ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、1953年(昭和28)に小説家堀辰雄が亡くなった日で、辰雄忌と呼ばれています。
 堀辰雄は、昭和時代に活躍した小説家で、1904年(明治37)、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に生まれ、東京府第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)から、第一高等学校理科乙類へ入学しました。
 その頃から文学に目覚め、『校友会雑誌』にエッセイや詩を投稿しています。その後、東京帝国大学文学部国文科に入学し、中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊しましたが、重い肋膜炎を患い、3ヶ月ほど休学しました。
 芥川龍之介の自殺の衝撃を卒業論文『芥川龍之介論』に書き、卒業後は、1930年(昭和5)に「聖家族」を雑誌『改造』に発表し、文壇で高い評価を受けることになります。しかし、喀血をして自宅療養したものの、病状が好転せず、3ヶ月間、長野県の富士見高原療養所に入院しました。
 その後、矢野綾子と婚約しましたが、綾子は結核のために富士見高原療養所で、1935年(昭和10)に死去し、その体験が、代表作である小説『風立ちぬ』のモチーフとなったと言われています。
 昭和10年代以降は、病気療養をしながらも、王朝文学や古代への関心も深めて『かげろふの日記』、『曠野』、『大和路・信濃路』などの作品も残しました。太平洋戦争末期に信州信濃追分に疎開、その地で療養を続けましたが、 1953年(昭和28)に48歳で亡くなります。
 現在、ゆかりの地である信濃追分に「堀辰雄文学記念館」が開設されていますが、そこに随筆『大和路・信濃路』の文学碑もあります。この随筆は、以前は国語の教科書にもよく掲載されていて、なじみの深い方もみえると思います。
 堀辰雄は、折口信夫から日本の古典文学について教えを受け、王朝文学を題材にした『かげろふの日記』を執筆しましたが、その頃から日本の古代に対する思いを深め、1937年(昭和12)6月から1943年(昭和18)5月にかけて計6回奈良を訪れています。それらの旅行を随筆的にまとめたものを雑誌『婦人公論』に1943年(昭和18)1月から8月まで『大和路・信濃路』として連載しました。それに「樹下」を加え、戦後の1946年(昭和21)に、単行本『花あしび』の中に収録されて刊行されたのです。堀辰雄が大和路や信濃路を歩いた時の感動が伝わってくるような文章で、これを携行して旅した人も少なくないと思われますが、以下に一部を引用しておきます。

〇堀辰雄の主要な作品

・『聖家族』(1930年)
・『恢復期』 (1931年)
・『燃ゆる頬』 (1932年)
・連作『美しい村』 (1933年)
・『物語の女』 (1934年)
・連作『風立ちぬ』 (1936~38年)
・『菜穂子』 (1941年)
・『かげろふの日記』 (1937年)
・『曠野(あらの)』(1941年)
・紀行文『大和路・信濃路』 (1943年)
・『雪の上の足跡』 (1946年)

○随筆『大和路・信濃路』の「浄瑠璃寺の春」から

 この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英や薺のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
 最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。
 なにもかもが思いがけなかった。――さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた一人の娘にたずねてみると、「九体寺やったら、あこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたずねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと教えてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上り切って、さあもうすこしと思って、僕たちの目のまえに急に立ちあらわれた一かたまりの部落とその菜畑を何気なく見過ごしながら、心もち先きをいそいでいた。あちこちに桃や桜の花がさき、一めんに菜の花が満開で、あまつさえ向うの藁屋根の下からは七面鳥の啼きごえさえのんびりと聞えていて、――まさかこんな田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が――はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやってきた当の寺があるとは思えなかったのである。……
「なあんだ、ここが浄瑠璃寺らしいぞ。」僕は突然足をとめて、声をはずませながら言った。「ほら、あそこに塔が見える。」
「まあ本当に……」妻もすこし意外なような顔つきをしていた。
「なんだかちっともお寺みたいではないのね。」
「うん。」僕はそう返事ともつかずに言ったまま、桃やら桜やらまた松の木の間などを、その突きあたりに見える小さな門のほうに向って往った。何処かでまた七面鳥が啼いていた。
 その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。
 どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。
「何をいつまでもそうしているのだ。」僕はとうとうそう言いながら、妻を促した。
 僕は再び言った。「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」
「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」
「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。

