ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、明治時代初期の1869年(明治2)に薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が願い出た版籍奉還を許可し、藩主を知藩事に任命した日(新暦では7月25日)です。
 同年の1月20日(新暦では3月20日)に、新政府樹立を主導した薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が上表(建白書)を提出しており、それを明治天皇が認めるという形で行われ、他藩もそれに追従しました。
 これによって、明治政府による中央集権化が進むことになります。

〇版籍奉還とは?
 幕末明治維新期の1869年(明治2)に実施された、明治政府による中央集権化の政治改革です。まず、長州・薩摩・土佐・肥前の4藩主が、この年の1月20日(新暦では3月20日)に、天皇に対して「長薩土肥四藩上表」(建白書)を行って、封土・領民返還の先駆けとなりました。その後、それにならって、諸藩主が土地(版)と人民(籍)を朝廷に還納し、6月17日(新暦では7月25日)には奉還聴許に決するとともに、旧藩主をそのまま政府の任命する知藩事としたのです。藩主の封建的諸特権はほぼ従来どおりで、形式的な面もありましたが、2年後の廃藩置県への第一歩となりました。
 「長薩土肥四藩上表」を原文と訳文で掲載しておきます。

☆「長薩土肥四藩上表」(縦書きを横書きにし、句読点を付してあります)
臣某等頓首再拝謹テ案スルニ、朝廷一日モ失フ可ラサルモノハ大体ナリ。一日モ仮ス可ラサル者ハ大権ナリ。天祖肇テ国を開キ基ヲ建玉ヒシヨリ、皇統一系、万世無窮、普天率土、其ノ有ニ非サルハナク、其臣ニ非サルハナシ。是レ大体トス。且ツ与ヘ且ツ奪ヒ、爵禄以テ下ヲ維持シ、尺土モ私ニ有スルコト能はす、一民モ私ニ攘ムコト能ハス。是大権トス。在昔朝廷海内ヲ統馭スル一ニコレニヨリ、聖躬之ヲ親ラス。故ニ名実並ヒ立チテ、天下無事ナリ。中葉以降、綱維一タヒ弛ヒ、権ヲ弄シ、柄ヲ争フ者、踵ヲ朝廷ニ接シ、ソノ民ヲ私シ、ソノ土ヲ攘ムモノ、天下ニ半シ、遂ニ搏噬攘奪ノ勢成リ、朝廷守ル所ノ体ナク、トル所ノ権ナクシテ、是レヲ制馭スルコト能ハス。姦雄タカヒニ乗シ、弱ノ肉ハ強ノ食トナリ、ソノ大ナル者ハ十数州ヲ併セ、ソノ小ナル者ハ猶士ヲ養フ数千。所謂幕府ナル者ノ如キハ、土地人民擅ニソノ私スル所ニ分チ、以テソノ勢権ヲ扶植ス。是ニオイテカ、朝廷徒ニ虚器ヲ擁シ、ソノ視息ヲ窺ヒテ、喜戚ヲナスニ至ル。横流ノ極ミ、滔天回ラサルモノ、茲ニ六百有余年。然レトモソノ間往々天子ノ名爵ヲ假リテ、ソノ土地人民ヲ私スルノ跡ヲ蔽フ。是固ヨリ君臣ノ大義上下ノ名分、万古不抜ノモノ有ニ由ナリ。方今大政新ニ復し、万機之ヲ親ラス、実ニ千歳ノ一機、其名アツテ其実ナカル可ラス。其実ヲ挙ルハ大義ヲ明ニシ名分ヲ正スヨリ先ナルハナシ。嚮ニ徳川氏ニ起コル、古家旧族天下ニ半ス、依テ家ヲ興スモノ亦多シ、而シテ其土地人民、之ヲ朝廷ニ受ルト否トヲ問ハス、因襲ノ久シキ以テ今日ニ至ル。世或ハ謂ラク、是祖先鋒鏑ノ経始スル所ト、吁何ソ兵を擁シテ官庫ニ入リ、其貨ヲ奪ヒ、是死ヲ犯シテ獲所ノモノ云ニ異ナランヤ、庫ニ入ルモノハ人其賊タルヲ知ル、土地人民ヲ攘医奪スルニ至ツテハ、天下コレヲ怪シマス甚哉名義ノ紊攘スル事。今也丕新ノ治ヲ求ム、宜シク大体ノ在ル所、大権ノ繋ル所、毫モ仮スヘカラス。抑臣等居ル所ハ、即チ天子ノ土、臣等牧スル所ハ、即チ天子ノ民ナリ。安ンソ私有スヘケンヤ。今謹ミテ其版籍ヲ収メテ之ヲ上ル。願クハ朝廷其宜ニ処シ、其与フ可キハ之ヲ与ヘ、其奪フ可キハ之ヲ奪ヒ、凡列藩ノ封土更ニ宜シク詔命ヲ下シ、コレヲ改メ定ムヘシ。而シテ制度、典型、軍旅ノ政ヨリ戎腹、器機ノ制ニ至ルマテ、悉ク朝廷ヨリ出テ、天下ノ事大小トナク皆一ニ帰セシムヘシ。然后ニ名実相得、始テ海外各国ト並立へし。故ニ臣某等不肖謭劣ヲ顧ミス、敢テ鄙衷ヲ献ス。天日ノ明、幸ニ照臨ヲ賜へ。臣某等誠恐誠惶、頓首再拝、以表。

