ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、鎌倉時代の1241年(仁治2)に、公家・歌人藤原定家の亡くなった日ですが、新暦では9月26日となります。
 藤原定家は、鎌倉時代前期の公家・歌人で、名は「さだいえ」とも呼ばれます。1162年(応保2)に、父は藤原俊成、母は美福門院加賀の子として生まれました。
 14歳のときに赤斑瘡、16歳には痘という重病にかかり、生死の境をさまよいますが回復し、早くから歌才を発揮していたものの、1178年(治承2)3月の賀茂別雷社の歌合に出詠して、歌人として出発します。
 1180年(治承4)従五位上への昇叙により、内の昇殿が認められ、この頃から和歌に専念し始め、『初学百首』を詠みました。そして、1183年(寿永2)に父藤原俊成が後白河上皇の命により『千載和歌集』の編纂を行うことになって、それを手伝います。
 しかし、1186年(文治2)和歌革命を行い(「二見浦百首」)、六条家など旧派の歌人たちから「新儀非拠達磨歌」との誹謗を受け、長く苦境にあえぎました。
 その後、1200年(正治2)に百首歌を企画してからは後鳥羽上皇に見出され、翌年に和歌所が置かれると、寄人に選ばれたのです。さらに、『新古今和歌集』の編纂を藤原有家、源通具、藤原家隆・雅経、寂蓮らと共に命じられて、歌人としての地位を確立しました。
 1211年(建暦元)に公卿、1232年(貞永元)に権中納言になり、『新勅撰和歌集』を単独で撰進するまでになったのです。
 1235年(文暦2)頃には、「小倉百人一首」を撰したとされていますが、1241年(仁治2年8月20日)に80歳で亡くなりました。
 主な著書に、家集「拾遺愚草」、歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌大概」、日記「明月記」などがあり、歌学歌論や古典研究の面にも大きな足跡を残したのです。

〇藤原定家が関わった代表的な著作等

<勅撰和歌集>
・「新古今和歌集」第8番目の勅撰和歌集で後鳥羽院親撰
・「新勅撰和歌集」第9番目の勅撰和歌集で、藤原定家の単独撰

<家集等>
・「拾遺愚草」
・「拾遺愚草員外」
・「定家卿百番自歌合」
・「定家卿独吟詩歌」

<秀歌集>]
・「秀歌大体」
・「定家八代抄」
・「八代集秀逸」
・「百人秀歌」
・「物語二百番歌合」
・「小倉百人一首」

<歌学書・注釈書>
・「詠歌大概」
・「衣笠内府歌難詞」
・「近代秀歌」源実朝に送ったとされる
・「下官集」
・「顕註密勘」
・「五代簡要」
・「三代集之間事」
・「先達物語」
・「定家十体」
・「定家物語」
・「僻案抄」
・「毎月抄」
・「万葉集長歌短歌説」
・「和歌会次第」

<日記・物語等>
・「明月記」藤原定家の日記
・「松浦宮物語」
・「定家小本」
・「奥入」
・「釈奠次第」
・「次将装束抄」
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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、全日本産業別労働組合会議(産別)の結成大会が始まった日です。
 これは、太平洋戦争後に結成された左派系労働組合の全国中央組織(ナショナル・センター)で、略称を産別会議(産別)といいました。
 電産、国鉄、鉄鋼、機器、全炭など21単産、当時の組織労働者の40%以上にあたる162万9,669人の組合員を擁し、先に結成された右派系の日本労働総同盟(総同盟)の組合員85万人より多くの労働者を組織していたのです。
 綱領では、「労働者の基本的権利の獲得」「封建的・植民地的労働條件を一掃」「週四十時間労働制獲得」「婦人・少年労働者の完全なる保護」「資本家全額負担の失業保険をふくむ社会保険獲得」「ファシズム・軍國主義の残存勢力を撲滅」などを掲げ、戦後初期の労働運動において重要な役割を果たしました。そして、2・1ゼネスト、全国労働組合連絡協議会(全労連)の結成による世界労連との連帯活動、労働立法の制定、産業復興、最低賃金制の確立、労働協約の締結などの闘いを展開したのです。
 しかし、占領軍(GHQ)・日本政府の弾圧と民主化同盟(民同)による分裂とで組織が縮小し、1958年(昭和33)2月15日に解散しました。

