
河野広中(こうの ひろなか)は、江戸時代後期の1849年(嘉永2年7月7日)に、磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれました。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになり、1868年(慶応4)の戊辰戦争では討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助の知遇を得ます。
明治新政権成立後は、若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉の戸長、石川の区長を務め、その頃にジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み感化されました。1875年(明治8)に石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなり、1877年(明治10)に西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議します。
1878年(明治11)に、三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導、翌年には、三春町戸長ともなりました。1879年(明治12)に大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加、翌年には片岡健吉と共に、政府に国会開設意見書を提出したものの、受理されずに終わります。
1881年(明治14)に福島県会議長に就任、自由党結成に参加し、自由党幹部となり、翌年に福島県令に着任した三島通庸と対立を深めました。同年12月の福島事件により国事犯として拘引され、翌年に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告されます。
1889年(明治22)の大日本帝国憲法発布の大赦により出獄、翌年の第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)しました。1897年(明治30)に自由党を脱党しましたが、翌年には、自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見ています。
1902年(明治35)に第11代衆議院議長に就任、1902年(明治35)の第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散(奉答文事件)に至ります。1905年(明治38)に日露講和反対運動を起こし、日比谷焼打ち事件で投獄されたものの、翌年に無罪判決が出されて釈放されました。
1909年(明治42)にアジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加、1913年(大正2)に桂太郎の立憲同志会に入り、1915年(大正4)には、第2次大隈内閣の農商務大臣となります。1916年(大正5)に農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力したものの、議員在職中の1923年(大正12)12月29日に、東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなりました。
明治新政権成立後は、若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉の戸長、石川の区長を務め、その頃にジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み感化されました。1875年(明治8)に石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなり、1877年(明治10)に西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議します。
1878年(明治11)に、三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導、翌年には、三春町戸長ともなりました。1879年(明治12)に大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加、翌年には片岡健吉と共に、政府に国会開設意見書を提出したものの、受理されずに終わります。
1881年(明治14)に福島県会議長に就任、自由党結成に参加し、自由党幹部となり、翌年に福島県令に着任した三島通庸と対立を深めました。同年12月の福島事件により国事犯として拘引され、翌年に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告されます。
1889年(明治22)の大日本帝国憲法発布の大赦により出獄、翌年の第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)しました。1897年(明治30)に自由党を脱党しましたが、翌年には、自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見ています。
1902年(明治35)に第11代衆議院議長に就任、1902年(明治35)の第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散(奉答文事件)に至ります。1905年(明治38)に日露講和反対運動を起こし、日比谷焼打ち事件で投獄されたものの、翌年に無罪判決が出されて釈放されました。
1909年(明治42)にアジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加、1913年(大正2)に桂太郎の立憲同志会に入り、1915年(大正4)には、第2次大隈内閣の農商務大臣となります。1916年(大正5)に農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力したものの、議員在職中の1923年(大正12)12月29日に、東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなりました。
〇河野広中関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)
・1849年(嘉永2年7月7日) 磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争には討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助を助ける
・1869年(明治2年11月) 若松藩(若松県)へ出仕する
・1870年(明治3年12月) 三春藩(三春県)庁捕亡取締となる
・1873年(明治6年)2月 磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)の副戸長に任命される
・1873年(明治6年)10月 磐前県第14区の戸長となる
・1874年(明治7年)1月 第5大区区長となる
・1875年(明治8年)8月 石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなる
・1877年(明治10年) 西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議する
・1878年(明治11年)1月 福島県属・庶務課民会掛となる
・1878年(明治11年)11月 三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導する
・1879年(明治12年)2月 三春町戸長となる
・1879年(明治12年)7月 共愛同謀会を結成する
・1879年(明治12年) 大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加する
・1880年(明治13年) 国会開設の請願書を政府に提出する
・1881年(明治14年)4月 福島県会議長となる
・1881年(明治14年)10月 自由党結成に参加し、自由党幹部となる
・1882年(明治15年) 福島県令に着任した三島通庸と対立、
・1882年(明治15年)12月 福島事件により国事犯として拘引される
・1883年(明治16年)9月 高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告される
・1889年(明治22年)2月 大日本帝国憲法発布の大赦により出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)する
・1897年(明治30年) 自由党を脱党する
・1898年(明治31年)6月 自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見る
・1902年(明治35年) 第11代衆議院議長となる
・1902年(明治35年)12月 第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散に至る(奉答文事件)
・1905年(明治38年)11月 日露講和反対運動を起こし日比谷焼打ち事件で投獄される
・1906年(明治39年)4月 無罪判決が出されて釈放される
・1909年(明治42年) アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加する
・1913年(大正2年) 桂太郎の立憲同志会に入る
・1915年(大正4年) 第2次大隈内閣の農商務大臣となる
・1916年(大正5年) 農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力する
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