ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、俳人荻原井泉水が1884年(明治17)に生まれた日です。
 明治時代後期から昭和時代に活躍した俳人で、本名は藤吉といいます。1884年(明治17)6月16日に、東京市芝区神明町(現在の東京都港区浜松町)で雑貨商の次男として生まれ、麻布中学へ進みました。
 在学中より俳句を作るようになり、1901年(明治34)には、旧制第一高等学校に入学して、正岡子規の日本派に参加し、一高俳句会をおこすことになります。
 1905年(明治38)に東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)言語学科へ入学し、河東碧梧桐の新傾向俳句運動に加わって、井泉水の俳号を使うようになりました。
 大学卒業後、1911年(明治44)に新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰するようになり、谷桂子とも結婚します。その後、季題を廃し定型を捨てて自由律俳句を確立し、俳壇に大きな影響をあたえました。
 門下として、野村朱鱗洞、芹田鳳車、尾崎放哉、種田山頭火らがここから出ることになります。
 1955年(昭和30)に昭和女子大学教授、1965年(昭和40)に芸術院会員となりますが、1976年(昭和51)5月20日に、91歳で亡くなりました。
 句集に『原泉』(1960年)、『長流』(1964年)、『大江』(1971年)、主著に『俳句提唱』(1917年)、『新俳句研究』(1926年)、『旅人芭蕉』正続(1923~25年)、『奥の細道評論』(1928年)などがあります。

〇代表的な句
 「わらやふるゆきつもる」
 「棹さして月のただ中」
 「空をあゆむ朗朗と月ひとり」
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 今日は、明治時代後期の1896年(明治29)に、明治三陸地震による大津波の起きた日です。
 この地震は、岩手県の東方沖約200kmを震源に起きた巨大地震(マグニチュード8.2)ですが、陸上での震度は最大でも4程度でした。
 しかし、これによって大津波が発生して、約30分後に三陸地方沿岸を中心に北海道から牡鹿半島にいたる海岸に襲来し、最大波高は岩手県気仙郡綾里村(現在の岩手県大船渡市)では38.2mに達しました。
 その結果、死者・行方不明者は2万1,959人(青森343人、宮城3,452人、北海道6人、岩手1万8,158人)、負傷者4,398人、家屋流失9,878戸、家屋全壊1,844戸、船舶流失6,930隻、その他に農畜産物、道路・橋梁などの大きな被害が出たのです。
 これは、2011年(平成23)3月11日に東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)が起きるまでは、日本最大の津波被害とされていました。
 今までにも、三陸沖ではたびたび地震が起こり、津波によって大きな被害が出てきました。以下に、主な地震をあげておきます。

〇三陸沖で起きた主な地震

・貞観地震 869年7月9日(貞観11年5月26日)発生 M8.3 - 8.6 死者約1,000人
・慶長三陸地震 1611年12月2日(慶長16年10月28日)発生 M8.1 - Mw8.5 死者2,000 - 5,000人
・延宝八戸沖地震 1677年4月13日(延宝5年)発生 M7.4 - 7.9
・宝暦八戸沖地震 1763年1月29日(宝暦13年)発生 M7.4 - 7.9
・寛政地震 1793年2月17日(寛政5年1月7日)発生 死者約100人
・安政八戸沖地震 1856年8月23日(安政3年7月23日)発生 M7.5 - 7.7 死者38人
・明治三陸地震 1896年(明治29)6月15日発生 M 8.2 死者・行方不明者は2万1,959人
・昭和三陸地震 1933年(昭和8)3月3日発生 M 8.4 死者1,522人、行方不明者1,542人
・十勝沖地震 1968年(昭和43)5月16日発生 M 8.2 死者52人
・三陸はるか沖地震 1994年(平成6)12月28日発生 M 7.8 死者3人
・東北地方太平洋沖地震 2011年(平成23)3月11日発生 M 9.0 死者 15,893人、行方不明者 2,553人

〇明治時代以降に日本周辺で起きた被害の大きかった地震ワースト12

1. 関東地震[関東大震災](1923年9月1日)死者・行方不明者105,385人<マグニチュード7.9>
2. 東北地方太平洋沖地震[東日本大震災](2011年3月11日)死者・行方不明者22,010人<マグニチュード9.0>
3. 明治三陸地震(1896年6月15日)死者・行方不明者21,959人<マグニチュード8.2>
4. 濃尾地震(1891年10月28日)死者・行方不明者7,273人<マグニチュード8.0>
5. 兵庫県南部地震[阪神・淡路大震災](1995年1月17日)死者・行方不明者6,437人<マグニチュード7.3>
6. 福井地震(1948年6月28日)死者・行方不明者3,769人<マグニチュード7.1>
7. 昭和三陸地震(1933年3月3日)死者・行方不明者3,064人<マグニチュード8.1>
8. 北丹後地震(1927年3月7日)死者2,912人<マグニチュード7.3>
9. 三河地震(1945年1月13日)死者・行方不明者1,961人<マグニチュード6.8>
10,昭和南海地震(1946年12月21日)死者・行方不明者1,443人<マグニチュード8.0>
11.昭和東南海地震(1944年12月7日)死者・行方不明者1,223人<マグニチュード7.9>
12.鳥取地震(1943年9月10日)死者1,083人<マグニチュード7.2>
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 今日は、小説家川端康成が、1899年(明治32)に生まれた日です。
 川端康成は、大正時代から昭和時代に活躍した小説家で、大阪府大阪市に生まれ、茨木中学を終え、旧制第一高等学校から、東京帝国大学文学部に学びました。1921年(大正10)、在学中に石浜金作、鈴木彦次郎らと第六次『新思潮』を創刊し、それに掲載した『招魂祭一景』によって菊池寛らに認められます。
 1924年(大正13)、大学卒業後、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、今東光らと『文芸時代』を創刊し、新感覚派の代表作家として活躍しました。
 代表作は『伊豆の踊子』、『雪国』、『古都』、『山の音』、『抒情歌』、『禽獣』、『千羽鶴』、『眠れる美女』などがあります。
 太平洋戦争後の1948年(昭和23)に、日本ペンクラブ第4代会長に就任し、1957年(昭和32)に国際ペンクラブ東京大会を主催するなど尽力したのです。それらの功績により、1961年(昭和36)に文化勲章を受章し、1968年(昭和43)には日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しました。
 また、批評家としても優れていて、新人作家を発掘し、堀辰雄、北条民雄、岡本かの子、三島由紀夫などを育てたのです。
 しかし、1972年(昭和47)4月16日に72歳で、神奈川県逗子市のマンションの自室において、ガス自殺しました。  
 尚、川端康成と伊豆とのかかわりは深く、旧制高校生の青春時代から何度も伊豆半島に足を運び、各地の温泉旅館に逗留しています。自身とても気に入っていたようで、伊豆を題材に『伊豆の踊子』をはじめ、『春景色』『温泉宿』など30篇ほどの小説を書いています。
 その中でも、最も有名な『伊豆の踊子』の冒頭部分を引用しておきます。

