ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、大正時代の1916年(大正5)に、「工場法」が施行された日です。
 この法律は、工場労働者の保護を目的とした法律で、日本では欧米より遅れ、明治時代後期の1910年(明治43)にやっと政府が議会に法案を提出しましたが、紡績資本家などの反対のために成立しませんでした。
 そして、翌年にいろいろな修正をされて、骨抜き状態のようになって3月29日に成立して公布され、5年後の1916年(大正5)9月1日に施行されたのです。
 日本における労働法の出発となるものでしたが、その内容は、12歳未満の者の就労禁止、16歳未満の児童および女子の労働時間の制限(当初1日12時間→改正で1日11時間)と深夜労働の禁止、業務上の傷病死亡に対する扶助制度等で、小規模工場(当初15人未満→改正で10人未満)は適用対象外となり、多くの例外規定があって、国際的にみても不十分なものでした。
 制定後、何度か改正されましたが、太平洋戦争後の1947年(昭和22)、労働基準法の制定によって廃止されたのです。

〇「工場法」(全文) 明治四四年三月二九日 法律第四六号

第一条 本法ハ左ノ各号ノ一ニ該当スル工場ニ之ヲ適応ス

 一 常時十五人以上ノ職工ヲ使用スルモノ

 二 事業ノ性質危険トセサル工場ハ勅命ヲ以テ之ヲ除外スルコトヲ得

第二条 工業主ハ十二才未満ノ者ヲシテ工場ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス但シ本法施行ノ際十才以上ノ者ヲ引続キ就業セスムル場合ハ此ノ限ニ在ラス

 行政官庁ハ軽易ナル業務ニ付就業ニ関スル条件ヲ附シテ十才以上ノ者ノ就業ヲ許可スルコトヲ得

第三条 工業主ハ十五才未満ノ者及女子ヲシテ一日ニ付十二時間ヲ超エテ就業セシムルコトヲ得ス

 主務大臣ハ業務ノ種類ニ依リ本法施行後一五年間ヲ限リ前項ノ就業時間ヲ二時間以内延長スルコトヲ得

 就業時間ハ工場ヲ異ニスル場合ト雖前二項ノ規定ノ適用ニ付テハ之ヲ通算ス

第四条 工業主ハ十五才未満ノ者及女子ヲシテ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス

第五条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場合ニ於テハ前条ノ規定ヲ適用セス但シ本法施行十五年後ハ一四才未満ノ者及二十才未満ノ女子ヲシテ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セスムルコトヲ得ス

 一 一時ニ作業ヲ為スコトヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ就カシムルトキ

 二 夜間ノ作業ヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ就カシムルトキ

 三 昼夜連続作業ヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ就業セシムルトキ

 前項ニ掲ケタル業務ノ種類ハ主務大臣之ヲ指定ス

第六条 職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ就業セシムル場合ニ於テハ本法施行後十五年間第四条ノ規定ヲ適用セス

第七条 工業主ハ十五才未満ノ者及女子ニ対シ毎月少クトモ二回ノ休日ヲ設ケ職工ヲ二組ニ分チ交替ニ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ就業セシムル場合及第五条第一項第二号ニ該当スル場合ニ於テハ少クトモ四回ノ休日ヲ設ケ又一日ノ就業時間カ六時間ヲ超ユルトキハ少クトモ三十分、十時間ヲ超ユルトキハ少クトム一時間ノ休憩時間ヲ就業時間中ニ於テ設クヘシ

 職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セシムルトキハ十日ヲ越エサル期間毎ニ其ノ就業時ヲ転換スヘシ

第八条 天災事変ノ為又ハ事変ノ虞アル為必要アル場合ニ於テハ主務大臣ハ事業ノ種類及地域ヲ限リ第三条乃至第五条及前条ノ規定ノ適用ヲ停止スルコトヲ得

 避クヘカサル事由ニ因リ臨時必要アル場合ニ於テハ工業主ハ行政官庁ノ許可ヲ得テ期間ヲ限リ第三条ノ規定ニ拘ラス就業時間ヲ延長シ、第四条及第五条ノ規定ニ拘ラス職工ヲ 就業セシメ又ハ前条ノ休日ヲ廃スルコトヲ得

