ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代後期の1982年(昭和57)に、中央自動車道の勝沼インターチェンジ~ 甲府昭和インターチェンジ間が開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市がつながった日です。
 中央自動車道は、東京都杉並区と愛知県小牧市を結ぶ本線と山梨県大月市で分岐し富士吉田市を結ぶ(富士吉田線)からなる高速道路でした。高井戸インターチェンジ~小牧ジャンクション間(本線)が344.9km、大月ジャンクション~富士吉田インターチェンジ間が23.5kmとなっていて、現在は中日本高速道路(NEXCO中日本)が管理・営業しています。
 この高速道路の構想は、1953年(昭和28)に、「国土開発中央自動車道事業法案」が議員立法されるときに始まりますが、法令としては、1957年(昭和32)に「国土開発縦貫自動車道建設法」が制定されて定められました。
 その後、1960年(昭和35)に「国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律」が制定されて、予定路線が決められましたが、起点が東京都、終点が吹田市とされ、現在のルートとは大きく異なる南アルプスを貫通するものになります。
 それに基づいて、1962年(昭和37)に、東京都杉並区から富士吉田市までの区間が先行着工されたものの、工事が難しいとの理由から、1964年(昭和39年)に「国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律」改正案が成立して、現在の長野県岡谷市を経由する路線ルートに変更されました。
 そして、1966年(昭和41)の「国土開発縦貫自動車道建設法」改正により、富士吉田線(東京都杉並区~山梨県富士吉田市)、西宮線(山梨県大月市~兵庫県西宮市)、長野線(長野県岡谷市~千曲市)の3路線とされました。その後、順次工事が進められて、富士吉田線は1976年(昭和51)に全通、西宮線は1982年(昭和57)に、長野線は1993年(平成5)に全通しています。
 しかし、現在一般には、小牧ジャンクション~小牧インターチェンジは東名高速道路、小牧インターチェンジ~西宮インターチェンジは名神高速道路、長野線・岡谷ジャンクション~更埴ジャンクションは長野自動車道、更埴ジャンクション~須坂長野東インターチェンジは関越自動車道上越線(上信越自動車道)と呼ばれるようになりました。

〇「中央自動車道」の全線開通までの足取り
・1957年(昭和32)4月16日 : 「国土開発縦貫自動車道建設法」が制定され、法令で中央道が定められる。
・1960年(昭和35)7月25日 : 「国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律」が制定される。
・1962年(昭和37)3月31日 : 東京都杉並区から富士吉田市までの基本計画が定められる。
・1962年(昭和37)5月7日 : 富士吉田線の整備計画が定められる。
・1964年(昭和39)6月16日 : 「国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律」が改正される。
・1966年(昭和41)7月1日 : 「国土開発縦貫自動車道建設法」改正で、富士吉田線、西宮線、長野線の3路線とされる。
・1967年(昭和42)12月2日 : 調布IC~八王子IC工事完了。
・1967年(昭和42)12月15日 : 調布IC~八王子IC開通。
・1968年(昭和43)12月20日 : 八王子IC~相模湖IC開通。
・1969年(昭和44)3月17日 : 相模湖IC~河口湖IC開通。
・1972年(昭和47)10月5日 : 多治見IC~小牧JCT開通により、東名高速道路と接続。
・1973年(昭和48)4月20日 : 八王子IC~相模湖IC4車線化。
・1973年(昭和48)9月6日 : 瑞浪IC~多治見IC開通。
・1973年(昭和48)12月19日 : 相模湖IC~大月IC4車線化。
・1975年(昭和50)3月5日 : 中津川IC~瑞浪IC開通。
・1975年(昭和50)8月23日 : 駒ヶ根IC~中津川IC開通(内、網掛トンネル・恵那山トンネル区間は暫定2車線供用)。
・1976年(昭和51)5月18日 : 高井戸IC~調布IC開通。
・1976年(昭和51)9月18日 : 伊北(辰野)仮出入口~駒ヶ根IC開通。
・1976年(昭和51)12月19日 : 韮崎IC~小淵沢IC開通。
・1977年(昭和52)12月20日 : 大月JCT~勝沼IC開通。
・1979年(昭和54)11月16日 : 小牧東IC開通。
・1980年(昭和55)3月26日 : 甲府昭和IC~韮崎IC開通。
・1981年(昭和56)3月30日 : 小淵沢IC~伊北(辰野)仮出入口開通。伊北(辰野)仮出入口を閉鎖。
・1982年(昭和57)9月20日 : ハーフJCTだった大月JCTをフルJCT化。
・1982年(昭和57)11月10日 : 勝沼IC~甲府昭和ICが開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市が繋がる。
・1984年(昭和59)11月30日 : 大月JCT~河口湖ICの4車線化。都留IC(大月方面からの出口)開通。
・1985年(昭和60)3月27日 : 網掛トンネル・恵那山トンネルの2期トンネル開通し4車線化。
・1986年(昭和61) 3月25日 : 岡谷JCT~岡谷IC開通。
・1986年(昭和61)9月27日 : 長坂IC開通。
・1988年(昭和63)3月5日 : 岡谷IC - 松本IC間開通。岡谷JCT~岡谷IC間を長野道に編入。
・1988年(昭和63)8月3日 : 松本IC~豊科IC(現・安曇野IC)間開通。
・1989年(平成元)9月27日 : 上野原IC開通。
・1992年(平成4年)3月25日 : 園原IC開通。
・1993年(平成5)3月25日 : 豊科IC~更埴JCT間開通によって長野線が開通し、上信越道と接続。
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 今日は、昭和時代中期の1963年(昭和38)に、三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)で粉塵爆発が起き、死者458人、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出した日です。
 この日の午後3時12分に、第1斜坑で石炭を満載した炭車の連結器が破断して炭車が暴走し、坑内に積もっていた炭塵が舞い上がって、それに引火爆発しました。
 当時坑内には、約1,400人の労働者が従事していて、458人が死亡(爆死20人、一酸化炭素中毒死438人)し、救出された940人の内、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出しましたが、犠牲者数は戦後日本の炭坑爆発事故中最大のものです。