〇全日本産業別労働組合会議綱領(1946年8月21日採択)

一、われわれは労働者と労働組合の基本的権利をまもるために闘ふ
 ──労働組合を結成して自由に活動すること、団体契約を結ぶこと、罷業を行ふこと、言論・出版・集會・結社・示威運動を自由に行ふこと、働きたいものは誰でも就職できること、働くものが正当な休養をとること、誰でも平等に教育をうけられること、これらはすべて労働者の基本的権利である。そしてこの権利を確認することこそ真の民主主義であり、労働階級の解放を保障する唯一の基礎である。もし、それをおさへつけ、それに制限を加へるものがあれば、それは労働者の解放を遠ざけおくらせる、階級の敵である。われわれは、われわれの解放のために、このやうな一切の敵に對し、全力をつくして闘ふことを本領とする。しかるに支配階級は、ほしいまゝに法律をつくりあげ、規則をおしつけ、われわれの権利を最小限度におさへつけてゐる。われわれはこれら不当なる抑圧諸法令の完全なる撤廃を要求し、さらに労働者の権利をまもるための積極的労働立法の制定を要求する。

二、われわれは封建的・植民地的労働條件を一掃するために闘ふ
 ──いままで日本の労働者は、極めて劣悪な、封建的、植民地的労働條件の下で苦しめられてきた。われわれはそれを一掃することを目標とする。われわれは、まづ、封建的雇傭制度の撤廃と実質賃銀の大巾引上げを要求し、文明國民としての生活を保障する最低賃銀制を要求する。またわれわれは、諸手当を基本給に繰りいれること、同一労働について同一賃銀を与へられること、昇給査定に労働組合代表を参加させることを要求し、工場職場の安全施設、衛生施設、休養施設、医療施設、文化施設などを設けること、それらの施設が労働組合代表による監督委員會によつて監督されることを要求する。

三、われわれは一週四十時間労働制獲得のために闘ふ
 ──われわれは労働時間の短縮を要求する。いままでの長時間労働は、われわれを疲労におとしいれ、健康を害し、文化的生活の余裕を奪ひ、文明人としての生活を妨げ、そのためにわれわれ労働者は教養さへもひくめられてゐた。また長時間労働は労働者の就業人数をおさへつけ、失業者の数を大きくし、そして労働者の賃銀を低下させてきた。われわれはこのような労働者の生活を根本的に改善するために、労働時間の徹底的短縮を要求する。われわれは一般的に一日七時間・一週四十時間労働制を要求し、坑内作業、高熱作業、健康上有害な労働についてはさらに短縮すべきことを要求する。

四、われわれは婦人・少年労働者の完全なる保護のために闘ふ
 ――次の時代の労働階級を担うべき少年労働者と、次の時代の労働者を生み育てるべき婦人労働者とは、われわれの手によつて安全にまもられなければならない。われわれは、婦人・少年労働者の有害作業・坑内労働・深夜業等の禁止を要求し、十六歳未満の少年・少女の雇傭労働禁止を要求し、さらに婦人・少年労働者を雇傭契約外の雑役・私役に使ふことの禁止を要求する。われわれは十八歳未満の少年・少女労働者について、その労働時間を一日六時間以内に短縮することを要求する。そして婦人労働者については産前産後各五十六日の有給休暇と、毎月三日の有給生理休暇を要求し、また工場職場に完備した託児所と授乳所を設け、一定の授乳時間を設定することを要求する。

五、われわれは資本家全額負担の失業保険をふくむ社会保険獲得のために闘ふ
 ―─日本の労働者の極めて多くが失業に悩んでゐる。そのために生産は縮小し、賃銀はひくめられ、労働階級のすべてが苦しめられてゐる。しかも支配階級は自己の利益をまもるために、いつでも、ほしいまゝに、われわれ労働者を馘首しようとする。もとよりわれわれは、これらの馘首と闘ひ、失業反対のために闘ふものであるが、それとともに、働らく意思と肉体をもちながら仕事とパンを得られぬすべての失業者のために、資本家全額負担の失業保険の即時実施を要求する。またわれわれは、失業だけでなく、疾病、傷害、老齢などの危険に對する全般的な社会保険の獲得にむかつて努力する。

