ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、江戸時代後期の1862年(文久2)に、教育者・思想家・農政学者新渡戸 稲造の生まれた日ですが、新暦では9月1日となります。
 新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、陸奥国岩手郡盛岡(現在の岩手県盛岡市)で、南部藩士の父・新渡戸十次郎、母・せきの3男として生まれましたが、幼名は稲之助といいました。
 その後、名を稲造と改めて上京し、数え年13歳頃から東京英語学校で学びます。農学を志すようになり、札幌農学校の二期生として入学、在学中に内村鑑三らとともに受洗し、キリスト者となりました。
 1881年(明治14)札幌農学校を卒業し、1883年(明治16)には東京大学に入学しますが満足できず、翌年退学し、アメリカに留学します。
 ジョンズ・ホプキンス大学在学中、札幌農学校助教授に任ぜられ、ドイツに移り、ボン、ベルリン、ハレ各大学で農政学を研究、1891年(明治24)に帰国し、札幌農学校教授となりました。しかし、病を得て、1898年(明治31)から3年間、療養を兼ねて欧米を漫遊します。
 1901年(明治34)には、台湾総督府技師に任ぜられ、殖産事業に参画、糖業により統治の経済的基礎を確立しました。
 1903年(明治36)に京都帝国大学教授に就任、1906年(明治39)には、第一高等学校校長となり、7年間在職します。また、1909年(明治42)より東京帝国大学教授として植民政策講座を担当しました。
 1918年(大正7)に東京女子大学初代学長、1928年(昭和3)に東京女子経済専門学校の初代校長に就任、女子教育に尽力します。
 その一方で、国際連盟事務次長(1920~26年)や太平洋問題調査会理事長(1929~33年)を務めて、「太平洋の橋」になることを願い、国際理解と世界平和のために活躍しました。
 その中で、帝国学士院会員、貴族院議員ともなって活躍しましたが、1933年(昭和8)に太平洋会議(カナダ開催)出席後、病を得て、同年10月16日にカナダのビクトリアで、71歳で亡くなります。
 尚、1984年(昭和59)発行の5,000円札の肖像に選ばれたことでも知られました。

〇新渡戸稲造の主要な著作

・『農業本論』(1898年)
・『武士道』(1899年)
・『修養』(1911年)
・『新渡戸稲造全集』23巻別巻1(1987年)
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 今日は、昭和時代後期の1977年(昭和52)に、北海道の有珠山が32年ぶりに噴火(1977年有珠山噴火)した日です。
 有珠山(うすざん)は、北海道・洞爺湖の南に位置する標高737mの活火山ですが、1977年(昭和52年)8月6日から有感群発地震が発生する中で、翌日午前9時12分頃に山頂カルデラ、小有珠斜面からのプリニー式噴火が始まりました。
 32年ぶりの大噴火で、噴煙は高さ12,000mに達し、約1億立方mの火山灰を噴出、洞爺湖周辺の農地、林地、洞爺湖温泉、壮瞥温泉の両集落に多大な損害を与えます。降灰区域は北海道の約半分(119市町村)に及び、農作物に多大な被害を発生させ、気象庁はこの噴火を「1977年有珠山噴火」と命名しました。
 これ以降、火口原での地殻変動が、1982年(昭和57年)3月まで4年半ほど続き、山頂部の小有珠とオガリ山の中間点に新たな潜在溶岩円頂丘(有珠新山)が形成され、この間に降雨に伴う泥流が発生、1978年(昭和53)10月には死者2名、行方不明者1名が出ます。
 この教訓を後世に伝えるため、「1977年火山遺構公園ジオサイト」(噴火で断層ができて建物が破壊された跡)が残されました。
 その後、2000年(平成12年)にも噴火が起き、大きな被害を出します。

〇有珠山(北海道有珠郡壮瞥町・虻田郡洞爺湖町・伊達市)とは?

