ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、奈良時代の743年(天平15)に、聖武天皇が東大寺大仏造立の詔を発した日ですが、新暦では11月5日となります。
 東大寺大仏(像高14.87m)は、正式には盧舎那仏像と呼び、東大寺金堂(大仏殿)の本尊となっています。
 聖武天皇により743年(天平15年10月5日)に造像が発願され、745年(天平17)から実際の造像が開始されました。747年(天平19年9月29日)から大仏の鋳造が始まり、749年(天平勝宝元年10月24日)に鋳造が終了、752年(天平勝宝4年)に開眼供養会が実施されましたが、参列者は1万数千人に及んだとのことです。これには、約500トンの銅が使用され、のべ260万人が関わったとされる大工事ででした。
 しかし、平安時代末期の1180年(治承4)の平重衡の兵火によって焼失し、東大寺も伽藍の主要部を失い、重源らが奔走して、東大寺と大仏を再興します。
 さらに、戦国時代の1567年(永禄10)に、松永久秀の兵火によって焼失したものの、復興事業はなかなか進まず、ようやく江戸時代になって、公慶が江戸幕府から大仏再興のための勧進の許可を得て、1691年(元禄4)に再興されました。
 従って、台座蓮弁の一部のみが当初のもので、胴部は鎌倉時代、頭部は江戸時代元禄期の鋳造となっています。
 尚、1958年(昭和33)2月8日に国宝に指定されました。

〇「東大寺」とは?
 奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇の命により建立された寺で、盧舎那仏(奈良の大仏)を本尊としています。
 何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。
 しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。
 しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化も凝縮されているのです。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。
 また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。
 尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

☆『続日本紀』の「大仏造立の詔」の記述より

<原文>
天平十五年十月辛巳(丁卯朔十五)冬十月辛巳。
詔曰。
朕以薄徳、恭承大位。志存兼済。勤撫人物。雖率土之浜、已霑仁恕。而普天之下、未浴法恩。誠欲頼三宝之威霊、乾坤相泰。修万代之福業、動植咸栄。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。発菩薩大願、奉造盧舍那仏金銅像一躯。尽国銅而鎔象。削大山以構堂。広及法界、為朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成、心也難至。但恐徒有労人、無能感聖。或生誹謗、反墮罪辜。是故、預知識者。懇発至誠。各招介福。宜毎日三拝盧舍那仏。自当存念各造盧舍那仏也。如更有人、情願持一枝草一把土助造像者。恣聴之。国郡等司、莫因此事、侵擾百姓強令収斂。布告遐邇、知朕意矣。

<読み下し文>
天平十五年十月辛巳(丁卯朔十五)冬十月辛巳。
詔して日く。
朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。志兼済に存し、勤めて人物を撫す。率土の浜、已に仁恕に霑うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に浴さず。誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かに、万代の福業を修めて動植咸く栄えんことを欲す。粤に天平十五年歳は癸未に次る十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして、朕が知識と為し、遂には同じく利益を蒙りて共に菩提を致さしめん。それ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る。事や成り易き心や至り難き。但恐らくは、徒に人を労すること有て能く聖を感ずることなく、或は誹訪を生じて罪辜に堕せんことを。是の故に知識に預る者は、懇ろに至誠を発して、各介福を招き、宜く日毎に盧舎那仏を三拝すべし。自ら当に念を存し各盧舎那仏を造るべし。如し更に人の一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情願刷る者有らば、恣に聴せ。国郡等の司、此の事に因りて、百姓を侵擾し、強に収斂せしむること莫。遐邇に布告して、朕が意を知らしめよ。

