ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、1950年(昭和25)に、金閣寺(鹿苑寺)の金閣が同寺の僧侶の放火により全焼した日です。
 金閣は、室町時代の北山文化を代表する建造物で、当時まで現存し旧国宝にも指定され、建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築で、内部には、旧国宝の足利義満像なども安置されていました。
 その前庭の日本庭園ともマッチし、京都を代表する景観として、多くの人々に愛でられていたので、その焼失は残念でなりません。
 この金閣寺放火事件については、小説家三島由紀夫が、1956年(昭和31)に、小説『金閣寺』を雑誌『新潮』に連載し、同年新潮社から刊行されました。美に魅せられた青年が復讐と独占のために金閣に放火するまでの心理を描いていて、話題となったのです。

〇金閣寺(鹿苑寺)とは?
 京都府京都市北区にある鹿苑寺の通称で、相国寺の山外塔頭寺院です。室町幕府3代将軍足利義満は別荘北山殿に金閣などの殿楼を造営しましたが、1408年(応永15)の義満の死後、遺言により夢窓疎石を勧請開山とし、禅宗の寺院とされました。
 宗派は臨済宗相国寺派、本尊は聖観世音菩薩で、当時は金閣以外に紫雲殿、天上間、拱北楼、反橋、芳徳殿、天鏡閣、泉殿、護摩堂、懺法堂などが立ち並び、壮観を極めたものの、のちに紫雲殿、天鏡閣は南禅寺に、天上間は建仁寺に、懺法堂は等持寺に移転され、焼失や破壊された建物もあって衰退したのです。
 しかし、天正年間(1573~1592年)から再建が始まり、徐々に堂舎の修理、復興が行われ、昭和時代前期には、金閣、方丈(本堂)、不動堂、大書院、夕佳亭などがありました。
 ところが、中心となる金閣は、1950年(昭和25)7月2日に放火によって焼失、現在のものは1955年(昭和30)に同じ様式で再建されたものです。
 金閣の前の庭は、室町時代初期に改修されましたが、池中の島の配置などに山荘時代の面影を残す名園で、1956年(昭和31)に国の特別史跡・特別名勝に指定されました。そして、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されています。

☆金閣寺(鹿苑寺)の文化財一覧
<国指定重要文化財>
・絹本著色足利義満像・絹本著色足利義満像
・絹本著色達磨図
・大書院障壁画(伊藤若冲筆)宝暦九年の年記がある
 紙本墨画葡萄図(葡萄之間)(一之間)15面
 紙本墨画松鶴図(松鶴之間)(二之間)8面
 紙本墨画芭蕉図(芭蕉之間)(三之間)12面
 紙本墨画鶏及秋海棠図(四之間)11面
 紙本墨画竹図(狭屋之間)4面
・木造不動明王立像(不動堂安置)(西園寺護摩堂旧本尊)
・子元祖元高峰顕日問答語 
・慈聖院并寿寧院遺誡

<特別史跡・特別名勝>
・鹿苑寺(金閣寺)庭園
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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、名神高速道路が全線開通した日(名神高速道路全線開通記念日)です。
 名神高速道路は、愛知県小牧市から兵庫県西宮市まで全長189.6kmにおよぶ高速道路です。この完成によって、日本最初の都市間高速道路となり、4年後に完成した東名高速車道とあわせて、関東から関西が高速道路で結ばれることになり、日本の大動脈となりました。
 この高速道路の構想は、1953年(昭和28)に当時の建設省が公表した「東京神戸間有料道路計画書」が始めです。
 そして、時の政府は最初に整備すべき区間を名古屋~神戸間に限定し、名神高速道路として先行建設されることになりましたが、それは、東京オリンピック前の1963年(昭和38)7月16日に、尼崎インターチェンジ~栗東インターチェンジ間が部分開通(日本最初の都市間高速道路の開通)し、翌々年に全線開通したのです。
 平地部では、100km/h制限(一部の区間は80km/h)で走行することができ、これによって、中部から関西への自動車輸送時間が大幅に短縮されることになりました。

