ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に「軍需工業動員法」が施行された日です。
 「軍需工業動員法(ぐんじゅこうぎょうどういんほう)」は、大正時代の1918年(大正7)4月17日公布(施行は同年5月7日)された、戦時体制下で軍需生産を増強するために、国家が民間工場を動員し得ることを定めた法律(大正7年法律第38号)でした。1882年(明治15)8月に制定された「徴発令」(軍工廠を中心とする生産・補給体制と現存物資および人員徴発・徴用を目的)では、第一次世界大戦のような国家総力戦には対応できないとして、陸軍が主導して同法案の原案を作成、寺内正毅内閣の下で制定された統制法です。
 平時戦時にわたる大量の軍需品生産を可能とする工業動員体制を作るため、軍需品工場の国家管理、軍需生産関係会社の軍需会社指定、監督契約に基づく軍需品工場の監督などを規定していました。主要条項の実施が「戦時」に限定されていたため、長い間、部分的な実施にとどまっていましたが、日中戦争開始後の1937年(昭和12)9月10日に「軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律」が公布、施行されてから、その全面発動が決定されています。
 しかし、日中戦争が長引くのに伴って、1938年(昭和13)4月1日に「国家総動員法」が公布(同年5月5日施行)されたことにより、これに吸収されて廃止されました。
 以下に、「軍需工業動員法」(大正7年法律第38号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇軍需工業動員法(大正7年法律第38号) 1918年(大正7)4月17日公布、同年5月7日施行

第一条 本法ニ於テ軍需品ト称スルハ左ノ各号ニ掲クルモノヲ謂フ
 一 兵器、艦艇、航空機、弾薬並軍用器具機械及物品
 二 軍用ニ供シ得ヘキ船舶、海陸聯絡輸送設備、鉄道軌道及其ノ附属設備其ノ他ノ輸送用物件
 三 軍用ニ供シ得ヘキ燃料、被服及糧秣
 四 軍用ニ供シ得ヘキ衛生材料及獣医材料
 五 軍用ニ供シ得ヘキ通信用物件
 六 前各号ニ掲クルモノノ生産又ハ修理ニ要スル材料、原料、器具機械、設備及建築材料
 七 前各号ニ掲クルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル軍用ニ供シ得ヘキ物件

第二条 政府ハ戦時ニ際シ軍需品ノ生産又ハ修理ノ為必要アルトキハ左ノ各号ニ掲クル工場及事業場並其ノ附属設備ノ全部又ハ一部ヲ管理シ、使用シ又ハ収用スルコトヲ得
 一 軍需品ノ生産又ハ修理ヲ為ス工場及事業場
 二 前号ニ掲クル工場及事業場ニ要スル原料若ハ燃料ヲ生産シ又ハ電力若ハ動力ヲ発生スル工場及事業場
 三 前各号ニ掲クル工場ニ転用スルコトヲ得ル工場

第三条 政府ハ戦時ニ際シ軍需品ノ生産、修理又ハ貯蔵ノ為必要アルトキハ土地並家屋倉庫其ノ他ノ工作物及其ノ附属設備ノ全部又ハ一部ヲ管理シ、使用シ又ハ収用スルコトヲ得
2 政府ハ戦時ニ際シ必要アルトキハ第一条第二号ニ掲クル物件ノ全部又ハ一部ヲ管理スルコトヲ得

第四条 前二条ノ場合ニ於テ政府ハ従業者ヲ供用セシムルコトヲ得

第五条 前三条ノ規定ニ依ル処分ニ因リ生シタル損害ハ政府之ヲ補償ス

第六条 政府ハ戦時ニ際シ軍需品又ハ第二条第二号ノ原料若ハ燃料ノ譲渡、使用、消費、所持、移動若ハ輸出入ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得

第七条 戦時ニ際シ第一条ニ掲クル物件ニシテ徴発令中ニ規定ナキモノヲ使用又ハ収用セムトスルトキハ徴発令ノ規定ヲ準用ス

第八条 政府ハ戦時ニ際シ兵役ニ在ル者ヲ徴兵令ニ拘ラス勅令ノ定ムル所ニ依リ召集シテ軍事輸送機関又ハ第二条ノ規定ニ依リ政府ノ管理スル工場若ハ事業場ノ業務ニ従事セシムルコトヲ得
2 前項ノ規定ハ第二条各号ニ掲クル工場又ハ事業場ニシテ国ノ経営ニ係ルモノニ関シ之ヲ準用ス

第九条 政府ハ戦時ニ際シ勅令ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ在ラサル者ヲ徴用シテ前条ニ掲クル業務ニ従事セシムルコトヲ得

