ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、幕末の1866年(慶応2)に、英・米・仏・蘭の4ヶ国と「改税約書」(別名:江戸条約)が結ばれた日ですが、新暦では6月25日となります。
 この条約は、「安政五か国条約付属貿易章程」の改訂協約で、江戸において締結されたので、別名「江戸条約」とも呼ばれていました。
 1863年(文久3)に長州藩がアメリカ、フランス、オランダの船を砲撃した下関事件に関連して、1865年(慶応元年9月)に、兵庫沖に集結した四国連合艦隊 (英・仏・米・蘭) の威嚇により、1866年(慶応2年5月13日)に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国との間に結ばれたものです。
 4ヶ国は、上京していた第14代将軍徳川家茂に対し、長州藩の下関での外国船砲撃事件の償金の3分の2を放棄する代りに、1858年(安政5)に結んだ「修好通商条約」の勅許、兵庫開港、関税率低減を要求しました。
 これに対し、幕府は兵庫開港延期の代償として、関税率の引下げ要求に応じるほかなくなります。そして、輸入税に関して、「修好通商条約」の5~35%の従価税を廃止し、4ヵ年平均価格を原価とする一律5%を基準とする従量税とされ、きわめて不利な関税率となります。
 これによって、安価な外国商品が日本市場に流入し、産業資本の発達が厳しく阻害されることとなりました。
 その他、無税倉庫の設置や外国向け輸出品の国内運送非課税、貿易制限の撤去などがあわせて規定されます。
 この後、明治時代における条約改正の主目標となり、ようやく1894年(明治27)に廃棄されました。
 尚、この条約第11条「日本政府は外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため灯明台浮木瀬印木等を備ふへし」(灯明台規定)により、灯台を建設することを約束させられ、日本で初となる洋式灯台が8ヶ所(観音埼灯台、野島埼灯台、樫野埼灯台、神子元島灯台、剱埼灯台、伊王島灯台、佐多岬灯台、潮岬灯台)建設されることとなります。

〇「改税約書」(全文) 1866年(慶應2年5月13日)調印

慶應二年五月十三日(西曆千八百六十六年六月廿五日)英佛米蘭四公使ト於江戶各國文ヲ以テ五通ニ認メ各通ニ連名調印(日、佛、英、蘭文)

日本安政五戊午(西洋千八百五十八年)日本政府と大貌利太泥亞、佛蘭西、亞米利加合衆國、荷蘭、四箇國と取結ひ條約に添たる交易規則第七則に定め置し通り其輸入輸出の運上目錄を改むへき旨右四箇國の名代人夫々の政府より一樣の命令を受け且又日本慶應元年乙丑十月(西洋千八百六十五年第十一月)四箇國の名代人大坂に赴きし折日本政府より輸入輸出の諸品都て價五分の運上を基本とし右運上目錄を猶豫なく改むへき趣を約束し將日本政府は外國との交易を盛んにし和親の交際益篤からん事を欲するの證を更に顯はさんか爲め日本外國事務老中水野和泉守殿大貌利太泥亞の名代人シル、ハルリー、エス、パークス佛蘭西の名代人モツシュル、レオンロセス亞米利加合衆國の名代人エ、ル、シ、ポルトメン、エスクワイル荷蘭の名代人モツシュユル、ド、デ、ガラーフ、ファン、ポルスブルツク合議の上左の十二條を決定せり

 第一條

各政府の名代として此度約書を議定せし全權は此約書に添たる運上目錄を採用し各政府の臣民皆堅く之を遵奉すへき事とせり

其運上目錄は日本と右四箇國と取結たる條約に添たる元の運上目錄に代るのみならす又日本政府と大貌利太泥亞、佛蘭西、亞米利加合衆國政府、と是迄度々取結たる右運上目錄に關係せる別約にも代れるものとす右新運上目錄取行ふ事神奈川に於ては日本慶應二年丙寅五月十九日(西洋千八百六十六年第七月一日)より長崎箱館に於ては同六月廿一日(第八月一日)よりとす

 第二條

此度の約書に添たる運上目錄は調印の日より日本と右四箇國と取結たる條約の內に倂せたれは日本來壬申年中(西洋千八百七十二年第七月一日)に至り改むへしと雖も茶生絲運上の分は此度の約書調印より二箇年の後雙方の內何れの方よりなりとも六箇月前に告知し前三箇年中平均相場の五分に基き之を改る事を求むへし又材木の運上は此度の約書調印より六箇月後に告知して時相場に從ひ運上を納る事を改めて品物に從ひ運上高を定むる事を得へし

