ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に、壺井栄が亡くなった日です。
 壺井栄は、昭和時代に活躍した小説家・童話作家で、1899年(明治32年)8月5日に、香川県小豆郡坂手村(現在の小豆島町)の醤油樽職人岩井藤吉の五女として生まれました。
 内海高等小学校卒業後,郵便局や村役場などで働きながら、同郷の黒島伝治,壺井繁治らの影響を受けます。
 1925年(大正14)に上京後、プロレタリア詩人だった壺井繁治と結婚し、プロレタリア文学運動を通じて宮本百合子、佐多稲子を知るようになりました。
 創作活動を始めて、38歳のとき処女作『大根の葉』を発表、以後小説と童話の多彩な作品を作ります。代表作として、小説に『暦』、『妻の座』、『柿の木のある家』、『母のない子と子のない母と』などがあり、『二十四の瞳』は、戦後反戦文学の名作として、後に映画化され大ヒットしました。
 童話集に『海のたましひ』、『十五夜の月』などがあり、童話風、民話風の作品で認められることになります。しかし、1967年(昭和42)6月23日に、67歳で亡くなっています。
 尚、現在は、小豆島に「二十四の瞳映画村」や「壺井栄文学館」も出来て、見学することができます。
 
〇小説『二十四の瞳』とは?
 壺井栄著の長編小説で、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、キリスト教系の青年雑誌『ニュー・エイジ』に連載され、同年光文社から刊行されました。
 瀬戸内海のある岬の分教場に勤める若い女性教師大石先生と12人の教え子とのふれあいを描きながら、戦争に突入してから敗戦に至る時代をみつめた作品です。
 1954年(昭和29)に、木下恵介監督で映画化され、大ヒットし、1987年(昭和62)に朝間義隆監督により、再映画化されました。小豆島には、再映画化時のオープンセットを活用した「二十四の瞳映画村」があります。
 以下に、小説『二十四の瞳』の冒頭部分を引用しておきます。

「十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普通選挙法というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日。農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。
 百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形にみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へゆくには小舟で渡ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてく歩いたりせねばならない。交通がすごくふべんなので、小学校の先徒は四年までが村の分教場にゆき、五年になってはじめて、片道五キロの木村の小学校へかようのである。手作りのわらぞうりは一日できれ た。それがみんなはじまんであった。毎朝、新らしいぞうりをおろすのは、うれしかったにちがいない。………」