第十条 第二条又ハ第三条ノ規定ニ依リ収用シタル工場、事業場、土地又ハ家屋其ノ他ノ工作物及其ノ附属設備不用ニ帰シタル場合ニ於テ収用シタル時ヨリ五年内ニ払下クルトキハ旧所有者又ハ其ノ承継人ニ於テ優先ニ之ヲ買受クルコトヲ得

第十一条 政府ハ軍事上必要アルトキハ第二条各号ニ掲クル工場若ハ事業場ヲ有スル者又ハ其ノ管理者ニ対シ其ノ事業ニ使用スル設備、器具機械、従業者若ハ材料原料器具機械ノ供給者又ハ生産発生若ハ修理ノ能力若ハ数量其ノ他事業ノ状況ニ付必要ト認ムル事項ノ報告ヲ命スルコトヲ得

第十二条 政府ハ軍事上必要アルトキハ鉄道、軌道、船舶、海陸聯絡輸送設備其ノ他ノ輸送用物件ノ所有者又ハ管理者ニ対シ事輛、軌道、船舶又ハ海陸聯絡輸送設備ノ数量、構造、輸送能力、従業者其ノ他必要ト認ムル事項ノ報告ヲ命スルコトヲ得

第十三条 政府ハ軍事上必要アルトキハ軍需品又ハ第二条第二号ノ原料若ハ燃料ノ取引又ハ保管ヲ業トスル者ニ対シ其ノ取引ノ相手方、取引又ハ保管ノ数量、保管ノ設備其ノ他事業ノ状況ニ付必要ト認ムル事項ノ報告ヲ命スルコトヲ得

第十四条 政府ハ軍事上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ第二条各号ニ掲クル工場若ハ事業場ヲ有スル者又ハ前条ニ掲クル者ニシテ一定ノ資格アルモノニ対シ予算ノ範囲内ニ於テ一定ノ利益ヲ保証シ又ハ奨励金ヲ下付スルコトヲ得此ノ場合ニ於テ政府ハ其ノ者ニ対シ軍需品ノ生産、修理若ハ貯蔵ヲ為サシメ又ハ軍事上必要ナル設備ヲ為サシムルコトヲ得
2 政府ハ前項ノ規定ニ依リ利益保証又ハ奨励金下付ヲ受クル事業ヲ監督シ又ハ之カ為必要ナル命令若ハ処分ヲ為スコトヲ得

第十五条 第五条ノ規定ニ依ル補償金及前条ノ利益保証又ハ奨励金ノ算定並第十条ノ規定ニ依ル払下価額ハ軍需評議会ノ決議ヲ経テ之ヲ定ム
2 軍需評議会ニ関スル規程ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第十六条 当該官吏又ハ吏員ハ第十一条乃至第十三条ノ規定ニ依リ報告ヲ命シ得ル事項調査ノ為又ハ第十四条ノ規定ニ依ル監督若ハ処分ヲ為ス為必要ナル場所ニ立入リ、検査ヲ為シ、調査資料ノ提供ヲ求メ又ハ従業者ニ対シ質問ヲ為スコトヲ得

第十七条 工業的発明ニ係ル物又ハ方法ニ関シ予メ政府ノ承認ヲ得タル事項又ハ設備ニ付テハ報告ヲ命シ、検査ヲ為シ、調査資料ノ提供ヲ求メ又ハ従業者ニ対シ質問ヲ為スコトヲ得ス

第十八条 利益保証又ハ奨励金ヲ受クル事業ヲ承継スル者ハ本法若ハ本法ニ基キテ発スル命令之ニ依リテ為ス処分又ハ利益保証若ハ奨励金下付ニ附シタル条件ニ依ル前者ノ権利義務ヲ承継ス

第十九条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ三年以下ノ懲役又ハ三千円以下ノ罰金ニ処ス
 一 第二条又ハ第三条ノ規定ニ依ル管理、使用又ハ収用ヲ拒ミタル者
 二 第四条ノ規定ニ依ル供用ヲ拒ミタル者
 三 第六条ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者

第二十条 第十四条第一項ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者ハ二年以下ノ懲役又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス
2 戦時ニ際シ前項ノ罪ヲ犯シタルトキ罰前条ニ同シ

第二十一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ一年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス
 一 第八条ノ規定ニ依ル召集ニ応セス又ハ同条ノ規定ニ依ル業務ニ従事スルコトヲ拒ミタル者
 二 第九条ノ規定ニ依ル徴用ニ応セス又ハ同条ノ規定ニ依ル業務ニ従事スルコトヲ拒ミタル者
 三 第十一条乃至第十三条ノ規定ニ依リ命セラレタル報告ヲ為サス又ハ虚偽ノ報告ヲ為シタル者
 四 第十四条第二項ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者
 五 第十六条ノ規定ニ依ル当該官吏又ハ吏員ノ職務ノ執行ヲ拒ミ妨ケ若ハ忌避シ、調査資料ノ提供ヲ為サス若ハ虚偽ノ調査資料ヲ提供シ又ハ質問ニ対シ虚偽ノ陳述ヲ為シタル者