 第三條

元條約に添たる交易規則の第六則に從ひ是迄取立來れる免狀料は此度より相廢せり尤荷物陸揚船積に付ての免狀は是迄通りたるへしと雖も以後は其謝銀を出す事なかるへし

 第四條

神奈川於て日本慶應二年丙寅五月十九日(西洋千八百六十六年第七月一日)長崎箱館於て日本慶應二年丙寅八月二十三日(西洋千八百六十六年第十月一日)より日本政府輸入する者の求に應し運上を納る事なく其輸入品を藏に入置用意を爲すへし日本政府にて其品を預り置間は盗難並風雨の損害なき樣引受へし尤火難は政府にては引受すと雖も外國商人共右荷物火難の受合十分出來すへき樣堅固の土藏を取建へし就ては荷物を輸入する人又は荷主之を藏より引取んとする時は運上目錄通りの運上を拂ふへし其品物を再ひ輸出せんと欲する時は輸入運上を納むるに及はす荷物を引取る節は何れにも藏敷を拂ふへし右藏敷高並貸藏取扱向規則は雙方相談の上議定すへし

 第五條

日本の產物は運送の陸路水路修復の爲諸商賣に付て取立る通例の運上の外は別に運送運上を納むる事なく日本の內何れの地よりも外國交易の爲開きたる各港へ運送する事勝手たるへし

 第六條

日本と外國との條約中に外國貨幣は日本貨幣と同種同量の割合を以て通用すへしと取極たる箇條に從ひ是迄日本運上所にて墨是哥ドルラルを以て運上を納むる時は壹分銀の量目に比較しドルラル百枚を一分銀三百十一个の割合を以て請取來れり然る處日本政府に於て右仕來を改め總て外國の貨幣日本の貨幣と引替る事に障りなき樣にし又日本通用の貨幣を不足なき樣にし交易を便利にせん事を欲するにより日本金銀吹立所を盛大にせん事を旣に決せり然る上は日本人又は外國人より差出すへき總て外國金銀貨幣並地金は日本貨幣に吹替へ其諸雜費を差引其質の眞位を以て其爲め定めたる場所に於て引替んとす此處置を行ふ爲め日本と條約を取締ひし各國は其條約に書載たる貨幣通用に關係せる箇條を改むる事緊要なれは右箇條を改むる樣日本政府より申談し承諾の上日本來丁卯年十一月中(西洋千八百六十八年第一月一日)より其處置を取行へし

吹替の雜費として取立へき高の割合は向後雙方の全權協議の上定むへし

 第七條

運上所諸取扱向荷物の陸揚船積及ひ船人足小遣等雇方に付開港場に於て是迄訴出たる不都合を除かんか爲に各開港場の奉行速に外國のコンシュルと談判に及ひ雙方協議の上右の不都合決して無之樣規則を立て交易の道並各人の所務を可成丈容易くし且安全ならしむる樣雙方爰に議定せり

右規則の內には各港に於て外國人荷物陸揚船積の爲に用ふる波戶場の內にて荷物雨露に損せさる樣小屋掛を作ることを書入へし

 第八條

日本人身分に抅はらす日本開港場又は海外に於て旅客又は荷物を送るへき各種の帆前船蒸氣船共買入る〃事勝手たるへし尤軍艦は日本政府の免許なけれは買入るる事を得す

日本人買入たる諸外國船は蒸氣船は一噸に付一分銀三箇帆前船は一噸に付一分銀一箇の運上を定通り相納る時は日本の船として船藉に書載すへし尤其船の噸數を定むる爲め日本長官の需に應し其筯のコンシュルより本國の船目錄の寫を相示し其眞を證すへし

