ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、小説家新田次郎が、1912年(明治45)に生まれた日です。
 新田次郎は、昭和時代に活躍した小説家で、本名は、藤原寛人といい、1912年(明治45)6月6日に、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の長野県諏訪市)で生まれました。
 旧制諏訪中学校(現在の県立諏訪清陵高等学校)から、無線電信講習所本科へと進み、1935年(昭和10)に神田電機学校(現在の東京電機大学)を卒業したのです。その後、中央気象台にはいり、富士山観測所、満州国中央気象台などに勤務しました。
 太平洋戦争後、小説を書き始め、1951年(昭和26)に『強力伝』が『サンデー毎日』の懸賞小説に当選、同作を収めた処女作品集『強力伝』で、1956年(昭和31)に直木賞を受賞したのです。
 その後も気象庁に勤めながら小説を書き続け、1966年(昭和41)に退職後は、作家活動に専念することになります。
 『八甲田山死の彷徨』(1971年)、『武田信玄』(1969~73年)、『栄光の岩壁』 (1973年) などの山岳・歴史小説を次々と発表し、1974年(昭和49)には吉川英治文学賞しました。しかし、1980年(昭和55)2月15日 に心筋梗塞のため、東京都武蔵野市の自宅にて、67歳で亡くなっています。
 以下に、新田次郎の主要作品をあげておきます。

〇新田次郎の主要作品
『強力伝』朋文堂(旅装新書) 1955
『孤島 他四篇』光和堂 1956
『氷原・鳥人伝』新潮社(小説文庫) 1956
『火山群』新潮社 1957
『蒼氷』大日本雄弁会講談社 1957
『算士秘伝』大日本雄弁会講談社(ロマン・ブックス) 1957
『吹雪の幻影』朋文堂 1957
『はがね野郎』大日本雄弁会講談社 1958
『慶長大判』大日本雄弁会講談社 1958
『この子の父は宇宙線』講談社ロマン・ブックス 1958
『縦走路』新潮社 1958
『風の中の瞳』東都書房 1958
『ひとり旅』秋元書房 1959
『黒い顔の男』新潮社 1959
『最後の叛乱』角川書店 1959
『冬山の掟』新潮社 1959
『海流』講談社 1959
『沼 推理小説』東都書房 1960
『永遠のためいき』新潮社 1960 
『青い失速』講談社 1960
『石壁の掟』新潮社 1960
『絵島の日記』講談社 1960
『壷鳴り』東都書房 1961
『隠密海を渡る』新潮社 1961
『温暖前線』集英社 1962
『雪に残した3』新潮社(ポケット・ライブラリ) 1962
『錆びたピッケル』新潮社 1962
『風の遺産』講談社 1962 
『異人斬り』集英社 1962
『道化師の森』講談社 1963
『風雪の北鎌尾根』新潮社 1963
『寒冷前線』朋文堂(ケルン新書) 1963
『神々の石壁』講談社 1963
『かもしかの娘たち』集英社 1964
『梅雨将軍信長』新潮社 1964
『消えたシュプール』講談社 1964
『岩壁の九十九時間』新潮社 1965
『望郷』文芸春秋新社 1965
『白い野帳』朝日新聞社 1965
『高校一年生』秋元書房 1965
『高校二年生』秋元書房 1966
『火の島』新潮社 1966
『まぼろしの軍師』人物往来社 1967
『夜光雲』講談社 1967
『富士山頂』文芸春秋 1967
『先導者』新潮社 1968)
『黒い雪洞』講談社 1968)
『槍ヶ岳開山』文芸春秋 1968
『神通川』学習研究社 1968
『まぼろしの雷鳥』講談社 1969
『ある町の高い煙突』文芸春秋社 1969
『孤高の人』新潮社 1969
『武田信玄』文芸春秋 1969-1973
『思い出のともしび 新田次郎青春記』秋元書房 1970
『笛師』講談社 1970 講談社文庫 1975
『山旅ノート』山と渓谷社(山渓新書) 1970
『三つの嶺』文芸春秋 1970
『霧の子孫たち』文芸春秋 1970
『芙蓉の人』文芸春秋 1971
『昭和新山』文芸春秋 1971
『赤毛の司天台』中央公論社 1971
『東京野郎』三笠書房 1971
『八甲田山死の彷徨』新潮社 1971
『つぶやき岩の秘密』新潮社(新潮少年文庫) 1972
『凍った霧の夜に』毎日新聞社 1972
『北極光』二見書房 1972
『六合目の仇討』廣済堂出版 1973
『栄光の岩壁』新潮社 1973
『雪の炎』光文社 カッパ・ノベルス 1973
『怒る富士』文芸春秋 1974
『雪のチングルマ』文芸春秋 1974
『アラスカ物語』新潮社 1974
『富士に死す』文芸春秋 1974
『銀嶺の人』新潮社 1975
『犬橇使いの神様』文芸春秋 1975
『空を翔ける影』光文社(カッパ・ノベルス 1976
『山が見ていた』光文社(カッパ・ノベルス 1976
『白い花が好きだ』光文社 1976
『聖職の碑』講談社 1976
『小説に書けなかった自伝』新潮社 1976
『アルプスの谷 アルプスの村』(新田次郎全集 第22巻) (新潮社 1976)
『陽炎』毎日新聞社 1977
『武田三代』毎日新聞社 1977
『剣岳: 点の記』文芸春秋 1977
『鷲ケ峰物語』講談社 1977
『小笠原始末記』毎日新聞社 1977
『河童火事』毎日新聞社 1977
『先導者・赤い雪崩』新潮文庫 1977
『続・白い花が好きだ』光文社 1978
『風雪の北鎌尾根・雷鳴』新潮文庫 1978
『冬山の掟』文春文庫 1978
『珊瑚』新潮社 1978
『新田義貞』新潮社 1978
『密航船水安丸』講談社 1979
『ラインの古城』文芸春秋 1979
『マカオ幻想』新潮社 1980
『孤愁』文芸春秋 1980
『氷原・非情のブリザード』新潮文庫 1980
『武田勝頼』講談社 1980
『遥かなる武田信玄の国』新人物往来社 1980
『私の取材旅行』文芸春秋 1981
『山が見ていた』文春文庫 1983
『六合目の仇討』新潮文庫 1984
『万治の石仏』草原社文庫 1988
『武田信玄 アルバム&エッセイ』新人物往来社 1987
『きびだんご侍』新潮文庫 1988)
『孤愁=SAUDADE: サウダーデ』文芸春秋 2012
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 今日は、環境の日・世界環境デーで、1972年(昭和47)にスウェーデンのストックホルムで開催された国連人間環境会議(通称:ストックホルム会議)で「人間環境宣言」が採択されたことに因むものでした。
 国連人間環境会議は、この年の6月5日~16日まで開かれ、環境問題についての世界で初めての大規模な政府間会合で、113ヶ国が参加したのです。
 キャッチフレーズは、「かけがえのない地球 (Only One Earth)」で、「人間環境宣言」及び「環境国際行動計画」が採択され、これを実行するため、国際連合に環境問題を専門的に扱う国際連合環境計画(本部:ケニアのナイロビ)がに設立されました。英語の略称はUNEP(ユネップ)で、国際連合の機関として国連諸機関の環境に関する諸活動を統括しています。
 1972年(昭和47)12月15日の国連総会において、日本とセネガルの共同提案により、6月5日が世界環境デーとして制定されました。
 日本では1993年(平成5)に「環境基本法」により、「事業者及び国民の間に広く環境の保全についての関心と理解を深めるとともに、積極的に環境の保全に関する活動を行う意欲を高めるため、環境の日を設ける。 」(第10条)として、この日を「環境の日」と定めているのです。
 これにより、6月の1ヶ月間は、環境月間として、毎年、環境省や地方自治体、企業などによって環境セミナーや展示会などが各地で開かれてきました。
 また、世界各国でも、この日に環境保全の重要性を認識し、行動の契機とするため様々な行事が行われています。
 以下に、「人間環境宣言」を全文載せておきます。

