ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、1985年(昭和60)に、大鳴門橋(おおなるときょう)が開通した日で、大鳴門橋開通記念日となっています。
 この橋は、兵庫県南あわじ市と徳島県鳴門市間の鳴門海峡の最狭部を結ぶ吊り橋で、橋長は1,629m、中央径間は876m、幅は25m、主塔の高さは144.3mあり、2階構造になっていて、上部が6車線の自動車専用道用、下部が新幹線規格の鉄道用となっているのですが、現在は上部の自動車道の4車線が供用されているだけです。
 開通当初は、中央径間の長さ日本一の吊り橋でしたが、1988年(昭和63)開通の南備讃瀬戸大橋(香川県、中央径間1,100 m)と1998年(平成10)開通の明石海峡大橋(兵庫県、中央径間1,991 m)に抜かれました。
 建設にかかる経緯は、1970年(昭和45)7月に本州四国連絡橋公団が設立され、1973年(昭和48)9月 に本州四国連絡橋の工事に関する基本計画が指示され、1976年(昭和51)7月2日に起工式が行なわれ、1984年(昭和59)3月に橋桁がつながって、1985年(昭和60)6月8日の開通に至ったものです。
 その後、1998年(平成10)の明石海峡大橋の開通により、本四架橋ルートの1つである神戸淡路鳴門自動車道として供用されるようになり、近畿と四国をつなぐ重要ルートになりました。
 当初は、本州四国連絡橋公団が管理していましたが、民営化により2005年(平成17)10月1日から、本州四国連絡高速道路(株)が管理するようになったのです。
 また、1987年(昭和62)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選定されました。
 尚、1985年(昭和60)4月に、大鳴門橋を望む位置に有料の「大鳴門橋架橋記念館」(鳴門市鳴門町土佐泊浦福池)が出来て、この橋に関する様々なことが展示されていて、観光名所ともなっています。
 さらに、2000年(平成12)4月に、大鳴門橋の橋桁下部に設置された延長約450mの遊歩道および展望台である「渦の道」(うずのみち)が開設(料金:大人510円、中高生410円、小学生250円)され、橋の中ほどまで歩いて行って渦潮を真下に見下ろすことができるようになりましたが、とても人気があって、2016年(平成28)8月16日に来場者数1,000万人を突破しました。
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 今日は、1955年(昭和30)に第1回日本母親大会が開催された日で、母親大会記念日と言われています。
 この大会は、日常生活のいろいろな問題や教育、平和、民主的諸権利などについて母親の立場から話し合って、連帯することを目的に毎年開催されるものです。
 昭和時代中期の1955年(昭和30)6月7日に、「生命を生みだす母親は、生命を育て、生命を守ることをのぞみます」というスローガンの下に、第1回母親大会(東京・豊島公会堂)が開催され、約2,000名が参加しました。
 これは、1954年(昭和29)3月のビキニ環礁での水爆実験によって、操業中だった日本のまぐろ漁船第五福竜丸が被災を受け、日本婦人団体連合会会長平塚らいてうが抗議したのですが、これをきっかけに、1955年(昭和30)7月にスイスのローザンヌで、第1回世界母親大会が開催されることになり、これに先立って行われたものです。
 日本では、その後も女性団体・社会運動団体・労働組合・教育問題を取り扱う市民団体などで構成される実行委員会の主催で、県大会、地域・職場集会を積み重ねて、年1回継続して日本母親大会が開催され、全体会、分科会等が行われてきました。2017年(平成29)の第63回日本母親大会での参加団体は、全国47都道府県実行委員会と、50の中央団体となっています。
 以下に、日本母親大会のよびかけの一部を載せておきます。