 臨時必要アル場合ニ於テハ工場主ハ其ノ都度予メ行政官庁ニ届出テ一月ニ付七日ヲ超エサル期間就業時間ヲ二時間以内延長スルコトヲ得

 季節ニ依リ繁忙ナル事業ニ付テハ工業主ハ一定ノ期間ニ月予メ行政官庁ノ許可ヲ受ケ其ノ期間中一年ニ付百二十日ノ割合ヲ超エサル限リ就業時間ヲ一時間以内延長スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ其ノ許可ヲ受ケタル期間内ハ前項ノ規定ヲ適用セス

第九条 工業主ハ十五才未満ノ者及女子ヲシテ運転中ノ機械若ハ動力伝導装置ノ危険ナル部分ノ掃除、注油、検査若ハ修繕ヲ為サシメ又ハ運転中ノ機械若ハ動力伝導装置ニ調帯、調索ノ取附ケ若ハ取外シヲ為サシメ其ノ他危険ナル業務ニ就カシムルコトヲ得ス

第十条 工業主ハ十五才未満ノ者ヲシテ毒薬、劇薬其ノ他有害料品又ハ爆発性、発火性若ハ引火性ノ料品ヲ取扱フ業務及著シク塵埃、粉末ヲ飛散シ又ハ有害瓦斯ヲ発散スル場所ニ於ケル業務其ノ他危険又ハ衛生上有害ナル場所ニ於ケル業務ニ就カシムルコトヲ得ス

第十一条 前二条ニ掲ケタル業務ノ範囲ハ主務大臣之ヲ定ム

 前条ノ規定ハ主務大臣ノ定ムル所ニ依リ十五才以上ノ女子ニ付之ヲ適用スルコトヲ得

第十二条 主務大臣ハ病者又ハ産婦ノ就業ニ付制限又ハ禁止ノ規定ヲ設クルコトヲ得

第十三条 行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ依リ工場及付属建設物並設備ヵ危害ヲ生シ又ハ衛星、風紀其ノ他公益ヲ害スル虞アリト認ムルトキハ予防又ハ除害ノ為必要ナル事項ヲ工業主ニ命シ必要ト認ムルトキハ其ノ全部又ハ一部ノ使用ヲ停止スルコトヲ得

第十四条 当該官吏ハ工場又ハ其ノ付属建設物ニ臨検スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ其ノ証票ヲ携帯スヘシ

第十五条 職工自己ノ重大ナル過失ニ依ラスシテ業務上負傷シ、疾病ニ罹リ又ハ死亡シタルトキハ工業主ハ勅命ノ定ムル所ニ依リ本人又ハ其ノ遺族ヲ疾序スヘシ

第十六条 職工徒弟、職工徒弟タラムトスル者若ハ工業主又ハ其ノ法定代理人若ハ工場管理人ハ職工徒弟又ハ職工徒弟タラムトスル者ノ戸籍ニ関シ戸籍吏ニ対シ無償ニテ証明ヲ求ムルコトヲ得

第十七条 職工ノ雇入、解雇、周旋ノ取締及徒弟ニ関スル事項ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第十八条 工業主ハ工場ニ付一切ノ権限ヲ有スル工場管理人ヲ選任スルコトヲ得

 工業主本法施行区域ニ居住セサルトキハ工場管理人ヲ選任スルコトヲ要ス

 工場管理人ノ選任ハ行政官庁ノ認可ヲ受クヘシ但シ法人ノ理事会社ノ業務ヲ執行スル社員、会社ヲ代表スル社員、取締役、業務担当社員其ノ他法令ノ規定ニ依リ法人ヲ代表スル者及支配人ノ中ヨリ選任スル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第十九条 前条ノ工場管理人ハ本法及本法ニ基キテ発スル命令ノ適用ニ付テハ工業主ニ代ルモノトス但シ第十五条ニ付テハ此ノ限ニ在ラス

 工業主営業ニ関シ成年者ト同一ノ能力ヲ有セサル未成年者若ハ禁治産者ナル場合又ハ法人ナル場合ニ於テ工場管理人ナキトキハ其ノ法定代理人又ハ理事、業務ヲ執行スル社員、会社ヲ代表スル社員、取締役、業務担当社員其ノ他法令ノ規定ニ依リ法人ヲ代表スル者ニ付亦前項ニ同シ

