ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

ashizurikaiyoukan01
 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、足摺宇和海国立公園内に「高知県立足摺海洋館」が開館した日です。
 高知県立足摺海洋館(こうちけんりつ あしずりかいようかん)は、高知県土佐清水市の足摺宇和海国立公園内にある高知県立の水族館です。昭和時代後期の1972年(昭和47)に、足摺宇和海国定公園が国立公園に昇格したことを契機に、竜串地域の海洋に関係する観光施設を包含する「海洋学園構想」が策定され、この構想の一環として、1975年(昭和50)5月2日にオープンしました。
 施設用地13,858.76㎡、延床面積3,397.81㎡、展示水量712.01t、常設展示水槽数70基あり、「土佐の海と黒潮の魚たち」をテーマに、土佐清水市・大月町の沿岸海域を泳ぐ魚類を中心に、約3,500種1万5,000点の海の生物を飼育・展示しています。2020年(令和2)7月18日に、「足摺海洋館 SATOUMI」として、リニューアルオープンし、足摺の生態系をリアルに再現した展示と竜串湾の自然やマリンアクティビティが連動するように設計されており、隣接する竜串ビジターセンターとも連携してきました。

〇高知県立足摺海洋館関係略年表

・1972年(昭和47)11月10日 - 足摺宇和海国定公園が国立公園に昇格する
・1975年(昭和50)5月2日 - 「高知県立足摺海洋館」が開館する
・1996年(平成8)1月16日 - 改修工事により休館
・1996年(平成8)4月27日 - 部分再開する
・1996年(平成8)7月20日 - 全館再開する
・2005年(平成17)7月12日 - アスベストが一部施設に使用されていることが分かり調査休館する
・2005年(平成17)11月 - アスベストの除去工事のため休館する
・2006年(平成18)4月29日 - 営業再開する
・2014年(平成26)2月 - 「高知県立足摺海洋館あり方検討委員会」が設置される
・2018年(平成30)9月14日 - 新足摺海洋館の起工式が行われる
・2020年(令和2)7月18日 - 「高知県立足摺海洋館 SATOUMI」として、リニューアルオープンする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

713年(和銅6)元明天皇が諸国に『風土記』の編纂を命じる(新暦5月30日)詳細
756年(天平勝宝8)聖武天皇の命日(新暦6月4日)詳細
1875年(明治8)東京と横浜で郵便貯金業務を開始する(郵便貯金の日)詳細
1920年(大正9)東京の上野公園で第1回メーデーが開催される詳細
1927年(昭和2)社会運動家・女性解放運動の先駆者福田英子の命日詳細
1948年(昭和23)日本における、夏時間(サマータイム)が開始(1951年までの4年間で廃止)される詳細
1949年(昭和24)「国民金融公庫法」が公布・施行され、国民金融公庫が設立されることになる詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

dai17kaimayday01
 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、日本でメーデーが11年ぶりに復活し、全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が参集した日です。
 メーデー(May Day)は、世界各地で毎年5月1日に行われてきた労働者の祭典で、労働者が団結して権利を要求する日とされてきました。その起源は、1884年(明治17)に、アメリカ全土の労働組合、各種団体が8時間労働制の要求を掲げ、毎年5月1日にゼネストを決行することを決定、その第1回行動を起したことに始るとされます。
 1889年(明治22)の第二インターナショナル創立大会で、これを記念して5月1日を労働運動の日に設定、翌年には第1回国際メーデーがヨーロッパ、アメリカの各工業都市で開催されました。日本では、1905年(明治38)に平民社主催で開催された茶話会がメーデーの先駆けとされますが、1920年(大正9)5月2日に、大日本労働総同盟友愛会主催で、東京の上野公園(現在の東京都台東区)で約1万人の労働者が集まって「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴えたのが、第1回メーデーとされています。
 翌年からは5月1日開催となり、開催地や参加人数も増えていったものの、1935年(昭和10)の第16回メーデーが、戦前最後のメーデーとなりました。その後、1936年(昭和11)の2.26事件の影響で、3月19日付「集会及多種運動の取締方に関する件」により、メーデー開催が禁止され、第17回メーデー以降は中止されます。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)5月1日に、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれ全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集りました。しかし、1951年(昭和26)の第22回大会では、政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が芝公園で実質的な中央メーデーを開催、翌年の第23回大会では、皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突し、流血の惨事となる「血のメーデー事件」も起きています。
 1989年(平成元)の第59回では、労働組合の全国中央組織の再編の影響もあって、統一メーデーの開催ができなくなり、日本労働組合総連合会(連合)と非連合系の全国労働組合総連合(全労連)や全国労働組合連絡協議会(全労協)による分裂開催となりました。

