ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、国際通貨基金(International Monetary Fund:略称IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)が日本の加盟を承認した日です。
 国際通貨基金(IMF)は、1944年(昭和19)7月にアメリカのニュー・ハンプシャー州ブレトン・ウッズで開催された連合国通貨金融会議で調印されたブレトンウッズ協定(IMF協定)が、翌年12月に発効し、1946年(昭和21)3月に業務が開始されました。
 国連専門機関の一つ(本部:ワシントン)となっていて、(1) 国際金融協力の促進、(2) 貿易の拡大と加盟国の経済成長、(3) 為替の安定と多角的決済制度の促進、(4) 基金資金の一時利用により,相互の経済に悪影響を及ぼさない方法で国際収支の不均衡をすみやかに是正すること、などを目的とし、2018年現在で189ヶ国が加盟しています。
 日本は、1952年(昭和27)5月29日に、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)の両理事会で加盟申請が承認され、手続きが進められた結果、同年8月13日に世界で52番目の加入国として、正式加盟しました。
 国内では、これに関連して「財政法」改正が行われ、「国際通貨基金及び国際復興開発銀行への加盟に伴う措置に関する法律」が施行されています。
 加盟国は、割当額に応じて金や自国通貨などを出資する一方、国際収支が赤字になった場合などに、割当額に応じて外貨を引き出すことができ、国際収支不均衡の短期化と軽減を行なってきました。
 2018年現在、日本のクォータ(出資割当額)シェアは、6.48%を占め、アメリカに次いで、第2位となっています。
 一方、国際復興開発銀行(世界銀行)も、ブレトンウッズ協定(IMF協定)で設立が決まり、1946年(昭和21)6月に業務を開始、翌年からは国連の専門機関となりました。
 第二次世界大戦後の各国の経済面での復興援助を行い、国際通貨基金(IMF)と共に、ブレトン・ウッズ金融機関とよばれて、国際金融を支える両輪となっています。
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 今日は、江戸時代前期の1634年(寛永11)に、江戸幕府が長崎の出島の造成を命じた日ですが、新暦では6月23日となります。
 長崎県長崎市にある出島は、1633年(寛永10)の「第1次鎖国令」によるポルトガル人の隔離を目的として、翌年に25人の長崎商人に長崎港内の一隅に扇形の人工島を造成するように命じたものでした。
 2年後の1636年(寛永13)に、面積3969坪(約1.5ha)の造成(費用約4,000両)が完了し、最初はポルトガル人を住まわせます。しかし、1637~38年の島原の乱の後、1639年(寛永16)に江戸幕府によって、ポルトガル人の来航が禁止されたため空家となってしまいました。
 そこで、1641年(寛永18)に平戸から出島にオランダ商館が移され、オランダ人居住地とされて、幕末まで存続することとなります。
 この島は、周囲を高い板塀で囲まれ、市街地とは1本の橋のみで繋がり、島内には、オランダ商館の他に、オランダ人の居住する家屋や船員の宿泊施設、日本人の諸役人・通詞の家、倉庫などが立ち並んでいました。
 諸行事があるとき以外は、オランダ人が出島から出ることは原則として禁止され、隔離されますが、江戸時代の海外文化流入の窓口としての大きな役割を果たします。
 明治時代以降は周囲が埋め立てられて、往時の面影を失いましたが、歴史的に貴重なので、1922年(大正11)に、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されました。
 1996年(平成8)度から長崎市が、長期計画に基づいて、当時の姿に復元している途中で、発掘調査などもされています。
 現在では、出島資料館本館・分館、一番蔵、二番蔵、一番船頭部屋などが復元されていて、見所も多く、江戸時代の海外貿易の拠点となった雰囲気を感じ取れるようになってきました。

〇出島関係略年表

・1633年(寛永10) 江戸幕府により、「第1次鎖国令」が出され、奉書船以外の渡航が禁じられる
・1634年(寛永11) 25人の長崎商人に長崎港内の一隅に扇形の人工島を築造するように命じる
・1636年(寛永13) 面積3969坪(約1.5ha)の造成が完了し、ポルトガル人が住まわされる
・1637年(寛永14) 九州の島原・天草地方で島原の乱が勃発する
・1638年(寛永15) 島原の乱が鎮圧される
・1639年(寛永16) 江戸幕府によって、ポルトガル人の来航が禁止される
・1641年(寛永18) 平戸から出島にオランダ商館が移され、オランダ人居住地とされる
・1690年(元禄3) エンゲルベルト・ケンペルが来日、オランダ商館付の医師として2年間出島に滞在する
