ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20) に、兵庫県神戸市へ350機来襲し、西部の神戸市垂水区から東部の西宮市まで広範囲が爆撃(3回目の神戸大空襲)された日です。
 神戸大空襲(こうべだいくうしゅう)は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)に、神戸市に対して行われた大規模な3回の空襲(3月17日・5月11日・6月5日)の事と言われています。神戸市とその周辺地域は1945年(昭和20)1月3日から8月15日の終戦までの約8ヶ月間に大小合わせて128回の空襲を受けたとされてきました。
 しかし、とりわけ大規模な最初の空襲は、3月17日未明より、B29爆撃機309機が来襲して行われ、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅し、死者2,598名を出したのに始まります。続いて、5月11日には、東灘区にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われ、灘区・東灘区が被害を受けました。さらに、6月5日には、350機が来襲し、西は垂水区から東は西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化します。
 これらによって、10数万の焼夷弾が投下され、ほぼ神戸市域は壊滅しました。すべての空襲による現在の神戸市域の被害は、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は、罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人という大きな惨禍となります。

〇太平洋戦争下の主要な空襲一覧

 <1942年(昭和17)>
・4月18日 東京、名古屋、神戸などが初空襲される(ドウリットル指揮の16機の米陸軍機B-25による)

 <1944年(昭和19)>
・11月24日 B-29による初めての東京空襲が行われる

<1945年(昭和20)>
・1月19日 阪神地方へ初の本格的空襲が行われる
・3月10日 東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る
・3月12日 名古屋大空襲で中心街が焼失する(家屋25,734棟棟被災、105,093人罹災、死者519人、負傷者負傷者734人)
・3月13~14日 大阪へ初の大空襲が行われる
・3月17日 神戸大空襲が行われ神戸市西部が消失する(約65,000棟が全半焼、死者2,598人)
・3月19日 名古屋大空襲で名古屋駅が炎上する(家屋39,893棟被災、151,332人罹災、死者826人、負傷者2,728人)
・3月29日 北九州が空襲される
・4月4日 川崎の他鶴見・港北・神奈川・西各区が空襲を受ける(罹災戸数5,873戸、死者398人)
・4月13日 東京空襲(西部地域)が行われる
・4月15日 東京・横浜・川崎の空襲が行われる(罹災住宅5万2655戸、死者972人)
・5月14日 名古屋空襲で名古屋城が焼失する(家屋21,905棟被災、66,585人罹災、死者338人、負傷者783人)
・5月24日 東京へ250機来襲し、皇居が炎上する
・5月25~26日 東京空襲(山手地域)が行われる
・5月29日 京浜へ600機来襲し、川崎、横浜が被災(横浜大空襲)する(死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人)
・6月1日 大阪、尼崎等へ400機来襲する
・6月5日 兵庫県神戸市へ350機来襲する(西部の神戸市垂水区から東部の西宮市まで広範囲が爆撃される)
・6月7日 大阪周辺へ250機来襲する
・6月19~20日 静岡大空襲で旧静岡市の中心部が焼失する(焼失家屋26,891戸、被災者114,000人、死者1,952人)
・6月29日 岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)
・7月9日 和歌山大空襲で和歌山城が消失する(焼失家屋31,137戸、被災者113,548人、死者・行方不明者1,424人)
・7月14日 青函連絡船の翔鳳丸など9隻が米艦載機の攻撃を受けて沈没する
・8月5日 B-29爆撃機92機が前橋市・高崎市を空襲し、死傷者1,323人が出る
・8月6日 B-29が広島に原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、20万人以上の人命が喪われる
・8月7日 愛知県の豊川海軍工廠が爆撃され女子挺身隊員・国民学校児童ら2,477人の死者を出す
・8月8日 福山大空襲で福山城が消失する(焼失家屋数10,179戸、被災者数47,326人、死者354人)
・8月9日 B-29が長崎にも原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、8万人弱の人命が喪われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1206年(建永元)浄土宗の僧重源の命日(新暦7月12日)詳細
1886年(明治19)陶芸家・人間国宝富本憲吉の誕生日詳細
1948年(昭和23)国立国会図書館が旧赤坂離宮(現在の迎賓館)を仮庁舎として正式に開館する詳細
1963年(昭和38)関西電力黒部川第四発電所ダム(黒部ダム)の完工式が行われる詳細
1950年(昭和25)住宅金融公庫(現在の独立行政法人住宅金融支援機構)が設立される詳細
「首都建設法」(昭和25年法律第219号)が住民投票の結果により成立する詳細
1951年(昭和26)「相互銀行法」(昭和26年法律第199号)が公布・施行される詳細
1972年(昭和47)国連人間環境会議が開始される(環境の日・国際環境デー)詳細
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 今日は、平成時代の2009年(平成21)に、静岡県の牧之原市と島田市に跨る静岡空港が開港した日です。
 静岡空港(しずおかくうこう)は、静岡県の牧之原市と島田市に跨る、地方公共団体(静岡県)が設置・管理する第3種空港です。1987年(昭和62)に、島田市、旧榛原郡榛原町(牧之原市)への空港建設が決定され、1996年(平成8)に、運輸大臣が、静岡県に対して静岡空港の設置を許可し、用地買収を開始しました。
 1998年(平成10)11月20日に、静岡県が起工式を行い、本体工事に着手、2004年(平成16)に、静岡県が、国土交通省中部地方整備局長に対して「土地収用法」に基づく事業認定を申請、翌年には、これに基づく事業認定が告示されます。2006年(平成18)に、愛称が「富士山静岡空港」に決定、翌年には、明渡期限到来により、「土地収用法」に基づく申請を行ったうち空港周辺部について静岡県が権利を取得しました。
 2009年(平成21)6月4日に、暫定滑走路2,200mで開港、8月27日には、2,500mに延伸されます。開港時には、国内6路線(札幌・小松・福岡・熊本・鹿児島・沖縄)、国外2路線(ソウル・上海)の定期便が就航しました。
 しかし、2025年現在では、国内線(札幌(新千歳)、出雲、福岡、熊本、鹿児島、那覇、丘珠)8路線、国際線では、ソウル、上海をはじめとした中国各地への定期便とチャーター便が運航しています。

