ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、「治安警察法」が公布された日です。
 この法律は、第二次山県有朋内閣時に制定されたもので、集会・結社・言論の自由の制限と社会運動、労働運動、農民運動の取締りなどを目的としたものでした。
 政治結社・集会の届出、女子、教員、学生、宗教者、軍人などの政治結社加入禁止を定め、集会での発言に対する制限や警察官の監視、解散権付与などを規定していたのです。
 この法律によって、結社を禁止された政党や労働組合などもあり、女子は結社ばかりか、集会に参加することも禁ぜられていたので、反対運動も根強く、1922年(大正11)になって、女子の政治集会参加禁止だけは削除されました。
 そして、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)11月21日に、GHQ(連合国最高司令部)の命令で廃止されたのです。
 下記に、1926年(大正15)改正後の条文を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇治安警察法 (全文) 1900年(明治33)法律第36号 1926年(大正15)改正後の条文

第一条 政事ニ関スル結社ノ主幹者(支社ニ在リテハ支社ノ主幹者)ハ結社組織ノ日ヨリ三日以内ニ社名、社則、事務所及其ノ主幹者ノ氏名ヲ其ノ事務所所在地ノ管轄警察官署ニ届出ツヘシ其ノ届出ノ事項ニ変更アリタルトキ亦同シ

第二条 政事ニ関シ公衆ヲ会同スル集会ヲ開カムトスル者ハ発起人ヲ定ムヘシ
2 発起人ハ到達スヘキ時間ヲ除キ開会三時間以前ニ集会ノ場所、年月日時ヲ会場所在地ノ管轄警察官署ニ届出ツヘシ
3 届出ノ時刻ヨリ三時間ヲ過キテ開会セス若ハ三時間以上中断スルトキハ届出ハ其ノ効ヲ失フ
4 法令ヲ以テ組織シタル議会ノ議員選挙準備ノ為ニ選挙権ヲ行フヘキ者及被選挙権ヲ有スル者ニ限リ会同スル所ノ集会ハ投票ノ日ヨリ前五十日間ハ本条第二項ノ届出ヲ要セス

第三条 公事ニ関スル結社又ハ集会ニシテ政事ニ関セサルモノト雖安寧秩序ヲ保持スル為届出ヲ必要トスルモノアルトキハ命令ヲ以テ第一条又ハ第二条ノ規定ニ依ラシムルコトヲ得

第四条 屋外ニ於テ公衆ヲ会同シ若ハ多衆運動セムトスルトキハ発起人ヨリ十二時間以前ニ会同スヘキ場所年月日時及其ノ通過スヘキ路線ヲ管轄警察官署ニ届出ツヘシ但シ祭葬、講社、学生生徒ノ体育運動其ノ他慣例ノ許ス所ニ係ルモノハ此ノ限ニ在ラス

第五条 左ニ掲クル者ハ政事上ノ結社ニ加入スルコトヲ得ス
 一 現役及召集中ノ予備後備ノ陸海軍軍人
 二 警察官
 三 神官神職僧侶其ノ他諸宗教師
 四 官立公立私立学校ノ教員学生生徒
 五 女子
 六 未成年者
 七 公権剥奪及停止中ノ者
2 未成年者ハ公衆ヲ会同スル政談集会ニ会同シ若ハ其ノ発起人タルコトヲ得ス
3 公権剥奪及停止中ノ者ハ公衆ヲ会同スル政談集会ノ発起人タルコトヲ得ス

第六条 日本臣民ニ非サル者ハ政事上ノ結社ニ加入シ又ハ公衆ヲ会同スル政談集会ノ発起人タルコトヲ得ス

第七条 結社ハ法令ヲ以テ組織シタル議会ノ議員ニ対シテ其ノ発言表決ニ付議会外ニ於テ責任ヲ負ハシムルノ規定ヲ設クルコトヲ得ス

第八条 安寧秩序ヲ保持スル為必要ナル場合ニ於テハ警察官ハ屋外ノ集会又ハ多衆ノ運動若ハ群集ヲ制限、禁止若ハ解散シ又ハ屋内ノ集会ヲ解散スルコトヲ得
2 結社ニシテ前項ニ該当スルトキハ内務大臣ハ之ヲ禁止スルコトヲ得此ノ場合ニ於テ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得