〇三池炭鉱とは?
 福岡県大牟田市に、平成時代の1997年(平成9)まであった炭鉱です。この地での石炭掘削の歴史は古く、室町時代には発見されていたと伝えられ、江戸時代には、三池藩の直轄で行われていたのです。
 明治維新後の1873年(明治6)には、工部省がこれらの炭鉱の官有を決定して、開発してきました。しかし、1889年(明治22)に民間に払い下げられて、三井財閥の所有する所となり、かの団琢磨が技師として、腕を振るい、かつての大炭坑地帯を形成したのです。
 太平洋戦争後、石炭産業が斜陽化していく中で、1959年(昭和34)に三井三池争議が勃発して、大きな社会問題となりました。1963年(昭和38)には、三川鉱で爆発事故が発生して 458人の犠牲者を出したことが知られています。
 その後、石炭需要の減少により、1997年(平成9)3月30日閉山するに至りました。
 閉山後、関連施設が国の重要文化財や史跡に指定されています。また、2007年(平成19)11月30日に経済産業省により、近代化産業遺産として三池炭鉱関連遺産が認定されました。
 さらに、宮原坑と万田坑は、2015年(平成27)に「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産の文化遺産に登録されています。

☆日本の主な炭鉱事故

・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者243人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者276人]
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者101人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1916年 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者376人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天竜坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者61人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]
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 今日は、明治時代後期の1894年(明治27)に、戯作者・新聞記者仮名垣魯文の亡くなった日です。
 仮名垣魯文は、江戸時代後期の1829年2月9日(文政12年1月6日)に、江戸京橋(現在の東京都中央区)で魚屋を営む父野崎佐吉の子として生まれ、本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉と言いました。
 幼少期から奉公に出され、その先で戯作に興味を持つようになり、好きをつのらせ、18歳の時に戯作者花笠魯介文京の弟子となります。
 1849年(嘉永2)の19歳の時に名弘めの摺物「名聞面赤本」を書き、1855年(安政2)に起こった安政大地震のルポルタージュ『安政見聞誌』で注目されます。
 1860年(万延元)から翌年にかけて出した滑稽本『滑稽富士詣』で認められ、戯作者としての地位を得ました。
 明治時代になって、『西洋道中膝栗毛』 (1870~76年) 、『安愚楽鍋 』(1871~72年)などの開化風俗を描く滑稽本の代表作家となります。
 1872年(明治5)の敬神愛国などを謳った「三条の教憲」公布後はしばらく執筆を控えていましたが、その後、戯作者からジャーナリストへ転身し、1874年(明治7)からは『横浜毎日新聞』の雑報記者となりました。
 翌年には、自ら編集者として『仮名読新聞』を創刊、新聞小説の土台を築き、新聞の続き物を草双紙化した「高橋阿伝夜刃譚」などの毒婦・悪婦もので読者を魅了します。
 次いで『いろは新聞』の社長となり、1884年(明治17)には『今日新聞』を創刊し主筆となりましたが、1894年(明治27)11月8日に、66歳で亡くなりました。

〇仮名垣魯文の主要な作品
・「安政風聞集」(1856年)
・「仮名読八犬伝」(-1867年)
・「薄緑娘白浪」(1868-72年頃)
・「報讐殿下茶屋聚」(1868年)
・「西洋道中膝栗毛」(1870-76年)
・「安愚楽鍋」(1871年)
・「松飾徳若譚」(1871年)
・「胡瓜遣」(1872年)
・「世界都路」(1872年)
・「西洋器会」(1872年)
・「倭国字西洋文庫」(1872年)
・「蛸之入道魚説教」(1872年)
・「黄金花猫目鬘」(1872年)
・「三教則の捷径」(1873年)
・「佐賀電信録」(1874年)
・「格蘭氏伝倭文賞」(1879年)
・「高橋阿伝夜叉譚」(1879年)
・「葉武列土倭錦絵」(1886年)
・「毒婦の行末」(1889年)
・「甲府地名くらべ」(?)
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 今日は、南北朝時代の1336年(延元元/建武3)に、足利尊氏が室町幕府の基本的な政治方針「建武式目」を制定した日ですが、新暦では12月10日となります。
 これは、足利尊氏が中原是円・真恵らに諮問して政治方針をまとめさせて発布した 17箇条からなる武家法でした。
 後醍醐天皇の建武政権を破って、新しい武家政権を打ち立てるために制定した政治方針の要綱です。
 内容は、前文では、「幕府の所在地を鎌倉に置くか他所に移すか。」、本文17箇条では、「どのような法理によって政道を進めていくか。」の2部構成となっていました。
 条文が17であることは、聖徳太子の十七条憲法を意識したものであると言われています。

