ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、「日独伊三国同盟」が調印された日です。
 この条約は、ドイツのベルリンで調印された、日本、ドイツ、イタリア三国の軍事同盟でした。
 1937年(昭和12)に結ばれた「日独伊防共協定」を強化しようとする目的で、第一次近衛文麿内閣の末期に交渉が開始され、第二次世界大戦初頭のドイツ優勢の状況下で発展、成立したもので、その条約の正式名称は「日本國、獨逸國及伊太利國閒三國條約」です。
 その内容は、ヨーロッパおよびアジアにおける「新秩序建設」に関し、ドイツ、イタリアおよび日本は、その「指導的地位」を認め合うこと、また日中戦争およびヨーロッパ戦争に参加していない第三国の攻撃に対してあらゆる「政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキコト」を誓約するものでした。
 これによって、日本はヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアのファシズム国家と結ぶことになり、アメリカ・イギリスを強く刺激し、太平洋戦争へ突入していく要因の一つとなったのです。

〇「日独伊三国同盟」(全文) 1940年(昭和15)9月27日

日本國、獨逸國及伊太利國閒三國條約

 大日本帝国政府、独逸国政府及伊太利国政府ハ万邦ヲシテ各其ノ所ヲ得シムルヲ以テ恒久平和ノ先決要件ナリト認メタルニ依リ大東亜及欧洲ノ地域ニ於テ各其ノ地域ニ於ケル当該民族ノ共存共栄ノ実ヲ挙ケルニ足ルヘキ新秩序ヲ建設シ且之ヲ維持センコトヲ根本義ト為シ右地域ニ於テ此ノ趣旨ニ拠ル努力ニ付相互ニ提携シ且協力スルコトニ決意セリ而シテ三国政府ハ更ニ世界到ル所ニ於テ同様ノ努力ヲ為サントスル諸国ニ対シ協力ヲ吝(おし)マサルモノニシテ斯クシテ世界平和ニ対スル三国終局ノ抱負ヲ実現センコトヲ欲ス依テ日本国政府独逸国政府及伊太利国政府ハ左ノ通協定セリ

 第一条 日本国ハ独逸国及伊太利国ノ欧洲ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス
 第二条 独逸国及伊太利国ハ日本国ノ大東亜ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス
 第三条 日本国、独逸国及伊太利国ハ前記ノ方針ニ基ク努力ニ付相互ニ協力スヘキコトヲ約ス更ニ三締約国中何レカノ一国カ現ニ欧洲戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一国ニ依テ攻撃セラレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキコトヲ約ス
 第四条 本条約実施ノ為各日本国政府、独逸国政府及伊太利国政府ニ依リ任命セラルヘキ委員ヨリ成ル混合専門委員会ハ遅滞ナク開催セラルヘキモノトス
 第五条 日本国、独逸国及伊太利国ハ前記諸条項カ三締約国ノ各ト「ソヴィエト」連邦トノ間ニ現存スル政治的状態ニ何等ノ影響ヲモ及ホササルモノナルコトヲ確認ス
 第六条 本条約ハ署名ト同時ニ実施セラルヘク、実施ノ日ヨリ十年間有効トス右期間満了前適当ナル時期ニ於テ締約国中ノ一国ノ要求ニ基キ締約国ハ本条約ノ更新ニ関シ協議スヘシ
 右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本条約ニ署名調印セリ

  昭和十五年九月二十七日即チ一九四〇年、「ファシスト」暦十八年九月二十七日伯林(ベルリン)ニ於テ本書三通ヲ作成ス

                      「日本外交年表竝主要文書」より
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 今日は、昭和時代中期の1959年(昭和34)に、伊勢湾台風が襲来した日です。
 この台風は、昭和34年台風第15号(国際名:Vera)のことで、9月26日に和歌山県の潮岬に中心気圧929hPa(ヘクトパスカル)の非常に強い勢力で上陸、紀伊半島から東海地方を中心に、全国的に大きな被害を及ぼし、死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名にも及びました。
 特に、伊勢湾沿岸の愛知県・三重県では高潮が発生して浸水し、被害が特に甚大であり、「伊勢湾台風」と呼ばれることとなったのです。
 その後、室戸台風(1934年)、枕崎台風(1945年)と並んで昭和の三大台風の一つに数えられることになりました。
 伊勢湾沿岸の名古屋市南部、弥富市、飛島村、木曽岬町、桑名市など被害がひどかった数十ヶ所に慰霊碑が建てられています。
 また、「伊勢湾台風記念館」(三重県桑名市)は、防災意識を忘れないためにと建てられた記念館で、1階は備蓄倉庫、2階は展示室、3階が展望台になっています。展示室は、伊勢湾台風当時の写真など災害の恐ろしさを伝える展示がされていますが、予約が必要なので注意してください。3階の展望台からの眺望が良く、かつての伊勢湾台風被害地を一望することができます。

