ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

gashirakawatennou01
 今日は、平安時代後期の1181年(養和元)に、平家により幽閉されていた後白河法皇が、平清盛の死去に伴い院政を再開した日ですが、新暦では2月2日となります。
 院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)や法皇(太上法皇)が院庁で政務を行う政治形態のことです。広義には、白河上皇に始まり、江戸時代の光格上皇まで断続するとされますが、狭義には、平安時代後期~鎌倉時代初期に至る白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四上皇による政治を指すとされてきました。
 特に、白河院の応徳3年から平家滅亡の寿永3年頃までの約100年間を院政時代といい、院宣が詔勅・宣旨よりも重んじられたとされます。応徳3年に、白河上皇が後三条天皇の遺志を受け継ぎ、摂関政治を抑制するために、荘園整理と公領の確保を要求する受領層を院近臣 として創始しましたが、保元の乱・平治の乱後は、武家政治と対抗することとなりました。
 しかし、1221年(承久3)の承久の乱で決定的な打撃を受けて、武家政治の優位が確立したとされます。鎌倉時代後期にも、後高倉院,後嵯峨院や大覚寺、持明院両統迭立などにより院政が行われたものの、1322 年(元亨2)の後醍醐天皇の時に院政が廃止され、天皇親政となりました。
 南北朝時代にも院政が行われたものの、室町時代には行われず、江戸時代に入って後陽成天皇の譲位後再び院政が復活します。その後、後水尾、霊元、光格上皇が行ないましたが、1840年(天保11)に光格上皇が亡くなってからは、消滅しました。

〇後白河天皇(ごしらかわてんのう)とは?

 第77代とされる天皇です。平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。
 1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。
 1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と4朝30余年にわたる)を始めました。
 1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。
 一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。
 尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

〇平清盛(たいら の きよもり)とは?

 平安時代末期の武将・公卿です。1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。

☆院政を実施した上皇・法皇(鎌倉時代まで)

<平安時代後期~鎌倉時代初期>
・白河上皇
・鳥羽上皇
・後白河上皇
・後鳥羽上皇

<鎌倉時代後期>
・後高倉上皇
・後嵯峨上皇
・後宇多上皇

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)民撰議院設立建白書が出される詳細
1885年(明治18)思想家・作家・ジャーナリスト・社会運動家大杉栄の誕生日詳細
1943年(昭和18)戦費捻出目的でたばこが大幅値上げ(金鵄10銭→15銭、ひかり18銭→30銭、朝日25銭→45銭)される詳細
1944年(昭和19)「緊急国民勤労動員方策要綱」が閣議決定される詳細
1988年(昭和63)西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の愛媛県今治市の伯方島と大島を結ぶ、伯方・大島大橋が供用開始する詳細
1995年(平成7)兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起き、死者・行方不明者 6,437人を出す詳細
2017年(平成29)発生生物学者・生物科学の権威岡田節人の命日詳細
2019年(平成31)物理学者米沢富美子の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

minamikutaikachizu01
 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、大阪明治45年「南の大火」で、死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸を出した日です。
 大阪明治45年「南の大火」(おおさかめいじ45ねんみなみのたいか)は、明治時代後期の1912年(明治45)1月16日未明に、大阪市南区難波新地(現在の中央区難波四丁目付近)を火元とする、明治時代の大阪最後の大火です。この日の午前1時頃、難波新地4番町の湯屋・百草湯の煙筒から噴出した火の粉が、強風によって貸座敷・遊楽館の3階の屋根に引火し、西からの烈風を受けて、一挙に東へ燃え広がり、千日前から日本橋筋をこえ、生国魂神社や谷町九丁目あたりにまで達しました。
 ようやく、10時間後の午前11時になって、第四防火線とした谷町九丁目で、火勢の広がるのを防ぐことができます。これによって、東西1.4km、南北400mに渡って焼失し、罹災面積10,946坪(33.3ha)となり、死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸を出し、劇場・寄席・貸座敷などの他に、生国魂神社、榎神社、明治病院、高津尋常小学校なども被災しました。
 焼け跡には、1914年(大正3)から翌年にかけて、大阪市電九条高津線が敷設され、現在の千日前通の一部区間となっています。尚、1880年(明治13)12月24日には、明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)が起き、1890年(明治23)9月5日には、明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)も起きていました。
 
〇明治・大正時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火・地震によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年の大火「小野組火事」(焼失家数1,318軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田の大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の浅草大火(全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)
・1914年(大正3)2月20日 東京神田大正2年三崎町の大火(全焼2,376戸、半焼54戸)
・1917年(大正6)5月22日 大正6年米沢大火(死者11名、負傷者80余名、焼失2,294戸)
・1919年(大正8)5月19日 大正8年米沢大火(死者1名、焼失1,071戸)
・1921年(大正10)4月6日 東京の大正浅草大火(全焼1,227戸、半焼73戸)
・1924年(大正13)5月21日 八戸大火(死者4名、被災戸数1,393棟)
・1925年(大正14)3月18日  大正日暮里大火(全半焼約2,100戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1941年(昭和16)大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合、大日本青少年団が結成される詳細
1942年(昭和17)青壮年による大政翼賛会の外郭団体として、大日本翼賛壮年団が結成される詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
2008年(平成20) 細胞生物学者・医師岡田善雄の命日詳細
日本画家片岡球子の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

toukyoushihangattkou01
 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、「学制」に基づいた日本で最初の小学校、東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)が設立された日です。
 学制(がくせい)は、明治時代前期の1872年9月4日(明治5年8月2日)に、明治新政府から発布された、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令です。その序文として「學事獎勵ニ關スル被仰出書」が出され、教育理念が示されました。
 その内容は、四民平等の原則に立って、封建時代の儒教的教育理念を否定し、個人主義、実学主義を教育の原理としたものです。そして、国民皆学を目ざし、立身出世の財本としての学問の普及を理念として、全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に編成、大学区に大学、中学区に中学、小学区に小学校、各1校ずつを設置しようとし、文部省の中央集権的管理を目ざしました。
 翌年1月15日に、これに基づいた日本で最初の小学校、東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)が設立されています。しかし、義務教育は8年と定められていましたが、費用は住民の負担にしたため、学制に反対する一揆が起こり、1879年(明治12)に廃止になり、「教育令」に切り換えられました。
 以下に、「學事獎勵ニ關スル被仰出書」と「学制」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「學事獎勵ニ關スル被仰出書」 (全文) 1872年9月4日(明治5年8月2日)発布

學事獎勵ニ關スル被仰出書(學制序文)

太政官布告第二百十四號(明治五壬申年八月二日)