・1775年(安永4) カール・ツンベルクが来日、オランダ商館付医師として出島に赴任、1年間滞在する
・1798年(寛政10) 出島に大火が発生し西側半分を焼失する
・1804年(文化元) ロシア使節レザノフが長崎に来航する
・1808年(文化5) フェートン号事件で、オランダ商館員2名が一時逮捕される
・1809年(文化6) 新しいカピタン部屋が完成する
・1823年(文政6) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが来日し、出島のオランダ商館医となる
・1824年(文政7) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが鳴滝塾を開く
・1825年(文政8) 幕府が「異国船打払令」を出す
・1828年(文政11) シーボルト事件が起こる
・1829年(文政12) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国外に追放される
・1842年(天保13) 「天保の薪水給与令」が発布され、打払い令は緩和される
・1853年(嘉永6) ロシア使節プゥチャーチンが長崎に来航する
・1855年(安政2) 日蘭仮条約締結により、オランダ人の在留の出島限定が解かれる
・1856年(安政3) 「出島開放令」と共に出島の日本人役人が廃止される
・1859年(安政6) 出島にあったオランダ商館が閉鎖される
・1903年(明治36) 出島の付近が埋め立てられて市街地と地続きになる
・1922年(大正11) 「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定される
・1996年(平成8) 長崎市による、出島復元の長期計画が始まる
・2000年(平成12) 第1期復元工事で「ヘトル部屋」「料理部屋」「一番船船頭部屋」等5棟が復元される
・2006年(平成18) 第2期復元工事で「カピタン部屋」「乙名部屋」「三番蔵」等5棟が復元される
・2017年(平成29) 出島と対岸に「出島表門橋」が架けられる
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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、「日独防共協定」締結による同盟強化に伴い、「大日本青少年独逸派遣団」が神戸港を出発した日です。
 これは、1936年(昭和11)11月25日ベルリンで締結された「日独防共協定」による同盟強化に伴い、ヒトラー・ユーゲント(ドイツ・ナチス党の青少年組織)指導者フォン・シーラッハより、日本の青少年団を招待し、交流後、今度は一緒に日本に向かうという提案がなされました。協議の結果、まずは日本側から30名をドイツに派遣し、その後、ヒトラー・ユーゲントが来日することで決定します。
 それによって、大日本連合青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会などの中から、19歳から25歳までの学生、青少年団体職員、若手公務員等による「大日本青少年独逸派遣団」が選抜されました。
 訪独に先立ち明治神宮で禊祓し、1938年(昭和13)5月25日に東京駅における歓送式後出発し、27日に神戸港からドイツへ向かう客船靖国丸で離日します。マルセイユからパリを経由して、1ヶ月以上かかって、7月2日にドイツ国境の街アーヘンに到着し、歓迎を受けながらベルリンに至りました。
 7月10日には青少年団の宿舎にヒットラーユーゲントが訪問し、7月12日には、日本へ向かうヒトラーユーゲント訪日団をブレーメンで見送ります。
 その後、ハンブルグへ移動して港湾クルーズ、バルト海に面するプレローに滞在、東に移動してポーランドとの国境を見学しました。そして、シレジアの温泉街を訪問、8月には真新しい制服が完成し、その制服でワイマール駅を行進、その後同地で国民祭を見学、ヒトラーユーゲントのグライダー訓練所の見学などいろいろとドイツ国内を巡って、交流を深めています。
 9月10日にはニュルンベルクのナチ党大会に列席し、ヘス副総統らを引き連れたヒトラー総統と会見し、握手を交わしました。
 9月25日に、デュッセルドルフ駅で送別を受けて、フランスへと向かい、パリを経由してカレーへ行き、ドーバー海峡を渡ってイギリスを訪れます。それから、フランスに戻ってパリ観光、スイスへ行ってローザンヌ観光、イタリアへ行ってローマ観光しました。
 そして、ナポリで日本郵船の諏訪丸に乗船して帰国の途につき、11月12日に神戸港に上陸して、半年ぶりに戻ってきたのです。
 一方、ヒトラーユーゲントの訪日団の方は、7月12日、「大日本青少年独逸派遣団」の見送りを受けてブレーメンを出港し、1ヶ月以上かかって、8月16日に横浜港へ入港しました。
 団員は30名のほとんどが17歳~19歳で、横浜港では、数千の歓迎陣が出迎えました。その後、東京駅に移動して日独大使や東京府知事らが出迎えるなか歓迎式典が行われています。