第二十条 第二条及至第五条、第七条、第九条又ハ第十条ノ規定ニ違反シタル者及第十三条ノ規定ニ依ル処分ニ従ハサル者ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス

第二十一条 正当ノ理由ナクシテ当該官吏ノ臨検ヲ拒ミ若ハ之ヲ妨ケ若ハ其ノ訊問ニ対シ答弁ヲ為ササル者ハ三百円以下ノ罰金ニ処ス

第二十二条 工業主又ハ第十九条ニ依リ工業主ニ代ル者ハ其ノ代理人、戸主、家族、同居者、雇人其ノ他ノ従業者ニシテ本法又ハ本法ニ基キテ発スル命令ニ違背スル所為ヲ為シタルトキハ自己ノ指揮ニ出テサルノ故ヲ以テ其ノ処罰ヲ免ルルコトヲ得ス但シ工場ノ管理ニ付相当ノ注意ヲ為シタルトキハ此ノ限ニ在ラス

 工業主又ハ第十九条ニ依リ工業主ニ代ル者ハ職工ノ年令ヲ知ラサルノ故ヲ以テ本法ノ処罰ヲ免ルルコトヲ得ス但シ工業主又ハ第十九条ニ依リ工業主ニ代ル者及取扱者ニ過失ナカリシ場合ハ此ノ限ニ在ス

第二十三条 本法ニ依ル行政官庁ノ処分ニ不服アル者ハ祈願ヲ提起シ違法ニ権利ヲ障害セラレタリトスルトキハ行政訴訟ヲ提起スルコトヲ得

第二十四条 主務大臣ハ第一条ニ該当セサル工場ニシテ原動力ヲ用フルモノニ付テハ第九条、第十条、第十三条、第十四条、第十六条及第十八条及至第二十三条ノ規定ヲ適用スルコトヲ得

第二十五条 本法又ハ本法ニ基キテ発スル命令ハ工場管理人ニ関スル規定及罰則ヲ除クノ外官立又ハ公立ノ工場ニ之ヲ適用ス

 官立工場ニ関シテハ所轄官庁ハ本法又ハ本法ニ基キテ発スル命令ニ依リ行政官庁ニ属スル職務ヲ行フ

   附 則

本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

                           『官報』より
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 今日は、大正時代の1913年(大正2)に、医師エルヴィン・フォン・ベルツの亡くなった日です。
 ベルツは、明治時代前期に日本に招かれたお雇い外国人の一人で、ドイツ人医師です。1849年(嘉永2)南ドイツのビーティヒハイムに生まれ、1866年(慶応元)チュービンゲン大学で医学を修め、ライプツィヒ大学で臨床を学びました。
 1876年(明治9)、日本政府の招聘により来日し、東京医学校(後の東京大学医学部)で内科教授として教鞭をとりました。
 その頃、日本の医療上で大きな問題となっていた寄生虫病、恙虫病、脚気などの研究で業績を上げましたが、日本の温泉の医療における活用をすすめたことでも知られています。
 1881年(明治14)、東海道御油宿(現在の愛知県豊川市御油町)戸田屋の荒井花子と結婚し、1男1女をもうけましたが、1905年(明治38)に帰国しました。そして、1913年(大正2)8月31日にドイツにおいて、64歳で亡くなっています。
 1880年(明治13)に著した『日本鉱泉論』(ベルツが日本の温泉地の改良を目的として内務省に提出した建白書の翻訳書)と日記や手紙を編集した『ベルツの日記』、そして、「ベルツ水」が有名です。
 尚、愛知県豊川市の西明寺に墓碑・供養塔と水原秋桜子による顕彰句碑があります。

