ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、拓務省第一次農業移民416人が、満蒙開拓団第一陣として満洲へ出発した日です。
 満蒙開拓団は、1931年(昭和6)の満州事変以後、1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦まで、「満州国」(中国東北部)や内モンゴル地区に、国策として送り込まれた農業移民団のことで、集団で開拓にあたりました。
 関東軍司令部付東宮鉄男、同軍参謀石原莞爾、農業教育家加藤完治、農林次官石黒忠篤らの積極的な建議で、まず1932年(昭和7)から第一次として関東軍と拓務省の主導による試験移民が4年間にわたって入植しました。
 それを踏まえて、1936年(昭和11)5月11日には、日本陸軍の関東軍司令部によって「満州農業移民百万戸移住計画」が策定されます。同年8月11日に、拓務省が「二十カ年百万戸送出計画」を作成し、廣田内閣による七大国策の一つとして、生産の担い手として20年間で計100万戸の農家を送る計画が決定しました。
 この計画の眼目は、‘鐱?捷颪隆愀原化、対ソ作戦上の後備勢力として、K?9颪了唆箸魍発するため、て鐱槓顕修砲茲詼?9颪諒顕集?紊魘饌療に助けるものとして、ゲ畩蠖邑?硫魴荳?5点です。集団移民に対しては一戸あたり1,000円、農業自由移民に対しては500円、その他の自由移民に対しては概ね200円の政府補助金が与えられることになりました。そして、満蒙開拓移民は武装し組織的な軍事訓練を受け、治安維持や国境警備をも受け持たされたとされます。
 1939年(昭和14)12月22日は、「満洲開拓政策基本要綱」を阿部内閣が閣議決定・発表し、また満州国政府も,同要綱を商議決定の上発表します。これによって基本方針は、「満洲開拓政策ハ日満両国ノ一体的重要国策トシテ東亜新秩序建設ノ為ノ道義的新大陸政策ノ拠点ヲ培養確立スルヲ目途トシ特ニ日本内地人開拓農民ヲ中核トシテ各種開拓民並ニ原住民等ノ調和ヲ図リ日満不可分関係ノ強化、民族協和ノ達成、国防力ノ増強及産業ノ振興ヲ期シ兼テ農村ノ更生発展ニ資スルヲ以テ目的トス」とされました。そして、基本要領は、この根本方針を実現するための実施事項として、ヽ拓用地は原則として未利用地開発主義をとり、国営とすること、開拓民は原住民を包容融合するようにすること、K?愕拓青少年義勇軍を結成すること、など26項目を指示し、さらに推進されていったのです。
 さらに、1941年(昭和16)12月31日には、「満洲開拓第2期5箇年計画要綱」が、東条内閣によって閣議決定されました。
 これらによって、太平洋戦争敗戦までに、日本各地から約27万人が、満蒙開拓のために海を渡ったとされますが、ソ連軍侵攻後、関東軍は撤退して置き去りにされ、逃避行は悲惨を極め、約8万人の死者を出し、子供たちが取り残された中国残留孤児の悲劇も起きます。
 尚、満蒙開拓に送り込まれた27万人のうち、長野県出身者が約3万4千名で最も多く、全体の12.5%を占め、第2位の山形県の2.4倍となりました。長野県内でも南部地域の比重が高く、長野県下伊那郡阿智村には、2013年(平成25)に「満蒙開拓平和記念館」が作られ、歴史・資料の記録・保存・展示・研究が行われています。

〇満蒙開拓青少年義勇軍とは?

 日本内地の数え年16歳~19歳の青少年を開拓民として満州国等に送り出す制度でした。満州への移民は満州事変直後の1932年(昭和7)に第一次移民が送り出され、1936年(昭和11)には国策化されます。
 しかし、成人男性の多くが軍に動員されるようになったため、1937年(昭和12)11月30日に「満州に対する青少年移民送出に関する件」が閣議決定され、「満州青年移民実施要項」が作られ、翌年1月から募集が開始されました。
 1939年(昭和14)6月7日には、満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会・大行進が明治神宮外苑競技場で開催されて、国民にアッピールします。
 これらは、茨城県の内原訓練所で2ヶ月、満州で3年間訓練され、警備隊も編制して軍事的性格も持ち、満州国の治安維持や国境警備をも受け持たされました。「国民精神総動員運動」の一翼を担い、「満蒙は日本の生命線」の掛け声の下で、全国で約8万人の青少年が満州や内モンゴルなどに渡ったと言われています。
 特に、戦争末期には満蒙開拓団の主力となりましたが、ソ連の参戦により壊滅的な打撃を受け、多くの犠牲者を出しました。

〇「満洲開拓政策基本要綱」(抄文)1939年(昭和14)12月22日 閣議決定

第一 基本方針

満洲開拓政策ハ日満両国ノ一体的重要国策トシテ東亜新秩序建設ノ為ノ道義的新大陸政策ノ拠点ヲ培養確立スルヲ目途トシ特ニ日本内地人開拓農民ヲ中核トシテ各種開拓民並ニ原住民等ノ調和ヲ図リ日満不可分関係ノ強化、民族協和ノ達成、国防力ノ増強及産業ノ振興ヲ期シ兼テ農村ノ更生発展ニ資スルヲ以テ目的トス

