戸藩邸では藤田東湖、戸田蓬軒らが圧死しました。
以下に、『初等科国語 六』四 稻むらの火を掲載しておきましたので、ご参照下さい。
〇一連の「安政の大地震」(日付は旧暦です)
・1854年(嘉永7)6月15日- 伊賀上野地震(マグニチュード7.0)
・1854年(嘉永7)11月4日- 安政東海地震(マグニチュード8.4)
・1854年(嘉永7)11月5日- 安政南海地震(マグニチュード8.4)
・1854年(嘉永7)11月7日- 豊予海峡地震(マグニチュード7.4)
・1855年(安政2)2月1日- 飛騨地震(マグニチュード6.8)
・1855年(安政2)8月3日- 陸前で地震
・1855年(安政2)9月28日- 遠州灘で地震(安政東海地震の最大余震)
・1855年(安政2)10月2日- 安政江戸地震(マグニチュード6.9~7.4)
・1856年(安政3)7月23日- 安政八戸沖地震(マグニチュード7.8~8.0)
・1856年(安政3)10月7日- 江戸で地震
・1857年(安政4)閏5月23日- 駿河で地震
・1857年(安政4)8月25日- 伊予大震(マグニチュード7.3)
・1858年(安政5)2月26日- 飛越地震(マグニチュード7.0~7.1)
・1858年(安政5)5月28日- 八戸沖で地震
☆『初等科国語 六』四 稻むらの火
「これは、ただごとでない。」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て來た。今の地震は、別に激しいといふほどのものではなかつた。しかし、長い、ゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、年取つた五兵衛に、今まで經驗したことのない、無氣味なものであつた。
五兵衛は、自分の家の庭から、心配さうに下の村を見おろした。村では、豐年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には、一向氣がつかないもののやうである。
村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸ひつけられてしまつた。風とは反對に、波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、廣い砂原や、黒い岩底が現れて來た。
「大變だ。津波(つなみ)がやつて來るに違ひない。」と、五兵衛は思つた。このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまふ。もう、一刻もぐづぐづしてはゐられない。
「よし。」
と叫んで、家へかけ込んだ五兵衛は、大きなたいまつを持つてとび出して來た。そこには、取り入れるばかりになつてゐるたくさんの稻束が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」
と、五兵衛は、いきなりその稻むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつとあがつた。一つまた一つ、五兵衛はむちゆうで走つた。かうして、自分の田のすべての稻むらに火をつけてしまふと、たいまつを捨てた。まるで失神したやうに、かれはそこに突つ立つたまま、沖の方を眺めてゐた。
日はすでに沒して、あたりがだんだん薄暗くなつて來た。稻むらの火は、天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。莊屋(しやうや)さんの家だ。」
と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。續いて、老人も、女も、子どもも、若者のあとを追ふやうにかけ出した。
高臺から見おろしてゐる五兵衛の目には、それが蟻(あり)の歩みのやうにもどかしく思はれた。やつと二十人ほどの若者が、かけあがつて來た。かれらは、すぐ火を消しにかからうとする。五兵衛は、大聲にいつた。
「うつちやつておけ。──大變だ。村中の人に來てもらふんだ。」
村中の人は、おひおひ集つて來た。五兵衛は、あとからあとからのぼつて來る老幼男女を、一人一人數へた。集つて來た人々は、もえてゐる稻むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。
その時、五兵衛は、力いつぱいの聲で叫んだ。
「見ろ。やつて來たぞ。」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は、見る見る太くなつた。廣くなつた。非常な速さで押し寄せて來た。
「津波だ。」
と、だれかが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前にせまつたと思ふと、山がのしかかつて來たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとどろきとで、陸にぶつかつた。人々は、われを忘れて後へとびのいた。雲のやうに山手へ突進して來た水煙のほかは、一時何物も見えなかつた。
人々は、自分らの村の上を荒れくるつて通る、白い、恐しい海を見た。二度三度、村の上を、海は進みまた退いた。
高臺では、しばらく何の話し聲もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、ただあきれて見おろしてゐた。
稻むらの火は、風にあふられてまたもえあがり、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めてわれにかへつた村人は、この火によつて救はれたのだと氣がつくと、ただだまつて、五兵衛の前にひざまづいてしまつた。
「ウィキソース」より
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