ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 飛鳥時代の661年(斉明天皇7)に、斉明天皇(皇極天皇)が百済救援の為に難波を出帆した日ですが、新暦では2月13日となります。
 皇極天皇(こうぎょくてんのう)は、第35代とされる天皇(女帝)ですが、重祚して、第37代とされる天皇(斉明天皇)ともなっています。飛鳥時代の594年(推古天皇2年)に、父・茅渟(ちぬ)王(舒明天皇の弟)、母・吉備姫王(欽明天皇の孫)の女子として生まれましたが、名は、宝皇女(たからのひめみこ)と言いました。
 最初は、高向王に嫁して、漢皇子を産みましたが、その後舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子(後の天智天皇)、間人皇女(後の孝徳天皇皇后)、大海人皇子(後の天武天皇)を産みます。641年(舒明天皇13年10月9日)に、夫の舒明天皇が亡くなると、翌年1月1日に、第35代とされる天皇(皇極天皇)として即位しました。
 643年(皇極天皇2年)に、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)を営んで移ったものの、645年(大化元年6月14日)に、蘇我蝦夷・入鹿父子殺害の政変(乙巳の変)にあたり、弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲って退位します。646年(大化2年1月1日)には、孝徳天皇によって、改新之詔が宣せられましたが、653年(白雉4年)には、中大兄皇子と共に、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸しました。
 654年(白雉5年10月10日)に、孝徳天皇が亡くなると、翌年1月3日に、第37代とされる天皇(斉明天皇)として重祚します。656年(斉明天皇2年)に、新たに飛鳥岡本宮を営んで移りましたが、658年(斉明天皇4年11月)には、有間皇子の変が起きました。
 660年(斉明天皇6年)に、唐・新羅連合軍が百済を攻略すると、翌年1月6日に、百済救援の為に難波を出帆し、筑紫国へ向かいます。661年(斉明天皇7年5月9日)に、筑紫国(現在の福岡県)の朝倉宮に入りましたが、同年7月24日に、朝倉宮において、68歳で亡くなりました。
 尚、667年(天智6年)に、間人皇女とともに大和国高市郡の越智崗上陵に合葬されています。

〇皇極天皇(斉明天皇)関係略年表(日付は旧暦です)

・594年(推古天皇2年) 父・茅渟(ちぬ)王(舒明天皇の弟)、母・吉備姫王(欽明天皇の孫)の子として生まれる
・626年(推古天皇34年) 舒明天皇との間で、長子となる中大兄皇子(後の天智天皇)を産む
・630年(舒明天皇2年1月12日) 数え年37歳で舒明天皇の皇后に立てられる
・641年(舒明天皇13年10月9日) 舒明天皇が亡くなる
・642年(皇極天皇元年1月1日) 第35代とされる天皇(皇極天皇)として即位する
・643年(皇極天皇2年) 飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)を営んで移る
・645年(大化元年6月14日) 蘇我蝦夷・入鹿父子殺害の政変(乙巳の変)にあたり、弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲って退位する
・646年(大化2年1月1日) 孝徳天皇によって、改新之詔が宣せられる
・653年(白雉4年) 皇祖母尊(皇極天皇のこと)は中大兄皇子と共に、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸する
・654年(白雉5年10月10日) 孝徳天皇が亡くなる
・655年(斉明天皇元年1月3日) 第37代とされる天皇(斉明天皇)として重祚する
・656年(斉明天皇2年) 新たに飛鳥岡本宮を営んで移る
・658年(斉明天皇4年11月) 有間皇子の変が起きる
・660年(斉明天皇6年) 唐・新羅連合軍が百済を攻略する
・661年(斉明天皇7年1月6日) 百済救援の為に難波を出帆し、筑紫国へ向かう
・661年(斉明天皇7年5月9日) 筑紫国(現在の福岡県)の朝倉宮に移る
・661年(斉明天皇7年7月24日) 筑紫国(現在の福岡県)の朝倉宮において、68歳で亡くなる
・667年(天智6年) 間人皇女とともに大和国高市郡の越智崗上陵に合葬される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

