ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

イメージ 1

 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、奈良県生駒山(鳥居前駅~宝山寺駅)に生駒鋼索鉄道(現在の近畿日本鉄道生駒鋼索線)によって、日本初のケーブルカーが開業した日で、「ケーブルカーの日」とも呼ばれています。
 このケーブルカーの路線は、1918年(大正7)8月29日に、近畿日本鉄道の前身である大阪電気軌道の系列会社の生駒鋼索鉄道により、宝山寺への参拝客を見込んで、鳥居前駅~宝山寺駅間(宝山寺1号線)に建設されたもので、路線距離は0.9km、高低差146m、最急勾配227‰でした。
 その後、1922年(大正11)1月25日に、大阪電気軌道が生駒鋼索鉄道を合併したのです。
 そして、1926年(昭和元)12月30日に、宝山寺2号線が開業して、鳥居前駅~宝山寺駅間が複線化しました。
 さらに、1929年(昭和4年)3月27日に、生駒山上に建設された遊園地のためのアクセス路線の山上線として、宝山寺駅~生駒山上駅間が開業しましたが、路線距離は1.1km、高低差322m、最急勾配333‰で、中間駅が2駅(梅屋敷駅・霞ヶ丘駅)ありました。
 太平洋戦争中の1944年(昭和19) 2月11日に、山上線が不要不急線として休止させられましたが、戦後復活して現在に至っています。

〇日本のケーブルカー(鉄道事業法によるもの)一覧
・青函トンネル記念館青函トンネル竜飛斜坑線(青函トンネル体験坑道)全長778m、最大勾配250‰
・筑波観光鉄道 筑波山鋼索鉄道線(筑波山)全長1,634m、最大勾配358‰、高低差495m
・高尾登山電鉄高尾鋼索線(高尾山)全長1,020m、最大勾配608‰、高低差271m
・御岳登山鉄道(御岳山) 全長1,107m、最大勾配470‰、高低差424m
・箱根登山鉄道鋼索線(箱根山)全長1,240m、最大勾配200‰、高低差214m、中間駅4駅あり
・大山観光電鉄大山鋼索線(大山)全長786m、最大勾配477‰、高低差278m、中間駅1駅あり
・伊豆箱根鉄道十国鋼索線(十国峠)全長317m、最大勾配408‰、高低差101m
・立山黒部貫光鋼索線(立山黒部平)全長828m、最大勾配587‰、高低差373m
・立山黒部貫光鋼索線(立山美女平)全長1,366m、最大勾配560‰、高低差487m
・比叡山鉄道比叡山鉄道線(比叡山延暦寺)全長2,025m、最大勾配333‰、高低差484m、中間駅2駅あり
・京福電気鉄道鋼索線(比叡山延暦寺)全長1,458m、最大勾配530‰、高低差561m
・鞍馬山鋼索鉄道(鞍馬山鞍馬寺)全長207m、最大勾配499‰、高低差89m
・丹後海陸交通天橋立鋼索鉄道(天橋立傘松展望台)全長391m、最大勾配461‰、高低差115m
・近畿日本鉄道生駒鋼索線宝山寺線(生駒山)全長948m、最大勾配227‰、高低差146m
・近畿日本鉄道生駒鋼索線山上線(生駒山)全長1,124m、最大勾配333‰、高低差322m、中間駅2駅あり
・近畿日本鉄道西信貴鋼索線(高安山)全長1,263m、最大勾配480‰、高低差354m
・南海電気鉄道鋼索線(高野山金剛峯寺)全長864m、最大勾配563‰、高低差329m
・京阪電気鉄道鋼索線(男山石清水八幡宮)全長411m、最大勾配206‰、高低差82m
・能勢電鉄鋼索線(妙見山)全長666m、最大勾配424‰、高低差229m
・六甲山観光六甲ケーブル線(六甲山)全長1,764m、最大勾配498‰、高低差493m
・神戸すまいまちづくり公社摩耶ケーブル線(摩耶山)全長964m、最大勾配547‰、高低差312m
・四国ケーブル(五剣山)全長684m、最大勾配288‰、高低差167m
・皿倉登山鉄道(皿倉山)全長1,191m、最大勾配528‰、高低差441m
・岡本製作所別府ラクテンチケーブル線(別府ラクテンチ)全長253m、最大勾配558‰、高低差122m
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、奈良時代の785年(延暦4年)に、貴族・歌人大伴家持の亡くなった日ですが、新暦では10月5日となります。
 大伴家持は、奈良時代の貴族・歌人(三十六歌仙の一人)で、718年(養老2)頃に、父大伴旅人、母丹比郎女の長男として生まれたとされています。
 少年時代の727年(神亀4)頃、父に伴われ大宰府で生活し、730年(天平2)に帰京しました。738年(天平10)には内舎人となっていて、恭仁京を称える歌や故安積親王を傷む挽歌を詠み、745年(天平17)に従五位下に叙せられ、翌年7月越中守として赴任して、751年(天平勝宝3)少納言となって帰京しています。
 その後、754年(天平勝宝6)に兵部少輔となり、この頃防人たちの歌を書き留め、さらに757年(天平勝宝9)には兵部大輔と昇進しましたが、大伴一族の命運にかかわる事件が続いて、758年(天平宝字2)因幡守に左降されました。
 以後12年間に渡って、地方官を転々とした生活を送り、ようやく770年(宝亀1)6月に民部少輔となり、10月には21年ぶりで正五位下に昇叙したのです。
 それからは、諸官を歴任して780年(宝亀11)参議に任ぜられて公卿に列したものの、政争に巻き込まれ紆余曲折を経て、783年(延暦2)には、中納言となりました。
 翌年には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となりましたが、785年(延暦4年8月28日)に、68歳?で亡くなったのです。しかし、没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、首謀者とされて除名(806年(大同元)に復権)の上、子永主も隠岐に流されました。
 『万葉集』の編者の一人とも言われ、収載された歌が最も多く、長歌46、短歌425、旋頭歌1首、合計472首に上ります。