第二十二条 当該官吏若ハ吏員又ハ其ノ職務ニ在リタル者本法ニ依ル職務ニ依リ知得シタル事業上ノ秘密ヲ漏洩シ又ハ窃用シタルトキハ二年以下ノ懲役又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス当該官吏又ハ吏員第十七条ノ規定ニ違反シタルトキ亦同シ
2 職務上前項ノ秘密ヲ知得シタル他ノ公務員又ハ公務員タリシ者其ノ秘密ヲ漏洩シ又ハ窃用シタルトキ罰前項ニ同シ

   「官報」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1073年(延久5)第71代天皇とされる後三条天皇の命日(新暦6月15日)詳細
1703年(元禄16)大坂の竹本座で近松門左衞門作の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演される(新暦6月20日)詳細
1858年(安政5)伊東玄朴ら蘭医83名の醸金で、江戸の上野にお玉ヶ池種痘所が設立される(新暦6月17日)詳細
1875年(明治8)日露が「樺太・千島交換条約」に調印する詳細
1936年(昭和11)第69帝国議会の衆議院で斎藤隆夫議員が軍部革正(粛軍)を要請する質問演説(粛軍演説)をする詳細
1988年(昭和63)文芸評論家山本健吉の命日詳細
1991年(平成3)考古学者末永雅雄の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1865年(慶応元)に、坂本龍馬が長州の桂小五郎と会談し、薩長同盟が始動した日(閏5月)ですが、新暦では6月28日となります。
 薩長同盟(さっちょうどうめい)は、京都薩摩藩邸にて、土佐藩の坂本龍馬の立会いのもと、薩摩藩代表の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩代表の木戸孝允(桂小五郎)との間で成立した、江戸幕府を倒すための政治的・軍事的密約で、薩長盟約または薩長連合とも呼ばれてきました。薩摩藩は、1863年(文久3年8月18日)に中川宮と会津藩に協力して、長州藩勢力を京都から追放(八月十八日の政変)や翌年7月19日に、上京出兵した長州藩兵と戦火を交え(禁門の変)敗走させ、長州藩は徳川幕府から第一次長州征討を受けるなど、薩長両藩はことごとく反目し合います。
 しかし、薩摩藩では大久保利通らの討幕派が藩論を動かし,薩長両藩の指導層は急速に接近することとなり、幕府の薩長討伐計画が漏れるに及んで、両藩は土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介のもとにこれまでの対立反目を解消するため、1866年(慶応2年1月21日)に、京都の薩摩藩邸において、会談しました。その結果、「薩長六ケ条盟約」が成り、これによって同年6月より戦いが始まった第2次長州征伐では、薩摩藩が幕府の征長を背後から妨げ、一方長州藩は高杉晋作や桂らの奮戦により、幕府軍は諸所で敗退、形勢悪化の内に第14代将軍徳川家茂が大坂城中で没したため、長州と和して、同年9月に撤兵します。
 これにより、討幕運動は大きく前進し、翌年10月14日の大政奉還から12月9日の王政復古の大号令、そして明治維新へと至りました。
 以下に、「薩長六ケ条盟約」を現代語訳付で掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇「薩長六ケ条盟約」1866年(慶応2年1月21日)

木戸孝允(桂小五郎)が会談内容を六ケ条にまとめ、内容確認のため坂本龍馬に送付した書簡(慶応2年1月23日付)による

(表書)

一、戦と相成候時は、直様二千余之兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華[1]へも千程は差置[2]、京・坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上、屹度[3]尽力之次第有之候との事

一、万一負色[4]に有之候とも、一年や半年に決て潰滅[5]致し候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第屹度[3]有之候との事

一、是なり[6]にて幕兵東帰[7]せしときは、屹度[3]朝廷へ申上、直様冤罪[8]は従朝廷御免[9]に相成候都合に、屹度[3]尽力との事

一、兵士をも上国[10]之上、橋・会・桑[11]等も如只今次第にて、勿体なくも[12]朝廷を擁し奉り、正義を抗み[13]、周旋尽力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外は、無之との事

一、冤罪[7]も御免[9]之上は、双方誠心[15]以相合し、皇国之御為に砕身[16]尽力仕候事は不及申、いづれ之道にしても、今日より双方皇国之御為皇威[17]相暉き、御回復に立至り候を目途[18]に誠心[15]を尽し、屹度[3]尽力可仕との事

(裏書)