☆壺井栄の主な作品
 『暦 他五篇』新潮社 1940年
 『祭着 他九篇』河出書房 1940年
 『たんぽぽ』高山書院 1941年
 『ともしび』博文館 1941年
 『船路』有光社 1941年
 『私の雑記帳』青磁社 1941年
 『石 短篇集』全国書房 1942年
 『子熊座』三杏書院 1943年
 『女傑の村』実業之日本社 1943年
 『海のたましひ』講談社 少国民の日本文庫 1944年
 『花のいのち』葛城書店 1944年
 『夕顔の言葉』紀元社 1944年年
 『松のたより』飛鳥書店 1945年
 『ふたたび』万里閣 1946年
 『赤いステッキ』櫻井書店 少年のための純文學選 1947年
 『霧の街』北桜社 1947年
 『三夜待ち』新紀元社 1947年
 『十五夜の月』愛育社 1947年
 『あんずの花の咲くころ』小峰書店 青空文庫 1948年
 『海べの村の子供たち』雁書房 1948年
 『おみやげ』好江書房 1948年
 『渋谷道玄坂』新日本文学会 1948年
 『小さな物語』桜井書店 こどもかい文庫 1948年
 『柳の糸』東西社 1948年
 『柿の木のある家』山の木書店 1949年 
 『たからの宿』弘文堂 アテネ文庫 1949年
 『妻の座』冬芽書房 1949年
 『母のない子と子のない母と』光文社 1951年 
 『右文覚え書』三十書房 1951年
 『港の少女』西荻書店 三色文庫 1951年
 『坂道』中央公論社 ともだちシリーズ 1952年 
 『二十四の瞳』光文社 1952年 
 『花はだれのために』東洋書館 1952年
 『妻の座・暦』角川文庫 1953年
 『私の花物語』筑摩書房 1953年
 『風 連作小説』光文社カッパ・ブックス 1954年 
 『紙一重』中央公論社 1954年
 『岸うつ波』光文社 1954年 
 『月夜の傘』筑摩書房 1954年
 『一本のマッチ 私の人生遍歴』朝日新聞社 1955年
 『美しい生き方を求めて』学風書院 1955年
 『まないたの歌』角川小説新書 1955年
 『続・私の花物語 第1』筑摩書房 1956年
 『裲襠』大日本雄弁会講談社 1956年 
 『雑居家族』筑摩書房 1956年 
 『裾野は暮れて』筑摩書房 1956年
 『寄るべなき人々』新潮文庫 1956年
 『海風』角川文庫 1957年
 『草の実』中央公論社 1957年 
 『極楽横丁』筑摩書房 1957年
 『小さな花の物語』平凡出版 1957年
 『忘れ霜』角川書店 1957年 
 『あたたかい右の手』麦書房 雨の日文庫 1958年
 『潮時計』実業之日本社 1958年
 『風と波と』文芸春秋新社 1958年
 『雨夜の星』講談社 1959年
 『おこまさん』中央公論社 1959年
 『随筆柚の大馬鹿』実業之日本社 1959年
 『いのちかなし』新潮社 1960年
 『大根の葉』角川文庫 1960年
 『どこかでなにかが』中央公論社 1960年 
 『ふたごのころちゃん』実業之日本社 1960年
 『あす咲く花』新潮社 1962年
 『あすの花嫁』東方社 家庭小説選書 1962年
 『若い樹々』講談社 1962年
 『若い娘たち』角川小説新書 1962年
 『まあちゃんと子ねこ』ポプラ社 1963年
 『小豆島 随筆・小説』光風社 1964年
 『母と子の暦』東方社 1964年
 『日めくり』講談社 1964年
 『柚原小はな』新潮社 1964年
 『嫁さん』集英社 1964年
 『袖ふりあう』三月書房 1965年
 『母と娘と』新潮社 1965年
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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が東京で調印された日です。
 この条約は、日本と大韓民国との国交正常化のための条約です。正式には「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」といい、同年の12月18日に、大韓民国のソウルで批准書が交換されて、発効しました。
 前文と本文7ヶ条から成り、その内容は、前文で両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であるとし、本文では、(1)国交正常化、(2)戦前の諸条約の無効の確認、(3)大韓民国を朝鮮における唯一の合法政府と認める、(4)両国は相互の関係で国連憲章の原則を指針とする、(5)貿易、海運、その他の通商関係に関する条約・協定締結のため、速やかに交渉を開始する、(6)民間航空運送に関する協定の締結のため、速やかに交渉を開始する、(7)批准書の速やかな交換を規定しています。また、この条約と共に、「日韓漁業協定」、「日韓請求権並びに経済協力協定」、「在日韓国人の法的地位協定」、「文化財及び文化協力に関する協定」、「紛争解決に関する交換公文」など多くの合意が両国間で署名されました。
 尚、賠償金については交渉の末、無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル以上の援助資金と引き換えに、韓国側は請求権を放棄することになったのです。
 しかし、この条約の不備が指摘され、南北分断の固定化、対韓経済侵略、軍事同盟志向の強化なども批判されて、日韓両国ともに国内での反対運動が巻き起こりました。
 以下に、「日韓基本条約」の全文を掲載しておきます。

〇「日韓基本条約」(全文)

日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)

 日本国及び大韓民国は、
 両国民間の関係の歴史的背景と、善隣関係及び主権の相互尊重の原則に基づく両国間の関係の正常化に対する相互の希望とを考慮し、
 両国の相互の福祉及び共通の利益の増進のため並びに国際の平和及び安全の維持のために、両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であることを認め、
 千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定及び千九百四十八年十二月十二日に国際連合総会で採択された決議第百九十五号(III)を想起し、
 この基本関係に関する条約を締結することに決定し、よつて、その全権委員として次のとおり任命した。  