〇日本のメーデー関係略年表 

・1905年(明治38) 平民社の主催で開かれた茶話会がメーデーの先駆けと言われている
・1906年(明治39) 横浜曙会の吉田只次・村木源次郎・金子新太郎らがメーデーを記念し街頭演説する
・1917年(大正6)5月7日 在京社会主義者約30人がメーデー記念の集いを開催する
・1920年(大正9)5月2日 第1回のメーデー(主催:大日本労働総同盟友愛会 司会者:鈴木文治)が上野公園(現在の東京都台東区)で行われ、およそ1万人の労働者が「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴える
・1921年(大正10) 第2回のメーデーからは5月1日となり、開催地や参加人数も増えていく
・1935年(昭和10) 第16回メーデーが開催され、戦前最後のメーデーとなる
・1936年(昭和11) 3月19日付「集会及多種運動の取締方に関する件」により、メーデー開催が禁止され、第17回メーデーは中止される
・1946年(昭和21)5月1日 11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれ全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集まる
・1946年(昭和21)5月19日 「食糧メーデー」が25万人を集めて行われ、民主人民政府の樹立が決議される
・1951年(昭和26) 第22回大会では、政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が芝公園で実質的な中央メーデーを開催する
・1952年(昭和27) 第23回大会では、皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突し、流血の惨事となる(血のメーデー事件)
・1984年(昭和59) 第54回大会では特別決議としてメーデーの祝日化要求が採択され
・1985年(昭和60) 第55回大会ではサブスローガンで「週40時間制」、前年の祝日化要求決議を引き継ぐ「太陽と緑の週」の法制化など、労働時間短縮(時短)の実現が掲げられる
・1989年(平成元) 第59回では統一メーデーの開催ができなくなり、日本労働組合総連合会(連合)と非連合系の全国労働組合総連合(全労連)や全国労働組合連絡協議会(全労協)による分裂開催となる
・2001年(平成13) 連合系は4月の最終土曜日や昭和の日などに「4月(April)にメーデー(May Day)」を行うようになり、一方で全労連や全労協のメーデーは5月1日開催を続ける

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1275年(建治元)歌人・公卿藤原為家の命日(新暦5月27日)詳細
1911年(明治44)宮ノ越駅~木曽福島駅間が開業し、中央本線(昌平橋駅~塩尻駅~名古屋駅)が全通する詳細
1938年(昭和13)ガソリン切符制が実施される(「ガソリン1滴は血の1滴」の戦時標語が登場する)詳細
1940年(昭和15)「国民優生法」(昭和15年法律第107号)が公布(施行は翌年7月1日)される詳細
1941年(昭和16)「帝都高速度交通営団法」が施行され、帝都高速度交通営団の発足が進められることとなる詳細
1988年(昭和63)彫刻家澤田政廣の命日詳細
1999年(平成11)本四連絡橋・尾道今治ルートの新尾道大橋、多々羅大橋、来島海峡大橋が開通する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

suumitsuinkaiginozu01
 今日は、明治時代前期の1888年(明治21)に、「枢密院官制」(明治21年勅令第22号)が公布・施行されて、枢密院が設置され、伊藤博文が初代議長に就任した日です。
 枢密院(すうみついん)は、「大日本帝国憲法」下の国政に関する天皇の最高諮問機関です。1888年(明治21)4月30日に「枢密院官制」(明治21年勅令第22号)が公布・施行により、「大日本帝国憲法」草案審議のために創設、議長・副議長・顧問官により組織され、初代議長に伊藤博文が就任しました。
 憲法・皇室典範・条約・緊急勅令など国政に関する重要事項を審議し、「憲法の番人」と称したものの、実際は藩閥官僚・軍人が多数を占め、藩閥官僚の本拠となり、貴族院と共に政党政治の発達を抑制したとされます。しかし、1931年(昭和6)の満州事変以後、軍部の台頭によって、その影響力は低下し、太平洋戦争敗戦後の1947年(昭和22)5月3日の「日本国憲法」施行に伴い、その前日限りで廃止されました。
 以下に、「樞密院官制」(明治21年勅令第22号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「枢密院官制」(明治21年勅令第22号) 1888年(明治21)4月30日公布・施行