毛利宰相中将
島津少将  
鍋島少将  
山内少将  

        「公文録・明治二年・第五十六巻・己巳・版籍奉還(一)」より

<訳文>
臣某等、頓首再拝
 かしこんで心配するのは、朝廷が一日も失ってはならないもの、天皇国家としての体制である。一日も仮借することができないのは、天皇の統治権である。天がはじめて国を開き、基礎を築かれてから、皇室の系統はいつまでも永遠に続き、天が覆い、地の続く限り、その所有でないものはなく、その臣下でないものはいない、これが天皇国家としての体制である。一方では与え、一方では奪い、爵位と俸禄によって臣下を維持し、わずかの土地も私有することはできないし、一人の民も私有することはできない、これが天皇の統治権である。
 昔は朝廷が天下を統一支配することにより、天子の御身によって親政を行ってきた。だから、名も実もならび立って、天下は何事もなかった。中葉以降、国家の法が一たびゆるみ、権力をもてあそび、柄を争ふ者が次々と続いて朝廷に起こる。その民を私し、その土地をぬすむもの、天下の半分くらいになり、ついにつかみ捕らえて食らい力づくで奪う勢力がまさり、朝廷は守る所の体制もなく、とる所の権力もなくして、これをおさえつけて自分に従わせることができなくなった。
 悪知恵にたけたものが互いに勢いに乗り、弱肉強食となり、その大きな者は十数州を併せ持ち、その小なる者でもなお士を養うこと数千にもなった。いわゆる幕府というような者は、土地人民をほしいままにその私する所に分ち、もってその勢力や権威を拡大した。これにおいて、朝廷はいたづらに名ばかりの地位を持たされ、幕府の顔色をうかがって、杞憂をなすに至ってしまった。誤まった流れは極まって、天をしのいではならないものが、ここに六百有余年も続いている。とはいうものの、その間たびたび天皇の権威を借りて、その土地人民を私するの跡を覆い隠していた。これはもとより君臣の大義上下の名分といった、変えることができない理由によるものである。
 今や政治は新しく天皇の元に戻って、すべての政治が天皇の親政となった。じつに千載一遇の好機なので、改革は名目のみではなく、実質のあるものでなければならない。その実をあげるには、大義名分をはっきりさせることが先決である。
 先に徳川氏が起り、古家や旧族は天下の半分くらいになった。それに依拠して家を興したものもまた多い。そのようにしてその土地人民これを朝廷に授与されたか否かを問はないで、古くからの風習が長く続いて今日に至っている。世間でまた考えるには、これ祖先の武力によるものだと。ああどうして兵を従えて官有の庫に入り、その財物を略奪し、これ人を殺して、奪った人のものと言うのと異なるだろうか、いや異ならない。倉庫に侵入するものは、人は盗賊であることを知っている。しかし、土地人民を略奪するに至っては、天下はこれを怪しいとは思わず、はなはだししいときは、名分も損壊することとなる。今や偉大で新しい政治が求められている。よろしく天皇国家としての体制の在る所、天皇の統治権の及ぶ所、少しでも仮にしてはいけない。
 そもそも私たちがいる所は、端的には天皇の土地、治めているのは天皇の臣民である。どうして私有することができようか。今つつしんで私たちの土地・人民を奉還する。どうか朝廷のよろしいように措置されて、与えるべきものには与え、奪うべきものは奪い、諸藩の領地については天皇の命令によって改めて決定すべきである。そして制度・法律・軍制から軍服・兵器の制度に至るまで、すべて朝廷で定めて天下の政治は大小となく朝廷に一元化すべきである。そうすれば、名実ともに備わり、海外の列強と並び立つことができよう。これこそ朝廷の急務であり、私たち臣下の責務である。だから臣下の者等、未熟で才能が浅くて劣っていることを顧みず、あえて真心を以て上表する。天日の明、幸にも君主の国土、人民の統治について下賜いただきたい。
 臣某等 誠恐誠惶 頓首再拝以表。

