大政奉還は、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌日朝廷がそれを許可した政治的事件です。
公武合体派の前土佐藩主山内豊信の建白により、慶喜は、幕府有司に意見を聴き、13日に在京の40藩の重臣(諸侯)を二条城大広間に集めて意見を求め、翌14日に「大政奉還の上表文」を朝廷に出しました。
しかし、大政奉還後に想定された諸侯会議が開催されない内に、討幕派による王政復古のクーデターが起き、慶喜の辞官納地を決定し、戊辰戦争へと向かうことになります。
〇大政奉還の上表文 (全文) 1867年11月9日(慶応3年10月14日)
大政奉還の上表文
臣慶喜、謹而皇國時運之沿革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解キ相家權ヲ執リ、保平之亂政權武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百餘年子孫相承。臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑當ヲ失フコト不少。今日之形勢ニ至候モ、畢竟薄德之所致、不堪慚懼候、況ヤ當今、外國之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝權一途ニ出不申候而ハ、綱紀難立候間、從來之舊習ヲ改メ、政權ヲ朝廷ニ奉歸、廣ク天下之公議ヲ盡シ、聖斷ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海外萬國ト可並立候。臣慶喜國家ニ所盡是ニ不過ト奉存候。乍去猶見込之儀モ有之候得ハ、可申聞旨、諸侯ヘ相達置候、依之此段謹而奏聞仕候。以上。
「維新史」より
<現代語訳>
大政奉還の上表
天皇の臣下である慶喜が、謹んで皇国の時運の変遷を考えてみますと、昔天皇の政治が乱れ藤原氏が権力を握り、保元・平治の乱を機に政権が武家に移ってから、私の祖先(徳川家康)に至りさらに朝廷の寵愛を受け、二百余年も子孫が将軍職を受け継いできました。そして私がその職を継いだのですが、行政や司法において当を得ないことが少なくないのです。今日の形勢になりましたのも、結局は私の不徳の致すところで、恥じ入り恐れるばかりです。まして最近は、外国との交際が日々盛んになり、いよいよ朝廷に権力が統一されなければ、国家を治めて保持することが難しくなりましたから、従来の旧習を改め、政権を朝廷にお返しし、広く天下の議論をつくし、天皇のご英断を仰ぎ、心を一つにして協力し、皇国を守っていったならば、必ず海外諸国と肩を並べることができるでしょう。天皇の臣下である慶喜が国家につくすことはこれ以上のものはないと考えます。しかしながらなお今後どうすべきかの意見があったならば、聞くので申し述べよと、諸大名に伝えてあります。これを以て本件につき謹んで申し上げます。以上
【注釈】
[1]臣慶喜:しんよしのぶ=江戸幕府第15代将軍徳川慶喜の自称。
[2]皇國:こうこく=天皇の国、つまり日本を表す。
[3]王綱:おうこう=天皇の政治。
[4]紐ヲ解キ:ちゅうをとき=乱れること。
[5]相家:しょうか= 大臣家(藤原氏)。
[6]權ヲ執リ:けんをとり=権力を握ること。
[7]保平之亂:ほへいのらん=保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)。
[8]武門:ぶもん=武士の家筋。武家。
[9]祖宗:そそう=徳川氏の祖先(初代将軍徳川家康のこと)。
[10]寵眷:ちょうけん=寵愛して特別に目をかけること。寵愛を受けること。
[11]政刑:せいけい=政治と刑罰、つまり行政と司法のこと。
[12]畢竟:ひっきょう=結局。要するに。
[13]薄德:はくとく=徳の少ないこと。徳のうすいこと。
[14]慚懼:ざんく=恥じ、おそれること。
[15]朝權:ちょうけん=朝廷の権力。
[16]綱紀:こうき=国家を治める大法と細則。国家を治めること。
[17]聖斷:せいだん=天皇の裁断。
[18]同心協力:どうしんきょうりょく=心を一つにして協力すること。
[19]萬國:ばんこく=世界の国々。あらゆる国。
[20]見込之儀:みこみのぎ=どのようにすべきかの意見。
[21]可申聞旨:もうしきくべきむね=申し述べるように。