ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、「埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘を解読した」と『毎日新聞』夕刊で報道され、埼玉県教育委員会から正式発表された日です。
 稲荷山古墳は、埼玉県行田市の埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳で、その時期は5世紀後半とされています。墳丘は、全長120m、高さ12mほどで、県内で3番目の規模を誇る前方後円墳です。
 1968年(昭和43)に、稲荷山古墳の後円部を発掘したところ、頂上から2基の埋葬施設が発見され、そこから鉄剣、神獣鏡、硬玉勾玉、金銅帯金具、工具類、武器類等の副葬品が出土しました。
 その鉄剣は、1978年(昭和53)に、腐食の保護処理のため奈良県にある元興寺文化財研究所に委託され、X線による検査が行われました。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明し、解読の結果が同年9月19日に、埼玉県教育委員会より正式発表されたのです。
 その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年(昭和56)に重要文化財に指定され、2年後の1983年(昭和58)には、国宝に指定されました。

〇埼玉古墳群とは?
 埼玉県行田市にあり、1938年(昭和13)に国指定史跡となりました。1967年(昭和42)から風土記の丘第2号として整備が進められ、その古墳群を中心として公園(面積37.4ha)となり、日本最大の円墳である丸墓山古墳、関東有数の前方後円墳である二子山古墳、稲荷山古墳などを含め9基の古墳が広い敷地の中に点在しています。
 しかし、なんといっても、メインは、園内の「県立さきたま史跡の博物館」に実物展示されている国宝の“金錯銘鉄剣”です。稲荷山古墳から出土した、5世紀のものといわれる鉄剣に、115文字の金像眼が発見され、当時関東まで大和朝廷の勢力が及んでいたと大きな話題となり、同時に出土した他の副葬品と共に1983年(平成5)には国宝に指定されました。
 その発見によって、日本の古代史が塗り替えられたとのことで、100年に一度の大発見と言われています。その他にも、石室内部が復元公開されている将軍山古墳へも行ってみたいものです。

☆稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣銘文

(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

<訳文>
(表)
辛亥の年七月中、記す。乎獲居臣。上祖、名は意富比垝。其の児、多加利足尼。其の児、名は弖已加利獲居。其の児、名は多加披次獲居。其の児、名は多沙鬼獲居。其の児、名は半弖比。
(裏)
其の児、名は加差披余。其の児、名は乎獲居臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺、斯鬼宮に在る時、吾、天下を左治し、この百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
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 今日は、1868年(明治元)に日本画家横山大観の生まれた日(8月19日との異説あり)ですが、新暦では11月2日となります。
 横山大観は、明治時代後期から昭和時代中期まで活躍した日本画家で、本名は秀麿といいます。1868年(明治元年9月18日)に、常陸国水戸(現在の茨城県水戸市)で、水戸藩士酒井捨彦の長男として生まれました。
 1878年(明治11)には、一家で上京し、東京府立中学校(現在の都立日比谷高校)を経て、私立東京英語学校(現在の日本学園高校)へ入学します。1888年(明治21)には、母方の横山家を継ぎ、横山姓となりました。
 1889年(明治22)に開校した東京美術学校(現在の東京芸術大学)に第一期生として入学し、橋本雅邦や岡倉天心に学びましたが、同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいたのです。
 1893年(明治26)に同校を卒業後、京都美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)で教鞭をとったのち、1896年(明治29)に母校の助教授になりました。1897年(明治30)に日本絵画協会第2回展に出品の『無我』 で銅牌を受賞しましたが、岡倉天心校長を排斥する騒動が起こると、翌年に岡倉天心、橋下雅邦らと共に辞職し、日本美術院創立に加わります。
 1904年(明治37)から翌年まで欧米を旅行し、帰国後は岡倉天心らと茨城県五浦海岸(現在の北茨城市)に転居して制作に励みました。
 1907年(明治40)の文部省美術展覧会 (文展) 開設後は審査員として活躍し、『流灯』 (1909年)、『瀟湘八景』 (1912年) なども発表します。 1914年(大正3)には日本美術院の再興に尽くし、その中心作家として活躍しました。
 1931年(昭和6)帝室技芸員、1934年(昭和9)朝日文化賞受賞、1935年(昭和10)帝国美術院会員、1937年(昭和12)には第1回の文化勲章を受章します。長期にわたり画壇の第一人者であり、社会的にも大きな影響力を持ちましたが、1958年(昭和33)2月26日に、89歳で亡くなりました。