〇建武式目 (全文) 1336年(延元元/建武3年11月7日)足利尊氏が発布

建武式目の条々

鎌倉元のごとく柳営たるべきか、他所たるべきや否やの事
 右、漢家本朝、上古の儀遷移これ多く、羅縷に遑あらず。季世に迄り、煩擾あるによつて、移徙容易ならざるか。なかんづく鎌倉郡は、文治に右幕下はじめて武館を構へ、承久に義時朝臣天下を併呑す。武家に於ては、もつとも吉土と謂ふべきか。ここに禄多く権重く、驕を極め欲をほしいままにし、悪を積みて改めず。果たして滅亡せしめ了んぬ。たとひ他所たりといへども、近代覆車の轍を改めずば、傾危なんの疑ひあるべけんや。それ周・秦ともに崤函に宅するなり。秦は二世にして滅び、周は八百の祚を闡く。隋・唐おなじく長安に居するなり。隋は二代にして亡び、唐は三百の業を興す。しからば居処の興廃は、政道の善悪によるべし。これ人凶は宅凶にあらざるの謂なり。ただし、諸人もし遷移せんと欲せば、衆人の情にしたがふべきか。

政道の事
 右、時を量り制を設く。和漢の間、なんの法を用ひらるべきか。まづ武家全盛の跡を逐ひ、もつとも善政を施さるべきか。しからば宿老・評定衆・公人等済々たり。故実を訪はんに於て、なんの不足あるべきか。古典に曰く、徳はこれ嘉政、政は民を安んずるにありと云々。早く万人の愁を休むるの儀、速かに御沙汰あるべきか。その最要あらあら左に註す。
一 倹約を行はるべき事
 近日婆佐羅と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍・精好銀剣・風流服飾、目を驚かさざるはなし。頗る物狂と謂ふべきか。富者はいよいよこれを誇り、貧者は及ばざるを恥づ。俗の凋弊これより甚だしきはなし。もつとも厳制あるべきか。
一 群飲佚遊を制せらるべき事
 格条のごとくば、厳制ことに重し。あまつさへ好女の色に耽り、博奕の業に及ぶ。このほかまた、或は茶寄合と号し、或は連歌会と称して、莫太の賭に及ぶ。その費勝計し難きものか。
一 狼藉を鎮めらるべき事
 昼打入り、夜強盗、処々の屠殺、辻々の引剥、叫喚さらに断絶なし。もつとも警固の御沙汰あるべきか。
一 私宅の点定を止めらるべき事
 尩弱の微力を励まして、構へ造るの私宅、たちまち点定せられ、また壊ち取らるるの間、身を隠すに所なし。即ち浮浪せしめ、つひに活計を失ふ。もつとも不便の次第なり。
一 京中の空地、本主に返さるべき事
 当時のごとくば、京中の過半は空地たり。早く本主に返され、造作を許さるべきか。巷説のごとくば、今度山上の臨幸扈従の人、上下を論ぜず、虚実をいはず、大略没収せらると云々。律条のごとくば、謀反逆叛の人、協同と駈率と罪名同じからざるか。もつとも尋ね究められ、差異あるべきか。およそ承久没収の地、その数あらんか。今またことごとく召し放たれば、公家被官の仁、いよいよ牢籠すべきか。
一 無尽銭・土倉を興行せらるべき事
 或は莫太の課役を充て召され、或は打入りを制せられざるの間、已に断絶せしむるか。貴賤の急用たちまち闕如せしめ、貧乏の活計いよいよ治術を失ふ。いそぎ興行の儀あらば、諸人安堵の基たるべきか。
一 諸国の守護人、ことに政務の器用を択ばるべき事
 当時のごとくば、軍忠に募りて、守護職に補せらるるか。恩賞を行はるべくば、庄園を充て給ふべきか。守護職は上古の吏務なり。国中の治否ただこの職による。もつとも器用を補せられば、撫民の儀に叶ふべきか。
一 権貴ならびに女姓・禅律僧の口入を止めらるべき事
一 公人の緩怠を誡めらるべし。ならびに精撰あるべき事
 この両条代々の制法たり。さらに新儀にあらず。
一 固く賄貨を止めらるべき事
 この条また今に始まらずといへども、ことに厳密の御沙汰あるべし。仮令百文の分際たりといへども、賄賂をなさば、永くその人を召し仕はるべからず。過分たらば、生涯を失はるべきか。
一 殿中内外に付き諸方の進物を返さるべき事
 上の好む所、下必ずこれに随ふ。もつとも精廉の化を行はるべし。
 次に唐物已下の珍奇、ことに賞翫の儀あるべからざるものなり。
一 近習の者を選ばるべき事
 その君を知らずばその臣を見よ、その人を知らずばその友を見よと云々。しからば君の善悪は、必ず臣下により、即ち顕はるるものなり。もつともその器用を択ばるべきか。また党類を結び、互に毀誉を成す。闘乱の基、何事かこれにしかん。漢家本朝この儀多し。或は衣裳、或は能芸已下、好翫をもつて体となし、おのおの心底ことごとく相叶ふものか。違犯の輩に於ては、近辺に召し仕はるべからず。もつとも遠慮あるべきか。
一 礼節を専らにすべき事
 国を理むるの要、礼を好むに過ぐるなし。君に君礼あるべし、臣に臣礼あるべし。およそ上下おのおの分際を守り、言行必ず礼儀を専らにすべきか。
一 廉義の名誉あらば、ことに優賞せらるべき事
 これ善人を進め悪人を退くるの道なり。もつとも褒貶の御沙汰あるべきか。
一 貧弱の輩の訴訟を聞し食さるべき事
 堯舜の政、これをもつて最となす。尚書のごとくば、凡人の軽んずる所、聖人の重んずる所と云々、ことに御意に懸けらるべきなり。御憐愍はすべからく貧家の輩に在るべし。彼等の愁訴を聞し食し入れらるる事、御沙汰の専一たるか。
一 寺社の訴訟、事によつて用捨あるべき事
 或は威猛を振ひ、或は興隆と号し、または奇瑞を耀かし、または御祈と称す。かくのごときの類、もつとも御沙汰を尽くさるべきなり。
一 御沙汰の式日・時刻を定めらるべき事
 諸人の愁、緩怠に過ぐるはなし。また事を早速に寄せ、淵底を究めずば然るべからず。彼といひ此といひ、所詮人愁なきの様、御沙汰あるべきなり。
以前十七箇条、大概かくのごとし。是円李曹の余胤を受くるといへども、すでに草野の庸愚たり。忝くも政道治否の諮詢を蒙り、和漢古今の訓謨をひろふ所なり。方今諸国の干戈いまだ止まらず。もつとも跼蹐あるべきか。古人曰く、安きに居てなほ危ふきを思ふと。今危ふきに居てなんぞ危ふきを思はざるや。恐るべきはこの時なり。慎むべきは近き日なり。遠くは延喜・天暦両聖の徳化を訪ひ、近くは義時・泰時父子の行状をもつて、近代の師となす。ことに万人帰仰の政道を施されば、四海安全の基たるべきか。よつて言上件のごとし。