〇『伊豆の踊子』川端康成著より
「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
 私は、二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊り、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲った急な坂道を駈け登った。ようやく峠の北口の茶屋に辿りついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。余りに期待がみごとに的中したからである。そこで旅芸人の一行が休んでいたのだ。
 突っ立っている私を見た踊子が直ぐに自分の座蒲団を外して、裏返しに傍へ置いた。
 ・・・・・・・」
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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に築地小劇場が開設された日です。、
 この劇場は、土方与志と小山内薫を主宰として、東京築地(現在の東京都中央区築地)に開設した日本最初の新劇専門劇団およびその劇場のことです。
 創立時のメンバーは他に、俳優として友田恭助、汐見洋、効果・照明担当の和田精、経営の浅利鶴雄の6人で、演技部に東屋三郎、青山杉作、研究生として千田是也、丸山定夫、田村秋子、山本安英らがいました。
 関東大震災後ヨーロッパから帰国した土方与志が私財を投じて建設(定員 497名)、ゴシック・ロマネスク様式で、当時最新の機構であるクッペルホリゾントや照明設備、可動舞台などが取入れられたのです。
 その後、5年間に100余編の内外戯曲を連続上演、新劇史上画期的な成果を収め、千田是也、山本安英、滝沢修、杉村春子ら、戦後の演劇界を支えた人々が巣立ちましたが、劇団は1930年(昭和5)に解散し、劇場も1945年(昭和20)に戦災で焼失しました。
 この間、実に多彩なものが上演されていますが、その一部を紹介しておきます。

〇築地小劇場で上演されたもの(一部)
 『海戦』(ラインハルト・ゲーリング作)
 『白鳥の歌』(チェーホフ作)
 『休みの日』(マゾオ作)
 『解放されたドン・キホーテ』(アナトリー・ルナチャルスキー作、千田是也訳、佐野碩演出)
 『夜の宿』(『どん底』)(ゴーリキィ作)
 『令嬢ジュリー』(A.ストリンドベリ作)
 『三人姉妹』(チェーホフ作)
 『国姓爺合戦』(近松門左衛門作)
 『役の行者』(坪内逍遥作)
 『法成寺物語』(谷崎潤一郎作)
 『ピーターパン』(ジェームス・マシュー・バリー作)
 『ダントンの死』(ゲオルク・ビューヒナー作)
 『風の又三郎』(宮沢賢治作)
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 今日は、1965年(昭和40)に家永教科書裁判の第一次訴訟が提訴された日です。初提訴から、終結までに約32年を要したので、「最も長い民事訴訟」としてギネス世界記録に認定されました。
 この裁判は、歴史学者家永三郎(当時は東京教育大学教授)が執筆した、高等学校用日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)に対する教科書検定に関して、昭和時代後期に日本国政府を相手に起こした3つの裁判のことです。
 1965年(昭和40)提訴の第一次訴訟(教科書検定被害に対する国家賠償を請求)、1967年(昭和42)提訴の第二次訴訟(不当な教科書検定行政処分取り消しを請求)、1984年(昭和59)提訴の第三次訴訟(正誤訂正申請不受理処分を対象に国家賠償を請求)がありました。
 これに至る経緯は、1962年度の文部省教科書検定において、高等学校用日本史教科書『新日本史』が不合格とされ、1963年度には条件つき合格となったものの大量の改善・修正意見がついたことによるものです。これは、「日本国憲法」 21条の表現の自由、検閲の禁止、23条の学問の自由、26条の教育を受ける権利に違反し、また、「教育基本法」 10条に定める教育行政の裁量権を逸脱した不当行為として、訴えたものでした。
 しかし、最高裁は「検閲にはあたらない」とし、教科書検定制度を合憲とした上で、原告の主張の大半を退け、原告の実質的敗訴が確定したのです。
 一方、検定内容の適否については、1993年(平成5)に、東京高裁は「草莽隊」、「南京大虐殺」、「南京戦における婦女暴行」の3ヶ所の記述削除を違法とし、1997年(平成9)に、最高裁はさらに「731部隊」を加えた計4ヶ所の記述削除を「国の裁量権逸脱」として違法とし、計40万円の支払いを国に命じました。
 この一連の裁判は、教科書検定制度の問題点を世間に明らかにし、公教育の在り方を広く問うものとなったのです。
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