ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、佐賀県吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落発見と報道された日です。
 吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町にあり、邪馬台国の頃の“クニ”の一つだと考えられている大規模な環濠集落跡でした。工業団地造成計画の事前調査で発見され、開発が中止されて、保存されることになります。
 1991年(平成3)に、主要部分が国の特別史跡に指定されて、遺跡の大部分が保存(国営公園約51.3ha 、県立公園約35.4ha)され、「国営吉野ヶ里歴史公園」として整備が進めらてきました。当時を彷彿とさせる環濠、竪穴住居、高床住居、物見櫓、柵、逆茂木、高床式倉庫、墳丘墓などが復元されていて、見学するのには好都合です。
 また、出土品等は展示室で見ることができるようになりました。尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されています。

〇「弥生時代」とは?

 弥生時代は約紀元前3世紀~紀元後3世紀中頃までの時代で、水稲耕作による稲作の始まりによる弥生式土器に特徴づけられてきました。
 しかし、近年になって縄文時代の遺跡から、プラント・オパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が発見され、陸稲による稲作は縄文時代に始まっていたのではないかとの説が出されています。また、北海道と沖縄では弥生時代の区分は使われていません。
 時期区分は、前期、中期、後期の3つに分けるのが一般的ですが、稲作の開始された従来の縄文時代晩期に食い込んで早期を設けて4つに分ける考え方も提案されています。

☆主要な弥生遺跡一覧

・砂沢遺跡(青森県弘前市) 前期
・垂柳遺跡(青森県南津軽郡田舎館村) 中期---国史跡 2000年(平成12)指定
・地蔵田遺跡(秋田県秋田市) 前期---国史跡 1996年(平成8)指定
・弥生二丁目遺跡(東京都文京区)---国史跡 1976年(昭和51)指定
・大塚・歳勝土遺跡(神奈川県横浜市都築区) 中期---国史跡 1986年(昭和61)指定
・三殿台遺跡(神奈川県横浜市磯子区) 前~後期---国史跡 1966年(昭和41)指定
・神崎遺跡(神奈川県綾瀬市) 後期---国史跡 2011年(平成23)指定
・登呂遺跡(静岡県静岡市駿河区) 後期---特別史跡 1952年(昭和27)指定
・瓜郷遺跡(愛知県豊橋市) 中~後期---国史跡 1953年(昭和28)指定
・見晴台遺跡(愛知県名古屋市南区) 後期
・朝日遺跡(愛知県清須市・名古屋市西区) 前~後期---国史跡 1971年(昭和46)指定
・唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町) 後~晩期---国史跡 1999年(平成11)指定
・纏向遺跡(奈良県桜井市) 後期---国史跡 2006年(平成18)指定
・池上・曽根遺跡(大阪府和泉市・泉大津市) 中期---国史跡 1976年(昭和51)指定
・田能遺跡(兵庫県尼崎市) 前~後期  国史跡 1969年(昭和44)指定
・妻木晩田遺跡(鳥取県米子市・西伯郡大山町) 中~後期---国史跡 1999年(平成11)指定
・荒神谷遺跡(島根県出雲市) 中期---国史跡 1987年(昭和62)指定
・加茂岩倉遺跡(島根県雲南市) 中~後期---国史跡 1999年(平成11)指定
・百間川遺跡(岡山県岡山市) 前~後期
・土井ヶ浜遺跡(山口県下関市) 中~後期---国史跡 1962年(昭和37)指定
・紫雲出山遺跡(香川県三豊市) 中期
・板付遺跡(福岡県福岡市博多区) 前~後期---国史跡 1976年(昭和51)指定
・須玖岡本遺跡(福岡県春日市) 中期---国史跡 1986年(昭和61)指定
・平原遺跡(福岡県前原市) 後期---国史跡 1982年(昭和57)指定
・菜畑遺跡(佐賀県唐津市) 前~中期---国史跡 1983年(昭和58)指定
・原の辻遺跡(長崎県壱岐市) 前~後期---特別史跡 2000年(平成12)指定
・吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町) 前~後期---特別史跡 1999年(平成11)指定
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 今日は、昭和時代前期の1942年(昭和17)に、「食糧管理法」が公布(7月1日施行)された日で、「食糧管理法公布記念日」とも呼ばれていました。
 この法律は、太平洋戦争中に東條内閣によって制定されたもので、食糧の生産、流通、消費の全過程にわたって国家が介入し、一元的また統一的に管理するもので、7月1日に施行され、食糧管理制度(食管制度)の元とななります。
 目的は、戦時下で不足する食糧の需給と価格の安定でしたが、その配給量を確保するために、生産者から自家保有分を除いたいっさいの主要食糧を強制的に買い上げるものでした。米と小麦・大麦・裸麦に加え、雑穀・イモ類・デンプン・米穀粉や小麦粉およびその加工品(パン類・めん類・もち・米飯等)が主要食糧と定められ、国家の強力な統制下に置かれます。
 この統制に対するいっさいの違反は、生産者から消費者に至るまで刑事罰の対象とされて、厳しく罰せられました。戦後の食糧不足が深刻化した時には、生きるためにやむなく農村へ買い出しに行く人々が取り締まりの対象となり、せっかく確保した食糧も押収されたりしたのです。
 その後、食糧不足の緩和に伴い、1950年(昭和25)にいも類、翌年に雑穀が食管制度の対象から外され、麦も1952年(昭和27)から間接統制になり、米だけが直接統制のまま残されました。
 しかし、コメの生産量も増加し、食生活も洋食や麺類等への多様化が進み、米余り現象が現れるようになり、政府米の収支の逆ザヤ問題や自主流通米以外のいわゆるヤミ米問題が発生するようになります。
 そして、海外からの『米市場開放問題』なども起きて、1995年(平成7)に、「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(通称、食糧法)」の施行に伴い廃止されました。