 建武三年十一月七日
          真 恵
          是 円
  人衆
 前民部卿     是円
 真恵       玄恵法印
 太宰少弐     明石民部大夫
 太田七郎左衛門尉 布施彦三郎入道

                       『中世政治社会思想』(上)より

         *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<現代語訳>

建武式目の条々

鎌倉を元のように幕府の所在地とするべきか、他所に移すべきかどうかの事
 右のことは、中国と日本において、その昔は政治の中心地が移りかわることが多く、じっくりと政治を行う時間の余裕がなかった。末世にいたり、わずらわしいほど乱れることによつて、移転することが容易ではなかったのであろう。特に鎌倉郡は、文治年間に源頼朝がはじめて幕府の館を構へ、承久の乱の勝利で北条義時が天下を一つに合わせて従えることとなった。武家にとっては、もつとも縁起の良い土地といえるだろう。しかし、得宗領などを拡大し、幕府の主要権力を独占し、得意になって威張ることを極めて欲望をほしいままにし、悪事を重ねて改めなかった。従って、予想通り滅亡したのである。たとえ他所に移したとしても、近年の北条氏のような失政を改めなかったならば、政権が傾むく危険があることに何の疑ひがあるだろうか。さて周・秦ともに堅固な地形に拠って本拠を構えていた。しかし、秦は二世にして滅び、周は多くのさいわいをひらいた。隋・唐は、同じように長安に本拠を構えていた。しかし、隋は二代にして亡び、唐は多くの業績を興した。だから、幕府の所在地が栄えるか衰えるかは、政治が良いか悪いかによるのである。これは、人の運命の吉凶は、住居の吉凶によるものではないという意味である。ただし、人々がもし幕府を鎌倉から京都へ移すことを要望するならば、大勢の人々の意向に従うべきであろう。