 第九條

日本と右四箇國と取結ひたる條約且日本政府の使節日本文久二年壬戍五月九日(西洋千八百六十二年第六月六日)大貌利太泥亞政府へ送れる覺書及ひ同𨳝八月十三日(第十月六日)佛蘭西政府へ送れる覺書に載せたる別約に從ひ日本人と外國人と交易又は交通する事の妨を全く除くへき趣を以て日本政府より旣に觸書を逹したり就ては日本の諸商人政府役人の立合なく相對に日本の開港場及ひ此約書中第十條に載せたる仕方にて海外へ出る許しを得れは各外國に於ても外國商人と交易する事勝手たるへく尤日本商人通例商賣に付て取立る運上より餘分は日本政府へ收むる事なし且諸大名並に其使用する人々現在取締の規則を守り定通の運上を納る時は日本役人の立合なく諸外國又は日本の諸開港場に赴き其場所にて交易する事右同樣勝手次第たるへし

 第十條

日本人身分に抅はらす日本の開港場又は各外國の港々より日本の開港場又は各外國の港々に赴くへき日本人所持の船又は條約濟外國船にて荷物を積入るゝ事勝手たるへし且旣に日本慶應二年丙寅四月九日(西洋千八百六十六年第五月廿三日)日本政府より觸書を以て布告せし如く其筋より政府の印章を得れは修行又は商賣する爲め各外國に赴く事並に日本と親睦なる各外國の船中に於て諸般の職事を勤むること故障なし外國人雇置く日本人海外へ出る時は開港場の奉行へ願出政府の印章を得る事妨けなし

 第十一條

日本政府は外國交易の爲め開きたる各港最寄船々の出入安全のため燈明臺浮木瀨印木等を備ふへし

 第十二條

此約書取行ふ以前雙方政府許允の沙汰を待に及はさる故日本慶應二年丙寅五月十九日(西洋千八百六十六年第七月一日)より取行ふへし

右約書を政府許允の上は雙方全權其段互に通逹すべし右通逹の書面は雙方

君主保證の代りとす

此證據として前文全權此約書に名を記し調印せり

日本慶應二年丙寅五月十三日(西洋千八百六十六年第六月廿五日)江戶に於て雙方全權各其國語を以てこれを記せり

  水野和泉守 花押

 佛國全權公使

  レオン、ロセス 印

 英國特派全權公使

  ハリー、エス、パークス 印

 合衆國代理公使

  ヱ、エル、シ、ポルトマン 印

 蘭國目代兼

  コンシュルゼネラール

   ドデグラーフ、ファン、ポルスブルック 印


         『舊條約彙纂、第一卷第一部』外務省條約局編より
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 今日は、戦国時代の1534年(天文3)に、武将・戦国大名織田信長の生まれた日ですが、新暦では6月23日となります。
 織田信長は、1534年(天文3年5月12日)に、尾張守護代織田大和守家の奉行の一人であった父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれましたが、幼名は、吉法師と言いました。
 1546年(天文15)元服して三郎信長と名乗り、翌年三河へ初陣、1551年(天文 20)に父信秀が没して、家督を継ぎますが、一族内部の抗争が続きます。ようやく、1559年(永禄2)に織田信賢を破って織田家をまとめ、翌年の桶狭間の戦で今川義元を敗死させて尾張一国を統一しました。
 1562年(永禄5)に、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃への進出を図り、1567年(永禄10)に、斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とします。翌年、足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につけ、その将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令しました。
 その後、1570年(元亀元)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、翌年に延暦寺の焼き打ちを行います。続いて、1573年(天正元)には朝倉氏、さらに浅井氏を滅ぼし、足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させました。さらに、1575年(天正3)に長篠の戦いで、武田勝頼を破り、翌年には近江に安土城を築き、天下統一への拠点とします。
 その中で、関所の撤廃、楽市楽座、検地等の革新政策を実施、キリシタン文化をも摂取して、華やかな安土桃山文化を興しました。
 その後、中国経略を志して毛利氏と対立しますが、1580年(天正8)に本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配、1582年(天正10)には甲斐武田氏を滅ぼすなど着々と統一事業を進めました。
 しかし、同年6月2日に、京都における本能寺の変で、明智光秀のために自刃させられ、48歳で生涯を閉じます。

〇織田信長関係略年表(日付は旧暦です)