第九条 集会ニ於テハ重罪軽罪ノ予審ニ関スル事項ヲ公判ニ付セサル以前ニ講談論議シ又ハ傍聴ヲ禁シタル訴訟ニ関スル事項ヲ講談論議スルコトヲ得ス
2 集会ニ於テハ犯罪ヲ煽動若ハ曲庇シ又ハ犯罪人若ハ刑事被告人ヲ賞恤若ハ救護シ又ハ刑事被告人ヲ陥害スルノ講談論議ヲ為スコトヲ得ス

第十条 集会ニ於ケル講談論議ニシテ前条ノ規定ニ違背シ其ノ他安寧秩序ヲ紊シ若ハ風俗ヲ害スルノ虞アリト認ムル場合ニ於テハ警察官ハ其ノ人ノ講談論議ヲ中止スルコトヲ得

第十一条 結社、集会又ハ多衆運動ニ関シ警察官ノ尋問アリタルトキハ主幹者、会長、発起人ニ於テ又ハ警察官ノ主タル社員若ハ主タル会同者ト認ムル者ニ於テ之ニ答フヘシ
2 警察官署ハ制服ヲ著シタル警察官ヲ派遣シ政事ニ関シ公衆ヲ会同スル集会ニ臨監セシムルコトヲ得其ノ集会ニシテ政事ニ関セサルモノト雖安寧秩序ヲ妨害スルノ虞アリト認ムルトキ亦同シ此ノ場合ニハ発起人ニ於テ又ハ警察官ノ主タル会同者ト認ムル者ニ於テ警察官ノ求ムル席ヲ供スヘシ

第十二条 集会又ハ多衆運動ノ場合ニ於テ故ラニ喧擾シ又ハ狂暴ニ渉ル者アルトキハ警察官ハ之ヲ制止シ其ノ命ニ従ハサルトキハ現場ヨリ退去セシムルコトヲ得

第十三条 集会及多衆ノ運動ニ於テハ戎器又ハ兇器ヲ携帯スルコトヲ得ス但シ制規ニ依リ戎器ヲ携帯スル者ハ此ノ限ニ在ラス

第十四条 秘密ノ結社ハ之ヲ禁ス

第十五条 法令ヲ以テ組織シタル議会ノ議員議事準備ノ為ニ相団結スルモノニ対シテハ第一条及第五条ヲ適用セス

第十六条 街頭其ノ他公衆ノ自由ニ交通スルコトヲ得ル場所ニ於テ文書、図画、詩歌ノ掲示、頒布、朗読若ハ放吟又ハ言語形容其ノ他ノ作為ヲ為シ其ノ状況安寧秩序ヲ紊シ若ハ風俗ヲ害スルノ虞アリト認ムルトキハ警察官ニ於テ禁止ヲ命スルコトヲ得

第十七条 削除

第十八条 行政官庁ハ安寧秩序ヲ保持スル為必要ト認ムルトキハ戎器、爆発物又ハ戎器ヲ仕込ミタル物件ノ携帯ヲ禁スルコトヲ得

第十九条 第一条ニ違背シタル者ハ三十円以下ノ罰金ニ処シ第一条ノ届出ヲ為スモ実ヲ以テセサル者ハ五十円以下ノ罰金ニ処ス

第二十条 第二条第一項又ハ第二項ニ違背シタル者ハ二十円以下ノ罰金ニ処シ第二項ノ届出ヲ為スモ実ヲ以テセサル者ハ三十円以下ノ罰金ニ処ス

第二十一条 第四条ニ違背シタル者ハ二十円以下ノ罰金ニ処シ第四条ノ届出ヲ為スモ実ヲ以テセサル者ハ三十円以下ノ罰金ニ処ス

第二十二条 第五条又ハ第六条ニ違背シタル者ハ二十円以下ノ罰金ニ処ス第五条又ハ第六条ニ違背シ入社セシメタル者亦同シ

第二十三条 第八条第一項ノ制限若ハ禁止ノ命ニ違背シ又ハ解散ヲ命セラレタル後仍退散セサル者ハ二月以下ノ軽禁錮又ハ三十円以下ノ罰金ニ処ス
2 第八条第二項ノ禁止ノ命ニ違背シタル者ハ六月以下ノ軽禁錮又ハ百円以下ノ罰金ニ処ス

