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 今日は、明治時代前期の1880年(明治13)に、福澤諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立された日です。
 交詢社(こうじゅんしゃ)は、福沢諭吉を中心に馬場辰猪、矢野竜溪らが創設した官吏・知識人・商工業者・地方地主らの社交クラブでした。1879年(明治12)9月に、福沢諭吉、小幡篤次郎、矢野文雄(竜渓)、馬場辰猪ら31名が会合して創設を決定、翌年1月25日に、東京芝区愛宕下の青松寺で発会式が行われ、1,767名の社員中、596名が集まり、24名が常議員となります。
 職業の内訳は、官吏・学者・商業・農業等が大部分であり、しかもその過半数は地方在住の人たちで、社則第一条「社員たるもの互に知識を交換し世務を諮詢する」というところから、交詢社と名付けられ、知識の交換と世務の諮詢とを会の目的として、「交詢雑誌」を発刊しました。政治的には中産階級を基盤として自由党系と対立し、1881年(明治14)4月に「交詢雑誌」第45号で「私擬憲法案」を発表します。
 しかし、同年10月の「明治十四年の政変」後は官吏の多くが退社し、慶応義塾出身者および実業家やジャーナリストが中心と変わり、翌年4月16日の立憲改進党結成に際し、有力な支持基盤となり、「国会開設」や「閥族打破憲政擁護」の運動を進めました。1912年(大正元)に財団法人化され、翌年の大正政変の際には憲政擁護会を結成して、第一次護憲運動の指導的役割を果たします。
 1923年(大正12)の関東大震災により社屋が全壊しましたが、1929年(昭和4)に銀座6丁目にクラブの本拠として交詢ビルディングが建設されました。戦後も存続し、2004年(平成16)に交詢ビルディングが建て替えられ地上10階となり、2011年(平成23)には、公益法人制度改革に沿い一般財団法人に移行して、現在に至っています。

〇交詢社関係略年表

・1879年(明治12)9月 福沢諭吉、小幡篤次郎、矢野文雄(竜渓)、馬場辰猪ら31名が会合して創設を決定する
・1880年(明治13)1月25日 青松寺(東京芝区愛宕下)で発会式が行われ、24名が常議員となる
・1880年(明治13)2月5日 「交詢雑誌」の刊行を始める
・1881年(明治14)4月25日 「交詢雑誌」第45号で、交詢社の「私擬憲法案」を発表する
・1881年(明治14)10月 「明治十四年の政変」後は官吏の多くが退社し、実業家が中心になる
・1882年(明治15)4月16日 立憲改進党結成に際し、有力な支持基盤となる
・1889年(明治22) 紳士録『日本紳士録』を隔年で交詢社が編纂するようになる
・1897年(明治30) 「交詢雑誌」の刊行を辞める
・1912年(大正元) 財団法人化される
・1913年(大正2) 大正政変の際に憲政擁護会を結成して、第一次護憲運動の指導的役割を果たす
・1923年(大正12) 関東大震災により社屋が全壊する
・1929年(昭和4) 銀座6丁目にクラブの本拠として交詢ビルディングが建設される
・1960年(昭和35) 『日本会社録』の刊行を始める
・1971年(昭和46) 紳士録『日本紳士録』を交詢社出版局が編纂するようになる
・2004年(平成16)9月 交詢ビルディングが建て替えられ地上10階となる
・2007年(平成19)4月 紳士録『日本紳士録』が休刊となる
・2011年(平成23)7月 公益法人制度改革に沿い一般財団法人に移行する

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