〇『ベルツの日記』とは?
 1876年(明治9)、日本政府の招聘により来日したお雇い外国人の一人、エルヴィン・フォン・ベルツの日記です。
 東京医学校(後の東京大学医学部)で内科教授として教鞭をとりながら、いく度かの帰国をはさんで滞日29年におよんだ日々について記されていて、原題は「黎明期日本における一ドイツ人医師の生活」といい、かれが日本人妻ハナとの間にもうけた長男トク・ベルツの編集によるものでした。
 当時の西洋人から見た明治時代前期の日本の様子が詳細にわたって描写され、要人との交流の様子も描かれていて、とても面白いものです。また、温泉についても書かれていて、興味深いものでした。
 以下に、『ベルツの日記』から世相や温泉についての記述をいくつか抜粋しておきます。

一八八〇年(明治13年)
八月十七日(伊香保)
 過去二週間にはいろいろと不満もあったが、また満足も少なくなかった。なかんずく、自分の計画が伊香保で確実な基礎を見出したことがそれだ。まず源泉湯元への道路を手入れせねばならないし、つぎに蒸湯と榛名湖方面へ通じる正式の道路に取りかからねばならない。街路の取締りを実施する。藝者や賣笑婦たちを村はずれに追放して、その騒ぎをなくするようにせねばならない。

一八八九年(明治22年)
二月九日(東京)
 東京全市は十一日の憲法発布をひかえてその準備のため言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ奉祝門・照明・行列の計画、だが滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じないのだ。

二月十一日(東京)
 本日憲法発布。天皇の前には、やや左方に向かって諸大臣、高官が整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなければ立場をかえて現在将軍であったはずの徳川亀之助氏や、ただ一人(洋服姿でいながら)なお正真正銘の旧い日本のまげをつけているサツマの島津候を認めた。珍妙な光景だ!………残念ながらこの祝日は、忌まわしい出来事で気分をそがれてしまった―――森文相の暗殺である。

二月十六日(東京)
 ………日本憲法が発表された。もともと国民に委ねられた自由なるものはほんの僅かである。しかしながら不思議なことに、以前は『奴隷化された』ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって悲憤慷慨したあの新聞がすべて満足の意を表しているのだ。

一八九〇年(明治23年)
十月十四日(東京)
 第一期の議会は、十一月二十五日に招集せられる事になった。条約改正は、恐らくはその以前には完了するまい。
 余に依り、草津近傍の白根山の火口に於いて発見せられた塩酸(鉄・明礬)泉は卓越せる医治効能を発揮する見込みである。余等は目下、該鉱泉を病院に於て試験して居るが、その結果は甚だ満足すべきものがある。

十月十五日(東京)
 十三日、近藤氏の世話で草津に五千七百坪の土地と鉱泉を購った。

一九〇四年(明治37年)
九月二十一日(草津)
 雨、雨、当地はもう、木の葉の色でねはっきりと秋だ。目もあやに彩られた山々は、まったく絵のようである。

九月二十三日(草津)
 好晴のきょうの日を、白根活火山の初登攀に費した。草津から三時間の登りである。余は、四度火口の変化せるを見たのである。奇妙なのは此の廔々山形を改める噴火が、至近の距離に在る草津で、全然認知されないが或は殆んど気づかれないことである。固より噴火は、多くの暴風を、時々は雷雨を伴い起る故もあるのだ。

九月二十五日(草津ー東京)
 六十粁の長道は、ひたすらに山地を貫いて走り、その絵の如き地形、人跡絶えたるカニヨン式の峡谷、山の急斜面には鬱蒼たる濶葉樹林茂り、丸い頂は一面に青天絨鵞を敷きたるが如き草原。世界の何処に出しても「魅するが如き美しさ」で通ろう。
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 今日は、昭和時代前期の日中戦争中の1941年(昭和16)に、「金属類回収令」が公布された日です。 
 これは、鉄や銅など、戦争のための銃や砲弾に使う戦略物資の不足を補うため、政府が1941年(昭和16)8月30日に公布した勅令(昭和16年勅令第667号)で、9月1日より施行されました。
 その後、太平洋戦争に突入していく中で、昭和16年勅令第1004号および昭和18年勅令第342号による改正がなされ、さらに、1943年(昭和18)8月12日の金属類回収令(昭和18年勅令第667号)により、全面改正されたのです。
 また戦局が悪化する中で、1945年(昭和20)には、回収対象にアルミニウムを追加する改正(昭和20年2月10日勅令第62号)が行われました。
 これらによって、家庭の鍋や釜、寺院の釣り鐘などまでが供出させられたのです。しかし、敗戦後の1945年(昭和20)10月19日、閣議において「戦時法令の整理に関する件」が決定され、廃止されました。