〇大伴家持の代表的な歌

・「雨晴れて清く照りたる此の月夜又更にして雲なたなびき」
・「立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬あぶみ漬かすも」
・「ふり放けて三日月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも
・「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」(百人一首)
・「うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しも独りし思へば」
・「燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く」
・「春の野にあさる雉の妻恋ひに己があたりを人に知れつつ」
・「卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴きわたる」
・「妹が袖われ枕かむ河の瀬に霧たちわたれ小夜ふけぬとに」
・「沫雪の庭に降りしき寒き夜を手枕まかず一人かも寝む」
・「あしひきの山の木末の寄生とりて挿頭しつらくは千年寿くとぞ」
・「石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて小鷹狩だにせずや別れむ」
・「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟榜ぎ隠る見ゆ」
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代後期の1896年(明治29)に、詩人・児童文学者 宮沢賢治の生まれた日です。
 宮沢賢治は、大正時代から昭和時代前期に活躍した詩人・児童文学者で、明治時代後期の1896年(明治29)8月27日に、岩手県稗貫郡花巻町(現在の花巻市)の質古着商の父宮澤政次郎と母イチの長男として生まれました。
 1903年(明治36)花巻川口尋常小学校に入学、1909年(明治42)には、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に進み、寄宿舎「自彊寮」に入寮します。在学中は、鉱物採集や星座に熱中し、自然に親しみ、短歌を作るようになりました。
 卒業後は、1915年(大正4)に盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)へ首席で入学し、寄宿舎「自啓寮」に入寮します。在学中は、友人らと同人誌『アザリア』を発行し、『校友会会報』へも短歌や短編を寄稿しました。
 卒業後さらに研究生として稗貫郡土性調査に従事し、この頃から童話を書き始めるようになります。1920年(大正9)に、田中智学の国柱会に入会、上京して布教活動等に加わりながら、童話を書き続けました。
 しかし、家の事情で帰郷して、稗貫農学校(後の花巻農学校)教諭となり、以後4年余り教壇に立つことになります。この間、1924年(大正13)に詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を自費出版しました。
 1926年(大正15)に農学校を退職し、開墾自炊生活にはいり、羅須地人協会を設立して農民指導に献身します。
 しかし、病気などのために挫折し、病状回復後、東北砕石工場技師となって石灰の宣伝販売に携わりましたが、無理がたたり、1933年(昭和8)9月21日に、37歳の若さで病死しました。
 代表作に童話では『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』、詩では『永訣の朝』、『雨ニモマケズ』などがあり、1982年(昭和57)、花巻市に「宮沢賢治記念館」が開設されたのです。