〇日本母親大会のよびかけ(一部)
「戦争の恐怖を忘れさることのできないお母さん、家や財産も失ったお母さん。息子を戦争の犠牲にしたお母さん。子どもを学校に出せないお母さん、病院も食事も満足に与えられない子どもたちのお母さん、失業している若者のお母さん、働く職場をもてないお母さん、そして自分は幸福だが他の多くの母たちの幸福をねがっている母親、そういうすべての母親が集まるのです。
原子兵器の製造とか水爆の実験とか、また戦争になるのではないかとの不安が私たちをおそいます。すべての子どもの幸福を守るために世界のお母さんと話しあいましょう。婦人の権利をかちとるために、みんなで話しあいましょう。母と子どもが安心して住める世の中をつくるために、お母さんの力を結集しましょう。日本母親大会に集まりましょう。」
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 今日は、小説家新田次郎が、1912年(明治45)に生まれた日です。
 新田次郎は、昭和時代に活躍した小説家で、本名は、藤原寛人といい、1912年(明治45)6月6日に、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の長野県諏訪市)で生まれました。
 旧制諏訪中学校(現在の県立諏訪清陵高等学校)から、無線電信講習所本科へと進み、1935年(昭和10)に神田電機学校(現在の東京電機大学)を卒業したのです。その後、中央気象台にはいり、富士山観測所、満州国中央気象台などに勤務しました。
 太平洋戦争後、小説を書き始め、1951年(昭和26)に『強力伝』が『サンデー毎日』の懸賞小説に当選、同作を収めた処女作品集『強力伝』で、1956年(昭和31)に直木賞を受賞したのです。
 その後も気象庁に勤めながら小説を書き続け、1966年(昭和41)に退職後は、作家活動に専念することになります。
 『八甲田山死の彷徨』(1971年)、『武田信玄』(1969~73年)、『栄光の岩壁』 (1973年) などの山岳・歴史小説を次々と発表し、1974年(昭和49)には吉川英治文学賞しました。しかし、1980年(昭和55)2月15日 に心筋梗塞のため、東京都武蔵野市の自宅にて、67歳で亡くなっています。
 以下に、新田次郎の主要作品をあげておきます。