・1534年(天文3)5月12日 織田大和守家の奉行の父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれる
・1546年(天文15) 古渡城にて元服し、三郎信長と名乗る
・1547年(天文16) 三河へ初陣する
・1548年(天文17) 美濃の斎藤道三の娘と結婚する
・1551年(天文20) 父・織田信秀が没して、家督を継ぐ
・1555年(弘治元) 清洲城の織田信友を討って、居城とする
・1557年(弘治3) 弟織田信行らの反乱を抑える
・1559年(永禄2) 岩倉城の織田信賢を破って織田家をまとめる
・1560年(永禄3)5月19日 桶狭間の戦で今川義元を敗死させて尾張一国を統一する
・1562年(永禄5) 三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結ぶ
・1563年(永禄6) 美濃攻略のために本拠を小牧山城に移す
・1567年(永禄10) 斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とする
・1568年(永禄11) 足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につける
・1569年(永禄12) 北伊勢の北畠氏を屈伏させる
・1570年(元亀元)6月28日 姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破る
・1570年(元亀元)9月12日 本願寺との間で石山合戦が始まる
・1571年(元亀2)9月12日 比叡山延暦寺を焼討ちする
・1572年(元亀3)12月22日 三方ヶ原の戦いで、織田・徳川連合軍が武田軍に敗れる
・1573年(天正元) 朝倉氏・浅井氏を滅亡させる
・1573年(天正元) 室町幕府15代将軍足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させる
・1574年(天正2)9月29日 長島の一向一揆を壊滅させる
・1575年(天正3)5月21日 長篠の戦いで、武田勝頼を破る
・1576年(天正4) 近江に安土城を築き、天下統一への拠点とする
・1580年(天正8)4月 本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配する
・1581年(天正9)2月28日 京都御馬揃えを行う 
・1582年(天正10)3月11日 甲斐武田氏を滅ぼす
・1582年(天正10)6月2日 京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する
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 今日は、昭和時代前期の1942年(昭和17)に、詩人萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)の亡くなった日で、朔太郎忌とも呼ばれています。
 萩原朔太郎は、明治時代前期の1886年(明治19)11月1日に、群馬県東群馬郡北曲輪町(現在の前橋市)に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長男として生まれました。
 師範学校附属小学校高等科を卒業後、1900年(明治33)に県立前橋中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)へ入学します。在学中から、 短歌を作るようになり、校友会誌、文芸雑誌などに投稿、1903年(明治36年)には、与謝野鉄幹主宰の「新詩社」の社友となりました。
 中学校卒業後、1907年(明治40)に第五高等学校英文科に入学しましたが、1年で退学し、岡山の第六高等学校独法科に入り直します。しかし、1910年(明治43)に退学し、音楽家を志して郷里でマンドリンオーケストラを編成・指揮し、作曲を試みたりしました。
 1913年(大正2)北原白秋主宰の『朱欒』に、「みちゆき」ほか5編の詩が掲載されて詩壇にデビューします。そこで、室生犀星を知り、山村暮鳥を加えた3人で、翌年人魚詩社を結成し、1915年(大正4)に『卓上噴水』を創刊しました。
 翌年には、『感情』を創刊、1917年(大正6)に処女詩集『月に吠える』が刊行され、口語自由詩の新風として、一躍詩壇の注目を集めます。
 1923年(大正12)には第2詩集『青猫』を刊行、1925年(大正14)『純情小曲集』を経て、1934年(昭和9)の文語定型詩『氷島』に至る詩壇での活躍は特筆されました。
 翌年『四季』の指導的存在に迎えられますが、それ以後は、詩作はあまりなくなり、伝統的な文化に回帰していき、アフォリズムや文化評論を主に書いています。
 1936年(昭和11)に、「詩壇時評」により、第八回文学界賞を受け、1940年(昭和15)に『帰郷者』で、第四回透谷文学賞を受賞するなど栄誉にも輝きましたが、1942年(昭和17)5月11日に、東京において、55歳で亡くなりました。

〇萩原朔太郎の主要な著作

<詩集>
・『月に吠える』(1917年)
・『青猫』(1923年)
・『純情小曲集』(1925年)
・『氷島』(1934年)
・選詩集『宿命』(1939年)

<小説>
・『猫町』(1934年)

<アフォリズム集>
・『新しき欲情』(1922年)
・『虚妄の正義』(1929年)

<随筆>
・『日本への回帰』(1938年)
・『帰郷者』(1940年)