表に御記被成候六条ハ、小・西両氏[19]及老兄・龍等も御同席ニて談論[20]セし所ニて毛も[21]相違無之候、後来[22]といへとも決して変わり候事無之ハ神明[23]の知る所ニ御座候、
丙寅 二月五日 坂本龍

    『史義史料』四より

【注釈】

[1]浪華:なにわ=大阪(大坂)のこと。
[2]差置:さしおく=人や物をある位置・場所にとどめる。
[3]屹度:きっと=確かに。必ず。
[4]負色:まけいろ=戦いに、負けそうな様子。敗色。
[5]潰滅:かいめつ=ひどくこわれてだめになること。
[6]是なり:これなり=物事が、そこに示されているままの状態、様子でこれきり変わらないさま。現在の状態。今のまま。このまま。
[7]東帰:とうき=東の地に戻ること。この場合は、江戸へ戻ること。
[8]冤罪:えんざい=罪がないのに疑われ、または罰せられること。無実の罪。ぬれぎぬ。
[9]御免:ごめん=容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。
[10]上国:じょうこく=都へ上ること。上京。
[11]橋・会・桑:きょう・かい・そう=一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)のこと。
[12]勿体なくも:もったいなくも=申すも畏れ多いことに。畏れ多くも。
[13]抗み:こばみ=張り合う。手向かう。さからう。
[14]周旋:しゅうせん=当事者間に立って世話をすること。とりもち。なかだち。斡旋。
[15]誠心:せいしん=心に偽りのないこと。真実の心。また、そのさま。まごころ。
[16]砕身:さいしん=身をくだくほど献身的につとめること。献身的に働くこと。
[17]皇威:こうい=天皇の威光。皇帝の威勢。
[18]目途:もくと=めあて。目的。
[19]小・西両氏:こ・さいりょうし=小松帯刀・西郷隆盛両氏のこと。
[20]談論:だんろん=談話と議論。また、談話し議論すること。論談。
[21]毛も:けも=非常にわずかなことのたとえ。ほんの少しも。
[22]後来:こうらい=この後。ゆくすえ。将来。
[23]神明:しんめい=神。神祇。

<現代語訳>

(表書)

一、(幕府と長州藩の間で)戦となった時は、すぐに2,000余の兵を急いで上京させ、現在在京の兵と合わせて、浪華(大坂)へも1,000程は駐留させて、京都・大坂の両所を守備させること。

一、戦局が自然に我らの勝利と成りそうなとき、その時は(薩摩藩は)朝廷へ上申して、きっと(長州藩のため)尽力するようにすること。

一、万が一敗戦濃厚になったときも、一年や半年では決して壊滅することはないので、その間には必ず尽力するべきようにしてほしいこと。

一、勝負がつかなくて、幕府兵が江戸へ帰還したときは、きっと朝廷へ上申し、すぐに冤罪は朝廷より許してもらえるように、必ず尽力してほしいこと。

一、兵士をも上京の上、一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)等も今のような状態では、畏れ多くも朝廷を擁し奉って、正義に抗い、周旋尽力の道を遮断されたときは、ついに(薩摩藩も)決戦におよぶ他ないこと。

一、(長州藩の)冤罪も晴れたならば、薩長双方が真心を以て一緒になり、皇国のために献身的に力を尽くすことは言うに及ばず、いづれの道にしても、今日より薩長双方が皇国のため、皇威を発揚し、その回復が出来ることを目標に真心を尽し、きっと尽力するべきこと。

(裏書)

表にお記しになった六ケ条は、小松帯刀・西郷隆盛両氏および老兄・龍馬なども同席した上で、談話・議論した結果であり、ほんの少しも相違のないものです。この後と言っても、決してこれが変わる事がない事は、神様の知る所であります。