○人間環境宣言

 国連人間環境会議は、1972 年6 月5 日から16 日までストックホルムで開催され、人間環境の保全と向上に関し、世界の人々を励まし、導くため共通の見解と原則が必要であると考え、以下のとおり宣言する。

1.宣 言

(1)人は環境の創造物であると同時に、環境の形成者である。環境は人間の生存を支えるとともに、知的、道徳的、社会的、精神的な成長の機会を与えている。地球上での人類の苦難に満ちた長い進化の過程で、人は、科学技術の加速度的な進歩により、自らの環境を無数の方法と前例のない規模で変革する力を得る段階に達した。自然のままの環境と人によって作られた環境は、共に人間の福祉、基本的人権ひいては、生存権そのものの享受のため基本的に重要である。

(2)人間環境を保護し、改善させることは、世界中の人々の福祉と経済発展に影響を及ぼす主要な課題である。これは、全世界の人々が緊急に望むところであり、すべての政府の義務である。

(3)人は、絶えず経験を生かし、発見、発明、創造及び進歩を続けなければならない。今日四囲の環境を変革する人間の力は、賢明に用いるならば、すべての人々に開発の恩恵と生活の質を向上させる機会をもたらすことができる。誤って、又は不注意に用いるならば、同じ力は、人間と人間環境に対しはかり知れない害をもたらすことにもなる。我々は地球上の多くの地域において、人工の害が増大しつつあることを知っている。その害とは、水、大気、地球、及び生物の危険なレベルに達した汚染、生物圏の生態学的均衡に対する大きな、かつ望ましくないかく乱、かけがえのない資源の破壊と枯渇及び人工の環境、特に生活環境、労働環境における人間の肉体的、精神的、社会的健康に害を与える甚だしい欠陥である。

(4)開発途上国では、環境問題の大部分が低開発から生じている。何百万の人々が十分な食物、衣服、住居、教育、健康、衛生を欠く状態で、人間としての生活を維持する最低水準をはるかに下回る生活を続けている。このため開発途上国は、開発の優先順位と環境の保全、改善の必要性を念頭において、その努力を開発に向けなければならない。同じ目的のため先進工業国は、自らと開発途上国との間の格差を縮めるよう努めなければならない。先進工業国では、環境問題は一般に工業化及び技術開発に関連している。

(5)人口の自然増加は、絶えず環境の保全に対し問題を提起しており、この問題を解決するため、適切な政策と措置が十分に講じられなければならない。万物の中で、人間は最も貴重なものである。社会の進歩を推し進め、社会の富を作り出し、科学技術を発達させ、労働の努力を通じて人間環境を常に変えてゆくのは人間そのものである。社会の発展、生産及び科学技術の進歩とともに、環境を改善する人間の能力は日に日に向上する。

(6)我々は歴史の転回点に到達した。いまや我々は世界中で、環境への影響に一層の思慮深い注意を払いながら、行動をしなければならない。無知、無関心であるならば、我々は、我々の生命と福祉が依存する地球上の環境に対し、重大かつ取り返しのつかない害を与えることになる。逆に十分な知識と賢明な行動をもってするならば、我々は、我々自身と子孫のため、人類の必要と希望にそった環境で、より良い生活を達成することができる。環境の質の向上と良い生活の創造のための展望は広く開けている。いま必要なものは、熱烈ではあるが冷静な精神と、強烈ではあるが秩序だった作業である。自然の世界で自由を確保するためには、自然と協調して、より良い環境を作るため知識を活用しなければならない。現在及び将来の世代のために人間環境を擁護し向上させることは、人類にとって至上の目標、すなわち平和と、世界的な経済社会発展の基本的かつ確立した目標と相並び、かつ調和を保って追求されるべき目標となった。

(7)この環境上の目標を達成するためには、市民及び社会、企業及び団体が、すべてのレベルで責任を引き受け、共通な努力を公平に分担することが必要である。あらゆる身分の個人も、すべての分野の組織体も、それぞれの行動の質と量によって、将来の世界の環境を形成することになろう。地方自治体及び国の政府は、その管轄の範囲内で大規模な環境政策とその実施に関し最大の責任を負う。この分野で開発途上国が責任を遂行するのを助けるため、財源調達の国際協力も必要とされる。環境問題は一層複雑化するであろうが、その広がりにおいて地域的又は全地球的なものであり、また共通の国際的領域に影響を及ぼすものであるので、共通の利益のため国家間の広範囲な協力と国際機関による行動が必要となるであろう。国連人間環境会議は、各国政府と国民に対し、人類とその子孫のため、人間環境の保全と改善を目指して、共通の努力をすることを要請する。

2.原 則
 共通の信念を次のとおり表明する。

(1)人は、尊厳と福祉を保つに足る環境で、自由、平等及び十分な生活水準を享受する基本的権利を有するとともに、現在及び将来の世代のため環境を保護し改善する厳粛な責任を負う。これに関し、アパルトヘイト(人種隔離政策)、人種差別、差別的取扱い、植民地主義その他の圧制及び外国支配を促進し、又は恒久化する政策は非難され、排除されなければならない。

(2)大気、水、大地、動植物及び特に自然の生態系の代表的なものを含む地球上の天然資源は、現在及び将来の世代のために、注意深い計画と管理により適切に保護されなければならない。

(3)再生可能な重要な資源を生み出す地球の能力は維持され、可能な限り、回復又は向上されなければならない。

(4)祖先から受け継いできた野生生物とその生息地は、今日種々の有害な要因により重大な危機にさらされており、人はこれを保護し、賢明に管理する特別な責任を負う。野生生物を含む自然の保護は、経済開発の計画立案において重視しなければならない。