朕人々自ラ其身ヲ立テ、其産ヲ治メ[1]、其業ヲ昌ニシテ[2]、以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ、身ヲ脩メ[3]、智ヲ開キ、才藝[4]ヲ長スルニヨルナリ。而テ其身ヲ脩メ、智ヲ開キ、才藝ヲ長スルハ學ニアラサレハ能ハス。是レ學校ノ設アル所以ニシテ日用常行[5]、言語、書算[6]ヲ初メ、士官・農商・百工・技藝及ヒ法律・政治・天文・醫療等ニ至ル迄、凡人ノ營ムトコロノ事、學アラサルハナシ。人能ク其才ノアル所ニ應シ、勉勵シテ之ニ從事シ、而シテ後初テ生ヲ治メ[7]、産ヲ興シ、業ヲ昌ニスルヲ得ヘシ。サレハ學問ハ身ヲ立ルノ財本共云ヘキ者ニシテ、人タルモノ誰カ學ハスシテ可ナランヤ。夫ノ道路ニ迷ヒ、飢餓ニ陷リ、家ヲ破リ、身ヲ喪ノ徒ノ如キハ、畢竟[8]不學ヨリシテカヽル過チヲ生スルナリ。從來學校ノ設アリテヨリ年ヲ歴ルコト久シト雖トモ、或ハ其道ヲ得サルヨリシテ人其方向ヲ誤リ、學問ハ士人以上ノ事トシ、農工商及ヒ婦女子ニ至ツテハ、之ヲ度外[9]ニヲキ學問ノ何物タルヲ辨セス。又士人以上ノ稀ニ學フ者モ、動モスレハ國家ノ爲ニスト唱ヘ、身ヲ立ルノ基タルヲ知ラスシテ、或ハ詞章[10]記誦[11]ノ末ニ趨リ、空理[12]虚談[13]ノ途ニ陷リ、其論高尚[14]ニ似タリト雖トモ、之ヲ身ニ行ヒ事ニ施スコト能ハサルモノ少カラス。是即チ沿襲[15]ノ習弊[16]ニシテ文明普ネカラス。才藝ノ長セスシテ、貧乏破産喪家ノ徒多キ所以ナリ。是故ニ人タルモノハ學ハスンハ有ヘカラス。之ヲ學フニハ宜シク其旨ヲ誤ルヘカラス。之ニ依テ、今般文部省[17]ニ於テ學制ヲ定メ、追々敎則[18]ヲモ改正シ、布告ニ及フヘキニツキ、自今以後、一般ノ人民 華士族卒農工商及婦女子 必ス邑ニ不學ノ戸[19]ナク、家ニ不學ノ人[20]ナカラシメン事ヲ期ス。人ノ父兄タル者宜シク此意ヲ體認[21]シ、其愛育ノ情ヲ厚クシ、其子弟ヲシテ必ス學ニ從事セシメサルヘカラサルモノナリ。 高上ノ學ニ至テハ其人ノ材能ニ任カスト雖トモ幼童ノ子弟ハ男女ノ別ナク小學ニ從事セシメサルモノハ其父兄ノ越度タルヘキ事
但從來沿襲ノ弊學問ハ士人以上ノ事トシ、國家ノ爲ニスト唱フルヲ以テ、學費及其衣食ノ用ニ至ル迄多ク官ニ依頼シ、之ヲ給スルニ非サレハ學ハサル事ト思ヒ、一生ヲ自棄[22]スルモノ少カラス。是皆惑ヘルノ甚シキモノナリ。自今以後此等ノ弊ヲ改メ、一般ノ人民他事ヲ抛チ[23]自ラ奮テ必ス學ニ從事セシムヘキ樣心得ヘキ事
右之通被仰出候條、地方官ニ於テ邊隅[24]小民[25]ニ至ル迄不洩樣、便宜解譯ヲ加ヘ、精細申諭文部省規則ニ隨ヒ、學問普及致候樣、方法ヲ設可施行事。

「法令全書」より

【注釈】

 [1]産ヲ治め:さんをおさめ=生計を立てていくこと。
 [2]業ヲ昌ニシテ:ぎょうをさかんにして=家業を盛んにして。
 [3]身ヲ修メ:みをおさめ=自分の行いや心を整え正して。
 [4]才藝:さいげい=才能と技芸。
 [5]日用常行:にちようじょうこう=普段の行動。
 [6]書算:しょさん=読み・書き・そろばん(算数)のこと。
 [7]生ヲ治メ:せいをおさめ=暮らしの道を立てる。
 [8]畢竟:ひっきょう=結局。要するに。
 [9]度外:どがい=範囲の外。考えの外。対象外。
 [10]詞章:ししょう=詩歌や文章。
 [11]記誦:きしょう=記憶しておいて、そらで唱えること。暗唱。
 [12]空理:くうり=現実とかけ離れた、役に立たない理論
 [13]虚談:きょだん=事実に基づかない話。根も葉もない話。つくりばなし。
 [14]高尚:こうしょう=知性や品性の程度が高いこと。気高くて、立派なこと。
 [15]沿襲:えんしゅう=古くからのならわしに従う。
 [16]習弊:しゅうへい=昔からの悪いならわし。
 [17]文部省:もんぶしょう=教育・学業・文化行政の中央行政官庁。
 [18]教則:きょうそく=教育課程・教授法の基準。
 [19]不學ノ戸:ふがくのこ=子供を学校に行かせない家。
 [20]不學ノ人:ふがくのひと=学校に行かない人。
 [21]體認:たいにん=認識すること。
 [22]自棄:じき=自分からだめにすること。自分の身を粗末にして顧みないこと。すてばちになること。
 [23]抛チ:なげうち=捨てる。惜しげもなく差し出す。放棄してかえりみない。
 [24]邊隅:へんぐう=都から遠く離れた土地。辺境。
 [25]小民:しょうみん=一般人民。庶民。

<現代語訳>

 学事奨励に関する仰せ出だされ書

人々が自分自身でその身を立て、その生計を立て、その家業を盛んにして、そのようにしてその一生を成就することができるものはというと、それは他でもない、自分の行いや心を整え正し、知識を広め、才能と技芸を伸ばすことによるものである。そうして、その、自分の行いや心を整え正し、知識を広め、才能と技芸を伸ばすことは、学ばなければ不可能である。これが学校を設置する理由であり、日常普段の行動、言語・読み書き・算数を始め、役人・農民・商人・いろいろな職人・技芸に関わる人、ならびに法律・政治・天文・医療等に至るまで、だいたい人の営むところで学ぶ事によらないものはない。人間はよくその才能のあるところに応じて勉励して学問に従事し、その後に初めて自分の暮らしの道を立て、資産を増やし、家業を盛んにすることができるであろう。従って、学問は立身のための資本ともいうべきものであって、人間たるものは、誰が学問をしないでよいということがあろうか、いやない。その、路頭に迷い、飢餓にはまり、家を破産させ、身を滅ぼすような人たちは、要するに学ばなかったことによって、このような過ちをもたらしたのである。これまで学校が設置されてから長い年月が経過しているとはいっても、あるいはその方法が正しくないことによって人はその方向を誤り、学問は武士階級以上の人がすることと考え、農業・工業・商業に就く人、及び女性や子供に至っては、学問を対象外のものとし、学問がどういうものであるか考えていない。また、武士階級以上の人でまれに学問する者があっても、場合によると学問は国家のためにするのだと唱え、学問が身を立てる基礎であることを知らないで、ある者は詩歌や文章を暗唱するなどの瑣末なことに走ったり、現実とかけ離れた役に立たない理論や事実に基づかない話に陥り、その言っている論理は知性や品性の程度が高いように見えるけれども、これを自分自身が行ったり、実施したりすることができないものが、少なくない。これはつまり、長い間従ってきた古くからの悪い習わしであって、文明が普及せず、才能と技芸が上達しないために、貧乏や破産、家を失う者といった連中が多い理由である。こういうわけで、人間は学問をしなければならないのである。これを学ぶためには、ぜひともその趣旨を誤ってはならない。こういう理由で、このたび文部省で学制を定め、順々に教則を改正し布告していくことになるだろうから、今から後は、一般の人民(華族・士族・卒族・農民・職人・商人及び女性や子供)は、必ず村に子供を学校に行かせない家がなく、家には学校に行かない人がいないようにしたい。人の父兄である者は、よくこの趣旨を認識し、その子弟を慈しみ育てる気持ちを厚くし、その子弟を必ず学校に通わせるようにしなければならない。上級の学校については、その人の才能に任せるが、幼い子弟は男女の別なく、小学校に通わせないことは、その父兄の落ちどであることになること。

ただし、これまでの長期間の悪習となっている学問は武士階級以上の人のことであり、そして学問は国家のためにすることだと唱えることにより、学費及びその衣類・食事の費用に至るまで、多くを官に依拠して、これを給付してくれるのでなければ学問はしないと思い、一生自分の身を粗末にして顧みない者が少なくない。これは皆どうしたらよいか戸惑っていることの甚しいものである。今から以後は、これらの弊害を改め、一般の人民は他の事を投げうって自分から奮闘して必ず学問に従事させるように心得るべきであること。

