ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、江戸時代後期の1849年(嘉永2)に、浮世絵師葛飾北斎の亡くなった日ですが、新暦では5月10日となります。
 葛飾北斎は、1760年(10年9月23日)に、武蔵国葛飾郡本所(現在の東京都墨田区)の農家川村家の子として生まれましたが、幼名は時太郎といいました。
 1778年(安永7)に、浮世絵師・勝川春章に入門し、勝川春朗と号して役者絵を発表するようになります。1794年(寛政6) 勝川派を破門され、狩野派、土佐派、琳派、洋風画など和漢洋の画法を摂取しました。30歳代後半に至って自己の画風を確立し、1798年(寛政10)に北斎と号するようになりました。
 画域も役者絵、美人画、風景画、花鳥画、社会風俗画、挿絵、版本など広い分野にわたり、人気絵師となります。1804年(文化元)頃から10年間ほどは、読本挿絵を多く手掛け、滝沢馬琴などと組んで多くの名作を残しました。
 次に、1814年(文化11)に初編を発刊した『北斎漫画』で注目されますが、この前後に諸国を旅するようになります。そして各地から望む富士を描いた『富嶽三十六景』 (1830年から出版) が評判となり、浮世絵における風景版画創始者の地位を確立します。
 しだいに肉筆画に傾注し、晩年まで画業に励むものの、1849年(嘉永2年4月18日)に、江戸・浅草の仮宅において、88歳で没しました。
 死後、世界的に評価されるようになり、ヨーロッパ後期印象派にも大きな影響を与えています。

〇葛飾北斎の主要な作品

<錦絵>
・『富嶽三十六景』全46枚(1830年から出版)
・『諸国滝廻(たきめぐ)り』全8枚
・『諸国名橋奇覧』全11枚
・『東海道五拾三次(狂歌入り東海道)』摺物全59枚
・『千絵 (ちえ) の海』全10枚

<絵手本>
・『北斎漫画』(初編は1814年刊)

<絵本>
・『富岳百景』全3巻(初編は1834年刊)

<肉筆画>
・『二美人図』国指定重要文化財
・『汐干狩図』国指定重要文化財
・『日新除魔図』国指定重要文化財
・『富士の巻狩図』千葉県指定文化財
・『鯉と亀図』埼玉県指定文化財

<挿絵>
・絵入狂歌本『東都名所一覧』(1800年)
・絵入狂歌本『隅田川両岸一覧』(1806年頃)
・読本『新編水滸(すいこ)画伝』(滝沢馬琴作)
・読本『小説比翼文』(滝沢馬琴作・1804年)
・読本『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(滝沢馬琴作・1807年~11年)
・読本『近世怪談霜夜星(しもよのほし)』(柳亭種彦作・1808年)
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 今日は、奈良時代の723年(養老7)に、開墾地の3代までの私有を認める「三世一身法」が発布された日ですが、新暦では5月25日となります。
 これは、律令制の下で、班田収授法に関わって、出された田地開墾の奨励法です。口分田不足が生じてきている中で、自力で池溝(灌漑施設)を造って田地を開墾した者に三世の間、また古くからの池溝(灌漑施設)を利用して田地を開墾した者は、その身一代の間はその墾田の占有を許したものでした。
 しかし、収公の期限が近づくと耕作の意欲が低下し、それによって荒廃する田地もでてきます。そこで、743年(天平15)に「墾田永年私財法」を定め、墾田はいつまでも私財として収公しないことになり、荘園を発生させ、徐々に班田収授法が崩れていくことになりました。

〇三世一身法 (全文) 723年(養老7年4月17日)

養老七年四月辛亥
太政官奏。頃者。百姓漸多。田池窄狭。望請。勧課天下。開闢田疇。其有新造溝池。営開墾者。不限多少。給伝三世。若逐旧溝池。給其一身。奏可之。

                        『続日本紀』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

養老七年四月辛亥
太政官奏すらく[1]、『頃者百姓漸く多く、田池搾狭[2]なり。望み請ふらくは、天下に勧め課せて、田疇[3]を開闢かしめむ[4]。其れ新たに溝池[5]を造り、開墾を営む者あらば、多少に限らず、給して、三世[6]に伝へしめむ。若し旧き溝池を逐はば[7]、其の一身に給せむ』と。奏してこれを可そす。