慶応二年二月五日 坂本龍馬

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

763年(天平宝字7)唐代の高僧・日本律宗の開祖鑑真の命日(新暦6月25日)詳細
1408年(応永15)室町幕府3代将軍足利義満の命日(新暦5月31日)詳細
1607年(慶長12)朝鮮使節(朝鮮通信使)が初めて江戸を訪問し、江戸幕府第2代将軍秀忠と会見(新暦6月29日)詳細
1909年(明治42)「新聞紙法」が公布される詳細
1950年(昭和25)住宅金融公庫設立のため、「住宅金融公庫法」(昭和25年法律第156号)が公布・施行される詳細
1975年(昭和50)法医学者・血清学者・人類遺伝学者古畑種基の命日詳細
1983年(昭和58)農業経済学者・農政家東畑精一の命日詳細
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 今日は、平成時代の1999年(平成11)に、文芸評論家・国文学者中島河太郎の亡くなった日です。
 中島河太郎(なかじま かわたろう)は、大正時代の1917年(大正6)6月5日 鹿児島県鹿児島市平之町において生まれましたが、本名は中嶋馨(なかじま かおる)と言いました。鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1939年(昭和14)に旧制第七高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部国文学科へ進み、中世説話文学を専攻します。
 1941年(昭和16)に卒業後、中学校教諭となり、旧制東京都立第七中学校から東京都立墨田川高等学校の教諭を勤めました。一方で、1945年(昭和20)に柳田國男の説話会に参加、1947年(昭和22)には、「探偵新聞」に連載した『日本推理小説略史』で江戸川乱歩に注目され、ミステリー小説評論家としての本格的な活動を開始します。
 1949年(昭和24)に個人誌「黄色の部屋」の発行を開始(~1954年)、1952年(昭和27)11月から、『探偵小説辞典』を「宝石」に掲載開始しました。1955年(昭和30)にこれにより、第1回江戸川乱歩賞を受賞、1960年(昭和35)に『推理小説ノート』を刊行、1965年(昭和40)には、『日本推理小説史 第一巻』が第18回日本推理作家協会賞の候補となります。
 1966年(昭和41)に『推理小説展望』で、第19回日本推理作家協会賞を受賞、和洋女子大学および同短期大学部の国文学科講師に着任しました。1968年(昭和43)に助教授、1970年(昭和45)に教授に昇任し、1980年(昭和55)には、同大学文家政学部の学部長となります。
 1985年(昭和60)に日本推理作家協会理事長となり、1988年(昭和63)に勲四等旭日小綬章を受章、1991年(平成3)には、和洋女子大学学長、和洋女子短期大学学長となりました。1996年(平成8)に同大学学長を退任し、名誉教授となり、1997年(平成9)には、ミステリー文学館の初代館長に就任しています。
 1998年(平成10)に第2回日本ミステリー文学大賞を受賞したものの、翌年5月5日に、腎不全により、81歳で亡くなりました。尚、推理小説研究の第一人者として知られましたが、柳田國男、正宗白鳥の研究でも高く評価されています。

〇中島河太郎の主要な著作

・『推理小説ノート』(1960年)
・『推理小説展望』(1965年)第19回日本推理作家協会賞受賞
・『日本推理小説史』全3巻(1993~96年)
・『探偵小説辞典』(1998年)第1回江戸川乱歩賞受賞
・『柳田國男研究文献目録』

☆中島河太郎関係略年表

・1917年(大正6)6月5日 鹿児島県鹿児島市平之町において生まれる
・1939年(昭和14) 旧制第七高等学校を卒業する
・1941年(昭和16) 東京帝国大学文学部国文科を卒業、中学校教諭となる
・1945年(昭和20) 柳田國男の説話会に参加する
・1947年(昭和22) 「探偵新聞」に連載した『日本推理小説略史』で江戸川乱歩に注目される
・1949年(昭和24)10月 個人誌「黄色の部屋」の発行を開始する
・1952年(昭和27)11月 『探偵小説辞典』を「宝石」に掲載開始する
・1954年(昭和29)10月 個人誌「黄色の部屋」発行が終了する
・1955年(昭和30) 『探偵小説辞典』で、第1回江戸川乱歩賞を受賞する
・1959年(昭和34)2月 『探偵小説辞典』の宝石掲載が終了する
・1960年(昭和35) 『推理小説ノート』を刊行する
・1965年(昭和40) 『日本推理小説史 第一巻』が第18回日本推理作家協会賞の候補となる
・1966年(昭和41) 『推理小説展望』で、第19回日本推理作家協会賞を受賞、和洋女子大学および同短期大学部の国文学科講師に着任する
・1968年(昭和43) 和洋女子大学助教授に昇任する
・1970年(昭和45) 和洋女子大学教授に昇任する
・1980年(昭和55) 和洋女子大学文家政学部の学部長となる
・1985年(昭和60) 日本推理作家協会理事長となる
・1988年(昭和63) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1991年(平成3) 和洋女子大学学長、和洋女子短期大学学長となる
・1996年(平成8) 和洋女子大学学長を退任し、和洋女子大学名誉教授となる
・1997年(平成9) ミステリー文学館の初代館長に就任する
・1998年(平成10) 第2回日本ミステリー文学大賞を受賞する
・1999年(平成11)5月5日 腎不全により、81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1763年(宝暦13)俳人小林一茶の誕生日(新暦6月12日)詳細
1829年(文政12)囲碁棋士・14世本因坊秀和跡目の本因坊秀策の誕生日(新暦6月6日)詳細
1911年(明治44)文学者市古貞次の誕生日詳細
1925年(大正14)改正「衆議院普通選挙法」(普通選挙法)公布で満25歳以上の全成年男子に選挙権が与えられる詳細
1951年(昭和26)子供の権利に関する宣言「児童憲章」が制定される(児童憲章制定記念日)詳細
1958年(昭和33)東京都に「多摩動物公園」が開園する詳細
1965年(昭和40)神奈川県横浜市の多摩丘陵の一画に「こどもの国」が開園する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、「家庭用品品質表示法」(昭和37年法律第104号)が公布(施行は同年10月1日)された日です。
 「家庭用品品質表示法」(かていようひんひんしつひょうじほう)は、昭和時代中期の1962年(昭和37)5月4日に公布(施行は同年10月1日)された、家庭用品の品質に関する表示の適正化を定め、一般消費者の利益を保護するための法律です。1955年(昭和30)8月15日に公布された、「繊維製品品質表示法」を拡大したもので、一般消費者がその購入に際し品質を識別することが著しく困難であり、かつ、その品質を識別することが特に必要であると認められるものとして、繊維製品・合成樹脂加工品・電気機械器具・雑貨工業品の表示を義務付けてきました。
 これらについて、表示者の名称と連絡先、成分、性能、用途、貯蔵法その他の表示を製造業者等に義務付けています。1996年(平成8)以降、通産省(後に消費者庁)は品目の指定や表示内容を実態に合わせて大幅に見直してきました。対象品目の表示が適正に行われず、消費者の利益が損なわれるときは、誰でもその旨を内閣総理大臣または経済産業大臣に申し出ることができます。
 以下に、制定当初の「家庭用品品質表示法」(昭和37年法律第104号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「家庭用品品質表示法」(昭和37年法律第104号) 1962年(昭和37)5月4日公布、同年10月1日施行