(5)地球上の再生できない資源は将来の枯渇の危険に備え、かつ、その使用から生ずる成果がすべての人間に分かち与えられるような方法で、利用されなければならない。

(6)生態系に重大又は回復できない損害を与えないため、有害物質その他の物質の排出及び熱の放出を、それらを無害にする環境の能力を超えるような量や濃度で行うことは、停止されなければならない。環境汚染に反対するすべての国の人々の正当な闘争は支持されなければならない。

(7)各国は、人間の健康に危険をもたらし、生物資源と海洋生物に害を与え、海洋の快適な環境を損ない、海洋の正当な利用を妨げるような物質による海洋の汚染を防止するため、あらゆる可能な措置をとらなければならない。

(8)経済及び社会の開発は、人にとって好ましい生活環境と労働環境の確保に不可欠なものであり、かつ、生活の質の向上に必要な条件を地球上に作りだすために必須のものである。

(9)低開発から起こる環境上の欠陥と自然災害は重大な問題になっているが、これは開発途上国の自らの努力を補うための相当量の資金援助及び技術援助の提供と、必要が生じた際の時宜を得た援助で促進された開発により、最もよく救済することができる。

(10)開発途上国にとって、一次産品及び原材料の価格の安定とそれによる十分な収益は環境の管理に不可欠である。生態学的なプロセスと並んで経済的な要素を考慮に入れなければならないからである。

(11)すべての国の環境政策は、開発途上国の現在又は将来の開発の可能性を向上させねばならず、その可能性に対して悪影響を及ぼすものであってはならず、すべての人のより良い生活条件の達成を妨げてはならない。また、環境上の措置によってもたらされる国内及び国際的な経済的帰結を調整することの合意に達するため、各国及び国際機関は適当な措置をとらなければならない。

(12)開発途上国の状態とその特別の必要性を考慮し、開発計画に環境保護を組み入れることから生ずる費用を考慮に入れ、さらに要求があったときは、この目的のための追加的な技術援助及び資金援助が必要であることを考慮し、環境の保護向上のため援助が供与されなければならない。

(13)合理的な資源管理を行い、環境を改善するため、各国は、その開発計画の立案に当たり国民の利益のために人間環境を保護し向上する必要性と開発が両立しうるよう、総合性を保ち、調整をとらなければならない。

(14)合理的な計画は、開発の必要性と環境の保護向上の必要性との間の矛盾を調整する必須の手段である。

(15)居住及び都市化の計画は、環境に及ぼす悪影響を回避し、すべての人が最大限の社会的、経済的及び環境上の利益を得るよう、立案されなければならない。これに関し、植民地主義者及び人種差別主義者による支配のため立案された計画は放棄されなければならない。

(16)政府によって適当と考えられ、基本的人権を害することのない人口政策は、人口増加率若しくは過度の人口集中が環境上若しくは開発上悪影響を及ぼすような地域、又は人口の過疎が人間環境の向上と開発を妨げるような地域で、実施されなければならない。

(17)国の適当な機関に、環境の質を向上する目的で、当該国の環境資源につき計画し、管理し、又は規制する任務が委ねられなければならない。

(18)科学技術は経済・社会の発展への寄与の一環として、人類の共通の利益のため環境の危険を見極め、回避し、制御すること、及び環境問題を解決することに利用されなければならない。

(19)環境問題についての若い世代と成人に対する教育は―恵まれない人々に十分に配慮して行うものとし―個人、企業及び地域社会が環境を保護向上するよう、その考え方を啓発し、責任ある行動を取るための基盤を拡げるのに必須のものである。マスメディアは、環境悪化に力を貸してはならず、すべての面で、人がその資質を伸ばすことができるよう、環境を保護改善する必要性に関し、教育的な情報を広く提供することが必要である。

(20)国内及び国際的な環境問題に関連した科学的研究開発は、すべての国特に開発途上国において推進されなければならない。これに関連し、最新の科学的情報及び経験の自由な交流は、環境問題の解決を促進するため支持され、援助されなければならない。環境に関連した技術は、開発途上国に経済的負担を負わせることなしに、広く普及されることを促進するような条件で提供されなければならない。

(21)各国は、国連憲章及び国際法の原則に従い、自国の資源をその環境政策に基づいて開発する主権を有する。各国はまた、自国の管轄権内又は支配下の活動が他国の環境又は国家の管轄権の範囲を越えた地域の環境に損害を与えないよう措置する責任を負う。

(22)各国は、自国の管轄権内又は支配下の活動が、自国の管轄権の外にある地域に及ぼした汚染その他の環境上の損害の被害者に対する責任及び補償に関する国際法を、更に発展せしめるよう協力しなければならない。

(23)国際社会において合意されるクライテリアであれ、国によって決定されるべき基準であれ、それぞれの国の価値体系を考慮することがすべての場合において重要である。最も進んだ先進国にとって妥当な基準でも開発途上国にとっては、不適切であり、かつ、不当な社会的費用をもたらすことがあり、このような基準の適用の限度についても考慮することが重要である。

(24)環境の保護と改善に関する国際問題は、国の大小を問わず、平等の立場で、協調的な精神により扱われなければならない。多国間取り決め、二国間取り決めその他の適当な方法による協力は、すべての国の主権と利益に十分な考慮を払いながら、すべての分野における活動から生ずる環境に対する悪影響を予防し、除去し、減少し、効果的に規制するため不可欠である。

(25)各国は、環境の保護と改善のため、国際機関が調整され能率的で力強い役割を果たせるよう、協力しなければならない。

(26)人とその環境は、核兵器その他すべての大量破壊の手段の影響から免れなければならない。各国は、適当な国際的機関において、このような兵器の除去と完全な破棄について、すみやかに合意に達するよう努めなければならない。
                           (1972年6月16日)
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 今日は、1954年(昭和29)に起きた近江絹糸争議でストライキの始まった日です。
 これは、昭和時代中期の1954年(昭和29)の6月2日~9月16日(105日間)に、近江絹糸紡績(現在のオーミケンシ)で起きた大規模な労働争議のことです。
 当時の近江絹糸紡績(従業員1万3000人)の労働者は、自社経営の近江高等学校生徒を工員のように使ったり、女子は結婚すると退社、男子も結婚すると転勤で、結婚すると退社か別居しかなく、寮生活の強制、信書の開封・私物検査の実施、外出制限、仏間での礼拝が強制されるなど「格子なき牢獄」といわれた前近代的労務管理・労働条件の改善を求めて起こしたもので、人権争議として世間の注目を集めました。
 この年の5月に自主的な労働組合が結成され、6月2日に組合の承認、宗教行事の強制反対、信書の開封・私物検査の即時停止、結婚・外出の自由、賃金体系の確立など22項目を会社側に要求したのです。しかし、6月4日に会社側が拒否したためストライキに突入、激しく対立して、その動きは全工場に拡大しました。
 全国の労働組合が支援するなど労使の全面的な対決となり、当初は、会社側が団体交渉を拒否し、中央労働委員会 (中労委) の斡旋などにも応じなかったので、企業内外から非難を浴びることになります。
 その結果、ようやく組合側の主張を認める中労委の第3次斡旋案を会社側が受諾して、105日間に及ぶ争議は終結しました。
 以下に、その時近江絹糸紡績労働組合が掲げた22項目の要求を載せておきます。

