
三浦謹之助(みうら きんのすけ)は、1864年(元治元年3月21日)に、陸奥国伊達郡高成田村(現在の福島県伊達市)で、父・三浦道生の子として生まれました。父は内科・眼科の西洋医となり、農業や養蚕も兼業、寺子屋も開くようになります。
1877年(明治10)に上京して訓蒙学舎で学び、翌年に東京帝国大学医科大学予科へ入学、1883年(明治16)に本科に進み、1888年(明治21)には卒業して、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となりました。1889年(明治22)に有栖川宮威仁親王に随い、米国よりヨーロッパを歴訪、翌年からドイツへ自費留学し、マールブルグ大学、ハイデルベルク大学で学びます。
1892年(明治25)にフランスのパリに移り、ジャン=マルタン・シャルコーに師事、同年に帰国し、東京帝国大学講師となりました。1894年(明治27)に助教授となり、東北地方に流行する首さがり病を研究、1895年(明治28)には、第一内科学講座第二代教授へと昇進します。
1896年(明治29)に那々条虫を発見、医学博士号を受け、1902年(明治35)に日本神経学会、翌年には日本内科学会の創設に参画しました。1906年(明治39)に帝国学士院会員となり、1910年(明治43)に勲三等瑞宝章受章、1912年(大正元)に宮内省御用掛、1915年(大正4)には正四位となり、大礼記念章も受章しています。
1918年(大正7)に東京大学医学部付属病院長に就任、1920年(大正9)には、サントニン海人草の経口投与により腸液への排出をみて回虫駆除作用を証明、また勲一等瑞宝章を受章しました。1921年(大正10)に医学部付属病院長を辞し、1924年(大正13)には、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となります。
1925年(大正14)に同愛記念病院院長となり、日本内科学会理事長に選出され、1929年(昭和4)に、東京同愛記念病院が落成し、院長に就任しました。日本人による医学教育・内科学の確立に努力、臨床神経学の開拓者として日本医学界に貢献したことで、1949年(昭和24)に文化勲章を受章しましたが、翌年10月11日に、東京の神田駿河台の自宅を出たところで脳卒中で倒れ、86歳で亡くなっています。
1877年(明治10)に上京して訓蒙学舎で学び、翌年に東京帝国大学医科大学予科へ入学、1883年(明治16)に本科に進み、1888年(明治21)には卒業して、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となりました。1889年(明治22)に有栖川宮威仁親王に随い、米国よりヨーロッパを歴訪、翌年からドイツへ自費留学し、マールブルグ大学、ハイデルベルク大学で学びます。
1892年(明治25)にフランスのパリに移り、ジャン=マルタン・シャルコーに師事、同年に帰国し、東京帝国大学講師となりました。1894年(明治27)に助教授となり、東北地方に流行する首さがり病を研究、1895年(明治28)には、第一内科学講座第二代教授へと昇進します。
1896年(明治29)に那々条虫を発見、医学博士号を受け、1902年(明治35)に日本神経学会、翌年には日本内科学会の創設に参画しました。1906年(明治39)に帝国学士院会員となり、1910年(明治43)に勲三等瑞宝章受章、1912年(大正元)に宮内省御用掛、1915年(大正4)には正四位となり、大礼記念章も受章しています。
1918年(大正7)に東京大学医学部付属病院長に就任、1920年(大正9)には、サントニン海人草の経口投与により腸液への排出をみて回虫駆除作用を証明、また勲一等瑞宝章を受章しました。1921年(大正10)に医学部付属病院長を辞し、1924年(大正13)には、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となります。
1925年(大正14)に同愛記念病院院長となり、日本内科学会理事長に選出され、1929年(昭和4)に、東京同愛記念病院が落成し、院長に就任しました。日本人による医学教育・内科学の確立に努力、臨床神経学の開拓者として日本医学界に貢献したことで、1949年(昭和24)に文化勲章を受章しましたが、翌年10月11日に、東京の神田駿河台の自宅を出たところで脳卒中で倒れ、86歳で亡くなっています。
〇三浦謹之助の主要な著作
・『三浦内科学纂録』(南江堂、1912年)
・『三浦診断学』(克誠堂書店、1931年)
☆三浦謹之助関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)
・1864年(元治元年3月21日) 陸奥国伊達郡高成田村(現在の福島県伊達市)で、父・三浦道生の子として生まれる
・1865年(慶応元年) 父・道生が内科・眼科の西洋医となる
・1866年(慶応2年) 農業や養蚕も兼業、寺子屋も開く
・1869年(明治2年) 寺子屋で学ぶ
・1871年(明治4年) 高成田小学校に入学する
・1877年(明治10年) 上京し、訓蒙学舎で学ぶ
・1878年(明治11年) 東京帝国大学医科大学予科へ入学する
・1883年(明治16年) 東京帝国大学医科大学本科に進学する
・1888年(明治21年) 東京大学医学部本科を卒業し、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となる
・1889年(明治22年) 有栖川宮威仁親王に随い、米国よりヨーロッパを歴訪する
・1890年(明治23年) ドイツへ自費留学する
・1891年(明治24年) ドイツのマールブルグ大学、ハイデルベルク大学で学ぶ
・1892年(明治25年) 仏蘭西のパリに移り、ジャン=マルタン・シャルコーに師事、留学から帰国し、東京帝国大学講師となる
・1893年(明治26年) 男子尿中膣トリコモナス発見、日本で初めてドイツ医学週報に報告する
・1894年(明治27年) 東京帝国大学助教授となり、東北地方に流行する首さがり病の研究をする
・1895年(明治28年) 東京帝国大学医学部医学科第一内科学講座第二代教授となる
・1896年(明治29年) 那々条虫の発見、医学博士号を受ける
・1902年(明治35年) 日本神経学会の創設に参画する
・1903年(明治36年) 日本内科学会の創設に参画する
・1906年(明治39年) 帝国学士院会員となる
・1909年(明治42年) ロベルト・コッホ来日の際、歓迎の辞を述べる
・1910年(明治43年) 勲三等瑞宝章を受章する
・1912年(大正元年) 宮内省御用掛となる
・1915年(大正4年) 正四位となり、大礼記念章を受章する
・1918年(大正7年) 東京大学医学部付属病院長に就任する
・1919年(大正8年) パリ講和会議全権西園寺公望に随行し渡欧する
・1920年(大正9年) サントニン海人草の経口投与により腸液への排出をみて、回虫駆除作用を証明、勲一等瑞宝章を受章する
・1921年(大正10年) 東京大学医学部付属病院長を辞し、皇太子裕仁親王の欧州訪問に随行し渡欧する
・1924年(大正13年) 東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となる
・1925年(大正14年) 同愛記念病院院長となり、日本内科学会理事長に選出される
・1929年(昭和4年) 東京同愛記念病院落成し、院長に就任する
・1948年(昭和23) 仮性尿毒症になるが、回復する
・1949年(昭和24年) 文化勲章を受章する
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