
小磯良平(こいそ りょうへい)は、明治時代後期の1903年(明治36)7月25日に、兵庫県神戸市神戸(現在の中央区)において、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として生まれました。兵庫県立第二神戸中学校を経て、1922年(大正11)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学し、藤島武二に学びます。
在学中の1925年(大正15)に、『兄妹』が帝展に入選、1927年(昭和2)には「T嬢の像」が帝展特選を果たし、首席で東京美術学校を卒業しました。1928年(昭和3)にフランスに留学、アングル、ベラスケスらの技法を学び、サロン・ドートンヌにも出品、1930年(昭和5)には帰国し、光風会会員となります。
1932年(昭和7)に裁縫女』が帝展特選となったものの、1936年(昭和11)には、官展を離れ、猪熊弦一郎らと新制作派協会を結成しました。1938年(昭和13)に陸軍の委嘱により従軍画家として上海に渡り、戦争画を描き、1940年(昭和15)には、『南京中華門戦闘図』で朝日文化賞を受賞します。
1941年(昭和16)新文展の審査員を務め、『娘子関を征く』で第1回帝国芸術院賞を受賞、『東京八景』(太宰治)の装丁をしました。太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がけ、1953年(昭和28)からは東京芸術大学教授となって後進の指導にあたります。
1958年(昭和33)に『家族』で現代日本美術展の大衆賞を受賞、1971年(昭和46)には、東京芸術大学教授を辞めました。1973年(昭和48)に勲三等旭日中綬章、1974年(昭和49)に赤坂迎賓館の壁画『絵画』、『音楽』を制作、1979年(昭和54)に文化功労者、1982年(昭和57)に芸術院会員と数々の栄誉に輝きます。
卓抜した描写と近代的感覚で、女性像に独自の画境を展開、1983年(昭和58)には文化勲章を受章、神戸市名誉市民ともなったものの、1988年(昭和63)12月16日に兵庫県神戸市において、85歳で亡くなりました。尚、1992年(平成4)に「神戸市立小磯記念館」がオープン、「小磯良平大賞展」も創設されます。
在学中の1925年(大正15)に、『兄妹』が帝展に入選、1927年(昭和2)には「T嬢の像」が帝展特選を果たし、首席で東京美術学校を卒業しました。1928年(昭和3)にフランスに留学、アングル、ベラスケスらの技法を学び、サロン・ドートンヌにも出品、1930年(昭和5)には帰国し、光風会会員となります。
1932年(昭和7)に裁縫女』が帝展特選となったものの、1936年(昭和11)には、官展を離れ、猪熊弦一郎らと新制作派協会を結成しました。1938年(昭和13)に陸軍の委嘱により従軍画家として上海に渡り、戦争画を描き、1940年(昭和15)には、『南京中華門戦闘図』で朝日文化賞を受賞します。
1941年(昭和16)新文展の審査員を務め、『娘子関を征く』で第1回帝国芸術院賞を受賞、『東京八景』(太宰治)の装丁をしました。太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がけ、1953年(昭和28)からは東京芸術大学教授となって後進の指導にあたります。
1958年(昭和33)に『家族』で現代日本美術展の大衆賞を受賞、1971年(昭和46)には、東京芸術大学教授を辞めました。1973年(昭和48)に勲三等旭日中綬章、1974年(昭和49)に赤坂迎賓館の壁画『絵画』、『音楽』を制作、1979年(昭和54)に文化功労者、1982年(昭和57)に芸術院会員と数々の栄誉に輝きます。
卓抜した描写と近代的感覚で、女性像に独自の画境を展開、1983年(昭和58)には文化勲章を受章、神戸市名誉市民ともなったものの、1988年(昭和63)12月16日に兵庫県神戸市において、85歳で亡くなりました。尚、1992年(平成4)に「神戸市立小磯記念館」がオープン、「小磯良平大賞展」も創設されます。
〇小磯良平の主要な作品
・『兄妹』(1925年)帝展入選
・『T嬢の像』(1926年)帝展特選受賞 兵庫県立美術館蔵
・『裁縫女』(1932年)帝展特選受賞
・『日本髪の娘』(1935年)
・『踊り子』 (1938年)
・『南京中華門戦闘図』(1939年)朝日文化賞受賞
・『斉唱』 (1941年)
・『娘子関を征く』(1941年)第1回帝国芸術院賞受賞
・『家族』(1958年)第3回現代日本美術展の大衆賞受賞
☆小磯良平関係略年表
・1903年(明治36)7月25日 兵庫県神戸市神戸(現在の中央区)において、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として生まれる
・1922年(大正11) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学する
・1925年(大正15) 在学中『兄妹』が帝展に入選する
・1927年(昭和2) 「T嬢の像」が帝展特選を果たし、首席で東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業する
・1928年(昭和3) フランスに留学、アングル、ベラスケスらの技法を学ぶ
・1930年(昭和5) フランスから帰国し、光風会会員となる
・1932年(昭和7) 『裁縫女』が帝展特選となる
・1936年(昭和11) 官展を離れ、猪熊弦一郎らと新制作派協会を結成する
・1938年(昭和13) 陸軍の委嘱により従軍画家として上海に渡る
・1940年(昭和15) 『南京中華門戦闘図』で朝日文化賞を受賞する
・1941年(昭和16) 新文展の審査員を務め、『娘子関を征く』で第1回帝国芸術院賞を受賞、『東京八景』(太宰治)の装丁をする
・1947年(昭和22) 「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がける
・1953年(昭和28) 東京芸術大学教授となる
・1958年(昭和33) 『家族』で現代日本美術展の大衆賞を受賞する
・1971年(昭和46) 東京芸術大学教授を辞める
・1973年(昭和48) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1974年(昭和49) 赤坂迎賓館の壁画『絵画』、『音楽』を制作する
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1982年(昭和57) 芸術院会員となる
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章、神戸市名誉市民となる
・1988年(昭和63)12月16日 兵庫県神戸市において、85歳で亡くなる
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