〇食糧管理制度の歴史

・1942年(昭和17)「食糧管理法」が公布・施行される
・1947年(昭和22)初の「食糧管理法」改正により対象となる食糧に馬鈴薯・甘藷・雑穀が加えられる
・1949年(昭和24)3度目の「食糧管理法」改正により、食糧配給に関しても農林大臣の配給計画のもとで進められることとなる
・1950年(昭和25)4度目の「食糧管理法」改正により、いも類食管制度の対象から外される
・1951年(昭和26)5度目の「食糧管理法」改正により、雑穀が食管制度の対象から外される
・1952年(昭和27)麦も間接統制になる
・1954年(昭和29)米の供出制が終わり、以後予約売渡制となるになった。
・1960年(昭和35)生産者米価決定方式に、生産費・所得補償方式が導入される
・1967年(昭和42)これ以降は過剰米(コメ余り)が出始める
・1969年(昭和44)自主流通米制度が始まる
・1970年(昭和45)米の生産調整が行われるようになる
・1972年(昭和47)消費者米価が物価統制令の適用から除外される
・1981年(昭和56)「食糧管理法」が大幅改正され、実態が追認される
・1994年(平成6)「食糧管理法」が廃止され、「食糧法」にかわる
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 今日は、明治時代前期の1886年(明治19)に、歌人・詩人石川啄木の生まれた日です。
 石川啄木の本名は、石川一といい、1886年(明治19)2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(現在の岩手県盛岡市)の常光寺で生まれました。
 その後、渋民村に移住し、宝徳寺で育ち、岩手県盛岡尋常中学校(現在の盛岡一高)に学びます。中学中退後は、明星派の詩人として出発し、1905年(明治38)に20歳で処女詩集『あこがれ』を出版、詩人として将来を期待されるようになりました。
 しかし、生活は厳しく、郷里の岩手県渋民村の代用教員や北海道の地方新聞の記者などを転々とした後で、1908年(明治41)上京し、東京朝日新聞の校正係の職に就きます。
 1910年(明治43)に、歌集「一握の砂」を出版し注目されました。大逆事件で社会主義思想に接近しますが、1912年(明治45)4月13日、困窮のうちに結核により、26歳の若さで死去しました。
 代表作に、評論「時代閉塞の現状」、歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』、小説「雲は天才である」などがあります。

<代表的な歌>
「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 」
「はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る」
「たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」
「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」
「かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川」
「石をもて追はるがごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし」
「やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」

〇石川啄木の主要な作品
・詩集『あこがれ』(1905年)
・小説『鳥影』(1908年)
・歌集『一握の砂』(1910年)
・歌集『悲しき玩具』(1910年)
・評論『時代閉塞の現状』(1910年)
・詩集『呼子と口笛』(1911年)
・小説『雲は天才である』
・日記『ローマ字日記』
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 今日は、1185年(文治元)に、屋島の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に勝利した日ですが、新暦では3月22日となります。
 この戦いは、平安時代後期の源平合戦の一つで、屋島(香川県高松市)一帯が戦場となりました。
 1185年(文治元年2月19日)、屋島に留まっていた平氏軍を源義經らが奇襲により、海上に追いやった戦いです。
 ここでは、那須与一が、船上の扇の的を射抜いたことで有名ですが、屋島からは瀬戸内海と古戦場が一望でき、屋島寺などに遺跡や遺品が残されていて、この合戦の情景を思い浮かべるには最適の場所です。
 また、周辺には、菊王丸の墓、佐藤継信の碑、駒立岩、祈り岩、義経由美流し跡、義経鞍掛松、獅子の霊巌、射落畠などの伝承地が残されています。
 以下に、「平家物語」の那須与一の名場面を引用しておきます。