757年(天平宝字元)皇族・公卿・歌人橘諸兄の命日(新暦1月30日)詳細
1215年(建保3)鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日)詳細
1822年(文政5)洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の命日(新暦2月27日)詳細
1831年(天保2)禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日)詳細
1902年(明治35)生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の誕生日詳細
1977年(昭和52)国鉄が「一枚のキップから」キャンペーンを開始する詳細
2006年(平成18)漫画家・放送タレント加藤芳郎の命日詳細
2010年(平成22)鋳金作家蓮田修吾郎の命日詳細
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 今日は、安土桃山時代の1592年(文禄元)に、豊臣秀吉が、朝鮮を経て明へ出兵する為の出陣令(朝鮮出兵・文禄の役)を発布した日ですが、新暦では2月17日となります。
 文禄の役(ぶんろくのえき)は、安土桃山時代の豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮への侵攻の最初の戦い(2度目は慶長の役)のことで、朝鮮では壬辰の倭乱(2度目は丁酉の倭乱)と呼んでいます。1587年(天正15)に、秀吉は、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をしました。
 そこで、1592年(天正20年1月5日)に、秀吉が、朝鮮を経て、明国への出兵指令を諸大名に下します。同年3月、肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ、漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破りました。
 しかし、明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着し、同年4月に、竜山停戦協定の成立に伴い撤退します。秀吉は、同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなどの「和議七か条」を講和条件として決定させましたが、遵守されないで終わりました。
 そこで、1597~98年(慶長2~3年)の慶長の役が起こることとなります。

〇朝鮮出兵(文禄・慶長の役)とは?
 
 安土桃山時代の豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮への侵攻のことで、文祿・慶長の役とも呼ばれ、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼んでいます。1592~93年(天正20/文禄元~2)と1597~98年(慶長2~3)の2度にわたる朝鮮侵略があり、前者を文禄の役、後者を慶長の役と分けて、呼ばれてきました。
 1587年(天正15)に、秀吉は、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をします。そこで、1592年(天正20年1月5日)に、秀吉が、朝鮮を経て、明国への出兵指令を諸大名に下しました。
 同年3月、肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ、漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破ります。しかし、明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着し、同年4月に、竜山停戦協定の成立に伴い撤退しました。
 秀吉は、同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなどの「和議七か条」を講和条件として決定させましたが、遵守されないで終わります。1596年(慶長元)に、大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり、秀吉は大いに怒って、翌年に、和議を破って、再度の出兵を命じ、慶長の役が始まりました。
 14万の軍兵をもって再征しましたが、明軍の出動と朝鮮民衆の抵抗に苦しみ、水軍を率いた李舜臣の活躍などもあって苦戦が続きます。1598年(慶長3年8月)の秀吉の死により、停戦協定が結ばれ、同年11月の島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終結しました。
 これによって、戦場となった朝鮮では耕地が3分の1に減少し、人口の減少や文化財の略奪がみられ、朝鮮を援助した明の国力も衰え、明朝衰退の一因ともなります。日本では、豊臣政権の崩壊が進んだものの、文化的には、強制連行された多数の朝鮮人により印刷・陶業の新技術が発達し、多くの典籍ももたらされました。

☆朝鮮出兵(文禄・慶長の役)関係略年表

<1587年(天正15)>
・秀吉、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をする

<1592年(天正20/文禄元)>
・1月5日 豊臣秀吉が、朝鮮を経て、明国へ出兵指令を諸大名に下す
・4月中旬 日本軍のおびただしい日本の兵船が釜山に至り上陸する
・4月末 朝鮮国王宣祖が、明の援軍を仰ぐことにして首都ソウル(漢城)を脱出する
・5月初旬 第一軍の小西行長小西行長、第二軍の加藤清正加藤清正と共に漢城に入り、玉浦海戦では、李舜臣李舜臣と藤堂高虎藤堂高虎水軍が戦う
・5月下旬 泗川海戦:李舜臣、秘蔵の亀甲船で日本水軍を撃破する
・6月初旬 第一軍の行長・宗義智宗義智と第三軍の黒田長政黒田長政、平壌に侵入し、栗浦海戦で、李舜臣、来島兄弟水軍を撃破する
・6月中旬 第二軍の清正・鍋島直茂鍋島直茂、咸鏡道に侵入する
・7月初旬 錦山の戦いで、権慄・郭再祐・金誠一ら朝鮮連合軍、第六軍の小早川隆景小早川隆景の全羅道侵入を阻止、 閑山島海戦で、李舜臣と脇坂安治脇坂安治水軍が戦い、安骨浦海戦では、李舜臣が、九鬼嘉隆九鬼嘉隆・加藤嘉明加藤嘉明水軍を撃破する
・7月中旬 明の祖承訓が、行長籠る平壌城を攻めるが敗退する
・7月下旬 大政所(秀吉の母)が死去する
・9月 釜山浦海戦で、李舜臣が、日本軍本陣を襲撃し、明軍到来に危機を感じた小西行長、明の沈惟敬と交渉し50日間の停戦協定を締結する
・10月 第一次晋州城の戦いで、金時敏朝鮮軍と細川忠興細川忠興ら日本軍が戦う
・12月8日 文禄に改元される

