ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、1970年(昭和45)に、東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生した日で、「光化学スモッグの日」とも呼ばれています。
 光化学スモッグは、大気中の窒素酸化物(NO(/x))と炭化水素(HC)が、強い紫外線を受けて高濃度のオゾンを大量に発生させ、次にそれがオキシダントまたは還元性物質であるホルムアルデヒド、アクロレイン、その他硝酸ミスト、硫酸ミストを発生させる現象です。
 人体に害を及ぼし、植物に被害を与える型のスモッグで、最初は、1940年代のアメリカのロサンゼルスで見出されたとされていますが、日本では、昭和時代後期の1970年(昭和45)7月18日に、東京立正中学校・高等学校(東京都杉並区)の生徒43名が、グランドで体育の授業中に目に対する刺激・のどの痛みなどを訴える事件が起こり、光化学スモッグによるものと発表されて知られるようになりました。
 それ以後、多数報告されるようになって、光化学スモッグ注意報も出されるようになり、1973年(昭和48年)には、それが300日を超えてピークに達しました。
 その後、減少してはいるものの、都市部ではまだかなりの日数注意報が出されています。現在は、「大気汚染防止法施行令」で、注意報(基準:0.120ppm以上)と重大緊急時警報(基準:0.400ppm以上)が発令されていますが、各都道府県独自の予報・警報などもあります。
 以下に、その根拠となっている「大気汚染防止法」(抜粋)と「大気汚染防止法施行令」(抜粋)を載せておきます。

〇「大気汚染防止法」(抜粋)

(緊急時の措置)
第二十三条 都道府県知事は、大気の汚染が著しくなり、人の健康又は生活環境に係る被害が生ずるおそれがある場合として政令で定める場合に該当する事態が発生したときは、その事態を一般に周知させるとともに、ばい煙を排出する者、揮発性有機化合物を排出し、若しくは飛散させる者又は自動車の使用者若しくは運転者であつて、当該大気の汚染をさらに著しくするおそれがあると認められるものに対し、ばい煙の排出量若しくは揮発性有機化合物の排出量若しくは飛散の量の減少又は自動車の運行の自主的制限について協力を求めなければならない。
2 都道府県知事は、気象状況の影響により大気の汚染が急激に著しくなり、人の健康又は生活環境に重大な被害が生ずる場合として政令で定める場合に該当する事態が発生したときは、当該事態がばい煙又は揮発性有機化合物に起因する場合にあつては、環境省令で定めるところにより、ばい煙排出者又は揮発性有機化合物排出者に対し、ばい煙量若しくはばい煙濃度又は揮発性有機化合物濃度の減少、ばい煙発生施設又は揮発性有機化合物排出施設の使用の制限その他必要な措置をとるべきことを命じ、当該事態が自動車排出ガスに起因する場合にあつては、都道府県公安委員会に対し、道路交通法 の規定による措置をとるべきことを要請するものとする。

〇「大気汚染防止法施行令」(抜粋)

(緊急時)
第十一条 法第二十三条第一項 の政令で定める場合は、別表第五の上欄に掲げる物質について、それぞれ、同表の中欄に掲げる場合に該当し、かつ、気象条件からみて当該大気の汚染の状態が継続すると認められるときとする。
2 法第二十三条第二項 の政令で定める場合は、別表第五の上欄に掲げる物質について、それぞれ、同表の下欄に掲げる場合に該当し、かつ、気象条件からみて当該大気の汚染の状態が継続すると認められるときとする。

別表第五 (第十一条関係)

オキシダント
 (注意報の基準)一時間値百万分の〇・一二以上である大気の汚染の状態になつた場合
 (警報の基準)一時間値百万分の〇・四以上である大気の汚染の状態になつた場合