【注釈】  
[1]薄徳:はくとく=徳の少ないこと。寡徳。
[2]大位を承く:たいいをうく=天皇の位につくこと。
[3]志兼済に存し:こころざしせんせいにそんし=人々を平等に救う事を志し。
[4]人物を撫す:じんぶつをぶす=人民を慈しむ。
[5]率土の浜:そつとのひん=陸地と海との接する果て。また、国土。
[6]仁恕:じんじょ=情け深く、思いやりがあること。
[7]霑う:うるおう=豊かになる。ゆとりがでる。
[8]普天の下:ふてんのもと=天下。全世界。
[9]法恩:ほうおん=仏の恩徳。
[10]三宝:さんぼう=仏と、仏の教えである法と、その教えを奉じる僧の三つの宝。仏・法・僧。
[11]乾坤相泰かに:けんこんあいやすらかに=天下が安泰であること。国家の泰平を保つこと。
[12]万代の福業:ばんだいのふくぎょう=万代に続く善因。
[13]動植咸く栄えん:どうしょくことごとくさかえん=命あるものすべてが栄える。
[14]歳:はし=木星のこと。
[15]菩薩の大願:ぼさつのたいがん=仏教を興隆して衆生を救おうという願い。
[16]盧舎那仏:るしゃなぶつ=華厳宗の中心仏で、仏の知恵の広大無辺なことを象徴している。
[17]金銅像:こんどうぞう=金で鍍金した銅製の像。
[18]法界:ほうかい=広大な宇宙。全世界。
[19]知識:ちしき=造寺・造仏・写経などの仏教興隆のための協力者。または、その集団。
[20]利益:りやく=仏恩のこと。
[21]菩提:ぼだい=仏の悟りの境地。仏教の正しい悟り。
[22]聖:せい=仏の尊さ。
[23]誹訪:ひぼう=悪口。
[24]罪辜:ざいこ=罪に陥る。
[25]侵擾:しんじょう=攻め込んで乱すこと。侵し乱すこと。
[26]収斂:しゅうれん=収奪。
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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権返上し、大政奉還された日ですが、新暦では11月9日となります。
 大政奉還は、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌日朝廷がそれを許可した政治的事件です。
 公武合体派の前土佐藩主山内豊信の建白により、慶喜は、幕府有司に意見を聴き、13日に在京の40藩の重臣(諸侯)を二条城大広間に集めて意見を求め、翌14日に「大政奉還の上表文」を朝廷に出しました。
 しかし、大政奉還後に想定された諸侯会議が開催されない内に、討幕派による王政復古のクーデターが起き、慶喜の辞官納地を決定し、戊辰戦争へと向かうことになります。

〇大政奉還の上表文 (全文) 1867年11月9日(慶応3年10月14日)

大政奉還の上表文  

臣慶喜、謹而皇國時運之沿革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解キ相家權ヲ執リ、保平之亂政權武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百餘年子孫相承。臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑當ヲ失フコト不少。今日之形勢ニ至候モ、畢竟薄德之所致、不堪慚懼候、況ヤ當今、外國之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝權一途ニ出不申候而ハ、綱紀難立候間、從來之舊習ヲ改メ、政權ヲ朝廷ニ奉歸、廣ク天下之公議ヲ盡シ、聖斷ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海外萬國ト可並立候。臣慶喜國家ニ所盡是ニ不過ト奉存候。乍去猶見込之儀モ有之候得ハ、可申聞旨、諸侯ヘ相達置候、依之此段謹而奏聞仕候。以上。

                      「維新史」より

<現代語訳>

大政奉還の上表

天皇の臣下である慶喜が、謹んで皇国の時運の変遷を考えてみますと、昔天皇の政治が乱れ藤原氏が権力を握り、保元・平治の乱を機に政権が武家に移ってから、私の祖先(徳川家康)に至りさらに朝廷の寵愛を受け、二百余年も子孫が将軍職を受け継いできました。そして私がその職を継いだのですが、行政や司法において当を得ないことが少なくないのです。今日の形勢になりましたのも、結局は私の不徳の致すところで、恥じ入り恐れるばかりです。まして最近は、外国との交際が日々盛んになり、いよいよ朝廷に権力が統一されなければ、国家を治めて保持することが難しくなりましたから、従来の旧習を改め、政権を朝廷にお返しし、広く天下の議論をつくし、天皇のご英断を仰ぎ、心を一つにして協力し、皇国を守っていったならば、必ず海外諸国と肩を並べることができるでしょう。天皇の臣下である慶喜が国家につくすことはこれ以上のものはないと考えます。しかしながらなお今後どうすべきかの意見があったならば、聞くので申し述べよと、諸大名に伝えてあります。これを以て本件につき謹んで申し上げます。以上

