今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、「山東派兵に関する政府声明」が出されて、第一次山東出兵が始まった日です。
山東出兵(さんとうしゅっぺい)は、1927年(昭和2)から翌年にかけて、田中義一内閣が在留邦人保護の名目で、三次にわたって、中国山東省に出兵した事件でした。蔣介石の率いる中国国民党革命軍の北伐を阻止し、満州・華北への勢力拡大をねらったものでしたが、たび重なる出兵は中国の抗日民族運動を強め、日本国内でも対華非干渉運動を巻き起こすことになります。
1926年(大正15/昭和元)に、蔣介石は中国国民党による中国革命を進め、国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始しました。翌年4月17日に、不干渉主義を保持していた若槻内閣が総辞職し、同月20日に田中義一(長州閥の陸軍軍人出身)内閣が発足すると、中国革命に干渉し、国民党軍から親日の張作霖政権を守るため、5月27日に「山東派兵に関する政府声明」を出し、不祥事件予防、居留民保護と称して、在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令(第一次山東出兵)を下します。
6月1日には、青島上陸を完了し、山東省に展開したものの、南京政府の抗議や国際的な反対が強まると共に、国民党軍が北上を中止したので8月には撤兵を決め、9月8日に完了しました。1928年(昭和3)に、蒋介石が北伐を再開すると、4月20日に支那駐屯軍の天津部隊3個中隊と内地から第6師団の一部が派遣され、4月26日には済南に到着し、6千人が山東省に展開(第二次山東出兵)します。
そして、5月3日には、日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突が発生(済南事件)しました。その状況下で、緊急閣議を開いて、出兵の増派を決定、5月9日には、第3師団の山東派遣が命令(第三次山東出兵)されます。
5月11日には、日本軍が山東半島全域とその主要都市済南を占領(済南事変)したため、国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京を目指すこととし、6月8日に北京に入城しました。1929年(昭和4)3月末に、和平交渉がようやく成立し、5月には、済南城から日本軍が撤退して、山東出兵は終結しましたが、反日運動の激化を招き、同時に英米の日本批判も強まることとなります。
以下に、「山東派兵に関する政府声明」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「山東派兵に関する政府声明」 1927年(昭和2)5月28日
支那二於ケル最近ノ動亂殊ニ南京、漢口其ノ他ノ地方ニ於ケル事件ノ實跡ニ徴スルニ兵亂ノ際支那官憲ニ於テ保護十分ナルヲ得サリシ爲在留帝國臣民ノ生命財産ニ對スル重大ナル危害ヲ被リ甚シキハ帝國ノ名譽毀損ノ暴擧ヲ見タリ從テ現下北支ノ動亂切迫ノ際此ノ種事件再發ノ虞ナキヲ保セス今ヤ右戰亂ハ濟南地方ニ波及セムトシ同地在留帝國臣民ノ生命財産ノ安全ニ付危惧ノ念措ク能ハサルモノアリ同地ニハ帝國臣民ノ居住スルモノニ千ノ多數ニ上リ而モ同地ハ海岸ヲ距ルコト遠キ奥地ニ在ルヲ以テ長江沿岸各地ニ於ケル如ク海軍力ニ依リ之ヲ保護スルコト到底不可能ナルニ依リ帝國政府ニ於テハ不祥事件ノ再發ヲ豫防スル爲陸兵ヲ以テ在留邦人ノ生命財産ヲ保護スルノ已ムヲ得サルニ至レリ然ルニ右保護ノ爲派兵ノ手配ヲ爲スニハ相當日子ヲ要シ而モ戰局ハ刻々攣化シツツアルニ顧ミ應急措置トシテ在滿部隊ヨリ約二千ノ兵ヲ不取敢靑島ニ派遣シ置クコトニ決セリ右陸軍力ニ依ル保護ハ固ヨリ在留邦人ノ安全ヲ期スル自衞上已ムヲ得サルノ緊急措置ニ外ナラスシテ支那國及其ノ人民ニ對シ何等非友好的意圖ヲ有セサルノミナラス南北兩軍何レノ軍隊ニ對シテモ其ノ作戰ニ干渉シ軍事行動ヲ妨礙スルモノニ非ス
帝國政府ハ斯ノ如ク自衛上已ムヲ得サル措置トシテ派兵ヲ行フト雖モ初メヨリ永ク駐屯セシムルノ意圖ナク同地方ノ邦人ニシテ戰亂ノ患ヲ受クルノ虞ナキニ至ラハ直ニ派遣軍全部ヲ撤退スヘキコトヲ茲ニ聲明ス
「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より
☆山東出兵関係略年表
<1915年(大正4)>
・1月18日 中華民国政府に対しドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した「21か条の要求」を提出する
・5月25日 「山東省に関する条約」、「山東省に於ける都市開放に関する交換公文」、「膠洲湾租借地に関する交換公文」として承認される
<1918年(大正7)>
・9月 満蒙四鉄道および膠済鉄道の延長線である済順鉄道(済南‐順徳)、高徐鉄道(高密‐徐州)の借款仮契約が締結されるとともに、山東問題処理に関する取極めが交わされる
<1919年(大正8)>