備考 この表に規定する一時間値の算定に関し必要な事項並びに浮遊粒子状物質及びオキシダントの範囲は、環境省令で定める。
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、ポツダム会談(ドイツのポツダムで開催)が始まった日です。
 この会談は、1945年(昭和20)7月17日から8月2日に、ドイツのベルリン郊外のポツダムで開かれ、アメリカ合衆国のH.トルーマン、イギリスのW.チャーチル (途中から C.アトリーに交代) 、ソビエト連邦のI.スターリンが出席した巨頭会談です。
 その中で、第2次世界大戦後のドイツの処理問題を話し合い、ポツダム協定で決定をみました。
 また、日本に対しては、降伏条件,戦後処理方式を決定し、中国の同意を得て、7月26日に、アメリカ、イギリス、中国、3ヶ国政府首脳の連名で日本に対して「ポツダム宣言」が出されたのです。正式名称は、「日本への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)」といい、日本の戦争終結条件を示した全13項から成っていました。
 その内容は、軍国主義の除去、領土の限定、武装解除、戦争犯罪人の処罰、日本の民主化、連合国による占領などを規定し、無条件降伏を求めたものです。
 日本政府は、一端は拒否を通告したものの、広島・長崎への原子爆弾の投下、ソ連の参戦を経て、8月14日にこの宣言を受諾しました。
 以下に、「ポツダム宣言」の全文(英語と日本語訳)を掲載しておきます。

〇「ポツダム宣言」(全文)英語
Potsdam Declaration

Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender
Issued, at Potsdam, July 26, 1945
1.We-the President of the United States, the President of the National Government of the Republic of China, and the Prime Minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that Japan shall be given an opportunity to end this war.
2.The prodigious land, sea and air forces of the United States, the British Empire and of China, many times reinforced by their armies and air fleets from the west, are poised to strike the final blows upon Japan. This military power is sustained and inspired by the determination of all the Allied Nations to prosecute the war against Japan until she ceases to resist.
3.The result of the futile and senseless German resistance to the might of the aroused free peoples of the world stands forth in awful clarity as an example to the people of Japan. The might that now converges on Japan is immeasurably greater than that which, when applied to the resisting Nazis, necessarily laid waste to the lands, the industry and the method of life of the whole German people. The full application of our military power, backed by our resolve, will mean the inevitable and complete destruction of the Japanese armed forces and just as inevitably the utter devastation of the Japanese homeland.
4.The time has come for Japan to decide whether she will continue to be controlled by those self-willed militaristic advisers whose unintelligent calculations have brought the Empire of Japan to the threshold of annihilation, or whether she will follow the path of reason.
5.Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
6.There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.
7.Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan's war-making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the Allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth.
8.The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.
9.The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.
10.We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
11.Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese participation in world trade relations shall be permitted.
12.The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.
13.We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

(The Ministry of Foreign Affairs "Nihon Gaiko Nenpyo Narabini Shuyo Bunsho : 1840-1945" vol.2, 1966)

<日本の外務省による訳文>

千九百四十五年七月二十六日
米、英、支三国宣言
(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)

•一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
•二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
•三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ
•四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ
•五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス
•六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
•七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
•八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
•九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
•十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
•十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
•十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
•十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

       外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊より

<現代語訳>

ポツダム宣言

日本に手渡すために用語を定義する宣言
ポツダムに於いて、1945 年 7 月 26 日

1.われわれ、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席、イギリスの総理大臣は、われわれ数億の同胞を代表し、協議の上で、日本はこの戦争を終結する機会を与えられるものと同意した。

2.アメリカ合衆国、大英帝国と中華民国の陸・海・空軍は、何度も西からの陸軍及び航空編隊の補強を受けて巨大になっており、日本に最終的な打撃を加える態勢を整えている。この軍事力は、日本が抵抗をやめるまで、すべての同盟国の決意により持続されている。

3.世界の自由の人々が立ち上がった。無駄、無意味なドイツの抵抗の結果は、極めて明快に日本の人々に例として示されている。今日本に集中するする可能性がある力は、ナチスの抵抗に適用された場合のもの、すなわちドイツの人々の生活、土地、産業全体を破壊するのに必要だった力に比べても計り知れないほどより大きい。われわれの決意に裏付けられた、軍事力をすべて投入すれば、完全に壊滅された日本軍と同じように、日本本土が必然的に、全く荒廃することを意味するだろう。

