
『この子を残して』(このこをのこして)は、昭和時代中期の1948年(昭和23)4月30日脱稿し、9月25日に講談社より刊行されベストセラーとなった、永井隆著の随筆です。その内容は、長崎市の原爆爆心地に近い長崎医科大学での原爆投下直後の状況と自身が重傷を負い、妻を亡くしながらも、被爆者の救護活動に当たる様子を記録した手記でした。
2人の愛児に書き遺した感動の書で、自分の子供を残して死んでゆく悔しさと、自分の専門にかかわる病気と戦争で死ぬ悔しさを訴えたものです。この本を書いて3年後に、著者は亡くなりました。
尚、1983年(昭和58)には、木下惠介監督・脚本、松竹配給により映画化されています。
2人の愛児に書き遺した感動の書で、自分の子供を残して死んでゆく悔しさと、自分の専門にかかわる病気と戦争で死ぬ悔しさを訴えたものです。この本を書いて3年後に、著者は亡くなりました。
尚、1983年(昭和58)には、木下惠介監督・脚本、松竹配給により映画化されています。
〇『この子を残して』の冒頭部分
うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、
「ああ、……お父さんのにおい……」
と言った。
この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!
母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?
――私の布団を押し入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変わらぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくのであろうか? 夕日がかっと差しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりした有様が目に見えるようだ。私のおらなくなった日を思えば、なかなか死にきれないという気にもなる。せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめることのできるようになるまで……なりとも――。
――こんなむごい親子の運命は早くから予想されておらぬでもなかった。私が大学を出て放射線医学を専門に選び、ラジウムやレントゲン線などを用いる研究に身を入れようと心に決めたとき、実はすでに多くの先輩の学者がこの研究で毎日とりあつかう放射線によって五体をおかされ、ついに科学の犠牲となって生命をおとしたことを詳しく知っていたので、あるいは私もまた同じ運命におちいるのではあるまいか、という予感があったのである。しかしながら、それは決定的な運命ではなかった。放射線災害予防については、それらの貴い先輩の犠牲のおかげで、次第に有効な方法が考え出されていたし、従事する私らも十分な注意をしていたからである。だが、第一次欧州戦争のとき、多くのレントゲン医学者が余りに多くの患者を診療しなければならなかったため、注意をしたにもかかわらず、身体の堪え得る量以上の放射線を受けて、ついにおかされ、死んだ先例があるので、私も何かの事情のため、そんな目にあわぬともかぎらぬと考えた次第であった。というのは、その当時満州事変が始まったばかりで、どうやら日本が大戦争をひき起こしそうな気配がうかがわれたからであった。それで、この子の母と結婚するときには、前もってこのことを詳しく話し、万事承諾の上で家庭をもった。
ハンブルグには放射線の犠牲となり、職務による原子病患者として死んだ百余名の世界中の学者の記念碑があって、その人びとの名は真理探求の道に倒れた科学の殉教者として刻んである。しかし、私は命の惜しい普通の人間だから、とにかく死ぬより生きているほうが好きだった。早死にしてその学者たちの仲間に加えられるよりは、一日でも長く生きて、好きな研究を一つでも多く仕上げ、家庭的には孫の顔をみて、わが後をつぐものは大丈夫だと安心をして、よいおじいさんとして、ゆっくり大往生をとげたいと願っていた。そのうえ、原子放射線によってひき起こされる原子病の苦しみは、並み大抵の生やさしいものではなく、生身をちぎるばかりの苦痛があるものと知っていては、なるべくならば、かかりたくないと思うのが人情であろう。だから私は、原子病の予防にはずいぶんと細かく気をつかった。生まれつき気の弱い、びくびくもので、学校時代には落ちるのが怖さに鉄棒体操のできないほどの私であった。原子病を怖がったのは言うまでもない。
このごろではレントゲン器械も良くなって、発生管球は金属でよく包まれ、小さな窓から必要なレントゲン線の束だけが出るようになっているので、あまり危なくないが、昔は私たちは裸管球を使ったもので、それらは四方へ向かって恐ろしいレントゲン線を放射していた。この放射線は物体に当たると、さらに二次放射線を発生散乱する。この散乱線がまたも物体に当たると、そこからさらに放射線を出す。このために放射線室の中は管球の焦点から出てくる主放射線のほかに、おびただしい二次散乱線が前後左右から、あたかも十字砲火のように、飛び交う。
この放射線の細胞破壊力はすばらしいもので、一定量ではガンのような病気を治すが、量を過ごすと健康な部分を病気に変えてしまう。こうして起こる原子病を防ぐために、私たちはいつも放射線の量を正確に測定していて、決して量を過ごさぬように気をつけている。だから今では、専門家が取りあつかうかぎり、放射線によって患者に迷惑をかけることはない。
放射線は鉛のような重い金属でさえぎられるから、防護の目的にはよく鉛が用いられる。患者の体に放射するときには必要以外の部分を鉛板や含鉛ゴム板で被い隠す。放射線室の壁や床や天井に鉛板を張って外部へ漏れないようにする。配電盤の前に鉛ガラスの衝立を置いて技師を護る。患者の傍らについて診療する医師は含鉛ゴム製の前掛、手袋、長靴や鉛ガラス製の眼鏡でものものしく身を護る。しかし、こんな鉛の甲を身につけていては重くて身動きもできないから、完全防衛というわけにはゆかず、背中のほうとか、二の腕とか、もものあたりは普通裸で出ている。管球から出る主放射線のほうはそれで十分防げるが、後ろのほうや横から来る二次散乱線を防ぐことはできない。この二次散乱線の量は主放射線の量に比べたらいちじるしく少ないものではあるけれども、長い時間には大した量に達するわけである。たとい一日の勤務中に受ける放射線量は少なくても、毎日々々連続働いて五年、十年とたつうちには、肉体の組織がいつしか破壊されて、ここに職業病としての原子病が起こってくる。それは皮膚ガン、悪性貧血、慢性白血病、肺硬化、不妊などである。