○近江絹糸紡績労働組合の22項目の要求
 1、我々の近江絹糸紡績労働組合を即時認めよ
 2、会社の手先である御用組合を即時解散せよ
 3、会社が指名せる労働者代表者の締結せる一切の規定を撤回せよ
 4、拘束八時間労働の確立 
 5、タイムレコーダーの即時復活と残業手当の支給、賃金体系の確立
 6、合理的な退職金、旅費、宿直費規定の設定
 7、有給休暇、生理休暇の完全実施
 8、食堂の完備、更衣室の新設、社宅並に寮設備の改善、拡充等福利厚生施設の充実
 9、宿直室の完備、専門宿直者、専門掃除夫及び各寮の専属炊事係即時配置
 10、仏教の強制絶対反対
 11、夜間通学等教育の自由を認めよ
 12、結婚の自由を認めよ
 13、ハイキング、音楽、映画サークル等一切の文化活動を認めよ
 14、労働強化を強制する各種対抗競技を廃止せよ
 15、人権を蹂りんした信書の開封、私物検査を即時停止せよ
 16、密告者褒賞制度、尾行等一切のスパイ活動強要をやめよ
 17、外出の自由を認めよ
 18、工場長に強制して行わせる月例首切反対
 19、各課最低必要人員の即時補充
 20、重役達の人格を無視した言動及び仕末書乱発の禁止
 21、自動車部員の社内寄宿を廃止し社外寮に引き移すこと
 22、自動車に対する傷害保険の即時加入
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 今日は、「測量の日」ですが、1949年(昭和24)に、「測量法」が制定・公布されたことに因んだものです。1989年(平成元)に、当時の建設省(現在の国土交通省)が、測量法の制定40周年を記念し、毎年6月3日を「測量の日」としました。
 現在日本各地で、これに関連した、以下のような各種イベントが開催されています。
○日本水準原点施設公開 5月24日(水) 東京・憲政記念館構内
○第39回 測量調査技術発表会 6月2日(金)四谷区民ホール
○「測量の日」記念ウォーキング大会及び歩測大会 6月3日(土)-4日(日)つくば市・国土地理院構内
○「測量の日」特別企画~遊んで学んで地図と測量の世界2017~ 6月4日(日) 地図と測量の科学館
○「測量の日」における功労者表彰 6月4日(日) 国土地理院
○第46回 国土地理院 報告会 6月7日(水) 東京・日経ホール
○「くらしと測量・地図」展 6月7日(水)-9(金) 新宿駅西口広場イベントコーナー
○地図地理検定 6月18日(日)・11月中旬 全国7都市   
○測量・地理空間情報 イノベーション大会 6月27日(火)-28日(水) 東京大学伊藤国際学術研究センター
など(地方ごとのイベントもいろいろあります)

☆「測量法」とは?
 測量法は1949年(昭和24)6月3日に法律第188号として制定され、以後何度かの改正を経て今日に至っています。
 この法律の目的は、測量を正確かつ円滑に行うことで、基本測量と公共測量に適用されるようになりました。内容は、基本測量及び公共測量の定義、測量標の設置及び保守、測量業務に携わる測量士や測量士補等の国家資格、成果物の取扱い、測量業者の登録、罰則などとなっています。
 その法律の構成は、以下のようです。
 第1章 - 総則(第1条 - 第11条)
 第2章 - 基本測量(第12条 - 第31条)
 第3章 - 公共測量(第32条 - 第45条)
 第4章 - 基本測量及び公共測量以外の測量(第46条・第47条)
 第5章 - 測量士及び測量士補(第48条 - 第54条)
 第6章 - 測量業者(第55条 - 第59条)
 第7章 - 補則(第59条の2 - 第60条)
 第8章 - 罰則(第61条 - 第66条)
 附則
 別表 別表第1(第51条の4関係)
 別表第2(第51条の4関係)

 以下に、「測量法」を一部(第一章総則)載せておきます。

○「測量法」(抄文)

 第一章 総則

  第一節 目的及び用語

(目的)

第一条 この法律は、国若しくは公共団体が費用の全部若しくは一部を負担し、若しくは補助して実施する土地の測量又はこれらの測量の結果を利用する土地の測量について、その実施の基準及び実施に必要な権能を定め、測量の重複を除き、並びに測量の正確さを確保するとともに、測量業を営む者の登録の実施、業務の規制等により、測量業の適正な運営とその健全な発達を図り、もつて各種測量の調整及び測量制度の改善発達に資することを目的とする。

(他の法律との関係)

第二条 土地の測量は、他の法律に特別の定がある場合を除いて、この法律の定めるところによる。

(測量)

第三条 この法律において「測量」とは、土地の測量をいい、地図の調製及び測量用写真の撮影を含むものとする。

(基本測量)

第四条 この法律において「基本測量」とは、すべての測量の基礎となる測量で、国土地理院の行うものをいう。

(公共測量)

第五条 この法律において「公共測量」とは、基本測量以外の測量で次に掲げるものをいい、建物に関する測量その他の局地的測量又は小縮尺図の調製その他の高度の精度を必要としない測量で政令で定めるものを除く。
一 その実施に要する費用の全部又は一部を国又は公共団体が負担し、又は補助して実施する測量

二 基本測量又は前号の測量の測量成果を使用して次に掲げる事業のために実施する測量で国土交通大臣が指定するもの
イ 行政庁の許可、認可その他の処分を受けて行われる事業

ロ その実施に要する費用の全部又は一部について国又は公共団体の負担又は補助、貸付けその他の助成を受けて行われる事業

(基本測量及び公共測量以外の測量)

第六条 この法律において「基本測量及び公共測量以外の測量」とは、基本測量又は公共測量の測量成果を使用して実施する基本測量及び公共測量以外の測量(建物に関する測量その他の局地的測量又は小縮尺図の調製その他の高度の精度を必要としない測量で政令で定めるものを除く。)をいう。

(測量計画機関)

第七条 この法律において「測量計画機関」とは、前二条に規定する測量を計画する者をいう。測量計画機関が、自ら計画を実施する場合には、測量作業機関となることができる。

(測量作業機関)

第八条 この法律において「測量作業機関」とは、測量計画機関の指示又は委託を受けて測量作業を実施する者をいう。

(測量成果及び測量記録)

第九条  この法律において「測量成果」とは、当該測量において最終の目的として得た結果をいい、「測量記録」とは、測量成果を得る過程において得た作業記録をいう。

(測量標)

