
朝鮮通信使(ちようせんつうしんし)は、朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節で、日本では朝鮮来聘使(らいへいし)とも呼ばれてきました。室町時代の1375年(永和元)に、室町幕府第3代将軍足利義満が派遣した日本国王使に対し、当時朝鮮半島を支配していた高麗王朝が返礼のために派遣したのが最初とされ、基本的に対等の外交関係を続けます。
朝鮮からは通信使が来日し、日本からは「国王使」が派遣されました。しかし、豊臣秀吉による1592年(文禄元)の文禄の役、1597年(慶長2)の慶長の役の2度に渡る朝鮮出兵により、両国の国交は途絶えることとなります。
1600年(慶長5)の関ケ原の戦いで徳川家康が勝利し、江戸幕府を開くことになると、対馬の宗氏を通じて朝鮮との修好に尽力し、1607年(慶長12)に朝鮮国から正式の使節団が派遣されるに至り、同年5月6日に江戸において、第2代将軍秀忠と会見しました。当初は、日本からの国書に対する回答と、豊臣秀吉による朝鮮出兵時に日本へ連行された朝鮮人の所在を調査し送還することが目的となり、回答兼刷還使と呼ばれます。
その後、1636年(寛永13年)の第4次の来日から、本来の目的である信を通ずるために使節団が派遣されることとなり、第6次からは、将軍の代替りごとに来日するのが例となりました。ところが、12回目は天明大飢饉のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年(文化8)にようやく実施されましたが、それからは、度々計画されたものの、財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎え、江戸時代の全回数は12回となります。
通信使一行は、正使以下300~500人で構成され、プサン (釜山) から対馬を経て海路で大坂に到着し、その後は陸路で京都から東海道を下り、江戸へと至りました。そして、江戸城において将軍と会見し、国書・進物が献上され、将軍からは返書などが返されました。
費用は毎回100万両に達したとされますが、幕府は将軍継嗣の儀礼と示威の立場から厚遇します。鎖国下にあった日本では、これによって朱子学をはじめとした中国や朝鮮の先進的な文化がもたらされた意義は大きく、日本の社会や文化に少なからない影響を及ぼしたとされてきました。
朝鮮からは通信使が来日し、日本からは「国王使」が派遣されました。しかし、豊臣秀吉による1592年(文禄元)の文禄の役、1597年(慶長2)の慶長の役の2度に渡る朝鮮出兵により、両国の国交は途絶えることとなります。
1600年(慶長5)の関ケ原の戦いで徳川家康が勝利し、江戸幕府を開くことになると、対馬の宗氏を通じて朝鮮との修好に尽力し、1607年(慶長12)に朝鮮国から正式の使節団が派遣されるに至り、同年5月6日に江戸において、第2代将軍秀忠と会見しました。当初は、日本からの国書に対する回答と、豊臣秀吉による朝鮮出兵時に日本へ連行された朝鮮人の所在を調査し送還することが目的となり、回答兼刷還使と呼ばれます。
その後、1636年(寛永13年)の第4次の来日から、本来の目的である信を通ずるために使節団が派遣されることとなり、第6次からは、将軍の代替りごとに来日するのが例となりました。ところが、12回目は天明大飢饉のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年(文化8)にようやく実施されましたが、それからは、度々計画されたものの、財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎え、江戸時代の全回数は12回となります。
通信使一行は、正使以下300~500人で構成され、プサン (釜山) から対馬を経て海路で大坂に到着し、その後は陸路で京都から東海道を下り、江戸へと至りました。そして、江戸城において将軍と会見し、国書・進物が献上され、将軍からは返書などが返されました。
費用は毎回100万両に達したとされますが、幕府は将軍継嗣の儀礼と示威の立場から厚遇します。鎖国下にあった日本では、これによって朱子学をはじめとした中国や朝鮮の先進的な文化がもたらされた意義は大きく、日本の社会や文化に少なからない影響を及ぼしたとされてきました。
〇江戸時代の朝鮮通信使一覧
①1607年(慶長12)第2代将軍徳川秀忠と会見[呂祐吉]日朝国交回復、捕虜返還
②1617年(元和3)第2代将軍徳川秀忠と会見[呉允謙]大坂の役による国内平定祝賀、捕虜返還
③1624年(寛永元)第3代将軍徳川家光と会見[鄭岦]家光襲封祝賀、捕虜返還
④1636年(寛永13)第3代将軍徳川家光と会見[任絖]
⑤1643年(寛永20)第3代将軍徳川家光と会見[尹順之]家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀
⑥1655年(明暦元)第4代徳川家綱と会見[趙珩]家綱襲封祝賀
⑦1682年(天和2)第5代将軍徳川綱吉と会見[尹趾完]綱吉襲封祝賀
⑧1711年(正徳元)第6代将軍徳川家宣と会見[趙泰億]家宣襲封祝賀
⑨1719年(享保4)第8代将軍徳川吉宗と会見[洪致中]吉宗襲封祝賀
⑩1748年(寛延元)第9代将軍徳川家重と会見[洪啓禧]家重襲封祝賀
⑪1764年(宝暦14)第10代将軍徳川家治と会見[趙曮]家治襲封祝賀
⑫1811年(文化8)第11代将軍徳川家斉と会見[金履喬]家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
763年(天平宝字7) | 唐代の高僧・日本律宗の開祖鑑真の命日(新暦6月25日) | 詳細 |
1408年(応永15) | 室町幕府3代将軍足利義満の命日(新暦5月31日) | 詳細 |
1909年(明治42) | 「新聞紙法」が公布される | 詳細 |
1983年(昭和58) | 農業経済学者・農政家東畑精一の命日 | 詳細 |
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