〇静岡空港関係略年表

・1987年(昭和62) 静岡県の新総合計画に空港整備の推進が盛り込まれる
・1987年(昭和62)12月17日 静岡県が、空港建設予定地を島田市・榛原町(当時)に決定する
・1993年(平成5)8月 静岡空港が第6次空港整備五箇年計画の新規事業となる
・1996年(平成8)7月26日 運輸大臣が、静岡県に対して静岡空港の設置を許可する
・1996年(平成8)11月 静岡県が、静岡空港の用地買収を開始する
・1998年(平成10)11月20日 静岡県が、起工式を行い静岡空港の本体工事に着手する
・2004年(平成16)11月26日 静岡県が、国土交通省中部地方整備局長に対して土地収用法に基づく事業認定を申請する
・2005年(平成17)7月 国土交通省中部地方整備局長、静岡空港について土地収用法に基づく事業認定を告示する
・2006年(平成18)1月 日本語の愛称が「富士山静岡空港」(ふじさんしずおかくうこう)に決定する
・2007年(平成19)3月 明渡期限到来により、土地収用法に基づく申請を行ったうち空港周辺部について静岡県が権利を取得、土地収用法に基づき県が申請した全ての権利を取得する
・2008年(平成20)10月22日 静岡県は滑走路近くの航空法に反する立ち木問題(滑走路西の約40本の立ち木が、制限表面以上の高さとなることが建設着手してから判明した)を受け、滑走路を短くすることを正式に決定する
・2009年(平成21)6月4日 静岡空港が開港(暫定滑走路2,200m)する
・2009年(平成21)8月27日 滑走路が2,500mに延伸、ILS運用を開始する
・2010年(平成22)4月1日 日本航空グループが静岡空港から完全撤退し、フジドリームエアラインズが札幌・福岡線の運航を開始する
・2012年(平成24)3月25日 チャイナエアラインの台北/桃園線(週3便)が就航する
・2014年(平成26)3月28日 大韓航空が旅客低迷を理由にソウル/仁川線を廃止、静岡空港から撤退する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