4.日本帝国は、消滅の淵にあり、その頭の悪く身勝手な軍国主義的な顧問によって制御され続けるのか、それとも理性の道に従うのかどうかを決定する時が来ている。

5.われわれの条件を次に示す。それらから逸脱がないものとする。選択肢はなく、一切の遅延も許さない。

6.日本の人々を惑わさせて、世界征服に乗り出させた影響勢力や権威・権力は、永遠に除去されなければならない。われわれは、無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和・安全・正義の新秩序は実現不可能であると主張する。

7.このような新しい秩序が確立されるまで、日本の戦争遂行能力が破壊されたとの説得力のある証拠があるまで、連合国軍によって指定される日本の領土内の諸地点は、基本的な目的の達成を確保するため占領するものとする。

8.カイロ宣言の条項は実施されなければならないし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国および、われわれの決定する周辺小諸島に限られるものとする。

9.日本軍は、完全に武装を解除された後、彼らの家に戻し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を許可されるものとする。

10.われわれは、日本人を民族として奴隷または国家として破壊するつもりはない。しかし、われわれの捕虜に残虐行為を行った者を含めて、すべての戦争犯罪者には正義による鉄槌が与えられるものとする。日本政府は、日本人の間での民主主義的傾向の強化、復活にあたり、すべての障害物を除去しなければならない。言語、宗教、思想の自由および基本的な人権の尊重が確立されなければならない。

11.日本は、その産業を維持し、経済を持続するが、これらは再戦争を可能にするためのものではなく、正当な賠償の取り立てに充てるものとして許可される。このため、支配と区別して原料の入手は許される。世界貿易関係で将来的な日本の参加は許可するものとする。

12.連合国の占領軍は、これらの目標が達成された後、日本の人々の自由に表現された意志に従って、平和的傾向を帯び、責任ある政府が構築されるにおいては、できるだけ早く日本から撤退するものとする。

13.われわれは、日本政府に対し、すべての日本軍の無条件降伏の宣言を要求し、そのような行動が誠意をもって行われる適切かつ十分な保証を提供するように求める。日本の他の選択肢は、迅速および完全な破壊だけである。

                   *英語の原文より訳しました。
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 今日は、1919年(大正8)に政治家板垣退助の亡くなった日です。
 板垣退助は、1837年(天保8)4月17日、高知城下中島町に生まれました。若い頃は、土佐藩における倒幕派の急先鋒となり、1865年(慶応元)3月京都において薩摩藩士小松帯刀、西郷隆盛らと薩土秘密倒幕同盟を結ぶ立て役者となりました。
 戊辰戦争では土佐藩の大隊指令となり、東山道先鋒総督府参謀を命ぜられて、各地を転戦、会津城攻略においては指揮官として活躍しました。明治維新後は新政府の参議に任じられましたが、征韓論で破れ下野、1874年(明治7)に愛国公党を結成し、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣などと左院に「民撰議院設立建白書」を提出したものの、却下されます。
 また、高知へもどり、立志社を創設、自由民権運動を展開し、リーダー的存在となりました。1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名です。1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残しました。
 1884年(明治17)決断して自由党をいったん解党しましたが、1890年(明治23)の帝国議会開設後には、自由党を再結成して、党総理に就任することになります。
 1896年(明治29)第2次伊藤内閣の内務大臣となり、1898年(明治31)には、大隈重信と隈板内閣をつくり、内務大臣に就任しました。
 1900年(明治33)、立憲政友会の創立とともに政界を引退し、その後は社会改良運動につくしましたが、1919年(大正8)7月16日、83才で死去しています。「高知市立自由民権記念館」詳しい展示コーナーがあります。