☆浄瑠璃寺とは?
 京都府木津川市にある真言律宗の寺院で、本尊は九体阿弥陀如来(国宝)と薬師如来(国指定重要文化財)で、1047年(永承2)に義明上人により開基されたと伝えられています。平安時代後期建立の本堂と三重塔(いずれも国宝)が残り、平安時代の寺院の雰囲気を今に伝えているのです。緑豊かな境内は、梵字の阿字をかたどった池を中心にした浄土式庭園で、東に薬師仏、西に阿弥陀仏を配した極楽世界を表現しているとのことです。とても貴重なものなので、1985年(昭和60)に国の特別名勝になっています。
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 今日は、1235年(文暦2)に、藤原定家によって「小倉百人一首」が完成されたことにちなむ百人一首の日とされています。
 これは、藤原定家著『明月記』の文暦2年(1235)5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの記述があって、この記載が、「小倉百人一首」の初出ではないかと考えられていることによります。その記述は以下のとおりです。

予本自不知書文字事。嵯峨中院障子色紙形、故予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之。古来人歌各一首、自天智天皇以来及家隆雅経。
 
☆「小倉百人一首」とは?
 藤原定家が撰んだと言われる秀歌撰で、鎌倉時代の1235年(文暦2)頃に成立したと考えられています。飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳天皇に至る約550年間に、貴族や僧侶などの歌人たちの間で詠まれた和歌から、百人の有力歌人の歌を一首ずつ選んだもので、すべて勅撰和歌集から集められています。その10の和歌集と選ばれた数を列挙しておきます。
 古今集(24首)、後撰集(7首)、拾遺集(11首)、後拾遺集(14首)、金葉集(5首)、詩花集(5首)、千載集(14首)、新古今集(14首)、新勅撰集(4首)、続後勅撰集(2首)
 京都の小倉山荘で撰ばれたので、この名があり、近世以後、歌ガルタとして広まりました。

〇「小倉百人一首」中の私の好きな歌を8首載せておきます。

・「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思ひを」(藤原実方朝臣)
・「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」(紫式部)
・「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」(小式部内侍)
・「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」(伊勢大輔)
・「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木」(権中納言定頼)
・「嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり」(能因法師)
・「憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを」(源俊頼朝臣)
・「村雨の 露もまだひぬ 槇の葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ」(寂蓮法師)
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 今日は、1969年(昭和44)に、東名高速道路の大井松田インターチェンジ~御殿場インターチェンジが開通し、東京から愛知県小牧市まで全長346kmにおよぶ東名高速道路が全線開通した日です。
 これによって、小牧インターチェンジで、4年前に完成していた名神高速車道と接続し、関東から関西が高速道路で結ばれることになり、日本の大動脈となりました。
 東名高速道路の構想は、1953年(昭和28)に当時の建設省が公表した「東京神戸間有料道路計画書」が始めです。そして、時の政府は最初に整備すべき区間を名古屋~神戸間に限定し、名神高速道路として先行建設されることになりましたが、それは、東京オリンピック前の1964年(昭和39)に部分開通し、翌年に全線開通していました。
 東名高速道路の方は、1962年(昭和37)に工事に着手し、1968年(昭和43)4月25日に、東京インターチェンジ~厚木インターチェンジ間・富士インターチェンジ~静岡インターチェンジ間・岡崎インターチェンジ~小牧インターチェンジ間が部分開通したのです。
 そして、徐々に開通区間を延ばしていって、1969年(昭和44)5月26日に全線開通となりました。平地部では、100km/h制限(一部の区間は80km/h)で走行することができ、名神高速道路とあわせて、関東から関西への自動車輸送時間が大幅に短縮されることになったのです。
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 今日は、1885年(明治18)に、明治時代後期から昭和時代前期に活躍した詩人・歌人である平野万里(ひらのばんり)が生まれた日です。
 北原白秋や木下杢太郎と同じ年、埼玉県北足立郡大門町(現在のさいたま市緑区)に生まれましたが、本名は平野久保(ひさやす)です。
 1890年(明治23)一家で上京し、駒本尋常高等小学校を経て、郁文館中学に入学しました。1901年(明治34)ころには新詩社に入り与謝野寛(鉄幹)に師事、旧制第一高校から東京帝国大学へ進みましたが、文芸誌「明星」に短歌・詩・翻訳などを発表するようになりました。
 在学中の1907年(明治40)には、与謝野寛(鉄幹)に連れられ、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇と共に、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行である「五足の靴」の旅にもいっしょに行くことになります。
 同年、歌集『わかき日』を刊行、翌年大学卒業後は、横浜の会社に就職し、1910年(明治43)からは満鉄中央試験所の技師として大連に赴任しました。
 その後、約3年間のドイツ留学も経験し、帰国後は農商務省技師となって、1938年(昭和13)に退官するまで勤めたのです。
 その間、作歌を中断した時期もありますが、のちの『明星』の主要なる歌人として活躍しました。途中『明星』を離れた者が少なくない中で、終生『明星』の歌風を守った人です。
 1947年(昭和22)2月10日に61歳で没しています。
 以下に、歌集『わかき日』より5首引用しておきます。
 