右の通り仰せ出だされましたので、地方官において、辺境の庶民に至るまで漏らすことのないよう、その時々に応じ、意義を説明してやり、詳しく細かく申し諭し、文部省規則に従い、学問が普及していくように、方法を考えて施行すべきであること。

〇「学制」

大中小学区之事

第一章 全国ノ学政ハ之ヲ文部一省ニ統フ

第二章 全国ヲ大分シテ八大区トス之ヲ大学区ト称シ毎区大学校一所ヲ置ク

第三章 大学区ノ分別左ノ如シ
 第一大区
 東京府 神奈川県 埼玉県 入間県 木更津県 足柄県 印旛県 新治県 茨城県 群馬県 栃木県 宇都宮県 山梨県 静岡県
 計一府十三県東京府ヲ以テ大学本部トス
 第二大区
 愛知県 額田県 浜松県 犬上県 岐阜県 三重県 度会県
 計七県愛知県ヲ以テ大学本部トス
 第三大区
 石川県 七尾県 新川県 足羽県 敦賀県 筑摩県
 計六県石川県ヲ以テ大学本部トス
 第四大区
 大阪府 京都府 兵庫県 奈良県 堺県 和歌山県 飾磨県 豊岡県 高知県 名東県 香川県 岡山県 滋賀県
 計二府十一県大阪府ヲ以テ大学本部トス
 第五大区
 広島県 鳥取県 島根県 北条県 小田県 石鉄県 神山県 山口県 浜田県
 計九県広島県ヲ以テ大学本部トス
 第六大区
 長崎県 佐賀県 八代県 白川県 美々津県 都城県 鹿児島県 小倉県 大分県 福岡県 三潴県
 計十一県長崎県ヲ以テ大学本部トス
 第七大区
 新潟県 柏崎県 置賜県 酒田県 若松県 長野県 相川県
 計七県新潟県ヲ以テ大学本部トス
 第八大区
 青森県 福島県 磐前県 水沢県 岩手県 秋田県 山形県 宮城県
 計八県青森県ヲ以テ大学本部トス
 総計三府七十二県

第四章 北海道ハ当分第八大区ヨリ之ヲ管ス他日別ニ区分スヘシ

第五章 一大学区ヲ分テ三十二中区トシ之ヲ中学区ト称ス区毎ニ中学校一所ヲ置ク全国八大区ニテ其数二百五十六所トス

第六章 一中学区ヲ分テ二百十小区トシ之ヲ小学区ト称ス区毎ニ小学校一所ヲ置ク一大区ニテ其数六千七百二十所全国ニテ五万三千七百六十所トス

第七章 中学区以下ノ区分ハ地方官其土地ノ広狭人口ノ疎密ヲ計リ便宜ヲ以テ郡区村市等ニヨリ之ヲ区分スヘシ

第八章 一中区内学区取締十名乃至十二三名ヲ置キ一名ニ小学区二十或ハ三十ヲ分チ持タシムヘシ此学区取締ハ専ラ区内人民ヲ勧誘シテ務テ学ニ就カシメ且学校ヲ設立シ或ハ学校ヲ保護スヘキノ事或ハ其費用ノ便用ヲ計ル等一切其受持所ノ小学区内ノ学務ニ関スル事ヲ担任シ又一中区内ニ関スル事ハ互ニ相論議シ専ラ便宜ヲ計リ区内ノ学事ヲ進歩セシメンヿヲ務ムヘシ

第九章 学区取締ハ地方官ニ於テ之ヲ命スヘシ
 但其人名ハ本省督学局ニ届クヘシ督学局ハ第十五章ニ見ユ

第十章 学区取締ハ其土地ノ居民名望アル者ヲ撰ムヘシ
 但戸長里正等ヲシテ兼ネシムルモ妨ケナシトス

第十一章 学区取締給料ハ当分其土地ノ情態ニヨリテ之ヲ定ムヘシ此給料ハ土地ヨリ出スヘキモノトス然トモ事実止ヲ得サルモノハ姑ク官ヨリ其幾分ヲ助給スヘシ

第十二章 一般人民華士族[2]農工商及婦女ノ学ニ就クモノハ之ヲ学区取締ニ届クヘシ若シ子弟六歳以上ニ至リテ学ニ就カシメサルモノアラハ委シク其由ヲ学区取締ニ届ケシムヘシ私塾家塾ニ入リ及ヒ已ムヲ得サル事アリテ師ヲ其家ニ招キ稽古セシムルモ皆就学ト云フヘシ

第十三章 学区取締ハ毎年二月区内人民子弟六歳以上ナルモノヽ前年学ニ就モノ幾人学ニ就カサルモノ幾人ト第一号ノ式ノ如ク表ヲ作リ之ヲ地方官ニ出シ地方官之ヲ集メテ四月中督学局ニ出スヘシ

第十四章 官立私立ノ学校及私塾家塾ヲ論セス其学校限リ定ムル所ノ規則及生徒ノ増減進否等ヲ書記シ毎年二月学区取締ニ出スヘシ学区取締之ヲ地方官ニ出シ地方官之ヲ集メテ四月中督学局ニ出スヘシ
 学校ヨリ出ス書記ハ三紙トシ一紙ハ学区取締ニ留置キ一紙ハ地方官ニ留メ一紙ハ督学局ニ出スヲ法トス
 大学及外国教師アル校ニ於テハ直ニ地方官督学局ニ出スモ妨ケナシ
 但大学及外国教師アル校ニ於テモ学区取締其心得ノ為メ規則並ニ生徒ノ増減進否等ヲ知ランヿヲ求メハ丁寧ニ之ヲ告クヘシ

第十五章 大学本部毎ニ督学局一所ヲ設ケ督学ヲ置キ附属官員数名之ニ充テ本省ノ意向ヲ奉シ地方官ト協議シ大区中ノ諸学校ヲ督シ及教則ノ得失生徒ノ進否等ヲ検査シ論議改正スルヿアルヘシ
 但大事ハ決ヲ本省ニ取リ小事ハ其時々之ヲ本省ニ開申スヘシ

第十六章 督学局ニ於テハ毎年学区取締ヨリ出ス所ノ表並ニ諸学校ヨリ出ス所ノ書記トヲ以テ学校及生徒進歩ノ状態並ニ六歳以上ノ男女学ニ就クモノ幾人就カサルモノ幾人等ノ表ヲ製シ本省ニ送リ本省ニテ之ヲ上梓公告スヘシ

第十七章 督学局ハ総テ地方官ト協議スヘシトイヘトモ直ニ学区取締ヲ呼出シ本局ノ意向ヲ諭示スルヿアルヘシ

第十八章 地方官ハ総テ督学局ニ協議スヘシ
 但督学局完全ナラサルノ間ハ総テ本省ニ申出ツヘシ

第十九章 地方官ニ於テハ学務専任ノ吏員一二名ヲ置キ部内ノ学事ヲ担任セシムヘシ其人名ハ兼テ本省並ニ督学局ニ届ケ置クヘシ

○学校ノ事

第二十章 学校ハ三等ニ区別ス大学中学小学ナリ学校教則書ハ別冊アリ

○小学

第二十一章 小学校ハ教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス之ヲ区分スレハ左ノ数種ニ別ツヘシ然トモ均ク之ヲ小学ト称ス即チ尋常小学女児小学村落小学貧人小学小学私塾幼稚小学ナリ

第二十二章 幼稚小学ハ男女ノ子弟六歳迄ノモノ小学ニ入ル前ノ端緒ヲ教ルナリ

第二十三章 小学私塾ハ小学教科ノ免状アルモノ私宅ニ於テ教ルヲ称スヘシ

第二十四章 貧人小学ハ貧人子弟ノ自活シ難キモノヲ入学セシメン為ニ設ク其費用ハ富者ノ寄進金ヲ以テス是専ラ仁恵ノ心ヨリ組立ルモノナリ仍テ仁恵学校トモ称スヘシ

第二十五章 村落小学ハ僻遠ノ村落農民ノミアリテ教化素ヨリ開ケサルノ地ニ於テ其教則ヲ少シク省略シテ教ルモノナリ或ハ年巳ニ成長スルモノモ其生業ノ暇来リテ学ハシム是等ハ多ク夜学校アルヘシ