<1593年(文禄2)>
・1月初旬 平壌の戦いで明の李如松と行長軍が戦い、これにより交渉が決裂する
・1月下旬 碧蹄館の戦いで、明の李如松と小早川隆景・立花宗茂立花宗茂ら日本軍が戦う
・2月 幸州山城の戦いで、朝鮮軍の権慄と宇喜多秀家宇喜多秀家ら日本軍が戦い、熊川の戦いではね李舜臣が、5回に渡り、脇坂・九鬼・加藤嘉明水軍ら襲撃する
・3月 日本軍、窮地に陥り撤退を決定し、小西行長と沈惟敬の交渉が再開される
・5月 明使節が初来日し、秀吉、明の皇女を日本の天皇の妃にするなどの「和議七ヶ条」を示す
・6月 第二次晋州城の戦いで、日本軍、城内の軍民六万を虐殺する
・7月 一時休戦に入る
・8月 日本軍の帰国が相次ぎ、李舜臣、慶尚・全羅・忠清三道水軍統制使となる
・10月 行長と沈惟敬、秀吉の「和議七か条」が理不尽な内容だったので秀吉の降伏文書を勝手に作成する

<1594年(文禄3)>
・3月 秀吉、大坂城を秀頼に与えるため、伏見(桃山)に城を築く
・12月 行長の家臣・内藤如安が、「秀吉の降伏文書」を携えて、北京で明皇帝に拝謁する

<1596年(文禄5/慶長元)>
・9月 大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり、秀吉は大いに怒る
・10月27日 慶長に改元される

<1597年(慶長2)>
・1月 豊臣秀吉秀吉が、諸将に朝鮮再派兵を命ずる
・2月 明も朝鮮へ再派兵する
・7月 漆川梁海戦で、元均が、李舜臣なしで日本水軍に挑む、李舜臣、三道水軍統制使に復帰する
・8月 南原の戦いで、日本軍による、大量殺戮と鼻切りが行われる
・9月 稷山の戦いで、経略・楊鎬の指令により明軍が、首都ソウル(漢城)侵入を企む黒田長政黒田長政・毛利秀元らを迎え撃ち、鳴梁海戦で李舜臣率いる一三隻と藤堂高虎藤堂高虎・脇坂安治脇坂安治ら133隻の戦いが起きる
・12月 蔚山の戦いで、明・朝鮮軍が、蔚山倭城を包囲し、加藤清正加藤清正・浅野幸長ら籠城戦を展開する

<1598年(慶長3)>
・8月18日 秀吉が亡くなる
・10月1日 泗川の戦いで、明軍と島津義弘島津義弘軍が戦う
・10月15日 秀吉の死は秘匿されたまま、五大老による帰国命令が発令される
・11月10日 順天の戦いで、明の劉綖・陳璘と朝鮮の権慄・李舜臣連合軍、陸海から小西行長小西行長の順天倭城を囲み、帰国の退路を押さえる
・11月18日 露梁海戦で、李舜臣と陳璘と島津義弘・立花宗茂立花宗茂・宗義智宗義智水軍が戦う
・11月25日 島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終結する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(正平3)楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との四条畷の戦いに敗れ自刃(新暦2月4日)詳細
1593年(文禄2)第106代の天皇とされる正親町天皇の命日(新暦2月6日)詳細
1914年(大正3)駿河湾汽船「愛鷹丸」が、強風と波浪により沈没し、死者・行方不明者121人を出す(愛鷹丸沈没事故)詳細
1927年(昭和2)有機化学者向山光昭が誕生日詳細
1963年(昭和38)「三八豪雪」が始まり、日本海側に記録的大雪をもたらす詳細
1974年(昭和49)中国の北京において、「日中貿易協定」が締結(同年6月22日発効)される詳細
1978年(昭和53)陶芸家・人間国宝濱田庄司の命日詳細
1995年(平成7)地球物理学者・歌人和達清夫(筆名:西須諸次)の命日詳細