第二 基本要領

一 基本方針ニ則リ日満両国各分担部門並ニ協力部門ノ各責任範囲ヲ明カナラシムルト共ニ其ノ間一貫セル脈絡ヲ保持シ以テ日満両国ヲ貫ク満洲開拓政策ノ統制アル発展並ニ円滑ナル実施ヲ期スルモノトス
二 開拓民ノ種別概ネ左ノ通トス
(一)日本内地人(朝鮮人ハ之ニ準ズ)
(イ)開拓農民
(ロ)半農的開拓民(林業、牧畜、漁業等)
(ハ)商、工、鉱業其ノ他ノ開拓民
(ニ)開拓青年義勇隊
(二)原住民
(イ)国内開拓移動原住民
(ロ)開拓民移住ニ伴フ輔導原住民
三 各種開拓民ノ数的拡充ヲ期シ其ノ調和ヲ図リ之ガ実行ヲ促進ス
四 開拓民ノ指導ニ関シ満洲ニ於テハ開拓政策遂行ノ一元化ヲ図リ開拓用地ノ整備、利用開発及配分、営農方式、開拓民移住、原住民輔導等ニ付刷新的方途ヲ講ジ特ニ開拓諸機構ヲ調整シ開拓民取扱ニ関スル責任分野ヲ明カナラシムルト共ニ其ノ総合的機能ノ発揮ニ努ムルモノトス
五 開拓民ノ移住ニ付テハ各種開拓民ノ按配ヲ適切ナラシメ日本内地人開拓民ハ差当リ原則トシテ北満方面ヲ主トスルノ外全満ニ於ケル交通、産業開発上ノ重要地点ニ定著セシムルモ理想トシテハ広ク分布シ各地ニ於ケル民族協和ノ中核的分子タラシムルコトヲ期ス
尚朝鮮人開拓民ノ移住、在満朝鮮人ノ安定、原住民ノ転住及其ノ国内開拓移動ニ付更ニ積極的ナル助成輔導ノ方途ヲ講ズ

(以下省略)

 「内閣制度百年史 下」内閣制度百年史編纂委員会編より

〇「満洲開拓第2期5箇年計画要綱」1941年(昭和16)12月31日 閣議決定

方  針

満洲開拓政策第二期五箇年計画ハ東亜共栄圏内ニ於ケル大和民族ノ配分布置ノ基本国策ニ照応シ二十箇年百万戸計画ト開拓政策基本要綱ニ則リ更ニ第一期五箇年計画ノ実績ニ鑑ミ現下ノ戦時態勢ニ即応シ日満両国一体的ノ重要国策タル使命ヲ更ニ昂揚シ特ニ日本内地人開拓民ヲ中核トスル民族共和ノ確立達成、東亜防衛ニ於ケル北方拠点ノ強化、満洲農業ノ改良発達及増産促進ニ重点ヲ指向シテ之ガ策定ヲ為スモノトス