 子安貝底つ岩根の新室に波の音きく春は來りぬ。
 君と入り、あらむ千年の火の室とエトナの山はむらさきにして。
 薔薇いろの靄のやうなる昼の雨降るを思ひて傘を賜ひぬ。
 月ふけて桜は夜眼に白かりき、初めて君を吸ひし日思ふ。
 秋の野の薄の如くギオリンの弓こそなびけ、楽の風吹く。

☆「五足の靴」とは
 明治時代後期の1907年(明治40)7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行をした、5人(与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里--五足の靴としゃれている)による紀行文です。その年の「東京二六新聞」に旅程より10日ほど遅れて8月7日より9月10日まで、5人が交互に執筆して、29回にわたり連載されました。いろいろな所に立ち寄っていますが、特に、天草下島西海岸の富岡より大江まで約32劼鯏綿發嚢圓部分が印象的です。一行は、平戸、長崎、島原、天草などでキリシタン史遺跡に立ち寄り、戦国時代から苦難を乗り越えてきたキリシタン信仰に思いを馳せました。その後、これら若き詩人・歌人の開眼に大きな役割を果たしたと言われ、白秋の『邪宗門』、『天草雑歌』、杢太郎の『天草組』は、この旅に想を得て誕生した詩です。尚、新聞連載時の執筆者は匿名で、表題には「五人づれ」、文中では与謝野寛(鉄幹)は「K生」、北原白秋は「H生」、木下杢太郎は「M生」、吉井勇は「I生」、平野万里は「B生」の仮名を用いています。
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 今日は、大正時代の1925年(大正14)に、日本労働組合評議会が結成された日です。 
 これは、日本労働総同盟(総同盟)を除名された左派系労働組合が結成した全国中央組織で、略称を評議会と言いました。
 結成時、32組合1万2,500人でしたが、1926年(大正15)の共同印刷争議、日本楽器争議などの大争議を指導する中で加盟組合が増え、2年後には、59組合3万5,000人にまで発展したのです。
 そして、1927年(昭和2)5月の第3回大会では、金融恐慌下での困難な状況に対し、「政党政派を問わず資本に対する統一闘争のために共同」の方針を決め、工場代表者会議などの運動を組織して、失業手当、健康保険、最低賃金法、八時間労働制などの「五法律獲得闘争」を展開しました。
 しかし、政府による数々の激しい弾圧を受け、1928年(昭和3)の三・一五事件の一環として、労働農民党、全日本無産青年同盟とともに安寧秩序を乱す団体として「治安警察法」により結社を禁止されています。
 その後、同年12月には日本労働組合全国協議会(全協)として再建されました。

☆日本労働組合評議会結成時の綱領

1.組合運動の目的
 組織と闘争によって資本の搾取に対抗し労働条件を維持改善し、生活の安定と向上をはかり、労働階級の完全なる解放と合理公正なる社会生活の実現のためにたたかうことは、組合運動の目的である。

2.組合運動の教育的任務
 組合運動によって労働大衆を教育し、労働階級をして資本主義の精神的支配より完全に独立し、階級意識にもとづく団体的行動の訓練をあたえることは、組合運動の教育的任務である。

3.行動の一般方針
 労働階級の完全なる解放をもって一切の組合政策の根本基調とすると同時に、労働大衆とのあいだに緊密なる接触をたもち、労働大衆の現実の必要と要求とに立脚した政策によって、闘争を発展せしむることをもって組合行動の一般方針とする。

4.組合組織の原則
 組合の一切の機関には、一般組合員の意志をもっとも敏速正確に反映せしめ、組合大衆をしてつねに組合の行動に活発に関与せしめると同時に、大衆の意志と行動とをもっとも有効に集中して、最大の闘争力を発揮せしむるがごとき民主的集中主義をもって組合組織の原則とする。

5.組合組織の目的
 被搾取者たる共通の利害と、これにもとづく階級的意識に立脚して、すべての労働者を産業的ならびに一大階級的組織に団結せしめることをもって組織をすすめる目標とする。
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