(以下略)
「青空文庫」より
☆永井隆(ながい たかし)とは?
昭和時代に活躍した医学者・随筆家です。明治時代後期の1908年(明治41)2月3日 島根県松江市において、医師であった父・寛と母・ツネの長男として生まれました。
松江中学校を経て、松江高等学校に進み、1928年(昭和3)に卒業後、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学します。1932年(昭和7)に長崎医科大学卒業後、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻、助手として放射線物理療法の研究に取り組みました。
1933年(昭和8)に幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍、翌年帰国し、大学の研究室助手に復帰、洗礼を受け、洗礼名をパウロとし、森山緑と結婚します。1937年(昭和12)に長崎医科大学の講師に就任したものの、日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征、1940年(昭和15)に日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章しました。
1940年(昭和15)に長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任、1944年(昭和19)には、「尿石の微細構造」で医学博士号を授与されます。1945年(昭和20)6月に被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受け、同年8月9日の長崎原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たりました。
太平洋戦争後の1946年(昭和21)に長崎医科大学教授に就任しましたが、半年後には長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなります。闘病生活を送りながら、1948年(昭和23)に随筆『生命の河』、『この子を残して』、翌年に随筆『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行され、大きな反響を呼びました。
同年7月には、この書をモチーフとした歌謡曲が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売されて大ヒット、さらに、翌年には、松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画化されます。1949年(昭和24)に長崎市名誉市民の称号を受け、翌年5月14日にローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜されたものの、1951年(昭和26)5月1日に長崎市において、白血病のため43歳で亡くなりました。
松江中学校を経て、松江高等学校に進み、1928年(昭和3)に卒業後、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学します。1932年(昭和7)に長崎医科大学卒業後、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻、助手として放射線物理療法の研究に取り組みました。
1933年(昭和8)に幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍、翌年帰国し、大学の研究室助手に復帰、洗礼を受け、洗礼名をパウロとし、森山緑と結婚します。1937年(昭和12)に長崎医科大学の講師に就任したものの、日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征、1940年(昭和15)に日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章しました。
1940年(昭和15)に長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任、1944年(昭和19)には、「尿石の微細構造」で医学博士号を授与されます。1945年(昭和20)6月に被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受け、同年8月9日の長崎原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たりました。
太平洋戦争後の1946年(昭和21)に長崎医科大学教授に就任しましたが、半年後には長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなります。闘病生活を送りながら、1948年(昭和23)に随筆『生命の河』、『この子を残して』、翌年に随筆『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行され、大きな反響を呼びました。
同年7月には、この書をモチーフとした歌謡曲が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売されて大ヒット、さらに、翌年には、松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画化されます。1949年(昭和24)に長崎市名誉市民の称号を受け、翌年5月14日にローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜されたものの、1951年(昭和26)5月1日に長崎市において、白血病のため43歳で亡くなりました。