〇新田次郎の主要作品
『強力伝』朋文堂(旅装新書) 1955
『孤島 他四篇』光和堂 1956
『氷原・鳥人伝』新潮社(小説文庫) 1956
『火山群』新潮社 1957
『蒼氷』大日本雄弁会講談社 1957
『算士秘伝』大日本雄弁会講談社(ロマン・ブックス) 1957
『吹雪の幻影』朋文堂 1957
『はがね野郎』大日本雄弁会講談社 1958
『慶長大判』大日本雄弁会講談社 1958
『この子の父は宇宙線』講談社ロマン・ブックス 1958
『縦走路』新潮社 1958
『風の中の瞳』東都書房 1958
『ひとり旅』秋元書房 1959
『黒い顔の男』新潮社 1959
『最後の叛乱』角川書店 1959
『冬山の掟』新潮社 1959
『海流』講談社 1959
『沼 推理小説』東都書房 1960
『永遠のためいき』新潮社 1960 
『青い失速』講談社 1960
『石壁の掟』新潮社 1960
『絵島の日記』講談社 1960
『壷鳴り』東都書房 1961
『隠密海を渡る』新潮社 1961
『温暖前線』集英社 1962
『雪に残した3』新潮社(ポケット・ライブラリ) 1962
『錆びたピッケル』新潮社 1962
『風の遺産』講談社 1962 
『異人斬り』集英社 1962
『道化師の森』講談社 1963
『風雪の北鎌尾根』新潮社 1963
『寒冷前線』朋文堂(ケルン新書) 1963
『神々の石壁』講談社 1963
『かもしかの娘たち』集英社 1964
『梅雨将軍信長』新潮社 1964
『消えたシュプール』講談社 1964
『岩壁の九十九時間』新潮社 1965
『望郷』文芸春秋新社 1965
『白い野帳』朝日新聞社 1965
『高校一年生』秋元書房 1965
『高校二年生』秋元書房 1966
『火の島』新潮社 1966
『まぼろしの軍師』人物往来社 1967
『夜光雲』講談社 1967
『富士山頂』文芸春秋 1967
『先導者』新潮社 1968)
『黒い雪洞』講談社 1968)
『槍ヶ岳開山』文芸春秋 1968
『神通川』学習研究社 1968
『まぼろしの雷鳥』講談社 1969
『ある町の高い煙突』文芸春秋社 1969
『孤高の人』新潮社 1969
『武田信玄』文芸春秋 1969-1973
『思い出のともしび 新田次郎青春記』秋元書房 1970
『笛師』講談社 1970 講談社文庫 1975
『山旅ノート』山と渓谷社(山渓新書) 1970
『三つの嶺』文芸春秋 1970
『霧の子孫たち』文芸春秋 1970
『芙蓉の人』文芸春秋 1971
『昭和新山』文芸春秋 1971
『赤毛の司天台』中央公論社 1971
『東京野郎』三笠書房 1971
『八甲田山死の彷徨』新潮社 1971
『つぶやき岩の秘密』新潮社(新潮少年文庫) 1972
『凍った霧の夜に』毎日新聞社 1972
『北極光』二見書房 1972
『六合目の仇討』廣済堂出版 1973
『栄光の岩壁』新潮社 1973
『雪の炎』光文社 カッパ・ノベルス 1973
『怒る富士』文芸春秋 1974
『雪のチングルマ』文芸春秋 1974
『アラスカ物語』新潮社 1974
『富士に死す』文芸春秋 1974
『銀嶺の人』新潮社 1975
『犬橇使いの神様』文芸春秋 1975
『空を翔ける影』光文社(カッパ・ノベルス 1976
『山が見ていた』光文社(カッパ・ノベルス 1976
『白い花が好きだ』光文社 1976
『聖職の碑』講談社 1976
『小説に書けなかった自伝』新潮社 1976
『アルプスの谷 アルプスの村』(新田次郎全集 第22巻) (新潮社 1976)
『陽炎』毎日新聞社 1977
『武田三代』毎日新聞社 1977
『剣岳: 点の記』文芸春秋 1977
『鷲ケ峰物語』講談社 1977
『小笠原始末記』毎日新聞社 1977
『河童火事』毎日新聞社 1977
『先導者・赤い雪崩』新潮文庫 1977
『続・白い花が好きだ』光文社 1978
『風雪の北鎌尾根・雷鳴』新潮文庫 1978
『冬山の掟』文春文庫 1978
『珊瑚』新潮社 1978
『新田義貞』新潮社 1978
『密航船水安丸』講談社 1979
『ラインの古城』文芸春秋 1979
『マカオ幻想』新潮社 1980
『孤愁』文芸春秋 1980
『氷原・非情のブリザード』新潮文庫 1980
『武田勝頼』講談社 1980
『遥かなる武田信玄の国』新人物往来社 1980
『私の取材旅行』文芸春秋 1981
『山が見ていた』文春文庫 1983
『六合目の仇討』新潮文庫 1984
『万治の石仏』草原社文庫 1988
『武田信玄 アルバム&エッセイ』新人物往来社 1987
『きびだんご侍』新潮文庫 1988)
『孤愁=SAUDADE: サウダーデ』文芸春秋 2012
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 今日は、環境の日・世界環境デーで、1972年(昭和47)にスウェーデンのストックホルムで開催された国連人間環境会議(通称:ストックホルム会議)で「人間環境宣言」が採択されたことに因むものでした。
 国連人間環境会議は、この年の6月5日~16日まで開かれ、環境問題についての世界で初めての大規模な政府間会合で、113ヶ国が参加したのです。
 キャッチフレーズは、「かけがえのない地球 (Only One Earth)」で、「人間環境宣言」及び「環境国際行動計画」が採択され、これを実行するため、国際連合に環境問題を専門的に扱う国際連合環境計画(本部:ケニアのナイロビ)がに設立されました。英語の略称はUNEP(ユネップ)で、国際連合の機関として国連諸機関の環境に関する諸活動を統括しています。
 1972年(昭和47)12月15日の国連総会において、日本とセネガルの共同提案により、6月5日が世界環境デーとして制定されました。
 日本では1993年(平成5)に「環境基本法」により、「事業者及び国民の間に広く環境の保全についての関心と理解を深めるとともに、積極的に環境の保全に関する活動を行う意欲を高めるため、環境の日を設ける。 」(第10条)として、この日を「環境の日」と定めているのです。
 これにより、6月の1ヶ月間は、環境月間として、毎年、環境省や地方自治体、企業などによって環境セミナーや展示会などが各地で開かれてきました。
 また、世界各国でも、この日に環境保全の重要性を認識し、行動の契機とするため様々な行事が行われています。
 以下に、「人間環境宣言」を全文載せておきます。

