
世界平和評議会(せかいへいわひょうぎかい)は、国際平和の実現と擁護を目的とする国際組織で、事務局は当初プラハに設置されましたが、現在はギリシャのアテネに置かれるようになりました。第二次世界大戦後、東西の冷戦が激化する中で、1949年(昭和24)4月に、パリとプラハで平和擁護世界大会(World Congress of Partisans of Peace)の第1回大会が開催されます。
続いて、翌年11月16~22日にポーランドのワルシャワで開かれた第2回大会(81ヵ国から2,065人参加)で、常設機関として設立されていた平和擁護世界大会委員会において、世界平和評議会の設立が決まり、核兵器使用禁止を求める「ストックホルム・アピール」を宣言し、その後5億名の署名を集めました。そして、1951年(昭和26)2月21~26日に、東ドイツの東ベルリンにおいて、第1回の世界平和評議会総会を開催し、5大国平和協定締結を呼びかけた「ベルリン・アピール」を採択します。
初代議長にはフランスの原子物理学者フレデリック・ジョリオ=キュリー博士が就任し、年1~2回総会を開催、1950年代を通じて展開された核兵器反対、平和擁護の運動の中心となり、その後も戦争反対、原水爆禁止運動などで大きな業績をあげてきました。
以下に、「ベルリン・アピール」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
続いて、翌年11月16~22日にポーランドのワルシャワで開かれた第2回大会(81ヵ国から2,065人参加)で、常設機関として設立されていた平和擁護世界大会委員会において、世界平和評議会の設立が決まり、核兵器使用禁止を求める「ストックホルム・アピール」を宣言し、その後5億名の署名を集めました。そして、1951年(昭和26)2月21~26日に、東ドイツの東ベルリンにおいて、第1回の世界平和評議会総会を開催し、5大国平和協定締結を呼びかけた「ベルリン・アピール」を採択します。
初代議長にはフランスの原子物理学者フレデリック・ジョリオ=キュリー博士が就任し、年1~2回総会を開催、1950年代を通じて展開された核兵器反対、平和擁護の運動の中心となり、その後も戦争反対、原水爆禁止運動などで大きな業績をあげてきました。
以下に、「ベルリン・アピール」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「ベルリン・アピール」とは?
昭和時代中期の1951年(昭和26)に、ドイツの東ベルリンで開催された世界平和評議会第1回総会(2月21~26日)で採択された世界平和のためのアピールです。アメリカ・イギリス・フランス・中華人民共和国・ソ連の5ヵ国が平和条約を締結することを要請し、全世界で6億人が署名しました。あらゆる平和勢力との連帯強化、地域的国際会議や国際経済会議の開催などを提唱し、平和運動の新段階を画したとされます。
〇「ベルリン・アピール」1951年(昭和26)の世界平和評議会第1回総会(2月21~26日)採択
平和協定締結にかんする世界平和評議会の訴え
われわれは、世界戦争の危険を生みだす原因についてどのような意見をもつにせよ、世界いく億の人びとののぞみにこたえ、平和を強化し国際安全を保障するために、米、ソ、中、英、仏の五大国による平和協定の締結を要求する。
いかなる大国政府にせよ、平和協定締結への参加を拒否する場合、われわれはこれを同政府が侵略的陰謀をたくらんでいる証拠とみなすものである。
われわれは平和を愛するすべての国にたいして、すべての国家が参加できる平和協定を締結せよ、との要求を支持するように訴える。
われわれは、このよびかけに署名するとともに、平和の強化をのぞむすべての善意の人びとやすべての団体がこれに署名するよう訴える。
会長ジョリオ・キユリー(ブラソス)
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