zen9nennoeki01
 今日は、平安時代後期の1062年(康平4)に、源頼義が安倍貞任を厨川の柵で破り、前九年の役が終結した日ですが、新暦では10月22日となります。
 前九年の役(ぜんくねんのえき)は、陸奥国の豪族安倍氏が起こした反乱でしたが、1056年(天喜4)の源頼義の再征~1064年(康平6)の京都凱旋までの年数(九年)を数えてこう呼ばれてきました。当時陸奥6郡(伊沢、江刺、和賀、稗貫、斯波、岩手の6郡)を支配していて、勢力を誇っていた安倍頼良 (頼時) が、国府に貢賦を納めず、徭役も務めないので、陸奥守・藤原登任と秋田城介・平重成が挙兵し、玉造郡鬼切部で戦闘(鬼切部の戦い)が勃発するも、安倍氏に敗れ、藤原登任は解任されます。
 朝廷では、代わりに源頼義を陸奥守に任じてこれを追討させ、頼良 (頼時) は一時帰服し、1052年(永承7)の後冷泉天皇の祖母・上東門院の病気平癒の願いを込めた大赦の際に、安倍氏も赦されました。しかし、1056年(天喜4年)に、大赦により一時停戦となっていたものの、今度は安倍氏と源氏との間で戦いが再開(阿久利川事件)されます。
 1057年(天喜5)に、頼義は津軽の俘囚で頼時の親族である安倍富忠を味方に引き入れることに成功、頼時は富忠の兵の攻撃を受けた傷が元で亡くなりました。頼義は陸奥国府多賀城から出陣(黄海の戦い)したものの、安倍氏が圧勝します。その結果、1059年(康平2)頃には、安倍氏が衣川の南に勢力を伸ばすようになりました。
 1062年(康平5)に源頼義の陸奥守の任期が再度切れ、後任で公家の高階経重が着任しましたが、郡司たちは従わず、経重は何もできないまま帰洛し、そのまま解任され、頼義が再々任されます。その中で、出羽の俘囚清原光頼、武則らの応援を得て参戦し、1062年(康平5年9月17日)に、厨川柵(現在の岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)し、安倍氏が滅亡して、前九年の役が終結しました。
 この戦いは、後の後三年の役(1086~89年)と共に、源氏が東国に勢力を築く端緒となったとされます。

〇前九年の役関係略年表(日付は旧暦です)

・1051年(永承6年) 安倍頼時が貢租を怠った懲罰のために、陸奥守・藤原登任と秋田城介・平重成が挙兵し、玉造郡鬼切部で戦闘(鬼切部の戦い)が勃発するも、安倍氏に敗れる
・1051年(永承6年) 朝廷は源頼義を陸奥守に任じて安倍氏を追討させ、頼良は一時帰服する
・1052年(永承7年) 後冷泉天皇の祖母・上東門院の病気平癒の願いを込めた大赦の際に、安倍氏も赦される
・1053年(天喜元) 源頼義が鎮守府将軍となる
・1056年(天喜4年) 大赦により一時停戦となっていたものの、今度は安倍氏と源氏との間で戦いが再開される(阿久利川事件)
・1057年(天喜5年5月) 頼義は津軽の俘囚で頼時の親族である安倍富忠を味方に引き入れることに成功、頼義は陸奥国府多賀城から出陣(黄海の戦い)するも、安倍氏に敗れる
・1059年(康平2年)頃 安倍氏が衣川の南に勢力を伸ばす
・1062年(康平5年) 源頼義の陸奥守の任期が再度切れ、後任で公家の高階経重が着任したが、郡司たちは従わず、経重は何もできないまま帰洛し、そのまま解任される
・1062年(康平5年9月17日 厨川柵(現在の岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)し、安倍氏が滅亡して、前九年の役が終結する
・1063年(康平5年12月17日) 源頼義は騒乱鎮定を上奏する
・1063年(康平6年2月25日) 一番の功労者源頼義は、伊予守に任ぜられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)俳人・歌人正岡子規の誕生日(新暦10月14日)詳細
1868年(明治元)日本初の洋式燈台である観音崎灯台が起工する(新暦11月1日)詳細
1938年(昭和13)俳人村上鬼城の命日(鬼城忌)詳細
1945年(昭和20)枕崎台風が枕崎に上陸、日本を縦断し、死者・行方不明者3,758人が出る詳細
1964年(昭和39)日本初の旅客用モノレールとなる東京モノレール(羽田空港~浜松町)が開業する詳細