 日本国
 日本国外務大臣 椎名悦三郎
         高杉晋一
 大韓民国
 大韓民国外務部長官  李東元
 大韓民国特命全権大使 金東祚

 これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の諸条を協定した。

第一条
 両締約国間に外交及び領事関係が開設される。両締約国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また、両締約国は、両国政府により合意される場所に領事館を設置する。

第二条
 千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。

第三条
 大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。

第四条
(a)両締約国は、相互の関係において、国際連合憲章の原則を指針とするものとする。
(b)両締約国は、その相互の福祉及び共通の利益を増進するに当たつて、国際連合憲章の原則に適合して協力するものとする。

第五条
 両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ、友好的な基礎の上に置くために、条約又は協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。

第六条
 両締約国は、民間航空運送に関する協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。

第七条
 この条約は、批准されなければならない。批准書は、できる限りすみやかにソウルで交換されるものとする。この条件は、批准書の交換の日に効力を生ずる。
 以上の証拠として、それぞれの全権委員は、この条約に署名調印した。
 千九百六十五年六月二十二日に東京で、ひとしく正文である日本語、韓国語及び英語により本書二通を作成した。解釈に相違がある場合には、英語の本文による。

 日本国のために
 椎名悦三郎
 高杉晋一
 大韓民国のために
 李東元
 金東祚


             日本外務省編「日本外交主要文書・年表(2)」より
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 今日は、二十四節季の10番目夏至の日で、太陽の黄経が90度に達する時のことで、北半球ではこの日が一年のうちで最も昼(日の出から日没まで)の時間が長いのです。東京などでは、昼間が14時間50分で、夜間は9時間25分くらいで、その時間差は、約5時間25分にもなりました。
 昼の12時のときの太陽の高さも、1年でもっとも高くなり、東京(北緯35度)の場合、太陽の南中高度は78度にもなります。
 歴史的には、夏至は収穫を迎える夏の始まりを告げる日とされ、植物や人間にとっても繁殖と関係するものと考えられてきたのです。
 全国的に知られた風習は有りませんが、地方には一部残っている所があるようです。
 関東地方などでは新小麦で焼き餅をつくって神に供える風習のあるところもありました。また、愛知県の一部では夏至の日にイチジクの田楽(イチジクを素揚げか煮て冷やし、田楽ミソを乗せる)を食べる風習があるそうです。さらに、大阪近郊では夏至から半夏までタコを食べる習慣がありますが、タコの足のように稲の根がよく地面に広がりつくようにと願うものでした。

〇二十四節季とは?
 1年を12の「中気」と12の「節気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられていて、日本では江戸時代頃の暦から採用され、農耕生活の節目を示すものとなっていたのです。
 以下に、季節ごとに二十四節季を列挙しておきます。

「二十四節季」
(春) 立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨
(夏) 立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑
(秋) 立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降
(冬) 立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒
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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、二葉亭四迷著の小説『浮雲』の第一篇が刊行された日です。
 これは、長編小説で、明治時代前期の1887年(明治20)に第1篇、翌年に第2篇が金港堂から刊行され、1889年(明治22)に、第3篇は『都の花』に連載されました。
 主人公の知識青年内海文三とその従姉妹のお勢、友人の本田の三人の姿を中心に、明治時代の文明や風潮を批判的にとらえ、言文一致体で描写したもので、近代写実小説の始まりとされています。

〇「言文一致体」とは?
 書きことば(文語)と話しことば(口語)とを一致させようとすることで、いわゆる文語は主に平安時代までに完成し、中世以降は、だんだんと口語との乖離が大きくなっていたのです。
 そこで、明治時代になると文学者の中から、文語と口語を一致させようという「言文一致運動」が起きました。
 その始まりは、坪内逍遥の影響を受けた二葉亭四迷著の長編小説『浮雲』からと言われているのです。
 以下に二葉亭四迷著小説『浮雲』第一篇の冒頭部分を載せておきます。