第二十四条 第九条ニ違背シ又ハ第十条ノ中止ノ命ニ違背シタル者ハ三月以下ノ軽禁錮又ハ十円以上五十円以下ノ罰金ニ処ス

第二十五条 第十一条第一項ノ尋問ニ答ヘス若ハ答フルモ実ヲ以テセス又ハ第二項ノ場合ニ於テ警察官ノ臨監ヲ拒ミ若ハ其ノ求ムル席ヲ供セサル者ハ五十円以下ノ罰金ニ処ス

第二十六条 第十二条ニ依リ退去ヲ命セラレタル後仍退去セサル者ハ一月以下ノ軽禁錮又ハ二十円以下ノ罰金ニ処ス

第二十七条 第十三条ニ違背シタル者ハ三月以下ノ軽禁錮又ハ五十円以下ノ罰金ニ処ス

第二十八条 秘密ノ結社ヲ組織シ又ハ秘密ノ結社ニ加入シタル者ハ六月以上一年以下ノ軽禁錮ニ処ス

第二十九条 第十六条ノ禁止ノ命ニ違背シタル者ハ一月以下ノ軽禁錮又ハ三十円以下ノ罰金ニ処ス

第三十条 削除

第三十一条 第十八条ノ禁ヲ犯シタル者ハ六月以下ノ重禁錮ニ処ス

第三十二条 本法ニ関スル公訴ノ時効ハ六箇月トス

第三十三条 集会及政社法ハ之ヲ廃止ス

                              「官報」より
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 今日は、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、イタイイタイ病の患者・遺族が原因企業の三井金属鉱業に損害賠償を提訴(第1次訴訟)した日です。
 この病気は、大正時代から昭和時代にかけて、富山県の神通川流域で起きた公害病でした。岐阜県神岡町(現在の飛騨市)の三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)から排出されたカドミウム汚染によって、引き起こされ、激痛や病的骨折に襲われて運動不能状態となり、さらに進行すると死に至るもので、1968年(昭和43)に日本の公害病第1号に認定されます。
 患者が「いたい、いたい」と骨の痛みを訴えて死ぬことから「イタイイタイ病」と名付けられ、「公害健康被害補償法」によって認定された患者数は194人(うち死亡者188人)となっていて、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそくと共に四大公害病の一つひとつとされました。
 患者らは三井金属を相手に損害賠償訴訟を起こし、1972年(昭和47)に勝訴し、公害防止協定などに基づき患者への補償、神岡鉱業の環境対策、土壌の復元が進み、2013年(平成25)に被害者団体と企業が「全面解決」で合意します。
 尚、イタイイタイ病裁判の勝利を記念して、1976年(昭和51)5月にイタイイタイ病対策協議会が婦中町萩島(現:富山市婦中町萩島)の被害地域に「清流会館」を建設し、館内にイタイイタイ病の闘いの年表や写真などの資料が展示されていました。これは、2012年(平成24)4月29日に開館した「富山県立イタイイタイ病資料館」へ引き継がれています。