 (目的)

第一条 この法律は、家庭用品の品質に関する表示の適正化を図り、一般消費者の利益を保護することを目的とする。

 (定義)

第二条 この法律で「家庭用品」とは、次に掲げる商品をいう。
 一 一般消費者が通常生活の用に供する繊維製品、合成樹脂加工品、電気機械器具及び雑貨工業品のうち、一般消費者がその購入に際し品質を識別することが著しく困難であり、かつ、その品質を識別することが特に必要であると認められるものであつて政令で定めるもの
 二 前号の政令で定める繊維製品の原料又は材料たる繊維製品のうち、需要者がその購入に際し品質を識別することが著しく困難であり、かつ、同号の政令で定める繊維製品の品質に関する表示の適正化を図るにはその品質を識別することが特に必要であると認められるものであつて政令で定めるもの
2 この法律で「製造業者」とは、家庭用品の製造又は加工の事業を行なう者をいい、「販売業者」とは、家庭用品の販売の事業を行なう者をいい、「表示業者」とは、製造業者又は販売業者の委託を受けて家庭用品に次条の規定により告示された同条第一号に掲げる事項を表示する事業を行なう者をいう。

 (表示の標準)

第三条 通商産業大臣は、家庭用品の品質に関する表示の適正化を図るため、家庭用品ごとに、次に掲げる事項につき表示の標準となるべき事項を定め、これを告示するものとする。
 一 成分、性能、用途、貯法その他品質に関し表示すべき事項
 二 表示の方法その他前号に掲げる事項の表示に際して製造業者、販売業者又は表示業者が遵守すべき事項

 (指示等)

第四条 通商産業大臣は、前条の規定により告示された同条第一号に掲げる事項(以下「表示事項」という。)を表示せず、又は同条の規定により告示された同条第二号に掲げる事項(以下「遵守事項」という。)を遵守しない製造業者、販売業者又は表示業者があるときは、当該製造業者、販売業者又は表示業者に対して、表示事項を表示し、又は遵守事項を遵守すべき旨の指示をすることができる。
2 通商産業大臣は、前項の指示に従わない製造業者、販売業者又は表示業者があるときは、その旨を公表することができる。

 (表示に関する命令)

第五条 通商産業大臣は、家庭用品の品質に関する表示の適正化を図るため特に必要があると認めるときは、政令で定めるところにより、通商産業省令で、製造業者、販売業者又は表示業者に対し、当該家庭用品に係る表示事項について表示をする場合には、当該表示事項に係る遵守事項に従つてすべきことを命ずることができる。

第六条 通商産業大臣は、生活必需品又はその原料若しくは材料たる家庭用品について、表示事項が表示されていないものが広く販売されており、これを放置しては一般消費者の利益を著しく害すると認めるときは、政令で定めるところにより、通商産業省令で、製造業者又は販売業者に対し、当該家庭用品に係る表示事項を表示したものでなければ販売し、又は販売のために陳列してはならないことを命ずることができる。
2 通商産業大臣は、前項の規定による命令をする場合には、当該表示事項に関し、現に前条の規定による命令をしている場合を除き、あわせて同条の規定による命令をしなければならない。