☆二葉亭四迷著小説『浮雲』第一篇の冒頭部分

「第一編
  第一回 アアラ怪しの人の挙動ふるまい

 千早振ちはやふる神無月かみなづきももはや跡二日ふつかの余波なごりとなッた二十八日の午後三時頃に、神田見附かんだみつけの内より、塗渡とわたる蟻あり、散る蜘蛛くもの子とうようよぞよぞよ沸出わきいでて来るのは、孰いずれも顋おとがいを気にし給たまう方々。しかし熟々つらつら見て篤とくと点※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)てんけんすると、これにも種々さまざま種類のあるもので、まず髭ひげから書立てれば、口髭、頬髯ほおひげ、顋あごの鬚ひげ、暴やけに興起おやした拿破崙髭ナポレオンひげに、狆チンの口めいた比斯馬克髭ビスマルクひげ、そのほか矮鶏髭ちゃぼひげ、貉髭むじなひげ、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡うすくもいろいろに生分はえわかる。髭に続いて差ちがいのあるのは服飾みなり。白木屋しろきや仕込みの黒物くろいものずくめには仏蘭西フランス皮の靴くつの配偶めおとはありうち、これを召す方様かたさまの鼻毛は延びて蜻蛉とんぼをも釣つるべしという。これより降くだっては、背皺せじわよると枕詞まくらことばの付く「スコッチ」の背広にゴリゴリするほどの牛の毛皮靴、そこで踵かかとにお飾を絶たやさぬところから泥どろに尾を曳ひく亀甲洋袴かめのこズボン、いずれも釣つるしんぼうの苦患くげんを今に脱せぬ貌付かおつき。デモ持主は得意なもので、髭あり服あり我また奚なにをかもとめんと済した顔色がんしょくで、火をくれた木頭もくずと反身そっくりかえッてお帰り遊ばす、イヤお羨うらやましいことだ。その後あとより続いて出てお出でなさるは孰いずれも胡麻塩ごましお頭、弓と曲げても張の弱い腰に無残や空から弁当を振垂ぶらさげてヨタヨタものでお帰りなさる。さては老朽してもさすがはまだ職に堪たえるものか、しかし日本服でも勤められるお手軽なお身の上、さりとはまたお気の毒な。
 途上人影ひとけの稀まれに成った頃、同じ見附の内より両人ふたりの少年わかものが話しながら出て参った。一人は年齢ねんぱい二十二三の男、顔色は蒼味あおみ七分に土気三分、どうも宜よろしくないが、秀ひいでた眉まゆに儼然きっとした眼付で、ズーと押徹おしとおった鼻筋、唯ただ惜おしいかな口元が些ちと尋常でないばかり。しかし締しまりはよさそうゆえ、絵草紙屋の前に立っても、パックリ開あくなどという気遣きづかいは有るまいが、とにかく顋が尖とがって頬骨が露あらわれ、非道ひどく※(「やまいだれ+瞿」、第3水準1-88-62)やつれている故せいか顔の造作がとげとげしていて、愛嬌気あいきょうげといったら微塵みじんもなし。醜くはないが何処どこともなくケンがある。背せいはスラリとしているばかりで左而已さのみ高いという程でもないが、痩肉やせじしゆえ、半鐘なんとやらという人聞の悪い渾名あだなに縁が有りそうで、年数物ながら摺畳皺たたみじわの存じた霜降しもふり「スコッチ」の服を身に纏まとッて、組紐くみひもを盤帯はちまきにした帽檐広つばびろな黒羅紗ラシャの帽子を戴いただいてい、今一人は、前の男より二ツ三ツ兄らしく、中肉中背で色白の丸顔、口元の尋常な所から眼付のパッチリとした所は仲々の好男子ながら、顔立がひねてこせこせしているので、何となく品格のない男。黒羅紗の半「フロックコート」に同じ色の「チョッキ」、洋袴は何か乙な縞しま羅紗で、リュウとした衣裳附いしょうづけ、縁ふちの巻上ッた釜底形かまぞこがたの黒の帽子を眉深まぶかに冠かぶり、左の手を隠袋かくしへ差入れ、右の手で細々とした杖つえを玩物おもちゃにしながら、高い男に向い、………」
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 今日は、小説家太宰治が1909年(明治42)に生まれた日であると共に、1948年(昭和23)に入水自殺した遺体が発見された日で、桜桃忌と呼ばれています。 
 太宰治は、昭和時代に活躍した小説家で、本名は津島修治といい、1909年(明治42)6月19日に青森県金木村(現在の五所川原市金木町)の県下有数の大地主対馬家の六男として生まれました。
 県立青森中学校(現在の県立青森高等学校)から、官立弘前高等学校に学びましたが、高校在学中から、プロレタリア文学に興味を持って、同人誌に作品を掲載することになります。
 卒業後は、東京帝国大学文学部仏文学科に入学しましたが、あまり授業にも出ず、井伏鱒二に弟子入りし、在学中に、人妻と入水自殺を図ったりして、大学は辞めることになりました。
 その後、同人誌『海豹』に参加し、1935年(昭和10)、「逆行」を『文藝』に発表して、第1回芥川賞候補となって注目されます。
 それからも、自殺未遂したりしますが、1939年(昭和14)石原美知子と結婚して安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編小説を発表しました。
 戦時下も『津軽』『お伽草紙』など創作活動を続け、戦後は、『ヴィヨンの妻』、『斜陽』、『人間失格』などを書いて無頼派などと呼ばれて脚光を浴びますが、1948年(昭和23)6月13日に40歳の若さで、玉川上水にて入水自殺しました。その遺体は、6月19日に発見され、その日が桜桃忌と呼ばれています。