 洞爺湖の南に位置する二重式火山で、直径約1.8 km の外輪山の中に大有珠(標高737m)、小有珠などの溶岩円頂丘やオガリ山、有珠新山(669m)などの潜在円頂丘が形成されています。また、山麓にも溶岩円頂丘の昭和新山や、潜在円頂丘の金比羅山、四十三山(明治新山)などが有りました。
 江戸時代から噴火活動が活発化し、20世紀中だけでも4度も噴火活動が観測された、活発な活火山です。
 有珠善光寺・善光寺自然公園には、大小様々な溶岩の塊が散在していますし、昭和新山は、1944-45年(昭和19-20)の有珠山噴火で隆起して出来た溶岩ドームとして有名になりました。1977年(昭和52)の噴火で断層ができて建物が破壊された跡が、火山遺構公園として残されていますし、2000年(平成12)の噴火で落下した噴石の直撃を受けた建物跡である旧とうやこ幼稚園や熱泥流が発生して埋まった建物跡が遺構公園しとして保存されています。
 また、拠点施設としては、「道の駅 そうべつ情報館」「洞爺湖ビジターセンター・火山科学館」があって、見学しながらいろいろと学ぶことができました。
 尚、「洞爺湖有珠山ジオパーク」として、2008年(平成20)12月8日に、初めて「日本ジオパーク」に認定された7地域の一つで、翌年8月に最初に「世界ジオパーク」にも認定されています。

〇「洞爺湖有珠山ジオパーク」とは?

 2008年(平成20)12月8日に、初めて「日本ジオパーク」に認定された7地域の一つで、翌年8月に最初に「世界ジオパーク」にも認定されています。
 北海道の洞爺湖、有珠山を中心とし、火山活動により形成された地質や自然、さらにはそうした自然に育まれた縄文文化の遺跡群などを含む、伊達市、豊浦町、壮瞥町、洞爺湖町の4市町がその対象地域となりました。
 洞爺湖ジオサイト(神秘の水をたたえるカルデラ湖)、中島ジオサイト(噴火で形成された溶岩ドーム群からなる)、北黄金貝塚ジオサイト(縄文時代早期~中期頃の遺跡群)、カムイチャシ史跡公園ジオサイト(アイヌの砦・館跡)、小幌洞窟ジオサイト(先史時代の遺跡)、有珠善光寺・善光寺自然公園ジオサイト(大小様々な溶岩の塊が散在しています)、昭和新山ジオサイト(1944-45年の有珠山噴火で隆起して出来た溶岩ドームが有名)、1977年火山遺構公園ジオサイト(噴火で断層ができて建物が破壊された跡)、旧とうやこ幼稚園ジオサイト(2000年噴火で落下した噴石の直撃を受けた建物跡)、2000年噴火遺構公園ジオサイト(熱泥流が発生して埋まった建物跡)などが見所です。
 拠点施設としては、「道の駅 そうべつ情報館」「洞爺湖ビジターセンター・火山科学館」があって、見学しながらいろいろと学ぶことができました。

〇「ジオパーク」とは?

 地質学(geology)と公園(park)の合成語で、「大地の公園」「大地の遺産」「地質遺産」などとも表現されていました。地球科学的な価値を持つ遺産を保全し、教育やツーリズムに活用しながら、持続可能な開発を進める地域認定プログラムです。
 2004年(平成16)に、「国際連合教育科学文化機関(UNESCO)」の支援により、「世界ジオパークネットワーク(GGN)」が発足し、各国のジオパーク委員会による推薦地域を審査し,条件を備えた地域を世界ジオパークに認定してきました。日本でも、2008年(平成20)に「日本ジオパーク委員会(JGC)」が設立され、国内のジオパーク認定、および世界ジオパークへの加盟申請などを行っています。また,日本ジオパークに認定されたところ、および日本ジオパークを目指す地域協議会などにより、「日本ジオパークネットワーク」が設立されました。
 そして、2008年(平成20)12月8日に、初めて7地域(洞爺湖有珠山、糸魚川、島原半島、アポイ岳、南アルプス[中央構造線エリア]、山陰海岸、室戸)が日本ジオパークに決まり、同時に、世界ジオパークへの3地域(洞爺湖有珠山、糸魚川、島原半島)の推薦が決定したのです。その後、日本ジオパークの認定と世界ジオパークへの加盟申請が順次行われてきて、2017年(平成29)7月現在、43地域が日本ジオパークに認定され、その内8地域が世界ジオパークに認定されました。これらの地域では、地史や地質現象を示す地質遺産を保全し、地球科学や環境問題の教育・普及活動を行うとともに、観光資源として地域の活性化を目指すと共に、地質災害に対する理解や防災への取り組みも行われています。

〇「活火山」とは?