六、われわれは経済の再建のために闘ふ
 ――経済復興の基礎は労働力にある。それゆえわれわれはすべての労働者に仕事と十分な賃銀とを保証されることを主張する。資本家の利益をまもるための賃銀引下げ、馘首、工場閉鎖などは、経済復興に逆行し、生産を押しつぶし、民族を破滅に導く行為である。われわれは産業を転換し、戦争中の損耗と荒廃を恢復し、すべての失業者をなくし、完全雇傭と完全操業によつて日本経済を再建することを要求する。そのためにわれわれは、われわれ自身の手で、あらゆる産業の転換計画と復興計画の立案に努力し、その実行を政府に要求する。

七、われわれはファシズム・軍國主義の残存勢力を撲滅するために闘ふ
 ──犯罪的侵略戦争は世界の労働者をこの上ない不幸におとしいれた。その計画者であり、遂行者であつたファシズム・軍国主義こそは全世界労働階級の最大の仇敵である。われわれは永遠の平和を確立し、労働者の利益をまもるために、彼らが変装し仮面をかぶつて生き残り、再び戦争をたくらむ残存勢力を撲滅しなければならない。われわれは、あらゆる経営面から反民主主義的幹部を追放し、さらに政治・経済・文化の各分野の指導的地位から追放することを強く要求する。

八、われわれは労働戦線の完全なる統一のために闘ふ
 ―─いかなる場合にも、われわれは全労働階級の戦線の統一を忘れてはならない。敵階級の陣営は整備されつゝあるにもかゝわらず、われわれ労働階級の戦線が分裂してゐることは絶對に許されないことである。それは敵に利益を与へ、われわれに致命的弱点を負はせることである。完全に戦線を統一し、すべての労働者を組織し、かくしてのみわれわれは、敵に對して妥協することなく果敢な闘ひを進めることができる。われわれは、このような労働戦線の完全なる統一のために、不撓不屈の忍耐と努力を集中する。

九、われわれは働らく農民との同盟結成のために闘ふ
 ─―日本の農民は貧困の中で苦しんでゐる。それは収穫の半分ちかくまでも地主が収奪するといふ封建制度によつて、惨酷に搾取されてゐるからである。そして農村の貧困のために、われわれ労働者もまた、低賃銀に釘づけされ、馘首の危険にさらされ、ひいては全人民の生活が圧迫されてゐるのである 農村の封建性こそ農民と労働者と、働く人民すべての共同の敵である。それゆえ、われわれは農民とともに、封建制を清掃するために努力しなければならない。民主主義革命の中心勢力である組織労働者われわれは、彼ら農民と固く同盟し、同盟軍の先頭にたつて闘ひ、そして農業革命の達成へ誠実な協力者としての任務務を遂行する。

十、われわれは世界労働階級と提携し、永久の平和のために闘ふ
 ──世界平和をを保障する最大の力は、全世界の労働者のゆるぎなき團結である。それゆえわれわれは階級的良心をもつて、世界の労働者との提携に努力する。われわれはポツダム宣言を尊重し、かつ諸國の民族的独立運動を支持し、労働階級の国際的組織である世界労働組合聯盟に參加し、そして永久にかわることなき平和のために、全日本労働者の名誉にかけて努力する。