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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、日米間の国際電話が開通した日です。
 国際電話(こくさいでんわ)は、国と国との間で、有線又は無線によって連絡される電話のことです。1887年(明治20)に、フランスのパリとベルギーのブリュッセルの間において行われたのが最初とされ、1927年(昭和2)には、ロンドン~ニューヨーク間にも通じました。
 日本では、1934年(昭和9)に東京~マニラ間の無線国際電話が日本初の国際電話として開通します。その後、インドネシア、アメリカをはじめ、世界各地に回線が設けられるにつれ利用回数は増加しましたが、太平洋戦争が始まり、激減しました。
 戦後、1948年(昭和23)1月4日に、日米間の国際電話が開通し、1953年(昭和28)の国際電信電話(株)の設立以来、同社が事業を独占するようになります。1964年(昭和39)には、日本~アメリカ合衆国間で国際電信電話 (KDD) とAT&Tにより、太平洋横断海底ケーブルTPC-1が敷設され、日米の国際電話の接続が容易になりました。
 1998年(平成10)に、「国際電信電話法」が廃止され、KDD以外の企業でも国際回線を保有することが可能となります。2000年(平成12)に国際ローミングサービス開始、2002年(平成14)に 国際IP電話サービス開始、2005年(平成17)にイリジウム(衛星コンステレーション)サービス開始とどんどん進化し、通信衛星や太平洋横断ケーブルの布設によって大量通話が可能となり、携帯電話からも通話可能のサービスが始まりました。