政治のあり方の事
 右のことは、時代に適応した法律制度を作るということである。日本・中国の様々な法律の中からどのような法を用いるのが良いのだろうか。先ず武家政治の全盛時代、つまり北条義時・泰時の執権政治の全盛時代の事績を踏襲して、善政を行うことが肝要であろう。そうであるならば、旧幕府の重臣・評定衆・下級役人などが健在である。儀式・法令・作法などの故例を調査するにおいて、なんの不足があろうか、ないはずである。古典には、「徳とはこれ良い政治、政治の基本は民を安定させるにある」と言っている。早く万人の不安をなくす方策を早急に処置するべきであろう。その要点の概要を左に記す。
一 倹約をするべき事
 近頃、見栄を張って派手に遠慮なく振る舞ったり、特に分に過ぎた華美やぜいたくを好み、華美な服装、精密に美しく装飾を施した銀剣、華美・美麗な服飾や飾りなど、目を驚かさないものはない。まったく気ちがい沙汰と言うべきであろう。富める者はますますこれを誇り、貧しい者はそれに及ばないことを恥じている。世の中の廃れ衰えることこれより甚だしきものはない。もつとも厳しく取り締まられるべきであろう。
一 多数の人が集まって酒盛りをしたり、きままに遊び惚けることは禁止されるべき事
 格の規定によれば、このことに対する禁制は特に厳しい。そればかりか女色にふけり、金品を賭けて勝負を争っている。このほかまた、あるいは茶を飲んでその種類をあてる賭け事、あるいは連歌を競って得点を付けて賭け事として、極めて大きい額を賭けている。その費用は計算できないほど多いものであろう。
一 無法な荒々しい振る舞いを鎮められるべき事
 昼は無理矢理に商家などへ打入り、夜は強盗をし、所々で人を殺したり牛馬を殺したり、辻々では追いはぎをしたりして、人々のおめき叫ぶ声が絶えない。特に警固の指示があるべきであろう。
一 私宅の財産などを調べて差押えや強制的に没収することを止められるべき事
 貧しい微力を励まして、構築した私宅を、たちまち財産などを調べて差押えや強制的に没収させられ、また壊されて取られる間、身を隠す場所もない。すなわち浮浪せざるを得なくなり、ついには生活を維持することもできなくなる。もつとも憐れむべき事情である。
一 京都中の空地は、元の所有者に返されるべき事
 現在の状態は、京都中の半分以上は空地となっている。早く元の所有者に返され、建築する事を許されるべきであろう。ちまたのうわさようであるならば、この度のことは山上の天皇につき従う人、上級下級を論ぜず、嘘真を問わず、だいたい没収されたと言っている。律条のようであるならば、謀反人・反逆人と協同人・追従人とで罪名が同じなのであろうか。きちんと究明され、差異がはっきりされるべきであろう。およそ承久の変によって没収された土地、その数はどうなのであろう。今またすべてを召し寄せてしまったならば、朝廷および直属の役所に仕える人々は、いよいよ苦境に立つことになるであろう。
一 無尽銭や土倉の営業を盛んにするべき事
 あるいは莫大な仕事を割り当てて任じ、あるいは打入りを制止させることが間に合わない間、すでに家が廃絶してしまはないか。貴人・賤人の急ぎの必要品がたちまち欠如してしまい、貧乏のため生活を維持することが困難になり、ますます治す手立てを失ってしまう。急いで無尽銭や土倉の営業を盛んにすることができれば、多くの人々の生活を安定させる基本となるであろう。
一 諸国の守護人は、特に政務の有能な者が選らばれるべき事
 現在のようであるならば、軍功の恩賞として、守護職に任じられているのであろうか。恩賞を与えるならば、荘園などの所領を給与すべきであろう。守護職は昔の国司の職務に相当する。国中が良く治まるかどうかは、ただこの職に依っている。特に有能な者を任じれば、人民をいたわる方針にかなうことであろう。
一 権門貴族ならびに女性・僧侶の政治介入を止められるべき事
一 下級役人のいいかげんに考えてなまけることを戒められるべし。ならびに人材の選り抜きあるべき事
 この二つの条は、代々の法でも制定されている。特に新しいものではない。
一 かたく賄賂を止められるべき事
 この条はまた今に始まったものでないといっても、ことに厳密な処置があるべきである。たとえ百文程度のものといっても、賄賂をもらったならば、永くその人に職務を与えてはいけない。分を過ぎたものならば、生涯失職させるべきであろう。
一 殿中内外について、いろいろな方からの贈り物を返されるべき事
 上の者が好んで行うことは、下の者が必ずこれに随うものである。もつとも心が清らかで私欲がないように変わるべきである。
 次に舶来品などの珍しい物、特に珍重するものについてはあってはならないことである。
一 近く仕える者を選ばれるべき事
 「その君を知ろうとするならばその臣を見よ、その人を知ろうとするならばその友を見よ」と言われている。そうであるならば君主の善悪は、必ず臣下により、すなわち顕在化するものである。従ってその有能な者が選ばれるべきであろう。また徒党を組み、たがいに悪口を言ったり称賛したりする。戦争の原因は、これによるものに違いない。中国と日本ではこのようなことが多い。あるいは衣裳、あるいは才能と技芸以下、好いてもてあそぶをもつて本質とし、それぞれの心底ことごとく相性とするべきか。法にそむいて罪を犯す者においては、近辺に召し仕わせるべきではない。もつとも遠ざけるべきであろう。
一 礼節を主要なものにすべき事
 国を統治する要点は、礼を好むのに過ぎることはない。君主には君礼があるべきであり、臣下には臣礼があるべきである。およそ上下それぞれの身の程をわきまえ、言葉と行動は必ず礼儀を主要なものにするべきであろう。
一 清く正しいという名誉があれば、ことに手厚くほめるられるべき事
 これは善人を増やし、悪人をなくす道理である。もつとも賞罰の沙汰があるべきであろう。
一 貧しい者・弱い者の訴えを聞き届けられるべき事
 中国の堯と舜の時代の政治(良く治まった世の中の意味)、これをもって最上のものとする。尚書によれば、「凡人の軽んずる所、聖人の重んずる所」と言っているが、ことに心掛けられるべきことである。あわれみは、当然貧しい家の者にあるべきである。彼らの苦しみや悲しみの訴えを聞き届けられるべき事は、処置の第一にするべきことであろう。
一 寺社の訴訟、事によつては取捨あるべき事
 あるいは豪猛な態度をとり、あるいは勢いが盛んになって栄えていると叫ぶ、またはめでたいことの前兆として起こる不思議な現象(吉兆)だときらめかす、または御祈と称する。このような場合には、特に吟味を徹底するべきである。
一 裁判を行う定例日と開始時刻を定められるべき事
 多くの人々の愁うることは、なおざりにされること以上のものはない。従って、事を早速に判断し、物事の奥深いところを探究しなければならない。あれやこれや言っても、行きつくところは、人が心配がない様な、沙汰がされるべきことである。
 これらの十七箇条、大略は以上のとおりである。是円は、法曹家の家柄の子孫ではあるが、すでに民間の凡人である。怖れ多くも幕府政治の是非についての諮問を受けたので、日本・中国の昔から今に至る教訓を拾い集めた次第である。只今諸国の戦争はいまだ収まっていない。特にかしこまって身を慎んで政治を担当するべき時ではないか。昔の人は言っている、「安全な所にいても、尚危険なときのことを考える」と。今危ういところにいて、どうして危険な状態だと思わないのだろうか。恐れるべきは現在である。慎むべきは近き日である。昔では延喜・天暦時代の天皇(醍醐天皇・村上天皇)の徳ある政治を尋ね、近年では北条義時・泰時父子の治績をもって、近代の模範とする。特にすべての人が従い仰ぐ善政を施したならば、日本全国の平和の基本となるであろう。以上のように申し上げる。

