今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、田中義一内閣の下で、満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策を決定するために「東方会議」が開始(~7月7日)された日です。
東方会議(とうほうかいぎ)は、外相兼任の首相田中義一(長州閥の陸軍軍人出身)が、5月27日の第1次山東出兵の1ヶ月後に対中国政策を決めるために開いた会議でした。森恪外務政務次官のほか、外務省各局長、陸海軍次官、関東庁長官、関東軍司令官ら陸海軍関係者が参集します。
関東軍や森恪外務政務次官らは張作霖を下野させ、満蒙を中国本部から分離することを構想しましたが、田中首相らは張を擁立して満蒙を支配する考えでした。その結果、これらの考えを折衷し、最終日の7月7日に「対支政策綱領」が発表されましたが、対中国権益擁護のためには軍事力行使もありうること、特に満蒙地域の権益保持には積極的な行動をとる旨が強調されています。
中国革命に対抗して、中国本土では現地保護主義を、満蒙では積極的介入主義を採る、対中国「積極」外交の方針(いわゆる田中外交)を確立したものとして内外の注目を集めました。しかし、満蒙の位置づけについて奉天総領事吉田茂、駐華公使芳沢謙吉、在満陸軍武官の間に意見の相違があり、その調整をめぐって、森務政務次官が渡満し第2次東方会議ともいうべき会議が大連で開かれています。
その後、南京政府の抗議や国際的な反対が強まると共に、国民党軍が北上を中止したので8月には撤兵を決め、9月8日に完了しました。ところが、1928年(昭和3)に、蒋介石が北伐を再開すると、4月20日に支那駐屯軍の天津部隊3個中隊と内地から第6師団の一部が派遣され、4月26日には済南に到着し、6千人が山東省に展開する第二次山東出兵などの強硬策を導くこととなります。
尚、原敬内閣が1921年(大正10)5月に開催した対中国・シベリア政策に関する会議も「東方会議」と呼ばれてきました。
以下に、東方会議最終日に出された「対支政策綱領」に関する田中外相訓令を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇東方会議「対支政策綱領」に関する田中外相訓令 1927年(昭和2)7月7日
(昭和二年七月七日來電合第一八五號竝七月十一日附來信亞一機密合第六三六號)
東方會議ハ本大臣主宰ノ下ニ本省幹部、在支公使、在上海、在漢口、在奉天各總領事竝陸海軍、大藏、關東廳、朝鮮總督府各代表者ヲ會シ、六月二十七日開會以來支那時局竝之レカ對策ニ關シ隔意ナキ意見ヲ聽取シタル上、本七日ノ最終會議ニ於テ本大臣ヨリ對支政策綱領トシテ左ノ通訓示セリ
極東ノ平和ヲ確保シ日支共榮ノ實ヲ擧クルコト我對支政策ノ根幹ナリトス。而シテ之カ實行ノ方法ニ至ツテハ日本ノ極東ニ於ケル特殊ノ地位ニ鑑ミ、支那本土ト滿蒙トニ付自ラ趣ヲ異ニセサルヲ得ス。今此根本方針ニ基ク當面ノ政策綱領ヲ示サンニ
一、支那國內ニ於ケル政情ノ安定ト秩序ノ回復トハ現下ノ急務ナリト雖モ其ノ實現ハ支那國民自ラ之ニ當ルコト最善ノ方法ナリ。