〇日本の電信・電話関係略年表

・1854年(安政4) ペリー二度目の来航の折、幕府に献上した電信装置で1.6km間を送信したのが最初となる
・1869年(明治2) 横浜裁判所構内に電信機役所が設置され、横浜市内間の電報がスタートする
・1870年(明治3) 東京~横浜間で公衆電信線が架設され、電報がスタートする
・1873年(明治6) 青森~東京~長崎~世界へと電信網が拡大する
・1877年(明治10) 工部省が電話機を輸入して実験を行い、電話機の国産化に着手する
・1878年(明治11) 国産電話機を制作(ベル式電話1号機)する
・1883年(明治16) 音声通信の有用性に気づいた工部省電信局長石井忠亮が建議書を提出する
・1886年(明治19) 工学士志田林三郎が隅田川で、日本初の無線通信の実験を行なう
・1890年(明治23)12月16日 東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始される
・1899年(明治32) 東京~大阪間で電話の長距離通話が始まり、全国の電話加入者数が1万人を超える
・1900年(明治33)9月11日 東京の新橋駅と上野駅に、街頭で初めて設置され「自働電話」と呼ばれた
・1900年(明治33)10月 最初の公衆電話ボックスが京橋(現在の東京都中央区)のたもとに建てられる
・1903年(明治36) 共電式公衆電話機の設置を開始する
・1904年(明治37) 日露戦争では3大式無線機が活躍、旗艦三笠から「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ」と各艦へ打電される
・1923年(大正12) 関東大震災の復旧をきっかけに自動電話交換機採用が進展する
・1925年(大正14)10月1日 交換手不要のダイヤル自動方式採用で、「自働電話」が「公衆電話」と改称される
・1926年(大正15) 電話交換の自動化(ダイヤル化)がスタートする
・1934年(昭和9) 東京~マニラ間の無線国際電話が日本初の国際電話として開通する
・1940年(昭和15) 電話加入者数は100万人(当時人口は7,300万人)を越える
・1945年(昭和20) 太平洋戦争終結時には、電話加入者数は46万8千台にまで激減する
・1948年(昭和23)1月4日 日米間の国際電話が開通する
・1950年(昭和25) 4号自動式卓上電話機(黒電話)が登場する
・1951年(昭和26)12月 委託公衆電話が登場する
・1952年(昭和27) 自動電話交換機のステップ・バイ・ステップ交換機が登場する
・1953年(昭和28)1月 ボタン付き硬貨後納式の「青電話」の設置(4号自動式ボックス公衆電話機)が開始される
・1953年(昭和28)8月 「赤電話」(店頭公衆電話)が登場する
・1955年(昭和30) 自動電話交換機のクロスバ交換機、5号自動式ボックス公衆電話機(赤電話)が登場する
・1955年(昭和30) 10円硬貨前納式の「青電話」の設置が開始される
・1957年(昭和32) 近畿日本鉄道の特急2250系に日本初の列車公衆電話が設置される
・1959年(昭和34) 特殊簡易公衆電話(ピンク電話)が登場する
・1962年(昭和37) 600形電話機が登場する
・1964年(昭和39) 日本~アメリカ合衆国間で国際電信電話 (KDD) とAT&Tにより、太平洋横断海底ケーブルTPC-1が敷設される
・1965年(昭和40) 県庁所在地相互間のみのダイヤル化が完成する
・1965年(昭和40) 東海道新幹線で列車公衆電話サービスが開始される
・1968年(昭和43) ダイヤル市外通話可能な10円硬貨前納式の大型青電話の設置が開始される
・1969年(昭和44) 600P電話機によるプッシュホンサービスが開始される
・1970年(昭和45) 押しボタン式電話機にプッシュホンの愛称が用いられるようになり、キャッチホンサービスが開始され、電電公社でテレビ会議サービスの商用実験が始まる
・1971年(昭和46) 電話機のホワイト、グレー、グリーンの3色カラー化が始まる
・1972年(昭和47)12月 100円硬貨にも対応した「黄電話」の設置が開始される
・1973年(昭和48) 電話ファックスサービスが開始される
・1975年(昭和50) 国際ダイヤル通話が開始される
・1975年(昭和50) プッシュ式黄電話の設置が開始される
・1976年(昭和51) 電電公社(現NTT)が至急電報の取り扱いを終了する
・1978年(昭和53) 電話機の申し込み即取り付けが実現する
・1979年(昭和54) 小笠原諸島を含む全国のダイヤル即時通話が完成、東京23区内で自動車に取り付けて走りながら通話可能な電話サービス(自動車電話)が始まる
・1982年(昭和57) 自動電話交換機のデジタル交換機が登場する
・1982年(昭和57)12月 磁気カード式公衆電話(磁気テレホンカード使用可)の設置が開始される
・1984年(昭和59) テレビ会議システムのサービスが開始される
・1985年(昭和60) 人が持ち運べるショルダーフォンが登場する
・1986年(昭和61) 航空機公衆電話サービスが開始される
・1987年(昭和62) コードレス電話機の販売自由化が始まる
・1993年(平成5) 公衆電話の通話料金が大幅に値上げされる
・1995年(平成7)3月 公衆電話のカード化が完了し、青電話、赤電話、黄電話が姿を消す
・1995年(平成7) PHSサービスが開始される
・1998年(平成10) 「国際電信電話法」が廃止され、KDD以外の企業でも国際回線を保有することが可能となる
・1999年(平成11)3月 ICカード対応公衆電話の設置が開始される
・2000年(平成12) 国際ローミングサービスが開始される
・2001年(平成13) ソフトバンク、ブロードバンド電話事業「BB Phone」発表する
・2002年(平成14) 総務省がIP電話に専用番号「050」を設定、多数のIP電話サービスプロバイダが出現し、国際IP電話サービスも開始される
・2002年(平成14)11月 新規機種の開発の停止
・2003年(平成15) プロバイダ間の提携が活発化、各社がIP電話と固定電話や携帯電話との接続サービスを開始する
・2004年(平成16) 東西NTT、「0AB~J」番号を利用したIP電話「ひかり電話」を開始する
・2005年(平成17) 磁気テレホンカード式公衆電話の新機種DMC-8Aが出される
・2005年(平成17) イリジウム(衛星コンステレーション)サービスが開始される
・2006年(平成18)3月31日 ICカード対応公衆電話のすべてのサービス終了する
・2006年(平成18) コードレス電話のデジタル化が始まる
・2007年(平成19) 電報為替(かわせ)が廃止になる
・2012年(平成24)6月29日 NTT東西が公式サイトにて全国の公衆電話の設置場所を公開する
・2016年(平成28年) DMC-8A公衆電話後継機種MC-D8のサービスが開始される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)地租軽減運動としての一揆頻発により、税率を地価の3%から2.5%に引き下げる詳細
1882年(明治15)「陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭」(軍人勅諭)が発布される詳細
1888年(明治21)三井財閥、藤田伝三郎などの出資により、山陽鉄道会社(現在の山陽本線)が設立される詳細
1898年(明治31)船舶工学者山県昌夫の誕生日詳細
1912年(明治45)公家・政治家・伯爵東久世通禧の命日詳細
1922年(大正11)小説家山田風太郎の誕生日詳細
1946年(昭和21)GHQが「超国家主義団体の解体の指令」(SCAPIN-548)を出す詳細
GHQが「公務従事ニ適シナイ者ノ公職カラノ除去ニ関スル件」(SCAPIN-550)を出す詳細
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 今日は、江戸時代後期の1851年(嘉永4)に、ジョン万次郎がアメリカ船に乗って10年ぶりに日本に帰国した日ですが、新暦では2月3日となります。
 ジョン 万次郎(中浜 万次郎)(じょん まんじろう)は、幕末の漂流民・幕臣・英語教育者・啓蒙家です。江戸時代後期の1827年1月27日(文政10年1月1日)に、土佐国幡多郡中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の父・悦介(えつすけ)、母・汐(しお)の次男として生まれました。
 9歳で父親を亡くし、10歳で中浜浦老役を務め、今津太平宅に下働きに出ます。1841年(天保12)に14歳で、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係として乗り込みますが、遭難して漂流し、伊豆諸島にある無人島の鳥島に同僚4名と共に漂着、143日後にアメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が鳥島に立ち寄った際、発見されて救助されました。
 1842年(天保13)にハワイのホノルルに寄港した折、救助された他の4名はこの地で船を降りましたが、万次郎は捕鯨航海をしながらアメリカへと渡り、ホイットフィールド船長の故郷であるマサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに行き、船長の養子となって一緒に暮らします。翌年からオックスフォード学校、バートレット私塾で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。
 1846年(弘化3)から近代捕鯨の捕鯨船員として生活を始めましたが、1850年(嘉永3年5月)に日本に帰る事を決意、帰国資金調達のため、数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就きます。同年にハワイのホノルルへ渡って漁師仲間と再会、共に上海行きの商船に乗り込みました。
 翌年に薩摩藩に服属していた琉球に、小舟に乗り換えて上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られます。1852年(嘉永5)には、漂流から11年目にして土佐・中浜の故郷に帰り、土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命されました。
 翌年に江戸幕府に召聘されて江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられ、中浜の苗字が授けられます。江川英龍の配下となり、軍艦教授所教授に任命され、翻訳や通訳、造船指揮、人材育成にと精力的に働きました。
 しかし、スパイ疑惑によりペリーの通訳をはじめとする重要な通訳、翻訳の仕事から外されてしまいます。それでも、1860年(万延元)には、「日米修好通商条約」の批准書交換のため、遣米使節団の一員として、咸臨丸に乗りアメリカに渡りました。
 その後は、小笠原諸島などの開拓調査、幕府の軍艦操練所教授、小笠原諸島近海での捕鯨などを行います。1866年(慶応2)に土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教え、翌年には薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授しましたが、武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻りました。
 明治維新後は、1869年(明治2)に明治新政府により開成学校(現在の東京大学)の英語教授に任命され、翌年には普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されましたが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機し、1871年(明治4)に帰国します。以後悠々自適の生活を送っていたものの、1898年(明治31)11月12日に東京において、72歳で亡くなりました。