〇詩集『春と修羅』とは?
 宮沢賢治唯一の生前に自薦した詩集で、大正時代の1924年(大正13)に、関根書店より刊行されました。64編が、発想または第一稿の日付順に収められていて、作者の死後評価が高まったのです。

☆宮沢賢治著『雨ニモマケズ』(全文)

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ

 南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如来
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、平成時代の、1993年(平成5)に、レインボーブリッジ(東京港連絡橋)の開通した日です。
 この橋は、正式名称を東京港連絡橋といい、東京都港区芝浦地区と台場地区とを結ぶ吊り橋です。1987年(昭和62)に着工されましたが、当時建設中の東京臨海副都心と都心とを繋ぎ、また都心への交通集中を解消するという役割がありました。
 しかし、空と海と陸の交通の要所となる東京港周辺という立地から、上空は羽田空港への飛行機のため、主塔の高さに制限があり、下は大型船が通行するための航路設計が必要で、工法等にも様々な制約があったのです。それでも、6年ほどで竣工し、一般公募により「レインボーブリッジ」の愛称が決められました。
 橋の構造は、芝浦側アプローチ部1,465mと吊り橋部918mと台場側アプローチ部1,367mからなり、吊り橋部の中央径間(主塔間の距離)は570m、幅は29m、主塔の高さは126mあります。
 通常は吊り橋部のみの橋長798mの橋とされていて、建設当時は、東日本最長の吊り橋(中央径間の長さで比較)でしたが、1998年(平成10)に白鳥大橋(北海道室蘭市)に抜かれたものの、現在日本の13位です。
 また、吊り橋部は上下2層構造になっていて、上部が首都高速11号台場線、下部が新交通システムゆりかもめの軌道と一般道の車道・歩道となっている鉄道道路併用橋です。

〇日本の長大吊り橋ベスト15(中央径間の長さで比較しています)