〇「平家物語」(巻第十一)から抜粋

 那須与一(巻第十一)

 ・・・・・・・・
 判官、「いかに宗高あの扇の真中射て、敵に見物せさせよかし」と宣へば、与一「仕つとも存じ候はず。これを射損ずるほどならば、長き御方の御弓箭の瑕にて候ふべし。一定仕らうずる仁に、仰せ付けらるべうもや候ふらん」と申しければ、判官大きに怒つて、「今度鎌倉を立つて、西国へ赴かんずる者共は、皆義経が命を背くべからず。それに少しも子細を存ぜん殿原は、これより疾う疾う鎌倉へ帰らるべし」とぞ宣ひける。与一重ねて辞せば、悪しかりなんとや思ひけん、「さ候はば、外れんをば知り候ふまじ、御諚で候へば、仕つてこそ見候はめ」とて御前を罷り立ち、黒き馬の太う逞しきに、丸海鞘摺つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。弓取り直し、手綱掻い繰つて、汀へ向いてぞ歩ませける。御方の兵共、与一が後ろを遥かに見送りて、「一定この若者、仕つつべう存じ候ふ」と申しければ、判官世にも頼もしげにぞ見給ひける。矢比少し遠かりければ、海の面一段ばかりうち入れたりけれども、なほ扇のあはひは、七段ばかりもあるらんとぞ見えし。
 比は二月十八日酉の刻ばかりの事なるに、折節北風烈しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は揺り上げ揺り据ゑて漂へば、扇も串に定まらず、閃いたり。沖には平家舟を一面に並べて見物す。陸には源氏轡を並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふ事なし。与一目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯泉大明神、願はくは、あの扇の真中射させて賜ばせ給へ。射損ずるほどならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向くべからず。今一度本国へ迎へんと思し召さば、この矢外させ給ふな」と、心の内に祈念して、目を見開いたれば、風少し吹き弱つて、扇も射よげにぞなりにけれ。与一鏑を取つて番ひ、よつ引いてひやうと放つ。小兵といふ条、十二束三伏、弓は強し、鏑は浦響くほどに長鳴りして、過たず扇の要際、一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚がりける。春風に一揉み二揉み揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の、日出だいたるが夕日に輝いて、白波の上に、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家舷を叩いて感じたり。陸には源氏箙を叩いて、響めきけり。

                              流布本『平家物語』 より

☆源平合戦関係年表(日付は旧暦によるものです)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する
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 今日は、江戸時代後期の1825年(文政8)に、江戸幕府が「異国船打払令」を出した日ですが、新暦では4月6日となります。
 これは、 江戸幕府が出した外国船追放令で、理由に関係なく外国船を打ち払えと命じたもので、「無二念打払令」または「文政の打払令」ともいいます。
 江戸幕府は、1806年(文化3)に漂流船には薪水を給与すると同時に、江戸湾ならびに全国の沿岸の警備を強化することを諸大名に命じていました。
 しかし、1808年(文化5)にフェートン号事件が起こり、日本近海にイギリスとアメリカの捕鯨船が頻繁に出没し始め、さらに1818年 (文政元) 、イギリス人 G.ゴルドンが直接浦賀に来航して貿易を要求したり、1824年(文政7)には常陸、薩摩などで外国船員が上陸するという事態も起こったのです。
 そこで、1825年(文政8)に、これによって、日本の沿岸に近づく外国船に対し、無差別に砲撃を加えて撃退することを命じました。
 そして、1837年(天保8)にアメリカ船モリソン号が浦賀に入港した際に砲撃を加えたりしたのです。しかし、1842年(天保13)にアヘン戦争で清がイギリスに敗れて開国を強制させられた情報が伝わると、急いで水野忠邦らがこれについて評議した末、老中真田幸貫の意見を容れて、同年にこれを廃止し、.元の薪水供給令に戻りました。

〇異国船打払令 (全文) 1825年(文政8年2月18日)