要  領

一、第二期五箇年計画ハ二十箇年百万戸計画ヲ基準トシ第一期計画ヲ通ジ累計三十万戸ニ達セシムルヲ目途トシ昭和十七年度以降五箇年間ニ一般開拓民、義勇隊開拓民ヲ含メ二十二万戸ヲ計画目標トス、青年義勇隊ニ付テハ十三万人ヲ計画目標トス
二、第二期五箇年計画ノ遂行ニ当リテハ一貫セル脈絡ノ下ニ各関係機関ヲシテ其ノ総合的機能ノ発揮ニ遺憾ナカラシムルト共ニ地方指導力ノ強化ヲ期スルモノトス
三、開拓民ニ付テハ日満両国ヲ通ズル適正ナル農村人口ノ維持培養ヲ目途トシ農村ノ再編成ヲ主眼トスル分村計画ニ依ルヲ原則トシ母村ト分村、府県ト省県トノ精神的、社会的経済的連繋ノ緊密化ヲ図ルト共ニ之ガ送出ノ計画的且確実ナル完遂ヲ期スルモノトス
時局ノ進展ニ基ク帰農開拓民ニ付テハ之ガ保護斡旋ニ付キ特別ノ考慮ヲ払フモノトス
四、青年義勇隊ニ付テハ郷土部隊編成ヲ一層計画的ナラシメ之ガ訓練内容及施設ノ改善充実ヲ図ルモノトス
五、女子ニ付テハ其ノ積極的進出ヲ促進スル為女子一般ニ対スル啓蒙宣伝及教育ヲ更ニ徹底セシメ女子訓練施設ヲ整備充実シ急速ニ開拓民配偶者ノ確保ヲ図ルモノトス
六、開拓民指導者ノ養成確保ニ付テハ急速ニ之ガ養成機構ヲ整備スルト共ニ青年義勇隊員中ヨリ之ガ適格者ヲ簡抜シ養成スルノ方途ヲ講ズルモノトス
保険畜産指導員ニ付テハ其ノ補充ニ関シ一層有効ナル方途ヲ考究スルモノトス
七、開拓地農法改善ニ付テハ既定方針ニ則リ之ガ普及徹底ノ積極化ニ付キ特段ノ措置ヲ講ズルモノトス
八、開拓地ノ設定ニ付テハ総合立地計画並ニ国防上ノ要請ヲ勘案スルト共ニ入植ノ実施ハ可及的集約的且効率的ナラシムルモノトス、之ガ為適地調査ノ能率化ト土地改良事業ノ積極化トヲ図ルト共ニ之ニ要スル資金、資材、技術等ノ供給ニ付キ日本側ニ於テ更ニ積極的ニ協力スルモノトス
尚開拓鉄道、軌道、道路、運河及通信ノ施設ヲ計画的ニ実施スルト共ニ武装及警備施設ヲ充実シ以テ国防増産ノ一体的推進ニ努ムルモノトス
九、開拓者ニ対スル日満両国政府ノ補助ニ付テハ現下ノ経済的諸条件ニ即応セシムルト共ニ開拓地ノ立地条件ト建設経営ノ難易等ヲ勘案シ補助ノ適正ヲ期スルモノトス
十、満洲拓殖公社ノ資本金ニ付テハ開拓ノ進捗ニ伴ヒ所要ノ増額ヲ行フコトヲ考慮スルト共ニ資金調達ヲ円滑ナラシムル為日満両国政府ニ於テ適当ナル方途ヲ講ズルモノトス
十一、開拓用資材ニ付テハ之ガ確保及輸送ノ優先ヲ期スル為特段ノ措置ヲ講ズルモノトス
十二、開拓地ニ於ケル保健、衛生、教育、文化等ノ諸施設ヲ改善充実シ以テ開拓者ノ生活ノ安定向上ヲ期スルモノトス
十三、日本馬移殖計画ヲ本計画ニ即応シ積極化スルト共ニ、日本馬ノ現地生産ニ付テモ一段ノ考慮ヲ払フモノトス
備考 本計画ノ実施ニ当リテハ各年度ニ於ケル労務、資金、資材等ノ実情ヲ勘案シ実行計画ヲ策定スルモノトス

 「重要国策ニ関スル資料 2」翼賛政治会編より

☆満蒙開拓関係略年表

<1931年(昭和6)>
・9月18日 中華民国奉天郊外の柳条湖事件を契機に、満州事変が起こる

<1932年(昭和7)>
・3月1日 満洲国が建国される
・9月15日 「日満議定書」が締結される
・10月3日 拓務省第一次農業移民416人が、満蒙開拓団第一陣として満洲へ出発する

<1933年(昭和8)>
・5月31日 河北省塘沽において日本軍と中国軍との間の塘沽停戦協定により、満州事変の軍事的衝突は停止される

<1936年(昭和11)>
・5月11日 日本陸軍の関東軍司令部によって「満州農業移民百万戸移住計画」が策定される
・8月11日 拓務省が「二十カ年百万戸送出計画」を作成する
・8月25日 「国策ニ関スル閣議決定」によって、廣田内閣による七大国策の一つ「対満重要策ノ確立」として決定される

<1937年(昭和12)>
・7月7日 盧溝橋事件が起き、日中全面戦争へ突入する
・11月30日 「満州に対する青少年移民送出に関する件」が閣議決定され、「満州青年移民実施要項」が作られる

<1938年(昭和13)>
・1月 満州青年移民の募集が開始される

<1939年(昭和14)>
・5月11日 満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐってノモンハン事件が起きる
・6月7日 満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会・大行進が明治神宮外苑競技場で開催される
・12月22日 「満洲開拓政策基本要綱」を阿部内閣が閣議決定し、発表する

<1941年(昭和16)>
・4月13日 日ソ間の領土領域の不可侵を約した「日ソ中立条約」が締結される
・12月8日 米英両国に宣戦布告し、太平洋戦争が始まる
・12月31日 「満洲開拓第2期5箇年計画要綱」を東条内閣が閣議決定する