第二十六章 女児小学ハ尋常小学教科ノ外ニ女子ノ手芸ヲ教フ

第二十七章 尋常小学ヲ分テ上下二等トス此二等ハ男女共必ス卒業スヘキモノトス教則別冊アリ
 下等小学教科
 一 字綴 読並盤上習字
 二 習字 字形ヲ主トス
 三 単語 読
 四 会話 読
 五 読本 解意
 六 修身 解意
 七 書牘 解意並盤上習字
 八 文法 解意
 九 算術 九々数位加減乗除但洋法ヲ用フ
 十 養生法講義
 十一 地学大意
 十二 理学大意
 十三 体術
 十四 唱歌 当分之ヲ欠ク
 上等小学ノ教科ハ下等小学教科ノ上ニ左ノ条件ヲ加フ
 一 史学大意
 二 幾何学罫画大意
 三 博物学大意
 四 化学大意
 其他ノ形情ニ因テハ学科ヲ拡張スル為メ左ノ四科ヲ斟酌シテ教ルヿアルヘシ
 一 外国語学ノ一二
 二 記簿法
 三 画学
 四 天球学
 下等小学ハ六歳ヨリ九歳マテ上等小学ハ十歳ヨリ十三歳マテニ卒業セシムルヲ法則トス但事情ニヨリ一概ニ行ハレサル時ハ斟酌スルモ妨ケナシトス

第二十八章 右ノ教科順序ヲ蹈マスシテ小学ノ科ヲ授ルモノ之ヲ変則小学ト云フ
 但私宅ニ於テ之ヲ教ルモノハ之ヲ家塾トス

○中学

第二十九章 中学ハ小学ヲ経タル生徒ニ普通ノ学科ヲ教ル所ナリ分テ上下二等トス二等ノ外工業学校商業学校通弁学校農業学校諸民学校アリ此外廃人学校アルヘシ
 下等中学教科
 一 国語学
 二 数学
 三 習字
 四 地学
 五 史学
 六 外国語学
 七 理学
 八 画学
 九 古言学
 十 幾何学
 十一 記簿法
 十二 博物学
 十三 化学
 十四 修身学
 十五 測量学
 十六 奏楽 当分缺ク
 上等中学教科
 一 国語学
 二 数学
 三 習字
 四 外国語学
 五 理学
 六 罫画
 七 古言学
 八 幾何代数学
 九 記簿法
 十 化学
 十一 修身学
 十二 測量学
 十三 経済学
 十四 重学
 十五 動植地質鉱山学
 下等中学ハ十四歳ヨリ十六歳マテ上等中学ハ十七歳ヨリ十九歳マテニ卒業セシムルヲ法則トス

第三十章 当今中学ノ書器未タ備ラス此際在来ノ書ニヨリテ之ヲ教ルモノ或ハ学業ノ順序ヲ蹈マスシテ洋語ヲ教ヘ又ハ医術ヲ教ルモノ通シテ変則中学ト称スヘシ
 但私宅ニ於テ教ルモノハ之ヲ家塾トス

第三十一章 当今外国人ヲ以テ教師トスル学校ニ於テハ大学教科ニ非サル以下ハ通シテ之ヲ中学ト称ス

第三十二章 私宅ニアリテ中学ノ教科ヲ教ルモノ教師タルヘキ証書ヲ得ルモノハ中学私塾ト称スヘシ其免状ナキモノハ之ヲ家塾トス

第三十三章 諸民学校ハ男子十八歳女子十五歳以上ノモノニ生業ノ間学業ヲ授ケ又十二歳ヨリ十七歳マテノ者ノ生業ヲ導カンカ為メ専ラ其業ヲ授ク故ニ多ク夜分ノ稽古アラシムヘシ

第三十四章 農業学校ハ小学ヲ経テ農業ヲ治メントスルモノヽ為ニ設ク

第三十五章 通弁学校ハ専ラ通弁ノ事ヲ主トス或ハ商人等交易ノ為メ専ラ通弁ノミヲ志スモノ此校ニ入ル
 但外国教師アリト雖トモ只語学ノミヲ教ル者ハ之ヲ通弁学校ト称ス

第三十六章 商業学校ハ商用ニ係ルヿヲ教フ海内繁盛ノ地ニ就テ数所ヲ設ク

第三十七章 工業学校ハ諸工術ノヿヲ教フ

○大学

第三十八章 大学ハ高尚ノ諸学ヲ教ル専門科ノ学校ナリ其学科大略左ノ如シ
 理学 化学 法学 医学 数理学

第三十九章 小学校ノ外師範学校アリ此校ニアリテハ小学ニ教ル所ノ教則及其教授ノ方法ヲ教授ス当今ニ在リテ極メテ要急ナルモノトス此校成就スルニ非サレハ小学ト雖トモ完備ナルヿ能ハス故ニ急ニ此校ヲ開キ其成就ノ上小学教師タル人ヲ四方ニ派出センヿヲ期ス

○教員ノ事

第四十章 小学教員ハ男女ヲ論セス年齢二十歳以上ニシテ師範学校卒業免状或ハ中学免状ヲ得シモノニ非サレハ其任ニ当ルヿヲ許サス

第四十一章 中学校教員ハ年齢二十五歳以上ニシテ大学免状ヲ得シモノニ非サレハ其任ニ当ルヿヲ許サス

第四十二章 大学校教員ハ学士ノ称ヲ得シモノニ非サレハ許サス

以上三章ハ其目的ヲ示ス数年ノ後ヲ待テ之ヲ行フヘシ後章ハ現今ノ位ニ応シテ之ヲ許スモノトス

第四十三章 私学私塾及家塾ヲ開カント欲スル者ハ其属籍住所事歴及学校ノ位置教則等ヲ詳記シ学区取締ニ出シ地方官ヲ経テ督学局ニ出スヘシ

第四十四章 私学私塾教員タルモノ総テ規則ニ違ヒ或ハ不行状アル時ハ之ヲ譴責シ又ハ之ヲ止メシムルヿアルヘシ

第四十五章 師範学校ニ於テ教授ヲ受ケタル教員ハ他ノ職務ヲ兼ネ及他ニ転スヘカラサルヲ法トス

第四十六章 小学教員ハ男女ノ差別ナシ其才ニヨリ之ヲ用フヘシ

第四十七章 教員生徒ヲ教授スルノ功他ニ秀越スルモノアル時ハ公私学校私塾ヲ問ハス督学局地方官ト協議シ之ヲ本省ニ乞テ之ニ褒賞ヲ与フ

生徒及試業ノ事

第四十八章 生徒ハ諸学科ニ於テ必ス其等級ヲ蹈マシムルヿヲ要ス故ニ一級毎ニ必ス試験アリ一級卒業スル者ハ試験状ヲ渡シ試験状ヲ得ルモノニ非サレハ進級スルヲ得ス

第四十九章 生徒学等ヲ終ル時ハ大試験アリ小学ヨリ中学ニ移リ中学ヨリ大学ニ進ム等ノ類
 但大試験ノ時ハ学事関係ノ人員ハ勿論其請求ニヨリテハ他官員トイヘトモ臨席スルヿアルヘシ