【注釈】
[1]太政官奏すらく:だじょうかんそうすらく=太政官の合議を奏上して天皇の裁可を求めること。
[2]窄狭:さくきょう=せまいこと。
[3]田疇:でんちゅう=田地。
[4]開闢かしめむ:ひらかしめむ=開墾させたい。
[5]溝池:こうち=用水路やため池などの灌漑施設。
[6]三世:さんぜ=三代目のこと。
[7]旧き溝池を逐はば:ふるきこうちをおはば=既設の灌漑施設を利用したならば。

<現代語訳> 三世一身法

養老七年四月辛亥(十七日)
太政官から次のように元正天皇に奏上された。「近頃,人口がしだいに増え、班給する田や池が不足しています。よって、天下の人民に田地の開墾を奨励したいと思います。その場合、新しく灌漑用の溝や池を造って開墾をした者があれば、その面積の多少にかかわらず、三代の間の所有を認めたいと思います。もし、既設の灌漑用の溝や池を利用して開墾した者については、本人一代に限って所有を認めたいと思います。」この上奏は許可された。
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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、大隈重信らが立憲改進党を結成した日です。
 この政党は、明治時代の自由民権運動の代表的政党の一つで、大隈重信を中心に小野梓・尾崎行雄・河野敏鎌・沼間守一らが参加し、イギリス流の漸進主義をとりました。その主張は、立憲君主制のもとでの二院制議会の早期開設で、金貨制の断行、学問の独立、政教分離、地方自治などを訴え、都市知識人、産業ブルジョア、地方の商工業者、地主層の支持を得ます。
 結党時は党員116名からスタートしましたが、しだいに増加し、1884年(明治17)4月には1,729名に達しました。しかし、自由民権運動の激化事件の発生、政府の弾圧強化、自由党解党などの影響を受けて、解党論が台頭し、総理の大隈重信をはじめ、小野梓、河野敏鎌らが脱党するという事態が生じ、停滞します。
 後に、大隈重信が復帰し、三大事件建白運動・大同団結運動では旧自由党系と連携して行動したものの、大同団結はなりませんでした。
 1890年(明治23)の帝国議会開設後は、41議席を占めて、民党として活躍し、自由党と協調して民力休養を唱え、予算の削減にあたるなどします。
 1894年(明治27)に日清戦争が始まると、国権主義的立場に立って支持を拡大し、1896年(明治29)には解党し、立憲革新党などと合同して進歩党となりました。

〇自由民権運動とは?

 明治時代前期、1874年(明治7)の板垣退助等による「民撰議院設立の建白書」の提出を契機に自由民権運動が始まりました。
 それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われました。
 しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきます。
 その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件がおきることになりました。

☆ 自由民権運動関係年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平が佐賀で乱を起こす(佐賀の乱)
・4月 板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される

<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される

<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)

<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される

<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
・3月15日 国会期成同盟が結成される   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月16日 大隈重信が立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)>
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する

<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

〇大隈重信とは?

