
明治六年政変(めいじろくねんせいへん)は、征韓論争により、明治新政府内が分裂した政変でした。明治維新以来、明治新政府は朝鮮に度々国交を求めたものの、朝鮮は排外鎖国政策をとっていて、拒否されたので、西郷隆盛や板垣退助らが征韓論(朝鮮侵略)を主張するようになります。
これと、欧米視察から帰国した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らが主張する内治優先論(国内政治の優先)とが激しく対立することとなりました。その結果、征韓派は敗れて一斉に政府を去ることとなり、近衛の将士の辞職も相次ぎます。
これ以後、大久保が政権を指導し、大久保政権と呼ばれることとなり、のちに征韓派は、自由民権派と士族反乱派に分化しました。翌年の佐賀の乱、台湾出兵、1877年(明治10)の西南戦争をはじめ、自由民権運動の隆盛など、その後の政局に大きな影響を与えることとなります。
これと、欧米視察から帰国した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らが主張する内治優先論(国内政治の優先)とが激しく対立することとなりました。その結果、征韓派は敗れて一斉に政府を去ることとなり、近衛の将士の辞職も相次ぎます。
これ以後、大久保が政権を指導し、大久保政権と呼ばれることとなり、のちに征韓派は、自由民権派と士族反乱派に分化しました。翌年の佐賀の乱、台湾出兵、1877年(明治10)の西南戦争をはじめ、自由民権運動の隆盛など、その後の政局に大きな影響を与えることとなります。
〇明治六年政変関係略年表
<1872年(明治5)>
・9月12日 木戸派の大蔵大輔井上馨が大久保の洋行を提案し、大久保のみならず大納言岩倉具視・木戸といった実力者を加えた大使節団の派遣へと展開していった。
・11月7日 木戸らと留守政府の代表は洋行中に「大規模な内政改革は行わないこと」などを取り決めた12ヶ条の約定をとりかわした
・11月9日 会議で板垣が朝鮮に使節を送って開国を促し、応じなければ戦争に訴えるべきと主張したが、朝鮮問題には手を付けないことなどが合意された
・11月8日 宮古島島民遭難事件が発生し、台湾征討を主張する声が高まる
・11月11日 岩倉を代表とし、木戸・大久保・伊藤博文らも加わった使節団が出国する
<1873年(明治6)>
・1月19日 木戸・大久保に対して早期帰国の命令が下る
・4月 井上は正院を改革して大蔵省の権力を強めようともくろむ
・4月19日 新たな参議となったのは司法卿江藤新平・文部卿大木喬任・左院議長後藤象二郎という反大蔵省の人物ばかりであり、井上は参議となれず
・5月29日 大久保が帰国する
・5月31日 釜山に設置されていた大日本公館代表広津弘信より、朝鮮政府が日本人の密貿易を取り締まる布告の中で、日本に対する無礼な字があったと報告する
・7月23日 木戸が帰国したが留守政府の現状に激怒し、大久保同様政府への復帰をボイコットし、政府打倒を目指して裏面で活動を行なう
・7月末 西郷は三条に遣使を強く要求する
・7月29日 西郷は板垣宛書簡で、軍隊より先に使節を出せば朝鮮から「暴挙」「暴殺」に出るから「討つべきの名」が立つ、だから自分が使節になると主張する
・8月14日 西郷の板垣宛書簡でも先に使節を出すやり方で「はめ込」めば「必ず戦うべき機会」になる、だから西郷を死なせては可哀そうなどと思わないでほしいと述べる
・8月16日 西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請する
・8月17日 西郷の要望により三条太政大臣の私邸で催された閣議の席上、西郷の遣韓大使任命が内決される
・8月18日 上奏裁可を得て三条は、岩倉大使の帰国を待って熟議することを西郷に伝え、問題は一時延期のかたちとなる
・9月13日 岩倉が帰国し、三条とともに木戸・大久保の復帰に向けて運動を開始する
・9月16日 木戸が病気となり、参議復帰を拒む
・10月12日 大久保が参議に復帰したが、木戸は閣議への復帰に応じなかった
・10月14日 岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張、板垣・江藤・後藤・副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時派遣を主張する
・10月15日 閣議で板垣・江藤・後藤・副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求、三条は西郷の派遣自体は認める決定を行なう
・10月16日 岩倉は三条の元を訪れ、決断の変更を求めたが、三条は受け入れなかった
・10月17日 もう一度閣議を行うことなっていたが、岩倉・大久保・木戸が辞表を提出したことで行われなかった
・10月18日 三条は病に倒れたが、狭心症、心筋梗塞、脚気衝心のいずれかではないかと見られている
・10月19日 副島・江藤・後藤・大木の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された
・10月20日 明治天皇の行幸は実行され、岩倉は太政大臣摂行に就任すると、樺太問題が急務であるという趣旨を上奏する
・10月22日 西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張する
・10月23日 岩倉は参内し、決定の経緯と閣議による決定と自分の意見を述べた上で、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途につく
・10月24日 岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を辞職、板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出する
・10月25日 板垣・江藤・後藤・副島らの辞表が受理され、西郷・板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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