第十条 この法律において「測量標」とは、永久標識、一時標識及び仮設標識をいい、これらは、左の各号に掲げる通りとする。
一  永久標識  三角点標石、図根点標石、方位標石、水準点標石、磁気点標石、基線尺検定標石、基線標石及びこれらの標石の代りに設置する恒久的な標識(験潮儀及び験潮場を含む。)をいう。

二 一時標識  測標及び標杭をいう。

三 仮設標識 標旗及び仮杭をいう。

2 前項に掲げる測量標の形状は、国土交通省令で定める。

3 基本測量の測量標には、基本測量の測量標であること及び国土地理院の名称を表示しなければならない。

(測量業)

第十条の二  この法律において「測量業」とは、基本測量、公共測量又は基本測量及び公共測量以外の測量を請け負う営業をいう。

(測量業者)

第十条の三  この法律において「測量業者」とは、第五十五条の五第一項の規定による登録を受けて測量業を営む者をいう。

    第二節 測量の基準

(測量の基準)

第十一条  基本測量及び公共測量は、次に掲げる測量の基準に従つて行わなければならない。
一  位置は、地理学的経緯度及び平均海面からの高さで表示する。ただし、場合により、直角座標及び平均海面からの高さ、極座標及び平均海面からの高さ又は地心直交座標で表示することができる。

二 距離及び面積は、第三項に規定する回転楕円体の表面上の値で表示する。

三 測量の原点は、日本経緯度原点及び日本水準原点とする。ただし、離島の測量その他特別の事情がある場合において、国土地理院の長の承認を得たときは、この限りでない。

四 前号の日本経緯度原点及び日本水準原点の地点及び原点数値は、政令で定める。

2 前項第一号の地理学的経緯度は、世界測地系に従つて測定しなければならない。

3 前項の「世界測地系」とは、地球を次に掲げる要件を満たす扁平な回転楕円体であると想定して行う地理学的経緯度の測定に関する測量の基準をいう。
一 その長半径及び扁平率が、地理学的経緯度の測定に関する国際的な決定に基づき政令で定める値であるものであること。

二 その中心が、地球の重心と一致するものであること。

三 その短軸が、地球の自転軸と一致するものであること。

                 
                  「法令データ提供システム」より
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 今日は、横浜港開港記念日です。これは、安政6年(1859年)6月2日(新暦では7月1日)に、前年締結された「日米修好通商条約」によって、横浜が開港されたことに因んだものでした。
 開港時には特別に祝賀行事などはなかったそうですが、翌年の6月2日の開港1周年記念で、港の人々が山車を引きまわし 手踊りをして、祝賀したのが横浜開港記念日の始まりとされています。
 現在は、毎年6月2日が横浜開港記念日と定められ、この日の前後に横浜開港祭が催されて、今年で36回目を迎えました。開港祭ライブ(アーティストによるスペシャルライブやダンスステージ、お笑いライブなど)、ドリームオブハーモニー(一般公募で集まった多数の横浜市民が特設ステージで大合唱する)、開港祭ストリート(横浜発祥の物や文化を紹介し、物販や展示がある)、花火大会などが行われます。

☆「日米修好通商条約」とは?
 江戸時代後期の1858年7月29日(安政5年6月19日)に、江戸幕府とアメリカ合衆国との間で結んだ通商条約です。神奈川(現在の横浜市)で、幕府側は下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震、アメリカ側は総領事ハリスとの間で調印され、1860年5月22日(萬延元年4月3日)にアメリカ合衆国のワシントンで、批准署が交換されて発効しました。条約14ヵ条と貿易章程7則からなり、内容は、「日米和親条約」で既に開かれていた箱館の他、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港(ただし下田は鎖港)、公使(首都)・領事(開港場)の駐在、江戸・大坂の開市、開港場の外国人居留地の設定、内外貨幣の同種同量通用、アメリカ人の信教の自由、自由貿易の原則を認めましたが、領事裁判権を規定し、片務的関税協定(関税自主権の否定)など、日本側に不利な不平等条約だったのです。引き続き、幕府は同年中に、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様な修好通商条約の締結を余儀なくされました。この条約を結ぶ際に、朝廷の許しを得なかったので朝廷と幕府の対立を激化させ、幕府の対応を非難する人々が現れるようになります。
 以下に、「日米修好通商条約」(日本語版全文)と現代語訳を掲載しておきます。

〇日本國米利堅合衆國修好通商條約(日米修好通商条約)<日本語版全文>

安政五年戊午六月十九日(西曆千八百五十八年第七月二十九日)於江戶調印(日、英、蘭文)

萬延元年庚申四月三日(西曆千八百六十年第五月廿二日)於華盛頓本書交換

帝國大日本大君と亞米利加合衆國大統領と親睦の意を堅くし且永續せしめん爲に兩國の人民貿易を通する事を處置し其交際の厚からん事を欲するか爲に懇親及ひ貿易の條約を取結ふ事を決し日本大君は其事を井上信濃守岩瀬肥後守に命し合衆國大統領は日本に差越たる亞米利加合衆國のコンシュルゼネラール、トウンセント、ハルリスに命し雙方委任の書を照應して下文の條々を合議決定す

 第一條

向後日本大君と亞米利加合衆國と世々親睦なるへし

日本政府は華盛頓に居留する政事に預る役人を任し又合衆國の各港の內に居留する諸取締の役人及ひ貿易を處置する役人を任すへし其政事に預る役人及ひ頭立たる取締の役人は合衆國に到着の日より其國の部內を旅行すへし○合衆國の大統領は江戶に居留するヂプロマチーキ、アゲントを任し又此約書に載る亞米利加人民貿易の爲に開きたる日本の各港の內に居留するコンシュル又はコンシュラル、アゲント等を任すへし其日本に居留するヂプロマチーキ、アゲント並にコンシュル、ゼネラールは職務を行う時より日本國の部內を旅行する免許あるへし

 第二條

日本國と歐羅巴中の或る國との間に差障起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒と爲りて扱ふへし

合衆國の軍艦大洋にて行過たる日本船へ公平なる友睦の取計あるへし且亞米利加コンシュルの居留する港に日本船の入る事あらは其各國の規定によりて友睦の取計あるへし

 第三條

下田箱館の港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くへし

 神奈川 午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日

 長崎 午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日

 新潟 午三月より凡二十箇月の後より 西洋紀元千八百六十年一月一日

 兵庫 午三月より凡五十六箇月後より 西洋紀元千八百六十三年一月一日

  若し新潟港を開き難き事あらは其代りとして同所前後に於て一港を別に撰ふへし

神奈川港を開く後六箇月にして下田港は鎖すへし此箇條の內に載たる各地は亞米利加人に居留を許すへし居留の者は一箇の地を價を出して借り又其所に建物あれは之を買ふ事妨なく且住宅倉庫を建る事をも許すへしと雖之を建るに托して要害の場所を取建る事は決して成ささるへし此掟を堅くせん爲に其建物を新築改造修補なと爲る事あらん時には日本役人是を見分する事當然たるへし

