今日は、江戸時代中期の1770年(明和7)に、商人・随筆家・文人鈴木牧之が生まれた日ですが、新暦では2月22日となります。
鈴木牧之(すずき ぼくし)は、越後国魚沼郡の塩沢(現在の南魚沼市)において、地元では有数の豪商であった、父・鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母・とよの第5子として生まれましたが、幼名は弥太郎と言いました。14歳の時、越後に来遊した狩野梅笑のもと絵の手ほどきを受け、16歳の時、僧虎斑より漢詩を教わり、元服して名を儀三治(ぎそうじ)と改めます。
1788年(天明8)の19歳の時、縮を商うため初めて江戸に出て、江島・鎌倉も旅し、『東遊記行』を著し、翌年には、家業を継いで商売繁盛に努め、1792年(寛政4)の23歳の時、みねと初めて結婚しました。1796年(寛政8)の27歳の時、上方参りに行き、伊勢参宮、西国巡拝をし、『西遊紀行』を著し、1811年(文化8)の42歳の時、苗場山へ登り、『苗場山紀行』を著します。
1813年(文化10)の44歳の時、長男・伝之助を結核で失い、同年に母・とよも亡くなりました。1816年(文化13)の47歳の時、草津温泉へ入湯し、『上毛草津温泉入湯記』を著し、1819年(文政2)の50歳の時、国内雪見行脚し、『北海雪見行脚集』を著し、第2回江戸出府を果たし、1821年(文政4)に『続東遊記行』、1824年(文政7)に『夜職草(よなべぐさ)』を著します。
1826年(文政9)に十返舎一九が来訪、翌年には、滝沢馬琴著『南総里見八犬伝』第7の巻の5に、牧之の「二十村闘牛図」が掲載されるなど江戸の文人との交流を深めました。十返舎一九の依頼により、1828年(文政11)に秋山郷を探訪し、翌年には『秋山記行』稿本が完成したものの、一九が亡くなったために出版は頓挫します。
1836年(天保7)の67歳の時、山東京山が挿絵を担当する息子京水を伴って越後を来訪、翌年に『北越雪譜』初版3巻を刊行、1841年(天保12)には『北越雪譜』二編4巻を刊行しました。晩年は病に苦しみ、1840年(天保11)頃からは身体言語不自由となり、1842年(天保13年5月15日)には、越後・塩沢において、数え年73歳で亡くなっています。
尚、生まれ故郷の塩沢に、1989年(平成元)に「鈴木牧之記念館」が開館し、関係資料が一般公開されるようになりました。
1788年(天明8)の19歳の時、縮を商うため初めて江戸に出て、江島・鎌倉も旅し、『東遊記行』を著し、翌年には、家業を継いで商売繁盛に努め、1792年(寛政4)の23歳の時、みねと初めて結婚しました。1796年(寛政8)の27歳の時、上方参りに行き、伊勢参宮、西国巡拝をし、『西遊紀行』を著し、1811年(文化8)の42歳の時、苗場山へ登り、『苗場山紀行』を著します。
1813年(文化10)の44歳の時、長男・伝之助を結核で失い、同年に母・とよも亡くなりました。1816年(文化13)の47歳の時、草津温泉へ入湯し、『上毛草津温泉入湯記』を著し、1819年(文政2)の50歳の時、国内雪見行脚し、『北海雪見行脚集』を著し、第2回江戸出府を果たし、1821年(文政4)に『続東遊記行』、1824年(文政7)に『夜職草(よなべぐさ)』を著します。
1826年(文政9)に十返舎一九が来訪、翌年には、滝沢馬琴著『南総里見八犬伝』第7の巻の5に、牧之の「二十村闘牛図」が掲載されるなど江戸の文人との交流を深めました。十返舎一九の依頼により、1828年(文政11)に秋山郷を探訪し、翌年には『秋山記行』稿本が完成したものの、一九が亡くなったために出版は頓挫します。
1836年(天保7)の67歳の時、山東京山が挿絵を担当する息子京水を伴って越後を来訪、翌年に『北越雪譜』初版3巻を刊行、1841年(天保12)には『北越雪譜』二編4巻を刊行しました。晩年は病に苦しみ、1840年(天保11)頃からは身体言語不自由となり、1842年(天保13年5月15日)には、越後・塩沢において、数え年73歳で亡くなっています。
尚、生まれ故郷の塩沢に、1989年(平成元)に「鈴木牧之記念館」が開館し、関係資料が一般公開されるようになりました。
〇鈴木牧之の主要な著作
・『東遊記行』(1788年)
・『西遊紀行』(1796年)
・『苗場山紀行』(1811年)
・『上毛草津温泉入湯記』(1816年)
・『北海雪見行脚集』(1819年)
・『続東遊記行』(1821年)
・『夜職草(よなべぐさ)』(1824年)
・『秋山記行(あきやまきこう)』(1829年)
・『秋月庵発句集』(1830年)
・『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』(1836~42年)
☆鈴木牧之関係略年表(日付は旧暦です)
・1770年(明和7年1月27日) 越後国魚沼郡の塩沢(現在の南魚沼市)において、地元では有数の豪商であった、父・鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母・とよの第5子として生まれる
・1783年(天明3年) 14歳の時、越後に来遊した狩野梅笑のもと絵の手ほどきを受ける
・1785年(天明5年) 16歳の時、僧虎斑より漢詩を教わり、元服して名を儀三治(ぎそうじ)と改める
・1788年(天明8年) 19歳の時、縮を商うため初めて江戸に出て、江島・鎌倉も旅し、『東遊記行』を著す
・1789年(天明9年) 20歳の時、家業を継ぎ、商売繁盛に努める
・1792年(寛政4年) 23歳の時、みねと結婚する
・1796年(寛政8年) 27歳の時、上方参りをし、伊勢参宮、西国巡拝をし、『西遊紀行』を著す
・1811年(文化8年) 42歳の時、苗場山へ登り、『苗場山紀行』を著す
・1813年(文化10年) 44歳の時、長男・伝之助を結核で失い、同年に母・とよがなくなる
・1816年(文化13年) 47歳の時、草津温泉へ入湯し、『上毛草津温泉入湯記』を著す
・1819年(文政2年) 50歳の時、国内雪見行脚し、『北海雪見行脚集』を著し、第2回江戸出府をする
・1821年(文政4年) 『続東遊記行』を著す
・1824年(文政7年) 『夜職草(よなべぐさ)』を著す
・1826年(文政9年) 十返舎一九が来訪する
・1827年(文政10年) 滝沢馬琴『南総里見八犬伝』第7の巻の5に、牧之の「二十村闘牛図」が掲載される
・1828年(文政11年9月) 秋山郷を探訪する
・1829年(文政12年) 『秋山記行(あきやまきこう)』稿本が完成する
・1836年(天保7年6月) 67歳の時、山東京山が挿絵を担当する息子京水を伴って越後にやってくる
・1837年(天保8年秋) 『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』初編3巻を刊行する
・1841年(天保12年11月) 『北越雪譜』二編4巻を刊行する
・1842年(天保13年5月15日) 数え年73歳で亡くなる
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