 一行は近衛文麿首相をはじめ文部・外務・陸軍・海軍の各大臣と接見したほか、富士登山(8月20~21日)や全国青少年団連合歓迎大会(於:神宮外苑、9月28日)への出席など各種行事に参加しました。
 また、8月28日~9月12日までは、東北・北海道地方、10月2日~11月12日までは東海・近畿・中国・九州地方を視察旅行し、各地で歓迎を受けています。
 尚、朝日新聞社の依頼により、北原白秋作詞、高階哲夫作曲、藤原義江歌唱による歓迎歌『萬歳ヒットラー・ユウゲント:獨逸青少年團歡迎の歌』が作られ、1938年(昭和13)10月には日本ビクターからレコードが販売されるなどしました。
 このように、日本国民を挙げての大歓迎を受け、ナチス・ドイツとの親交に大きく寄与したとされていますが、11月12日に89日間にわたる滞在を終えて、神戸港から帰国の途についています。
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 今日は、昭和時代後期の1977年(昭和52)に、小説家・劇作家藤森成吉(ふじもり せいきち)の亡くなった日です。
 藤森成吉は、明治時代後期の1892年(明治25)8月28日に、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)の薬種商の長男として生まれました。
 長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)卒業後、上京して第一高等学校へ入学し、ロシア文学の影響で文学を志すようになります。
 卒業の年の夏、伊豆の大島に遊び、東京帝国大学文科大学独文科入学後、それを素材とした処女作の長編小説『波』(のち『若き日の悩み』と改題)を自費出版し、新進作家として認められました。
 1916年(大正5)大学卒業後、岡倉由三郎の娘信子と結婚し、一時第六高等学校講師となりましたが半年で辞職し、1918年(大正7)に小説『山』で文壇に復帰しました。
 この間、大杉栄の影響で日本社会主義同盟に関係し、1924年(大正13)には妻とともに労働生活を体験、翌年その記録『狼へ!』を発表します。
 社会主義に傾倒していき、戯曲『磔茂左衛門』、『犠牲』(1926年)を発表し、翌年の戯曲『何が彼女をさうさせたか』は、鈴木重吉監督により映画化され、好評を博して、代表的なプロレタリア作家の一人となりました。
 『文芸戦線』の同人となり、1928年(昭和3)に、「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)の初代委員長に就任、1930年(昭和5)に夫妻で渡欧し、ハリコフ会議(国際革命作家同盟第2回会議)に出席しています。
 しかし、1933年(昭和8)に、治安維持法違反で検挙され、歴史小説への転向を余儀なくされて、歴史小説『渡辺崋山』(1935年)、戯曲『江戸城明渡し』(1938年)、『若き啄木』(1939年)、『大原幽学』(1940年)などを書きました。
 太平洋戦争後は、再び左翼文学に返り咲き、新日本文学会の結成に参加、後、1950年(昭和25)には『人民文学』の発刊 に参画します。
 その中で、民主的立場にたって数多くの著作を発表、一方句作も始めて、句集『蟬しぐれ』(1961年)、『天翔ける』(1972年)なども出しましたが、1977年(昭和52)5月26日に、交通事故がもとで神奈川県逗子市において、84歳で亡くなりました。

〇藤森成吉の主要な作品

・長編小説『波』(後に『若き日の悩み』と改題)(1914年)
・小説『雲雀』(1915年)
・小説『山』(1918年)
・短編集『新しい地』(1919年)
・短編小説『脱走者』(1923年)
・記録『狼(おおかみ)へ!』(1925年)
・戯曲『磔茂左衛門(はりつけもざえもん)』(1926年)
・戯曲『犠牲』(1926年)
・戯曲『何が彼女をさうさせたか』(1927年)
・歴史小説『渡辺崋山』(1935年)
・戯曲『江戸城明渡し』(1938年)
・戯曲『若き啄木』(1939年)
・戯曲『大原幽学』(1940年)
・戯曲『頼山陽』(1941年)
・句文集『山心』(1943年)
・戯曲『岡倉天心覚書』(1944年)
・童話集『ピオの話』(1948年)
・長編小説『悲しき愛』(1955年)
・句集『蟬しぐれ』(1961年)
・画人評伝『知られざる鬼才天才』(1965年)
・句集『天翔ける』(1972年)
・長編小説『独白の女』(1973年)
・俳句・短歌・詩を収めた『詩曼陀羅』(1976年)
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 今日は、南北朝時代の1336年(延元元/建武3)に、湊川の戦いで足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害した日ですが、新暦では7月4日となります。
 湊川の戦いは、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、南朝方の新田義貞・楠木正成軍と北朝方の足利尊氏・足利直義軍との間で戦われた合戦でした。