<評論>
・『詩の原理』(1928年)
・『恋愛名歌集』(1931年)
・『郷愁の詩人与謝蕪村』(1936年)
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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、『鉄道唱歌』第一集東海道篇が発行された日です。
 『鉄道唱歌』は、明治時代に発行された唱歌集で、全5集・334番ありました。鉄道沿線の駅名と風物とを歌い込んだもので、地理教育や交通知識の普及に役だつところからとても重宝され、大流行します。
 第1集東海道編[66番]は、大和田建樹作詞、多梅稚・上真行の作曲で、角書に“地理教育”と銘打ってありました。同年中に、第2集 山陽・九州篇[68番]、第3集 奥州・磐城篇[64番]、第4集 北陸篇[72番]、第5集 関西・参宮・南海篇[64番]の各編も出版されましたが、作曲者は変化しました。
 その後、同類の唱歌は各地に誕生し、1911年(明治44)の『山陰線鉄道唱歌』に至るまで、全国の鉄道が歌い込まれます。
 また、1937~38年には、日本放送協会が『新鉄道唱歌』を制作し、国民歌謡として放送しました。
 尚、1962年(昭和37)に大和田建樹作詞「北海道唱歌」が発見され、これをを含めて『鉄道唱歌』は全6集・374番とも言われています。

〇鉄道唱歌(大和田建樹作詞)の各編

・第1集 東海道篇[66番](1900年5月10日発行) 多梅稚・上真行作曲
 東海道線(新橋駅→神戸駅(御殿場線のルート)
 横須賀線(大船駅→横須賀駅)

・第2集 山陽・九州篇[68番](1900年9月3日発行)多梅稚・上真行作曲
 山陽線(神戸駅→三田尻駅)
 鹿児島線(門司駅(現在の門司港駅)→八代駅)
 日豊線(小倉駅→宇佐駅(現現在の柳ヶ浦駅))
 長崎線(鳥栖駅→長崎駅)

・第3集 奥州・磐城篇[64番](1900年10月13日発行)多梅稚・田村虎蔵作曲
 東北線(上野駅→青森駅)
 常磐線(仙台駅→岩沼駅→田端駅→上野駅)

・第4集 北陸篇[72番](1900年10月15日発行)納所辨次郎・吉田信太作曲
 高崎線・信越線(上野駅→高崎駅→直江津駅→沼垂駅)
 両毛線(高崎駅→前橋駅→足利駅)
 北陸線(富山駅→米原駅)
 七尾線(津幡駅→和倉温泉駅)

・第5集 関西・参宮・南海篇[64番](1900年11月3日発行)多梅稚作曲
 片町線・関西線(網島駅→新木津駅→亀山駅→長島駅)
 奈良線(新木津駅→木幡駅)
 紀勢線・参宮線(亀山駅→津駅→山田駅(現在の伊勢市駅))
 関西線・桜井線・和歌山線(加茂駅→奈良駅→高田駅→柏原駅、高田駅→橋本駅、粉河駅→和歌山駅)
 南海線(和歌山北口駅(現在の紀ノ川駅)→難波駅)

・第6集 北海道篇(南の巻・北の巻)[40番](1906年8月〜1907年6月発行)田村虎蔵作曲
 【南の巻】函館線(函館駅→南小樽駅)【北の巻】函館線(南小樽駅→札幌駅→旭川駅)
 手宮線(南小樽駅→手宮駅(現在は廃線))
 幌内線(岩見沢駅→幾春別駅、幌内太駅→幌内駅)
 室蘭線(岩見沢駅→室蘭駅)
 夕張線(追分駅→夕張駅)