○人間環境宣言

 国連人間環境会議は、1972 年6 月5 日から16 日までストックホルムで開催され、人間環境の保全と向上に関し、世界の人々を励まし、導くため共通の見解と原則が必要であると考え、以下のとおり宣言する。

1.宣 言

(1)人は環境の創造物であると同時に、環境の形成者である。環境は人間の生存を支えるとともに、知的、道徳的、社会的、精神的な成長の機会を与えている。地球上での人類の苦難に満ちた長い進化の過程で、人は、科学技術の加速度的な進歩により、自らの環境を無数の方法と前例のない規模で変革する力を得る段階に達した。自然のままの環境と人によって作られた環境は、共に人間の福祉、基本的人権ひいては、生存権そのものの享受のため基本的に重要である。

(2)人間環境を保護し、改善させることは、世界中の人々の福祉と経済発展に影響を及ぼす主要な課題である。これは、全世界の人々が緊急に望むところであり、すべての政府の義務である。

(3)人は、絶えず経験を生かし、発見、発明、創造及び進歩を続けなければならない。今日四囲の環境を変革する人間の力は、賢明に用いるならば、すべての人々に開発の恩恵と生活の質を向上させる機会をもたらすことができる。誤って、又は不注意に用いるならば、同じ力は、人間と人間環境に対しはかり知れない害をもたらすことにもなる。我々は地球上の多くの地域において、人工の害が増大しつつあることを知っている。その害とは、水、大気、地球、及び生物の危険なレベルに達した汚染、生物圏の生態学的均衡に対する大きな、かつ望ましくないかく乱、かけがえのない資源の破壊と枯渇及び人工の環境、特に生活環境、労働環境における人間の肉体的、精神的、社会的健康に害を与える甚だしい欠陥である。

(4)開発途上国では、環境問題の大部分が低開発から生じている。何百万の人々が十分な食物、衣服、住居、教育、健康、衛生を欠く状態で、人間としての生活を維持する最低水準をはるかに下回る生活を続けている。このため開発途上国は、開発の優先順位と環境の保全、改善の必要性を念頭において、その努力を開発に向けなければならない。同じ目的のため先進工業国は、自らと開発途上国との間の格差を縮めるよう努めなければならない。先進工業国では、環境問題は一般に工業化及び技術開発に関連している。

(5)人口の自然増加は、絶えず環境の保全に対し問題を提起しており、この問題を解決するため、適切な政策と措置が十分に講じられなければならない。万物の中で、人間は最も貴重なものである。社会の進歩を推し進め、社会の富を作り出し、科学技術を発達させ、労働の努力を通じて人間環境を常に変えてゆくのは人間そのものである。社会の発展、生産及び科学技術の進歩とともに、環境を改善する人間の能力は日に日に向上する。