<1943年(昭和18)>
・11月22日 「満洲国緊急農地造成計画ニ対スル協力援助ニ関スル件」を東条内閣が閣議決定する

<1945年(昭和20)>
・8月8日 「日ソ中立条約」を破棄したソ連軍が満州に攻め込む
・8月15日 正午に戦争終結の詔書が放送(玉音放送)され、日本が太平洋戦争に敗れる
・8月18日 満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡する
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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、勅令「在学徴集延期臨時特例」が公布され、文科系学生の徴兵猶予が撤廃された日です。
 東条英機内閣は、戦局の悪化に伴って兵員が不足する中で、1943年(昭和18)10月1日の閣議において、大学や専門学校などに通う理工系と教員養成系を除く学生・生徒の徴兵猶予を取り消しを決め、翌日勅令「在学徴集延期臨時特例」が公布・施行されました。
 これは、それまで「兵役法」第41条などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていたのを、文科系学生のみ徴兵猶予を撤廃し、20歳以上の学生に適用させたものです。
 同時に「昭和十八年臨時徴兵検査規則」(昭和18年陸軍省令第40号)が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させることとしました。
 この第1回学徒兵入隊を前にした10月21日に明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場跡地)で出陣学徒壮行会が開かれ、関東地方の入隊学生を中心に7万人が集いました。
 これらによって、太平洋戦争の下で、徴兵猶予措置の停止に伴って徴兵された、学生・生徒の出陣を「学徒出陣」と呼んでいますが、陸海軍部隊に配属され、短期の訓練を受けて、幹部候補生・見習士官などの下級将校や下士官として、中国大陸や南方戦線、南太平洋などの前線に送られたのです。
 1943年(昭和18)10月12日には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められました。
 12月24日には、「徴兵適齢臨時特例」(勅令第939号)で、徴兵年齢を19歳に引き下げ、さらに翌1944年(昭和19)10月18日には徴兵適齢が17歳に引き下げられ、敗戦までに兵役についた学徒の総数は、13万人とも言われていますが、多くの戦死者を出すことになります。
 学徒出陣に関して、敗戦後の1947年(昭和22)東京大学戦没学生の手記『はるかなる山河に』が出され、1949年(昭和24)には、全国の大学の戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が出版され、大きな反響を呼んで、約200万部を売り上げる大ベストセラーとなりました。
 1950年(昭和25)には、『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』というタイトルで、関川秀雄監督による映画化も実現し、その年の4月には、次の世代に戦争体験を伝える日本戦没学生記念会(通称「わだつみ会」)が結成され、不戦と平和の活動を続けています。2006年(平成18)には、東京都文京区本郷のマンション内に「わだつみのこえ記念館」が設立され、戦没学徒兵の遺品などが展示されてきました。

〇「在学徴集延期臨時特例」(昭和18年勅令第755号)1943年(昭和18)10月2日に公布、即日施行

兵役法第四十一条第四項ノ規定ニ依リ当分ノ内在学ノ事由ニ由ル徴集ノ延期ヲ行ハズ

  附 則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

〇「兵役法」第41条(昭和2年法律第47号)1927年(昭和2)4月1日に公布、同年12月1日施行

第四十一条 中学校又ハ中学校ノ学科程度ト同等以上ト認ムル学校ニ在学スル者ニ対シテハ本人ノ願ニ依リ学校ノ修業年限ニ応ジ年齢二十七年ニ至ル迄徴集ヲ延期ス
2 前項ニ規定スル認定及年齢ノ区分ニ関シテハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
3 第一項ノ規定ニ依リ徴集ヲ延期セラレタル者ハ在学ノ事由止ム年又ハ其ノ翌年ニ於テ徴兵検査ヲ行フ但シ一ノ学校卒業ノ日ヨリ六月以内ニ他ノ学校ニ入学スル者ニ付テハ徴集延期ノ事由尚継続スルモノト看做ス
4 第二項ノ年齢ノ区分ニ基ク最高年齢ニ達スルモ在学ノ事由尚止マザル者ハ最高年齢ニ達シタル年又ハ其ノ翌年ニ於テ徴兵検査ヲ行フ

〇学徒出陣関係略年表

<1941年(昭和16)>
・10月16日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」(勅令第924号)が出される
・10月16日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和16年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第79号)で、41年度卒業生は修業年限が3ヵ月短縮される
・11月1日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和17年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第81号)で、42年度卒業生は修業年限6ヵ月短縮される(予科と高等学校も含む)
・12月 同年の卒業生を対象に臨時徴兵検査を実施する

<1942年(昭和17)>
・2月 修業年限3ヶ月短縮の臨時徴兵検査合格者を入隊させる
・10月16日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和18年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第68号)で、43年度卒業生は修業年限6ヵ月短縮される

<1943年(昭和18)>
・1月21日 「高等学校令中改正」(勅令第38号)、「大学令中改正」(勅令第40号)で、高等学校・大学予科の修業年限を2年に短縮し、43年入学者から適用する
・3月8日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」改正(勅令第111号)で、大学の在年限短縮を例年続けることを決定する
・10月1日 閣議において、大学や専門学校などに通う理工系と教員養成系を除く学生・生徒の徴兵猶予を取り消しを決める
・10月2日 勅令「在学徴集延期臨時特例」が公布・施行され、文科系学生の徴兵猶予が撤廃される
・10月12日 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められる
・10月12日 「在学徴集延期停止ニ関スル件」文部次官通達で、徴集延期中の学生・生徒に、全員10月25日~11月5日まで本籍地での徴兵検査を受けることを指示する
・10月21日 明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれ、関東地方の入隊学生を中心に7万人が集う
・11月25日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和19年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第74号)で、44年度卒業生は修業年限が6ヵ月短縮される
・12月24日 「徴兵適齢臨時特例」(勅令第939号)で、徴兵年齢を19歳に引き下げる