〇「金属類回収令」(全文) 昭和16年勅令第835号

第一条 国家総動員法(昭和十三年勅令第三百十七号ニ於テ依ル場合ヲ含ム以下同ジ)第八条ノ規定ニ基ク回収物件ノ譲渡其ノ他ノ処分、使用及移動ニ関スル命令並ニ国家総動員法第五条ノ規定ニ基ク回収物件ノ譲受ニ関スル協力命令ニ付テハ本令ノ定ムル所ニ依ル

第二条 本令ニ於テ回収物件トハ鉄、銅又ハ黄銅、青銅其ノ他ノ銅合金ヲ主タル材料トスル物資ニシテ閣令ヲ以テ指定スルモノヲ謂フ

第三条 閣令ヲ以テ指定スル施設ニ備附ケタル回収物件(以下指定施設ニ於ケル回収物件ト称ス)ニシテ閣令ヲ以テ指定スルモノヲ所有シ又ハ権原ニ基キ占有スル者ハ当該回収物件ニ付譲渡其ノ他ノ処分ヲ為シ又ハ之ヲ移動スルコトヲ得ズ但シ商工大臣ノ指定スル者(以下回収機関ト称ス)ニ譲渡スル場合及命令ヲ以テ定ムル場合ハ此ノ限ニ在ラズ

第四条 商工大臣ハ地域ヲ限リ其ノ地域内ノ指定施設ニ於ケル回収物件ニシテ前条ノ規定ニ依リ閣令ヲ以テ指定スルモノ以外ノモノヲ所有シ又ハ権原ニ基キ占有スル者ニ対シ一般的ニ当該回収物件ノ譲渡其ノ他ノ処分又ハ移動ヲ制限スルコトヲ得

第五条 地方長官ハ回収物件ノ所有者ニ対シ期限ヲ指定シテ回収機関ニ当該回収物件ノ譲渡ノ申込ヲ為スベキコトヲ勧告スルコトヲ得

第六条 指定施設ニ於ケル回収物件ニシテ第三条ノ規定ニ依リ閣令ヲ以テ指定スルモノヲ所有スル者ハ閣令ヲ以テ指定スル期日迄ニ回収機関ニ対シ当該回収物件ノ譲渡ノ申込ヲ為スベシ但シ命令ヲ以テ定ムル場合ハ此ノ限ニ在ラズ

第七条 商工大臣ハ地域ヲ限リ其ノ地域内ノ指定施設ニ於ケル回収物件ニシテ第三条ノ規定ニ依リ閣令ヲ以テ指定スルモノ以外ノモノヲ所有スル者ニ対シ期限ヲ指定シテ回収機関ニ当該回収物件ノ譲渡ノ申込ヲ為スベキコトヲ一般的ニ命ズルコトヲ得

第八条 指定施設ニ於ケル回収物件ノ所有者第五条乃至前条ノ規定ニ依リ譲渡ノ申込ヲ為シタルトキハ当該所有者又ハ当該回収物件ヲ権原ニ基キ占有スル者ハ回収機関ノ請求ニ応ジ遅滞ナク当該回収物件ノ引渡ヲ為スベシ
2 前項ノ請求アリタル場合ニ於テ当該回収物件ヲ所有シ又ハ権原ニ基キ占有スル者ハ回収機関ニ対シ当該回収物件ノ撤去又ハ引取ヲ請求スルコトヲ得
3 回収機関前二項ノ規定ニ依リ当該回収物件ノ引渡ヲ受ケタルトキハ受領調書ヲ作リ引渡ヲ為シタル所有者又ハ占有者ニ之ヲ交付スベシ