  建武三年十一月七日
           真 恵
           是 円
    人衆
 前民部卿     是円
 真恵       玄恵法印
 太宰少弐     明石民部大夫
 太田七郎左衛門尉 布施彦三郎入道


【注釈】
[1]柳営:りゅうえい=将軍の陣営、将軍の御所、幕府の所在地。
[2]漢家本朝:かんかほんちょう=中国と日本。
[3]遷移:せんい=うつりかわること。うつりかわり。推移。
[4]羅縷:らる=網の目のように詳しくということ。
[5]遑:いとま=時間の余裕。ひま。
[6]季世:きせい=末の世。末世。
[7]迄り:いたり=ある物事が最高の状態に達していること。極み。
[8]移徙:いし=移り動くこと。移転。移動。
[9]文治:ぶんち=元号の一つで1185年~1190年のこと。文治元年の守護・地頭の設置を指すと思われる。
[10]幕下:ばっか=近衛大将の唐名で、右近衛大将であった源頼朝を指す。
[11]義時:よしとき=1221年(承久3)の承久の変に勝った北条義時のこと。
[12]併呑:へいどん=一つに合わせて従えること。
[13]吉土:きちど=縁起の良い土地。
[14]禄多く権重く:ろくおおくけんおもく=得宗領などを拡大し、幕府の主要権力を独占したことを指す。
[15]驕:おごり=得意になって威張ること。わがままな振る舞い。
[16]悪を積みて改めず:あくをつみてあらためず=悪事を重ねて改めなかった。
[17]果たして:はたして=案の定。予期した通り。
[18]近代:きんだい=近頃。
[19]覆車:ふくしゃ=車が転覆すること。
[20]轍:てつ=車が通った車輪の跡のことで、転じて先例を意味する。
[21]傾危:けいき=傾いて危ないこと。
[22]なんの疑ひあるべけんや:なんのうたがいあるべけんや=何の疑いもない。
[23]崤函:こうかん=崤山と函谷関の意味で、堅固な地形に拠っていること。
[24]闡く:ひらく=大きくあけひろげる。あけすけにする。
[25]居処の興廃:きょしょのこうはい=幕府の所在地が栄えるか衰えるか。
[26]政道の善悪によるべし:せいどうのぜんあくによるべし=政治が良いか悪いかによる。
[27]人凶:じんきょう=人の運命の吉凶。
[28]宅凶:たくきょう=住居の吉凶。
[29]謂なり:いいなり=という意味である。
[30]衆人:しゅうじん=多くの人々。
[31]情:こころ=意向。
[32]政道の事:せいどうのこと=政治のあり方のこと。
[33]時を量り:ときをはかり=時代に適応した。
[34]制を設く:せいをもうく=法律制度を作る。
[35]和漢の間:わかんのあいだ=日本・中国の様々な法律の中から。
[36]武家全盛:ぶけぜんせい=武家政治の全盛時代、つまり北条義時・泰時の執権政治の全盛時代のこと。
[37]宿老:しゅくろう=幕府の高官。幕府の重臣。
[38]評定衆:ひょうじょうしゅう=鎌倉幕府において、重要政務・訴訟を、執権・連署とともに審議したメンバー。
[39]公人:くにん=政所職員などの下級役人。
[40]済々:せいせい=多く盛んなさま。健在であること。
[41]故実:こじつ=儀式・法令・作法などの故例。
[42]訪はん:とぶらはん=調査する。
[43]何の不足あるべきか:なんのふそくあるべきか=なんの不足があろうか、ないはずである。
[44]嘉政:かせい=良い政治。
[45]安んずる:やすんずる=安らかにする。安定させる。
[46]速かに:すみやかに=早急に。
[47]御沙汰:ごさた=処置。命令。指示。おさばき。
[48]最要:さいよう=肝心なこと。要点。
[49]粗:あらあら=簡潔に。かいつまんで。
[50]婆佐羅:ばさら=見栄を張って派手に遠慮なく振る舞う風俗。
[51]過差:かさ=分に過ぎた華美やぜいたく。
[52]綾羅錦繍:りょうらきんしゅう=あやぎぬとうすぎぬとにしきとぬいとり、華美な服装の意味。
[53]精好:せいごう=精密に美しく装飾を施したもの。
[54]風流服飾:ふりゅうふくしょく=華美・美麗な服飾や飾り。美しく見事な服装や装身具。
[55]頗る:すこぶる=まったく。
[56]物狂:ぶっきょう=気ちがい沙汰。狂気の沙汰。
[57]凋弊:ちょうへい=廃れ衰えること。疲弊。
[58]群飲:ぐんいん=多数の人が集まって酒盛りをすること。
[59]佚遊:いつゆう=きままに遊び惚けること。
[60]格条:きゃくじょう=格の規定のことで、866年(貞観8)の「太政官符」などを指す。
[61]あまつさへ:そればかりか。おまけに。
[62]好女の色に耽り:こうじょのしょくにふけり=女色にふけること。
[63]博奕の業に及ぶ:ばくえきのわざにおよぶ=ばくちまでしている。金品を賭けて勝負を争っている。
[64]茶寄合:ちゃよりあい=茶を飲んでその種類をあてる賭け事。闘茶。
[65]連歌会:れんがえ=連歌を競い、得点を付けて賭け事とした。
[66]莫太:ばくだい=程度や量が甚だしいさま。極めて大きい。
[67]費:ついえ=費用。
[68]狼藉:ろうぜき=無法な荒々しい振る舞い。乱暴な行い。
[69]屠殺:とさつ=家畜などを殺すこと。
[70]引剥:ひっぱぎ=追いはぎ。
[71]叫喚さらに断絶なし:きょうかんさらにだんぜつなし=人々のおめき叫ぶ声が絶えない。
[72]点定:てんじょう=財産などを調べて差押えや強制的に没収すること。
[73]尩弱:おうじゃく=貧しいこと。また、そのさま。
[74]活計:かっけい=生活を維持すること。また、そのための手段。生計。
[75]巷説:こうせつ=ちまたのうわさ。世間の評判。世の中の風説。
[76]臨幸:りんこう=天皇が行幸してその場に臨むこと。
[77]扈従:こじゅう=貴人につき従うこと。また、その人。おとも。こじゅう。
[78]駈率:くそつ=追い従う。
[79]牢籠:ろうろう=苦境に立つこと。追いつめられて悩むこと。思い通りの行動がとれないこと。行き詰まること。
[80]無尽銭:むじんせん=貸付金のこと。
[81]土倉:どそう=財物を預かって金を貸す質屋のこと。
[82]興行:こうぎょう=盛んにすること。
[83]闕如:けつじょ=本来あって然るべきものが、抜け落ちていて、足りないさま。欠落。欠如。
[84]治術:ちじゅつ=国を治める方法。治療の方法。