〇「民撰議院設立建白書」とは?
 明治時代前期の1874年(明治7)1月17日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、由利公正、岡本健三郎、古沢滋、小室信夫の8名が署名し、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書です。
 自由民権運動の発端となった歴史的文書で、藩閥専制の弊害を批判し、国民が幸福を享受すべきことを訴えて、民撰議院(国会)の一日も早い開設を要請したものでした。
 当時の政府などは時期尚早と反対しましたが、自由民権の考え方は、徐々に国民各層に浸透していくことになります。

☆「民撰議院設立建白書」(全文)

 某等別紙奉建言候次第、平生ノ持論ニシテ、某等在官中屡及建言侯者モ有之候処、欧米同盟各国へ大使御派出ノ上、実地ノ景況ヲモ御目撃ニ相成、其上事宜斟酌施設可相成トノ御評議モ有之。然ルニ最早)大使御帰朝以来既ニ数月ヲ閲シ侯得共、何等ノ御施設モ拝承不仕、昨今民心洶々上下相疑、動スレバ土崩瓦解ノ兆無之トモ難申勢ニ立至侯義、畢竟天下輿論公議ノ壅塞スル故卜実以残念ノ至ニ奉存侯。此段宜敷御評議ヲ可被遂侯也。

明治七年一月十七日

 高知縣貫屬士族  古 澤 迂 郎
 高知縣貫屬士族  岡 本 健 三 郎
 名東縣貫屬士族  小 室 信 夫
 敦賀縣貫屬士族  由 利 公 正
 佐賀縣貫屬士族  江 藤 新 平
 高知縣貫屬士族  板 垣 退 助
 東京府貫屬士族  後 藤 象 二 郎
 佐賀縣貫屬士族  副 島 種 臣

 左 院 御中

 臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司(=維新政府顕官)ニ帰ス。夫有司、上帝室ヲ尊ブト曰ザルニハ非ズ、而帝室漸ク其尊栄ヲ失フ、下人民ヲ保ツト曰ザルニハ非ラズ、而政令百端、朝出暮改、政刑情実ニ成リ、賞罰愛憎ニ出ヅ、言路壅蔽、困苦告ルナシ。夫如是ニシテ天下ノ治安ナラン事ヲ欲ス、三尺ノ童子モ猶其不可ナルヲ知ル。因仍改メズ、恐クハ国家土崩ノ勢ヲ致サン。臣等愛国ノ情自ラ已ム能ハズ、乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已。則有司ノ権限ル所アツテ、而上下其安全幸福ヲ受ル者アラン。請、遂ニ之ヲ陳ゼン。

 夫人民、政府ニ対シテ租税ヲ払フノ義務アル者ハ、乃チ其政府ノ事ヲ与知可否スルノ権理ヲ有ス。是天下ノ通論ニシテ、復喋々臣等ノ之ヲ贅言スルヲ待ザル者ナリ。故ニ臣等窃ニ願フ、有司亦是大理ニ抗抵セザラン事ヲ。今民撰議院ヲ立ルノ議ヲ拒ム者曰、我民不学無智、未ダ開明ノ域ニ進マズ、故〔ニ〕今日民撰議院ヲ立ル尚応サニ早カル可シト。臣等以為ラク、若果シテ真ニ其謂フ所ノ如キ乎。則之ヲシテ学且智而急ニ開明ノ域ニ進マシムルノ道、即民撰議院ヲ立ルニ在リ。何トナレバ則今日我人民ヲシテ学且智ニ開明ノ域ニ進マシメントス、先其通義権理ヲ保護セシメ、之ヲシテ自尊自重、天下ト憂楽ヲ共ニスルノ気象ヲ起サシメズンバアル可カラズ。自尊自重、天下ト憂楽ヲ共ニスルノ気象ヲ起サシメントスルハ、之ヲシテ天下ノ事ニ与ラシムルニ在リ。如是シテ、人民其固陋ニ安ジ、不学無智自ラ甘ンズル者未ダ之有ラザルナリ。而シテ今其自ラ学且智ニシテ自其開明ノ域ニ入ルヲ待ツ。是殆ド百年河清ヲ待ツノ類ナリ。甚シキハ則、今遽カニ議院ヲ立ルハ是レ天下ノ愚ヲ集ムルニ過ザルノミト謂ニ至ル。噫何自傲ノ太甚シク、而其人民ヲ視ルノ蔑如タルヤ。有司中智巧固り人ニ過グル者アラン。然レ共安ンゾ学問有識ノ人世復諸人ニ過グル者アラザルヲ知ランヤ。蓋シ天下ノ人如是蔑視ス可ラザルナリ。若シ将タ蔑視ス可キ者トセバ、有司亦其中ノ一人ナラズヤ。然ラバ則均シク是不学無識ナリ。僅々有司ノ専裁ト人民ノ輿論公議ヲ張ルト、其賢愚不肖果シテ如何ゾヤ。臣等謂フ、有司ノ智亦之ヲ維新以前ニ視ル、必ラズ其進シ者アラン。何トナレバ則、人間ノ智識ナル者ハ必ラズ其之ヲ用ルニ従テ進ム者ナレバナリ。故ニ曰ク、民撰議院ヲ立ツ、是即チ人民ヲシテ学且智ニ、而シテ急ニ開明ノ域ニ進マシムルノ道也。

