ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、1919年(大正8)に政治家板垣退助の亡くなった日です。
 板垣退助は、1837年(天保8)4月17日、高知城下中島町に生まれました。若い頃は、土佐藩における倒幕派の急先鋒となり、1865年(慶応元)3月京都において薩摩藩士小松帯刀、西郷隆盛らと薩土秘密倒幕同盟を結ぶ立て役者となりました。
 戊辰戦争では土佐藩の大隊指令となり、東山道先鋒総督府参謀を命ぜられて、各地を転戦、会津城攻略においては指揮官として活躍しました。明治維新後は新政府の参議に任じられましたが、征韓論で破れ下野、1874年(明治7)に愛国公党を結成し、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣などと左院に「民撰議院設立建白書」を提出したものの、却下されます。
 また、高知へもどり、立志社を創設、自由民権運動を展開し、リーダー的存在となりました。1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名です。1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残しました。
 1884年(明治17)決断して自由党をいったん解党しましたが、1890年(明治23)の帝国議会開設後には、自由党を再結成して、党総理に就任することになります。
 1896年(明治29)第2次伊藤内閣の内務大臣となり、1898年(明治31)には、大隈重信と隈板内閣をつくり、内務大臣に就任しました。
 1900年(明治33)、立憲政友会の創立とともに政界を引退し、その後は社会改良運動につくしましたが、1919年(大正8)7月16日、83才で死去しています。「高知市立自由民権記念館」詳しい展示コーナーがあります。

〇「民撰議院設立建白書」とは?
 明治時代前期の1874年(明治7)1月17日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、由利公正、岡本健三郎、古沢滋、小室信夫の8名が署名し、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書です。
 自由民権運動の発端となった歴史的文書で、藩閥専制の弊害を批判し、国民が幸福を享受すべきことを訴えて、民撰議院(国会)の一日も早い開設を要請したものでした。
 当時の政府などは時期尚早と反対しましたが、自由民権の考え方は、徐々に国民各層に浸透していくことになります。

☆「民撰議院設立建白書」(全文)

 某等別紙奉建言候次第、平生ノ持論ニシテ、某等在官中屡及建言侯者モ有之候処、欧米同盟各国へ大使御派出ノ上、実地ノ景況ヲモ御目撃ニ相成、其上事宜斟酌施設可相成トノ御評議モ有之。然ルニ最早)大使御帰朝以来既ニ数月ヲ閲シ侯得共、何等ノ御施設モ拝承不仕、昨今民心洶々上下相疑、動スレバ土崩瓦解ノ兆無之トモ難申勢ニ立至侯義、畢竟天下輿論公議ノ壅塞スル故卜実以残念ノ至ニ奉存侯。此段宜敷御評議ヲ可被遂侯也。

明治七年一月十七日

 高知縣貫屬士族  古 澤 迂 郎
 高知縣貫屬士族  岡 本 健 三 郎
 名東縣貫屬士族  小 室 信 夫
 敦賀縣貫屬士族  由 利 公 正
 佐賀縣貫屬士族  江 藤 新 平
 高知縣貫屬士族  板 垣 退 助
 東京府貫屬士族  後 藤 象 二 郎
 佐賀縣貫屬士族  副 島 種 臣

 左 院 御中

 臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司(=維新政府顕官)ニ帰ス。夫有司、上帝室ヲ尊ブト曰ザルニハ非ズ、而帝室漸ク其尊栄ヲ失フ、下人民ヲ保ツト曰ザルニハ非ラズ、而政令百端、朝出暮改、政刑情実ニ成リ、賞罰愛憎ニ出ヅ、言路壅蔽、困苦告ルナシ。夫如是ニシテ天下ノ治安ナラン事ヲ欲ス、三尺ノ童子モ猶其不可ナルヲ知ル。因仍改メズ、恐クハ国家土崩ノ勢ヲ致サン。臣等愛国ノ情自ラ已ム能ハズ、乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已。則有司ノ権限ル所アツテ、而上下其安全幸福ヲ受ル者アラン。請、遂ニ之ヲ陳ゼン。