亞米利加人建物の爲に借り得る一箇の場所並に港々の定則は各港の役人と亞米利加コンシュルと議定すへし若し議定し難き時は其事件を日本政府と亞米利加ヂプロマチーキ、アゲントに示して處置せしむへし

其居留場の圍に門墻を設けす出入自在にすヘし

 江戶 午三月より凡四十四箇月の後より

     千八百六十二年一月一日

 大阪 同斷凡五十六箇月の後より

     千八百六十三年一月一日

右二箇所は亞米利加人只商賣を爲す間にのみ逗留する事を得へし此兩所の町に於て亞米利加人建家を價を以て借るへき相當なる一區の場所並に散步すへき規程は追て日本役人と亞米利加のヂプロマチーキ、アゲントと談判すへし

雙方の國人品物を賣買する事總て障りなく其拂方等に付ては日本役人是に立會はす諸日本人亞米利加人より得たる品を賣買し或は所持する倶に妨なし○軍用の諸物は日本役所の外へ賣るへからす尤外國人互の取引は差構ある事なし此箇條は條約本書爲取替濟の上は日本國內へ觸渡すへし

米並に麥は日本逗留の亞米利加人並に船に乘組たる者及ひ船中旅客食料の爲の用意は與ふとも積荷として出する事を許さす○日本產する所の銅餘分あれは日本役所にて其時々公けの入札を以て拂渡すへし○在留の亞米利加人日本の賤民を雇ひ且諸用事に充る事を許すへし

 第四條

總て國地に入出の品々別册の通日本役所へ運上を納むへし

日本の運上所にて荷主申立ての價を奸ありと察する時は運上役より相當の價を付け其荷物を買入る事を談すへし荷主若し之を否む時は運上所より付たる價に從て運上を納むへし承允する時は其價を以て直に買上へし

合衆國海軍用意の品神奈川長崎箱館の內に陸揚し庫內に藏めて亞米利加番人守護するものは運上の沙汰に及はす若し其品を賣拂ふ時は買入る人より規定の運上を日本役所に納むへし

阿片の入嚴禁たり若し亞米利加商船三斤以上を持渡らは其過量の品は日本役人之を取上へし

入の荷物定例の運上納濟の上は日本人より國中に送すとも別に運上を取立る事なし亞米利加人入する荷物は此條約に定めたるより餘分の運上を納る事なく又日本船及ひ他國の商船にて外國より入せる同し荷物の運上高と同樣たるへし

 第五條

外國の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すへし、(金は金銀は銀と量目を以て比較するを云)雙方の國人互に物價を償ふに日本と外國との貨幣を用ゆる妨なし

日本人外國の貨幣に慣されは開港の後凡一箇年の間各港の役所より日本の貨幣を以て亞米利加人願次第引換渡すへし向後鑄替の爲め分を出すに及はす日本諸貨幣は(銅錢を除く)出する事を得並に外國の金銀は貨幣に鑄るも鑄さるも出すヘし

 第六條

日本人に對し法を犯せる亞米利加人は亞米利加コンシュール裁斷所にて吟味の上亞米利加の法度を以て罰すへし亞米利加人へ對し法を犯したる日本人は日本役人糺の上日本の法度を以て罰すへし日本奉行所亞米利加コンシュル裁斷所は雙方商人逋債等の事をも公けに取扱ふへし

都て條約中の規定並に別册に記せる所の法則を犯すに於てはコンシュルヘ申逹し取上品並に過料は日本役人へ渡すへし兩國の役人は雙方商民取引の事に付て差構ふ事なし

 第七條

日本開港の場所に於て亞米利加人遊步の規程左の如し

 神奈川 六郷川筋を限として其他は各方へ凡十里

 箱館 各方へ凡十里

 兵庫 京都を距る事十里の地へは亞米利加人立入さる筈に付き其方角を除き各方へ十里且兵庫に來る船々の乘組人は猪名川より海灣迄の川筋を越ゆへからす

  都て里數は各港の奉行所又は御用所より陸路の程度なり(一里は亞米利加の四千二百七十五ヤルド日本の凡三十三町四十八間一尺二寸五分に當る)

 長崎 其圍にある御料所を限りとす

 新潟は治定の上境界を定むへし

亞米利加人重立たる惡事ありて裁斷を請又は不身持にて再ひ裁許に處せられし者は居留の場所より一里外に不可出其者等は日本奉行所より國地退去の儀を其地在留の亞米利加コンシュルに逹すへし

其者共諸引合等奉行所並にコンシュル糺濟の上退去の期限猶豫の儀はコンシュルより申立に依て相協ふへし尤其期限は決して一箇年を越ゆへからす

 第八條

日本に在る亞米利加人自ら其國の宗法を念し禮拜堂を居留場の內に置も障りなし並に其建物を破壤し亞米利加人宗法を自ら念するを妨る事なし亞米利加人日本人の堂宮を毀傷する事なく又決して日本神佛の禮拜を妨け神體佛像を毀る事あるへからす

雙方の人民互に宗旨に付ての爭論あるへからす日本長崎役所に於て蹈繪の仕來は旣に廢せり

 第九條

亞米利加コンシュルの願に依て都て出奔人並に裁許の場より逃去し者を召捕又はコンシュル捕へ置たる罪人を獄に繋く事協ふへし且陸地並に船中に在る亞米利加人に不法を戒め規則を遵守せしむるか爲にコンシュル申立次第助力すへし右等の諸入費並に願に依て日本の獄に繋きたる者の雜費は都て亞米利加コンシュルより償ふへし

 第十條

日本政府合衆國より軍艦蒸滊船商船鯨漁船大砲軍用器並に兵器の類其他要需の諸物を買入れ又は製作を誂へ或は其國の學者海陸軍法の士諸科の職人並に船夫を雇ふ事意の儘たるへし

都て日本政府注文の諸物品は合衆國より送し雇入るゝ亞米利加人は差支なく本國より差送るへし合衆國親交の國と日本國萬一戰爭ある間は軍中制禁の品々合衆國より出せす且武事を扱ふ人々は差送らさるへし

 第十一條

此條約に添たる商法の別册は本書同樣雙方の臣民互に遵守すへし

第十二條 安政元年寅三月三日(卽千八百五十四年三月三十一日)神奈川に於て取替したる條約の中此條々に齟齬する廉は取用ひす同四年巳五月二十六日(卽千八百五十七年六月十七日)下田に於て取替したる約書は此條約中に盡せるに依て取捨へし