〇代表的な作品と初出
 富嶽百景 『文体』1939年2月号、3月号
 黄金風景 『國民新聞』1939年3月2日、3月3日
 女生徒 『文學界』1939年4月号
 葉桜と魔笛 『新潮』1939年6月号
 八十八夜 『新潮』1939年8月号
 畜犬談 『文学者』1939年10月号
 皮膚と心 『文學界』1939年11月号
 俗天使 『新潮』1940年1月号
 鷗 『知性』1940年1月号
 女の決闘 『月刊文章』1940年1月号〜6月号
 駈込み訴へ 『中央公論』1940年2月号
 走れメロス 『新潮』1940年5月号
 古典風 『知性』1940年6月号
 乞食学生 『若草』1940年7月号〜12月号
 清貧譚 『新潮』1941年1月号
 みみずく通信 『知性』1941年1月号
 佐渡 『公論』1941年1月号
 千代女 『改造』1941年6月号
 新ハムレット 書き下ろし 『新ハムレット』(文藝春秋、1941年7月)
 誰 『知性』1941年12月号
 恥 『婦人画報』1942年1月号
 十二月八日 『婦人公論』1942年2月号
 律子と貞子 『若草』1942年2月号
 水仙 『改造』1942年5月号
 正義と微笑 書き下ろし 『正義と微笑』(錦城出版社、1942年6月)
 黄村先生言行録 『文學界』1943年1月号
 右大臣実朝 書き下ろし 『右大臣実朝』(錦城出版社、1943年9月)
 不審庵 『文藝世紀』1943年10月号
 花吹雪 書き下ろし 『佳日』(肇書房)
 佳日 『改造』1944年1月号
 散華 『新若人』1944年3月号
 津軽 書き下ろし 『津軽』(小山書店、1944年11月)
 ほかは書き下ろし 『新釈諸国噺』(生活社、1945年1月)
 竹青 『文藝』1945年4月号
 惜別 書き下ろし 『惜別』(朝日新聞社、1945年9月)
 お伽草紙 書き下ろし 『お伽草紙』(筑摩書房、1945年10月)
 冬の花火 『展望』1946年6月号
 春の枯葉 『人間』1946年9月号
 雀 『思潮』1946年9月号 『冬の花火』(中央公論社)
 親友交歓 『新潮』1946年12月号
 男女同権 『改造』1946年12月号
 トカトントン 『群像』1947年1月号
 メリイクリスマス 『中央公論』1947年1月号
 ヴィヨンの妻 『展望』1947年3月号
 女神 『日本小説』1947年5月号
 フォスフォレッスセンス 『日本小説』1947年7月号
 眉山 『小説新潮』1948年3月号
 斜陽 『新潮』1947年7月号〜10月号
 如是我聞 『新潮』1948年3月号、5月号〜7月号
 人間失格 『展望』1948年6月号〜8月号
 グッド・バイ 『朝日新聞』1948年6月21日

☆太宰治著小説「津軽」の冒頭部分
「 或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであつた。私は津軽に生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたのである。………」
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