今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、「日本労働総同盟」が自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めた日です。
「全日本労働総同盟」(全総)は、1937年(昭和12)に日中戦争が勃発すると、「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示しましたが、時の政府は産業報国運動を推進ました。そこで、旧全労系は組合の産業報国会への解消を主張して、1939年(昭和14)7月に脱退、残留派は「日本労働総同盟」の名称に戻した組合を残しつつ、産業報国会への協力の方針を取ります。
しかし、政府の労働組合否認や軍部の圧力に抗しきれず、1940年(昭和15)7月21日には、ついに自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めました。その後、同年11月23日に、労働者を戦争協力に動員することを目的として設立された官民共同の勤労者統制組織「大日本産業報国会」が結成されています。
〇大日本産業報国会(だいにっぽんさんぎょうほうこくかい)とは?
昭和時代前期の1940年(昭和15)11月23日に、戦時下において、労働者を戦争協力に動員することを目的として設立された官民共同の勤労者統制組織です。
日中戦争が全面化する中で、1938年(昭和13)7月30日に、協調会時局対策委員会第二専門委員会が作成した「労資関係調整方策」の建議に基づいて産業報国連盟が発足、自主的運動をたてまえに産業報国運動が全国的に始まりました。連盟は「労資一体」、「産業報国」の理念を普及しますが、実際の指導は官憲が担うことになり、1939年(昭和14)4月28日、内務・厚生両省は知事ないしは警視総監を会長とする道府県産業報国連合会の設置を指示、警察の指導下で事業所単位に単位産業報国会(会長は社長、各役員はおおむね職制が任命される)が続々と結成され、その各府県連合会の会長に道府県知事、支部長には各管区の警察署長が就きます。
その結果会員数は、同年中に299万人、翌年には、482万人(推定組織率66%)に達しました。1940年(昭和15)11月4日に第二次近衛文麿内閣は、「勤労新体制確立要綱」を閣議決定し、これに基づいて産業報国連盟は解散、同年11月23日の大日本産業報国会設立へと至ります。同会の会長には平尾釟三郎、理事長には湯沢三千男が就き、産業報国精神の高揚、職場規律の確立、生産力増強達成などを目指しました。
また、労務管理、特配物資配給機関としても機能し、機関紙誌として「産業報国新聞」、「産報」、「職場の光」、「ちから」を発行します。1942年(昭和17)6月23日には、農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会と共に大政翼賛会に加わり、以後労働強化・戦争協力を労働者に強制していきました。
しかし、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)9月30日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解散しています。
〇大日本産業報国会創立宣言
今や世界は未曽有の転換期に際会す。皇国亦東亜新秩序建設に任じ、世界新秩序完成に邁進せんとす。その使命洵に宏大なり。
然れども高度国防国家体制とその根幹たる新産業労働体制を確立するに非ざれば、何んぞその使命を果し得べけん。
凡そ皇国産業の真姿は、肇国の精神に基づき、全産業一体、事業一家、以て職分に奉公し皇運を扶翼し奉るにあり。全産業人は、資本経営労務の有機的一体を具現し、皇民勤労の真諦を発揮し、以て国力の増強に邁進せざるべからず。皇国躍進の基調竝に存す。我等皇国産業に与る者、夙に念ひをここに致し、洽く職場に産業報国会を組織し、産業報国精神の高揚実践に挺身し来れり。為に全産業人協心戮力の実漸く挙り、勤労の創意、能力亦大に伸暢し、産業労働界はその面目を一新せんとす。この成果と組織を総括して一大国民運動たらしむるの要今や極めて切なるものあり。
皇紀二千六百年の秋、新嘗祭の佳き日をトし、我等ここに大日本産業報国会を結成し、光輝ある新任務に就かんとす。我等の使命は、実に愛国の至情を産業報国運動に結集して曠古の国難を克服し、以て永遠不動の皇国産業道を樹立せんとするにあり。責務の重きを念ひ、決意更に新たなり。勇躍、我等行かんとす!
職場は我等にとって臣道実践の道場なり。勤労は我等にとって奉仕なり、歓喜なり、栄誉なり。手段に非ずして目的なり。艱苦欠乏何かあらん。剛健なる意志、不屈の気概、範を垂れ衆を化し、塵烟の下、響音の裡分を尽し職に生き、以て皇国の弥栄を効さむ。
右宣言す。
紀元二千六百年十一月二十三日
〇大日本産業報国会綱領
一、我等ハ国体ノ本義ニ徹シ全産業一体報告ノ実ヲアゲ以テ皇運ヲ扶翼シ奉ラムコトヲ期ス
一、我等ハ産業ノ使命ヲ体シ事業一家職分奉公ノ誠ヲ徹シ以テ皇国産業ノ興隆ニ総力ヲ竭サムコトヲ期ス
一、我等ハ勤労ノ真義ニ生キ剛健明朗ナル生活ヲ建設シ以テ国力ノ根抵ニ培ハムコトヲ期ス
国立国会図書館デジタルコレクション「大日本産業報国会要覧」より
〇「日本労働総同盟」とは?