☆鉄道唱歌(第1集東海道編)歌詞 1900年(明治33)5月10日発行

1.汽笛一聲新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として
2.右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも
3.窓より近く品川の 臺場も見えて波白く 海のあなたにうすがすむ 山は上總か房州か
4.梅に名をえし大森を すぐれば早も川崎の 大師河原は程ちかし 急げや電氣の道すぐに
5.鶴見神奈川あとにして ゆけば横濱ステーシヨン 湊を見れば百舟の 煙は空をこがすまで
6.横須賀ゆきは乘替と 呼ばれておるゝ大船の つぎは鎌倉鶴が岡 源氏の古跡や尋ね見ん
7.八幡宮の石段に 立てる一木の大鴨脚樹 別當公曉のかくれしと 歴史にあるは此蔭よ
8.こゝに開きし頼朝が 幕府のあとは何かたぞ 松風さむく日は暮れて こたへぬ石碑は苔あをし
9.北は圓覺建長寺 南は大佛星月夜 片瀬腰越江の島も たゞ半日の道ぞかし
10.汽車より逗子をながめつゝ はや横須賀に着きにけり 見よやドツクに集まりし わが軍艦の壯大を
11.支線をあとに立ちかへり わたる相模の馬入川 海水浴に名を得たる 大磯みえて波すゞし
12.國府津おるれば電車あり 酒匂小田原とほからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より
13.いでゝはくゞるトン子ルの 前後は山北小山驛 今もわすれぬ鐵橋の 下ゆく水のおもしろさ
14.はるかにみえし富士の嶺は はや我そばに來りたり 雪の冠雲の帶 いつもけだかき姿にて
15.こゝぞ御殿場夏ならば われも登山をこゝろみん 高さは一萬數千尺 十三州もたゞ一目
16.三島は近年ひらけたる 豆相線路のわかれみち 驛には此地の名をえたる 官幣大社の宮居あり
17.沼津の海に聞えたる 里は牛伏我入道 春は花さく桃のころ 夏はすゞしき海のそば
18.鳥の羽音におどろきし 平家の話は昔にて 今は汽車ゆく富士川を 下るは身延の歸り舟
19.世に名も高き興津鯛 鐘の音ひゞく清見寺 清水につゞく江尻より ゆけば程なき久能山
20.三保の松原田子の浦 さかさにうつる富士の嶺を 波にながむる舟人は 夏も冬とや思ふらん
21.駿州一の大都會 靜岡いでゝ阿部川を わたればこゝぞ宇津の谷の 山きりぬきし洞の道
22.鞘より拔けておのづから 草なぎはらひし御劍の 御威は千代に燃ゆる火の 燒津の原はこゝなれや
23.春さく花の藤枝も すぎて島田の大井川 むかしは人を肩にのせ わたりし話も夢のあと
24.いつしか又も暗となる 世界は夜かトン子ルか 小夜の中山夜泣石 問へども知らぬよその空
25.掛川袋井中泉 いつしかあとに早なりて さかまき來る天龍の 川瀬の波に雪ぞちる
26.この水上にありと聞く 諏訪の湖水の冬げしき 雪と氷の懸橋を わたるは神か里人か
27.琴ひく風の濱松も 菜種に蝶の舞坂も うしろに走る愉快さを うたふか磯の波のこゑ
28.煙を水に横たへて わたる濱名の橋の上 たもと凉しく吹く風に 夏ものこらずなりにけり
29.右は入海しづかにて 空には富士の雪しろし 左は遠州洋ちかく 山なす波ぞ碎けちる
30.豐橋おりて乘る汽車は これぞ豐川稻荷道 東海道にてすぐれたる 海のながめは蒲郡
31.見よや徳川家康の おこりし土地の岡崎を 矢矧の橋に殘れるは 藤吉郎のものがたり
32.鳴海しぼりの産地なる 鳴海に近き大高を 下りておよそ一里半 ゆけば昔の桶狹間
33.めぐみ熱田の御やしろは 三種の神器の一つなる その草薙の神つるぎ あふげや同胞四千萬
34.名たかき金の鯱は 名古屋の城の光なり 地震のはなしまだ消えぬ 岐阜の鵜飼も見てゆかん
35.父やしなひし養老の 瀧は今なほ大垣を 三里へだてゝ流れたり 孝子の名譽ともろともに
36.天下の旗は徳川に 歸せしいくさの關が原 草むす屍いまもなほ 吹くか膽吹の山おろし
37.山はうしろに立ち去りて 前に來るは琵琶の海 ほとりに沿ひし米原は 北陸道の分岐線
38.彦根に立てる井伊の城 草津にひさぐ姥が餅 かはる名所も名物も 旅の徒然のうさはらし
39.いよいよ近く馴れくるは 近江の海の波のいろ その八景も居ながらに 見てゆく旅の樂しさよ
40.瀬田の長橋横に見て ゆけば石山觀世音 紫式部が筆のあと のこすはこゝよ月の夜に
41.粟津の松にことゝへば 答へがほなる風の聲 朝日將軍義仲の ほろびし深田は何かたぞ