〇「名神高速道路」の全線開通までの足取り
・1953年(昭和28)建設省が「東京神戸間有料道路計画書」を公表する。
・1956年(昭和31)ワトキンス・レポート「名古屋・神戸高速道路調査報告書」が建設省に提出される。
・1957年(昭和32)10月17日「小牧~西宮」間で施工命令が下る。
・1958年(昭和33)10月19日 京都市山科区内に於いて起工(鍬入)式が挙行される。
・1959年(昭和34)4月 世銀第1次借款対象工事として「尼崎~栗東」間が指定される。
・1960年(昭和35)3月17日 世界銀行との間で第1次借款(尼崎~栗東間分4千万USドル)が調印される。
・1961年(昭和36)11月29日 世界銀行との間で第2次借款(残り区間分4千万USドル)が調印される。
・1963年(昭和38)7月16日 尼崎IC~栗東ICが部分開通する。
・1964年(昭和39)4月12日 関ヶ原IC~栗東ICが部分開通する。
・1964年(昭和39)9月6日 一宮IC~関ヶ原IC、尼崎IC~西宮ICが部分開通する。
・1965年(昭和40)7月1日 小牧IC~一宮ICの開通により、全線開通となる。
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 今日は、1944年(昭和19)に、東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、集団疎開が促進された日(集団疎開の日)です。
 昭和時代前期の1941年(昭和16)に、太平洋戦争に突入すると、国内でも、戦地に赴いた兵隊の労働の穴を埋めるために、女性の職場進出が叫ばれ、学生も学業を投げ打って、勤労動員や女子挺身隊として、工場や農村で労働に従事しました。
 物資は配給制となって、思うように買えず、兵器や鉄砲の弾にするために、金属類の供出が求められ、耐乏生活を余儀なくされました。
 空襲がひどくなると地方への学童疎開が行われるようになり、親子が分かれて暮さなければならなくなったりしたのです。

〇「学童疎開」とは?
 太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京,大阪,名古屋,横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことです。
 アメリカ軍の爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。
 しかし、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸し、さらにその危険が増大することになり対策の強化が迫られたのです。
 その中で、同年6月30日、東条英機内閣は「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。
 そして、同年8月から学校単位の集団疎開が実施され、1945年(昭和20)の疎開児童数は約 45万人に達したのです。
 これにらの疎開先では公会堂、社寺、旅館などが宿舎とされ、そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。
 そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すといういたましい事件も発生したのです。

☆「学童疎開促進要綱」(昭和19年6月30日閣議決定)

防空上ノ必要ニ鑑ミ一般疎開ノ促進ヲ図ル外特ニ国民学校初等科児童(以下 学童ト称ス)ノ疎開ヲ左記ニ依リ強度ニ促進スルモノトス
                       記
一 学童ノ疎開ハ縁故疎開ニ依ルヲ原則トシ学童ヲ含ム世帯ノ全部若ハ一部ノ疎開又ハ親戚其ノ他縁故者アル学童ノ単身疎開ヲ一層強力ニ勧奨スルモノトス
二 縁故疎開ニ依リ難キ帝都ノ学童ニ付テハ左ノ帝都学童集団疎開実施要領ニ依リ勧奨ニ依ル集団疎開ヲ実施スルモノトス他ノ疎開区域ニ於テモ各区域ノ実情ヲ加味シツツ概ネ之ニ準ジ措置スルモノトス
三 本件ノ実施ニ当リテハ疎開、受入両者ノ間ニ於テ共同防衛ノ精神ニ基ク有機一体的ノ協力ヲ為スモノトス
四 地方庁ハ疎開者ノ適確ナル数及疎開先ヲ予メ農商省ニ通知スルモノトス            
       

☆「帝都学童集団疎開実施要領」(昭和19年7月7日)