 活動的で近い将来噴火を起こす可能性のある火山のことですが、日本では、おおむね過去1万年以内に噴火した記録があるか、現在活発な噴気活動のある火山とされています。
 火山噴火予知連絡会によって、(1)過去1万年間の噴火の頻度、規模、爆発性などを定量化した1万年活動度指数、(2)過去100年間の観測データに基づく100年活動度指数。の2つの尺度が決められ、これによって、活火山はA・B・Cの3段階に分類されました。(ただし、海底火山と北方領土の火山は、データ不足のため評価の対象外)2017年(平成29)7月現在、Aランク(最も活動度が高い)の火山は13、Bランク(活動度は中程度)は36、Cランク(活動度は最も低い)の火山は38、対象外の火山は23で、合計110となっています。

☆日本の活火山一覧(火山噴火予知連絡会、活動度による分類)

<北海道>
・十勝岳(北海道)ランクA
・樽前山(北海道)ランクA
・有珠山(北海道)ランクA
・北海道駒ケ岳(北海道)ランクA
・浅間山(長野県・群馬県)ランクA
・知床硫黄山(北海道)ランクB
・羅臼岳(北海道)ランクB
・摩周(北海道)ランクB
・雌阿寒岳(北海道)ランクB
・恵山(北海道)ランクB
・渡島大島(北海道)ランクB
・アトサヌプリ(北海道)ランクC
・丸山(北海道)ランクC
・大雪山(北海道)ランクC
・利尻山(北海道)ランクC
・恵庭岳(北海道)ランクC
・倶多楽(北海道)ランクC
・羊蹄山(北海道)ランクC
・ニセコ(北海道)ランクC

<東北>
・岩木山(青森県)ランクB
・十和田(青森県・秋田県)ランクB
・恐山(青森県)ランクC
・八甲田山(青森県)ランクC
・秋田焼山(秋田県)ランクB
・岩手山(岩手県)ランクB
・八幡平(岩手県・秋田県)ランクC
・秋田駒ヶ岳(秋田県)ランクB
・鳥海山(秋田県・山形県)ランクB
・栗駒山(宮城県)ランクB
・蔵王山(宮城県・山形県)ランクB
・鳴子(宮城県)ランクC
・肘折(山形県)ランクC
・吾妻山(福島県)ランクB
・安達太良山(福島県)ランクB
・磐梯山(福島県)ランクB
・沼沢(福島県)ランクC
・燧ヶ岳(福島県)ランクC

<関東>
・那須岳(栃木県)ランクB
・高原山(栃木県)ランクC
・男体山(栃木県)ランクC
・日光白根山(栃木県・群馬県)ランクC
・榛名山(群馬県)ランクB
・草津白根山(群馬県)ランクB
・赤城山(群馬県)ランクC
・伊豆大島(東京都)ランクA
・三宅島(東京都)ランクA
・伊豆鳥島(東京都)ランクA
・神津島(東京都)ランクB
・西之島(東京都)ランクB
・硫黄島(東京都)ランクB
・新島(東京都)ランクB
・利島(東京都)ランクC
・御蔵島(東京都)ランクC
・八丈島(東京都)ランクC
・青ヶ島(東京都)ランクC
・箱根山(神奈川県)ランクB

<中部>
・新潟焼山(新潟県)ランクB
・妙高山(新潟県)ランクC
・横岳(長野県)ランクC
・焼岳(長野県・岐阜県)ランクB
・御嶽山(長野県・岐阜県)ランクB
・乗鞍岳(長野県・岐阜県)ランクC
・アカンダナ山(岐阜県)ランクC
・白山(福井県・岐阜県)ランクC
・弥陀ヶ原(富山県)ランクC
・富士山(静岡県・山梨県)ランクB
・伊豆東部火山群(静岡県)ランクB

<中国>
・三瓶山(島根県)ランクC
・阿武火山群(山口県)ランクC

<九州>
・雲仙岳(長崎県)ランクA
・福江火山群(長崎県)ランクC
・阿蘇山(熊本県)ランクA
・九重山(大分県)ランクB
・鶴見岳・伽藍岳(大分県)ランクB
・由布岳(大分県)ランクC
・霧島山(鹿児島県・宮崎県)ランクB
・桜島(鹿児島県)ランクA
・薩摩硫黄島(鹿児島県)ランクA
・諏訪之瀬島(鹿児島県)ランクA
・米丸・住吉池(鹿児島県)ランクC
・池田・山川(鹿児島県)ランクC
・開聞岳(鹿児島県)ランクC
・中之島(鹿児島県)ランクB
・硫黄鳥島(鹿児島県)ランクB
・口之島(鹿児島県)ランクC
・口永良部島(鹿児島県)ランクB

