ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、東京の皇居前広場で、約25万人が参加した食糧メーデー(正式名称は飯米獲得人民大会)が開催された日です。
 太平洋戦争後の深刻な食糧危機の中で、首都圏の食糧遅配は極度に悪化し、連日餓死者が出ている状況下で、各地で「米よこせ大会」が巻き起こっていました。その中でこの大会が開かれ、政府の食糧配給遅延に抗議し、飯米獲得や民主戦線即時結成を決議、また食糧問題に関する天皇への上奏文を可決したのです。
 その後、デモ行進に移りましたが、デモ隊の一人が掲げていた「朕はタラフク食ってるぞナンジ人民飢えて死ね」というプラカードが問題となり、不敬罪で起訴される事件(結局、不敬罪ではなく名誉毀損罪に問われた)が起こりました。
 この間の流れの中で、吉田茂総理による組閣も難航し、人民民主政府樹立の機運が盛り上がっていたのですが、翌20日の占領軍(GHQ)最高司令官マッカーサーの「暴民デモ許さず」との声明で運動は鎮静化に向かったのです。
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 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に日本最初の社会主義政党である「社会民主党」(現在の社会民主党とは異なる)が結成された日です。
 「社会民主党」は、日本初の社会主義政党ですが、翌々日(5月20日)に結成を届け出たものの、治安警察法により届出当日に禁止され、宣言書を載せた「万朝報」、「労働世界」、「東京横浜毎日新聞」等も発禁処分とされました。
 この党の創立者は、安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、木下尚江、河上清、西川光二郎の6名で、以下の8項目からなる党の理想と、28項目からなる綱領を含んだ「社会民主党宣言書」を発表したのです。
 これらの創立者たちは、直後に綱領を変えて「社会平民党」を結成しましたが、これも禁止されました。その後、社会主義運動は、社会主義協会や平民社に継承されていくことになります。

☆社会民主党宣言書 1901年(明治34)5月18日

 如何にして貧富の懸隔を打破すべきかハ実に二十世紀に於けるの大問題なりとす。彼の十八世紀の末に当り仏国を中心として欧米諸国に伝播したる自由民権の思想ハ、政治上の平等主義を実現するに於て大なる効力ありしと雖も、爾来物質的の進歩著しく、昔時の貴族平民てふ階級制度に代ふるに富者貧者てふ、更に忌むべき恐るべきものを以てするに至れり。抑も経済上の平等ハ本にして政治上の平等ハ末なり。故に立憲の政治を行ひて政権を公平に分配したりとするも、経済上の不公平にして除去せられざる限ハ人民多数の不幸ハ依然として存すべし。是我党が政治問題を解するに当り全力を経済問題に傾注せんとする所以なり。

(中略)
 
 今日の政党なるものは全く富者に使役せらる所のものにして決して多数人民の意志を代表するものにあらず。今や国民の多数を占むる労働者小作人は無学無識にして、殆ど富者の一顧にも価せざるべしと雖も、彼等は実に財富の生産者なるが故に、将来の社会組織に於て重要なる地位を占むるに至るべきは論を待たず。而して彼等をして其得べき地位を得せしむるは、即ち社会全体の利福を増進する所以なりとす。我党は茲に多数人民の休戚を負ふて生れたり。然れども貧民を庇護して富者を敵とするが如き狭量のものにあらず。而して其志す所は我国の富強を謀るにあれども、然も外国の利益を犠牲に供して顧みざるが如き唯我的のものにあらず。若し直□に其抱負を言へば我党は世界の大勢に鑑み、経済の趨勢を察し、純然たる社会主義と民主主義に依り、貧富の懸隔を打破して全世界に平和主義の勝利を得せしめんことを欲するなり。故に我党は左に掲ぐる理想に向かって着々進まんことを期す。

1.人種の差別、政治の異同に係わらず、人類は皆同胞なりとの主義を拡張すること。
2.万国の平和を来すためには先ず軍備を全廃すること。
3.階級制度を全廃すること。
4.生産手段として必要なる土地及び資本を悉く公有とすること。
5.鉄道、船舶、運河、橋梁のごとき交通手段はこれを公有とすること。
6.財産の分配を公平にすること。
7.人民をして平等に政権を得せしむること。
8.人民をして平等に教育を受けしめる為に、国家は全く教育の費用を負担すべきこと。