第一章 組織

第一条 枢密院ハ天皇親臨シテ重要ノ国務ヲ諮詢スル所トス

第二条 枢密院ハ第一議長一人第二副議長一人第三顧問官十二人以上第四書記官長一人及書記官数人ヲ以テ組織ス

第三条 枢密院ノ議長副議長顧問官ハ親任書記官長ハ勅任書記官ハ奏任トス

第四条 何人タリトモ年齡四十歲ニ達シタルモノニ非サレハ議長副議長及顧問官ニ任スルコトヲ得ス

第五条 議長ハ書記官ノ內ヲ以テ秘書官ヲ兼ネシムルコトヲ得

第二章 職掌

第六条 枢密院ハ左ノ事項ニ付会議ヲ開キ意見ヲ上奏シ勅裁ヲ請フヘシ
 一 憲法及憲法ニ附屬スル法律ノ解釈ニ関シ及予算其他会計上ノ疑義ニ関スル争議
 二 憲法ノ改正又ハ憲法ニ附屬スル法律ノ改正二関スル草案
 三 重要ナル勅令
 四 新法ノ草案又ハ現行法律ノ廃止改正ニ関スル草案列国交涉ノ条約及行政組織ノ計画
 五 前諸項ニ掲クルモノヽ外行政又ハ会計上重要ノ事項ニ付特ニ勅命ヲ以テ諮詢セラレタルトキ又ハ法律命令ニ依テ特ニ枢密院ノ諮詢ヲ経ルヲ要スルトキ

第七条 前条第三項ニ掲ケタル勅令ニハ枢密院ノ諮詢ヲ經タル旨ヲ記載スヘシ

第八条 枢密院ハ行政及立法ノ事ニ関シ天皇ノ至高ノ顧問タリト雖モ施政ニ干与スルコトナシ

第三章 会議及事務

第九条 枢密院ノ会議ハ顧問官十名以上出席スルニ非サレハ会議ヲ開クコトヲ得ス

第十条 枢密院ノ会議ハ議長之ニ首席シ議長事故アルトキハ副議長之ニ首席ス議長副議長共ニ事故アルトキハ顧問官其席次ニ依リ首席スヘシ

第十一条 各大臣ハ其職権上ヨリ枢密院ニ於テ顧問官タルノ地位ヲ有シ議席ニ列シ表決ノ権ヲ有ス又各大臣ハ委員ヲ差シテ会議ニ出席シ演述及説明ヲ為サシムルコトヲ得但表決ノ数ニ加ラス

第十二条 枢密院ノ議事ハ多数ニ依リ之ヲ決ス但可否平等ノ場合ニ於テ会議首席ノ決スル所ニ依ル

第十三条 議長ハ枢密院ニ属スル一切ノ事務ヲ総管シ枢密院ヨリ発スル一切ノ公文ニ署名ス
 副議長ハ議長ノ職務ヲ補佐ス

第十四条 書記官長ハ議長ノ監督ヲ受ケ枢密院ノ常務ヲ管理シ一切ノ公文ニ副署シ会議ニ付スヘキ事項ヲ審査シテ報吿書ヲ調製シ会議ニ列シ弁明ノ任ニ当ル但表決ノ数ニ加ラス
 書記官ハ会議ニ於テ議事ヲ筆記シ及書記官長ノ職務ヲ補佐シ書記官長事故アルトキハ書記官之ヲ代理ス
 前項ノ筆記ハ出席員ノ姓名会議ノ事件質問答弁及議決ノ要旨ヲ記載スルモノトス

第十五条 特別ノ場合ヲ除クノ外予メ審査報告書ヲ調製シ其会議ニ必要ナル書類ト共ニ之ヲ各員ニ配達シタル後ニ非サレハ会議ヲ開クコトヲ得ス
 議事日程及報告ハ予メ各大臣ニ通報スヘシ

 ※旧字を新字に直してあります。

      「ウィキソース」より

☆伊藤博文(いとう ひろぶみ)とは?

 幕末から明治時代に活躍した政治家で、幼名は利助、のち俊輔、博文は諱です。1841年(天保11)に、周防(現在の山口県)の貧農の家に生まれました。
 後に、父が伊藤家を継いで、士分となりました。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、久坂玄瑞らと尊王攘夷運動に挺身することになります。1863年(文久3)イギリスに留学しましたが、帰国後は開国をとなえ倒幕運動に活躍しました。
 1871年(明治4)岩倉遣欧使節団の全権副使となり、大久保利通の没後は、内務卿となります。その後、大日本帝国憲法の立案に当たり、1885年(明治18)に内閣制度を創設して、初代総理大臣となりました。
 枢密院・貴族院の初代議長を歴任し、のち、立憲政友会を組織して、総裁に就任します。日露戦争後、初代韓国統監となりましたが、1909年(明治42)10月26日、69歳の時にハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