第五十章 私学私塾生徒モ其義前二章ニ同シ

第五十一章 試験ノ時生徒優等ノモノニハ褒賞ヲ与フルヿアルヘシ

第五十二章 生徒ノ内学業鋭敏後来大成スヘキノ目的アレトモ学資ヲ納ルヿ能ハス及其衣食ヲ給スルヿ能ハサルモノニハ費用ヲ給貸スルヿアルヘシ但成業ノ後年割ヲ以テ之ヲ償フトモ或ハ官ニ奉事シテ使役ヲ受ルトモ命ニ随フヘキノ証書ヲ出サシメ年限ヲ定メ其費用ヲ貸与ス是ヲ三等ニ分ツ年割ヲ以テ償ヒ還スハ其学業ヲ離テ五年ノ後ヨリスヘシ病死等アルトキハ之ヲ棄ツ
 公費ヲ受ル二年ノ者
 同三年ノ者
 同五年ノ者
 此生徒八大区ニ平分シテ全国千五百人ト限ル故ニ缺員アルニ非サレハ増加スルヿヲ得ス
 二年公費ヲ受クル者ハ官ニ使役スルヿ四年償還スルハ六年ヲ以テス
 三年ノ者ハ使役七年償還九年
 五年ノ者ハ使役十一年償還十五年
 此生徒一人ノ費用一年百二十両一切官ニ於テ之ヲ賄フ
 但使役ノ間ハ相当ノ歳俸ヲ給スルハ勿論タルヘシ若其役ヲ奉セサルモノハ前ノ官費ヲ償フヘシ

第五十三章 私学私塾生徒モ其義前章ニ同シ

第五十四章 生徒ニ費用ヲ給貸スルニハ其父兄及本人ヨリ証書ヲ出サシメ且其修業シタル学科ノ証書ヲ出サシム検査法及証書式等ハ別冊アリ

第五十五章 生徒ニ費用ヲ給貸スルニハ其学業ヲ授ケシ教師ヨリ其生徒学業鋭敏後来大ニ成ルヘキノ目的アルノ状並ニ其曽テ進級セシ処ノ学科ノ証書ヲ具ヘ幾年ノ公費ヲ給スヘキ云々等教師見込ヲ詳記シ之ヲ督学局ニ達スヘシ校長アル校ニ在テハ校長[2]其見込ヲ添ヘ之ヲ達スヘシ督学局之ヲ地方官ニ議シ其貧困ノ状ヲ詳ニシ而シテ後其学業ヲ試験シ本省ヘ申達スヘシ
 但此生徒ハ公私大中小学ニ抅ハラス且試験ハ地方官学務掛立会ヲ以テ法トスヘシ

第五十六章 師範学校ノ生徒ハ第五十二章ニ定ムル所ノ生徒員数ノ内ヨリ之ヲ採ルヘシ
 但当今設クル所ノ師範学校ノ生徒ハ此限ニアラス

第五十七章 第五十二章ニ定ム所ノ生徒ノ外ニ公撰生ヲ設ク此ノ公撰生ハ他日之ヲ論定ス

海外留学生規則ノ事

第五十八章 海外留学生徒ハ都テ本省ニ於テ之ヲ管轄ス

第五十九章 留学免状ハ本省ニ於テ渡スヘシ
 但渡海免状ハ外務省ヨリ受取リ相渡スヘシ

第六十章 留学中諸般ノ事件ハ弁務使ヘ依頓シ其指令ニ従フヘシ且生徒ノ中人撰ノ上生徒総代ノ者一人或ハ幾人弁務使ヨリ申付ヘシ

第六十一章 留学ニ官撰ト私願トノ別アリ官私共都テ本省ニ於テ之ヲ達スヘシ

第六十二章 官撰留学生ヲ撰ムニ二等ノ差アリ一ヲ初等留学生トシ一ヲ上等留学生トス

第六十三章 初等留学生ハ中学卒業ノモノヨリ撰ム上等留学生ハ大学ノ学科卒業ノモノヨリ撰ム

第六十四章 初等留学生ハ禀性誠実達敏ニシテ十九歳以上二十五歳迄ノ者小学初級ヨリ順次進級シ中学ノ課程ヲ卒業セシ証書アルモノヲ公ニ撰挙スヘシ
但国内大学校ニ入リテ研業センヿヲ願フ者ハ撰ニ当ル人トイヘトモ[1]其情願ニ任スヘシ

第六十五章 初等留学生ヲ撰ムニハ其学業ヲ授ケシ教師ヨリ生徒中学卒業試験ノ証書ヲ具ヘ其撰挙見込ヲ詳記シ之ヲ督学局ニ達ス督学局之ヲ試験シ甲第ノモノハ即チ其試験ノ始末ヲ詳記シ本省ニ出シ其允可ヲ得ルヲ法トス
 但試験ノ時ハ本省官員ハ勿論其請求ニヨリテハ他官員タリトモ臨席スルヿアルヘシ

第六十六章 官撰留学生ハ第六十四章第六十五章ニ定ル所ノ規則ニ随ヒ其進級ノ順序確実ニシテ後来成業ノ目的アルニ於テハ生徒公私ノ差別アルヿナシ

第六十七章 官撰留学生ノ学科ハ官ヨリ命スヘシト雖モ当人ノ望ミト其教師ノ見込トニヨルヿアルヘシ故ニ当人ノ望ミ其ノ科ヲ修業スルニアレハ教師ノ思考果シテ適当スルヤ否ヲ詳記シ試験ノ節教師ヨリ之ヲ出スヲ法トス
 但此記載ハ両紙ヲ出スヘシ一紙ハ之ヲ本省ニ留メ一紙ハ之ヲ弁務使ニ遣ハス

第六十八章 官撰留学生外国ヘ着セハ某地ニアリテ某ノ学校ニ入リ某ノ人ニ従テ某科ヲ学フ等ノ事ヲ詳記シ本省ヘ届クヘシ
 但シ八ケ月ヲ越テ其報ナキ時ハ即弁務使ニ掛合ヒ呼戻スヘシ

第六十九章 官撰留学生ハ外国ニアリテ学科進級ノ時ハ必ス本省ニ届クヘシ

第七十章 官撰留学生帰 朝ノ時ハ某外国ニアリテ研業セシ所ノ状ヲ具シ本省ヘ出スヘシ本省ニ於テ之ヲ試験スルヲ法トス
 但外国ニ於テ大学卒業ノ免状アルモノハ試験ニ及ハス

第七十一章 大学校ニ於テ専門ノ学科ヲ卒業セシモノハ官撰ヲ以テ順次順次トハタトヘハ大学科卒業ノモノ幾人アルニ教師試験ヲナシ其内甲第ノモノ一人若クハ二人ヲ採リテ上等生ノ撰ニ当ツヘシ而シテ下第ノモノハ半年若クハ一年ヲ経テ前ノ如ク撰擢スルヲ云フ海外ニ派出シ其業ヲシテ一層精密錬熟セシム是ヲ上等留学生トス

第七十二章 初等留学生ハ通常年限満五年ニ過クヘカラス

第七十三章 上等留学生ハ通常年限満三年トスヘシ

第七十四章 初等留学生ハ一年ノ定員百五十人ト定ム

第七十五章 上等留学生ハ定員ナシトイヘトモ多キモ三十人ニ過クヘカラス

第七十六章 大学設置ノ日ニ当ツテ中等留学生ヲ設クルハ其時ニヨルヘシ

第七十七章 初等留学生学資
 初二年 九百ドルラル
 但止ムヲ得ス都下ニ滞在スヘキモノハ千ドルラルヲ給スヘシ
 後三年 千ドルラル
 但往返途中旅費ハ定限ノ外タリ支度料ハ上程前学資一ケ月分ニ当ル高ヲ賜フ

第七十八章 上等留学生学資
 千五百ドルラルヨリ千八百ドルラル迄
 但往返旅費支度料前章ニ同シ

第七十九章 私願留学生ハ官費ニ拘ラストイヘトモ学科上ニ於テハ官撰留学生ニ准スヘシ唯精密ノ検査ヲ受ケサルノミ

第八十章 留学私願ノモノハ其教師ヨリ見込ヲ詳記スルヿ第六十五章ノ如クシ之ヲ本省ニ出スヘシ本省ニ於テ其見込書ヲ以テ検査ノ上可否スヘシ
 但研業セシ所ノ学科規則ニ入ラサルモノハ留学ノ名義ヲ免サス