[85]諸人:もろびと=多くの人々。たくさんの人。 衆人。
[86]安堵:あんど=土地の所有権・知行権などを将軍や領主が承認すること。安心すること。心が落ち着くこと。
[87]器用を択ばるべき事:きようをえらばるべはこと=有能な者が選らばれること。
[88]当時:とうじ=現代。現在。
[89]軍忠に募りて:ぐんちゅうにつのりて=軍功の恩賞として。手柄の大きさによって。
[90]庄園を充て給ふべきか:しょうえんをあてたまふべきか=荘園などの所領を給与すべきであろう。
[91]上古の吏務:かみこのりむ=昔の役人の職務の意味で、昔の国司の職務のこと。
[92]国中の治否:くにじゅうのちひ=国中が良く治まるかどうか。
[93]撫民:ぶみん=人民をいたわる。民をいつくしむ。<br>
[94]権貴:けんき=権力を持ち、とうとい身分であること。また、その人 。
[95]禅律僧:ぜんりつそう=僧侶のこと 。
[96]口入:くちいれ=政治への介入 。
[97]緩怠:かんたい=いいかげんに考えてなまけること。 また、そのさま。
[98]精撰:せいせん=特によいものだけをえらび出すこと。えりぬき。よりぬき。
[99]賄貨:わいか=自分に有利なようにはからってもらうために贈る金品。
[100]仮令:けりょう=たとえば。。かりに。
[101]過分:かぶん=分に過ぎた扱いを受けること。身に余るさま。思い上がっていること。僭越なこと。
[102]進物:しんもつ=人に差し上げる品物。贈り物。
[103]精廉:せいれん=心が清らかで私欲がないこと。また、そのさま。廉潔。
[104]唐物:からもの=中国 大陸 (唐土〈もろこし〉) から渡来した物品の総称。
[105]已下:いか=それより少ないこと、または劣っていることを表す。
[106]賞翫:しょうがん=そのもののよさを楽しむこと。珍重すること。味のよさを楽しむこと。賞味すること。
[107]近習:きんじゅう=近く仕えること。またその人。近侍。近寄衆。
[108]顕はるる:あらはるる=姿を現す。顕在化する。
[109]毀誉:きよ=けなすこととほめること。悪口と称賛。
[110]闘乱:とうらん=戦闘 。 戦い。 闘い。闘争。
[111]能芸:のうげい=才能と技芸。 芸能。また、身につけた芸。
[112]好翫:こうがん=好いてもてあそぶ。
[113]違犯の輩:いはんのやから=法にそむいて罪を犯す者。
[114]礼節:れいせつ=礼儀と節度。また、礼儀。
[115]分際:ぶんざい=身分・地位の程度。 身のほど。分限。
[116]廉義:れんぎ=いさぎよくてよい。清く正しい。
[117]優賞:ゆうじょう=手厚くほめること。また、ほめてほうびを 与えること。
[118]褒貶:ほうへん=ほめることとけなすこと。事のよしあしを 言うこと。
[119]貧弱:ひんじゃく=乏しく、必要を満たすに十分でない こと。また、そのさま。
[120]堯舜の政:ぎょうしゅんのせい=中国の堯と舜の時代の政治のことで、よく 治まった世の中の意味。
[121]御憐愍:ごれんびん= かわいそうに思うこと。あわれむこと。 あわれみ。
[122]愁訴:しゅうそ=つらい事情を明かして嘆き訴えること 。また、その訴え。
[123]威猛を振ひ:いもうをふるい=豪猛な態度。性格や態度が勇ましく猛烈にふるまうこと。
[124]興隆と号し:こうりゅうとごうし=勢いが盛んになって栄えていると叫ぶこと。
[125]奇瑞を耀かし:きずいをかがやかし=めでたいことの前兆として起こる不思議な現象(吉兆)だときらめかす。
[126]御沙汰の式日・時刻:ごさたのしきじつ・じこく=裁判を行う定例日と開始時刻。
[127]緩怠:かんたい=なまけること。なまけるさま。なおざり。
[128]淵底を究めずば:えんていをきわめずば=物事の奥深いところを探究しなければ。奥底を見なければ。
[129]李曹の余胤を受くる:りそうのよいんをうくる=法律家の家の出身。法曹家の家柄の子孫。
[130]草野の庸愚:そうやのようぐ=平凡で愚かな人。民間の凡人。
[131]政道治否の諮詢:せいどうちひのしじゅん=政治の参考の為に尋ねて相談すること。政治の是非についての諮問。
[132]和漢古今の訓謨:わかんこきんのくんぼ=日本・中国の昔から今に至る教訓。
[133]干戈:かんか=干(たて)と戈(ほこ)、つまり戦争のこと。
[134]跼蹐:きょくせき=かしこまって身を縮めること。
[135]延喜・天暦両聖:えんぎ・てんりゃくりょうせい=延喜・天暦時代の天皇(醍醐天皇・村上天皇)を指す。
[136]行状:ぎょうじょう=おこない。治績。
[137]近代の師となす:きんだいのしとなす=近代の模範(手本)とする。
[138]万人帰仰の政道:ばんにんきぎょうのせいどう=すべての人が従い仰ぐ善政。
[139]四海安全の基:しかいあんぜんのもとい=日本全国の平和の基本。
[140]言上件のごとし:ごんじょうくだんのごとし=以上のように申し上げる。
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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、「日独伊防共協定」が調印された日です。
 この協定は、イタリアのローマで調印された、日本、ドイツ、イタリア三国の協定でした。その前身は、前年にドイツとの間で締結された「日独防共協定」で、それにイタリアが参加したものです。
 このとき結ばれた議定書の正式名称は「日本國、伊太利國及獨逸國閒議定書」といいました。その後、1939年(昭和14)には、ハンガリー王国、「満州国」、スペインが参加した多国間協定となっていきます。
 内容は、共産主義に対する防衛を目的とし、対コミンテルンの対抗措置を定め、秘密付属協定でソ連を仮想敵国としたものでした。その後、1940年(昭和15)締結の「日独伊三国同盟」へ発展していきます。
 これによって、ヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアのファシズム国家と結ぶことになり、アメリカ・イギリスを強く刺激し、太平洋戦争へ突入していく端緒となりました。