<永井隆の主要な著作>
・『生命の河』(1948年)
・『この子を残して』(1948年)
・『長崎の鐘』(1949年)
・『花咲く丘』(1949年)
・『ロザリオの鎖』(1949年)
・『乙女峠』(1951年)
☆永井隆関係略年表
・1908年(明治41)2月3日 島根県松江市において、医師であった父・寛と母・ツネの長男として生まれる
・1908年(明治41)秋 父の医院開業のため、一家で飯石郡飯石村(現在の雲南市三刀屋町)に移り住む
・1920年(大正9) 飯石小学校を優等で卒業し、島根県立松江中学校へ入学する
・1925年(大正14) 松江中学校を卒業して松江高等学校理科乙類に入学する
・1928年(昭和3) 松江高校を優等で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学する
・1931年(昭和6)3月29日 母・ツネが脳溢血で急逝する
・1932年(昭和7) 長崎医科大学を卒業し、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻する
・1932年(昭和7)11月8日 助教授に就任した末次逸馬の下で助手として放射線物理療法の研究に取り組む
・1933年(昭和8) 幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍する
・1934年(昭和9)2月1日 、出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰する
・1934年(昭和9)6月 洗礼を受け、洗礼名をパウロとする
・1934年(昭和9)8月 森山緑と結婚する
・1937年(昭和12) 長崎医科大学の講師に就任する
・1937年(昭和12)7月 日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征する
・1940年(昭和15)2月 日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章する
・1940年(昭和15)4月 長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任する
・1944年(昭和19)3月3日 『尿石の微細構造』で医学博士号を授与される
・1945年(昭和20)6月 被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける
・1945年(昭和20)8月9日 長崎市への原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たる
・1946年(昭和21)1月 長崎医科大学教授に就任する
・1946年(昭和21)7月 長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなる
・1946年(昭和21)11月17日 長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行なう
・1948年(昭和23)4月30日 随筆『この子を残して』を脱稿する
・1948年(昭和23)9月25日 随筆『この子を残して』が講談社より刊行される
・1948年(昭和23)10月18日、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる
・1949年(昭和24)1月30日 『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行される
・1949年(昭和24)5月27日 昭和天皇に拝謁する
・1949年(昭和24)7月 歌謡曲『長崎の鐘』が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売される
・1949年(昭和24)9月30日 長崎医科大学教授を退官する
・1949年(昭和24)12月3日 長崎市名誉市民の称号を受ける
・1950年(昭和25)9月23日 『長崎の鐘』が松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画公開される
・1950年(昭和25)5月14日 ローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される
・1951年(昭和26)5月1日 長崎市において、白血病のため43歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 769年(神護景雲3) | 宇佐八幡宮神託事件が起きる(新暦10月28日) | 詳細 |
| 893年(寛平5) | 菅原道眞撰と伝えられる『新撰万葉集』上巻が編纂される(新暦11月7日) | 詳細 |
| 1075年(承保2) | 公卿・関白・太政大臣藤原教通の命日(新暦11月6日) | 詳細 |
| 1691年(元禄4) | 大和絵師・土佐派中興の祖土佐光起の命日(新暦11月14日) | 詳細 |
| 1829年(文政12) | P.F.vonシーボルトがシーボルト事件で、国外追放処分を受ける(新暦10月22日) | 詳細 |
| 1936年(昭和11) | 「帝国在郷軍人会令」が公布され、私的機関だった帝国在郷軍人会が陸海軍所管の公的機関となる | 詳細 |
| 1954年(昭和29) | 日本中央競馬会(JRA)による中央競馬が、東京競馬場、京都競馬場において開催される | 詳細 |
| 1985年(昭和60) | 奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表される | 詳細 |
| 2015年(平成27) | 第70回国連総会で「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全会一致で採択される | 詳細 |