(6)我々は歴史の転回点に到達した。いまや我々は世界中で、環境への影響に一層の思慮深い注意を払いながら、行動をしなければならない。無知、無関心であるならば、我々は、我々の生命と福祉が依存する地球上の環境に対し、重大かつ取り返しのつかない害を与えることになる。逆に十分な知識と賢明な行動をもってするならば、我々は、我々自身と子孫のため、人類の必要と希望にそった環境で、より良い生活を達成することができる。環境の質の向上と良い生活の創造のための展望は広く開けている。いま必要なものは、熱烈ではあるが冷静な精神と、強烈ではあるが秩序だった作業である。自然の世界で自由を確保するためには、自然と協調して、より良い環境を作るため知識を活用しなければならない。現在及び将来の世代のために人間環境を擁護し向上させることは、人類にとって至上の目標、すなわち平和と、世界的な経済社会発展の基本的かつ確立した目標と相並び、かつ調和を保って追求されるべき目標となった。

(7)この環境上の目標を達成するためには、市民及び社会、企業及び団体が、すべてのレベルで責任を引き受け、共通な努力を公平に分担することが必要である。あらゆる身分の個人も、すべての分野の組織体も、それぞれの行動の質と量によって、将来の世界の環境を形成することになろう。地方自治体及び国の政府は、その管轄の範囲内で大規模な環境政策とその実施に関し最大の責任を負う。この分野で開発途上国が責任を遂行するのを助けるため、財源調達の国際協力も必要とされる。環境問題は一層複雑化するであろうが、その広がりにおいて地域的又は全地球的なものであり、また共通の国際的領域に影響を及ぼすものであるので、共通の利益のため国家間の広範囲な協力と国際機関による行動が必要となるであろう。国連人間環境会議は、各国政府と国民に対し、人類とその子孫のため、人間環境の保全と改善を目指して、共通の努力をすることを要請する。

2.原 則
 共通の信念を次のとおり表明する。

(1)人は、尊厳と福祉を保つに足る環境で、自由、平等及び十分な生活水準を享受する基本的権利を有するとともに、現在及び将来の世代のため環境を保護し改善する厳粛な責任を負う。これに関し、アパルトヘイト(人種隔離政策)、人種差別、差別的取扱い、植民地主義その他の圧制及び外国支配を促進し、又は恒久化する政策は非難され、排除されなければならない。

(2)大気、水、大地、動植物及び特に自然の生態系の代表的なものを含む地球上の天然資源は、現在及び将来の世代のために、注意深い計画と管理により適切に保護されなければならない。

(3)再生可能な重要な資源を生み出す地球の能力は維持され、可能な限り、回復又は向上されなければならない。

(4)祖先から受け継いできた野生生物とその生息地は、今日種々の有害な要因により重大な危機にさらされており、人はこれを保護し、賢明に管理する特別な責任を負う。野生生物を含む自然の保護は、経済開発の計画立案において重視しなければならない。

(5)地球上の再生できない資源は将来の枯渇の危険に備え、かつ、その使用から生ずる成果がすべての人間に分かち与えられるような方法で、利用されなければならない。

(6)生態系に重大又は回復できない損害を与えないため、有害物質その他の物質の排出及び熱の放出を、それらを無害にする環境の能力を超えるような量や濃度で行うことは、停止されなければならない。環境汚染に反対するすべての国の人々の正当な闘争は支持されなければならない。

(7)各国は、人間の健康に危険をもたらし、生物資源と海洋生物に害を与え、海洋の快適な環境を損ない、海洋の正当な利用を妨げるような物質による海洋の汚染を防止するため、あらゆる可能な措置をとらなければならない。

(8)経済及び社会の開発は、人にとって好ましい生活環境と労働環境の確保に不可欠なものであり、かつ、生活の質の向上に必要な条件を地球上に作りだすために必須のものである。

(9)低開発から起こる環境上の欠陥と自然災害は重大な問題になっているが、これは開発途上国の自らの努力を補うための相当量の資金援助及び技術援助の提供と、必要が生じた際の時宜を得た援助で促進された開発により、最もよく救済することができる。

