
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、安土桃山時代の1584年(天正12)に、尾張平野を主戦場に羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康軍によって争われた戦いでした。その中で、最大の戦いとなったのが、長久手の戦いです。
その前に、羽黒の戦いなどがあったものの、家康・信雄が小牧山に、秀吉が犬山城に入って、両軍が小牧付近にて対陣状態に陥っている時に、池田恒興(勝入)は秀吉のもとを訪れて、「兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろう。」と献策しました。それを受けて、秀吉はこれを許可し、4月6日に岡崎侵攻隊(第一隊池田恒興勢兵5,000人、第二隊森長可勢兵3,000人、第三隊堀秀政勢兵3,000人、第四隊羽柴秀次勢兵9,000人)が出発します。
7日に岡崎侵攻隊は、上条村に入って砦を築いて宿営しましたが、午後4時に篠木の住民が秀吉軍岡崎侵攻隊の駐屯を家康に密告しました。これを聞いた家康は、午後7時に小牧を先遣隊に出発させ、午後10時に小幡城に入れ、午後8時には家康自身が9,300人の兵を率いて小牧山を出発し、小幡城へ入ります。
8日に第四隊の羽柴秀次勢は行軍を再開しましたが、9日未明に白山林で徳川軍に攻撃されて敗走しました。しかし、第三隊の堀秀政勢が救援に駆け付け、桧ヶ根において徳川軍を撃退したものの、家康の出現を知り後退します。
一方、第一隊の池田恒興勢は丹羽氏重が守備する岩崎城(現在の日進市)を陥落させましたが、徳川軍の出撃を知り、第二隊の森長可勢と共に、長久手付近で迎撃態勢を取りました。午前10時頃から両軍が戦端を開き、激戦が2時間余り続いたものの、第二隊長の森長可が狙撃されて討死して、左翼から崩れ始め、徳川軍優勢となる中、第一隊長の池田恒興も討死にし、総崩れとなります。
秀吉は戦況を知り、3万人の軍勢を率いて戦場へと急行しましたが、行く手を阻まれ、夕刻になって、「家康は小幡城にいる」との報を受けました。翌朝の攻撃を決めたものの、家康と信雄は夜間に、小幡城を出て小牧山城に帰還してしまったので、秀吉も楽田に退きます。
その後、蟹江城合戦や楽田城・岩倉城の戦いなどがあり、尾張以外にも美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津など全国規模の合戦でしたが、勝敗は決せず、長期戦となったため講和を結んで終結しました。
その前に、羽黒の戦いなどがあったものの、家康・信雄が小牧山に、秀吉が犬山城に入って、両軍が小牧付近にて対陣状態に陥っている時に、池田恒興(勝入)は秀吉のもとを訪れて、「兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろう。」と献策しました。それを受けて、秀吉はこれを許可し、4月6日に岡崎侵攻隊(第一隊池田恒興勢兵5,000人、第二隊森長可勢兵3,000人、第三隊堀秀政勢兵3,000人、第四隊羽柴秀次勢兵9,000人)が出発します。
7日に岡崎侵攻隊は、上条村に入って砦を築いて宿営しましたが、午後4時に篠木の住民が秀吉軍岡崎侵攻隊の駐屯を家康に密告しました。これを聞いた家康は、午後7時に小牧を先遣隊に出発させ、午後10時に小幡城に入れ、午後8時には家康自身が9,300人の兵を率いて小牧山を出発し、小幡城へ入ります。
8日に第四隊の羽柴秀次勢は行軍を再開しましたが、9日未明に白山林で徳川軍に攻撃されて敗走しました。しかし、第三隊の堀秀政勢が救援に駆け付け、桧ヶ根において徳川軍を撃退したものの、家康の出現を知り後退します。
