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 今日は、幕末明治維新期の慶応3年に、小説家・評論家斎藤緑雨の生まれた日ですが、新暦では1868年1月24日となります。
 斎藤緑雨(さいとう りょくう)は、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)で、津藩の医師であった父・斎藤利光、母・のぶの長男として生まれましたが、本名は賢(まさる)と言いました。1876年(明治9)に、8歳の時一家で上京し、東京府中学を経て、明治法律学校(現在の明治大学)に進みましたが、弟たちのために中途で学業を断念し、文筆で立つことを決意します。
 1884年(明治17)に仮名垣魯文の門に入り、今日新聞の編集に携わり、認められて『初夏述懐』を発表しました。1885年(明治18年)に自由之燈に入社して記者となりましたが、翌年には退社し、今日新聞において、初めての小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』を発表します。
 1889年(明治22)に東西新聞に入社し、正直正太夫の名で戯作評論『小説八宗』を著し、批評家デビューし、翌年には、大同新聞に入社し、『大夢』を連載しました。1891年(明治24)に小説『油地獄』を「国会」に、『かくれんぼ』を「文学世界」に書き、小説家としても認められ、翌年には森鷗外の千駄木の観潮楼をしばしば訪ねるようになります。
 1894年(明治27)に両親を相次いで亡くしたものの、翌年には、「時論日報」という新聞の編輯主幹を任されました。1896年(明治29)に森鴎外、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌「めさまし草」に掲載、樋口一葉と手紙のやり取りを始めるようになります。
 1897年(明治30)に小説『あま蛙』を博文館から刊行、翌年には、万朝報に入社し、『眼前口頭』を書き始め、幸徳秋水に知遇を得ました。1899年(明治32)に『一葉全集』(博文館)の校訂を引き受けましたが、翌年には肺結核にかかり、神奈川県鵠沼の旅館東屋で転地療養することとなり、万朝報を辞めています。
 1901年(明治34)に東屋の女中頭だった金澤タケと結婚し、翌年に小唄『おもかげ草』を「明星」に発表しました。1903年(明治36)に小説『みだれ箱』を博文館から刊行、同年に東京・本所横網町の金澤タケ方に寄寓 幸徳秋水のすすめで、週刊「平民新聞」に『もゝはがき』を寄稿することとなります。
 しかし、病状は悪化し、1904年(明治37年)4月13日に東京において、肺結核により、数え年37歳で亡くなり、翌日の「万朝報」に自身が口述筆記させた死亡広告「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段広告仕候也」が掲載されました。

〇斎藤緑雨の主要な著作

・小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』(1886年)
・戯作評論『小説八宗』(1889年)
・『初学小説心得』(1890年)
・小説『油地獄』(1891年)
・小説『かくれんぼ』(1891年)
・『新体詩見本』(1894年)
・小説『門三味線』(1895年)
・小説『あま蛙(がえる)』(1897年)
・随筆『おぼえ帳』(1897年)
・小説『あられ酒』(1898年)
・『眼前口頭』(1898~99年)
・小説『わすれ貝』(1900年)
・随筆集『青眼白頭』(1900年)
・小説『みだれ箱』(1903年)

☆斎藤緑雨関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1868年1月24日(慶応3年12月30日) 伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)で、津藩の医師であった父・斎藤利光、母・のぶの長男として生まれる
・1876年(明治9年) 8歳の時一家で上京する
・1884年(明治17年) 仮名垣魯文の門に入り、今日新聞の編集に携わり、認められて『初夏述懐』を発表する
・1885年(明治18年) 自由之燈に入社して記者となる
・1886年(明治19年) 今日新聞において、初めての小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』を発表する
・1889年(明治22年) 東西新聞に入社し、正直正太夫の名で戯作評論『小説八宗』を著し、批評家デビューする
・1890年(明治23年) 大同新聞に入社し、『大夢』を連載する
・1891年(明治24年) 小説『油地獄』を「国会」に、『かくれんぼ』を「文学世界」に書き、小説家としても認められる
・1892年(明治25年) 森鷗外の千駄木の観潮楼をしばしば訪ねる
・1894年(明治27年) 両親を相次いで亡くす
・1895年(明治28年)9月 「時論日報」という新聞の編輯主幹を任される
・1896年(明治29年) 森鴎外、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌「めさまし草」に掲載、樋口一葉と手紙のやり取りを始める
・1897年(明治30年)5月 小説『あま蛙(がえる)』を博文館から刊行する 
・1898年(明治31年) 万朝報に入社し、『眼前口頭』を書き始め、幸徳秋水を知る
・1899年(明治32年) 『一葉全集』(博文館)の校訂を引き受ける
・1900年(明治33年)10月23日 肺結核にかかり、神奈川県鵠沼の旅館東屋で転地療養する
・1900年(明治33年)11月 万朝報を辞める
・1901年(明治34年)4月13日 東屋の女中頭金澤タケを伴って、タケの実家のある神奈川県小田原に移り、タケと結婚する
・1902年(明治35年)3月 小唄『おもかげ草』を「明星」に発表する
・1903年(明治36年)5月 小説『みだれ箱』を博文館から刊行する
・1903年(明治36年)10月 東京・本所横網町の金澤タケ方に寄寓する
・1903年(明治36年)11月 幸徳秋水のすすめで、週刊「平民新聞」に『もゝはがき』を寄稿することとなる
・1904年(明治37年)4月13日 東京において、肺結核により、数え年37歳で亡くなる
・1904年(明治37年)4月14日 「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也」と孤蝶に口述筆記させた死亡広告が「万朝報」に掲載される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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