 夫人民、政府ニ対シテ租税ヲ払フノ義務アル者ハ、乃チ其政府ノ事ヲ与知可否スルノ権理ヲ有ス。是天下ノ通論ニシテ、復喋々臣等ノ之ヲ贅言スルヲ待ザル者ナリ。故ニ臣等窃ニ願フ、有司亦是大理ニ抗抵セザラン事ヲ。今民撰議院ヲ立ルノ議ヲ拒ム者曰、我民不学無智、未ダ開明ノ域ニ進マズ、故〔ニ〕今日民撰議院ヲ立ル尚応サニ早カル可シト。臣等以為ラク、若果シテ真ニ其謂フ所ノ如キ乎。則之ヲシテ学且智而急ニ開明ノ域ニ進マシムルノ道、即民撰議院ヲ立ルニ在リ。何トナレバ則今日我人民ヲシテ学且智ニ開明ノ域ニ進マシメントス、先其通義権理ヲ保護セシメ、之ヲシテ自尊自重、天下ト憂楽ヲ共ニスルノ気象ヲ起サシメズンバアル可カラズ。自尊自重、天下ト憂楽ヲ共ニスルノ気象ヲ起サシメントスルハ、之ヲシテ天下ノ事ニ与ラシムルニ在リ。如是シテ、人民其固陋ニ安ジ、不学無智自ラ甘ンズル者未ダ之有ラザルナリ。而シテ今其自ラ学且智ニシテ自其開明ノ域ニ入ルヲ待ツ。是殆ド百年河清ヲ待ツノ類ナリ。甚シキハ則、今遽カニ議院ヲ立ルハ是レ天下ノ愚ヲ集ムルニ過ザルノミト謂ニ至ル。噫何自傲ノ太甚シク、而其人民ヲ視ルノ蔑如タルヤ。有司中智巧固り人ニ過グル者アラン。然レ共安ンゾ学問有識ノ人世復諸人ニ過グル者アラザルヲ知ランヤ。蓋シ天下ノ人如是蔑視ス可ラザルナリ。若シ将タ蔑視ス可キ者トセバ、有司亦其中ノ一人ナラズヤ。然ラバ則均シク是不学無識ナリ。僅々有司ノ専裁ト人民ノ輿論公議ヲ張ルト、其賢愚不肖果シテ如何ゾヤ。臣等謂フ、有司ノ智亦之ヲ維新以前ニ視ル、必ラズ其進シ者アラン。何トナレバ則、人間ノ智識ナル者ハ必ラズ其之ヲ用ルニ従テ進ム者ナレバナリ。故ニ曰ク、民撰議院ヲ立ツ、是即チ人民ヲシテ学且智ニ、而シテ急ニ開明ノ域ニ進マシムルノ道也。

 且夫政府ノ職、其宜シク奉ジテ以テ目的トナス可キ者、人民ヲシテ進歩スルヲ得セシムルニ在り。故ニ草昧ノ世、野蛮ノ俗、其民勇猛暴悍、而シテ従フ所ヲ知ラズ。是時ニ方ツテ、政府ノ職固リ之ヲシテ従フ所ヲ知ラシムルニ在リ。今我国既ニ草昧ニ非ラズ、而シテ我人民ノ従馴ナル者既ニ過甚トス。然ラバ則、今日我政府ノ宜シク以テ其目的トナス可キ者、則民撰議院ヲ立テ、我人民ヲシテ其敢為ノ気ヲ起シ、天下ヲ分任スルノ義務ヲ弁知シ、天下ノ事ニ参与シ得セシムルニ在リ。則闔国ノ人皆同心ナリ。

 夫政府ノ強キ者、何ヲ以テ之ヲ致スヤ。天下人民皆同心ナレバ也。臣等必ラズ遠ク旧事ヲ引イテ之ヲ証セズ、且昨十月政府ノ変革ニ就イテ之ヲ験ス。岌々乎其危哉。我政府ノ孤立スルヤ何ゾヤ。昨十月政府ノ変革、天下人民ノ之ガ為メニ喜戚セシ者幾カアル。啻之ガ為メニ喜戚セザルノミナラズ、天下人民ノ茫トシテ之ヲ知ラザル者十ニシテ八九ニ居ル。唯兵隊ノ解散ニ驚ク而已。今民撰議院ヲ立ルハ則政府人民ノ間、情実融通、而相共ニ合テ一体トナリ、国始メテ可以強、政府始メテ可以強キナリ。