日本貴官又は委任の役人と日本に來れる合衆國のヂプロマチーキアゲントと此條約の規則並に別册の條を全備せしむる爲に要すへき所の規律等談判を遂くへし

 第十三條

今より凡百七十一箇月の後(卽千八百七十二年七月四日に當る)雙方政府の存意を以て兩國の內より一箇年前に通逹し此條約並に神奈川條約の內存し置く箇條及ひ此書に添たる別册共に雙方委任の役人實驗の上談判を盡し補ひ或は改る事を得へし

 第十四條

右條約の趣は來る未年六月五日(卽千八百五十九年七月四日)より執行ふへし此日限或は其以前にても都合次第に日本政府より使節を以て亞米利加華盛頓府に於て本書を取替すへし若無餘儀子細ありて此期限中本書取替し濟すとも條約の趣は此期限より執行ふへし

本條約は日本よりは大君の御名と奥印を署し高官の者名を記し印を調して證とし合衆國よりは大統領自ら名を記しセクレタリース、ファンスター、と共に自ら名を記し合衆國の印を鈐して證とすへし尤日本語英語蘭語にて本書寫共に四通を書し其譯文は何れも同義なりと雖蘭語譯文を以て證據と爲すへし此取極の爲安政五年午六月十九日(卽千八百五十八年亞米利加合衆國獨立の八十三年七月二十九日)江戶府に於て前に載たる兩國の役人等名を記し調印する者也

   井上信濃守 花押

   岩瀬肥後守 花押

   タウンセンド、ハルリス 手記

                     外務省編「舊條約彙纂」第一卷第一部より

<現代語訳>
アメリカ合衆国と日本との間の通商条約

署名を拝命、1858年7月29日 [1860年5月22日、ワシントンで批准書が交換される]

アメリカ合衆国大統領と日本の陛下は、首尾よく現在2つの国の間に存する安定して長続きする基礎を構築し、平和と友好の関係を樹立することを望んで励ますことにより、それぞれの市民の産業と貿易を奨励、促進するための修好通商条約と商取引を締結することに決した。アメリカ合衆国大統領は、日本に遣わされたアメリカ合衆国総領事タウンゼント ・ ハリスに命じ、日本の陛下は、井上信濃守、および 岩瀬肥後守に命じ、それぞれ全権委任されていることを互いに伝達し、それらを確認した後、次の条約に同意していると結論する。

第1条
今後、アメリカ合衆国と日本(将軍とその後継者)は永続的な平和と友好がなければならない。

アメリカ合衆国大統領は、江戸に駐在する外交官、またはこの条約によってアメリカ合衆国に開かれている日本の港の一部またはすべてに存在する領事、領事館員を選任する。アメリカ合衆国の外交官と領事、領事館員は、公務に携わった時から、日本帝国のすべての部分で自由に移動する権利を有する。日本政府はアメリカ合衆国の港の一部またはすべてのワシントン州に駐在する外交官や領事領員を選任できる。外交官と日本国領事館員は着任した時から、アメリカ合衆国のすべての部分で自由に旅行ができる。

第2条
アメリカ合衆国大統領は、日本政府の要請によって、日本政府とあらゆるヨーロッパ諸国間で生じる食い違った事項について、親密な調停者として行動する。

アメリカ合衆国の軍艦は、公海上において、行過たる日本の船舶への友好的な援助と支援が、中立性に違反することがなく行うことができるものとする。アメリカ合衆国領事が存在するすべての港に、日本の船が寄港することがあれば、それぞれの国の法律で許可される、友好的な援助がそれらに与えられるものとする。

第3条
下田と函館の港に追加して、次の港をそれぞれの日程で開港する。
 神奈川、1859年7月4日
 長崎、1859年7月4日
 新潟、1860年1月1日
 兵庫、1863年1月1日
 新潟が港としては適さない場合は、日本の西海岸の別の港に代わるように、両国政府によって選定する。神奈川の開港後 6 ヶ月で下田港はアメリカの市民の住居と貿易の場所としては閉鎖する。前述の港や街に、アメリカの市民が永住する土地を借地し、その上で、建物を購入する権利を有するし、住居と倉庫を建てることができる。日本の当局は、住居や倉庫の建物の口実の下で、建ててはならない要塞や軍事的な場所となっていないかを見聞し、建立されている建物の変更、または修復の際には、検査する権利がある。アメリカ人が居住する建物や占有する港等の場所はアメリカ領事とそれぞれの場所の責任者によって、決められるものととするが、彼らが同意できない場合は、日本政府とアメリカ外交官によって解決しなければならない。

何かアメリカ人の居住地のまわりで壁、フェンスやゲートなどが建立され、自由な出入りを制限する措置をとらないものとする。

1862年1月1日から、アメリカ人は江戸の都市に居住を認められ、1863年1月1日からは大坂での交易も認められる。これら2つの都市のそれぞれで居住地域と行動許可区域については、アメリカ外交官および日本の政府によって取り決めるものとする。アメリカ人は自由に、政府係官の介入を経ずに、任意の日本人から物品を購入することができる。また、アメリカ人は任意のものを販売し、日本人のすべての階級が購入、売却、保持、またはアメリカ人が販売したすべてのものを使用できるものとする。

日本政府はこの条約の批准書が交換されると同時に、日本帝国のすべての部分でこの条項が公開されるものとする。戦争の軍需品は、日本政府のみへの販売とするが、外国人相互の販売には関わらない。

米や小麦の日本から貨物輸出はしてはならないないものとするが、日本の居住者としてのすべてのアメリカ人、船舶乗組員、乗客には、十分な食糧等が供給されなければならない。日本政府は、公共の入札によって、生成される銅の過剰量を販売できる。日本在住のアメリカ人は、使用人、または他の能力を持つ日本人を雇う権利がある。

第4条
日本に陸揚げされたすべての商品と貨物に対しては、関税を納付しなければならない。日本の生産物の輸出は、別紙の通りに、関税を支払わなくてはならない。

日本の税関吏が、所有者によって商品が販売される価格に不服がある場合、それらの価格を設定して商品を提供させることができる。所有者は、申し出の受け入れを拒否する場合は、相当な関税を払わせ、所有者によって提供が受け入れられる場合は、遅滞なく、任意の軽減や割引なしに購入代金を納付しなければならない。

神奈川、函館、長崎に陸揚げした、アメリカ合衆国海軍の使用のために供給するもの、アメリカ政府の倉庫に格納されているものには、関税支払い義務はない。しかし、これらが日本で販売されている場合は、購入者が日本当局に適切な関税を納付しなければならない。

アヘンの輸入は禁じられているが、貿易の目的で日本に来ているアメリカ船が積載している3 斤 (4 ポンド常衡) 以上の重量を持つアヘンは、その余剰量を日本当局によって差し押さえ、廃棄する。日本とでは、この条約の定める関税を支払って輸入されるすべての商品は、消費税、通行税等の支払いなしに日本国内の任意の場所に輸送できる。