〇上陸時(直前)の中心気圧が低い台風ベスト10

1.第2室戸台風(昭和36年台風第18号)中心気圧925hPa 1961年(昭和36)9月16日9時 室戸岬西方上陸
2.伊勢湾台風(昭和34年台風第15号)中心気圧929hPa 1959年(昭和34)9月26日18時 潮岬西方上陸
3.平成5年台風第13号 中心気圧930hPa 1993年(平成5)9月3日16時 薩摩半島南部上陸
4.ルース台風(昭和26年台風第15号)中心気圧935hPa 1951年(昭和26)10月14日19時 串木野市付近上陸
5.平成3年台風第19号 中心気圧940hPa 1991年(平成3)9月27日16時 佐世保市南上陸
5.昭和46年台風第23号 中心気圧940hPa 1971年(昭和46)8月29日23時 大隅半島上陸
5.昭和40年台風第23号 中心気圧940hPa 1965年(昭和40)9月10日8時 安芸市付近上陸
5.昭和39年台風第20号 中心気圧940hPa 1964年(昭和39)9月24日17時 佐多岬上陸
5.昭和30年台風第22号 中心気圧940hPa 1955年(昭和30)9月29日22時 薩摩半島上陸
5.昭和29年台風第5号 中心気圧940hPa 1954年(昭和29)8月18日2時 鹿児島県西部上陸

※台風の正式な統計は1951年(昭和26)から開始されたので、下記の記録は参考記録扱いとされます
・室戸台風 - 中心気圧911.6hPa 1934年(昭和9)9月21日 室戸岬西方上陸
・枕崎台風(昭和20年台風第16号) 中心気圧916.3hPa 1945年(昭和20)9月17日 薩摩半島枕崎付近上陸
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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、奈良県生駒郡斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表された日で、「藤ノ木古墳記念日」とも呼ばれていました。
 藤ノ木古墳は、大型円墳(直径約50m、高さ約8m)で、古墳時代後期の6世紀後半に造られたと考えられています。
 1985年(昭和60)の第1次調査によって、盗掘を免れてきた横穴式石室内から、60個体余の土師器・須恵器と金銅製の豪華な馬具などが出土したことで注目されました。
 1987年(昭和62)に橿原考古学研究所が第2次調査を行ない、国内の発掘調査史上初めてファイバースコープによる石棺内の確認調査がされます。
 そして、1988年(昭和63)の第3次調査において開棺調査され、金銅製の冠、沓、筒型製品、帯、6振の大刀、5面の鏡、金の耳飾りなどで装飾された成人男性2体の骨が発見されました。これらの調度品の高度な技術と華麗な意匠は、古墳時代後期の工芸技術の粋を集めたものとして高く評価されたのです。
 1988年(昭和63)に石棺外出土品が国の重要文化財に指定され、1991年(平成3)に石棺内出土品が追加指定を受け、古墳自体も国の史跡に指定されました。さらに、2004年(平成16)に副葬品が一括して国宝に指定されたのです。
 また、古墳から南へ200mのところにガイダンス施設(斑鳩文化財センター)があり、主な出土品のレプリカが展示されていますし、「奈良県立橿原考古学研究所」(奈良県橿原市)では出土品が常設展示されるようになりました。

〇藤ノ木古墳出土品(国宝指定)

<石棺外出土>
・金銅鞍金具 1背
・鉄地金銅張鞍金具 残欠共 2背分
・金属製品 一括(馬具類、挂甲小札、刀身、鉄鏃、鉄製模造品など)
・土師器・須恵器(蓋3箇共)46箇(須恵器37箇(蓋3箇共)、土師器9箇)

<石棺内出土>
・銅鏡 4面(獣帯鏡1、画文帯神獣鏡2、神獣鏡1)
・金属製品 一括(金銅冠、金銅履、金銅製・銀製装飾品類、刀剣類など)
・ガラス製品 一括(ガラス玉類)
・附 繊維類 一括
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 今日は、昭和時代後期の1966年(昭和41)に、熊本県の天草五橋(パールライン)が開通した日です。
 天草五橋(あまくさごきょう)は、熊本県宇土半島先端の三角から、天草諸島の大矢野島、永浦島、池島、前島を経て天草上島までを結ぶ5つの橋(天門橋、大矢野橋、中の橋、前島橋、松島橋)のことで、日本道路公団によって建設されました。
 国道266号の一部をなし、現在の宇城市から上天草市にかけての約12kmの連絡道路となっていますが、開通当初は有料道路で、30年で償還する予定だったものの、わずか9年で通行無料になります。
 1935年(昭和10)に、天草架橋構想が熊本県議会に提案されて以降、27年にして、1962年(昭和37)に、日本道路公団によって起工されました。各橋はそれぞれ周囲の自然環境と技術上の条件を考慮して選ばれた構造形式を採用し、当時の日本橋梁技術の粋を集めたものです。そして、3年の工期を経て完成し、熊本県民の悲願がかなうことになりました。
 周辺は、雲仙天草国立公園の指定を受ける風光明媚なところで、この完成によって、長崎、雲仙と阿蘇、別府とを結ぶ国際観光ルートとして注目され、多くの観光客を呼び込むことになります。
 
〇「天草五橋」の特徴
・1号橋(天門橋)形式:トラス橋、全長502m 宇土半島先端~大矢野島
・2号橋(大矢野橋)形式:ランガートラス橋、全長249m 大矢野島~永浦島
・3号橋(中の橋)形式:PC箱桁橋、全長361m 永浦島~池島
・4号橋(前島橋)形式:PC箱桁橋、全長510m 池島~前島
・5号橋(松島橋)形式:パイプアーチ橋、全長178m 前島~天草上島東端
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 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、思想家・社会運動家幸徳秋水の生まれた日ですが、新暦では11月5日となります。
 幸徳秋水は、明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。
 子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
 1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
 1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されます。また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草しました。
 日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社します。
 その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開しました。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。
 しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めました。
 1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされます。そして、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
 著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。
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