〇ジョン万次郎(中浜万次郎)の主要な著作

・『漂客(ひょうかく)語録』
・英会話書『英米対話捷径(しょうけい)』
・翻訳『ボーディッチ航海術書』

☆ジョン万次郎(中浜万次郎)関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1827年1月27日(文政10年1月1日)に、土佐国幡多郡中ノ浜村の貧しい漁師の父・悦介(えつすけ)、母・汐(しお)の次男として生まれる
・1835年(天保6年) 9歳で父親を亡くす
・1836年(天保7年) 10歳で中浜浦老役を務め、今津太平宅に下働きに出る
・1841年(天保12年1月) 14歳で、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係として乗り込むが、遭難して漂流し、伊豆諸島にある無人島の鳥島に同僚4名と共に漂着する
・1841年(天保12年5月9日) アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が鳥島に立ち寄った際、発見されて同僚4名と共に救助される
・1842年(天保13年) ハワイのホノルルに寄港した折、救助された5名のうち万次郎を除く4名はこの地で船を降りる
・1842年(天保13年) 捕鯨航海を終え、ホイットフィールド船長の故郷であるマサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに帰港し、船長の養子となって一緒に暮らす
・1843年(天保14年) オックスフォード学校で英語などを学ぶ
・1844年(弘化元年) バートレット私塾で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ
・1846年(弘化3年) 近代捕鯨の捕鯨船員として生活を始める
・1850年(嘉永3年5月) 日本に帰る事を決意、帰国の資金を得るため、数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く
・1850年(嘉永3年) ボイド号でホノルルから帰国の途につき、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込む
・1851年(嘉永4年2月2日) 薩摩藩に服属していた琉球に上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られる
・1852年(嘉永5年) 漂流から11年目にして土佐・中浜の故郷に帰り、土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命される
・1853年(嘉永6年) 江戸幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられ、中浜の苗字が授けられる
・1854年(安政元年) 幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚する
・1859年(安政6年3月) 西洋式帆船の君沢形で、品川沖を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により船は損傷し、航海は中止となる
・1860年(万延元年) 「日米修好通商条約」の批准書交換のため、遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る
・1861年(文久元年) 外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行なう
・1862年(文久2年) 幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命される
・1863年(文久3年) 帆船「一番丸」で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行う
・1866年(慶応2年) 土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える
・1867年(慶応3年) 薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授する
・1867年(慶応3年12月) 武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻る
・1869年(明治2年) 明治新政府により開成学校(現在の東京大学)の英語教授に任命される
・1870年(明治3年) 普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機する
・1871年(明治4年) 病気のために帰国する
・1898年(明治31年)11月12日 東京において、72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