〇イタイイタイ病関係年表

・1955年(昭和30)8月4日 熊野村の開業医の萩野昇が執筆した「イタイイタイ病」を紹介する記事が富山新聞に掲載される
・1957年(昭和32)12月 萩野昇は富山県医学会で「鉱毒説」を発表
・1961年(昭和36)1月 萩野昇と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表する
・1961年(昭和36)12月 富山県が原因究明に乗り出す、
・1963年(昭和38)6月 厚生省及び文部省が独自に原因究明に乗り出す
・1966年(昭和41)11月 被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成する
・1967年(昭和42)3月 富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、患者73人、要観察者150人を認定する
・1968年(昭和43)3月9日 患者や遺族の計28人が原告となって、原因企業の三井金属鉱業に損害賠償を提訴(第1次訴訟)
・1968年(昭和43)5月 イタイイタイ病は政府によって認定された公害病の第1号になる
・1968年(昭和43)10月8日 第2次訴訟提訴(訴訟件数:148件)
・1969年(昭和44)3月10日 第3次訴訟提訴(訴訟件数:14件)
・1969年(昭和44)11月20日 第4次訴訟提訴(訴訟件数:4件)
・1970年(昭和45)2月1日 「健康被害救済法(公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法)」が施行され、公害病患者96名が認定される
・1970年(昭和45)2月20日 第5次訴訟提訴(訴訟件数:13件)
・1971年(昭和46)5月7日 第6次訴訟提訴(訴訟件数:8件)
・1971年(昭和46)6月30日 富山地方裁判所が第1次訴訟の1審判決を下し、原告側の勝訴となるが、三井金属鉱業は即日控訴する
・1971年(昭和46)7月3日 第7次訴訟提訴(訴訟件数:1件)
・1971年(昭和46)7月 第2次~第7次訴訟は併合され、第1次訴訟が出た後に審理が始まる
・1972年(昭和47)8月9日 名古屋高等裁判所金沢支部は被告側の控訴を棄却するとともに、原告側の附帯控訴を認め、慰謝料額を倍増させ、原告側のほぼ全面勝訴となる
・1974年(昭和49)8月 神通川左岸の67.4haが「農用地汚染防止法」に基づく汚染地域に指定される
・1976年(昭和51)5月 イタイイタイ病対策協議会が「清流会館」を建設する
・1979年(昭和54) 汚染地域の土壌復元事業が始まる
・2008年(平成20)10月現在で、イタイイタイ病認定患者は192人となる
・2012年(平成24)3月17日 汚染地域の土壌復元事業が完了する
・2012年(平成24)4月29日 「富山県立イタイイタイ病資料館」が開館する
・2013年(平成25)12月17日 神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会が原因企業の三井金属と全面解決の合意書を交わす
・2014年(平成26)9月末時点で、イタイイタイ病認定患者は198人、要観察者延べ408人となる
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 今日は、江戸時代中期の1708年(宝永5)に、京都で「宝永の大火」が起こり、1万軒以上を焼失した日ですが、新暦では4月28日となります。
 この大火は、3月8日の未明(午の下刻)に油小路通姉小路下る宗林町の銭屋市兵衛宅より出火し、おりからの西南の風にあおられて延焼し、北は今出川通、南は錦小路通、東は鴨川まで417ヶ町に及び、翌日に鎮火しました。
 この結果、禁裏御所(上皇・法皇の御所)・仙洞御所(上皇・法皇の御所)・女院御所・東宮御所など重要な建物を含めて、公家屋敷95軒、家屋1万351軒、寺社119ヶ所、大名屋敷21軒が焼失したとされています。
 京都市街の多くが焼亡したので、復興にあたっては、防火対策を重視し、御所周辺の公家町を拡散、これに伴って、それまでは農地だった鴨川の東岸に、町屋や寺院等を移転させるなどしました。
 これが、現在の京都のもとになる市街地再編になったといわれています。
 その後も、江戸時代中に1788年(天明8年1月30日)の歴史上最大といわれる「天明の大火」、1864年(元治元年7月19日)に「元治の大火」があり、併せて、近世の「京都三大大火」と呼ばれるようになりました。
 しかし、下記のように、江戸の大火と比べると被害は桁違いで、江戸の方が人口が密集し、被害が多大だったことがわかります。

〇江戸時代の大火

・1657年(明暦3年1月18日、19日)江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日)江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830–3,500人
・1708年(宝永5年3月8日)京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日)大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日)江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日)江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日)京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日)江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日)江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日)大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日)大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日)京都の「元治の大火」
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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、青森~函館の青函連絡船が運航を開始した日です。
 これは、青森駅と函館駅間(113km)を結んでいた鉄道連絡船(水上の部分に、鉄道の一線区としての航路を開設し、両岸の鉄道を連絡する船舶)でした。
 明治時代後期の1908年(明治41)3月7日に、鉄道国有化直後の国鉄により開設されます。
 1925年(大正14)より甲板にレールを設けて、客載貨車航送船が就航して、貨車をそのまま航送できるようになりました。
 太平洋戦争中は、空襲によって沈没、損傷などの大きな被害を受け、終戦時には壊滅状態となっていましたが、戦後復興し、1948年(昭和23)には計14隻が就航して、重要な輸送路となります。
 しかし、1954年(昭和29)9月26日に来襲した洞爺丸台風によって、洞爺丸のほか計5隻が遭難沈没して、乗客1,051人職員379人の合計1,430人の死者をだす大惨事を引き起こしました。
 その後は、高度経済成長や旅行ブームによって、1972年(昭和47)には、1日最大30往復もの運航をする最盛期を迎えます。
 ところが、航空機が一般的になって減少に転じ、国鉄民営化後の1988年(昭和63)3月13日に青函トンネルの完成により、JR津軽海峡線が開通したため、1988年(昭和63)9月19日をもって、80年余の歴史を閉じました。
 尚、現在は青森に八甲田丸、函館に摩周丸が保存、展示され、見学できるようになっています。、

