
滝川事件(たきがわじけん)は、文部省が京都帝国大学法学部教授滝川幸辰と京都帝国大学に対して、思想及び学問の自由、大学(教授会)の自治を弾圧した事件でした。1932年(昭和7)10月28日に、中央大学駿河台校舎で開催された刑法学講演会(中大法学会主催)で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容が、無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したのが端緒となります。
翌年3月に、裁判官・裁判所職員の中で、共産党員およびその同調者とされた人々が検挙される事件(司法官赤化事件)が起き、国会議員の一部や右翼が、この元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張するようになりました。その中で、4月10日に、内務省は滝川の著書『刑法講義』および『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として、「出版法」第19条により発売禁止処分を下します。
さらに5月には、齋藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求したが、京都帝国大学法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶しました。そこで、5月25日に、文官高等分限委員会に瀧川を休職に付する件を諮問、翌日に、この決定に基づいて、文部省は「文官分限令」により瀧川の休職処分を強行します。
これに対して、京都帝国大学法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示しました。また、京都帝国大学法学部学生は教授会を支持し、全員が退学届けを提出するなど処分に抗議する運動を起こし、他学部の学生もこれに同調します。
7月には、16大学の参加により「大学自由擁護連盟」、さらには、長谷川如是閑、徳田秋声、秋田雨雀、三木清ら文化人200名が参加する「学芸自由同盟」が結成され、ジャーナリズムも反対に立ちました。これに対し、文部省は教授会を分断するため7月10日に滝川、佐々木、宮本英雄、森口繁治、末川ら6教授、7月25日に恒藤、田村徳治の2教授を免官とします。
処分に抗議した助教授4名ほかは辞意を貫きましたが、残った教授は文部省の説得を受け入れ辞表を撤回したものの、法学部全教官33人中21人が辞職するに至りました。その後、学生運動にも、警察・大学当局の弾圧が加えられ、運動は崩壊し、大学の自治、学問の自由は失われました。
翌年3月に、裁判官・裁判所職員の中で、共産党員およびその同調者とされた人々が検挙される事件(司法官赤化事件)が起き、国会議員の一部や右翼が、この元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張するようになりました。その中で、4月10日に、内務省は滝川の著書『刑法講義』および『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として、「出版法」第19条により発売禁止処分を下します。
さらに5月には、齋藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求したが、京都帝国大学法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶しました。そこで、5月25日に、文官高等分限委員会に瀧川を休職に付する件を諮問、翌日に、この決定に基づいて、文部省は「文官分限令」により瀧川の休職処分を強行します。
これに対して、京都帝国大学法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示しました。また、京都帝国大学法学部学生は教授会を支持し、全員が退学届けを提出するなど処分に抗議する運動を起こし、他学部の学生もこれに同調します。
7月には、16大学の参加により「大学自由擁護連盟」、さらには、長谷川如是閑、徳田秋声、秋田雨雀、三木清ら文化人200名が参加する「学芸自由同盟」が結成され、ジャーナリズムも反対に立ちました。これに対し、文部省は教授会を分断するため7月10日に滝川、佐々木、宮本英雄、森口繁治、末川ら6教授、7月25日に恒藤、田村徳治の2教授を免官とします。
処分に抗議した助教授4名ほかは辞意を貫きましたが、残った教授は文部省の説得を受け入れ辞表を撤回したものの、法学部全教官33人中21人が辞職するに至りました。その後、学生運動にも、警察・大学当局の弾圧が加えられ、運動は崩壊し、大学の自治、学問の自由は失われました。
〇瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき)とは?