 同年1月に京都を駆逐されて、翌月九州に敗走した足利尊氏・直義が、4月に大軍を集めて博多を発して東上してきます。後醍醐天皇は勅命で新田義貞・楠木正成に迎撃を命じ、新田義貞は和田岬に、楠木正成はその西の湊川に布陣しました。
 そして、足利尊氏軍の先発として細川軍が和田岬に上陸し、5月25日に戦いが開始され、その結果、新田勢は京都に向かって敗走し、楠木正成は奮戦のすえ一族・配下とともに自刃します。
 その後、足利軍は京都へ入り、建武新政府は崩壊、足利尊氏は、やがて光明院を擁立して、室町幕府を開き、後醍醐天皇は、吉野へ移って、南北朝時代が開始されることとなりました。
 現地には、楠木正成の墓があったのですが、1692年(元禄5)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して、世に知られるようになります。幕末になって、尊王論が高揚してくると、楠木正成の顕彰が盛んになり、1872年(明治5)、明治政府によって湊川神社が創建されることになりました。
 境内には、殉節地や御墓所などがあって国の史跡になっていますし、宝物殿には、楠木正成着用と伝える段縅腹巻一領(国重要文化財)、1335年(建武2)大楠公自筆の法華経奥書一幅(国重要文化財)などがあります。

〇南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(元弘3/正慶2)5月 鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元)1月 建武の新政が行われる
・1335年(建武2)7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2)10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(延元元/建武3)5月 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)
・1336年(延元元/建武3)8月 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3)11月 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1336年(延元元/建武3)12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4)3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元)5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元)閏7月 足利尊氏が新田義貞を越前藤島で戦死させる
・1338年(延元3/暦応元)8月 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2)8月 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4)1月 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5)9月 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元)10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1352年(正平7/観応3) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3)7月 観応半済令が出される
・1358年(正平13/延文3)4月 足利尊氏が亡くなる
・1358年(正平13/延文3)12月 足利義詮が室町幕府第2代将軍に就任する
・1361年(正平16/康安元) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1367年(正平22/貞治6) 足利義詮は死に臨み10歳の義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1368年(正平23/応安元) 応安半済令が出される
・1368年(正平23/応安元) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1378年(天授4/永和4) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2) 足利義満が左大臣となる
・1386年(元中3/至徳3) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1390年(元中7/明徳元) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3) 足利義満が南北朝の合一を実現する
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