☆全日本産業別労働組合会議第一回大會宣言
 米英ソ中をふくむ民主主義連合諸国によつて野蛮な侵略戦争から解放された日本の労働階級は、自由と民主主義的権利の獲得のため偉大な前進を開始した。
 戦争による犠牲と負担を人民に転嫁し、低い植民地的労働條件を維持、強化しようとする官僚や資本家地主の政策に対する闘争,労働者の生活権とその根本権利を擁護するための闘争は全国各地に展開され、この闘争を通じて労働組合は真に大衆的組織運動に発展してきた。工場労働者も、一般勤労者もこれに参加し、全労働者を網羅する運動として進む大勢にある。
 これは我国労働運動史の上で画期的な事実である。全日本産業別労働組合会議は、この戦後日本の労働運動に正しい方向を与へ日本の労働階級を全国的な単一組織に結集して、労働階級の最も強力な団結と組織を実現しようとするものである。その標語は産業別単一組合の組織による労働戦線の統一にある。それは労働組合運動におけるあらゆる分裂主義を清算し、政治的信條やイデオロギーを超越した労働者の大同団結を齎し、完全なる労働戦線統一の理想に邁進するものである。まさに労働階級の力を一躍偉大ならしめる歴史的事業といはねばならない。
 全日本労働者の統一的組織を目標とする我々は、また日本労働階級の前途に横はる英雄的な任務の遂行を期してゐる。我々は、官僚や資本家の妨碍とサボタージュを排し、日本の経済復興、文化建設のため闘ひ、また日本民主々義革命の推進力としての役割を果さねばならない。我々はそのため、戦争によつて破壊された民族経済の復興、軍需産業の平和産業への転換、全労働者に對する食と職場の保証のため闘争し、民主戦線に參加して封建主義、軍國主義、ファシズムと徹底的に抗争し、人民の支持する民主政府の樹立に努力することを宣言する。
 我々は更に進んで世界人類の強い要望である永続的平和の実現を目標とする。我々は『東亜の盟主』といふ獨善的な考へを覆滅し、民族同権の原則に基き善隣民族と提携し、民族革命運動を支持し、労働者の国際的団結である世界労働組合連盟に参加することによつて日本労働階級の世界平和に対する共同の努力をつくさんとすることを宣言する。

   1946年8月21日 全日本産業別労働組合会議結成大会

☆全日本産業別労働組合会議(略称産別又は産別会議)結成大会時参加組合一覧
・全日本新聞通信放送労働組合        
・全日本炭礦労働組合
・全日通労働組合            
・日本映画演劇労働組合         
・全日本印刷出版労働組合        
・全逓信従業員組合       
・日本電気産業労働組合     
・全日本機器労働組合     
・全日本医療従業員組合協議會 
・全日食糧労働組合    
・全國生命保険従業員組合協議會 
・全日本化學産業労働組合      
・全日本電気工業労働組合    
・全日本鉄鋼産業労働組合   
・全日本進駐軍要員労働組合  
・全日本港湾労働組合同盟   
・全國車輌産業労働組合    
・全日本木材産業労働組合
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 今日は、大正時代の1925年(大正14)に、小説家細井和喜蔵が亡くなった日です。
 細井和喜蔵は、明治時代後期の1897年(明治30)5月9日に、京都府与謝郡加悦町(現在の与謝野町)で、細井市蔵とりきの長男として生まれましたが、父は出生前に離縁され、母は6歳のときに自殺し、祖母に育てられました。
 しかし、13歳の尋常小学校5年の時に祖母を亡くして中退し、地元の機屋の小僧から始め、職を転々として働き、1916年(大正5)には大阪へ出ることになります。
 そこで、鐘淵紡績などに勤めながら紡績学校に通い、このころ友愛会に加盟して、労働運動に参加しました。
 1920年(大正9)には上京して、東京モスリン亀戸工場に入り、労働争議に参加する中で知り合った、同じ職場の女工堀としと1922年(大正11)に結婚しましたが、会社は退職することになります。
 妻に生計を支えられながら、翌年には、陀田勘助らと詩誌『悍馬』を創刊、紡績工場の実態をルポルタージュにした代表作「女工哀史」の執筆に取り組み、雑誌『改造』に発表し始めました。1924年(大正13)には脱稿し、翌年改造社から出版されましたが、刊行の翌月にあたる1925年(大正14)8月18日に、急性腹膜炎にて、29歳の若さで死去したのです。
 その後、自伝的小説「工場」「奴隷」が刊行され、戦後には、『細井和喜蔵全集』全4巻も出版されました。

〇『女工哀史』とは?
 細井和喜蔵著のルポルタージュで、大正時代の1925年(大正14)7月に、改造社から刊行されました。京都の貧農出身の著者が、15年間紡績工場の下級職工として働いた経験と見聞に基づいて書かれています。
 女工募集の裏表(第3章)、雇傭契約制度(第4章)、労働条件(第5章)、工場に於ける女工の虐使(第6章)、寄宿舎生活(第7・8章)、「福利増進施設」(第10章)などの労働・福利厚生の実態と、女工の心理(第16章)や生理・病理(第17章)を詳細に描き、巻末に「女工小唄」も採譜収録されていました。
 刊行後版を重ねて多くの人々に読まれ、女工の過酷な労働の代名詞としても、この書名が使われるようにもなったのです。