【注釈】
[1]臣慶喜:しんよしのぶ=江戸幕府第15代将軍徳川慶喜の自称。
[2]皇國:こうこく=天皇の国、つまり日本を表す。
[3]王綱:おうこう=天皇の政治。
[4]紐ヲ解キ:ちゅうをとき=乱れること。
[5]相家:しょうか= 大臣家(藤原氏)。
[6]權ヲ執リ:けんをとり=権力を握ること。
[7]保平之亂:ほへいのらん=保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)。
[8]武門:ぶもん=武士の家筋。武家。
[9]祖宗:そそう=徳川氏の祖先(初代将軍徳川家康のこと)。
[10]寵眷:ちょうけん=寵愛して特別に目をかけること。寵愛を受けること。
[11]政刑:せいけい=政治と刑罰、つまり行政と司法のこと。
[12]畢竟:ひっきょう=結局。要するに。
[13]薄德:はくとく=徳の少ないこと。徳のうすいこと。
[14]慚懼:ざんく=恥じ、おそれること。
[15]朝權:ちょうけん=朝廷の権力。
[16]綱紀:こうき=国家を治める大法と細則。国家を治めること。
[17]聖斷:せいだん=天皇の裁断。
[18]同心協力:どうしんきょうりょく=心を一つにして協力すること。
[19]萬國:ばんこく=世界の国々。あらゆる国。
[20]見込之儀:みこみのぎ=どのようにすべきかの意見。
[21]可申聞旨:もうしきくべきむね=申し述べるように。
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 華岡青洲が、1804年(文化元)に、世界初の麻酔薬を使った手術に成功した日で、日本麻酔科学会がこの日を「麻酔の日」に制定していますが、新暦では11月14日となります。
 華岡青洲は、江戸時代後期に活躍した外科医で、諱は震(ふるう)、字は伯行、通称は雲平と言いました。
 1760年(宝暦10年10月23日)に、紀伊国上那賀郡平山(現在の和歌山県紀の川市)の医家華岡直道の長男として生まれます。
 父に医術の手ほどきを受け、1782年(天明2)に22歳で京都に上って古医方の内科を吉益南涯に、オランダ流外科を大和見立 に学びました。
 3年後に帰郷して、家業を継ぎ、内科と外科を統一した「内外合一」を目指します。手術時の患者の痛みを和らげ、救命したいと麻酔薬の開発を始め、トリカブト、チョウセンアサガオ (マンダラゲ) を主成分とした、経口麻酔剤の麻沸湯(通仙散)を開発しました。
 それを利用し、1804年(文化元年10月13日)日本で最初に、麻酔下での乳癌摘出術を実施するに至ります。この他に乳癌手術だけでも150例ほど行ないました。
 その後、紀州藩の懇請で在宅のまま、藩の奥医師まで勤めます。華岡流外科を樹立し、1,000人あまりの弟子を育てましたが、1835年(天保6年10月2日)に、76歳で亡くなりました。
 『瘍科神書』『乳岩弁』など門人の記録した多くの口授写本が伝わっています。
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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、「国会開設の勅諭」が出された日です。
 これは、明治天皇が出した勅諭で、憲法の制定と国会の一刻も早い開設を主張する自由民権運動などに対し、明治のはじめから漸進的に立憲政体を樹立のため、元老院や府県会を設置してきたことに言及し、9年後の1890年(明治23)を期して、議員を招集して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明したものです。
 官僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔したもので、憲法は政府官僚起草の原案を天皇自身が裁定し公布するとの姿勢が明示され、自由民権運動の尖鋭化を抑えようとしたものでもありました。
 これによって、1889年(明治22)2月11日の大日本帝国憲法の発布、1890年(明治23)11月29日の帝国議会開設に繋がっていきます。