〇横山大観の代表作

・『無我』1897年 東京国立博物館蔵
・『屈原』1898年 厳島神社蔵
・『流燈』1909年 茨城県近代美術館蔵
・『蕭湘八景』1912年 東京国立博物館蔵(国指定重要文化財)
・『游刃有余地』 1914年 東京国立博物館蔵
・『生々流転』1923年 東京国立近代美術館蔵(国指定重要文化財)
・『夜桜』1929年 大倉集古館蔵
・『山桜』1934年 山種美術館蔵
・『大楠公』1938年 湊川神社蔵
・『或る日の太平洋』1952年 東京国立近代美術館蔵
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 今日は、1867年(慶応3)に、俳人・歌人 正岡子規の生まれた日ですが、新暦では10月14日となります。
 正岡子規は、明治時代に活躍した俳人・歌人で、本名を常規といい、俳句の革新運動を展開しました。1867年(慶応3)に、伊予国温泉郡藤原新町(現在の愛媛県松山市)の松山藩下級武士の家の長男として生まれ、幼名は処之助と言いました。
 旧制松山中学(現在の松山東高)を中退後、1883年(明治16)に上京し、俳句を作るようになります。大学予備門を経て1890年(明治23)、帝国大学文科大学哲学科(現在の東京大学文学部)に入学し、後に、国文科に転科しました。
 しかし、1892年(明治25)に大学中退を決意し、家族を東京に呼び寄せ、日本新聞社に入社して、俳句の革新運動を展開することになります。
 1895年(明治28)に日清戦争に従軍記者として赴きましたが、喀血し、結核を悪化させて帰国しました。各地で療養後は、東京の子規庵て病床生活を送ることになりましたが、病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進したのです。
 その間、俳誌「ホトトギス」の刊行を支援し、「歌よみに与ふる書」で和歌改革を主張し、写生文も提唱しました。
 また、門下として高浜虚子、伊藤左千夫、長塚節、河東碧梧桐などを育てましたが、1902年(明治35)9月19日に36歳の若さで亡くなったのです。病床で書いた随筆『病牀六尺』や日記『仰臥漫録』が知られています。
 尚、1981年(昭和56)に故郷の愛媛県松山市に「松山市立子規記念博物館」が開館しました。

<代表的な句>
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」、「鶏頭の 十四五本も ありぬべし」、「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」
<代表的な歌>
「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる」
「瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たたみの上に とどかざりけり」

〇「歌よみに与ふる書」とは?

 正岡子規の歌論書で、明治時代後期の1898年(明治31)に、新聞『日本』に10回にわたって連載されました。この書では、「万葉集」、「金槐和歌集」に高い評価を与えて、万葉調への回帰と写生による短歌を提唱し、和歌革新運動の推進力となったのです。
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 今日は、江戸時代後期の1793年(寛政5)に、武士・画家 渡辺崋山の生まれた日ですが、新暦では10月20日となります。
 渡辺崋山は、江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれました。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となりしました。家老として藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められました。
 天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されています。
 しかし、「慎機論」を著して、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で捕らえられました。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しています。
 画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。

〇「蛮社の獄」とは?

 江戸時代後期の1839年(天保10)に、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。
 1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判したのです。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。
 そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) の判決が下されたのです。
 尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていました。
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 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、「日満議定書」の調印された日です。
 これは、新京(長春)で日本側全権は武藤信義陸軍大将(関東軍司令官)、満洲国側は鄭孝胥国務総理との間で調印された、日本と「満州国」の協定でした。
 この協定は、前文と2ケ条からなり、前文では、「満州国」が独立国であることを確認し、本文では、(1)「満州国」は日本が従来から有するいっさいの権利利益を確認尊重すること、(2)「満州国」における日本軍の駐屯が明記され、また、付属する秘密の往復文書(交換公文)において、「満州国」が、国防・治安維持や、鉄道・港湾・水路・航空路などの敷設・管理を日本に委託すること、満州国国防の関東軍・日本軍への委任が取り決められたのです。
 これらのことは、満州事変後、1932年(昭和7)3月に日本の傀儡政権である「満州国」を樹立したことについて、国際連盟のリットン報告書に先立って、満州の既成事実を確保するためのものとされました。

〇「日満議定書」(全文)

日満議定書

(九月十五日發表)

議定書

(日本文)

日本國ハ滿洲國カ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ獨立ノ一國家ヲ成スニ至リタル事實ヲ確認シタルニ因リ

滿洲國ハ中華民國ノ有スル國際約定ハ滿洲國ニ適用シ得へキ限リ之ヲ尊重スヘキコトヲ宣言セルニ因リ

日本國政府及滿洲國政府ハ日滿兩國間ノ善隣ノ關係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土權ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センカ爲左ノ如ク協定セリ

一、滿洲國ハ將來日滿兩國間ニ別段ノ約定ヲ締結セサル限リ滿洲國領域内ニ於テ日本國又ハ日本國臣民カ從來ノ日支間ノ條約、協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ權利利益ヲ確認尊重スヘシ