 毛利宰相中将
 島津少将  
 鍋島少将  
 山内少将 
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 今日は、俳人荻原井泉水が1884年(明治17)に生まれた日です。
 明治時代後期から昭和時代に活躍した俳人で、本名は藤吉といいます。1884年(明治17)6月16日に、東京市芝区神明町(現在の東京都港区浜松町)で雑貨商の次男として生まれ、麻布中学へ進みました。
 在学中より俳句を作るようになり、1901年(明治34)には、旧制第一高等学校に入学して、正岡子規の日本派に参加し、一高俳句会をおこすことになります。
 1905年(明治38)に東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)言語学科へ入学し、河東碧梧桐の新傾向俳句運動に加わって、井泉水の俳号を使うようになりました。
 大学卒業後、1911年(明治44)に新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰するようになり、谷桂子とも結婚します。その後、季題を廃し定型を捨てて自由律俳句を確立し、俳壇に大きな影響をあたえました。
 門下として、野村朱鱗洞、芹田鳳車、尾崎放哉、種田山頭火らがここから出ることになります。
 1955年(昭和30)に昭和女子大学教授、1965年(昭和40)に芸術院会員となりますが、1976年(昭和51)5月20日に、91歳で亡くなりました。
 句集に『原泉』(1960年)、『長流』(1964年)、『大江』(1971年)、主著に『俳句提唱』(1917年)、『新俳句研究』(1926年)、『旅人芭蕉』正続(1923~25年)、『奥の細道評論』(1928年)などがあります。

〇代表的な句
 「わらやふるゆきつもる」
 「棹さして月のただ中」
 「空をあゆむ朗朗と月ひとり」
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 今日は、明治時代後期の1896年(明治29)に、明治三陸地震による大津波の起きた日です。
 この地震は、岩手県の東方沖約200kmを震源に起きた巨大地震(マグニチュード8.2)ですが、陸上での震度は最大でも4程度でした。
 しかし、これによって大津波が発生して、約30分後に三陸地方沿岸を中心に北海道から牡鹿半島にいたる海岸に襲来し、最大波高は岩手県気仙郡綾里村(現在の岩手県大船渡市)では38.2mに達しました。
 その結果、死者・行方不明者は2万1,959人(青森343人、宮城3,452人、北海道6人、岩手1万8,158人)、負傷者4,398人、家屋流失9,878戸、家屋全壊1,844戸、船舶流失6,930隻、その他に農畜産物、道路・橋梁などの大きな被害が出たのです。
 これは、2011年(平成23)3月11日に東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)が起きるまでは、日本最大の津波被害とされていました。
 今までにも、三陸沖ではたびたび地震が起こり、津波によって大きな被害が出てきました。以下に、主な地震をあげておきます。

〇三陸沖で起きた主な地震

・貞観地震 869年7月9日(貞観11年5月26日)発生 M8.3 - 8.6 死者約1,000人
・慶長三陸地震 1611年12月2日(慶長16年10月28日)発生 M8.1 - Mw8.5 死者2,000 - 5,000人
・延宝八戸沖地震 1677年4月13日(延宝5年)発生 M7.4 - 7.9
・宝暦八戸沖地震 1763年1月29日(宝暦13年)発生 M7.4 - 7.9
・寛政地震 1793年2月17日(寛政5年1月7日)発生 死者約100人
・安政八戸沖地震 1856年8月23日(安政3年7月23日)発生 M7.5 - 7.7 死者38人
・明治三陸地震 1896年(明治29)6月15日発生 M 8.2 死者・行方不明者は2万1,959人
・昭和三陸地震 1933年(昭和8)3月3日発生 M 8.4 死者1,522人、行方不明者1,542人
・十勝沖地震 1968年(昭和43)5月16日発生 M 8.2 死者52人
・三陸はるか沖地震 1994年(平成6)12月28日発生 M 7.8 死者3人
・東北地方太平洋沖地震 2011年(平成23)3月11日発生 M 9.0 死者 15,893人、行方不明者 2,553人