第八十一章 私願留学ハ年限其人ノ望ミニ任スヘシ
 但一ケ年大概六七百ドルラル以上ヲ費スニ非サレハ留学為シ難キヲ以テ其員数ヲ出スヿ能ハサルモノハ之ヲ許サス

第八十二章 留学中居所転換ハ官私共止ムヲ得サル事故アルニ非サレハ容易ニ許サス必弁務使ノ指揮ヲ待ヘシ

第八十三章 留学中疾病事故等アルトキハ其費別ニ弁務使ヨリ受取リ私費留学ノモノハ此地ニ於テ之ヲ本省ヘ上納スヘシ

第八十四章 公費ノ生徒ハ上程ノ節学費一年分ヲ渡シ翌年ヨリハ前半年分米国ハ前年九月欧洲ハ前年七月後半年分米国ハ其年ノ三月欧洲ハ其年ノ正月本省ヨリ弁務使ヘ迴送スヘシ私費ノモノモ之ニ同シ故ニ私費ノ分ハ前以テ本省ニ納ムヘシ

第八十五章 官撰留学生ハ帰 朝ノ上必官ニ奉職スルカ又ハ官費ヲ償還スルカ共ニ命ニ随フヘキノ証書ヲ出スヿ等第五十二章ニ同シ
 但奉職十一年償還十五年ヲ限トス

第八十六章 生徒留学中言行ヲ慎ミ学業ヲ勉メ国体ヲ汚サヽルヤウ日夜心ヲ用ユヘシ若シ懶惰或ハ不行状ニシテ前途ノ見込之ナキモノハ直ニ之ヲ呼戻スヘシ

第八十七章 其地ノ弁務使ニ於テ常ニ生徒ヲ監視シ毎年生徒ノ勤惰進退等明細表ヲ作リ之ヲ本省ヘ送リ即本省ニ於テ上梓公告スヘシ

第八十八章 時ニ因テ留学ノ定規ヲ変スヘキ件々ハ本省ト弁務使ト絶ヘス往復商量シテ之ヲ改ムヘシ

○学費ノ事

第八十九章 学事ニ関係スル官金ハ定額ニヨリ本省ニ於テ一切之ヲ管知スルヿ
 但教育ノ設ハ人々自ラ其身ヲ立ルノ基タルヲ以テ其費用ノ如キ悉ク政府ノ正租ニ仰クヘカラサル論ヲ待タス且広ク天下ノ人々ヲシテ必ス学ニ就カシメンヿヲ期スレハ政府正租ノ悉ク給スル所ニアラス然レトモ方今ニアツテ人民ノ智ヲ開クヿ極メテ急務ナレハ一切ノ学事ヲ以テ悉ク民費ニ委スルハ時勢未タ然ル可カラサルモノアリ是ニ因テ官力ヲ計リ之ヲ助ケサルヲ得ストイヘトモ官ノ助ケアルヲ以テ従来ノ弊ニ依著ス可ラス御布告ニヨル

第九十章 凡人民ヲシテ学ニ就カシムル勉メテ広普ナルヲ欲ス故ニ官金ヲ以テ学事ヲ助クルモノノ如キハ必民ノ及ハサルモノヲ助クルニアリ決シテ偏重ノ事アルヘカラス士ヲ学ハシメテ農工商ヲ学ハシメス或ハ富者ニ衣食ヲ給シテ学ハシメ貧ナル者学フヿヲ得ス或ハ一人ニ数百金ヲ費ヤシテ学ハシメ衆人学フヿヲ得サル類ノ如キヿ有ルヘカラス

第九十一章 生徒衣食ノ費用或ハ官金ヲ以テ之ニ給シ以テ当然トス是従来ノ弊ナリ公私学校ノ生徒衣食ノ用ヲ供スルヿ一切之ヲ廃止スヘシ

第九十二章 当今学事ヲ助クルニ官金ヲ以テスルモノ左ノ目的ノ外ニ出ツヘカラス
 一外国教師ノ俸給並ニ外国人ニ係ル費用方今才芸ヲ進ムルニハ外国芸術ノ実用ヲ採ルニアリ即外国教師ヲ仮ラサルヲ得ス而シテ[24]此俸給ハ生徒弁シ得ルヿ能ハス仍テ官ヨリ之ヲ助ク
 一大学校ノ営繕及大学校ニ備フヘキ書籍器械学校営繕ノ如キハ完全ナルニ非サレハ姑息ノ弊止マスシテ生徒ノ学業ヲ妨クル甚多シタトヒ完全ナラスト雖トモ其費用少シトセス究理舎密其他百工技術必器械ヲ以テ之ヲ教授ス此等ノ費生徒悉ク弁シ得ル能ハス仍テ官ヨリ之ヲ助ク
 一中学校ニ於テモ前ニ同シ
 一生徒ニ費用ヲ給貸スルノ費第五十二章ヲ見合スヘシ及留学生公撰生ノ費用
 一学区ヲ助クル費第九十八章第九十九章第百章ニ載スル所ヲ見合スヘシ

第九十三章 諸学校ニ於テ需ツ所ノ費用ノ条件左ノゴトシ
 一教師ノ歳俸或ハ其居宅ノ屋賃
 一学区取締給料
 一学校僕役入費
 一学校造営及修理ノ入費或ハ人家ヲ借テ学校トスル時ハ其借賃
 一学校諸器械教授器械或ハ修覆
 一学校ニ用ル薪炭油筆紙墨ノ費
 一試業ノ入用
 一体術器械ノ入用
 此数件ノ全費ハ生徒之ヲ弁スヘキモノナリ然レトモ悉ク生徒ヨリ出サシムルトキハ生徒ノ力及ハスシテ学業之力為ニ滞稽スヘシ故ニ官ヨリ之ヲ助クト雖トモ生徒固ヨリ幾分ノ受業料ヲ納メサル可ラス

第九十四章 大学校ニアリテハ生徒ノ受業料一月七円五十銭ヲ相当トス外ニ六円四円ノ二等ヲ設ケ相当ノ受業料ヲ納ル能ハサルモノヽ為ニス中学校ニアリテハ一月五円五十銭ヲ相当トス外ニ三円五十銭二円ノ二等ヲ設ク小学校ニアリテハ一月五十銭ヲ相当トス外ニ二十五銭ノ一等ヲ設ク
 但相当ノ受業料ヲ納ル能ハサルモノハ戸長里正之ヲ証シ学区取締ヲ経テ其学校ニ出シ許可ヲ受クヘシ

第九十五章 一家二人ノ子弟ヲ学校ニ入ル者ハ戸長若クハ里正ノ証ヲ待タスシテ其由ヲ陳シ下等ノ受業料ヲ納ムヘシ三人以上アル時ハ二人ノ外受業料ヲ出スニ及ハス

第九十六章 諸学校に於テハ第九十四章定ル所ノ受業料ヲ以テ便宜ヲ計リ其学校ヲ保護スルヿヲ要スヘシ然レトモ生徒ノ多少ト学校ノ高下トニヨツテ其保護スルノ費過不足ヲ生スヘシコレハ其校ノ情態ニ応シ少シク受業料ヲ斟酌スルヿ妨ケナシトス
 但大学校及外国教師アル中学校ニ於テハ多分ノ不足生スルハ言ヲ待タス是官ノ助カアル所以トイヘトモ各校ノ情態同ラサルモノアルヲ以テ之ニ応シ亦少シク受業料ヲ糾酌スルヿアルヘシ中小学校トイヘトモ学区人民ノ貧富等ニヨツテハ少シク斟酌スルモ妨ケナシ