☆『女工哀史』(抜粋)

 自序

 婿養子に来てゐた父が私の生まれぬ前に帰って了ひ、母は七歳のをり水死を遂げ、たった一人の祖母がまた十三歳のとき亡くなったので私は尋常五年限り小学校を止さなければならなかった。そして十三の春、機家の小僧となつて自活生活に入ったのを振り出しに、大正十二年まで約十五年間、紡績工場の下級な職工をしてゐた自分を中心として、虐げられ蔑しまれ乍らも日々「愛の衣」を織りなして人類をあたゝかく育んでぬる日本三百萬の女工の生活記録である。地味な書き物だが、およそ衣服を纏つてぬるものなれば何びともこれを一讀する義務がある。そして自からの體を破壊に陥し入れる犠牲を甘受しつゝ、社會の礎となつて黙々と愛の生産にいそしんでぬる「人類の母」――彼女達女工に感謝しなければならない。
 私がこの記録を書かうと思つたのは餘程後年になつてからのことであつて、初めの程は唯だ漫然と職工生活を通って来たに過ぎない。言葉をかへて言へば社會制度や工場組織や人生に対して何の批評限も有たぬ、殆ど思想のない、一個の平凡な奴隷として多勢の仲間と一緒に働いてゐたのであつた。鐡工部のボール盤で左の小指を一本めちゃくちゃにして了つたとき、三文の手當金も貰わぬのみかあべこべにぼんやりしてゐるからだとて叱り飛ばされた事を、當然と肯定して何の恨みにも思はなかつた。
 その圧制な工場制度に對して少しの疑問をも懐かずに、眼をつぶつて通って来た狭隘な見聞と、浅薄な體験によつて綴ったものが即ちこの記録である。私は大工場生活に入つた初めから、これを書くために根ほり端ほり材料を蒐めて紡績工場を研究したのでは決して無い。然るに、それですらなほこの通りな始末だから、事實はもつともつと深刻を極めたものと思惟されるのである。

(後略)

第五 労働条件 十三

 凡そ紡績工場くらい長時間労働を強しる処はない。大体に於ては十二時間制が原則となつて居るが先ずこれを二期に分けて考えねばならぬ。
 第一期は工場法発布以前であつて、此の頃は全國の工場殆ど紡績十二時間織布十四時間であつた。而して第二期に当たる工場法後から今日へかけては、紡績十一時間、織布十二時間というのが最も多数を占める。

(中略)

 東京モスリンでは十一時間制が原則となつて居り、織部は昼業専門だと、公表している。而し乍ら實際では十二時間制の上に夜業がある。だから凡ての労働事情は官省の調査や、第三者の統計などで決して真相が判るものではない。しからば同社は十一時間制を公表して如何なる方法によつて十二時間働かせているかと言えば、後の一時間は「残業」という名目であり、夜業は自由にその希望者のみにやらせるのだと言ひ逃れてゐる。一年三百有余日残業するところがはたして欧米にあるだろうか?

(後略)

第十七 生理並に病理的諸現象 六十二

(前略)

 女工[9]の子供は實によく死ぬる。即ち千人中三百二十人はその年中に死亡して了ふのであつて、一般死亡率の二倍といふ高率になつてゐるのだ。独逸[21]に於ける富裕階級の乳児死亡率が出産百に對し僅々八であった抔に比較して、貧兒[22]のあはれを痛切に感じる。此の如く資本主義[23]の無情は罪なき幼な兒にまでふりかゝらねばならなかつた。

(中略)