<1944年(昭和19)>
・10月18日 「兵役法施行規則改正」(陸軍省令第49号)で、11月1日付けで17歳以上を兵役に編入される

<1945年(昭和20)>
・3月19日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和20年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第74号)で、医学部,医学専門部,臨時教員養成所等の学生も含め、44年度卒業生は修業年限が6ヵ月短縮される。
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 今日は、戦国時代の1555年(天文24)に、巌島の戦いで、毛利元就軍が陶晴賢軍を破った日ですが、新暦では10月16日となります。
 この戦いは、戦国合戦の一つで、安芸国厳島(現在の広島県廿日市市宮島町)で毛利元就と陶晴賢とで戦われ、毛利方が勝った日本三大奇襲戦の一つです。
 1551年(天文20)に、中国地方7ヵ国を領した守護大名大内義隆は、家臣陶晴賢に襲われて自殺しました。その主君の仇を毛利元就が取った形ですが、これが毛利氏が中国地方を制覇する足がかりとなったのです。
 当時、厳島は瀬戸内水運の要衝で、ここにあった毛利方の宮尾城が、2万余の陶晴賢軍に攻められていたのを、毛利軍3千余が、荒天に乗じて奇襲上陸し、陶軍を壊滅させ、陶晴賢も自刃させました。
 現在、島内には毛利方の宮尾城跡、陶晴賢本陣が置かれていた塔の岡、包ヶ浦の毛利元就上陸之跡碑、高安ヶ原の陶晴賢敗死之所碑などがあって見て回ることができます。

〇戦国合戦とは?

 戦国時代には、戦国大名間で、あるいは、家臣が主家を倒すような合戦が日本中で行われました。また、土一揆、一向一揆、国一揆など全国で民衆の抵抗がおこり、戦国大名と対峙した場合もあります。
 そのような中で、徐々に有力な戦国大名による天下統一の方向へと向かっていくことになります。その場合には、楽市楽座や関所の廃止、治山治水、鉱山開発など経済の発展や民衆の期待を担えるような戦国大名が勝ち残っていくことにもなりました。

☆主要な戦国合戦一覧(1493年~1573年)

・1525年(大永5) 岩槻城の戦い[武蔵国 - 埼玉県岩槻市] ○北条軍×●上杉軍
・1532年(天文元) 山科本願寺の戦い[山城国 - 京都府京都市] ○柳本軍×●山科本願寺軍
・1542年(天文11) 第1次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○織田軍×●今川軍
・1546年(天文15) 河越城の戦い[武蔵国 - 埼玉県川越市] ○北条軍×●上杉軍
・1548年(天文17) 第2次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○今川・松平軍×●織田軍
・1548年(天文17) 上田原の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍
・1548年(天文17) 塩尻峠の闘い[信濃国 - 長野県岡谷市・塩尻市] ○武田軍×●小笠原軍
・1550年(天文19) 砥石城の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍
・1551年(天文20) 坂戸城の戦い[越後国 - 新潟県南魚沼市] ○長尾景虎×●長尾政景
・1555年(天文24) 厳島の戦い[安芸国 - 広島県廿日市市] ○毛利軍×●陶軍
・1560年(永禄3) 桶狭間の戦い[尾張国 - 愛知県名古屋市・豊明市] ○織田軍×●今川軍
・1560-61年(永禄3-4) 小田原城の戦い[相模国、上野国、武蔵国] △北条軍×△上杉・長尾軍
・1561年(永禄4) 第4次川中島の戦い[信濃国 - 長野県長野市] △武田軍×△上杉軍
・1563年(永禄6) 三河一向一揆[三河国 - 愛知県] ○徳川軍×●三河一向一揆
・1563-64年(永禄6-7) 第2次国府台合戦[下総国 - 千葉県市川市] ○北条軍×●里見軍
・1565年(永禄8) 永禄の変[山城国 - 京都府] ○三好・松永軍×●足利義輝軍
・1567年(永禄10) 稲葉山城の戦い[美濃国 - 岐阜県岐阜市] ○織田軍×●斎藤軍
・1568年(永禄11) 薩埵峠の戦い[駿河国 - 静岡県静岡市] ○武田軍×●今川・北条軍
・1569年(永禄12) 三増峠の戦い[相模国 - 神奈川県愛甲郡愛川町] ○武田軍×●北条軍
・1570-74年(元亀元-天正2) 長島一向一揆[伊勢国- 三重県桑名市] ○織田軍×●長島一向一揆
・1570-80年(元亀元-天正8) 石山合戦[摂津国 - 大阪府大阪市] ○織田軍×●石山本願寺軍
・1570年(元亀元) 金ヶ崎の戦い[越前国 - 福井県敦賀市] ○朝倉軍×●織田軍
・1570年(元亀元) 姉川の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井・朝倉軍
・1571年(元亀2) 比叡山焼き討ち[山城国・近江国 - 京都府京都市・滋賀県大津市] ○織田軍×●比叡山延暦寺
・1572年(元亀3) 三方ヶ原の戦い[遠江国 - 静岡県浜松市] ○武田軍×●徳川・織田軍
・1573年(天正元) 槇島城の戦い[山城国 - 京都府京都市・宇治市] ○織田軍×●足利義昭軍
・1573年(天正元) 一乗谷城の戦い[越前国 - 福井県福井市] ○織田軍×●朝倉軍
・1573年(天正元) 小谷城の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井軍
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 今日は、平安時代前期の894年(寛平6)に、菅原道真の建白により遣唐使の停止が決定した日ですが、新暦では11月1日となります。
 遣唐使は、遣隋使を引き継いで、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣されたのに始まり、260余年間続けられてきました。
 しかし、唐は安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、874年頃から起きた黄巣の乱によりさらに弱体化します。
 そこで、寛平6年(894年)に、遣唐大使となっていた菅原道真により、建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が9月14日に出され、9月30日に停止されることが決まりました。
 その後、道真が左遷されて大使を解かれ、907年(延喜7)には唐が滅亡して、再開されないまま終わりを告げました。
 以下に、菅原道真の建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(全文)を原文・読み下し文・現代語訳で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇菅原道真「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(全文) 894年(寛平6年9月14日)