 別に左の如き綱領を定めて実際の運動を試むべしと云ふにあり。
1、全国の鉄道を公有すること。
2、市街鉄道、電気鉄道、瓦斯事業凡て独占的性質を有するものを私有すること。
3、中央政府、各府県、各市町村の所有せる公有地を払い下げることを禁ずること。
4、都市に於ける土地は挙げて其都市の所有とする方針を採ること、若しこれを速に実行する能はざる場合には、法律を設けて土地兼併を禁ずること。
5、専売権は政府にてこれを買い上げること。即ち発明者に相当の報酬を与へ、而して人民には廉値に其発明を使用せしむること。
6、家賃はその家屋の幾分以上を徴収する能はずとの制限を設くること。
7、政府の事業は凡て政府自らこれに当り、決して一個人若くは私立会社に受 負はしめざること。
8、酒税、醤油税、砂糖税の如き消費税は之を全廃し、之に代ふるに相続税、所得税及び其他の直接税を以てす。
9、高等小学校を終る迄を義務教育年限とし、月謝を全廃し、公費を以て教科 書を支給すること。
10、労働局を設置して、労働に関する一切の事を調査せしむること。
11、学齢児童を労働に従事することを禁ずること。
12、道徳健康に害ある事業に婦人を使役することを禁ずること。
13、少年及び婦女子の夜業を禁ずること。
14、日曜日の労働を廃し、日々の労働時間を八時間に制すること。
15、雇主責任法を設け労働者が服務中負傷した場合には雇主をして相当の手当てを為さしむること。
16、労働組合法を設け労働者が自由に団結することを公認し、且つ適当の保 護を与ふること。
17、小作人保護の法を設くること。
18、保険事業は一切政府事業と成すこと。
19、裁判入費は全く政府の負担とすること。
20、普通選挙法を採用すること。
21、公平選挙法を採用すること。
22、選挙は一切直接且つ無記名とすること。
23、重大なる問題に関しては一般人民をして直接に投票せしむるの方法を設くること。
24、死刑を全廃すること。
25、貴族院を廃止すること。
26、軍備を縮小すること。
27、治安警察法を廃止すること。
28、新聞条令を廃止すること。
我党は此の如く社会主義を経とし民主主義を緯として其の旗幟を明白にせり
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 今日は、1875年(明治8)に最初の屯田兵が北海道の琴似(現在の札幌市西区)に入植した日です。第1回の移住者は198戸の965名(青森49戸、宮城93戸、酒田8戸、他道内48戸)で、5月14日に青森を通斉丸で発ち、16日に小樽に到着しました。その後、徒歩・馬等で移動し、17日に琴似に入植したのです。
 屯田兵は、明治時代に北海道に設置された警察権をもつ憲兵で、士族を資格とする世襲制の軍隊とし、農業開拓を進めるために家族を伴ない、戸主は軍事訓練を受けて非常の変に備えることになっていました。1874年(明治7)に制度(屯田兵例則)が設けられ、翌年から実施、1904年(明治37)に廃止されるまで続いたのです。
 現在でも、北海道各地に屯田兵に関わる遺跡が残されていますが、札幌市北区には、1988年(昭和63)に屯田兵による開拓100年の歴史を記念して「屯田郷土資料館」が開設されました。実物大の屯田兵の家屋が再現され、内部の土間やいろりなどによって、入植当時の屯田兵の生活をうかがい知ることができます。また、新琴似神社境内には、「新琴似屯田兵中隊本部」の建物が保存されていて、内部には、屯田兵ゆかりの従軍記章や屯田兵手帳はじめ、さまざまな農具、生活用品などが展示されています。
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 今日は、旅の日です。松尾芭蕉が『奥の細道』に旅立った日(旧暦元禄2年3月27日)を新暦に換算すると5月16日になるので、それにちなみ、1988年(昭和63)に日本旅のペンクラブが提唱したものです。
 松尾芭蕉は、江戸時代の俳聖で、1644年(寛永21)に生まれ、伊賀の武士出身といわれ、さび・しおり・細みで示される幽玄閑寂の蕉風俳諧を確立しました。その生涯は日本各地を旅して、名所旧跡を回り、歌枕を巡り、様々な人とまじわっています。それは、『笈の小文』、『更級紀行』、『野ざらし紀行』などの書物に著されていますが、最も有名なのは晩年の『奥の細道』の旅です。そして、最後に西へ向かって旅立ち、大阪の南御堂で門人に囲まれて、1694年(元禄7)に息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も「旅に病んで夢は枯れ野を かけ廻る」というものでした。
 『奥の細道』は、松尾芭蕉が書いた紀行文で、最も代表的なものです。1689年(元禄2)の3月27日(新暦では5月16日)に深川芭蕉庵を愛弟子の河合曾良一人を連れて出立し、東北・北陸地方を回りながら、弟子を訪ね、歌枕を巡って歩いた日数150日、旅程600里に及ぶ大旅行のもので、9月6日(新暦では10月18日)に大垣から伊勢へ旅立つところで、結びになっています。また、近年芭蕉の自筆本が発見されて話題になりました。
 私も、その足跡をたどって何度か旅したことがありますが、各所に句碑が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、資料館などもあって、いにしえの芭蕉の旅をしのぶことができます。
 以下に、『奥の細道』の冒頭部分を載せておきますのでご参照ください。