 臣等既ニ天下ノ大理ニ就イテ之ヲ究メ、我国今日ノ勢ニ就イテ之ヲ実ニシ、政府ノ職ニ就イテ之ヲ論ジ、及昨十月政府ノ変革ニ就イテ之ヲ験ス。而臣等ノ自ラ臣等ノ説ヲ信ズルコト愈篤ク、切ニ謂フ、今日天下ヲ維持振起スルノ道、唯民撰議院ヲ立而シテ天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。其方法等ノ議ノ如キ、臣等必ラズ之ヲ茲ニ言ハズ。蓋シ十数枚紙ノ能ク之ヲ尽ス者ニアラザレバ也。但臣等窃ニ聞ク、今日有司持重ノ説ニ藉リ、事多ク因循ヲ務メ、世ノ改革ヲ言フ者ヲ目シテ軽々進歩トシ、而シテ之ヲ拒ムニ尚早キノ二字ヲ以テスト。臣等請、亦弁之ゼン。

 夫軽々進歩卜云フ者、固リ臣等ノ所不解、若果シテ事倉猝ニ出ル者ヲ以テ軽々進歩トスル乎、民撰議院ナル者ハ以テ事ヲ鄭重ニスル所ノ者ナリ。各省不和而変更ノ際、事本末緩急ノ序ヲ失シ、彼此ノ施設相視ザル者ヲ以テ軽々進歩トスル乎、是国ニ定律ナク、有司任意放行スレバナリ。是二者アラバ、則適ニ其民撰議院ノ立ズンバアル可カラザルノ所以ヲ証スルヲ見ルノミ。夫進歩ナル者ハ天下ノ至美ナリ、事々物々進歩セズンバアル可カラズ。然ラバ則、有司必ラズ進歩ノ二字ヲ罪スル能ハズ。其罪スル所、必ラズ軽々ノ二字ニ止ラン。軽々ノ二字、民撰議院卜曾テ相関渉セザル也。

 尚早キノ二字ノ民撰議院ヲ立ルニ於ケル、臣等啻ニ之ヲ解セザル而已ナラズ、臣等ノ見正ニ之卜相反ス。如何トナレバ、今日民撰議院ヲ立ツモ、尚恐クハ歳月ノ久シキヲ待チ而後始メテ其十分完備ヲ期スルニ至ラン。故ニ臣等一日モ唯其立ツコトノ晩カランコトヲ懼ル。故ニ曰、臣等唯其反対ヲ見ル而已。

 有司ノ説又謂フ、欧米各国今日ノ議院ナル者ハ一朝一夕ニ設立セシノ議院ニ非ラズ、其進歩ノ漸ヲ以テ之ヲ致セシ者ノミ故、我今日俄ニ之ヲ模スルヲ得ズト。夫レ進歩ノ漸ヲ以テ之ヲ致セシ者、豈独リ議院ノミナランヤ、凡百学問技術機械皆然ルナリ。然ニ彼レ数百年ノ久シキヲ積ンデ之ヲ致セシ者ハ、蓋シ前ニ成規ナク皆自ラ之ヲ経験発明セシナレバナリ。今我其成規ヲ択ンデ之ヲ取ラバ、何企テ及ブ可カラザランヤ。若我自ラ蒸気ノ理ヲ発明スルヲ待チ然後我始メテ蒸気機械ヲ用ルヲ得可ク、電気ノ理ヲ発明スルヲ待チ然後我始メテ電信ノ線ヲ架スルヲ得可キトスル乎、政府ハ応ニ手ヲ下スノ事ナカル可シ。

 臣等既ニ已ニ今日我国民撰議院ヲ立テズンバアル可カラザルノ所以、及今日我国人民進歩ノ度能ク斯議院ヲ立ルニ堪ルコトヲ弁論スル者ハ、則有司ノ之ヲ拒ム者ヲシテ口ニ藉スル所ナカラシメントスルニハ非ラズ。斯議院ヲ立、天下ノ公論ヲ伸張シ、人民ノ通義権理ヲ立テ、天下ノ元気ヲ鼓舞シ、以テ上下親近シ、君臣相愛シ、我帝国ヲ維持振起シ、幸福安全ヲ保護センコトヲ欲シテ也。請、幸ニ之ヲ択ビ玉ンコトヲ。

