撰銭令(えりぜにれい)は、悪銭の内、特に粗悪銭の流通禁止、及びその他の銭についても撰銭を禁止するなどの銭貨流通に関して出された法令でした。平安時代末期に始まった銭の流通は、室町・戦国時代に経済が発展すると共に、輸入中国銭の不足をきたし、私鋳銭の大量鋳造が行われるようになります。
この中で、高利貸営業、商取引、年貢公事・反銭の銭納等で、撰銭行為による諸問題が発生するようになりました。これを回避し、銭貨流通を円滑化する為に、室町幕府、戦国大名、社寺などによって、何度もこの法令が出されています。
その内容は、標準貨幣(中国銭)の設定、選択してよい銭とだめな銭の種別、良悪貨幣の混用の限度、良貨に対する悪貨の割引通用率などとなっていますが、なかなか効果が上がらずに推移しています。このような事態は、江戸時代に銅銭が豊富に鋳造・通用するまで続きました。
この中で、高利貸営業、商取引、年貢公事・反銭の銭納等で、撰銭行為による諸問題が発生するようになりました。これを回避し、銭貨流通を円滑化する為に、室町幕府、戦国大名、社寺などによって、何度もこの法令が出されています。
その内容は、標準貨幣(中国銭)の設定、選択してよい銭とだめな銭の種別、良悪貨幣の混用の限度、良貨に対する悪貨の割引通用率などとなっていますが、なかなか効果が上がらずに推移しています。このような事態は、江戸時代に銅銭が豊富に鋳造・通用するまで続きました。
以下に、1505年(永正2)に室町幕府発令の「撰銭令」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「撰銭令」 1505年(永正2年10月10日)室町幕府発令
定む 撰銭[1]の事(京銭[2]・打平[3]等を限る)
右、唐銭[4]に於ては、善悪をいとはず、少瑕[5]を求めず悉く以て諸人相互いに取り用ふべし。次に悪銭売買[6]の事同じく停止の上は、彼といひ、これといひ[7]、若し違犯の輩有らば、其の身を死罪に行ひ、私宅に至りては結封[8]せらるべきの由、仰せ下さるゝ所也。よって下知くだんの如し。
永正弐年[9]十月十日 散位 三善朝臣
豊前守 平朝臣
『蜷川家文書』より
【注釈】
[1]撰銭:えりぜに=貨幣を授受するとき、良貨を撰(えら)び、悪貨を排除すること。
[2]京銭:きょうせん=南京銭の略。室町時代に明から流入した粗悪銭のこと。
[3]打平:うちひらめ=品質の劣った小型の銭を槌で打って大きくた悪銭。
[4]唐銭:とうせん=中国(宋・元・明)からの渡来銭。
[5]少瑕:しょうか=わずかの傷。小さな欠点。
[6]悪銭売買:あくせんばいばい=粗悪銭を表示した以外の値段で売買する。
[7]彼といひ、これといひ:かれといい、これといい=どちらも。
[8]結封:けっぷう=封をして差し押さえる。
[9]永正弐年:えいしょうにねん=1505年。室町幕府第11代将軍足利義澄の時代。
<現代語訳>
定む 撰銭について(京銭・打平等に限って)
右のことについて、中国(宋・元・明)からの渡来銭については、良し悪しに関係なく、わずかな傷を気にせず、すべて誰もがお互いに流通するようにせよ。次に、悪銭売買が禁止された以上、(撰銭・悪銭売買)どちらも、もし違反するものがあれば、その者は死刑とし、その私宅においては、封をして差し押さえるよう、将軍(第11代足利義澄)の命令であるので、以上のように通達する。
永正2年(1505年)10月10日 散位 三善朝臣
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