976年(天延4)第67代の天皇とされる三条天皇の誕生日(新暦2月5日)詳細
985年(永観3)天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日)詳細
1669年(寛文9)国学者・歌人で、国学の四大人の一人とされる荷田春満の誕生日(新暦2月3日)詳細
1740年(元文5)俳人で蕉門十哲の一人志太野坡の命日(新暦1月31日)詳細
1868年(慶応4)戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日)詳細
1870年(明治3)「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)・「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)が出される(新暦2月3日)詳細
1951年(昭和26)日本放送協会(NHK)の歌謡番組「第1回NHK紅白歌合戦」がラジオで放送される詳細
1976年(昭和51)多国間条約である「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」が発効する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1956年(昭和31)に、箱根駅伝がこの年から1月2日に往路、3日に復路の開催に変更された日です。
 箱根駅伝(はこねえきでん)は、東京~箱根間の往復約200kmを大学別に各10人の走者でリレーを行う駅伝競走で、正式名称は東京箱根間往復大学駅伝競走と言います。関東地方で開催される大学駅伝競技会の一つで、主催は関東学生陸上競技連盟、共催は読売新聞社とされてきました。
 大正時代の1920年(大正9)に、報知新聞社によって開始されましたが、1941年(昭和16)、1942年(昭和17)および1944年(昭和19)~1946年(昭和21)までは、戦争による中止があったものの、1947年(昭和22)に復活し、1956年(昭和31)に、1月2日に往路、3日に復路の開催に変更されて、今日まで続いています。関東学生陸上競技連盟に加盟する1都7県の学校に出場資格があり、新春のスポーツ行事として人気が高くなりました。