670年(天智天皇9)法隆寺が落雷により全焼する詳細
1183年(文治5)源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川の館を襲い、源義経が自害する(新暦6月15日)詳細
1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1886年(明治19)秋田県で秋田大火(俵屋火事)が起き、死者17名、負傷者186名、焼失戸数3,554戸を出す詳細
1926年(大正15)小説家河野多惠子の誕生日詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の投票で、翼賛政治体制協議会推薦者が381議席を占める詳細
1950年(昭和25)「図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kyoutot02
 今日は、平成時代の2016年(平成28)に、「京都鉄道博物館」が開館した日です。
 「京都鉄道博物館」(きょうとてつどうはくぶつかん)は、京都府京都市下京区の京都梅小路エリアにおいて、西日本旅客鉄道(JR西日本)が梅小路蒸気機関車館(国指定重要文化財)と一体となった施設として計画し、2016年(平成28)4月29日に開館した博物館です。新しく3階建ての本館が建てられ、今までの梅小路蒸気機関車館を含む敷地面積は30,435m²あり、大阪市にあった旧交通科学博物館の車両も移設して、50両の鉄道車両を収蔵してきました。
 その中には、義経号機関車(鉄道記念物)、旧二条駅舎(京都市文化財)、0系新幹線車両(鉄道記念物) 、EF52 1号電気機関車(鉄道記念物)、233号蒸気機関車(鉄道記念物) 、1801号蒸気機関車(鉄道記念物)など明治・大正時代に活躍した鉄道車両の実物や施設を見ることができ、鉄道の歴史を学ぶ上でも重要な施設です。

〇「京都鉄道博物館」の収蔵車両一覧

<プロムナード>
・C62形蒸気機関車26号機 - 1948年、川崎車輛製。
・マロネフ59形二等A・B寝台緩急車1号車 - 1938年、鷹取工場製。
・スシ28形食堂車301号車 - 1933年、日本車輌製造製。
・クハ103形制御車1号車 - 1964年、日本車輌製造製。
・クハ86形制御車001号車 - 1950年、日立製作所製。
・モハ80形電動車001号車 - 1950年、日立製作所製。
・ナシ20形食堂車24号車 - 1970年、日本車輌製造製。
・DD54形ディーゼル機関車33号機 - 1971年、三菱重工業製。
・21形制御電動車1号車 - 1964年、日本車輌製造製。
・16形グリーン車1号車 - 1964年、日本車輌製造製。
・35形普通ビュッフェ合造車1号車 - 1964年、日本車輌製造製。
・22形制御電動車1号車 - 1964年、日本車輌製造製。

<本館>
・230形蒸気機関車233号機 - 1903年、汽車製造製。
・1800形蒸気機関車1801号機 - 1881年、英国キットソン社製。
・521形制御電動車1号車 - 1996年、川崎重工業製。
・クハネ581形制御寝台車35号車 - 1968年、日立製作所製。
・クハ489形制御車1号車 - 1971年、東急車輛製造製。
・EF52形電気機関車1号機 - 1928年、日立製作所製。
・ワム3500形有蓋車7055号車 - 1917年、日本車輌製造製。
・ヨ5000形車掌車5008号車 - 1959年、川崎車輛製。
・EF66形電気機関車35号機 - 1974年、川崎重工業・東洋電機製造製。
・DD51形ディーゼル機関車756号機 - 1972年、日立製作所製。
・キハ81形制御気動車3号車 - 1960年、近畿車輛製。1986年、準鉄道記念物指定。
・キハ80系特急形気動車のボンネット型先頭車。
・122形制御電動車5003号車 - 1989年、日立製作所製。

<トワイライトプラザ>
・EF58形電気機関車150号機 - 1958年、東京芝浦電気製。
・オロネ24形A寝台車4号車 - 1973年、日本車輌製造製。
・EF65形電気機関車1号機 - 1965年、川崎車輛製。
・EF81形電気機関車103号機 - 1974年、日立製作所製。
・スシ24形食堂車1号車 - 1972年、近畿車輛製。
・スロネフ25形A寝台緩急車501号車 - 1975年、富士重工業製。