A:100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山
B:100年活動度または1万年活動度が高い活火山
C:100年活動度および1万年活動度がともに低い活火山
注:上記以外にデータ不足で対象外となっている北方領土や海底の火山があります
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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、広島県広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催された日です。
 1954年(昭和29)3月1日に、南太平洋のビキニ島近くの海域でアメリカが行なった水爆実験によって、「第五福竜丸」などの漁船が被爆し、「第五福竜丸」無線長だった久保山愛吉さんが、この半年後の9月23日に死亡する事件(いわゆるビキニ事件)が起こりました。
 これによって、「原水爆の犠牲はもうたくさんだ!」という怒りが沸き起こり、東京都杉並区の主婦の手でスタートした原水爆禁止署名運動は、またたくまに全国に広がり3,000万人を突破するに至ります。
 その運動を引継ぐ形で、翌年8月6日に被爆10周年の広島県広島市で、第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。この大会には、国内からいろいろな階層、立場の人々が参加、アメリカ、オーストラリア、中国、インドネシアなど11ヶ国50人の代表(北朝鮮、ポーランド以外の社会主義諸国代表は入国拒否にあい、大会に間に合わなかった)を含め5,000人の規模となります。
 同年9月には、この運動を継続する中心組織として「原水爆禁止日本協議会(日本原水協)」が発足し、核戦争阻止、核兵器の全面禁止、被爆者救援を基本目標とし、以後毎年、世界各国の平和団体代表を集めて日本で世界大会が催されるようになりました。
 この運動は政治的イデオロギーを問わず、いろいろな団体が参加する国民運動でしたが、1965年(昭和40)に、「部分的核実験禁止条約」の評価などを巡って、「原水爆禁止日本国民会議」が分れたのをはじめ、分裂が起こります。
 1977年(昭和52)に開かれた第1回国連軍縮特別総会に向けた署名運動での協力を通じて、同年8月に14年ぶりの統一世界大会が開かれました。以後毎年挙行されましたが、1986年(昭和61)以降、再分裂しています。
 しかし、これらの運動によって、日本は最初の被爆国として、平和運動の面でも世界的な中心の一つとなりました。

〇「第五福竜丸」とは?

 この船は、昭和時代中期の1954年(昭和29)3月1日に、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁でのアメリカ軍の水素爆弾実験によって発生した多量の放射性降下物(死の灰)を浴びました。
 これによって、船員23名は全員被爆し、治療の甲斐なく、無線長だった久保山愛吉さんが、この半年後の9月23日に死亡しています。これ以外にも、何隻かの漁船が被爆しており、広島、長崎に次ぐ第三の原子力災害となり、日本での反核運動が高まっていくきっかけとなったのです。
 この船は、後に練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、1967年(昭和42)に廃船になりました。
 しかし、この船を保存して、原水爆による惨事がふたたび起こらないためのモニュメントにしようといて動きがあり、1976年(昭和51)、夢の島公園内に「東京都立第五福竜丸展示館」が開館します。
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 今日は、幕末の1863年(文久3)に、英・米・蘭・仏の4ヶ国連合艦隊が下関への砲撃を開始した日ですが、新暦では9月5日となります。
 これは、イギリス、アメリカ、オランダ、フランスの4ヶ国連合艦隊が下関の砲台を攻撃し、攘夷派を屈服させた事件で、「四国艦隊下関砲撃事件」とも呼ばれてきました。
 同年7月27日・28日に、キューパー中将(イギリス)を総司令官とする4ヶ国連合艦隊が横浜を出港、関門海峡に至って、8月5日から砲撃が始まり、長州藩側も応戦しましたが、戦力に大きな開きがあり、8日までに長州藩の砲台は破壊されたり、上陸した4ヶ国側の兵員に占拠されます。
 そこで、長州藩は8月8日に講和使節の使者に高杉晋作を任じ、4ヶ国連合艦隊との交渉を進め、同月18日に下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立しました。
 この事件の前段として、1863年(文久3)5月10日を江戸幕府が攘夷実行日とし、諸藩に通達したことをもって、長州藩が外国船に対し砲撃を行う(下関事件)ことがあり、同年6月5日 報復として米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃します。しかし、長州藩が攘夷の態度を続けたことがありました。
 これらの戦争を通じて列国の軍事力を目の当たりにした長州藩は、列国に接近しつつ、強力な統一国家建設を目指して、倒幕運動に向かうことになります。

〇「四国艦隊下関砲撃事件」関係略年表(日付は旧暦です)

<1853年(嘉永6)>
・7月8日 ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る

<1854年(安政元)>
・3月31日 江戸幕府は「日米和親条約」を締結する

<1858年(安政5)>
・7月29日 アメリカの強い要求により、江戸幕府は「日米通商修好条約」を締結する
 以後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結ぶ(安政五ヶ国条約)

<1860年(万延元)>
・3月3日 水戸・薩摩脱藩浪士によって、江戸幕府大老井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変)