第九十七章 定ル所ノ受業料ハ当今ニアリテ一概ニ行ハレサル事アラハ便宜ニ随ヒ各区ノ情態及学校ノ事情ニヨリテ暫ク下等ヨリ少ク定ムルヿアルヘシ

第九十八章 凡学校ヲ設立シ及之ヲ保護スルノ費用ハ中学ハ中学区ニ於テシ小学ハ小学区ニ於テ其責ヲ受クルヲ法トス故ニ官金ヲ以テ之ヲ助クルモノハ学区ヲ助クルモノナリ区ノ情態ニヨリ人口ニ平均シ毎年出金セシムルカ或ハ一時富人ヨリ出金セシムルカ或ハ地方ニテ旧来ノ積金等学校ニ費ヤシテ妨ケナキモノアルトキハ其金ヲ以テ融通セシムルカ其他幾様ノ便宜ハ土地ノ事情ニ随フヘシ

第九十九章 教育ヲシテ普及ナラシメンカ為メ府県ニ委托シ其学区ヲ助クルノ金額左ノ如シ
 人員男女共一万人ニ付━━━━━━ノ割
 金━━━━━━━━━━━両三府七十二県
 此金高━━ハ其三分ノ二ヲ出シ━━━迄学区其他今般定ル所ノ規則ヲ立ツ可キノ基礎ヲ定ムヘシ基礎巳ニ定ツテ此全額ヲ出ス
 此金額ハ━━━ヨリ向五ケ年━━━ヲ一期トシテ之ヲ定ム一期以後ノ増減ハ其時ノ議決ニヨルヘシ
 此金ノ遣払ハ毎年六ケ月毎ニ詳記シ本省ヘ届クヘシ本省ニ於テ委シク上梓公告スヘシ

第百章 前章定ムル所ノ金額ハ務テ民力ノ及ハサル所ヲ助クルヲ以テ目的トス是故ニ尋常容易ノ事ニ使用スヘカラス
 但此金専ヲ小学ヲ広普シテ学則完整ナラシムルカ為ニ用フヘシタトヘハ小学校ヲ設立セシメン為学区積金ノ幾分ヲ助ケ学区ニ托シ其使用ヲ為スヿ学区貧ニシテ力足ラサル時其幾分ヲ助クルヿ止ムヲ得サル情故アリテ小学教師ヲ官ヨリ遣ス時其給俸ヲ助クルヿ貧困ノ生徒受業料ヲ出スヿ能ハサルモノニ其幾分ヲ助クルヿ完全ノ学校ヲ設クル為メ其営繕等ノ用ヲ一時融通スルヿ器械書籍体術等ヲ備フル為メ一時融通スルヿ学区取締ノ給料幾分ヲ助クルヿ等

第百一章 額金ノ内五分ヲ引キ別ニ之ヲ備ヘ置キ師範学校ニ於テ教授ヲ受ケシモノ後来小学ノ教師トナル時ニ其給料ヲ与フルノ助ケトスヘシ
 但此俸給ハ学区ニ於テ弁スヘキモノトイヘトモ[1]現今ノ事情イマタ茲ニ至ラサルモノアルヲ以テ官暫ク之ヲ助ケサルヲ得ス

第百二章 当今外国教師アル学校ヲ保護スルノ費用ハ本省ヨリ直ニ之ヲ管理ス地方官其情状ヲ具シテ本省ニ達スヘシ私ニ外国人ヲ雇入タル学校ハ此限ニアラス

第百三章 将来大中学ヲ設ケ及之ヲ保護スルノ費用モ前ニ同シ
 但其教員アルヲ待テ追々設立スヘシ

第百四章 変則中小学費用ハ地方官ノ見込ニヨリ之ヲ処分スヘシ
 但其事実ヲ具シ本省ニ届クヘシ

第百五章 凡大中小学校ノ営繕ハ公私共務テ完全ナルヲ期ス若目前ノ速成ヲ欲シテ事姑息ニ渉ラハ到底得ル所ナカルヘシ故ニ其力ヲ計リ今年其一ヲナシ明年其二ヲナシ順次進歩数年ヲ期シテ全国ノ完整ニ至ルヲ要ス
 但生徒学業ノ事ニ至リテハ一日モ忽ニスヘカラストイヘトモ広ク全局ヲ見テ宜ク本末順序ヲ誤ルヘカラス

第百六章 本省定額金ノ遣払ハ毎年七月中明細ニ記シ上梓公告スヘシ

第百七章 諸学校ニ於テ毎年費ス所ノ金額ハ学校ノ実情ニヨリテ之ヲ定ムヘシ其公私共遣払ハ第二号式ノ如ク明細表ヲ製シ毎年二月七月督学局ニ出スヘシ

第百八章 器械書籍ハ学校必要ノモノトス心ヲ用ヒテ完備セシメスンハアル可ラス諸学校所在ノ書器ハ第三号式ノ如ク表ニ製シ毎年二月中督学局ニ出スヘシ

第百九章 凡諸学校ノ設立スル必ス維持保護ノ目的ヲ要ス即第四号式ノ如ク表ニ製シ毎年二月中督学局ニ出スヘシ

 明治五年壬申七月

 (別表略)

  「ウイキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1772年(明和9)田沼意次が江戸幕府の老中に就任(田沼時代)する(新暦2月18日)詳細
1862年(文久2)坂下門外の変が起きる(新暦2月13日)詳細
1872年(明治5)彫刻家平櫛田中の誕生日(新暦2月23日)詳細
1899年(明治32)雑誌「反省雑誌」を「中央公論」と改題して発足する詳細
1936年(昭和11)日本がロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する詳細
1940年(昭和15)静岡大火が起こり、5,275戸を焼失、死者1名、負傷者788名を出す詳細
1961年(昭和36)横浜マリンタワーが開館する詳細
1974年(昭和49)長崎県の端島炭鉱(軍艦島)が閉山する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

odanobunagaashikagayoshiaki
 今日は、安土桃山時代の1569年(永禄12)に、織田信長が「殿中御掟9か条」を室町幕府第15代将軍足利義昭に示した日ですが、新暦では1月30日となります。
 「殿中御掟」(でんちゅうおんおきて)は、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭に承認させた掟です。1569年(永禄12年1月14)に9か条、2日後の16日に追加7か条が出されましたが、制定した後も義昭はこれを守ることをしなかったので、新たに、1570年(永禄13年1月23日)に5か条が追加され、計21か条となりました。
 これによって、義昭が勝手に諸大名へ書状を送ることがないようにして、必ず信長の副状をつけることや義昭がこれまで下した命令はいったん破棄し、再検討すべきことなどを定め、将軍としての権限を大幅に制約するものとなります。しかし、その後も義昭がこれらの殿中御掟を遵守した形跡もありませんでした。
 「殿中御掟」の追加を含めた21か条を現代語訳付で掲載しておきますからご参照下さい。

〇「殿中御掟9か条」 1569年(永禄12年1月14日)

・不断可被召仕輩、御部屋集、定詰衆同朋以下、可為如前々事
・公家衆、御供衆、申次御用次第可参勤事
・惣番衆、面々可有祗候事
・各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事
・公事篇内奏御停事之事
・奉行衆被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事
・公事可被聞召式目、可為如前々事
・閣申次之当番衆、毎事別人不可有披露事
・諸門跡、坊官、山門集、従医陰輩以下、猥不可有祗候、付、御足軽、猿楽随召可参事

    「仁和寺文書」

<現代語訳>

・御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りとする
・公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに伺候すること。
・惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。
・幕臣の家来が御所に用向きがある際は、当番役のときだけにすること、それ以外に御所に近づくことは禁止する。
・訴訟は奉行人(幕臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない(従来のやり方の通りとする)。
・奉公衆が出した結論を将軍が一存で決めてはならない(従来のやり方の通りとする)。
・訴訟規定は従来通りとする。
・当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。
・門跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。

〇「殿中御掟追加7か条」 1569年(永禄12年1月16日)

