
後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の1350年(正平5/観応元)頃?に、第97代(南朝第2代)の天皇とされる後村上天皇の第2皇子(母は阿野実為の娘)として生まれましたが、名は熙成(ひろなり)と言いました。1368年(正平23/応安元)に立太子し、皇太弟として既に兄の長慶天皇の政務を補佐していたとされます。
和歌を能くし、1375年(天授元/永和元)に『五百番歌合』に「源資氏」、1376年(天授2/永和2)に『千首和歌』に「光長朝臣」の隠名で詠進したのではと考えられてきました。1392年(元中9/明徳3)に、和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して南北朝合一の下交渉が始められ、翌年閏10月に、①譲位の儀をもって神器を北朝の後小松天皇へ授けること、②皇統は両統迭立たること、③国衙領は大覚寺統の領地とすること、④長講堂領は持明院統の領地とすることを条件として、南北両朝合一によって京都へ還幸し、退位します。1394年(応永元)に京都・天竜寺においてはじめて室町幕府第3代将軍足利義満と面会、太上天皇の尊号が贈進されることとなりました。しかし、1397年(応永4)に、尊号および兵仗を辞退し、出家して金剛心と号し、隠遁生活に入ります。
1408年(応永15)の義満没後は、武家側の待遇も悪く、和平条件は履行されず、1410年(応永17)には、突如嵯峨を出奔、吉野山に入りました。続いて、伊勢国司北畠満雅の挙兵もあり、南朝再興の動きも盛んとなったものの、1415年(応永22)に、説成親王の調停によって幕府との和睦が成立し、1416年(応永23)には、広橋兼宣らの仲介で京都へ帰還します。
その後、1424年(応永31年4月12日)に、京都の大覚寺でおよそ数え年75歳で亡くなり、御陵は同寺近くの嵯峨小倉陵(現在の京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町)とされました。
和歌を能くし、1375年(天授元/永和元)に『五百番歌合』に「源資氏」、1376年(天授2/永和2)に『千首和歌』に「光長朝臣」の隠名で詠進したのではと考えられてきました。1392年(元中9/明徳3)に、和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して南北朝合一の下交渉が始められ、翌年閏10月に、①譲位の儀をもって神器を北朝の後小松天皇へ授けること、②皇統は両統迭立たること、③国衙領は大覚寺統の領地とすること、④長講堂領は持明院統の領地とすることを条件として、南北両朝合一によって京都へ還幸し、退位します。1394年(応永元)に京都・天竜寺においてはじめて室町幕府第3代将軍足利義満と面会、太上天皇の尊号が贈進されることとなりました。しかし、1397年(応永4)に、尊号および兵仗を辞退し、出家して金剛心と号し、隠遁生活に入ります。
1408年(応永15)の義満没後は、武家側の待遇も悪く、和平条件は履行されず、1410年(応永17)には、突如嵯峨を出奔、吉野山に入りました。続いて、伊勢国司北畠満雅の挙兵もあり、南朝再興の動きも盛んとなったものの、1415年(応永22)に、説成親王の調停によって幕府との和睦が成立し、1416年(応永23)には、広橋兼宣らの仲介で京都へ帰還します。
その後、1424年(応永31年4月12日)に、京都の大覚寺でおよそ数え年75歳で亡くなり、御陵は同寺近くの嵯峨小倉陵(現在の京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町)とされました。
<後亀山天皇の代表的な和歌>
・「いかがせむ しぐれて渡る 冬の日の みじかき心 くもりやすきを」(後亀山院千首和歌)
〇後亀山天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1350年(正平5年/観応元年)? 後村上天皇の第2皇子(母は阿野実為の娘)として生まれる
・1365年(正平20年/貞治4年) 『内裏三百六十首歌』に「無品親王」として詠進する
・1368年(正平23年/応安元年) 立太子する
・1375年(天授元年/永和元年) 『五百番歌合』に「源資氏」の隠名で詠進する
・1376年(天授2年/永和2年) 『千首和歌』に「光長朝臣」の隠名で詠進する
・1383年(弘和3年/永徳3年)冬 長慶天皇の譲位を受けて践祚する
・1392年(元中9年/明徳3年) 和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して南北朝合一の下交渉を始める
・1393年(元中9年/明徳3年閏10月) 南北両朝合一によって退位する
・1394年(応永元年2月6日) 天竜寺においてはじめて義満と面会する
・1394年(応永元年2月23日) 天皇に太上天皇の尊号が贈進される
・1397年(応永4年11月27日) 尊号および兵仗を辞退する
・1410年(応永17年11月27日) 突如嵯峨を出奔、吉野山に入る
・1412年(応永19年) 称光天皇が践祚する
・1415年(応永22年) 称光天皇践祚に反発した伊勢国司北畠満雅が蜂起するが、説成親王の調停によって幕府との和睦が成立する
・1416年(応永23年9月) 広橋兼宣らの仲介で京都へ帰還する
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