從テ支那ノ內亂政爭ニ際シ一黨一派ニ偏セス專ラ民意ヲ尊重シ苟モ各派間ノ離合集散ニ干涉スルカ如キハ嚴ニ避ケサルヘカラス
二、支那ニ於ケル穩健分子ノ自覺ニ基ク正當ナル國民的要望ニ對シテハ滿腔ノ同情ヲ以テ其ノ合理的達成ニ協力シ努メテ列國ト共同其ノ實現ヲ期セムトス
同時ニ支那ノ平和的經濟的發達ハ中外ノ均シク熱望スル所ニシテ支那國民ノ努力ト相俟テ列國ノ友好的協力ヲ要ス
三、叙上ノ目的ハ畢寛鞏固ナル中央政府ノ成立ニ依リ初メテ達成スヘキモ現下ノ政情ヨリ察スルニ斯ル政府ノ確立容易ナラサルヘキヲ以テ當分各地方ニ於ケル穩健ナル政權ト適宜接洽シ漸次全國統一ニ進ムノ氣運ヲ俟ツノ外ナシ
四、從テ政局ノ推移ニ伴ヒ南北政權ノ對立又ハ各種地方政權ノ聯立ヲ見ルカ如キコトアラムカ日本政府ノ各政權ニ對スル態度ハ全然同樣ナルヘキハ論ヲ侯タス、斯ル形勢ノ下ニ對外關係上共同ノ政府成立ノ氣運起ルニ於テハ其ノ所在地ノ如何ヲ問ハス日本ハ列國ト共ニ之ヲ歡迎シ統一政府トシテノ發達ヲ助成スルノ意圖ヲ明ニスヘシ
五、此間支那ノ政情不安ニ乗シ往々ニシテ不逞分子ノ跳梁ニ因リ治安ヲ紊シ不幸ナル國際事件ヲ惹起スルノ虞アルハ爭フヘカラサル所ナリ、帝國政府ハ是等不逞分子ノ鎭壓及秩序ノ維持ハ共ニ支那政權ノ取締竝國民ノ自覺ニ依リ實行セラレムコトヲ期待スト雖支那ニ於ケル帝國ノ權利利益竝在留邦人ノ生命財產ニシテ不法ニ侵害セラルル虞アルニ於テハ必要ニ應シ斷乎トシテ自衛ノ措置ニ出テ之ヲ擁護スルノ外ナシ
殊ニ日支關係ニ付揑造虚構ノ流說ニ基キ妄リニ排日排貨ノ不法運動ヲ起スモノニ對シテハ其ノ疑惑ヲ排除スルハ勿論權利擁護ノ爲進ムテ機宜ノ措置ヲ執ルヲ要ス。
六、滿蒙殊ニ東三省地方ニ關シテハ國防上竝國民的生存ノ關係上重大ナル利害關係ヲ有スルヲ以テ我邦トシテ特殊ノ考量ヲ要スルノミナラス同地方ノ平和維持經濟發展ニ依リ內外人安住ノ地タラシムルコトハ接壌ノ隣邦トシテ特ニ責務ヲ感セサルヲ得ス然リ而シテ滿蒙南北ヲ通シテ均シク門戸開放機會均等ノ主義ニ依リ內外人ノ經濟的活動ヲ促スコト同地方ノ平和的開發ヲ速カナラシムル所以ニシテ我旣得權益ノ擁護乃至懸案ノ解決ニ關シテモ亦右ノ方針ニ則リ之ヲ處理スヘシ
七、(本項ハ公表セサルコト)
若夫レ東三省ノ政情定ニ至テハ東三省人自身ノ努力ニ待ツヲ以テ最善ノ方策ト思考ス
三省有力者ニシテ満蒙ニ於ケル我特殊地位ヲ尊重シ眞面目ニ同地方ニ於ケル政情安定ノ方途ヲ講スルニ於テハ帝國政府ハ適宜之ヲ支持スヘシ
八、萬一動亂滿蒙ニ波及シ治安亂レテ同地方ニ於ケル我特殊ノ地位權益ニ對スル侵害起ルノ虞アルニ於テハ其ノ何レノ方面ヨリ來ルヲ問ハス之ヲ防護シ且內外人安住發展ノ地トシテ保持セラルル樣機ヲ逸セス適當ノ推置ニ出ツルノ覺悟アルヲ要ス
終リニ東方會議ハ支那南北ノ注意ヲ喚起シタルモノノ如クナルヲ以テ此機ヲ利用シ各位歸任ノ上ハ文武各官協力以テ對支諸問題乃至懸案ノ解決ヲ促進スルコトトシ、本會議ヲシテ益々有意義ナラシムルニ努メラレタク、將又叙上我對支政策實施ノ具體的方法ニ關シテハ各位ニ對シ本大臣ニ於テ別ニ協議ヲ遂クル所アルヘシ
「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より
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