第七条 通商産業大臣は、前条第一項に規定する場合において、製造業者、販売業者又は表示業者によつては当該家庭用品に係る表示事項を適正に表示することが著しく困難であると認めるときは、政令で定めるところにより、通商産業省令で、製造業者又は販売業者に対し、当該家庭用品については、通商産業大臣が表示事項を表示したものでなければ販売し、又は販売のために陳列してはならないことを命ずることができる。

第八条 前条の規定の適用については、家庭用品ごとに、通商産業大臣の認可を受けた者のした当該表示事項の表示は、同条の規定により通商産業大臣がしたものとみなす。
2 通商産業大臣は、前項の認可の申請をした者が、当該申請に係る家庭用品の品質を識別する能力があり、かつ、同項に規定する表示を公正に行なう者であると認めるときは、その者が次の各号の一に該当する場合を除き、同項の認可をしなければならない。
 一 この法律の規定に違反して刑に処せられ、その執行を終わり、又は執行を受けることがなくなつた日から二年を経過しない者
 二 次項の規定により認可を取り消され、その取消しの日から二年を経過しない者
 三 法人であつて、その業務を行なう役員のうちに前二号の一に該当する者があるもの
3 通商産業大臣は、第一項の認可を受けた者がこの法律の規定に違反したとき、又は不正な手段により同項の認可を受けたときは、その認可を取り消すことができる。
4 第一項の認可を受けた者は、当該認可に係る家庭用品の品質を識別するには、通商産業省令で定める方法によらなければならない。
5 第一項の認可を受けた者は、当該認可に係る家庭用品について表示事項を表示する場合には、当該表示事項に係る遵守事項に従つてしなければならない。

 (命令の変更又は取消し)

第九条 通商産業大臣は、第五条から第七条までの規定による命令をした後において、その命令をする要件となつた事実が変更し、又は消滅したと認めるときは、その命令を変更し、又は取り消さなければならない。

 (通商産業大臣に対する申出)

第十条 何人も、家庭用品の品質に関する表示が適正に行なわれていないため一般消費者の利益が害されていると認めるときは、通商産業大臣に対して、その旨を申し出て、適当な措置をとるべきことを求めることができる。
2 通商産業大臣は、前項の規定による申出があつたときは、必要な調査を行ない、その申出の内容が事実であると認めるときは、第三条から第七条までに規定する措置その他適当な措置をとらなければならない。

 (家庭用品品質表示審議会)

第十一条 通商産業省に、家庭用品品質表示審議会を置く。

第十二条 家庭用品品質表示審議会(以下「審議会」という。)は、通商産業大臣の諮問に応じ、家庭用品の品質に関する表示の適正化に関する重要事項を調査審議する。
2 通商産業大臣は、第三条の規定により表示の標準となるべき事項を定め、又は第五条から第七条までの規定による命令をしようとするときは、審議会に諮問しなければならない。

第十三条 審議会は、委員三十人以内で組織する。

第十四条 委員は、学識経験のある者のうちから、通商産業大臣が任命する。
2 通商産業大臣は、委員のうち一人を会長として指名し、会務を総理させる。

第十五条 委員の任期は、二年とする。

第十六条 委員は、非常勤とする。

第十七条 前六条に定めるもののほか、審議会の組織及び運営に関し必要な事項は、通商産業省令で定める。

 (手数料)

第十八条 通商産業大臣に第七条の規定による表示をすることを求めようとする者は、同条の規定による命令に係る家庭用品の価格の百分の一をこえない範囲内において政令で定める額の手数料を納めなければならない。
2 第八条第一項の認可を申請する者は、一万円をこえない範囲内において政令で定める額の手数料を納めなければならない。

 (報告及び立入検査)

第十九条 通商産業大臣は、この法律の施行に必要な限度において、政令で定めるところにより、製造業者、販売業者若しくは表示業者から報告を徴し、又はその職員に、これらの者の工場、事業場、店舗、営業所、事務所若しくは倉庫に立ち入り、家庭用品、帳簿書類その他の物件を検査させることができる。
2 前項の規定により立入検査をする職員は、その身分を示す証明書を携帯し、関係人に提示しなければならない。
3 第一項の規定による立入検査の権限は、犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならない。

 (権限の委任)

第二十条 この法律の規定により通商産業大臣の権限に属する事項は、政令で定めるところにより、通商産業局長又は都道府県知事に行なわせることができる。

 (罰則)

第二十一条 第五条から第七条までの規定による命令又は第八条第五項の規定に違反した者は、二十万円以下の罰金に処する。

第二十二条 次の各号の一に該当する者は、五万円以下の罰金に処する。
 一 第八条第四項の規定に違反した者
 二 第十九条第一項の規定による報告をせず、又は虚偽の報告をした者
 三 第十九条第一項の規定による検査を拒み、妨げ、又は忌避した者