第一 集団疎開セシムベキ学童ノ範囲
  区部ノ国民学校初等科三年以上六年迄ノ児童ニシテ親戚縁故先等ニ疎開シ難キモノトシ保護者ノ申請ニ基キ計画的ニ之ヲ定ムルモノトス
第二 疎開先
  疎開先ハ差当リ関東地方(神奈川県ヲ除ク)及其ノ近接県トス
第三 疎開先ノ宿舎
 一、宿舎ハ受入地方ニ於ケル余裕アル旅館、集会所、寺院、教会所、錬成所、別荘等ヲ借上ゲ之ニ充テ集団的ニ収容スルモノトス
 二、都ノ教職員モ児童ト共ニ共同生活ヲ行フモノトス
 三、寝具、食器其ノ他ノ身廻品ハ最小限度ニ於テ携行セシムルモノトス
第四 疎開先ノ教育
 一、疎開先ノ教育ハ必要ナル教職員ヲ都ヨリ附随セシメ疎開先国民学校又ハ宿舎等ニ於テ之ヲ行フモノトス
 二、疎開先ノ地元国民学校ハ教育上必要ナル協力援助ヲ為スモノトス
 三、疎開先ニ於テハ地元トノ緊密ナル連絡ノ下ニ学童ヲシテ適当ナル勤労作業ニ従事セシムルモノトス
 四、宿舎ニ於ケル学童ノ生活指導ハ都ノ教職員之ニ当ルモノトス
 五、疎開先ニ於ケル学童ノ養護及医療ニ関シテハ充分準備ヲ為シ支障ナキヲ期スモノトス
第五 物資ノ配給
  疎開先ニ於ケル食糧、燃料其ノ他ノ生活必需物資ニ付テハ農商省其ノ他関係省ニ於テ所要量ヲ用途ヲ指定シ特別ニ配給ヲ為スモノトス
第六 輸送
  本件実施ニ伴フ輸送ニ関シテハ他ノ輸送ニ優先シ特別ノ措置ヲ講ズルモノトス
第七 経費ノ負担
 一、本件実施ニ伴フ経費ハ保護者ニ於テ児童ノ生活費ノ一部トシテ月拾円ヲ負担スルノ外凡テ都ノ負担トス
    尚前項ノ負担ヲ為シ得ズト認メラルルモノニ付テハ特別ノ措置ヲ講ズ
 二、国庫ハ都ノ負担スル経費ニ対シ其ノ八割ヲ補助スルモノトス
第八 其ノ他
 一、本件実施ニ伴ヒ出来得ル限リ残存学級ノ整理統合ヲ行フモノトス
 二、本件実施ニ当リテハ都ニ於テ疎開先ノ地元府県市町村ト緊密ナル連絡ヲ図ルモノトス


☆「帝都学童集団疎開実施細目」(昭和19年7月10日)

第一 集団疎開ノ希望調査
一、 区長、学校長ヲ通ジテ適切ナル方法ニ依リ本措置ノ趣旨ヲ学童ノ保護者ニ徹底セシメ其ノ自発的申出ヲ指導勧奨スルコト
二、 勧奨ニ当リテハ時節柄言辞ニ注意シ無用ノ紛乱誤解ヲ惹起セザル様留意スルコト
三、 集団疎開ノ希望ヲ調査スル際併セテ縁故疎開ヲ希望スル学童ノ疎開先府県名、疎開予定期日等ヲモ調査シ、縁故疎開ノ円滑ナル遂行ニ資スルコト
四、 虚弱児童等ノ集団疎開ニ適セザル者ハ努メテ縁故疎開ニ依ラシムル如ク措置スルコト

第二 疎開先ノ決定
一、 帝都学童ノ疎開先ハ東京都郡部、埼玉県、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、山梨県、新潟県、宮城県、静岡県(一部ヲ横浜市、川崎市、横須賀市ノ疎開先ニ充ツ)長野県、福島県、山形県トシ必要ニ応ジ其ノ範囲ヲ拡張スルコト
 二、 疎開先ハ努メテ罹災者避難ノ連結県又ハ其ノ近接県ニ選定スルコト
 三、 集団疎開学童数ハ一応二十萬ト概定シ之ノ概数ヲ送出区及受入県ニ仮割当ヲ為シ計画準備ヲ進ムルコト
四、 都ニ於テ区別ノ受入県ヲ、区ニ於テ学校別ノ疎開先ヲ決定スルモノトシ、具体的宿舎割当ハ受入県、市町村当局ト都、区、学校当局ニ於テ協議下検分ノ上最終的決定ヲ為スコト