請令諸公卿議定遣唐使進止状       菅原道眞

右臣某謹案在唐僧中瓘去年三月附商客王訥等所到之録記大唐凋弊載之具矣更告不朝之問終停入唐之人中瓘雖區々之旅僧爲聖朝盡其誠代馬越鳥豈非習性臣等伏撿舊記度々使等或有渡海不堪命者或有遭賊遂亡身者唯未見至唐有難阻飢寒之悲如中瓘所申報未然之事推而可知臣等伏願以中瓘録記之状遍下公卿博士詳被定其可否國之大事不獨爲身且陳欵誠伏請處分謹言

  寛平六年九月十四日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某

 『日本古典文学大系72 菅家文草 菅家後集』(岩波書店発行)による

<読み下し文>(読み仮名は、現代かなづかい)

 諸公卿をして遣唐使の進止[1]を議定せしめんことを請ふの状   菅原道真

 右臣某[2]、謹みて在唐の僧中瓘、去年三月[3]、商客[4]王訥等に附して到るところの録記を案ずるに、大唐の凋弊[5]、之を載すること[6]具なり[7]。更に不朝[8]の問を告げ、終に入唐の人を停む[9]。中瓘区々の旅僧[10]たりと雖も、聖朝のためにその誠を尽くす。代馬・越鳥[11]、豈に習性に非ざらんや。臣等、伏して旧記を検するに、度々の使等、或は海を渡りて命に堪えざりし者有り。或は賊に遭ひて遂に身を亡ぼせし者有り。唯だ、未だ唐に至りて難阻飢寒の悲しみ[12]有りしことを見ず。中瓘が申報するところの如くむば、未然の事[13]、推して知るべし。臣等、伏して願はくは、中瓘が録記の状を以て、遍ねく公卿・博士に下し、詳に其の可否を定められむことを。国の大事にして、独り身の為[14]ならず。且く款誠を陳べ[15]、伏して処分を請ふ。謹みて言す。

 寛平六年九月十四日
 大使[16]参議[17]勘解由次官[18]従四位下兼守[19]左大弁[20]行式部権大輔[21]春宮亮[22]菅原朝臣某

【注釈】
 [1]進止:しんじ=進退。存廃。
 [2]臣某:しんそれがし=菅原道真のこと。
 [3]去年三月:さるとしさんがつ=893年(寛平5年3月)のこと。
 [4]商客:しょうきゃく=商人。
 [5]凋弊:ちょうへい=衰えること。
 [6]之を載すること:これをのすること=これを掲載すること。これが書かれていること。
 [7]具なり:つぶさなり=詳しい。具体的である。
 [8]不朝:ふちょう=来朝しないこと。
 [9]入唐の人を停む:にゅうとうのひとをとどむ=遣唐使の派遣を停止すること。
 [10]区々の旅僧:くくのりょそう=取るに足らない旅の僧。
 [11]代馬・越鳥:だいばえつちょう=代(地方名)に産する馬と越(国名)の鳥をいい、馬や鳥でも故郷を忘れがたいこと。
 [12]難阻飢寒の悲しみ:なんそきかんのかなしみ=旅の困難や飢えや寒さによる悲哀。
 [13]未然の事:みぜんのこと=将来のこと。
 [14]独り身の為:ひとりみのため=遣唐大使に選ばれている自身のため。
 [15]款誠を陳べ:かんせいをのべ=誠心を述べる。
 [16]大使:たいし=遣唐大使のこと。
 [17]参議:さんぎ=大臣・納言とともに国政を審議する官。
 [18]勘解由次官:かげゆのすけ=勘解由使局の次官。
 [19]守:かみ=官は高いが位の低い場合に記すもの。
 [20]左大弁:さだいべん=太政官の事務局の一つ、左弁官局の局長。
 [21]式部権大輔:しきぶごんのたいふ=式部省の権官で次官。
 [22]春宮亮:とうぐうのすけ=皇太子の宮の内政を担当する役所の次官。