・寺社本所領、当知行之地、無謂押領之儀堅停止事
・請取沙汰停止事
・喧嘩口論之儀被停止訖、若有違乱之輩者、任法度旨、可有御成敗事、付、合力人同罪
・理不尽入催促儀堅停止事
・直訴訟停止事
・訴訟之輩在之者、以奉行人可致言上事
・於当知行之地者、以請文上可被成御下知事

    「仁和寺文書」

<現代語訳>

・(幕臣が)寺社本所領を押領することを停止すること
・請取沙汰を停止する事
・喧嘩口論の禁止、違反する者は法をもって成敗する。これに合力するものは同罪
・理不尽に催促する事の禁止
・将軍が訴訟を直接取り扱う事を禁止
・もし訴訟をしたいのであれば奉行人を通すこと
・占有地については関係を把握して差配すること

〇「殿中御掟追加5か条」1570年(永禄13年1月23日)

・諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事
・御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事
・公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事
・天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事
・天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

<現代語訳>

・諸国の大名に御内書を出す必要があるときは、必ず信長に報告して、信長の書状(副状)も添えて出すこと。
・これまでに義昭が諸大名に出した命令は全て無効とし、改めて考えた上でその内容を定めること。
・将軍家に対して忠節を尽くした者に恩賞・褒美をやりたくても、将軍には領地がないのだから、信長の領地の中から都合をつけるようにすること。
・天下の政治は何事につけてもこの信長に任せられたのだから、(天下静謐のための軍事的行動について信長は)誰かに従うことなく、将軍の上意を得る必要もなく、信長自身の判断で成敗を加えるべきである。
・天下が泰平になったからには、宮中に関わる儀式などを将軍に行って欲しいこと。

  「ウィキペディア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

允恭天皇42年第19代の天皇とされる允恭天皇の命日詳細
1602年(慶長7)江戸時代前期に活躍した絵師狩野探幽の誕生日(新暦3月7日)詳細
1866年(慶応2)兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者高島秋帆の命日(新暦2月28日)詳細
1906年(明治39)分子物理学者・生物物理学者小谷正雄の誕生日詳細
1943年(昭和18)米国のF・ルーズベルトと英国のW・チャーチルによる、カサブランカ会談(~23日)が始まる詳細
1953年(昭和28)人類学者・考古学者・民族学者鳥居龍蔵の命日詳細
1978年(昭和53)ジャーナリスト・編集者・装幀家・「暮しの手帖」編集長だった花森安治の命日詳細
1996年(平成8)法学者・弁護士於保不二雄の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

d904570b.jpg
 今日は、安土桃山時代の1588年(天正16)に、室町幕府最後の将軍・足利義昭が官職を辞し、准三宮の待遇を受け、室町幕府が名目上も滅亡した日ですが、新暦では2月9日となります。
 足利 義昭】(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代将軍です。戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。
 1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。
 しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。
 同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。
 1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。
 すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。
 それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、1597年(慶長2年8月28日)に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

〇足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移り、室町幕府が実質的に滅ぶ
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ることで、室町幕府が名目上も滅亡する
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる

☆室町幕府(むろまちばくふ)とは?

 足利氏が京都に開いた幕府による武家政権です。1336年(建武3)に、足利尊氏が建武式目を制定して武家政権開設の方向を示し、1338年(建武5)に征夷大将軍の宣下を受けて、名実ともに幕府の発足となりました。
 しかし、南北朝の対立が起こって、不安定だったものの、3代将軍義満に至って、南北朝の統一を果たし、全国政権となったのです。しかし、守護の台頭により動揺が絶えず、1441年(嘉吉元)赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する事件(嘉吉の乱)も起こりました。
 その後も、1467年(応仁元)に起こった応仁の乱以降戦乱が続いて、著しく幕府は弱体化したのです。そして、1573年(天正16)に織田信長によって、15代将軍足利義昭が追放されて、室町幕府は滅ぶことになりました。

☆室町幕府の歴代将軍(足利家)一覧

【初代】尊氏(たかうじ)1338年(建武5)~1358年(延文3)
・1338年 足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を開く
・1341年 天龍寺船を元へ送る
・1348年 四条畷の戦いが起こる
・1350年 観応の擾乱が起こる
・1352年 観応半済令が出される

【2代】義詮(よしあきら)1358年(貞治6)~1367年(延文3) 
・1366年 貞治の変が起こる

【3代】義満(よしみつ)1368年(応安元)~1394年(応永元)
・1368年 応安半済令が出される
・1391年 明徳の乱が起こる
・1392年 南北朝が合一する

【4代】義持(よしもち)1394年(応永元)~1423年(応永30)
・1397年 義満が京都の北山に金閣寺を建てる
・1399年 応永の乱がおこる
・1404年 勘合貿易が始まる

【5代義量(よしかず)1423年(応永30)~1425年(応永32)
 空白 4代義持が代理 1425年(応永32)~1428年(応永35)

【6代】義教(よしのり)1429年(正長2)~1441年(嘉吉元)
・1428年 正長の土一揆が起こる
・1429年 播磨の土一揆が起こる
・1438年 永享の乱が起こる
・1440年 結城合戦が起こる
・1441年 赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する

【7代】義勝(よしかつ)1442年(嘉吉2)~1443年 (嘉吉3)
【8代】義政(よしまさ)1449年(文安6)~1473年(文明5)
・1467年 応仁の乱がおこる

【9代】義尚(よしひさ)1473年(文明5)~1489年(長享3)
・1485年 山城国一揆が起こる
・1488年 加賀の一向一揆が起こる
・1489年 義政が京都東山に銀閣寺を建てる
 空白 8代義政が代理 1489年(長享3)~1490年(延徳2)

【10代】義稙(よしたね)1490年(延徳2)~1493年(明応2)

【11代】義澄(よしずみ)1494年(明応3)~1508年(永正5)
・1495年 北条早雲が小田原城を奪取する
 (再) 義稙(よしたね)1508年(永正5)~1521年(大永元)
・1510年 朝鮮三浦の日本人が富山浦を攻略(三浦の乱)

【12代】義晴(よしはる)1521年(大永元)~1546年(天文15)
・1523年 寧波の乱が起こる
・1543年 ポルトガル人が九州の種子島に鉄砲を伝える(鉄砲伝来)

【13代】義輝(よしてる)1546年(天文15)~1565年(永禄8)
・1549年 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来る
・1550年 ポルトガル船、肥前平戸に入港する
・1553年 第4次川中島の戦いが起こる
・1555年 厳島の戦いが起こる
・1560年 桶狭間の戦いが起こる
・1567年 織田信長が美濃加納に楽市令を出す

【14代】義栄(よしひで)1568年(永禄11)~1568年(永禄11)

【15代】義昭(よしあき)1568年(永禄11)~1573年(天正16)
・1568年 織田信長の後押しで義昭が将軍に就く
・1570年 姉川の戦いが起こる
・1571年 比叡山の焼き討ちが起こる
・1572年 三方ヶ原の戦いが起こる
・1573年 織田信長に義昭が追放され、室町幕府が実質的に滅ぶ
・1588年 足利義昭が官職を辞し、准三宮の待遇を受け、室町幕府が名目上も滅亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1199年(建久10)鎌倉幕府初代将軍源頼朝の命日(新暦2月9日)詳細
1653年(承応2)町人清右衛門が建議した多摩川から江戸への導水路(玉川上水)着工が許可される(新暦2月10日)詳細
1943年(昭和18)ジャズなど英米の音楽が「敵性音楽」とされ演奏・レコード発売が禁止になる詳細
1945年(昭和20)東海地方で三河地震(M6.8)が起き、死者・行方不明者2,306人を出す詳細
1966年(昭和41)「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(古都保存法)が公布される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家舟橋聖一の命日詳細
1992年(平成4)共和汚職事件で自民党の阿部文男衆議院議員(元北海道・沖縄開発庁長官)が逮捕される詳細
2001年(平成13)文芸評論家本多秋五の命日詳細
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