第三 疎開先ノ宿舎
 一、 宿舎ハ一箇所(同一管理者ノ管理シ得ル範囲)ニ於ケル収容学童数百名程度ヲ標準トシテ選定スルコト
 二、 宿舎借上契約ノ当事者ハ都タルベキモ、地元当局ニ於テ借上及借上条件ノ決定等ニ付強度ノ援助ヲ為スコト
 三、 必要ナル寝具、炊事用具、机等ノ借入ニ付テモ同様援助ヲ為スコト
 四、 地元ニ於テ採用スルヲ要スル寮母、作業員等ノ詮衡ニ付テモ同様援助ヲ為スコト
五、 宿舎ノ附属設備等ニシテ改善手入等ヲ要スルモノハ予メ地元ノ協力ニ依リ相当ノ手配ヲ講ジ置クコト
 六、 借上ゲタル宿舎ノ建具、器物等ノ破損ニ対シテハ使用終了後ニ於テ之ガ損失補償ヲ為スコト
 七、 宿舎ニ於ケル賄ハ宿舎ノ経営主等ヲシテ請負ハシメ又ハ地元ノ協力ヲ得テ直営スルコト

第四 疎開先ニ於ケル教育 養護
一、 疎開先ニ於ケル教育ヲ都立国民学校ノ分教場ノ形式ニ依ルカ或ハ地元委託ニ依ルカハ都ト受入県トノ協議ニ依ルコト
二、 教育ヲ地元ニ委託シタル場合ハ経営ヲ都ニ於テ支弁シ、都ヨリ附随セシメル教職員ヲ地元国民学校兼務トスルコト
三、 地元国民学校ニ於テハ事情ノ許ス限リ二部授業ノ採用等ニ依リ疎開学童ノ収容ヲ図ルコト
 四、 右ニ依リ難キ場合ハ付近近在ノ公会堂、寺院、錬成所、大農場等ニシテ教場ニ充テ得ベキ建物又ハ宿舎ニ於テ授業ヲ行フモノトス之ガ為メ必要ナル机、腰掛等ハ地元調達ヲ図ルノ外努メテ都内ヨリモ送付スルコト
 五、 集団疎開学童ハ都内上級学校ヘノ進学ヲ認ムルト共ニ本人ノ希望ニ依リ地元ノ収容力ヲ勘案シテ地元ニ於ケル進学ヲモ認ムルコト
 六、 勤労作業ハ児童ノ環境順応ノ程度ニ応ジ且ツ地元トノ融和促進、食糧自給等ヲ目途トシテ之ヲ施スコト
 七、 医師、看護婦ノ嘱託等ニ付地元ニ於テモ協力スルコト
 八、 送出学校ヨリ若干ノ救急医療材料ヲ携行セシメルコト
 九、 児童衣類等ノ洗濯修理等ニ付テハ能フ限リ地元婦人団体等ノ協力奉仕ヲ促スコト

第五 食糧其ノ他生活必需物資、学童用品ノ調達
 一、 主要食糧、調味食品等ノ配給統制物資ハ疎開計画ノ進捗ニ即応シテ東京都分ヨリ受入県分ニ割当転換ヲ為シ、集団疎開学童用トシテ指定シ受入県ニ割当ツルコト
 二、 燃料其ノ他ノ統制物資ニ付テモ右ニ準ジ取扱フコト
三、 惣菜、生鮮魚介等ノ副食物ニ付テハ極力地元ニ於テ調達ニ付斡旋スルコト
四、 生鮮魚介類ノ入手困難ナル地方ニ対シテハ塩干魚、介藻類、佃煮等代替物ノ配給ヲ考慮スルコト
五、 計画配給ノ単位量ニ付テハ努メテ東京都ニ於ケル現行標準ヲ尊重スルコト
六、食糧、燃料其ノ他生活必需物資ノ調達運搬等ニ付テハ地元当局、諸団体等ニ於テ能フ限リノ協力ヲ為スコト
 七、 疎開学童ヲシテ極力食糧燃料等ノ自給生産ニ当ラシムルコト
 八、 学童用品ノ配給ハ都ト受入県トノ協議ニ依リ夫々責任区分ヲ定メ配給ノ適正ヲ期スルコト    此ノ際特ニ地元学童トノ調和ニ留意スルコト
九、 食糧、燃料等生活必需物資ハ学童ノ転入以前ニ調達準備ニ遺漏ナキヲ期スルモノトシ、非常用トシテ食糧数日分ヲ児童ヲシテ携行セシムルコト