<現代語訳>

 諸公卿の方々に遣唐使の存廃を審議し決定して頂くことを願う書状  菅原道真

 右のことについて私(菅原道真)がつつしんでんで申し上げます。唐に滞在中の僧中灌(チュウカン)が昨年3月に商人の王訥(オウトツ)らに託して送ってきた記録を見ましたところ、大唐の衰退した様子が詳しく記載されておりました。更に来朝しないことを問われたと報告し、ついには遣唐使の派遣を停めようとします。中瓘は取るに足らない旅の僧とはいえ、朝廷のために誠意を尽くしています。代(中国の北方地方)に産する馬や越(中国の南方の国)の鳥のさえも故郷を忘れず、それが習性というものでしょう。
 私達がつつしんで古い記録を調べてみますと、何回かの使節(遣唐使)は、海で遭難して命が絶えてしまった者や、賊に遭遇して命を落とした者がいます。ただ唐に到着してからは、旅の困難や飢えや寒さによる悲哀はありませんでした。
 中灌が報告した通りであれば、これからの遣唐使は何が起こるかは推して知るべきでしょう。
 私達臣下が心からお願いしたいことは、中灌の記録に記された内容をひろく公卿・博士に渡して、遣唐使派遣の可否を事細かに審議し決定するよう願うものであります。
このことは国家の大事であり決して我が身一人の安全のために申しているのではありません。まさに誠心を述べ、取り計らって頂くことを求めます。以上謹んで申し上げます。

  寛平6年9月14日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某

〇菅原道真(すがわら みちざね)とは?

 平安時代前期の学者・政治家です。845年(承和12)に、菅原是善の3男として生まれ。幼少の頃より詩歌に才能があったと言われています。
 862年(貞観4)に18歳で文章生となり、877年(元慶1)には、文章博士となりました。以後,宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、894年(寛平6)には、遣唐使に任ぜられましたが建議して、これを中止したのです。
 899年(昌泰2)に、右大臣となりますが、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されました。そして、903年(延喜3)に大宰府において、59歳で亡くなっています。
 著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがあります。

〇遣唐使(けんとうし)とは?

 飛鳥時代から平安時代前期にかけて、国際情勢や大陸文化を摂取するために、遣隋使のあとをうけ、10数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節です。使節は、大使、副使、判官、録事から構成され、留学生、留学僧を伴って、数百人が数隻の船に分乗し、2~3年がかりで往復し、国書・物品などを奉献しました。第1回は、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣され、第5回までは朝鮮半島沿岸を北上して山東半島に上陸する北路を、その後新羅による朝鮮統一により、九州から東シナ海を横断して、揚子江河口に上陸する南路をとって入唐するようになります。とても厳しい航海で、計画したものの断念したり、途中で難破して沈没したり、引き返したこともありましたが、政治・学問・宗教などに多くの貢献をしました。しかし、唐も安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、また、商人による貿易もさかんになってきていたので、894年(寛平6)に、菅原道真の建議により停止され、907年(延喜7)には唐が滅亡してなくなりました。

☆遣唐使一覧(カッコの回は唐へ行っていない)