 且夫政府ノ職、其宜シク奉ジテ以テ目的トナス可キ者、人民ヲシテ進歩スルヲ得セシムルニ在り。故ニ草昧ノ世、野蛮ノ俗、其民勇猛暴悍、而シテ従フ所ヲ知ラズ。是時ニ方ツテ、政府ノ職固リ之ヲシテ従フ所ヲ知ラシムルニ在リ。今我国既ニ草昧ニ非ラズ、而シテ我人民ノ従馴ナル者既ニ過甚トス。然ラバ則、今日我政府ノ宜シク以テ其目的トナス可キ者、則民撰議院ヲ立テ、我人民ヲシテ其敢為ノ気ヲ起シ、天下ヲ分任スルノ義務ヲ弁知シ、天下ノ事ニ参与シ得セシムルニ在リ。則闔国ノ人皆同心ナリ。

 夫政府ノ強キ者、何ヲ以テ之ヲ致スヤ。天下人民皆同心ナレバ也。臣等必ラズ遠ク旧事ヲ引イテ之ヲ証セズ、且昨十月政府ノ変革ニ就イテ之ヲ験ス。岌々乎其危哉。我政府ノ孤立スルヤ何ゾヤ。昨十月政府ノ変革、天下人民ノ之ガ為メニ喜戚セシ者幾カアル。啻之ガ為メニ喜戚セザルノミナラズ、天下人民ノ茫トシテ之ヲ知ラザル者十ニシテ八九ニ居ル。唯兵隊ノ解散ニ驚ク而已。今民撰議院ヲ立ルハ則政府人民ノ間、情実融通、而相共ニ合テ一体トナリ、国始メテ可以強、政府始メテ可以強キナリ。

 臣等既ニ天下ノ大理ニ就イテ之ヲ究メ、我国今日ノ勢ニ就イテ之ヲ実ニシ、政府ノ職ニ就イテ之ヲ論ジ、及昨十月政府ノ変革ニ就イテ之ヲ験ス。而臣等ノ自ラ臣等ノ説ヲ信ズルコト愈篤ク、切ニ謂フ、今日天下ヲ維持振起スルノ道、唯民撰議院ヲ立而シテ天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。其方法等ノ議ノ如キ、臣等必ラズ之ヲ茲ニ言ハズ。蓋シ十数枚紙ノ能ク之ヲ尽ス者ニアラザレバ也。但臣等窃ニ聞ク、今日有司持重ノ説ニ藉リ、事多ク因循ヲ務メ、世ノ改革ヲ言フ者ヲ目シテ軽々進歩トシ、而シテ之ヲ拒ムニ尚早キノ二字ヲ以テスト。臣等請、亦弁之ゼン。