〇「国会開設の勅諭」(全文)

勅諭

朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緖ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總攬シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。顧ミルニ、立國ノ體國各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業實ニ輕擧ニ便ナラス。我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ變通シ、斷シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今在廷臣僚ニ命シ、假スニ時日ヲ以テシ、經畫ノ責ニ當ラシム。其組織權限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ栽シ、時ニ及テ公布スル所アラントス。朕惟フニ、人心進ムニ偏シテ、時會速ナルヲ競フ。浮言相動カシ、竟ニ大計ヲ遺ル。是レ宜シク今ニ及テ、謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ。若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ爭ヒ、事變ヲ煽シ、國安ヲ害スル者アラハ、處スルニ國典ヲ以テスヘシ。特ニ茲ニ言明シ爾有衆ニ諭ス。
 奉
勅   太政大臣三條實美 明治十四年十月十二日

                        「法令全書」より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<現代語訳>

勅諭

 私は、先祖代々2,500年余りの国家統治の大きな仕事を受け継ぎ、平安時代に乱れた君主の大権の威力をのばし広げ,大政を一手に掌握し、又早くから立憲制をとる政治形態を建て、後の世の子孫に継承すべき事業を成し遂げようと考えた。さきに明治8年、元老院を設置し、明治11年に府県会を開設させた。これみな、しだいに基礎を創成し、順序に従って、歩を進める方策によるものである。おまえたち人民は、また私の心を諒解してほしい。
 ふりかえってみると、政体は各国によって異なっている、このような大事業は実に軽々しく行うべきではない。私の祖先は、上に在って天下を治めてきた。後世に残る功績を高め、大きなはかりごとをひろめ、時の情勢に応じで、臨機応変に事に対応し、判断してこれを行う責任は、私みずからにある。まさに明治23年を期して、議員を招集し国会を開設し、私の初志を達成したいと思う。今朝廷に仕えている多くの臣下や役人に命じて、時間を与えて、その策定の責務に当らせている。その組織権限(憲法)については、私がみずから偏らずに判定し、時節を得て公布するようにしたい。
 私が思うのには、世の中の人々の考え方が展開するうちに偏って、その時(憲法制定や国会開設)が早くなることを競っている。流言が相手を動かして、ついには大局的な観点から外れてしまっている。これについてはちょうどよいように、現今において国家の大計と後世の政治の手本となる教えを明らかにし、もって天下人民に公示すべきである。もしなお、故意にいらだちあせり、事を煽動し、国家の安泰を阻害する者があれば、処罰するには国の法律をもってすべきである。特にここに言明し、おまえたち人民に言いきかせる。