日本を代表する刑法学者・京都大学総長です。明治時代後期の1891年(明治24)2月24日に、岡山県岡山市で生まれました。
神戸第一中学校、北野中学校を経て、1909年(明治42)に旧制第三高等学校に入学します。卒業後、1912年(大正元)21歳の時に、京都帝国大学法科大学独法科に入学し、ドイツ刑法を学び、1915年(大正4)に司法官試補に任官して修習を積んで、京都帝国大学を卒業しました。
母校の助手となりましたが、1917年(大正6)に判事に任官し、京都地方裁判所・同区裁判所に勤務します。翌年、母校の助教授に就任し、刑法総論・各論などを担当しました。
1922年(大正11)海外留学し、主としてドイツに滞在して学び、1924年(大正13)に帰国後、母校の教授に就任します。1932年(昭和7)に『刑法読本』を出し、翌年の中央大学法学部での「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演が契機となり、その刑法学説が自由主義的な内容であったため、当時の文部大臣鳩山一郎から休職処分を下されたのち退官する「滝川事件」が起きました。
法学部教授会がこれに反対、学生も抗議しましたが、結局政府の力に押切られ、思想および学問の自由、大学の自治への弾圧事件として知られます。退官後は大学に属さず、立命館大学で講師をするなどしながら法律研究を行い、1939年(昭和14)には弁護士登録して、刑事専門の弁護士として活躍しました。
太平洋戦争後、京都大学に復帰して法学部長となり、1948年(昭和23)には、日本刑法学会創立とともに初代理事長となります。1951年(昭和26)に法学博士となり、1953年(昭和28)には京都大学総長に就任し、1957年(昭和32)まで勤めて退官しました。
刑法に関する著書を刊行し、多くの随筆集も出しましたが、1962年(昭和37)11月16日に、京都において、71歳で亡くなっています。
神戸第一中学校、北野中学校を経て、1909年(明治42)に旧制第三高等学校に入学します。卒業後、1912年(大正元)21歳の時に、京都帝国大学法科大学独法科に入学し、ドイツ刑法を学び、1915年(大正4)に司法官試補に任官して修習を積んで、京都帝国大学を卒業しました。
母校の助手となりましたが、1917年(大正6)に判事に任官し、京都地方裁判所・同区裁判所に勤務します。翌年、母校の助教授に就任し、刑法総論・各論などを担当しました。
1922年(大正11)海外留学し、主としてドイツに滞在して学び、1924年(大正13)に帰国後、母校の教授に就任します。1932年(昭和7)に『刑法読本』を出し、翌年の中央大学法学部での「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演が契機となり、その刑法学説が自由主義的な内容であったため、当時の文部大臣鳩山一郎から休職処分を下されたのち退官する「滝川事件」が起きました。
法学部教授会がこれに反対、学生も抗議しましたが、結局政府の力に押切られ、思想および学問の自由、大学の自治への弾圧事件として知られます。退官後は大学に属さず、立命館大学で講師をするなどしながら法律研究を行い、1939年(昭和14)には弁護士登録して、刑事専門の弁護士として活躍しました。
太平洋戦争後、京都大学に復帰して法学部長となり、1948年(昭和23)には、日本刑法学会創立とともに初代理事長となります。1951年(昭和26)に法学博士となり、1953年(昭和28)には京都大学総長に就任し、1957年(昭和32)まで勤めて退官しました。
刑法に関する著書を刊行し、多くの随筆集も出しましたが、1962年(昭和37)11月16日に、京都において、71歳で亡くなっています。
☆滝川事件の推移
<1932年(昭和7)>
・10月28日 中央大学駿河台校舎で開催された刑法学講演会(中大法学会主催)で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化する
<1933年(昭和8)>
・3月 共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される(司法官赤化事件)
・4月10日 内務省は瀧川の著書『刑法講義』および『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として出版法第19条により発売禁止処分を下す
・5月 齋藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求したが、京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶する
・5月25日 文官高等分限委員会に瀧川を休職に付する件を諮問する
・5月26日 文官高等分限委員会決定に基づいて、文部省は「文官分限令」により瀧川の休職処分を強行、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示す
・7月 16大学の参加により「大学自由擁護連盟」、長谷川如是閑、徳田秋声、秋田雨雀、三木清ら文化人200名が参加する「学芸自由同盟」が結成される
・7月10日 文部省は滝川、佐々木、宮本英雄、森口繁治、末川ら6教授を免官とする
コメント