           国立公文書館蔵『諸建白書 明治七年従一月至四月』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、段落を分けて句読点を付してあります。
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 今日は、明治時代前期の1878年(明治11)に、箱根の「富士屋ホテル」が開業した日です。
 このホテルは、神奈川県足柄下郡箱根町の宮ノ下温泉にある日本のホテルの草分けです。
 その後、外国人専門の洋式ホテルとして、箱根を国際観光地として発展させる先駆的役割を果たしました。開業時の建物は木造3階建てで、疑洋風建築でしたが、惜しくも1883年(明治16)の宮ノ下大火にあって全焼してしまいます。しかし、翌年には本格的な洋風建築として立て替えられ、その後、移築や内部改装されたものの現存して、営業を続けているのです。
 箱根には旧東海道沿いに古来から温泉が湧いていて、湯治場としてにぎわっていました。江戸時代には箱根7湯といわれて、繁栄していましたが、明治の文明開化以後、街道から鉄道へ交通体系が変わりつつあり、諸分野で、近代化が求められるようになってきました。
 その中、日本にたくさん来るようになってきた外国人に目をつけ、7湯のひとつ宮ノ下温泉に、外国人専門の洋式ホテルとして開業したものです。
 尚、1997年(平成9)に、主要な建物が国の登録有形文化財になり、2007年(平成19)には、近代化産業遺産群「富士屋ホテルと箱根観光関連遺産」に認定されました。

〇「富士屋ホテル」の沿革
・1878年(明治11)7月15日:山口仙之助が藤屋旅館を買収・改装して開業する。
・1883年(明治16):火災により焼失。
・1884年(明治17):平屋建て客室12室として再建される。
・1891年(明治24):本館が竣工する。
・1893年(明治26):外国人専用ホテルとなる(~1912年まで)。
・1931年(昭和6):タイ王国国王と王妃が滞在する。
・1932年(昭和7):チャールズ・チャップリンが来館する。
・1936年(昭和11):花御殿が竣工する。
・1937年(昭和12):ヘレン・ケラーが、花御殿に宿泊する。
・1945年(昭和20):連合国軍のレストホテルとして接収される。
・1946年(昭和21):高松宮家別邸(旧宮ノ下御用邸)の払い下げを受け、菊華荘とする。
・1950年(昭和25):政府登録国際観光旅館となる。
・1954年(昭和29):一般自由営業を再開する。
・1965年(昭和40):昭和天皇が宿泊する。
・1966年(昭和41):国際興業グループに株を譲渡され、山口一族による経営が終わる。
・1997年(平成9):本館、一号館、二号館、アイリー、花御殿、食堂、菊華荘が登録有形文化財となる。
・2007年(平成19):本館、西洋館、食堂棟、花御殿、カスケードルーム、厨房が近代化産業遺産群になる。
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 今日は、幕末明治維新期の1871年(明治4)に、廃藩置県の詔が出された日です。(新暦では8月29日)
 これは、明治政府が中央集権化を図るために、それまでの全国261の藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した政治改革です。
 その時、在東京の知藩事を皇居に集めて、「廃藩置県の詔」によって命じたのですが、その結果3府302県ができたものの、年末までには合併整理されて、3府72県となりました。
 それまでの藩知事はすべて華族に列して、東京に住まわせ、県には政府から別に任命した知事を送ったのです。その後、県の増減がありましたが、1988年(明治21)に3府43県となって固定しました。
 以下に、「廃藩置県の詔」(全文)と現代語訳を掲載しておきます。

〇「廃藩置県の詔」(全文)
朕惟フニ、更始ノ時ニ際シ、内以テ億兆ヲ保安シ、外以テ万国ト対峙セント欲セハ、宜ク名実相副ヒ、政令一ニ帰セシムヘシ。朕曩ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ、新ニ知藩事を命シ、各其職ヲ奉セシム。然ルニ数百年因襲ノ久キ、或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ。何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対峙スルヲ得ンヤ。朕深ク之ヲ慨ス。仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス。是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ、有名無実ノ弊ヲ除キ、政令多岐ノ憂無ラシメントス。汝群臣其レ朕意ヲ体セヨ。
                「法令全書」より