・パリ講和会議およびヴェルサイユ条約で、山東問題について、大日本帝国は対支21ヶ条要求を中華民国が受諾したと主張したが、中華民国は対支21ヶ条要求は強要されたもので、山東は自国に復帰すると主張した[4]。イギリスとフランスは前者を支持したが、アメリカ合衆国は後者に同情的だったため、大日本帝国は要求が拒否されるなら国際連盟規約に調印しないと迫ったため、アメリカ合衆国が譲歩した[4]。中華民国は、大日本帝国によるドイツ山東省権益の継承に反発し、ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり五・四運動となり、ヴェルサイユ条約の調印を拒否した。状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、
<1922年(大正11)>
・2月4日 「山東還付条約」締結によって、青島を含んだ山東省を中国に還付することとなる
<1926年(大正15/昭和元)>
・中国の蔣介石は国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始する
<1927年(昭和2)>
・1月 イギリス租界奪取事件が起き、イギリスは租界の居留民を保護するため、日本に共同出兵を要請したが断る
・3月 揚子江下流の南京での国民革命軍と軍閥部隊との衝突に巻き込まれた日本を含む居留民に多くの被害が出る(南京事件)
・4月3日 漢口事件が起きる
・4月18日 上海を制圧した北伐軍は、上海クーデターによって共産党を排除し、国民党による南京国民政府を樹立、イギリス公使が2個師団増派を提議したが、日本側はいまだその必要がない旨を回答する
・4月17日 若槻内閣は総辞職する
・4月20日 立憲政友会の田中義一を首班とする田中義一内閣が誕生する
・5月27日 政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、陸海軍を派遣することを決定する
・5月28日 「山東派兵に関する政府声明」が出され、陸軍中央部は在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下す(第一次山東出兵)
・5月30日 歩兵第33旅団は大連を出発する
・5月31日 歩兵第33旅団が青島に入港する
・6月1日 歩兵第33旅団が青島上陸を完了する
・7月3日 北軍の孫伝芳系の周蔭人の指揮下の軍が南軍に加担して、青島奪取を企図し、済南にあった北軍の張宗昌軍がこれを討伐しようとする
・7月4日 藤田栄介済南総領事は外務大臣に旅団の西進を申請する
・7月5日 閣議で旅団の西進の必要が認められる
・7月8日 旅団は済南に進出、閣議で兵力増派の要請が承認される、
・7月12日 在満第10師団の残余と第14師団の一部、内地より鉄道、電信各一個班が、青島に上陸する
・8月13日 蔣介石は武漢政府(汪兆銘政権)との合流を優先させてに下野を宣言し、北伐は一時的に中断する
・8月24日 日本政府は閣議で撤兵を決定する
・9月8日 撤兵を完了する
<1928年(昭和3)>
・3月、蔣介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近する
・4月末 10万人の北伐軍が市内に突入する
・4月20日 支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、臨時済南派遣隊が済南到着する
・4月26日 第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開する(第二次山東出兵)
・5月3日 日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突が発生する(済南事件)
・5月4日 日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定する
・5月8日 閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認する
・5月9日 第3師団の山東派遣が命じられる(第三次山東出兵)
・5月10日から11日 北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開する
・5月11日 済南城ならびに済南全域を占領する(済南事変)
・6月8日 国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京に入城する
<1929年(昭和4)>
・3月末 和平交渉がようやく成立する
・5月 済南城から日本軍が撤退して終結する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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