 明治時代から大正時代に活躍した政治家・教育者です。江戸時代後期の1838年(天保9年2月16日)に、肥前国佐賀(現在の佐賀県佐賀市)に、佐賀藩砲術長の父大隈信保、母三井子の長男として生まれましたが、幼名は八太郎といいました。
 7歳で藩校弘道館に入学しましたが、教育方針に不満を持ち、学制改革を試みるものの、退学するに至ります。1856年(安政2)に、蘭学寮に移って西欧の学問に接し、1865年(元治2)には長崎に出て、アメリカ人宣教師フルベッキに英学を学びました。また、京都や長崎を往来して、尊王攘夷派として活動し、1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしますが、捕らえられて謹慎処分を受けます。
 明治政府成立時の1868年(明治元)に、参与兼外国事務局判事に登用され、外国官副知事に昇進、翌年会計官副知事、次いで大蔵大輔として手腕を発揮し、1870年(明治3)には参議となりました。その中で、秩禄処分、地租改正、殖産興業政策などを推進しましたが、明治十四年の政変で下野することとなります。
 1882年(明治15)に、立憲改進党を結成して総理となり、同年に東京専門学校(後の早稲田大学)を創立し、青年教育にも当たりました。1888年(明治21)に外務大臣となり、条約改正交渉にあたりましたが、反対派に爆弾をなげつけられて右足を失います。
 1898年(明治31)に板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織し、総理大臣となったものの、党内抗争と薩長の妨害でわずか4ヵ月で総辞職するに至りました。
 1914年(大正3)に第2次内閣を組織して、再び総理大臣となり、第一次大戦に参戦、翌年には「対華二十一ヵ条要求」を提出、軍備拡張を行ったします。
 しかし、1916年(大正5)に侯爵に叙せられた後に辞職し、1922年(大正11)1月10日に、東京において83歳で亡くなりました。
 著作には、『大隈伯昔日譚』、『開国五十年史』(編著)、『開国大勢史』、『東西文明の調和』等があります。
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 今日は、平安時代前期の905年(延喜5)に、『古今和歌集』が醍醐天皇に奏上された日ですが、新暦では5月21日となります。
 これは、醍醐天皇の勅命で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人が撰者となって編集し、905年(延喜5年4月15日)に奏上(注:仮名序では4月18日)された最初の勅撰和歌集で、『古今集』とも呼ばれていました。
 全二十巻からなり、仮名序と真名序の二つの序文があって、約1,100首を収め、春・夏・秋・冬など13に分類されています。ほとんどが短歌ですが、旋頭歌4首と長歌5首もあり、技巧的・観念的で、繊細・優美な歌が多く、「万葉集」の率直な写生の歌とは異なっていました。
 入集歌数が多いのは、紀貫之(102首)、凡河内躬恒(60首)、紀友則(46首)、壬生忠岑(36首)、素性(36首)、在原業平(30首)の順となっています。
 この歌集以後、勅撰和歌集が編集され、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。尚、1205年(元久2)成立の『新古今集』までの初めの8つを「八代集」とも呼んでいます。

<収載されている代表的な歌>
・「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀友則)
・「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(藤原敏行)
・「冬がれの 野辺とわが身を 思ひせば 燃えても春を 待たましものを」(伊勢)
・「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」(壬生忠岑)
・「桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける」(紀貫之)
・「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)