 それからまた女工には流産や死産が甚だ多い。これは説明するまでもなく母性保護の行き届かざるに依るのであつて、最少限度を示した工場法の規定も、労働組合が活動して職工自身厳重な監督機関とならざる限りは到底實行を期し難い。
 流産および死産は農村に於て總妊娠中の二割、女教員が三割以上だと言われてゐる。これより推定すれば女工は四割以上にも當たるだらう。
 女工總数三百人中有夫通勤女工八十人を出でぬ小工場で、五年間私がゐた間に大おりといふのが六人あつた。殊に織布部の某女工の如きは體が全く動けなくなるまで工場へ出勤した為、作業中に機間へぶつ倒れて機械から仕掛品から床面まで、あたり一面血の海と化して了つた。こんな鹽梅だから人に知れぬ程度の流産がどれ丈け多いことか。
 紡績工の兒童には又発育不良、醜兒、低能兒、白痴、畸形兒、盲唖などが可成り多い。私の歩いた大小工場で其の保育場を見廻はるに、何れへ行つても強く賢こさうな美しい兒供は一人としてゐず、胎毒[33]で瘡蓋だらけな頭のでつかい醜兒ばかりであつた。さうして社宅から出る學齢兒童中には屹度低能兒が数人まじつて居り、其のほか通學さえも出来ぬ白痴や盲唖がゐるのだつた。現にいま本稿を書く為生活を支へている小工場中にでも、跛で白痴なる少年一人、唖の少女一人、生後一ヶ年にて體は生後二ヶ月にも足らぬ大きさしかなく、頭は大人より多きいところの福助一人、低能兒が數人いるのである。
 普通統計によれば畸形兒や白痴は千人に對して二人くらひしかゐない。しかし紡績工の兒童は尠くともその三倍以上だと推断することができる。

附録 女工小唄

 篭の鳥より監獄よりも 寄宿住いはなお辛い。
 工場は地獄で主任が鬼で 迴る運転火の車。
 糸は切れ役ゆしゃつなぎ役 そばの部長さん睨み役。
 定則出来なきや組長さんの いやなお顔も身にゃならぬ。
 わしはいにますあの家さして いやな煙突あとに見て。
 偉そうにするお前もわしも 同じ會社の金もらう。
 偉そうにする主任じゃとても もとは枡目のくそ男工。
 世話婦々々々と威張って居れど もとを糺せば柿のたね。
 此処を抜けだす翼がほしや せめてむこうの陸までも。
 主任部長と威張って居れど 工務の前にゃ頭ない。
 男工串にさして五つが五厘 女工一人が二十五銭。
 男もつならインヂ(エンヂン)か丸場 枡目男工は金が無い。
 會社男工の寝言をきけば 早く勘定来い金が無い。
 主とわたしはリング(輪具の精紡機)の糸よ つなぎやすいが切れやすい。
 主とわたしや二十手(二十番手)の糸よ つなぎやすいが切れやすい。
 余所の會社は仏か神か こゝの會社は鬼か蛇か。
 こゝの會社は女郎屋と同じ 顔で飯食ふ女郎ばかり。
 親のない子は泣き泣き育つ 親は草葉のかげでなく。
 うちさ行き度いあの山越えて 行けば妹もある親もある。
 會社づとめは監獄づとめ 金の鎖が無いばかり
 男工なにする機械のかげで 破れたシャツの虱とる。
 女工々々と軽蔑するな 女工は會社の千両箱。
 紡績職工が人間なれば 電信柱に花が咲く。
 女工々々と見さげてくれるな 国へ帰れば箱娘。
 嬉し涙を茶碗にうけて 親に酒だと飲ませたい。
 娘いまかと言はれた時にゃ わが見こゝろは血の涙。
 国を発つときゃ涙で出たが 今じゃ故郷の風もいや。
 いつも工場長の話を聴けば 貯金々々と時計のよだ。
 工場しまつて戻れば寄宿 蛙なく夜の里おもひ。
 早くねんあけ二親様に つらい工場の物語り。
 會社男工に目をくれたなら 末は篠巻まるはだか。
 こんな會社へ来るのぢゃないが 知らぬ募集人にだまされて。
 此処の會社の規則を見れば 千に一つの徒が無い。
 うちが貧乏で十二の時に 売られて来ました此の會社

              『女工哀史』より
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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、松川事件の起きた日です。
 第二次世界大戦後続いた、一連の国鉄ミステリー事件(下山事件、三鷹事件など)の一つで、昭和時代中期の1949年(昭和24)8月17日未明、何者かによって当時の国鉄東北本線の旅客列車が福島県信夫郡金谷川村(現在の福島県福島市松川町)で転覆させられ、機関車の乗務員3人が死亡しました。
 それに関連して、東芝松川工場労働組合と国鉄労働組合構成員の労働組合員等合計20名が、不当逮捕・起訴されたのです。一審、二審判決では、有罪(死刑含む)とされましたが、裁判が進むにつれ被告らの無実が明らかになり、全国的な支援活動もあって、1963年(昭和38)に、最高裁で被告全員の無罪が確定しました。
 作家の松本清張は「日本の黒い霧」の中で、アメリカ軍防諜部隊の関与を唱えています。事件現場には殉職の碑が、近くには、松川記念塔が立てられています。