第九条 撤去費其ノ他回収物件ノ引渡ニ要スル費用及修理費ハ回収機関ノ負担トス
2 回収物件ノ用途又ハ備附ノ状況ニ鑑ミ特ニ代替物件ノ備附ヲ必要トスル場合ニ於テ代替物件ノ価額ト其ノ備附ニ要スル費用トノ合計額ガ当該回収物件ノ価額ヲ超ユルトキハ前項ノ費用ノ他其ノ超過分ハ回収機関ノ負担トス
3 前二項ノ規定ニ依リ回収機関ニ於テ負担スベキ額ハ前条第二項ノ規定ニ依リ撤去又ハ引取アリタル場合ヲ除クノ外第十条ノ規定ニ依ル協議又ハ裁定ニ依リ定マル額トス

第十条 回収機関第五条乃至第七条ノ規定ニ依リ指定施設ニ於ケル回収物件ノ所有者ヨリ譲渡ノ申込ヲ受ケタルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ当該回収物件ノ譲渡価額及前条ノ規定ニ依リ回収機関ニ於テ負担スベキ額(第八条第二項ノ規定ニ依ル撤去及引取ノ費用ノ額ヲ除ク)ニ付遅滞ナク当該所有者又ハ当該回収物件ヲ権原ニ基キ占有スル者ト協議スベシ此ノ場合ニ於テ協議調ハザルトキ又ハ協議ヲ為スコト能ハザルトキハ地方長官之ヲ裁定ス
2 前項ノ場合ニ於ケル回収物件ノ譲渡価格、前条第一項ノ費用並ニ同条第二項ノ代替物件ノ価額及其ノ備附ニ要スル費用ノ基準ハ商工大臣之ヲ定ム

第十一条 回収物件ニ関シ強制競売手続、国税徴収法ニ依ル強制徴収手続又ハ土地収用法、工場事業場使用収用令、土地工作物管理使用収用令若ハ総動員物資使用収用令ニ依ル使用若ハ収用ノ手続其ノ他此等ノ手続ニ準ズベキモノノ進行中ナルトキハ其ノ進行中ニ限リ当該回収物件ニ関シテハ第三条乃至第七条ノ規定ハ之ヲ適用セズ

第十二条 第六条又ハ第七条ノ規定ニ依リ為シタル回収物件ノ譲渡ハ其ノ法令ニ拘ラズ其ノ効力ヲ有ス
2 第六条又ハ第七条ノ規定ニ依リ譲渡スベキ回収物件ニ付存シタル担保権ハ其ノ法令ニ拘ラズ当該回収物件ニ付其ノ譲渡ノ時ヨリ之ヲ行フコトヲ得ズ
3 前項ノ場合ニ於テハ当該担保権者ハ当該回収物件ノ対価トシテ受クベキ金銭及当該回収物件ニ付第九条第二項ノ超過分トシテ受クベキ金銭ニ対シ其ノ権利ヲ行フコトヲ得

第十三条 回収機関回収物件ヲ譲受ケタルトキハ商工大臣ノ指定スル回収機関ニ対シ譲渡スル場合其ノ他命令ヲ以テ定ムル場合ヲ除クノ外当該回収物件ニ付譲渡其ノ他ノ処分ヲ為シ又ハ之ヲ使用スルコトヲ得ズ

第十四条 商工大臣ハ個人及法人其ノ他ノ団体ヲシテ回収機関ノ行フ回収物件ノ譲受其ノ他之ニ関連スル業務ニ協力セシムルコトヲ得

第十五条 商工大臣又ハ地方長官ハ回収物件ニ関シ国家総動員法第三十一条ノ規定ニ依リ回収機関及回収物件ノ所有者其ノ他ノ関係人ヨリ必要ナル報告ヲ徴シ又ハ当該官吏ヲシテ当該回収物件ノ所在ノ場所其ノ他必要ナル場所ニ臨検シ業務ノ状況若ハ当該回収物件、書類、帳簿等ヲ検査セシムルコトヲ得
2 前項ノ規定ニ依リ当該官吏ヲシテ臨検検査セシムル場合ニ於テハ其ノ身分ヲ示ス証票ヲ携帯セシムベシ