〇日本國、伊太利國及獨逸國閒議定書 (全文) 1937年(昭和12)11月6日調印

日本國、伊太利國及獨逸國間議定書

昭和十二年(千九百三十七年)十一月六日 「ローマ」ニテ署名

同年(同年)同月六日ヨリ實施

同年(同年)十一月一〇日公布

大日本帝國政府、伊太利國政府及獨逸國政府ハ共産「インターナショナル」カ絶エス東西兩洋ニ於ケル文明世界ヲ危險ニ陷レ、其ノ平和及秩序ヲ攪亂シ且破壞シツツアルニ鑑ミ平和及秩序ノ維持ヲ念トスル一切ノ國家間ニ於ケル密接ナル協力ノミカ右危險ヲ減殺シ且除去シ得ルコトヲ確信シ「ファシスト」政治ノ創始以來不撓ノ決意ヲ以テ右危險ト鬪ヒ共産「インターナショナル」ヲ其ノ領土ヨリ驅逐シタル伊太利國ハ共産「インターナショナル」ニ對シ同樣ノ防衞ノ意思ヲ堅持スル日本國及獨逸國ト共ニ右共同ノ敵ニ當ルコトニ決シタルニ鑑ミ

千九百三十六年十一月二十五日「ベルリン」ニ於テ日本國及獨逸國間ニ締結セラレタル共産「インターナシヨナル」ニ對スル協定第二條ノ規定ニ從ヒ左ノ通協定セリ

第一條 伊太利國ハ千九百三十六年十一月二十五日日本國及獨逸國間ニ締結セラレタル共産「インターナショナル」ニ對スル協定及附屬議定書ニ參加ス右協定及附屬議定書ノ本文ハ本議定書ノ附録トシテ添附セラル

第二條 本議定書ノ三署名國ハ伊太利國カ前條ニ掲ケラルル協定及附屬議定書ノ原署名國ト看做サルルコトニ同意ス本議定書ノ署名ハ右協定及附屬議定書ノ原本ノ署名ニ相當スルモノトス

第三條 本議定書ハ前記協定及附屬議定書ト一體ヲ爲スモノトス

第四條 本議定書ハ日本語、伊太利語及獨逸語ヲ以テ作成セラレ其ノ各本文ヲ以テ正文トス本議定書ハ署名ノ日ヨリ實施セラルヘシ(附録ハ前掲日獨防共協定及附屬議定書ト同文ニ付省略)

(全權委員署名略)

                   外務省編「日本外交年表竝主要文書」下巻より
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