1. 明石海峡大橋(兵庫県神戸市垂水区・淡路市)中央径間1,991m…1998年開通
2. 南備讃瀬戸大橋(香川県坂出市)中央径間1,100m…1988年開通
3. 来島海峡第三大橋(愛媛県今治市)中央径間1,030m…1999年開通
4. 来島海峡第二大橋(愛媛県今治市)中央径間1,020m…1999年開通
5. 北備讃瀬戸大橋(香川県坂出市)中央径間990m…1988年開通
6. 下津井瀬戸大橋(岡山県倉敷市・香川県坂出市)中央径間940m…1988年開通
7. 大鳴門橋(徳島県鳴門市・兵庫県南あわじ市)中央径間876m…1985年開通
8. 因島大橋(広島県尾道市)中央径間770m…1983年開通
9. 安芸灘大橋(広島県呉市)中央径間750m…2000年開通
10. 白鳥大橋(北海道室蘭市)中央径間720m…1998年開通
11. 関門橋(福岡県北九州市門司区・山口県下関市)中央径間712m…1973年開通
12. 来島海峡第一大橋(愛媛県今治市)中央径間600m…1999年開通
13. 東京港連絡橋<レインボーブリッジ>(東京都)中央径間570m…1993年開通
14. 大島大橋(広島県尾道市・愛媛県今治市)中央径間560m…1988年開通
15. 豊島大橋(広島県呉市)中央径間540m…2008年開通
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、戦国時代の1543年(天文12)に、ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲が伝来した日とされていますが、新暦では9月23日となります。
 これは、戦国時代の日本の種子島に火縄銃型の鉄砲が伝来した事件を指しています。その時に、鉄砲の現物のほか、その製造技術や射撃法なども伝わったとされていました。
 伝来した年代については、西洋側の記録(『日本教会史』、『アジア誌』、『ビーリャロボス艦隊報告』)は 1542年とするものが多いのですが、日本側のほぼ唯一の記録として、江戸時代の1606年(慶長11)に種子島久時 が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(玄昌)に編纂させた『鉄炮記』には、1543年(天文12年8月25日)に、種子島の西岸にある西ノ村の前之浜(現在の鹿児島県熊毛郡南種子町)に南蛮船が来着し、上陸したボルドガル人によってもたらされたとしています。
 この地の領主だった種子島時堯はこれを二挺購入し、家臣に使い方と製造法を修得させ、翌年にはこの地で生産できるようになったので、火縄銃のことを“種子島”とも呼ぶようになりました。
 その後、同じものの製作と使用が広がって、戦国合戦の様相を大きく変えたのです。

〇南浦文之(玄昌)編『鉄炮記』(全文)

 隅州の南に一嶋あり。州を去ること一十八里、名づけて種子と日う。我が祖世々焉に居す。古来相伝う、島を種子と名づくるは、此の島小なりと雖も、其の居民庶くして且つ富み、譬えば播種に一種子を下して生々に窮り無きが如し、この故に名づくと。

 是より先、天文癸卯秋八月二十五丁酉、我が西村の小浦に一大船有り。何れの国より来るかを知らず、船客百余人、其の形類せず、其の語通ぜず、見る者以て奇怪となす。其の中に大明の儒生一人あり、五峰と名づくる者なり、今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶五峰にあい、杖を以て沙上に書して云く、『船中の客、何れの国の人なるやを知らず、何ぞ其の形の異なるや』と。五峯即ち書して云く、『此れはこれ西南蛮種の賈胡あり、粗君臣の義を知ると雖も、未だそお礼貌の其の中に在るを知らず、これ故に其の飲するや杯飲して杯せず、其の食するや手食して箸せず、徒に嗜欲の其の情に□うを知り、文字の其の理に通うを知らざる也、所謂賈胡は一処に到りて轍つ止むとは、これ其の種なり、其の有る所を以て其の無き所に易えんのみ、怪しむべき者には非ず』と。是に於て、織部丞又書して云ふ「此を去ること十又三里にして一津あり。津を赤尾木と名づく。我が由って頼む所の宗子、世々居る所の地なり。津口数千戸あり。戸ごとに富み、家ごとに昌えて、南商北賈、往還織るが如し。今船を此に繋ぐと雖も、要津の深くして且つ漣たざるの愈るに若かず。之を我が祖父恵時と老父時尭とに告げん」と。

 時尭即ち扁艇数十をして之を拏いて、二十七日己亥、船を赤尾木の津に入れしむ。斯の時に丁って津に忠首座なる者あり。日州龍源の徒なり。法華一乗の妙を聞かんと欲して津口に寓止し、終に禅を改めて法華の徒と為り、号して住乗院と日ふ。殆ど経書に通じ、筆を揮うこと敏捷なり。偶々五峯に遇ひ、文字を以て言語を通ず。五峯亦以為へらく「知己の異邦に在る者なり」と。いはゆる同声相応じ、同気相求むる者なり。