・1回 舒明2年(630年)~舒明4年(632年)---犬上御田鍬(大使)・薬師恵日 唐使高表仁来日、僧旻帰国
・2回 白雉4年(653年)~白雉5年(654年)---吉士長丹(大使)、高田根麻呂(大使)、吉士駒(副使)、掃守小麻呂(副使)、道昭・定恵・道観(派遣者) 第2船が往途で遭難
・3回 白雉5年(654年)~斉明元年(655年)---高向玄理(押使)、河辺麻呂(大使)、薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没
・4回 斉明5年(659年)~斉明7年(661年)---坂合部石布(大使)、津守吉祥(副使)、伊吉博徳(派遣者) 第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される
・5回 天智4年(665年)~天智6年(667年)---守大石(送唐客使)、坂合部石積、吉士岐彌、吉士針間 唐使の劉徳高を送る。唐使の法聡が来日
・(6)回 天智6年(667年)~天智7年(668年)---伊吉博徳(送唐客使) 唐使の法聡を送る。唐には行かず?
・7回 天智8年(669年)~不明 河内鯨(大使)---第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
・8回 大宝2年(702年)~慶雲元年(704年)---粟田真人(執節使)、高橋笠間(大使)、坂合部大分(副使)、山上憶良・道慈(派遣者)
・9回 養老元年(717年)~養老2年(718年)---多治比縣守(押使)、大伴山守(大使)、藤原馬養(副使)、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成(派遣者) 
・10回 天平5年(733年)~天平6年(734年)---多治比広成(大使)、中臣名代(副使)、平群広成(判官)、大伴古麻呂(派遣者)
・(11)回 天平18年(746年)~ 石上乙麻呂(大使) 停止される
・12回 天平勝宝4年(752年)~天平勝宝6年(754年)---藤原清河(大使)、吉備真備(副使)、大伴古麻呂(副使) 鑑真が来日する
・13回 天平宝字3年(759年)~天平宝字5年(761年)---高元度(迎入唐大使使)、内蔵全成(判官)
・(14)回 天平宝字5年(761年)---仲石伴(大使)、石上宅嗣(副使)、中臣鷹主(遣唐判官) 船破損のため停止
・(15)回 天平宝字6年(762年)---中臣鷹主(送唐客使)、藤原田麻呂(副使)、高麗広山(副使) 唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止する
・16回 宝亀8年(777年)~宝亀9年(778年)---小野石根(持節副使・大使代行)、大神末足(副使)
・17回 宝亀10年(779年)~天応元年(781年)---布施清直(送唐客使) 唐使孫興進を送る
・18回 延暦23年(804年)~大同元年(806年)10月---藤原葛野麻呂(大使)、石川道益(副使)、最澄・空海・橘逸勢・霊仙(派遣者)
・19回 承和5年(838年)~承和6年(839年)---藤原常嗣(大使)、円仁、藤原貞敏(准判官)、長岑高名(准判官)、良岑長松(准判官)、菅原梶成(知乗船事・医師) 小野篁(副使)は拒否して流罪
・(20)回 寛平6年(894年)---菅原道真(大使)、紀長谷雄(副使) 予定されたが菅原道真の建議により停止する
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 今日は、江戸時代後期の1801年(享和元)に、国学四大人の一人・国学者本居宣長の亡くなった日ですが、新暦では11月5日となります。
 本居宣長(もとおり のりなが)は、1730年(享保15年5月7日)に、伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商の父・小津定利の次男(母は勝)として生まれましたが、幼名は富之助と言いました。
 1740年(元文5)に11歳で父を亡くし、1748年(寛延元)19歳で同国山田の紙商今井田家の養子となりましたが、21歳で不縁となって実家に出戻ります。
 1751年(宝暦元)に兄が亡くなって、小津家の家督を相続しましたが、商売には向かず店をたたんで、医師を志し、上洛しました。この頃、姓を本居と変え、医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、漢学や国学なども学びます。
 1758年(宝暦7)に松坂に帰郷し、医師を開業、その一方で、自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励みました。
 1763年(宝暦13)賀茂真淵と会い、のちに入門、『古事記伝』を書き始めます。並行して、語学研究、評論執筆にいそしみ、門人も増えていきました。
 1793年(寛政5)には64歳で随筆『玉勝間』を起稿、1798年(寛政10)には、『古事記伝』44巻を完成させます。
 その後も、国文、神話、神道、国語などの研究に努めましたが、1801年(享和元年9月29日)に、松坂において、数え年72歳で亡くなりました。門人は487人に達し、田中道麿、服部中庸、横井千秋、石塚竜麿らを輩出しています。

〇本居宣長の主要な著作

・歌論『排蘆小船』(1756年)
・文学論『石上私淑言』(1763年)
・文学論『紫文要領』(1763年)
・語学書『てにをは紐鏡』(1771年)
・神道論『直毘霊』(1772年)
・語学書『字音仮名用格』(1776年)
・歴史書『馭戎慨言』(1777年)
・国学書『万葉集玉乃小琴』(1779年)
・歌論『葛花(くずばな)』(1780年成立)
・暦学書『真暦考』(1782年)
・天文書『天文図説』(1782年)
・語学書『御国詞活用抄』(1782年頃成立)
・語学書『詞の玉緒』(1785年)
・語学書『漢字三音考』(1785年刊)
・国学書『鉗狂人(けんきょうじん)』(1785年成立)
・歌集『玉鉾(たまほこ)百首』(1787年)
・政治論『秘本玉くしげ』(1787年)
・国学書『呵刈葭(かかいか)』(1790年頃成立)
・語学書『玉あられ』(1792年刊)
・随筆『玉勝間(たまかつま)』(1793年)
・国学書『古今和歌集遠鏡(とおかがみ)』(1793年頃成立)
・国学書『源氏物語玉の小櫛(おぐし)』(1796年)
・国学書『古事記伝』44巻(1798年完成)
・『家のむかし物語』(1798年成立)
・注釈書『古訓古事記』(1799年)
・国学書『初山踏(ういやまぶみ)』(1799年)
・歌文集『鈴屋集』(1798~1800年刊)
・『遺言書』(1800年)
・『古語拾遺疑斎辨(こごしゅういぎさいべん)』
・『おもひ草』
・国学書『鈴屋答問録』
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