アメリカ人は、日本に輸入される商品に対して、条約によって定めたよりも、高い関税を納付しない。また、アメリカ人の船舶は、日本または他のどの国の船舶で輸入した商品の同様なものに課されるよりも高い関税は納付しない。

第5条
すべての外国通貨は現在の日本で、同じ価値の日本通貨の対応する重量のものとして通用する。アメリカ人と日本人は、お互いに支払いをする場合は、外国通貨か日本通貨を自由に使用できる。

日本人は外国通貨の価値を知るために、いくらかの時間が経過した後、日本政府は、各港開港後 1 年を経過後は、アメリカ人に対して、等しい価値をを与えられている日本通貨と、割引なしで引き換えることができる。日本の銅通貨を除いて、すべての日本通貨と外国通貨としていない金と銀は、日本から輸出できる。

第6条
アメリカ人の日本人に対する犯罪を審判しなければならない時は、アメリカ合衆国領事裁判所で裁判を行い、アメリカの法律に従って処罰される。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本当局によって審判し、日本の法律に従って処罰される。アメリカ合衆国領事裁判所はアメリカの市民になされるような方法で日本人関係者に開示され、損失を公平に回収されるように取り扱われられ、日本の裁判所も同様に取り扱わられることとする。

この条約、または添付の貿易を規制する規約の違反に対する罰則は、アメリカ合衆国領事裁判所へ提訴しなければならないものとし、これについてすべて没収や請求したものは、回収されて日本当局に手渡されるものとする。

アメリカ合衆国または日本政府のどちらも、それぞれの市民による商品取引契約の債務の支払いについての責任を負うものではない。

第7条
日本の開港地では、次の範囲内で、アメリカ人は希望するところを自由に往来してよいものとする。

神奈川は、六郷川 (川崎と品川の間で江戸湾に注ぐ) までと他の方向に10 里。

函館、任意の方向に10里。

兵庫、任意の方向に10里であるが、京都には10里以上近づいていてはならない。兵庫に寄港した船の乗組員は、兵庫と 大坂湾に注ぐ川である猪名川を横断してはならない。内陸部の距離測定は御用所、または前述の港のそれぞれの奉行所からとし、一里は、アメリカの尺度である4,272 ヤードに等しいとされている。

長崎、アメリカ人はその周辺の日本の領地の任意の部分に行くことが可能である。新潟の境界や、それに代えることができる開港地については、アメリカ合衆国外交官および日本政府の合意によって決められる。重罪の有罪判決をされた人、または2回の軽罪の有罪判決を受けた人は、彼らのそれぞれの居住場所から1里以上の内陸に行ってはならないものとし、有罪判決を受けたすべてのアメリカ人を日本での永久的な居住権を失う対象として、日本の当局は、国外退去を要請してよいものとする。

アメリカ合衆国領事館は、各ケースの状況を審査後、問題を解決するため国外退去させるのに必要となる妥当な時間を計算し、許可される時間(猶予期間)を決定しなければならないが、この時間は、いずれにせよ一年を超えてはならない。

第8条
在日アメリカ人は、自分たちの宗教の自由を行使する目的のため、適切な礼拝堂を建てる権利を許可されなければならない。これらの建物を損傷してはならないし、アメリカ人の宗教上の礼拝に対する侮辱が行われてもならない。アメリカ人も日本の寺院または神社を傷つけたり、日本の宗教的な儀式やその礼拝の対象を侮辱、傷害する行為を行ってはならない。

アメリカ人と日本人は共に宗教的な敵意を励起することがないものとする。日本政府はすでに宗教的な象徴の踏み絵を廃止している。

第9条
アメリカ領事によって要求された場合、日本の当局は、司法からのすべての脱走者や逃亡者を逮捕し、領事によって逮捕されたすべての人を刑務所に収容し、アメリカ合衆国の法令の遵守を強制する権利をその土地にいるアメリカ領事に与え、その護送のための支援をするものとする。アメリカ領事は、このようなすべての措置および捕虜、監禁、保持に必要な経費を補償し、すべてのケースでその費用を納付しなければならない。

第10条
日本政府は、アメリカ合衆国より、戦艦、商船、捕鯨船、大砲、戦争のための軍需品や武器のすべての種類の必要とするものを購入したり、製造を依頼できるものとする。これに関し、アメリカ合衆国に従事する科学者、軍人、そのサービスに関するすべての職人と船員に依頼する権利を有する。日本政府の購入品は、アメリカ合衆国から輸出できる可能性があり、それらに関わって従事するすべてのアメリカ人は、自由にアメリカ合衆国から出国できるものとするが、アメリカ合衆国と親交のある国と日本国が万一戦争となった間は、戦時禁制品の品々は輸出できず、また海軍や軍事関係者は提供できない。

第11条
貿易の規制のため追加された添付書類は、この条約の一部を形成するものとしてみなされ、この条約の両方の契約当事者とその市民とに対して、同様に効力を持つとしなければならない。

第12条
ペリー提督によって、1854年3月31日に神奈川で署名された条約の規定の内、この条約の規定と矛盾するものは失効する。1857年6月17日にアメリカ合衆国総領事と下田奉行によって取り交わされた条約のすべては、この条約の条項として組み込まれているので失効する。

日本政府が任命するものとその目的のため日本に来たアメリカ合衆国外交官は、この条約の規定、および添付の貿易を規制する定款が、全面的かつ完全な効果があるように運用する必要のために、お互いに連携してそのような規則および規定を実現する権限を持つものとする。

第13条
1872年7月4日以降、アメリカ合衆国または日本政府の希望により、1 年間の事前通告の後、この条約と日米和親条約としての有効な部分、ここに添付された貿易の規制と共に、この目的のために両国に任命された委員会による改正の対象となり、そこに挿入する権限を与えられるが、このような改正は望ましいものであると証明されなければならない。

第14条
この条約は、1859年7月4日をもって発効するが、その期日の以前に同様の批准書をワシントン市で交換されなければならない。しかし、予期せぬ事由から批准書を交換することができない場合でも、上記の日付で条約は発効するものとする。

アメリカ合衆国側の批准の行為は、アメリカ合衆国の大統領の署名によって確認、国務長官によって副署名し、アメリカ合衆国の国璽をもって調印する。

日本側の批准の行為は、将軍及び彼の高官に相当するものの署名・捺印によって、調印する。

この条約は 4 通複写し、英語、日本語、オランダ語の言語のものは、同等の意思を持つものとして実行されるが、オランダ語版は、正本であるとみなされる。

上記の全権代表は、江戸において1858 年7月29日、アメリカ合衆国の第83回独立の年、日本の年号では安政5年6月19日に対応する日、ここで設定している署名と捺印をする。

(L. S.)タウンゼント ・ ハリス

ソース:ガビンス、j. h.日本、1853-1871 年の進行状況。オックスフォード: クラレンドン出版物、1911。

                      英語の原文より訳しました。
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