822年(弘仁13)平安初期の僧・日本天台宗の開祖最澄の命日(新暦6月26日)詳細
1804年(文化元)象潟地震が起こり、大きな被害が出て、景勝地象潟湖の湖底が隆起し、湖が陸地化する(新暦7月10日)詳細
1898年(明治31)直江津(現在の上越市)明治31年の大火「八幡火事」で、1,595戸が焼失する詳細
1943年(昭和18)「戦時衣生活簡素化実施要綱」が閣議決定される詳細
「食糧増産応急対策要綱」が閣議決定される詳細
1951年(昭和26)「公営住宅法」(昭和26年法律第193号)が公布(施行は同年7月1日)される詳細
1954年(昭和29)近江絹糸争議でストライキが始まる詳細
1981年(昭和56)「放送大学学園法」が国会で成立(公布・施行は同月11日)する詳細

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 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、小津安二郎監督の映画「大人の見る絵本 生れてはみたけれど」が封切られた日です。
 「大人の見る絵本 生れてはみたけれど」(おとなのみるえほん うまれてはみたけれど)は、昭和時代前期の1932年(昭和7)6月3日に封切られた、小津安二郎監督の映画で、モノクロ、スタンダードサイズのサイレント(90分)の松竹蒲田作品です。出演は、斎藤達雄、吉川満子、突貫小僧ほかで、大人の不自由な会社員生活と、子供の屈託のないいたずらの対照を通して、昭和初期の社会に差し始めた暗い影を軽妙さと深刻さの巧みな塩梅によって描きました。「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)と共に風刺喜劇「けれど」三部作をなすもので、同監督の初期の傑作とされ、1932年度キネマ旬報ベストテン第1位となってます。

〇小津 安二郎(おづ やすじろう)とは?

 昭和時代に活躍した、映画監督・脚本家です。明治時代後期の1903年(明治36)12月12日に、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれました。
 1910年(明治43)に深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学しましたが、子供は田舎で教育した方がよいという父の教育方針と環境悪化のため、1913年(大正2)に一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住します。1916年(大正5)に三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送り、映画に病みつきとなり、1921年(大正10)に卒業したものの、上級学校の受験に失敗し、翌年飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となりました。
 しかし、映画への思いは断ち切りがたく、1923年(大正12)には上京して、松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所します。その後、一年間の志願兵としての入営を経て、助監督に転じ、1927年(昭和2)には、監督第一作の時代劇「懺悔の刃」を発表しました。
 それからも、無声映画の「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「東京の合唱」(1931年)、「生まれてはみたけれど」(1932年)などを監督し、小市民の悲哀を描いた映画で評価されます。1936年(昭和11)に、初のトーキー「一人息子」を監督したものの、翌年に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊、1939年(昭和14)に召集解除となりました。
 1943年(昭和18)に軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在していましたが、1945年(昭和20)にシンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送り、翌年に日本へ帰還します。1947年(昭和22)に戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督、1949年(昭和24)に「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞、1949年(昭和24)に「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞、1953年(昭和28)には、自身の最高傑作とされる「東京物語」を発表し、高い評価を得ました。
 そして、1958年(昭和33)に紫綬褒章、1959年(昭和34)に日本芸術院賞、1961年(昭和36)に芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞、1962年(昭和37)に映画人として初めて芸術院会員となるなど数々の栄誉にも輝きます。さらに、1963年(昭和38)にブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞しましたが、同年12月12日に東京において、60歳で亡くなりました。

