太安万侶(おおのやすまろ)は、奈良時代の文官で、名は安萬侶、安麻呂とも記され、生年は不詳ですが、父は壬申の乱で功績のあった多品治とされています。
711年(和銅4)に、元明天皇の命で『古事記』の編纂に着手し、天武朝に稗田阿礼が誦習した帝紀や旧辞を再整理し、712年(和銅5)『古事記』三巻として撰進し、日本書紀の編纂にもあたったといわれています。
1979年(昭和54)に、奈良県奈良市此瀬町の茶畑で墓が発見され、埋葬されていた墓誌から平城京左京四条四坊に住み、官位は従四位下勲五等、723年(養老7)7月6日に歿したことなどがわかり、話題となりました。
墓は『太安萬侶墓』として1980年(昭和55)に国の史跡に指定され、『太安萬侶墓誌』は、1981年(昭和56)に国の重要文化財になりました。
〇『古事記』とは?
奈良時代の元明天皇の勅命により、太安万侶が、稗田阿礼のそらんじていた帝紀・旧辞などを筆録した日本最古の歴史書で、712年(和銅5)に献進されました。
3巻からなり、内容は上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含んでいます。
以下に、『古事記』の冒頭部分を載せておきます。
☆『古事記』の冒頭部分
古事記上卷 幷序
臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。
是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。
曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世、濳龍體元、洊雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎步於東國、皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝、杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解、未移浹辰、氣沴自淸。乃、放牛息馬、愷悌歸於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歲次大梁、月踵夾鍾、淸原大宮、昇卽天位。道軼軒后、德跨周王、握乾符而摠六合、得天統而包八荒、乘二氣之正、齊五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘國。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。
(以下略)