(10)開発途上国にとって、一次産品及び原材料の価格の安定とそれによる十分な収益は環境の管理に不可欠である。生態学的なプロセスと並んで経済的な要素を考慮に入れなければならないからである。

(11)すべての国の環境政策は、開発途上国の現在又は将来の開発の可能性を向上させねばならず、その可能性に対して悪影響を及ぼすものであってはならず、すべての人のより良い生活条件の達成を妨げてはならない。また、環境上の措置によってもたらされる国内及び国際的な経済的帰結を調整することの合意に達するため、各国及び国際機関は適当な措置をとらなければならない。

(12)開発途上国の状態とその特別の必要性を考慮し、開発計画に環境保護を組み入れることから生ずる費用を考慮に入れ、さらに要求があったときは、この目的のための追加的な技術援助及び資金援助が必要であることを考慮し、環境の保護向上のため援助が供与されなければならない。

(13)合理的な資源管理を行い、環境を改善するため、各国は、その開発計画の立案に当たり国民の利益のために人間環境を保護し向上する必要性と開発が両立しうるよう、総合性を保ち、調整をとらなければならない。

(14)合理的な計画は、開発の必要性と環境の保護向上の必要性との間の矛盾を調整する必須の手段である。

(15)居住及び都市化の計画は、環境に及ぼす悪影響を回避し、すべての人が最大限の社会的、経済的及び環境上の利益を得るよう、立案されなければならない。これに関し、植民地主義者及び人種差別主義者による支配のため立案された計画は放棄されなければならない。

(16)政府によって適当と考えられ、基本的人権を害することのない人口政策は、人口増加率若しくは過度の人口集中が環境上若しくは開発上悪影響を及ぼすような地域、又は人口の過疎が人間環境の向上と開発を妨げるような地域で、実施されなければならない。

(17)国の適当な機関に、環境の質を向上する目的で、当該国の環境資源につき計画し、管理し、又は規制する任務が委ねられなければならない。

(18)科学技術は経済・社会の発展への寄与の一環として、人類の共通の利益のため環境の危険を見極め、回避し、制御すること、及び環境問題を解決することに利用されなければならない。

(19)環境問題についての若い世代と成人に対する教育は―恵まれない人々に十分に配慮して行うものとし―個人、企業及び地域社会が環境を保護向上するよう、その考え方を啓発し、責任ある行動を取るための基盤を拡げるのに必須のものである。マスメディアは、環境悪化に力を貸してはならず、すべての面で、人がその資質を伸ばすことができるよう、環境を保護改善する必要性に関し、教育的な情報を広く提供することが必要である。

(20)国内及び国際的な環境問題に関連した科学的研究開発は、すべての国特に開発途上国において推進されなければならない。これに関連し、最新の科学的情報及び経験の自由な交流は、環境問題の解決を促進するため支持され、援助されなければならない。環境に関連した技術は、開発途上国に経済的負担を負わせることなしに、広く普及されることを促進するような条件で提供されなければならない。

(21)各国は、国連憲章及び国際法の原則に従い、自国の資源をその環境政策に基づいて開発する主権を有する。各国はまた、自国の管轄権内又は支配下の活動が他国の環境又は国家の管轄権の範囲を越えた地域の環境に損害を与えないよう措置する責任を負う。

(22)各国は、自国の管轄権内又は支配下の活動が、自国の管轄権の外にある地域に及ぼした汚染その他の環境上の損害の被害者に対する責任及び補償に関する国際法を、更に発展せしめるよう協力しなければならない。

(23)国際社会において合意されるクライテリアであれ、国によって決定されるべき基準であれ、それぞれの国の価値体系を考慮することがすべての場合において重要である。最も進んだ先進国にとって妥当な基準でも開発途上国にとっては、不適切であり、かつ、不当な社会的費用をもたらすことがあり、このような基準の適用の限度についても考慮することが重要である。