 賈胡の 長二人有り、一を牟良叔舎と日い、一を喜利志多佗太と日う。手に一物を携う。長さ二、三尺。其の体たるや、中通り外は直く、しかも重きを以て質となす。其の中常に通ると雖も、其の底密塞を要す。其の傍に一穴有り、火を通すの路なり。形象物の比倫すべきなきなり。 其の用たるや、妙薬を其の中に入れ、添ふるに小団鉛を以てす。先ず一小白を岸畔に置き、親ら一物を手にして其の身を修め、其の目を眇にして、其の一穴より火を放てば、則ち立ち所に中らざるはなし。其発するや掣電光の如く、其鳴るや驚雷の轟の如く、聞く者其耳を掩わざるはなし。一小白を置くものは、射者の鵠を侯中に棲くの比の如し。此の物一たび発せば、銀山も摧くべく鉄壁も穿つべし。姦きの仇を人の国に為す者、之に触るれば則ち立ろに其の魄を喪ふ。況や麋鹿の苗稼に禍する者をや。其の世に用あるもの勝げて数ふべからず。

 時尭之を見て以為へらく「希世の珍なり」と。始め其の何の名なるを知らず。其の何の用為るかを詳にせず。既にして人名づけて鉄砲と為すものは、知らず、明人の名づくる所か。抑々知らず、我が一島の者の名づくる所か。

 一日、時尭重訳して、二人の蛮種に謂って曰く「我、之を能くすと日ふには非ざるも、願はくは之を学ばん」と。蛮種も亦訳を重ねて答へて曰く「君若し之を学ばんと欲せば、我も亦其の蘊奥をつくして以て之を告げん」と。時尭曰く「蘊奥得て聞くべきか」と。蛮種曰く「心を正すと目を眇むるとに在るのみ」と。時尭曰く「心を正すとは先聖の以て人を教ふる所にして、我の以て之を学ぶ所なり。大凡天下の理、事に斯に従はずんば、動静云為自ら差ふこと無き能はず。公のいはゆる心を正す、豈復た異なることあらんや。目を眇むるものは其の明、以て遠きを燭すに足らず。之を如何ぞ、其の目を眇むるや」と。蛮種答へて曰く「夫れ、物は約を守るを要す。約を守る者は、博く見るを以て未だ至らずと為す。目を眇むる者は、之を見るの明らかならざるには非ず。其の約を守りて以て之を遠きに致さんと欲するなり。君、其れ之を察せよ」。時尭喜んで曰く「老子のいはゆる見ること小なるを明と日ふとは、其れ斯の謂か」と。

 是の歳、重九の節、日、辛亥に在り、良辰を涓取して、試みに妙薬と小団鉛とを其の中に入れ、一小白を百歩の外に置きて、之が火を放てば、則ち其れ殆ど庶幾いかな。時人、始めにしては驚き、中ごろにしては恐れて之を畏れ、終りにしては翕然として亦曰く「願はくは之を学ばん」と。

 時尭其の価の高くして及び難きを言はずして、蛮種の二鉄炮を求め、以て家珍となす。其の妙薬の擣篩和合の法は、小臣篠河小四郎をして之を学ばしむ。時尭、朝に磨し夕に淬し、勤めて已まず。向の殆ど庶幾きもの、是に於てか百発百中、一も失するもの無し。

 此の時に於て、紀州根来寺に杉の坊某公といふ者あり。千里を遠しとせずして我が鉄砲を求めんと欲す。時尭、人の之を求むるの深きを感ずるや、其の心に之を解して曰く「昔、徐君、季札の剣を好む。徐君、口に敢へて言はずと雖も、季札、心に已に之を知る。終に宝剣を解けり。吾が島偏小なりと雖も、何ぞ敢へて一物を愛しまんや。且つ復た、我が求めずして自ら得るすら喜んで寝ねられず。十襲して之を秘す。而るを況や、来って求めて得ずんば、豈復た心に快からんや。我の欲する所は、亦人の好む所なり。我、豈敢へて独り己に私して匱におさめて之を蔵せんや」と。即ち津田監物丞を遣はし、持して以て其の一を杉の坊に贈らしむ。且つ、妙薬の法と放火の道を知らしむ。時尭、把玩の余り、鉄匠数人をして熟々其の形象を見、月に鍛へ、季に錬りて、新たに之を製せしめんと欲す。其の形制は頗る之に似たりと雖も、其の底の之を塞ぐ所以を知らず。