 奉
勅 太政大臣  三条実美
  明治14年10月12日

【注釈】
[1]祖宗:そそう=祖先。祖は開祖、宗は歴代の祖先をいう。
[2]鴻緖:こうちょ=皇統。皇位。帝王の国家統治の大業。
[3]中古:ちゅうこ=平安時代のこと。
[4]紐ヲ解ク:ちゅうをとく=乱れること。
[5]乾綱:けんこう=君主の大権。国家の要綱。
[6]振張シ:しんちょうし=威力をのばし広げること。
[7]大政:たいせい=天下の政治。まつりごと。
[8]総攬:そうらん=統合して一手に掌握すること。掌握して治めること。
[9]夙ニ:つとに=早くから。
[10]元老院:げんろういん=1875年(明治8)に設置された国会開設以前の立法上の諮問機関、1990年に廃止された。
[11]府縣會:ふけんかい=1878年(明治11)に府県会規則によて定められた地方議会。
[12]序ニ楯テ:じょにしたがいて=順序に従って。
[13]爾有衆:なんじゆうしゅう=国民。人民。君主が人民を呼ぶ呼称。
[14]立國ノ體:りっこくのてい=国の立て方。政体。
[15]國各宜キヲ殊ニス:くにおのおのよろしきをことにす=政体は各国によって異なっている。
[16]輕擧ニ便ナラス:けいきょにびんならず=軽々しく行うべきではない。
[17]照臨:しょうりん=君主が天下を治めること。
[18]遺烈:いれつ=後世に残る功績。先人のなした立派な功績。
[19]洪模:こうぼ=大きなはかりごと。
[20]古今ヲ變通シ:ここんをへんつうし=時の情勢に応じで、臨機応変に事を処すること。
[21]躬:みずから=自分で。みずから。
[22]在廷臣僚:ざいていしんりょう=朝廷に仕えている多くの臣下や役人。
[23]假スニ時日ヲ以テシ:かすにじじつをもってし=時間を与えること。
[24]親ラ:みずから=自分で直接に。自分から。特に、天皇が直接行うときに用いる。
[25]衷:ちゅう=なかほど。偏らないこと。
[26]裁シ:さいし=判定する。さばく。
[27]人心:じんしん=人間の心。また、世の人々の考えや気持ち。
[28]浮言:ふげん=根も葉もないうわさ。浮説。流言。
[29]大計:たいけい=大きな計画。遠大なはかりごと。
[30]謨訓:ぼくん=国家の大計と後世の政治の手本となる教え。
[31]明徴:めいちょう=明らかな証拠。また、証拠などに照らして明らかにすること。
[32]朝野:ちょうや=世間。天下。
[33]躁急ヲ爭ヒ:そうきゅうをあらそい=いらだちあせり。
[34]事變ヲ煽シ:じへんをせんし=事を煽動する。
[35]國典:こくてん=国の法律。国法。
[36]諭ス:さとす=目下の者に、ことの道理を理解できるように言いきかせる。納得するように教え導く。
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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、俳人種田山頭火の亡くなった日で、一草忌とも呼ばれています。
 種田山頭火は、大正時代から昭和時代前期の俳人で、本名は種田正一といい、1882年(明治15)12月3日に山口県佐波郡西佐波令村(現材は防府市)の大地主・種田家の長男として生まれました。
 1902年(明治35)、東京専門学校高等予科を卒業し、早稲田大学大学部文学科に入学しましたが、1904年(明治37)には、神経衰弱のため中途退学しました。
 その後、防府の実家へ帰郷し、種田酒造場を開業しましたが、事業に失敗し、家屋敷を全て売却することになりました。
 1925年(大正14)に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名し、日本全国を行乞しながら、自由律俳句といって、五七五にとらわれない自由な句を詠んだ俳人です。
 1932年(昭和7)、郷里山口の小郡町(現在の山口市)に「其中庵」を結庵しました。その後東北地方などを旅した後、1938年(昭和13)には山口市湯田温泉街に「風来居」を、さらに1939年(昭和14)、松山市に移住し「一草庵」を結庵しました。
 しかし、1940年(昭和15)10月11日に58歳で、この庵で生涯を閉じています。

<代表的な句>

「後ろ姿のしぐれていくか」
「どうしょうもないわたしが歩いている」
「分け入っても分け入っても青い山」
「さて、どちらへ行かう風が吹く」

〇主要な著作
・第一句集『鉢の子』(1932年刊行)
・第ニ句集『草木塔(そうもくとう)』(1933年刊行)
・第三句集『山行水行(さんこうすいこう)』(1935年刊行)
・第四句集『雑草風景』(1936年刊行)
・第五句集『柿の葉』(1937年刊行)
・第六句集『孤寒(こかん)』(1939年刊行)
・一代句集『草木塔』(八雲書林 1940年刊行)
・第七句集『鴉』(1940年刊行)
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