第六 輸送
 一、 疎開児童数及出発日時ハ可及的速ニ区長ヨリ疎開輸送支部ニ申告セシムルコトトシ、必要ニ応ジ臨時列車ノ特発、車両ノ指定其ノ他特別ノ措置ヲ考慮スルコト
 二、 見廻物品ノ携行ハ寝具、食器、着換ヘ其ノ他当座ノ必需品ニ止メ他ハ取纏メ追送ノ方途ニ依ルコト
 三、 見廻物品ハ車内持込ヲ除キ児童一人当リ二十キロ以内一個(蒲団ヲ含ム)程度トスルコト
 四、 炊事道具、校具等ハ必要最小限度ノモノヲ輸送スルコト
 五、 発着地ニ於ケル小運送ハ小運送業者ニ依ルノ外輸送挺身隊、勤労報国隊、地元諸団体ノ協力ヲ促スコト

第七 経済
 一、 経済負担ノ減免ヲ受クル児童保護者ハ貧困者トシ申請ニ依リ都ニ於テ決定スルコト
 二、 本件実施ニ要スル受入県、市町村ノ費用ニ対シ国庫ヨリ若干ノ補助ヲ為スコト

第八 都内ヘノ復帰、父兄ノ面会
 一、 疎開児童ニシテ止ムヲ得ザル事情ニ依リ都内ヘノ復帰等ヲ希望スル場合ハ学校長ノ詮議ニ依リ之ヲ承認シ得ルコト
 二、 父兄ノ面会ニ付テハ成ルベク便宜ヲ図ルモ極力自制セシムルコト
    尚 必要アルトキハ疎開先責任者ヨリ連絡シ父兄ヲ呼寄スルコト

第九 其ノ他
 一、 本件実施ノ期間ハ差当リ一年トスルコト
 二、 父兄、教職員、学童、受入側官民ニ対シ本件実施ノ本義ヲ徹底セシムル様特別ノ措置ヲ講ズルコト
 三、 本件実施ニ当リテハ地元当局ノ外警防団、婦人会、青少年団、在郷軍人会、翼賛壮年団其ノ他諸団体、篤志家等ノ協力ヲ促スコト<BR>
 四、 都庁内ニ疎開先トノ緊密ナル連絡ニ資スル為連絡協議会ヲ設置スルコト<BR>
 五、 都ノ職員ヲ受入県庁内又ハ適当ナル場所ニ派遣シ必要ニ依リ受入県ニ兼務セシムルコト<BR>
 六、 受入県庁ニ於テハ各部課トモ其ノ所管ニ応ジ協力スルト共ニ本件主管ノ部課ヲ特定シ事務連絡ニ資スルコト
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 今日は、1903年(明治36)に作曲家瀧廉太郎が亡くなった日で、廉太郎忌と呼ばれています。 
 瀧廉太郎は、明治時代後期に活躍した日本最初の本格的な作曲家です。
 1879年(明治12)8月24日に、東京府芝区南佐久間町(現在の東京都港区西新橋)に生まれました。しかし、父の転勤にともない横浜、富山、東京、大分へと移り住むことになります。
 1890年(明治23)に15歳で東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学し、1898年(明治31)に本科を卒業すると、研究科に進みました。
 翌年から同校嘱託となり2年ほど後進の指導に当たりましたが、この間に組歌『四季』、中学唱歌「箱根八里」・「荒城の月」、幼稚園唱歌「鳩ぽっぽ」・「お正月」などの今日でもよく知られている歌を作曲したのです。
 1901年(明治34)には、文部省留学生第1号としてドイツに渡り、ライプチヒ音楽院に入学しました。しかし、結核を患って、帰国のやむなきに至り、父の故郷である大分県で療養することになったのです。
 その後治療の甲斐もなく、1903年(明治36)6月29日に大分市の自宅において、23歳で死去しました。