 其の翌年、蛮種の賈胡、また我が島の熊野一の浦に来る。浦を熊野と名づくるものは、亦、小廬山、小天竺の比なり。賈胡の中に幸ひに一人の鉄匠あり。時尭以為へらく「天の授くる所なり」と。即ち金兵衛清定といふ者をして、其の底の塞ぐ所を学ばしむ。漸く時月を経て、其の巻いて之を蔵むるを知れり。是に於て歳余にして新たに数十の鉄砲を製す。然る後に其の臺の形制と、其の飾の鍵鑰の如き者とを製造す。時尭の意、其の臺と其の飾とに在らず。之を軍を行るの時に用ゐるべきに在り。是に於てか家臣の遐邇に在る者、視て之を效ひて、百発百中する者、亦其の幾許なるを知らず。

 其の後、和泉の堺に橘屋又三郎といふ者あり。商客の徒なり。我が島に寓止するもの一・二年にして、鉄砲を学ぶもの殆ど熟せり。帰郷の後、人皆名いはずして、呼んで鉄砲又と日ふ。然る後、畿内の近邦皆伝へて之を習ふ。翅に、畿内、関西の得て之を学ぶのみに非ず。関東も亦然り。

 我嘗て之を故老に聞く。

 曰く「天文壬寅、癸卯の交、新貢の三大船、将に南の方、大明国に遊ばんとす。是に於て畿内以西の富家の子弟、進んで商客と為るもの殆ど千人、楫師、さを師の船を操ること神の如き者数百人、船を我が小島に艤す。既にして天の時を待ち、纜を解き、橈を斉へ洋を望んで若に向ふ。不幸にして狂風、海を掀り、怒涛、雪を捲いて、坤軸も亦折けんと欲す。吁、時なるか、命なるか。一貢船は檣傾き、楫摧け烏有に化して去る。二貢船は、漸くにして大明国寧波府に達す。三貢船は乗りきることを得ずして我が小島に回る。翌年再び其の纜を解いて南遊の志を遂げ、飽くまで海貨蛮珍を載せて将に我が朝に帰らんとす。大洋の中にして黒風忽ち起こり、西東を知らず。船、遂に飄蕩して東海道伊豆州に達す。州人、其の貨を掠め取る。商客も亦其の所を失ふ。船中に我が僕臣松下五郎三郎といふ者ありて、手に鉄砲を携ふ。既に発して其の鵠に中らざる莫し。州人見て之を奇とし、窺伺傚慕して多く之を学ぶ者あり。茲より以降、関東八州曁び率土の浜、伝へて之を習はざるはなし」と。

 今、夫れ此の物の我が朝に行はるるや、蓋し六十有余年なり。鶴髪の翁なほ明らかに之を記ゆる者あり。是に知る、向に蛮種の二鉄砲、我が時尭、之を求め之を学び、一発、扶桑六十余州を聳動せしめ、且つ復た、鉄匠をして之を製するの道を知らしめて、五畿七道に偏からしむ。然れば則ち、鉄砲の我が種子島に権輿するや明らかなるを、昔、一種子の生々無窮の義を採って、我が島に今以て其の讖に符へりと為す。古曰く「先徳、 善あるに、世に昭々たる能はざるは、後世の過ちなり」と。因って之を書す。

 慶長十一年丙午重九の節

 種子島左近太夫将監藤原久時(花押)

                           『南浦文集』の「鉄砲記」より

 *縦書きの漢文の原文を読み下し文の横書きに改め、段落を分けて句読点を付してあります。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