一方、第一隊の池田恒興勢は丹羽氏重が守備する岩崎城(現在の日進市)を陥落させましたが、徳川軍の出撃を知り、第二隊の森長可勢と共に、長久手付近で迎撃態勢を取りました。午前10時頃から両軍が戦端を開き、激戦が2時間余り続いたものの、第二隊長の森長可が狙撃されて討死して、左翼から崩れ始め、徳川軍優勢となる中、第一隊長の池田恒興も討死にし、総崩れとなります。
秀吉は戦況を知り、3万人の軍勢を率いて戦場へと急行しましたが、行く手を阻まれ、夕刻になって、「家康は小幡城にいる」との報を受けました。翌朝の攻撃を決めたものの、家康と信雄は夜間に、小幡城を出て小牧山城に帰還してしまったので、秀吉も楽田に退きます。
その後、蟹江城合戦や楽田城・岩倉城の戦いなどがあり、尾張以外にも美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津など全国規模の合戦でしたが、勝敗は決せず、長期戦となったため講和を結んで終結しました。
〇小牧・長久手の戦い関係略年表(日付は旧暦です)
<天正12年(1584年)>
・3月3日:信雄が秀吉と気脈を通じたとして家来の三老臣を殺害、三老臣の居城である星崎城・松ヶ島城・苅安賀城を攻め落とす
・3月7日:家康が信雄救援のため浜松城を出発する
・3月13日:家康が信雄の居城清須城に入って会談、池田恒興、犬山城を奇襲して奪取する
・3月17日:家康が羽黒の森長可を攻撃(羽黒の戦い)して、勝利をおさめる
・3月18日:家康が榊原康政に小牧山の築塁を命じる
・3月21日:秀吉が大坂城を発つ
・3月22日:小牧山の防御工事完了
・3月23日:蟹清水砦・北外山砦・宇田津砦が完成する
・3月24日:小幡と比良の旧城を修理し、三河と清須への連砦とする
・3月27日:秀吉が犬山城に入り、二重堀・岩崎・小松寺山・青塚・内久保等の砦を築かせる
・3月28日:家康が小牧山へ入る
・3月29日:信雄が小牧山へ入り、家康が田楽砦を築き、小牧山に通じる軍道を開く
・4月2日:秀吉軍が姥ヶ懐へ来襲する
・4月3日:家康軍が二重堀を奇襲する
・4月4日:秀吉が岩崎山と二重堀の間に長さ約2kmの土塁を築く、池田勝入が三河侵攻策を献策する
・4月5日:家康が小牧山北麗と八幡塚の間に土塁を築く
・4月6日:秀吉が犬山城から楽田砦へ本営を移し、秀吉軍の岡崎侵攻隊、尾張東部の丘陵地帯を迂回して岡崎方面への進軍を開始する
・4月7日:岡崎侵攻隊、上条村に入り、砦を築いて宿営、午後4時篠木の住民が秀吉軍岡崎侵攻隊の駐屯を家康に密告、午後7時徳川先遣隊が小牧を出発、午後8時には家康が小牧山を出発、小幡城へ入る
・4月8日:秀次勢は行軍を再開する
・4月9日:岡崎侵攻隊の先鋒池田隊、岩崎城を攻め落とす、三好隊白山林の戦いで敗走、桧ヶ根の戦い、長久手の合戦(昼合戦)において、森長可・池田恒興が戦死、午後5時秀吉が楽田砦を出発し竜泉寺に入る、午後8時家康が小幡城を出発し、小牧山へ戻る
・4月10日:秀吉が楽田に戻る
・4月14日:秀吉軍が羽黒の旧城を修復する
・5月1日:秀吉が青塚・楽田・犬山に一部を残して小牧より撤退する
・6月16日:前田与十郎、家康軍に背き、秀吉軍の滝川一益、九鬼嘉隆等を蟹江・前田・下市場の各城へ迎え入れる
・6月18日:家康軍が前田城を攻める
・6月19日:家康軍が下市場城を攻める
・6月22日:家康軍が蟹江城を攻める
・7月3日:家康軍が蟹江城を再び手中に収める
・8月19日:秀吉軍が小口・羽黒に兵を進める
・8月28日:秀吉軍が小折に兵を進める
・11月11日:信雄単独で秀吉と講和する
・11月16日:家康は大義名分失い、浜松へ戻る。
・12月:家康が次男秀康を人質として秀吉に送る
<天正14年(1586年)>
・5月:秀吉が異父妹の旭姫(あさひひめ)を離縁させ、家康の正室として送り込む
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