〇瀧廉太郎の主要な作品一覧
 日本男児 (詞・東郊:1896年)
 春の海 (詞・東くめ:1897年)
 散歩 (詞・中村秋香:1897年)
 命を捨てて (詞・不詳:1897年)
 我神州 (詞・砂沢丙喜治:1899年)
 四季の瀧 (詞・東くめ:1899年)
 メヌエット(ピアノ曲:1900年)
 組歌『四季』
  1 花 (詞・武島羽衣:1900年)
  2 納涼 (詞・東くめ:1900年)
  3 月 (詞・瀧廉太郎:1900年)
  4 雪 (詞・中村秋香:1900年)
 中学唱歌
  箱根八里 (詞・鳥居忱:1900年)
  荒城の月 (詞・土井晩翠:1900年)
  豊太閤 (詞・外山正一:1900年)
 幼稚園唱歌(作曲は1900年から)
  ほうほけきょ (詞・瀧廉太郎:1901年)
  ひばりはうたひ (詞・東くめ:1901年)
  鯉幟 (詞・東くめ:1901年)
  海のうへ (詞・東くめ:1901年)
  桃太郎 (詞・瀧廉太郎:1901年)
  お池の蛙 (詞・東くめ:1901年)
  夕立 (詞・東くめ:1901年)
  かちかち山 (詞・東くめ:1901年)
  みずあそび (詞・瀧廉太郎:1901年)
  鳩ぽっぽ (詞・東くめ:1901年)
  菊 (詞・東くめ:1901年)
  雁 (詞・瀧廉太郎:1901年)
  軍ごっこ (詞・東くめ:1901年)
  雀 (詞・佐佐木信綱:1901年)
  雪やこんこ (詞・東くめ:1901年)
  お正月 (詞・東くめ:1901年)
  さようなら (詞・東くめ:1901年)
 別れの歌 (詞・不詳:1902年)
 水のゆくへ (詞・不詳:1902年)
 荒磯の波 (詞・徳川光圀:1902年)
 憾(ピアノ曲:1903年)

☆瀧廉太郎作詞・作曲の幼稚園唱歌
・『ほーほけきょ』 作詞・作曲 瀧 廉太郎
(問) 小さい子、小さい子、
    お前はなにをして居ます。
(答) 私は梅をかいでます。
(問) 梅をかいで夫(それ)から。
(答) 夫(それ)から歌をうたひます。
(問) 何の歌をうたひます。
(答) 黄色い靑い着物着て。
(合唱) けきょけきょ けきょけきょ ほーほけきょ。

・『桃太郎』作詞・作曲 瀧 廉太郎
  桃太郎さんの、 お供には。
  犬猿雉子の、  三匹よ。
  お供の褒美は、 何やらう。
  日本一の、   黍団子。

・『水あそび』作詞・作曲 瀧 廉太郎
  水を沢山、 くんで来て。
  水鉄砲で、 遊びましょー。
  一二三四、 ちゅっ ちゅっ ちゅっ。

・『雁(がん)』作詞・作曲 瀧 廉太郎
  月のあかりに、   黒いがん。
  一所にならんで、  五つ六つ。
  親がさきへゆき、  子はあとに。
  何処から来たのか、 つれだって。
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 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、小説家林芙美子が亡くなった日で、芙美子忌と呼ばれています。
 林芙美子は、昭和時代に活躍した小説家で、本名は、林フミコといい、1903年(明治36)12月31日に、福岡県門司市(現在の福岡県北九州市門司区)で行商人の娘として生れたといわれますが、はっきりしないそうです。
 その後、各地を転々と放浪しながら育ち,1922年(大正11)に、尾道高等女学校を卒業後上京し、事務員・露天商・女工・女給などの職を遍歴しながら詩や童話を書き始めました。日記をつけるようにもなり、アナーキストの詩人や作家との交流の中で影響をうけるようになったのです。1926年(昭和元)、画学生の手塚緑敏と内縁の結婚をし、生活が安定しました。
 1928年(昭和3)、『女人藝術』に「秋が来たんだ――放浪記」の連載を開始し、1930年(昭和5)に改造社から刊行した自伝的小説『放浪記』がベストセラーとなったのです。
 他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、戦後に渡って、第一線の女流作家としての活躍を続けましたが、1951年(昭和26)6月28日に47歳で急逝しました。