〇青函連絡船の略年表

・1908年(明治41)3月7日 - 帝国鉄道庁(国鉄)が青森~函館間定期航路を開設する。
・1925年(大正14)8月1日 - 青森駅~函館駅間で本格車両航送を開始し、車載客船に貨車、荷物車等を直接積載できるようになる。
・1945年(昭和20) - 太平洋戦争中の空襲によって沈没、損傷などの大きな被害を受ける。
・1948年(昭和23) - 計14隻が就航して、重要な輸送路となる。
・1949年(昭和24)5月26日 - 連絡船内にて、売店の営業を開始する。
・1950年(昭和25) 2月3日 - 連絡船内にて、食堂の営業を開始する。
・1954年(昭和29)9月26日 - 洞爺丸台風によって、洞爺丸のほか計5隻が遭難沈没して、乗客1,051人職員379人の合計1,430人の死者を出す。
・1972年(昭和47) - 1日最大30往復もの運航をする最盛期を迎える。
・1987年(昭和62)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継される。
・1988年(昭和63)3月13日 - 青函トンネルの完成によりJR津軽海峡線が開通する。
・1988年(昭和63)9月19日 - 青函連絡船が廃止される。
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 今日は、平安時代前期の803年(延暦22)に、征夷大将軍・坂上田村麻呂に志波城の築城が命令された日ですが、新暦では4月1日となります。
 この城は、現在の岩手県盛岡市の西の郊外の交通の要衝に、征夷大将軍の坂上田村麻呂が造営した古代城柵で、『日本紀略』延暦22(803)年には、越後国から米と塩とを志波城に送ったことが書かれていました。
 蝦夷の首長アテルイ(阿弖流爲、阿弖利爲)を滅ぼした後、朝廷が蝦夷を統治するために設置したものです。陸奥国の最北に位置し、国府の多賀城に劣らない規模を持ち、政治・軍事上の拠点でしたが、雫石川の洪水被害をたびたび受けたため、10年後に主要な機能を南にある徳丹城へ移転しました。
 長らく所在地がはっきりしませんでしたが、東北自動車道建設にともなう、1976年~1977年の発掘調査で、築地塀や大溝、竪穴式住居跡が発見され、1984年(昭和59)に、『日本紀略』に記載のある「志波城」の遺跡として、国の史跡に指定されました。
 発掘の結果、城の外郭は、840m四方の築地塀で囲まれ、その外側に928m四方の堀を設けて2重に区画し、その中に官衙の建物が配され、外郭の外側には兵舎と思われる多数の竪穴住居跡があったことがわかっています。
 現在は、「志波城古代公園」として整備され、外郭南門、築地塀、政庁の南・西・東それぞれの門、官衙建物などが復元されました。復元された官衙建物は、コンピューターグラフィックで当時の姿を鑑賞できる展示室として整備されています。
 また、2015年(平成27)より、ガイダンス施設である「志波城古代公園案内所」と復元竪穴建物が公開開始となりました。

〇東北地方等に造営された主要な城柵一覧

・渟足柵(沼垂郡)647年(大化3)設置
・磐舟柵(岩船郡)648年(大化4)設置
・都岐沙羅柵(不明)設置年不明
・出羽柵(出羽郡) 760年(天平宝字4)頃設置 出羽国府
・秋田城(秋田郡) 760年(天平宝字4)頃設置
・河辺府(河辺郡) 759年(天平宝字3)設置
・雄勝城(雄勝郡) 759年(天平宝字3)設置
・由利柵( 由利郡) 設置年不明
・払田柵(不明) 9世紀初頭設置
・城輪柵(出羽郡?) 9世紀設置。
・多賀城(宮城郡) 724年(神亀元)設置 陸奥国府
・玉造柵(玉造郡) 737年(天平9)頃設置
・色麻柵(色麻郡) 737年(天平9)頃設置
・新田柵(新田郡) 737年(天平9)頃設置
・牡鹿柵(牡鹿郡) 737年(天平9)頃設置
・桃生城(桃生郡) 759年(天平宝字3)設置
・伊治城(伊治郡) 767年(神護景雲元)設置
・覚鱉城(不明) 780年(宝亀11)設置
・胆沢城(胆沢郡) 802年(延暦21)設置
・中山柵(不明) 804年(延暦23)以前設置
・志波城(志波郡) 803年(延暦22)設置
・徳丹城(志波郡) 811年(弘仁2)設置
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