二、日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約國ノ他方ノ安寧及存立ニ對スル脅威タルノ事實ヲ確認シ兩國共同シテ國家ノ防衛ニ當ルヘキコトヲ約ス之カ爲所要ノ日本國軍ハ滿洲國内ニ駐屯スルモノトス

本議定書ハ署名ノ日ヨリ效力ヲ生スヘシ

本議定書ハ日本文及漢文ヲ以テ各二通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釋ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ據ルモノトス

右證據トシテ下名ハ各本國政府ヨリ正當ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ

昭和七年九月十五日即チ大同元年九月十五日新京ニ於テ之ヲ作成ス

日本帝國特命全權大使

武藤信義(印)

滿洲國國務總理

鄭孝胥(印)


往復文書(来翰略)

以書翰啓上致候陳者本日附貴翰ヲ以テ今般日本国政府ニ於テハ満洲国カ独立ノ一国家ヲ成スニ至リタル事実ヲ確認セラレ且両国間ノ善隣ノ関係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土権ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保スル為必要ナル協定ヲ締結スルコトニ御同意相成候処右以前ニ於テ既ニ日本国関東軍司令官ト満洲国執政又ハ国務総理トノ間ニ交換又ハ締結セラレタル左記文書及取極ハ何レモ前記ノ趣旨ニ合致スルモノナルニ付満洲国政府ハ此ノ際之ヲ確認シ引続キ効力ヲ有セシムルコトト致シタル旨御照会ノ趣了解致候
右回答得貴意候 敬具
  昭和七年九月十五日

日本帝国特命全権大使 武藤信義

満洲国国務総理 鄭孝胥殿



一 大同元年三月十日満洲国執政ヨリ本庄関東軍司令官宛書翰及昭和七年五月十二日同司令官ヨリ執政宛回答文
二 大同元年八月七日鄭国務総理ト本庄関東軍司令官トノ間ノ満洲国政府ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理並ニ線路ノ敷設管理ニ関スル協約及右協約ニ基ク附属協定
三 大同元年八月七日鄭国務総理ト本庄関東軍司令官トノ間ノ航空会社ノ設立ニ関スル協定
四 大同元年九月九日鄭国務総理ト武藤関東軍司令官トノ間ノ国防上必要ナル鉱業権ノ設定ニ関スル協定


大同元年三月十日満洲国執政ヨリ本庄関東軍司令官宛書翰及昭和七年五月十二日同司令官ヨリ執政宛回答文

書簡ヲ以テ啓上候此次満洲事変以来貴国ニ於カレテハ満蒙全境ノ治安ヲ維持スル為ニ力ヲ竭サレ為ニ貴国ノ軍隊及人民ニ均シク重大ナル損害ヲ来シタルコトニ対シ本執政ハ深ク感謝ノ意ヲ懐クト共ニ今後弊国ノ安全発展ハ必ス貴国ノ援助指導ニ頼ルヘキヲ確認シ茲ニ左ノ各項ヲ開陳シ貴国ノ允可ヲ求メ候

一、弊国ハ今後ノ国防及治安維持ヲ貴国ニ委託シ其ノ所要経費ハ総テ満洲国ニ於テ之ヲ負担ス

二、弊国ハ貴国軍隊カ国防上必要トスル限リ既設ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理並新路ノ敷設ハ総テ之ヲ貴国又ハ貴国指定ノ機関ニ委託スヘキコトヲ承認ス

三、弊国ハ貴国軍隊カ必要ト認ムル各種ノ施設ニ関シ極力之ヲ援助ス

四、貴国人ニシテ達識名望アル者ヲ弊国参議ニ任シ其ノ他中央及地方各官署ニ貴国人ヲ任用スヘク其ノ選任ハ貴軍司令官ノ推薦ニ依リ其ノ解職ハ同司令官ノ同意ヲ要件トス
 前項ノ規定ニ依リ任命セラルル日本人参議ノ員数及ヒ参議ノ総員数ヲ変更スルニ当リ貴国ノ建議アルニ於テハ両国協議ノ上之レヲ増減スヘキモノトス

五、右各項ノ趣旨及規定ハ将来両国間ニ正式ニ締結スヘキ条約ノ基礎タルヘキモノトス

以上

大日本帝国関東軍司令官 本庄繁殿
  大同元年三月十日

溥 儀

三月十日附貴翰正ニ受理ス
当方ニ於テ異存無之ニ付右回答ス
  昭和七年五月十二日

関東軍司令官 本庄繁

執政 溥儀殿

                  外務省編「日本外交年表竝主要文書」下巻より
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