 夫軽々進歩卜云フ者、固リ臣等ノ所不解、若果シテ事倉猝ニ出ル者ヲ以テ軽々進歩トスル乎、民撰議院ナル者ハ以テ事ヲ鄭重ニスル所ノ者ナリ。各省不和而変更ノ際、事本末緩急ノ序ヲ失シ、彼此ノ施設相視ザル者ヲ以テ軽々進歩トスル乎、是国ニ定律ナク、有司任意放行スレバナリ。是二者アラバ、則適ニ其民撰議院ノ立ズンバアル可カラザルノ所以ヲ証スルヲ見ルノミ。夫進歩ナル者ハ天下ノ至美ナリ、事々物々進歩セズンバアル可カラズ。然ラバ則、有司必ラズ進歩ノ二字ヲ罪スル能ハズ。其罪スル所、必ラズ軽々ノ二字ニ止ラン。軽々ノ二字、民撰議院卜曾テ相関渉セザル也。

 尚早キノ二字ノ民撰議院ヲ立ルニ於ケル、臣等啻ニ之ヲ解セザル而已ナラズ、臣等ノ見正ニ之卜相反ス。如何トナレバ、今日民撰議院ヲ立ツモ、尚恐クハ歳月ノ久シキヲ待チ而後始メテ其十分完備ヲ期スルニ至ラン。故ニ臣等一日モ唯其立ツコトノ晩カランコトヲ懼ル。故ニ曰、臣等唯其反対ヲ見ル而已。

 有司ノ説又謂フ、欧米各国今日ノ議院ナル者ハ一朝一夕ニ設立セシノ議院ニ非ラズ、其進歩ノ漸ヲ以テ之ヲ致セシ者ノミ故、我今日俄ニ之ヲ模スルヲ得ズト。夫レ進歩ノ漸ヲ以テ之ヲ致セシ者、豈独リ議院ノミナランヤ、凡百学問技術機械皆然ルナリ。然ニ彼レ数百年ノ久シキヲ積ンデ之ヲ致セシ者ハ、蓋シ前ニ成規ナク皆自ラ之ヲ経験発明セシナレバナリ。今我其成規ヲ択ンデ之ヲ取ラバ、何企テ及ブ可カラザランヤ。若我自ラ蒸気ノ理ヲ発明スルヲ待チ然後我始メテ蒸気機械ヲ用ルヲ得可ク、電気ノ理ヲ発明スルヲ待チ然後我始メテ電信ノ線ヲ架スルヲ得可キトスル乎、政府ハ応ニ手ヲ下スノ事ナカル可シ。

 臣等既ニ已ニ今日我国民撰議院ヲ立テズンバアル可カラザルノ所以、及今日我国人民進歩ノ度能ク斯議院ヲ立ルニ堪ルコトヲ弁論スル者ハ、則有司ノ之ヲ拒ム者ヲシテ口ニ藉スル所ナカラシメントスルニハ非ラズ。斯議院ヲ立、天下ノ公論ヲ伸張シ、人民ノ通義権理ヲ立テ、天下ノ元気ヲ鼓舞シ、以テ上下親近シ、君臣相愛シ、我帝国ヲ維持振起シ、幸福安全ヲ保護センコトヲ欲シテ也。請、幸ニ之ヲ択ビ玉ンコトヲ。

           国立公文書館蔵『諸建白書 明治七年従一月至四月』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、段落を分けて句読点を付してあります。
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 今日は、明治時代前期の1878年(明治11)に、箱根の「富士屋ホテル」が開業した日です。
 このホテルは、神奈川県足柄下郡箱根町の宮ノ下温泉にある日本のホテルの草分けです。
 その後、外国人専門の洋式ホテルとして、箱根を国際観光地として発展させる先駆的役割を果たしました。開業時の建物は木造3階建てで、疑洋風建築でしたが、惜しくも1883年(明治16)の宮ノ下大火にあって全焼してしまいます。しかし、翌年には本格的な洋風建築として立て替えられ、その後、移築や内部改装されたものの現存して、営業を続けているのです。
 箱根には旧東海道沿いに古来から温泉が湧いていて、湯治場としてにぎわっていました。江戸時代には箱根7湯といわれて、繁栄していましたが、明治の文明開化以後、街道から鉄道へ交通体系が変わりつつあり、諸分野で、近代化が求められるようになってきました。
 その中、日本にたくさん来るようになってきた外国人に目をつけ、7湯のひとつ宮ノ下温泉に、外国人専門の洋式ホテルとして開業したものです。
 尚、1997年(平成9)に、主要な建物が国の登録有形文化財になり、2007年(平成19)には、近代化産業遺産群「富士屋ホテルと箱根観光関連遺産」に認定されました。