〇当時の国鉄ミステリー事件の一覧

・庭坂事件(1948年4月27日) 奥羽線赤岩~庭坂間で発生
 脱線地点付近の線路継目板2枚、犬釘6本、ボルト4本が抜き取られていて、列車が転覆し、死者3人を出しましたが、真相は不明です。

・予讃線事件(1949年5月9日) 予讃線浅海 - 伊予北条駅間で発生
 脱線地点で、継ぎ目板2カ所4枚、ボルト8本、犬釘7本が故意に抜き取られており、列車が転覆し、死者3人を出しましたが、真相は不明です。

・下山事件(1949年7月6日) 常磐線北千住~綾瀬駅間で発生
 当時の国鉄総裁下山定則が失踪し、翌日に国鉄常磐線北千住駅~ 綾瀬駅間(東京都足立区綾瀬)で汽車に轢断された遺体となって発見された事件です。しかし半年後、警視庁は他殺説・自殺説ともに決め手のないままで捜査本部を閉じ、真相不明のまま1964年(昭和39)の時効成立で迷宮入りとなりました。

・三鷹事件(1949年7月15日) 中央本線三鷹駅で発生
 中央本線三鷹駅構内で、無人列車が暴走して車止めに激突し、脱線転覆、突っ込んだ線路脇の商店街などで、6名が車両の下敷となって即死し、負傷者も20名出る大惨事となりました。国鉄労働組合員11人が共同謀議による犯行として逮捕・起訴されましたが、結局は元運転士の単独犯として死刑判決が言い渡され、獄死しました。しかし、冤罪ではなかったかとも言われ、その後長男による再審請求がなされています。

・松川事件(1949年8月17日) 東北本線松川~金谷川駅間で発生

・まりも号脱線事件(1951年5月17日) 根室本線新得~落合駅間で発生
 脱線地点では、レールの継ぎ目板を外し、レールを4 cmずらされていて、蒸気機関車が線路外に逸脱して宙吊りとなり、軽傷者1人を出しましたが、真相は不明です。
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 今日は、幕末の1868年(慶応4)に、長岡藩家老河井継之助の亡くなった日ですが、新暦では10月1日となります。
 河合継之助(かわいつぎのすけ)は、1827年(文政10)に越後の長岡城下に生まれました。諸国を遊学した後、長岡に戻り、その才知と先見性により、藩の要職を任されるようになります。
 幕末の越後長岡藩の家老上席で、戊辰長岡戦争の軍事総督でした。薩長諸藩と対峙する重大事に家老となり、奥羽越列藩同盟の結成に参加し、薩長軍(西軍)と対決することになります。
 地理的に、最初に西軍の攻撃を受け、会津藩等の支援を受け、奮戦しますが、長岡城が落城し、一度は八丁沖渡渉の奇襲により、奪還に成功しますが、再び敗走します。
 そして、継之助も鉄砲傷を受けて会津へ向けて八十里峠を越えて逃れていく途中、塩沢村(現在の福島県只見町)の医師矢澤宗益宅で、1868年(慶応4年8月16日)に41歳で亡くなりました。
 戊辰戦争は、明治維新期の内戦として、多大な犠牲を払いながらも近代国家が形成されていく過程の出来事でした。これをテーマに書かれた小説はいくつかありますが、司馬遼太郎の『峠』は河井継之助に焦点を当てています。

〇「戊辰戦争」とは?
 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆「戊辰戦争」の推移

<1868年(慶応4/明治元)>
 ・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる
 ・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる
 ・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
 ・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
 ・4月11日 江戸城が無血開城される
 ・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
 ・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる
 ・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日でやぶる
 ・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
 ・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
 ・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
 ・9月8日 明治に改元される
 ・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
 ・9月10日 仙台藩が降伏する
 ・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
 ・10月25日 榎本武揚軍が箱館を占領する

<1869年(明治2)>
 ・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
 ・5月11日 箱館総攻撃が始まる
 ・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる
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