<1861年(文久元)>
・3月 直目付長井雅楽が藩主毛利慶親に対し、藩の政治活動方針として「航海遠略策」を建白する
 以後、公武合体策を藩論としようとする

<1862年(文久2)>
・1月15日 坂下門外の変が起こり、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が失脚する
・2月11日 和宮と江戸幕府第14代将軍家茂の婚礼が行われる(和宮降嫁)
・6月 長州藩の公武合体派長井雅楽が藩主から罷免される
・8月21日 生麦事件が起きる

<1863年(文久3)>
・2月6日 長井雅楽が死罪を得る
・3月4日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂が上洛する
・5月10日 江戸幕府は攘夷実行日とする(諸藩にも通達)
・5月 長州藩が外国船に対し砲撃を行う(下関事件)
・6月5日 報復として米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃する
・7月2~4日 薩英戦争が起きる

<1864年(元治元)>
・6月5日 池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害・捕縛される
・7月19日 長州藩は兵を京都へ派遣し、幕府側と交戦して御所にまで侵入するが撃退される(禁門の変)
・7月23日 朝廷は江戸幕府へ対して長州追討の勅命を発する(第一次長州征討)
・7月27日・28日 キューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊が横浜を出港する
・8月5~8日 英・仏・米・蘭連合艦隊が、下関と彦島の砲台を砲撃・占領する(四国艦隊下関砲撃事件)
・8月8日 長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じる
・8月18日 下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立する
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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、小説家松本清張(まつもと せいちょう)の亡くなった日です。
 松本清張は、明治時代後期の1909年(明治42)12月21日(2月12日説がある)に、福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)で、父・松本峯太郎、母・タニの子として生まれたとされていますが、広島県広島市で生まれたとも言われてきました。
 本名は、「きよはる」と読み、1924年(大正13)に板櫃尋常高等小学校を卒業後、給仕、印刷所の版下工その他の職を転々とします。
 1939年(昭和14)に朝日新聞西部本社に入り、広告部員嘱託となり、2年後に正社員となりました。1943年(昭和18)から2年間兵役に就き、太平洋戦争後、朝日新聞社に復職し、広告部意匠係に勤務します。
 1950年(昭和25)の処女作『西郷札(さいごうさつ)』が『週刊朝日』の懸賞小説三等に入選し、翌年直木賞候補作となりました。
 1952年(昭和27)の『或る「小倉日記」伝』が芥川賞を受けて文壇にデビューし、1954年(昭和29)東京本社勤務となり、1956年に退社して文筆生活に入ります。
 1950年代半ばから推理小説を書きはじめ、『点と線』(1957~58年)、『眼の壁』(1958年)の成功によって、社会派推理小説という新分野を開拓、流行作家となりました。
 一方、現代史に材を求めた『小説帝銀事件』(1959年)、『日本の黒い霧』(1960年)、菊池寛賞受賞の『昭和史発掘』(1964~71年)などでも高い評価を受けます。
 その後、古代史分野でも活躍し、『古代史疑』(1966~67年)、『火の路(みち)』(1973~74年)を著わし、『清張通史』(1976~78年)へと発展しました。
 幅広い分野で活躍し、700編を越える著作を残しましたが、1992年(平成4)8月4日に、東京において、82歳で亡くなります。

〇松本清張の主要な作品

・『西郷札』(1950年)
・『或る「小倉日記」伝』 (1952年)
・『啾々吟』(1953年)
・『菊枕』(1953年)
・『断碑』(1954年)
・『石の骨』(1955年)
・『張込み』(1955年)
・『顔』(1956年)
・『点と線』(1957~58年)
・『眼の壁』(1958年)
・『ゼロの焦点』(1958~60年)
・『黒の画集』(1958~60年)
・『小説帝銀事件』(1959年)
・『日本の黒い霧』(1960年)
・『球形の荒野』(1960~61年)
・『わるいやつら』(1960~61年)
・『砂の器』(1960~61年)
・『深層海流』(1961~62年)
・『象徴の設計』(1962~63年)
・『けものみち』(1962~63年)
・『昭和史発掘』(1964~71年)
・『火の虚舟(きょしゅう)』(1966~67年)
・『古代史疑』(1966~67年)
・『砂漠の塩』(1967年)
・『遊史疑考』(1971~72年)
・『古代探求』(1971~72年)
・『文豪』(1972~74年)
・『火の路(みち)』(1973~74年)
・『清張通史』(1976~78年)
・『暗い血の旋舞』(1987年)
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