〇「富士屋ホテル」の沿革
・1878年(明治11)7月15日:山口仙之助が藤屋旅館を買収・改装して開業する。
・1883年(明治16):火災により焼失。
・1884年(明治17):平屋建て客室12室として再建される。
・1891年(明治24):本館が竣工する。
・1893年(明治26):外国人専用ホテルとなる(~1912年まで)。
・1931年(昭和6):タイ王国国王と王妃が滞在する。
・1932年(昭和7):チャールズ・チャップリンが来館する。
・1936年(昭和11):花御殿が竣工する。
・1937年(昭和12):ヘレン・ケラーが、花御殿に宿泊する。
・1945年(昭和20):連合国軍のレストホテルとして接収される。
・1946年(昭和21):高松宮家別邸(旧宮ノ下御用邸)の払い下げを受け、菊華荘とする。
・1950年(昭和25):政府登録国際観光旅館となる。
・1954年(昭和29):一般自由営業を再開する。
・1965年(昭和40):昭和天皇が宿泊する。
・1966年(昭和41):国際興業グループに株を譲渡され、山口一族による経営が終わる。
・1997年(平成9):本館、一号館、二号館、アイリー、花御殿、食堂、菊華荘が登録有形文化財となる。
・2007年(平成19):本館、西洋館、食堂棟、花御殿、カスケードルーム、厨房が近代化産業遺産群になる。
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 今日は、幕末明治維新期の1871年(明治4)に、廃藩置県の詔が出された日です。(新暦では8月29日)
 これは、明治政府が中央集権化を図るために、それまでの全国261の藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した政治改革です。
 その時、在東京の知藩事を皇居に集めて、「廃藩置県の詔」によって命じたのですが、その結果3府302県ができたものの、年末までには合併整理されて、3府72県となりました。
 それまでの藩知事はすべて華族に列して、東京に住まわせ、県には政府から別に任命した知事を送ったのです。その後、県の増減がありましたが、1988年(明治21)に3府43県となって固定しました。
 以下に、「廃藩置県の詔」(全文)と現代語訳を掲載しておきます。

〇「廃藩置県の詔」(全文)
朕惟フニ、更始ノ時ニ際シ、内以テ億兆ヲ保安シ、外以テ万国ト対峙セント欲セハ、宜ク名実相副ヒ、政令一ニ帰セシムヘシ。朕曩ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ、新ニ知藩事を命シ、各其職ヲ奉セシム。然ルニ数百年因襲ノ久キ、或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ。何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対峙スルヲ得ンヤ。朕深ク之ヲ慨ス。仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス。是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ、有名無実ノ弊ヲ除キ、政令多岐ノ憂無ラシメントス。汝群臣其レ朕意ヲ体セヨ。
                「法令全書」より

<現代語訳>
私(明治天皇)が思うに、この明治維新に際して、内は国民を守り、外では列国と対等に向き合うとすれば、名実ともに政令が一本化し集権化されていなければならない。私はさきに版籍奉還を許可し、新たに知藩事を命じて職務に就かせた。ところが数百年来の封建制の伝統が続き、名のみでその実があがらない者もいる。これではどうして国民を守り、列国と対等に向き合っていけようか。私は深くこれをなげかわしく思うものである。そこで今、さらに藩を廃して県を置く。これはできるだけ無駄を省いて簡素化し、有名無実の弊害を除き、政令が多方面から出る弊害をなくすためである。お前たち臣下の者は、私の真意を諒解してほしい。
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