 異国船打払令

 文政八酉年二月十八日
 異国船[1]渡来の節取計方[2]、前々より数度仰出されこれ有り、をろしや船[3]の儀に付いては、文化の度改めて相触れ候[4]次第も候処、いきりすの船[5]、先年長崎において狼籍[6]に及び、近年は所々[7]へ小船にて乗寄せ、薪水食糧を乞ひ、去年[8]に至り候ては猥りに上陸致し、或いは迴船の米穀島方の野牛等奪取候段、追々横行の振舞[9]、其上邪宗門[10]に勧入れ候致方も相聞え、旁捨置れ難き事に候。一体いきりすに限らず、南蛮[11]・西洋の儀は御制禁邪教の国に候間、以来何れの浦方[12]におゐても異国船乗寄候を見請候はゞ、其所に有合候人夫を以て有無に及ばず[13]一図[14]に打払い、迯延候はゞ追船等差出に及ばず、其侭に差置き、若し押して上陸致し候はば、搦捕又は打留候ても苦しからず候。本船近寄り居り候はば、打潰し候共、是又時宜次第取計らるべき旨、浦方末々の者迄申含み、追て其段相届け候様、改て仰出され候間、其意を得、浦浦手立の儀は土地相応、実用専一に心掛け、手重過ぎ申さざる様、又怠慢もこれ無く、永続致すべき便宜を考へ、銘々存分に申付けらるべく候。
 尤唐[15]・朝鮮・琉球などは船形人物も相分るべく候得共、阿蘭陀船は見分けも相成かね申すべく、右等の船万一見損い、打誤り候共、御察度[16]は之有間敷候間、二念無く[17]打払いを心掛け、図を失わざる様[18]取計らい候処、専用の事に候条、油断無く申付けらるべく候。

                『御触書寛保集成』より
           *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

【注釈】
[1]異国船:いこくせん=外国船(オランダ、中国、朝鮮、琉球のものは除く)
[2]取計方:とりはからいかた=取り扱う方法。
[3]をろしあ船:おろしあせん=ロシア船。
[4]文化の度改めて相触れ候:ぶんかのどあらためてあいふれそうろう=1806年(文化3)の文化の撫恤令のこと。
[5]いきりすの船:いぎりすのふね=イギリス船。
[6]長崎において狼藉:ながさきにおいてろうぜき=1808年(文化5)のフェートン号事件のこと。⇒詳細
[7]所々:しょしょ=イギリス船がしばしば浦賀、長崎、琉球に来航したことを指す。
[8]去年:きょねん=1824年(文政7)に、イギリス捕鯨船が常陸大津浜や薩摩国宝島に上陸したことを指す。
[9]追々横行の振舞:おいおいおうこうのふるまい=だんだん勝手な行動がひどくなり。
[10]邪宗門:じゃしゅうもん=キリスト教のこと。
[11]南蛮:なんばん=ポルトガル、イスパニアを指す。
[12]浦方:うらかた=海辺の村。
[13]有無に及ばず:うむにおよばず=迷わず。
[14]一図:いちず=ひたすらに。ただちに。軍事や飢餓対策などのために、幕府が備蓄した金のこと。
[15]唐:から=中国のことで、当時は清国。
[16]御察度:ごさっと=非難すること。違法を咎めること。
[17]二念無く:にねんなく=迷うことなく。考えることなく。
[18]図を失はざる様:ずをうしなわざるよう=時期を逃さぬよう。

<現代語訳>

異国船打払令

 外国船が渡来した時の取扱う方法は、これまでに数回通達されているロシア船については、1806年(文化3)の文化の撫恤令の通りであるが、イギリス船も先年長崎で狼藉を行い(1808年(文化5)のフェートン号事件のこと)、最近では所々へ小船でやってきては薪水、食糧を要求し、昨年はみだりに上陸して、廻船の米穀や島の牛を奪う等だんだん勝手な行動がひどくなり、その上キリスト教を勧める等があり、いずれにしても放置しておくわけには行かない。
 もともとイギリスに限らず、ポルトガル、イスパニアなど西洋の国々は日本で禁止されているキリスト教の国であるので、今後はどこの海辺の村でも、外国船が近付いたら、その場に居合わせた者達で迷わず打払い、逃げた場合は船を出して追う必要なくそのままで良い。もし強硬に上陸してきたならば捕縛しても打ち殺しても構わない。本船が近寄ってきたならば、打ち壊すにしても何にしても臨機応変に実行すべきであるということを末端まで相談し、おってその事を届ける様に改めて通達する。その趣旨を理解して、それぞれの海岸をその土地の状況に応じて、実際に役立つよう守り、過度にならず怠慢にならないように継続可能な体制をとる様に言い渡す事である。
 もっとも中国・朝鮮・琉球などは船の形、人物などの見分けも付くが、オランダ船は見分けがつきにくく、これらの船を万一見誤ったりしても咎めはないので、迷うことなく打払いを心掛け、時機を逃さないようにする事が重要であるので、油断することがないように言い渡す事である。
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