42.比良の高嶺は雪ならで 花なす雲にかくれたり 矢走にいそぐ舟の帆も みえてにぎはふ波の上
43.堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘 夕ぐれさむき唐崎の 松には雨のかゝるらん
44.むかしながらの山ざくら にほふところや志賀の里 都のあとは知らねども 逢坂山はそのまゝに
45.大石良雄が山科の その隱家はあともなし 赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稻荷山
46.東寺の塔を左にて とまれば七條ステーシヨン 京都々々と呼びたつる 驛夫のこゑも勇ましや
47.こゝは桓武のみかどより 千有餘年の都の地 今も雲井の空たかく あふぐ清凉紫宸殿
48.東に立てる東山 西に聳ゆる嵐山 かれとこれとの麓ゆく 水は加茂川桂川
49.祗園清水智恩院 吉田黒谷眞如堂 ながれも清き水上に 君がよまもる加茂の宮
50.夏は納凉の四條橋 冬は雪見の銀閣寺 櫻は春の嵯峨御室 紅葉は秋の高雄山
51.琵琶湖を引きて通したる 疏水の工事は南禪寺 岩切り拔きて舟をやる 智識の進歩も見られたり
52.神社佛閣山水の 外に京都の物産は 西陣織の綾錦 友禪染の花もみぢ
53.扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺しらず みやげを提げていざ立たん あとに名殘は殘れども
54.山崎おりて淀川を わたる向ふは男山 行幸ありし先帝の かしこきあとぞ忍ばるゝ
55.淀の川舟さをさして くだりし旅はむかしにて またゝくひまに今はゆく 煙たえせぬ陸の道
56.おくり迎ふる程もなく 茨木吹田うちすぎて はや大阪につきにけり 梅田は我をむかへたり
57.三府の一に位して 商業繁華の大阪市 豐太閤のきづきたる 城に師團はおかれたり
58.こゝぞ昔の難波の津 こゝぞ高津の宮のあと 安治川口に入る舟の 煙は日夜たえまなし
59.鳥も翔らぬ大空に かすむ五重の塔の影 佛法最初の寺と聞く 四天王寺はあれかとよ
60.大阪いでゝ右左 菜種ならざる畑もなし 神崎川のながれのみ 淺黄にゆくぞ美しき
61.神崎よりはのりかへて ゆあみにのぼる有馬山 池田伊丹と名にきゝし 酒の産地もとほるなり
62.神戸は五港の一つにて あつまる汽船のかずかずは 海の西より東より 瀬戸内がよひも交じりたり
63.磯にはながめ晴れわたる 和田のみさきを控へつゝ 山には絶えず布引の 瀧見に人ものぼりゆく
64.七度うまれて君が代を まもるといひし楠公の いしぶみ高き湊川 ながれて世々の人ぞ知る
65.おもへば夢か時のまに 五十三次はしりきて 神戸のやどに身をおくも 人に翼の汽車の恩
66.明けなば更に乘りかへて 山陽道を進まゝし 天氣は明日も望あり 柳にかすむ月の影
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 今日は、大正時代の1915年(大正4)に、中国・袁世凱政府が日本の「対華二十一箇条要求」を受諾した日です。
 これは、1915年(大正4)1月18日、第一次世界大戦中に、日本が中華民国政府とおこなった外交交渉において提示した、21か条の権利拡大要求のことでしたが、「21か条の要求」などとも呼ばれました。
 その内容は、第1号で中国山東省の旧ドイツ利権の継承に鉄道新線要求など4ヵ条、第2号は旅順・大連の租借期限、満鉄安奉線の租借期限の99ヵ年延長と満蒙における日本人商租権など7ヵ条、第3号は漢冶萍煤鉄公司の日中合弁要求、第4号は中国沿岸港湾および島嶼の不割譲(以上を絶対必要条項とした)などを求めたものです。
 同年5月7日に日本政府は第5号を削除して最後通牒を発し、5月9日に中華民国政府に承認させ、5月25日に両国間で条約と交換公文が調印されました。
 しかし、中国民衆は、受諾の日を「国恥記念日」として、中国全土で激しい抗日運動、条約廃棄運動が展開されます。
 その中で、1922年(大正11)のワシントン会議において日本側は山東省における権益など、一部を放棄して10件に縮小されました。
 その後も中国側は条約廃棄を求め、排日運動が高揚したものの、この10件は日本の敗戦まで継続します。
 以下に、「対華二十一箇条要求」の全文を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇対華二十一箇条要求 (全文)  1915年(大正4)1月18日提示