(24)環境の保護と改善に関する国際問題は、国の大小を問わず、平等の立場で、協調的な精神により扱われなければならない。多国間取り決め、二国間取り決めその他の適当な方法による協力は、すべての国の主権と利益に十分な考慮を払いながら、すべての分野における活動から生ずる環境に対する悪影響を予防し、除去し、減少し、効果的に規制するため不可欠である。

(25)各国は、環境の保護と改善のため、国際機関が調整され能率的で力強い役割を果たせるよう、協力しなければならない。

(26)人とその環境は、核兵器その他すべての大量破壊の手段の影響から免れなければならない。各国は、適当な国際的機関において、このような兵器の除去と完全な破棄について、すみやかに合意に達するよう努めなければならない。
                           (1972年6月16日)
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 今日は、1954年(昭和29)に起きた近江絹糸争議でストライキの始まった日です。
 これは、昭和時代中期の1954年(昭和29)の6月2日~9月16日(105日間)に、近江絹糸紡績(現在のオーミケンシ)で起きた大規模な労働争議のことです。
 当時の近江絹糸紡績(従業員1万3000人)の労働者は、自社経営の近江高等学校生徒を工員のように使ったり、女子は結婚すると退社、男子も結婚すると転勤で、結婚すると退社か別居しかなく、寮生活の強制、信書の開封・私物検査の実施、外出制限、仏間での礼拝が強制されるなど「格子なき牢獄」といわれた前近代的労務管理・労働条件の改善を求めて起こしたもので、人権争議として世間の注目を集めました。
 この年の5月に自主的な労働組合が結成され、6月2日に組合の承認、宗教行事の強制反対、信書の開封・私物検査の即時停止、結婚・外出の自由、賃金体系の確立など22項目を会社側に要求したのです。しかし、6月4日に会社側が拒否したためストライキに突入、激しく対立して、その動きは全工場に拡大しました。
 全国の労働組合が支援するなど労使の全面的な対決となり、当初は、会社側が団体交渉を拒否し、中央労働委員会 (中労委) の斡旋などにも応じなかったので、企業内外から非難を浴びることになります。
 その結果、ようやく組合側の主張を認める中労委の第3次斡旋案を会社側が受諾して、105日間に及ぶ争議は終結しました。
 以下に、その時近江絹糸紡績労働組合が掲げた22項目の要求を載せておきます。

○近江絹糸紡績労働組合の22項目の要求
 1、我々の近江絹糸紡績労働組合を即時認めよ
 2、会社の手先である御用組合を即時解散せよ
 3、会社が指名せる労働者代表者の締結せる一切の規定を撤回せよ
 4、拘束八時間労働の確立 
 5、タイムレコーダーの即時復活と残業手当の支給、賃金体系の確立
 6、合理的な退職金、旅費、宿直費規定の設定
 7、有給休暇、生理休暇の完全実施
 8、食堂の完備、更衣室の新設、社宅並に寮設備の改善、拡充等福利厚生施設の充実
 9、宿直室の完備、専門宿直者、専門掃除夫及び各寮の専属炊事係即時配置
 10、仏教の強制絶対反対
 11、夜間通学等教育の自由を認めよ
 12、結婚の自由を認めよ
 13、ハイキング、音楽、映画サークル等一切の文化活動を認めよ
 14、労働強化を強制する各種対抗競技を廃止せよ
 15、人権を蹂りんした信書の開封、私物検査を即時停止せよ
 16、密告者褒賞制度、尾行等一切のスパイ活動強要をやめよ
 17、外出の自由を認めよ
 18、工場長に強制して行わせる月例首切反対
 19、各課最低必要人員の即時補充
 20、重役達の人格を無視した言動及び仕末書乱発の禁止
 21、自動車部員の社内寄宿を廃止し社外寮に引き移すこと
 22、自動車に対する傷害保険の即時加入
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