第十六条 商工大臣ハ本令ニ規定スル職権ノ一部ヲ地方長官ニ委任スルコトヲ得

第十七条 本令中地方長官トアルハ鉱業又ハ砂鉱業ニ属スル施設ニ関シテハ鉱山監督局長、電気事業ニ属スル施設ニ関シテハ逓信局長、地方鉄道又ハ専用鉄道ニ属スル施設ニ関シテハ鉄道局長トス
2 逓信局長又ハ鉄道局長本令ニ規定スル事務ヲ行フ場合ニ於テハ商工大臣ノ指揮監督ヲ承ク

第十八条 本令中商工大臣トアルハ朝鮮、台湾、樺太又ハ南洋群島ニ在リテハ各朝鮮総督、台湾総督、樺太庁長官又ハ南洋庁長官トシ地方長官トアルハ朝鮮ニ在リテハ道知事(電気事業ニ属スル施設ニ関シテハ朝鮮総督府逓信局長、私設鉄道又ハ専用鉄道ニ属スル施設ニ関シテハ朝鮮総督府鉄道局長)、台湾ニ在リテハ州知事又ハ庁長(電気事業又ハ私設鉄道ニ属スル施設ニ関シテハ台湾総督府交通局総長)、樺太ニ在リテハ樺太庁長官、南洋群島ニ在リテハ南洋庁長官トス
2 本令中閣令トアルハ朝鮮又ハ台湾ニ在リテハ総督府令、樺太又ハ南洋群島ニ在リテハ庁令トス

  附 則

本令ハ昭和十六年九月一日ヨリ之ヲ施行ス但シ朝鮮、台湾、樺太又ハ南洋群島ニ在リテハ昭和十六年十月一日ヨリ之ヲ施行ス

                             「官報」より
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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、奈良県生駒山(鳥居前駅~宝山寺駅)に生駒鋼索鉄道(現在の近畿日本鉄道生駒鋼索線)によって、日本初のケーブルカーが開業した日で、「ケーブルカーの日」とも呼ばれています。
 このケーブルカーの路線は、1918年(大正7)8月29日に、近畿日本鉄道の前身である大阪電気軌道の系列会社の生駒鋼索鉄道により、宝山寺への参拝客を見込んで、鳥居前駅~宝山寺駅間(宝山寺1号線)に建設されたもので、路線距離は0.9km、高低差146m、最急勾配227‰でした。
 その後、1922年(大正11)1月25日に、大阪電気軌道が生駒鋼索鉄道を合併したのです。
 そして、1926年(昭和元)12月30日に、宝山寺2号線が開業して、鳥居前駅~宝山寺駅間が複線化しました。
 さらに、1929年(昭和4年)3月27日に、生駒山上に建設された遊園地のためのアクセス路線の山上線として、宝山寺駅~生駒山上駅間が開業しましたが、路線距離は1.1km、高低差322m、最急勾配333‰で、中間駅が2駅(梅屋敷駅・霞ヶ丘駅)ありました。
 太平洋戦争中の1944年(昭和19) 2月11日に、山上線が不要不急線として休止させられましたが、戦後復活して現在に至っています。