〇『奥の細道』冒頭部分

<冒頭> 
 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
  草の戸も 住替る代ぞ ひなの家
面八句を庵の柱にかけ置く。

           紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より
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 今日は、沖縄返還45周年の日、つまり、「沖縄返還協定」が発効した日です。
 太平洋戦争末期、1945年(昭和20)6月に沖縄島が陥落し、アメリカ軍の占領下に置かれることになりました。戦後、1952年(昭和27)の日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で、日本は占領下から脱したものの、沖縄や奄美、小笠原は引き続き、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされたのです。この施政権下では、日本とは違う通貨(B円→米ドル)が使われ、車は右通行、日本本土から沖縄へ行くのにはパスポートが必要など、アメリカ流の施策が行われてきました。「行政主席」(当初は米国民政府による直接任命)を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたものの、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままでした。この中で、アメリカ軍は沖縄各地に半ば力ずくで基地や施設を建設し、またアメリカ軍兵士による重大事件が頻発し、県民の被害者も相次ぐことになります。これに対し、県民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、1960年(昭和35)には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成したのです。その後、沖縄住民の祖国復帰運動がねばり強く続けられ、1968年(昭和43)には、屋良朝苗氏を初の公選主席に当選させるほどに運動は高揚し、1971年(昭和46)6月17日に「沖縄返還協定」の調印、1972年(昭和47)5月15日の施政権返還というかたちで、沖縄の本土復帰が実現することになりました。
 「沖縄返還協定」は、昭和時代後期の1971年(昭和46)6月17日に、宇宙中継を通じて東京とワシントン D.C.で署名された、日本とアメリカ合衆国との条約です。この条約は、1969年(昭和44)11月、ワシントンにて佐藤栄作内閣総理大臣と、リチャード・ニクソンアメリカ合衆国大統領との会談後発表された共同声明に基づいて、交渉を行ない合意に達したものでした。正式には「琉球諸島および大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」といい、翌年の5月15日に、批准書が交換されて、発効したのです。前文と本文9ヶ条から成り、その内容は、前文で「サンフランシスコ平和条約」第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を日本国のために放棄するとし、本文では、(1)沖縄の施政権の返還についての確認、(2)アメリカ合衆国との間に締結された条約及びその他の協定の適用の確認、(3)アメリカ軍基地の存続についての確認、(4)アメリカ軍や政府に対する請求権の放棄等について、(5)裁判、訴訟等の効力について、(6)日本政府に移転する沖縄の財産について、(7)総額3億2千万ドルをアメリカ政府に支払う、(8)5年間にわたり沖縄島におけるヴォイス・オヴ・アメリカ中継局の運営を継続すること、(9)批准書の交換についてを規定していました。この協定発効後、沖縄の施政権が返還され、沖縄県が復活しました。
 しかし、その内容は沖縄住民の要求とはかけはなれたもので、今でも県内に多くのアメリカ軍基地(県全体面積の1割強)が残され、基地騒音やアメリカ兵による犯罪などいろいろな問題が表面化しています。その上、県民多数の反対にもかかわらず、政府は名護市辺野古への基地建設を強行していて、重大な局面になっています。今までの沖縄県の苦渋の歴史を考えると、できるだけ基地負担を軽減し、平和を守っていく道を求めていくべきではないでしょうか。
 沖縄県最北端の辺戸岬には、沖縄県祖国復帰協議会が建てた祖国復帰闘争碑があり、現地に行ったことがありますが、はるか日本本土を臨んで、祖国復帰の日を待ち望んでいた沖縄の人々の気持ちが伝わってくるようでした。
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