〇明治時代以降に日本周辺で起きた被害の大きかった地震ワースト12

1. 関東地震[関東大震災](1923年9月1日)死者・行方不明者105,385人<マグニチュード7.9>
2. 東北地方太平洋沖地震[東日本大震災](2011年3月11日)死者・行方不明者22,010人<マグニチュード9.0>
3. 明治三陸地震(1896年6月15日)死者・行方不明者21,959人<マグニチュード8.2>
4. 濃尾地震(1891年10月28日)死者・行方不明者7,273人<マグニチュード8.0>
5. 兵庫県南部地震[阪神・淡路大震災](1995年1月17日)死者・行方不明者6,437人<マグニチュード7.3>
6. 福井地震(1948年6月28日)死者・行方不明者3,769人<マグニチュード7.1>
7. 昭和三陸地震(1933年3月3日)死者・行方不明者3,064人<マグニチュード8.1>
8. 北丹後地震(1927年3月7日)死者2,912人<マグニチュード7.3>
9. 三河地震(1945年1月13日)死者・行方不明者1,961人<マグニチュード6.8>
10,昭和南海地震(1946年12月21日)死者・行方不明者1,443人<マグニチュード8.0>
11.昭和東南海地震(1944年12月7日)死者・行方不明者1,223人<マグニチュード7.9>
12.鳥取地震(1943年9月10日)死者1,083人<マグニチュード7.2>
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 今日は、小説家川端康成が、1899年(明治32)に生まれた日です。
 川端康成は、大正時代から昭和時代に活躍した小説家で、大阪府大阪市に生まれ、茨木中学を終え、旧制第一高等学校から、東京帝国大学文学部に学びました。1921年(大正10)、在学中に石浜金作、鈴木彦次郎らと第六次『新思潮』を創刊し、それに掲載した『招魂祭一景』によって菊池寛らに認められます。
 1924年(大正13)、大学卒業後、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、今東光らと『文芸時代』を創刊し、新感覚派の代表作家として活躍しました。
 代表作は『伊豆の踊子』、『雪国』、『古都』、『山の音』、『抒情歌』、『禽獣』、『千羽鶴』、『眠れる美女』などがあります。
 太平洋戦争後の1948年(昭和23)に、日本ペンクラブ第4代会長に就任し、1957年(昭和32)に国際ペンクラブ東京大会を主催するなど尽力したのです。それらの功績により、1961年(昭和36)に文化勲章を受章し、1968年(昭和43)には日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しました。
 また、批評家としても優れていて、新人作家を発掘し、堀辰雄、北条民雄、岡本かの子、三島由紀夫などを育てたのです。
 しかし、1972年(昭和47)4月16日に72歳で、神奈川県逗子市のマンションの自室において、ガス自殺しました。  
 尚、川端康成と伊豆とのかかわりは深く、旧制高校生の青春時代から何度も伊豆半島に足を運び、各地の温泉旅館に逗留しています。自身とても気に入っていたようで、伊豆を題材に『伊豆の踊子』をはじめ、『春景色』『温泉宿』など30篇ほどの小説を書いています。
 その中でも、最も有名な『伊豆の踊子』の冒頭部分を引用しておきます。

〇『伊豆の踊子』川端康成著より
「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
 私は、二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊り、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲った急な坂道を駈け登った。ようやく峠の北口の茶屋に辿りついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。余りに期待がみごとに的中したからである。そこで旅芸人の一行が休んでいたのだ。
 突っ立っている私を見た踊子が直ぐに自分の座蒲団を外して、裏返しに傍へ置いた。
 ・・・・・・・」
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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に築地小劇場が開設された日です。、
 この劇場は、土方与志と小山内薫を主宰として、東京築地(現在の東京都中央区築地)に開設した日本最初の新劇専門劇団およびその劇場のことです。
 創立時のメンバーは他に、俳優として友田恭助、汐見洋、効果・照明担当の和田精、経営の浅利鶴雄の6人で、演技部に東屋三郎、青山杉作、研究生として千田是也、丸山定夫、田村秋子、山本安英らがいました。
 関東大震災後ヨーロッパから帰国した土方与志が私財を投じて建設(定員 497名)、ゴシック・ロマネスク様式で、当時最新の機構であるクッペルホリゾントや照明設備、可動舞台などが取入れられたのです。
 その後、5年間に100余編の内外戯曲を連続上演、新劇史上画期的な成果を収め、千田是也、山本安英、滝沢修、杉村春子ら、戦後の演劇界を支えた人々が巣立ちましたが、劇団は1930年(昭和5)に解散し、劇場も1945年(昭和20)に戦災で焼失しました。
 この間、実に多彩なものが上演されていますが、その一部を紹介しておきます。

〇築地小劇場で上演されたもの(一部)
 『海戦』(ラインハルト・ゲーリング作)
 『白鳥の歌』(チェーホフ作)
 『休みの日』(マゾオ作)
 『解放されたドン・キホーテ』(アナトリー・ルナチャルスキー作、千田是也訳、佐野碩演出)
 『夜の宿』(『どん底』)(ゴーリキィ作)
 『令嬢ジュリー』(A.ストリンドベリ作)
 『三人姉妹』(チェーホフ作)
 『国姓爺合戦』(近松門左衛門作)
 『役の行者』(坪内逍遥作)
 『法成寺物語』(谷崎潤一郎作)
 『ピーターパン』(ジェームス・マシュー・バリー作)
 『ダントンの死』(ゲオルク・ビューヒナー作)
 『風の又三郎』(宮沢賢治作)
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