<扇形車庫>
・1070形蒸気機関車1080号機 - 1902年、英国ダブス製。
・7100形蒸気機関車7105号機 - 1880年、米国H.K.ポーター製。
・8620形蒸気機関車8630号機 - 1914年、汽車製造製。
・9600形蒸気機関車9633号機 - 1914年、川崎造船所製。
・B20形蒸気機関車10号機 - 1946年、立山重工業製。
・C11形蒸気機関車64号機 - 1935年、川崎車輛製。
・C51形蒸気機関車239号機 - 1927年、汽車製造製。
・C53形蒸気機関車45号機 - 1928年、汽車製造製。
・C55形蒸気機関車1号機 - 1935年、川崎車輛製。
・C56形蒸気機関車160号機 - 1939年、川崎車輛製。
・C57形蒸気機関車1号機 - 1937年、川崎車輛製。
・C58形蒸気機関車1号機 - 1938年、汽車製造製。
・C59形蒸気機関車164号機 - 1946年、日立製作所製。
・C61形蒸気機関車2号機 - 1948年、三菱重工業製。
・C62形蒸気機関車1号機 - 1948年、日立製作所製。
・C62形蒸気機関車2号機 - 1948年、日立製作所製。
・D50形蒸気機関車140号機 - 1925年、日立製作所製。
・D51形蒸気機関車1号機 - 1936年、川崎車輛製。
・D51形蒸気機関車200号機 - 1938年、鉄道省浜松工場製。
・D52形蒸気機関車468号機 - 1946年、三菱重工業製。

<引込線>
・オハ25 551 - 1977年、富士重工業製。
・オハ46 13 - 1955年、汽車製造製。
・クハ117形制御車1号車 -1979年、川崎重工業製。
・マイテ49形客車2号車

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)経済学者・史学者・政治家田口卯吉の誕生日(新暦6月12日)詳細
1886年(明治19)「華族世襲財産法」(明治19年勅令第34号)が公布される詳細
1895年(明治28) 帝国奈良博物館(現在の奈良国立博物館)が開館する詳細
1912年(明治45)北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)でガス爆発事故が起こり、死者269人を出す詳細
1951年(昭和26)沖縄社会大衆党、沖縄人民党を中心に「日本復帰促進期成会」が結成される詳細
1997年(平成9)「化学兵器禁止条約」が発効する詳細
2006年(平成18)生口島北IC~生口島南IC(生口島道路)の開通で西瀬戸自動車道が全通する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

bunkakunshyou0001
 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、長岡半太郎、本多光太郎、幸田露伴、横山大観らに初の文化勲章が授与された日です。
 文化勲章(ぶんかくんしょう)は、科学・文芸など文化の発達にすぐれた功績をあげた者に授与される勲章として制定されました。他の勲章のような等級はなく、称号とも結びつかず、当初は年金も伴なわないもので、不定期に発令されていましたが、1949年(昭和24)以降は、原則として毎年1回、11月3日の「文化の日」に授与されるようになります。
 しかし、1951年(昭和26)に、「文化功労者年金法」が制定されてからは、文化勲章受章者は同時に文化功労者として「文化功労年金」を受けるのが例になりました。勲章は、賞勲局よび造幣局の嘱託であった東京高等工芸学校教授の畑正吉がデザインし、橘たちばなに勾玉まがたまを配した形で、綬じゅ(リボン)は淡紫色とされています。
 現在は、文化審議会の意見を聞いた上で、文部科学大臣が選考し、内閣総理大臣に推薦を行い、閣議決定によって、天皇から直接手渡されるようになりました。

〇第1回の文化勲章受章者 1937年(昭和12)4月28日授与

・長岡半太郎(物理学)
・本多光太郎(金属物理学)
・木村栄(地球物理学)
・佐佐木信綱(和歌・和歌史)
・幸田露伴(小説)
・岡田三郎助(洋画)
・藤島武二(洋画)
・竹内栖鳳(日本画)
・横山大観(日本画)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1177年(安元3) 京都で安元の大火(太郎焼亡)が起きる(新暦6月3日) 詳細
1876年(明治9) 松本市の和洋折衷建築の小学校・旧開智学校(国宝)で上棟式が行われる 詳細
1919年(大正8) 横浜大正8年「埋地の大火」が起き、3,248戸を焼失する 詳細
1948年(昭和23) 「夏時刻法」(サマータイム法)が公布・施行される 詳細
1949年(昭和24) 内閣から「当用漢字字体表」が告示され、「当用漢字表」の字体を規定、略字が大幅に採用される 詳細
1952年(昭和27)  「日米安全保障条約」(旧)が発効する 詳細
日本と中華民国の間で「日華平和条約」が調印(同年8月5日発効)され、日中戦争が正式に終了する 詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