〇小説『放浪記』とは?
 作家の林芙美子が自らの日記をもとに放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説で、昭和時代前期の1928年(昭和3)、長谷川時雨主宰の『女人藝術』に、10月から翌々年10月まで20回、「秋が来たんだ――放浪記」として掲載されました。
 そして、1930年(昭和5)に改造社から刊行した『放浪記』と『続放浪記』が好評を博し、ベストセラーとなったのです。
 この小説は、昭和恐慌下の暗い東京で、貧困にあえぎながらも、向上心を失わず強く生きる一人の女性の姿が多くの人々をひきつけたものと思われます。
 1939年(昭和14)、「決定版」を謳って新潮社から刊行された際、大幅な改稿が行われました。さらに、戦後になって1946年(昭和21)5月からは、「日本小説」に第三部の連載が始まり、1949年(昭和21)『放浪記第三部』として刊行されました。そして、1979年(昭和54)には、これら全てを含めた『新版 放浪記』が新潮社から刊行され、これが実質上の定本となりました。
 また、1935年(昭和10)に木村壮十二監督(P.C.L.映画製作所)、1954年(昭和29)に久松静児監督(東映)、1962年(昭和37)に成瀬己喜男監督(東邦)と3度にわたり映画化されていますし、テレビドラマとしても何回か放送されています。
 さらに、女優・森光子が1961年(昭和36)に主役で、東京の芸術座で初演した舞台版「放浪記」は、同一主演者により2009年(平成21)まで2,017回の上演を記録しました。
 以下に、小説『新版 放浪記』の冒頭部分を紹介しておきます。

☆小説『新版 放浪記』の冒頭部分
「第一部
    放浪記以前

 私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

 更けゆく秋の夜 旅の空の
 侘わびしき思いに 一人なやむ
 恋いしや古里 なつかし父母

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物ふとものの行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処ところであった。私が生れたのはその下関の町である。――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人たびびとである私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。――八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。若松で、呉服物の糶売せりうりをして、かなりの財産をつくっていた父は、長崎の沖の天草あまくさから逃げて来た浜と云う芸者を家に入れていた。雪の降る旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。若松と云うところは、渡し船に乗らなければ行けないところだと覚えている。
 今の私の父は養父である。このひとは岡山の人間で、実直過ぎるほどの小心さと、アブノーマルな山ッ気とで、人生の半分は苦労で埋れていた人だ。私は母の連れ子になって、この父と一緒になると、ほとんど住家と云うものを持たないで暮して来た。どこへ行っても木賃宿きちんやどばかりの生活だった。「お父つぁんは、家を好かんとじゃ、道具が好かんとじゃ……」母は私にいつもこんなことを云っていた。そこで、人生いたるところ木賃宿ばかりの思い出を持って、私は美しい山河も知らないで、義父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。私がはじめて小学校へはいったのは長崎であった。ざっこく屋と云う木賃宿から、その頃流行のモスリンの改良服と云うのをきせられて、南京ナンキン町近くの小学校へ通って行った。それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾おりおと言った順に、四年の間に、七度も学校をかわって、私には親しい友達が一人も出来なかった。
「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……」
 せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。私は学校へ行くのが厭いやになっていたのだ。それは丁度、直方のうがたの炭坑町に住んでいた私の十二の時であったろう。「ふうちゃんにも、何か売らせましょうたいなあ……」遊ばせてはモッタイナイ年頃であった。私は学校をやめて行商をするようになったのだ。

 直方の町は明けても暮れても煤すすけて暗い空であった。砂で漉こした鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。大正町の馬屋と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李こうりに入れて、母が後押しで炭坑や陶器製造所へ行商に行っていた。
 私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯へこおびに巻いて、毎日町に遊びに出ていた。門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭がいたんのザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋くずや、貸蒲団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先きには、町を歩いている女とは正反対の、これは又不健康な女達が、尖とがった目をして歩いていた。七月の暑い陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢じゅばんきりである。夕方になると、シャベルを持った女や、空のモッコをぶらさげた女の群が、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。
 流行歌のおいとこそうだよの唄が流行はやっていた。

 ……… 」
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