〇箱根駅伝の歴代総合優勝校一覧

・第1回(1920年)総合優勝東京高等師範学校
・第2回(1921年)総合優勝明治大学
・第3回(1922年)総合優勝早稲田大学
・第4回(1923年)総合優勝早稲田大学
・第5回(1924年)総合優勝明治大学
・第6回(1925年)総合優勝明治大学
・第7回(1926年)総合優勝中央大学
・第8回(1927年)総合優勝早稲田大学
・第9回(1928年)総合優勝明治大学
・第10回(1929年)総合優勝明治大学
・第11回(1930年)総合優勝早稲田大学
・第12回(1931年)総合優勝早稲田大学
・第13回(1932年)総合優勝慶應義塾大学
・第14回(1933年)総合優勝早稲田大学
・第15回(1934年)総合優勝早稲田大学
・第16回(1935年)総合優勝日本大学
・第17回(1936年)総合優勝日本大学
・第18回(1937年)総合優勝日本大学
・第19回(1938年)総合優勝日本大学
・第20回(1939年)総合優勝専修大学
・第21回(1940年)総合優勝日本大学
・第22回(1943年)総合優勝日本大学
・第23回(1947年)総合優勝明治大学
・第24回(1948年)総合優勝中央大学
・第25回(1949年)総合優勝明治大学
・第26回(1950年)総合優勝中央大学
・第27回(1951年)総合優勝中央大学
・第28回(1952年)総合優勝早稲田大学
・第29回(1953年)総合優勝中央大学
・第30回(1954年)総合優勝早稲田大学
・第31回(1955年)総合優勝中央大学
・第32回(1956年)総合優勝中央大学
・第33回(1957年)総合優勝日本大学
・第34回(1958年)総合優勝日本大学
・第35回(1959年)総合優勝中央大学
・第36回(1960年)総合優勝中央大学
・第37回(1961年)総合優勝中央大学
・第38回(1962年)総合優勝中央大学
・第39回(1963年)総合優勝中央大学
・第40回(1964年)総合優勝中央大学
・第41回(1965年)総合優勝日本大学
・第42回(1966年)総合優勝順天堂大学
・第43回(1967年)総合優勝日本大学
・第44回(1968年)総合優勝日本大学
・第45回(1969年)総合優勝日本体育大学
・第46回(1970年)総合優勝日本体育大学
・第47回(1971年)総合優勝日本体育大学
・第48回(1972年)総合優勝日本体育大学
・第49回(1973年)総合優勝日本体育大学
・第50回(1974年)総合優勝日本大学
・第51回(1975年)総合優勝大東文化大学
・第52回(1976年)総合優勝大東文化大学
・第53回(1977年)総合優勝日本体育大学
・第54回(1978年)総合優勝日本体育大学
・第55回(1979年)総合優勝順天堂大学
・第56回(1980年)総合優勝日本体育大学
・第57回(1981年)総合優勝順天堂大学
・第58回(1982年)総合優勝順天堂大学
・第59回(1983年)総合優勝日本体育大学
・第60回(1984年)総合優勝早稲田大学
・第61回(1985年)総合優勝早稲田大学
・第62回(1986年)総合優勝順天堂大学
・第63回(1987年)総合優勝順天堂大学
・第64回(1988年)総合優勝順天堂大学
・第65回(1989年)総合優勝順天堂大学
・第66回(1990年)総合優勝大東文化大学
・第67回(1991年)総合優勝大東文化大学
・第68回(1992年)総合優勝山梨学院大学
・第69回(1993年)総合優勝早稲田大学
・第70回(1994年)総合優勝山梨学院大学
・第71回(1995年)総合優勝山梨学院大学
・第72回(1996年)総合優勝中央大学
・第73回(1997年)総合優勝神奈川大学
・第74回(1998年)総合優勝神奈川大学
・第75回(1999年)総合優勝順天堂大学
・第76回(2000年)総合優勝駒澤大学
・第77回(2001年)総合優勝順天堂大学
・第78回(2002年)総合優勝駒澤大学
・第79回(2003年)総合優勝駒澤大学
・第80回(2004年)総合優勝駒澤大学
・第81回(2005年)総合優勝駒澤大学
・第82回(2006年)総合優勝亜細亜大学
・第83回(2007年)総合優勝順天堂大学
・第84回(2008年)総合優勝駒澤大学
・第85回(2009年)総合優勝東洋大学
・第86回(2010年)総合優勝東洋大学
・第87回(2011年)総合優勝早稲田大学
・第88回(2012年)総合優勝東洋大学
・第89回(2013年)総合優勝日本体育大学
・第90回(2014年)総合優勝東洋大学
・第91回(2015年)総合優勝青山学院大学
・第92回(2016年)総合優勝青山学院大学
・第93回(2017年)総合優勝青山学院大学
・第94回(2018年)総合優勝青山学院大学
・第95回(2019年)総合優勝東海大学
・第96回(2020年)総合優勝青山学院大学
・第97回(2021年)総合優勝駒澤大学
・第98回(2022年)総合優勝青山学院大学
・第99回(2023年)総合優勝駒澤大学
・第100回(2024年)総合優勝青山学院大学
・第101回(2025年)総合優勝青山学院大学

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1268年(文永5)蒙古の使者が来朝し、大宰府で「大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)」等を受け取る(新暦1月17日)詳細
1871年(明治4)蘭学者・医者伊東玄朴の命日(新暦2月20日)詳細
1912年(明治45)生理学者・東京慈恵会医科大学長名取礼二の誕生日詳細
1926年(大正15)彫刻家長江録弥の誕生日詳細
1942年(昭和17)「興亜奉公日」に代えて毎月8日を「大詔奉戴日」とすることが閣議決定される詳細
1953年(昭和28)日本放送協会(NHK)の歌謡番組「第3回NHK紅白歌合戦」のテレビでの実験放送が実施される詳細
1976年(昭和51)小説家・作詞家檀一雄の命日詳細
1991年(平成3)詩人・小説家野間宏の命日詳細
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