〇日本のケーブルカー(鉄道事業法によるもの)一覧
・青函トンネル記念館青函トンネル竜飛斜坑線(青函トンネル体験坑道)全長778m、最大勾配250‰
・筑波観光鉄道 筑波山鋼索鉄道線(筑波山)全長1,634m、最大勾配358‰、高低差495m
・高尾登山電鉄高尾鋼索線(高尾山)全長1,020m、最大勾配608‰、高低差271m
・御岳登山鉄道(御岳山) 全長1,107m、最大勾配470‰、高低差424m
・箱根登山鉄道鋼索線(箱根山)全長1,240m、最大勾配200‰、高低差214m、中間駅4駅あり
・大山観光電鉄大山鋼索線(大山)全長786m、最大勾配477‰、高低差278m、中間駅1駅あり
・伊豆箱根鉄道十国鋼索線(十国峠)全長317m、最大勾配408‰、高低差101m
・立山黒部貫光鋼索線(立山黒部平)全長828m、最大勾配587‰、高低差373m
・立山黒部貫光鋼索線(立山美女平)全長1,366m、最大勾配560‰、高低差487m
・比叡山鉄道比叡山鉄道線(比叡山延暦寺)全長2,025m、最大勾配333‰、高低差484m、中間駅2駅あり
・京福電気鉄道鋼索線(比叡山延暦寺)全長1,458m、最大勾配530‰、高低差561m
・鞍馬山鋼索鉄道(鞍馬山鞍馬寺)全長207m、最大勾配499‰、高低差89m
・丹後海陸交通天橋立鋼索鉄道(天橋立傘松展望台)全長391m、最大勾配461‰、高低差115m
・近畿日本鉄道生駒鋼索線宝山寺線(生駒山)全長948m、最大勾配227‰、高低差146m
・近畿日本鉄道生駒鋼索線山上線(生駒山)全長1,124m、最大勾配333‰、高低差322m、中間駅2駅あり
・近畿日本鉄道西信貴鋼索線(高安山)全長1,263m、最大勾配480‰、高低差354m
・南海電気鉄道鋼索線(高野山金剛峯寺)全長864m、最大勾配563‰、高低差329m
・京阪電気鉄道鋼索線(男山石清水八幡宮)全長411m、最大勾配206‰、高低差82m
・能勢電鉄鋼索線(妙見山)全長666m、最大勾配424‰、高低差229m
・六甲山観光六甲ケーブル線(六甲山)全長1,764m、最大勾配498‰、高低差493m
・神戸すまいまちづくり公社摩耶ケーブル線(摩耶山)全長964m、最大勾配547‰、高低差312m
・四国ケーブル(五剣山)全長684m、最大勾配288‰、高低差167m
・皿倉登山鉄道(皿倉山)全長1,191m、最大勾配528‰、高低差441m
・岡本製作所別府ラクテンチケーブル線(別府ラクテンチ)全長253m、最大勾配558‰、高低差122m
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 今日は、奈良時代の785年(延暦4年)に、貴族・歌人大伴家持の亡くなった日ですが、新暦では10月5日となります。
 大伴家持は、奈良時代の貴族・歌人(三十六歌仙の一人)で、718年(養老2)頃に、父大伴旅人、母丹比郎女の長男として生まれたとされています。
 少年時代の727年(神亀4)頃、父に伴われ大宰府で生活し、730年(天平2)に帰京しました。738年(天平10)には内舎人となっていて、恭仁京を称える歌や故安積親王を傷む挽歌を詠み、745年(天平17)に従五位下に叙せられ、翌年7月越中守として赴任して、751年(天平勝宝3)少納言となって帰京しています。
 その後、754年(天平勝宝6)に兵部少輔となり、この頃防人たちの歌を書き留め、さらに757年(天平勝宝9)には兵部大輔と昇進しましたが、大伴一族の命運にかかわる事件が続いて、758年(天平宝字2)因幡守に左降されました。
 以後12年間に渡って、地方官を転々とした生活を送り、ようやく770年(宝亀1)6月に民部少輔となり、10月には21年ぶりで正五位下に昇叙したのです。
 それからは、諸官を歴任して780年(宝亀11)参議に任ぜられて公卿に列したものの、政争に巻き込まれ紆余曲折を経て、783年(延暦2)には、中納言となりました。
 翌年には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となりましたが、785年(延暦4年8月28日)に、68歳?で亡くなったのです。しかし、没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、首謀者とされて除名(806年(大同元)に復権)の上、子永主も隠岐に流されました。
 『万葉集』の編者の一人とも言われ、収載された歌が最も多く、長歌46、短歌425、旋頭歌1首、合計472首に上ります。

〇大伴家持の代表的な歌

・「雨晴れて清く照りたる此の月夜又更にして雲なたなびき」
・「立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬あぶみ漬かすも」
・「ふり放けて三日月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも
・「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」(百人一首)
・「うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しも独りし思へば」
・「燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く」
・「春の野にあさる雉の妻恋ひに己があたりを人に知れつつ」
・「卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴きわたる」
・「妹が袖われ枕かむ河の瀬に霧たちわたれ小夜ふけぬとに」
・「沫雪の庭に降りしき寒き夜を手枕まかず一人かも寝む」
・「あしひきの山の木末の寄生とりて挿頭しつらくは千年寿くとぞ」
・「石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて小鷹狩だにせずや別れむ」
・「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟榜ぎ隠る見ゆ」
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