大正時代の1912年(大正元)に鈴木文治等によって結成された労働者団体「友愛会」が前身となります。当初は労使協調主義の立場にたち、共済・修養を目的とした性格が強いものでした。
その後、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義が発展して労働者が増加する中で、組織は拡大し、1918年(大正7)には120支部、会員約3万人に発展することになります。また、1917年(大正6)のロシア革命、1918年(大正7)の米騒動などの民衆蜂起の高揚、1919年(大正8)のILO(国際労働機関)の創設と労働憲章の発表などに影響されて、労働者の階級的自覚も高まって、1919年(大正8)には、「大日本労働総同盟友愛会」と改称するに至りました。そして、労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導し、1921年(大正10)には、日本労働総同盟と再度改称します。
1923年(大正12)の共産党弾圧事件の後、松岡駒吉・西尾末広らの右派が勢力を得て、改良主義的・議会主義的傾向が強まり、1925年(大正14)5月には、左派系組合を除名し、総同盟は二つに分裂、左派系は「日本労働組合評議会」を結成し、総同盟の勢力は半減(総同盟の第1次分裂)します。その後、1926年(大正15)に中間派により「日本労働組合同盟」が分離結成され(総同盟の第2次分裂)、1929年(昭和4)には、脱退派が「労働組合全国同盟」(全国同盟)を結成(総同盟の第3次分裂)しました。
1931年(昭和6)の満州事変後、反無政府主義、反共産主義、反ファシズムの三反主義を掲げるようになり、1932年(昭和7)には、改良主義組合を糾合して、「全国労働組合会議」・「日本海員組合」など11団体28万人からなる「日本労働組合会議」(日労会議)の結成により、当時の労働運動の最大勢力となります。さらに、1936年(昭和11)に中間派の統一した「全国労働組合同盟」(全労)と合同して「全日本労働総同盟」(全総)を結成しました。
1937年(昭和12)から始まる日中戦争では「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示します。しかし、旧全労系は組合の産業報国会への解消を主張して、1939年(昭和14)に脱退、残留派は「日本労働総同盟」の名称に戻した組合を残しつつ、産業報国会への協力の方針を取りました。ところが、政府の労働組合否認や軍部の圧力に抗しきれず、1940年(昭和15)には、ついに自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めています。
☆「日本労働総同盟」関係略年表(友愛会結成~日本労働総同盟解散まで)
・1912年(大正元)8月1日、東京帝国大学卒業の法学士鈴木文治(ぶんじ)を会長に15人の労働者によって「友愛会」が結成される
・1912年(大正元)11月 機関紙『友愛新報』を創刊する
・1914年(大正3)11月 月刊誌『労働及産業』と改題する
・1916年(大正5)6月 日本の労働組合で初めて婦人部を設け、機関誌『友愛婦人』を発刊する
・1917年(大正6) 労働争議を直接組織したり指導するようになる
・1918年(大正7)4月 120支部、会員約3万人に発展する
・1918年(大正7) 米騒動が起きる
・1919年(大正8) 国際労働機関(ILO)が創設され労働憲章が発表される
・1919年(大正8)9月 大日本労働総同盟友愛会と改称し、会長独裁制を理事合議制に改め、主張として労働者の要求20項目(労働組合の自由など)を掲げる
・1920年(大正9)1月 月刊誌『労働及産業』を『労働』と改題する
・1920年(大正9)10月 「大」の字を去って、「日本労働総同盟友愛会」と改称する
・1921年(大正10)10月 「友愛会」の文字も捨て、名実ともに労働組合としての「日本労働総同盟」となる
・1923年(大正12) 共産党弾圧事件ののち、松岡駒吉・西尾末広らの右派が勢力を得て、改良主義的・議会主義的傾向が強まる
・1925年(大正14)5月 左派系組合を除名し、総同盟は二つに分裂、左派系は「日本労働組合評議会」を結成し、総同盟の勢力は半減する(総同盟の第1次分裂)
・1926年(大正15)12月 中間派により「日本労働組合同盟」が分離結成される(総同盟の第2次分裂)
・1929年(昭和4)9月 脱退派が「労働組合全国同盟」(全国同盟)を結成する(総同盟の第3次分裂)
・1931年(昭和6) 満州事変後、反無政府主義、反共産主義、反ファシズムの三反主義を掲げる
・1932年(昭和7) 「全国労働組合会議」・「日本海員組合」など11団体28万人からなる「日本労働組合会議」(日労会議)の結成により、当時の労働運動の最大勢力となる
・1936年(昭和11)1月 中間派の統一した「全国労働組合同盟」(全労)と合同して「全日本労働総同盟」(全総)を結成する
・1937年(昭和12) 日中戦争では「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示す
・1939年(昭和14)7月 産業報国会との統合に積極的だった中間派の全国労働組合同盟(全労)系が分裂し、「日本労働総同盟」に改称する
・1940年(昭和15)7月21日 自主解散を決議し、産業報国会への合流を決める
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1881年(明治14) | 「開拓使官有物払下げ事件」のきっかけとなった官有施設・設備払い下げを決定 | 詳細 |
1896年(明治29) | 北京において「日清通商航海条約」が締結される | 詳細 |
1941年(昭和16) | 文部省教学局から『臣民の道』が刊行される | 詳細 |
2000年(平成12) | 写真家渡辺義雄の命日 | 詳細 |
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