<現代語訳>
私(明治天皇)が思うに、この明治維新に際して、内は国民を守り、外では列国と対等に向き合うとすれば、名実ともに政令が一本化し集権化されていなければならない。私はさきに版籍奉還を許可し、新たに知藩事を命じて職務に就かせた。ところが数百年来の封建制の伝統が続き、名のみでその実があがらない者もいる。これではどうして国民を守り、列国と対等に向き合っていけようか。私は深くこれをなげかわしく思うものである。そこで今、さらに藩を廃して県を置く。これはできるだけ無駄を省いて簡素化し、有名無実の弊害を除き、政令が多方面から出る弊害をなくすためである。お前たち臣下の者は、私の真意を諒解してほしい。
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 今日は、1886年(明治19)に東経135度の時刻を日本標準時と定める勅令が公布された日で、日本標準時制定記念日と呼ばれています。
 この勅令は、正式名称を「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」(明治19年勅令第51号)といい、「英國グリニッチ天文臺子午儀ノ中心ヲ經過スル子午線ヲ以テ經度ノ本初子午線トス」として、グリニッジ子午線を本初子午線(経度0度)とし、「經度ハ本初子午線ヨリ起算シ東西各百八十度ニ至リ東經ヲ正トシ西經ヲ負トス」と定めて、東西それぞれ180度で、東を正、西を負として表すこととしました。
 その上で、「明治二十一年一月一日ヨリ東經百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム」として、東経135度の時刻を日本の標準時と規定し、1888年(明治21)1月1日から適用するとしたのです。
 この当時は、兵庫県明石市などを通過する東経135度の子午線上での平均太陽時として、天体観測に基づいて計測されていました。
 しかし現在は、情報通信研究機構が複数のセシウム原子時計・水素メーザー原子時計によって得られる時刻を平均・合成して協定世界時を生成し、これを9時間進めたものを日本標準時として決定しています。
 今でも、子午線上にある「明石市立天文科学館」には、日本標準時を刻む大きな時計が設置されているのです。
 以下に、この時出された「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」(明治19年勅令第51号)を全文掲載しておきます。

〇「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」(明治19年勅令第51号)

朕本初子午線經度計算方及標準時ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

御名御璽

明治十九年七月十二日

內閣總理大臣 伯爵 伊藤博文
內  務  大  臣 伯爵 山縣有朋
陸  軍  大  臣 伯爵 大 山 巖
海  軍  大  臣 伯爵 西鄕從道
文  部  大  臣    森 有 禮
農 商 務 大 臣 伯爵 西鄕從道
遞  信  大  臣    榎本武揚

勅令第五十一號

一英國グリニッチ天文臺子午儀ノ中心ヲ經過スル子午線ヲ以テ經度ノ本初子午線トス

一經度ハ本初子午線ヨリ起算シ東西各百八十度ニ至リ東經ヲ正トシ西經ヲ負トス

一明治二十一年一月一日ヨリ東經百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム
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 今日は、1984年(昭和59)に、島根県の荒神谷遺跡で多数の銅剣が発見された日です。
 この遺跡は、島根県出雲市斐川町神庭にある弥生時代の青銅器埋納遺跡で、広域農道の建設に伴い発見され、1984年~1985年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土し、青銅器研究史上空前の大発見として注目を集めました。
 その後、銅剣は1985年(昭和60)、銅鐸・銅矛は1987年(昭和62)に国の重要文化財に指定され、遺跡も同年に国の史跡に指定されたのです。さらに、1998年(平成10)には、一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されました。
 遺跡一帯は、「荒神谷史跡公園」として整備され、2005年(平成17)には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示、出雲の弥生時代の解説などが行われています。また、出土品は「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されています。

〇荒神谷遺跡発掘状況
<銅剣>
・発掘時の状態
 2段に加工された平坦面の下段に浅く掘りくぼめた長さ2.6m、幅1.5mの埋納壙に南北に4列、いずれも刃を立て密着した状態で西から34本、111本、120本、93本が整然と並べられていました。
・発掘品の特徴
 358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、全長50~53cm前後、重さ500g余と大きさも重さもほぼ同じで、弥生時代中期~後期の製作と考えられています。このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれていました。刃こぼれなどがみられず、形式が単一であることなどから、鋳造後比較的短期間のうちに一括埋納されたものと推定されています。

<銅鐸>
・発掘時の状態
 東西約2m、南北約1.2mに掘りくぼめた埋納壙の西半分に銅鐸が、東半分に銅矛が一括埋納されていました。
・発掘品の特徴
 6個の銅鐸は総高21.7~24cmの小型品で、分類としては、菱環鈕式横帯文銅鐸1個、外縁鈕式四区袈裟襷文銅鐸5個が出土しています。

<銅矛>
・発掘時の状態
 東西約2m、南北約1.2mに掘りくぼめた埋納壙の西半分に銅鐸が、東半分に銅矛が一括埋納されていました。
・発掘品の特徴
 16本の銅矛は全長69.6~84cm(中細形2本、中広形14本)で、北部九州からの搬入品と考えられています。
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