対華二十一箇条要求

第一号(山東省に関する件四条)
日本国政府及支那国政府は偏に極東に於ける全局の平和を維持す且両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し茲に左の条款を締約せり。
 第一条 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対 して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府が独逸 国政府と協定すへき一切の事項を承認すへきことを約す
 第二条 支那国政府は山東省内若くは其沿海一帯の地又は島嶼を何等の名 義を以てするに拘はらず他国に譲与し又は貸与せざるべきことを 約す。
 第三条 支那国政府は芝罘又は竜口と膠州湾より済南に至る鉄道とを連絡 すへき鉄道の敷設を日本国に允許す。
 第四条 支那国政府は、成るべく速に外国人の居住及貿易の為自ら進で山東省に於ける主要都市を開くことを約す。其地点は別に協定すべし。

第二号(南満州及び東部内蒙古に関する件七条) 
日本国政府及支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するにより茲に左の条款を締約せり。
 第一条 両条約国は旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を何れ も更に九十九ケ年つつ延長すへきことを約す
 第二条 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て各種商工業上の建物の 建設又は耕作の為必要なる土地の賃借権又は其所有権を取得する ことを得
 第三条 日本国臣民は南満州及東部内蒙古に於て自由に居住往来し各種の 商工業及其他の業務に従事することを得。 
 第四条 支那国政府は南満州及ひ東部内蒙古に於ける諸鉱山の採掘権を日 本国臣民に許与す
 第五条 支那国政府は、左の事項に関しては予め日本国政府の同意を経べきことを承諾す。
(1)南満州及東内蒙古に於て他国人に鉄道敷設権を与へ、又は鉄道敷設の為に他国人より資金の供給を仰ぐこと
(2)南満州及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起こすこと
 第六条 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける政治財政軍事に関し顧問教官を要する場合には、必ず先づ日本国に協議すべきことを約す。
 第七条 支那国政府は、本条約締結の日より九十九ケ年間日本国に吉長鉄 道の管理経営を委任す
第三号(漢冶萍公司に関する件二条)
日本国政府及支那国政府は日本国資本家と漢冶萍公司との間に存する密接なる関係に顧み且両国共通の利益を増進せんが為左の条款を締約せり。 
 第一条 両締約国は将来適当の時機に於て漢冶萍公司を両国の合弁となす こと並に支那国政府は日本国政府の同意なくして同公司に属する 一切の権利財産を自ら処分し又は同公司をして処分せしめざるべ きことを約す。
 第二条 支那国政府は、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近に於ける鉱山に付ては同公司の承諾なくしては之が採掘を同公司以外のものに許可せざるべきこと、並其他直接間接同公司に影響を及ぼすべき虞ある措置を執らんとする場合には先づ同公司の同意を経べきことを約す。

第四号(沿岸島嶼不割譲に関する件一条)
日本国政府及支那国政府は支那国領土保全の目的を確保せんか為茲に左の条款を締約せり支那国政府は支那国沿岸の港湾及島嶼を他国に譲与し若くは貸与せさるへきことを約す

第五号(懸案其他解決に関する件七条)
 一、中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること。
 二、支那内地に於ける日本の病院、寺院及学校に対しては、其土地所有権を認むること。
 三、従来日支間に警察事故の発生を見ること多く、不快なる論争を醸したることも少からざるに付、此際必要の地方に於ける警察を日支合同とし、又は此等地方に於ける支那警察官庁に多数の日本人を傭聘せしめ、以て一面支那警察機関の刷新確立を図るに資すること。
 四、日本より一定の数量(例へば支那政府所要兵器の半数)以上の兵器の供給を仰ぎ、又は支那に日支合弁の兵器廠を設立し日本より技師及材料の供給を仰ぐこと。
 五、武昌と九江南昌線とを聯絡する鉄道及南昌杭州間、南昌潮州間鉄道敷設権を日本に許与すること。
 六、福建省に於ける鉄道、鉱山、港湾の設備(造船所を含む)に関し外国資本を要する場合には、先づ日本に協議すべきこと。
 七、支那における本邦人の布教権を認むること。

                       外務省編「日本外交年表竝主要文書」下巻より
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