〇勅撰和歌集(二十一代集)一覧

1 『古今和歌集』20巻・1,100首(醍醐天皇下命)905年成立[選者:紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑]
2 『後撰和歌集』20巻・1,425首(村上天皇下命)957-959年成立[選者:大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城]
3 『拾遺和歌集』20巻・1,351首(花山院下命)1005-07年成立[選者:花山院] 藤原公任『拾遺抄』の増補
4 『後拾遺和歌集』20巻・1,218首(白河天皇下命)1086年成立[選者:藤原通俊]
5 『金葉和歌集』10巻・650首(白河院下命)1126年成立(三奏本)[選者:源俊頼](三奏本) 世上に流布したのは10巻665首の二度本
6 『詞花和歌集』10巻・415首(崇徳院下命)1151年頃成立[選者:藤原顕輔]
7 『千載和歌集』20巻・1,288首(後白河院下命)1188年成立[選者:藤原俊成]
8 『新古今和歌集』20巻・1,978首(後鳥羽院下命)1205年成立[選者:源通具、藤原有家、藤原定家、飛鳥井雅経、寂蓮(実際は後鳥羽院親撰)]
9 『新勅撰和歌集』20巻・1,374首(後堀河天皇下命)1235年成立[選者:藤原定家]
10 『続後撰和歌集』20巻・1,371首(後嵯峨院下命)1251年成立[選者:藤原為家]
11 『続古今和歌集』20巻・1,915首(後嵯峨院下命)1265年成立[選者:藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良]
12 『続拾遺和歌集』20巻・1,459首(亀山院下命)1278年成立[選者:二条為氏]
13 『新後撰和歌集』20巻・1,607首(後宇多院下命)1303年成立[選者:二条為世]
14 『玉葉和歌集』20巻・2,800首(伏見院下命)1312年成立[選者:京極為兼]
15 『続千載和歌集』20巻・2,143首(後宇多院下命)1320年成立[選者:二条為世]
16 『続後拾遺和歌集』20巻・1,353首(後醍醐天皇下命)1326年成立[選者:二条為藤、二条為定]
17 『風雅和歌集』20巻・2,211首(花園院監修、光厳院下命)1349年成立[選者:光厳院(親撰)]
18 『新千載和歌集』20巻・2,365首(後光厳天皇下命)1359年成立[選者:二条為定]
19 『新拾遺和歌集』20巻・1,920首(後光厳天皇下命)1364年成立[選者:二条為明、頓阿]
20 『新後拾遺和歌集』20巻・1,554首(後円融天皇下命)1384年成立[選者:二条為遠、二条為重]
21 『新続古今和歌集』20巻・2,144首(後花園天皇下命)1439年成立[選者:飛鳥井雅世]
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 今日は、駿河国守護今川氏親が「今川仮名目録」を制定した日ですが、新暦では5月25日となります。
 これは、戦国時代の1526年(大永6)に今川氏の領内に発布した分国法の一つでした。33箇条(31箇条の異本あり)からなり、地頭と本・新名主(百姓)の関係、境界相論、喧嘩・盗賊の取締、所領売買制限、借米銭の利子率、宗論・私婚の禁止などを規定しています。
 また、氏親の子義元が1553年(天文 22)に制定した「仮名目録追加」21箇条というのもあり、そこでは、 家臣の被官関係、不入権、相続および裁判手続などを追加規定していました。
 東国最古の分国法で、隣国甲斐の武田氏の分国法「甲州法度之次第」に影響を与えていると言われています。

〇分国法(ぶんこくほう)とは?
 戦国大名が領国支配のために制定した法令で、戦国家法とも呼ばれています。その支配対象である家臣団および領国のすべての法全体の基礎とする目的で制定され、恒久的効力を付与したものでした。
 その内容は、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領の相続、軍役、負担の責任体系などからなっていて、家臣団を対象とする家法的要素と領国民一般を対象とする国法敵要素に大別されます。

☆主要な分国法一覧

・「大内家壁書」1439年(永享11)~1529年(享禄2)大内氏が発した単行法令を集成[11条]
・「朝倉孝景条々」1479年(文明11)~1481年(文明13)頃 朝倉孝景が制定[17ヶ条]
・「相良氏法度」1493年(明応2)~1555年(天文24)相良為続らが制定[41ヶ条]
・「伊勢宗瑞十七箇条」 伊勢宗瑞(北条早雲)[17ヶ条]
・「大友義長条々」1515年(永正12) 大友義長[17ヶ条+追加8ヶ条の計25ヶ条]
・「今川仮名目録」1526年(大永6)・1553年(天文23)今川氏親と今川義元が制定[33ヶ条・追加21ヶ条]
・「塵芥集」 1536年(天文5)伊達稙宗が制定[171ヶ条] 
・「甲州法度次第」1547年(天文16)武田信玄が制定[26ヶ条 後、29~30ヶ条追加] 
・「結城家法度」1556年(弘治2) 結城政勝制定[106ヶ条]
・「新加制式」永禄年間または1560年代 三好長治が制定[22ヶ条] 
・「六角氏式目」1567年(永禄10)六角義賢・義治父子と有力家臣が制定[本文67ヶ条、起請8ヶ条、追加6ヶ条] 
・「長宗我部元親百箇条」1597年(慶長2)長宗我部元親・盛親父子が制定[100ヶ条]
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