 (両罰規定)

第二十三条 法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関し、前二条の違反行為をしたときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に対して各本条の刑を科する。

   附 則

1 この法律は、昭和三十七年十月一日から施行する。
2 繊維製品品質表示法(昭和三十年法律第百六十六号)は、廃止する。
3 通商産業大臣は、旧繊維製品品質表示法第七条の規定により繊維製品品質表示審議会に諮問した事項については、この法律の施行後一月間は、第十二条第二項の規定にかかわらず、家庭用品品質表示審議会に諮問することを要しない。
4 この法律の施行前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による。
5 通商産業省設置法(昭和二十七年法律第二百七十五号)の一部を次のように改正する。

 第二十五条第一項の表中繊維製品品質表示審議会の項を削り、割賦販売審議会の項の次に次のように加える。

家庭用品品質表示審議会家庭用品の品質に関する表示の適正化に関する重要事項を調査審議すること。

(通商産業・内閣総理大臣署名) 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1550年(天文19)室町幕府12代将軍足利義晴の命日(新暦5月20日)詳細
1881年(明治14)「小学校教則綱領」が制定される詳細
1895年(明治28)三国干渉により、閣議で、日本が遼東半島の全面放棄の勧告を受諾することを決める詳細
1913年(大正2)函館大正2年大火で、1,532戸が焼失する詳細
1949年(昭和24)GHQにより「国税行政の再編成に関する覚書」 (SCAPIN-2001) が出される詳細
1950年(昭和25)現行の「生活保護法」が公布・施行される詳細
1976年(昭和51)30件の郷土芸能が初の重要無形民俗文化財に指定される詳細
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kouyasankonpondaitou01
 今日は、平安時代前期の819年(弘仁10)に、空海(弘法大師)が高野山で真言宗総本山金剛峯寺の開創に着手した日ですが、新暦では5月30日となります。
 金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院です。816年(弘仁7年7月8日)に、空海(弘法大師)が43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て草庵を結び、819年(弘仁10年5月3日)に高野山の伽藍建立に着手しました。
 889年(寛平元)に伽藍がほぼ完成したものの、平安時代中期には、東寺と真言宗本山の地位を争って敗れ,東寺長者の管轄を受けて勢いが衰えます。しかし、平安時代末期には復興し、白河・鳥羽天皇の崇敬厚く、1132年(長承元)に覚鑁(かくばん)が伝法院を建て隆盛に向かいました。
 その後、織田信長に敵対したため迫害をうけましたが、1590年(天正18)には、豊臣秀吉の援助を受けて木食応其(もくじきおうご)が青巌寺を再興し、その左隣に興山寺を建立します。江戸時代には徳川家が帰依し、1869年(明治2)には、この両寺を併合して金剛峯寺と改称されました。
 現寺地の東半分が旧青巌寺境内、西半分が旧興山寺境内で、主殿は旧青巌寺本殿。興山寺跡には別殿・奥殿・新奥殿の三棟があり、廊下で主殿とつながっています。文化財としては、1198年(建久9)に行勝上人によって建立されたとされる不動堂が、現存最古の建造物で,国宝に指定され、霊宝館および大宝蔵に収蔵されている寺宝にも、1086年(応徳3)作の絹本着色『仏涅槃図』、平安時代末の絹本着色『善女竜王像』、8体のうち6体が運慶作といわれる木造『八大童子立像』、空海請来といわれる木造『諸尊仏龕』、藤原清衡発願の『紺紙金銀字一切経』、空海真筆の『聾瞽指帰 (ろうこしいき) 』など、数多くの国宝が残されてきました。
 また、2004年(平成16)には、紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産条約の文化遺産リストにも登録されています。

〇空海[弘法大師](くうかい)とは?

 奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。
 792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
 803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
 翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
 816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
 823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
 また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

<空海[弘法大師]の主要な著作>

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海[弘法大師]関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月3日) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)戊辰戦争で奥羽の反官軍25藩による奥羽列藩同盟が成立する(新暦6月22日)詳細
1910年(明治43)青森県青森市で、青森大火が起き、死者26名、負傷者160名、焼失戸数5,200戸以上を出す詳細
1928年(昭和3)山東出兵をめぐり、山東省済南で日本軍と国民政府軍が衝突(済南事件)が起きる詳細
1946年(昭和21)極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷する詳細
GHQが「帝国議会議員の公職よりの罷免及び除去に関する覚書」で鳩山一郎の公職追放を指令詳細
1961年(昭和36)民芸運動の創始者・美術評論家・宗教哲学者柳宗悦の命日詳細
1962年(昭和37)国鉄で三河島事故が起こり、列車三重衝突により、死者160人・負傷者296人を出す詳細
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