<小津安二郎監督作品一覧>

・「懺悔の刃」(1927年)
・「若人の夢」(1928年)
・「女房紛失」(1928年)
・「カボチャ」(1928年)
・「引越し夫婦」(1928年)
・「肉体美」(1928年)
・「宝の山」(1929年)
・「学生ロマンス」 若き日(1929年)
・「和製喧嘩友達」(1929年)
・「大学は出たけれど」(1929年)
・「会社員生活」(1929年)
・「突貫小僧」(1929年)
・「結婚学入門」(1930年)
・「朗らかに歩め」(1930年)
・「落第はしたけれど」(1930年)
・「その夜の妻」(1930年)
・「エロ神の怨霊」(1930年)
・「足に触った幸運」(1930年)
・「お嬢さん」(1930年)
・「淑女と髭」(1931年)
・「美人哀愁」(1931年)
・「東京の合唱(コーラス)」(1931年)
・「春は御婦人から」(1932年)
・「大人の見る絵本 生れてはみたけれど」(1932年)
・「青春の夢いまいづこ」(1932年)
・「また逢ふ日まで」(1932年)
・「東京の女」(1933年)
・「非常線の女」(1933年)
・「出来ごころ」(1933年)
・「母を恋はずや」(1934年)
・「浮草物語」(1934年)
・「箱入娘」(1935年)
・「菊五郎の鏡獅子」(1935年)
・「東京の宿」(1935年)
・「大学よいとこ」(1936年)
・「一人息子」(1936年)
・「淑女は何を忘れたか」(1937年)
・「戸田家の兄妹」(1941年)
・「父ありき」(1942年)
・「長屋紳士録」(1947年)
・「風の中の牝鶏(めんどり)」(1948年)
・「晩春」(1949年)
・「宗方姉妹」(1950年)
・「麦秋」(1951年)
・「お茶漬の味」(1952年)
・「東京物語」(1953年)
・「早春」(1956年)
・「東京暮色」(1957年)
・「彼岸花」(1958年)
・「お早よう」(1959年)
・「浮草」(1959年)
・「秋日和」(1960年)
・「小早川家の秋」(1961年)
・「秋刀魚の味」(1962年)

☆小津安二郎関係略年表

・1903年(明治36)12月12日 東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれる
・1910年(明治43) 深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学する
・1913年(大正2)3月 一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住する
・1916年(大正5) 三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送る
・1921年(大正10) 三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)を卒業する
・1922年(大正11) 三重県師範学校受験に失敗し、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となる
・1923年(大正12) 松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所する
・1924年(大正13)12月 東京青山の近衛歩兵第4連隊に一年志願兵として入営する
・1925年(大正14)11月 伍長で除隊となる
・1927年(昭和2) 時代劇「懴悔の刃」で監督デビューする
・1929年(昭和4) 「大学は出たけれど」を監督する
・1930年(昭和5) 「落第はしたけれど」を監督する
・1931年(昭和6) 「東京の合唱」を監督する
・1932年(昭和7) 「生まれてはみたけれど」を監督する
・1934年(昭和9)4月 父・寅之助が亡くなる
・1936年(昭和11) トーキー「一人息子」を監督する
・1937年(昭和12)9月10日 召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊する
・1939年(昭和14)7月16日 召集解除となる
・1943年(昭和18)6月 軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在する
・1945年(昭和20)8月 シンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送くる
・1946年(昭和21)2月 日本へ帰還する
・1947年(昭和22) 戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督する
・1949年(昭和24) 「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞を受賞する
・1949年(昭和24) 「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞する
・1953年(昭和28) 「東京物語」を監督する
・1958年(昭和33) 紫綬褒章を受章する
・1959年(昭和34)2月 日本芸術院賞を受賞する
・1961年(昭和36) 芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞を受賞する
・1962年(昭和37) 「秋刀魚の味」を監督する
・1962年(昭和37)11月 映画人として初めて芸術院会員となる
・1963年(昭和38) ブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞する
・1963年(昭和38)12月12日 東京において、60歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1853年(嘉永6)ペリー提督率いるアメリカの東インド艦隊艦船4隻が浦賀沖に来航(黒船来航)する(新暦7月8日)詳細
1872年(明治5)歌人・国文学者佐佐木信綱の誕生日(新暦7月8日)詳細
1900年(明治33)詩人・映画評論家北川冬彦の誕生日詳細
1910年(明治43)桂太郎内閣で「韓国ニ対スル施政方針」を閣議決定し、韓国併合後の朝鮮に対する施政方針を示す詳細
1949年(昭和24) 「測量法」が制定・公布される(測量の日)詳細
劇作家・小説家・俳人佐藤紅緑の命日詳細
1950年(昭和25)「人民広場事件」において、占領軍の軍事裁判で、逮捕者に重労働10年などの有罪判決が下される詳細
1954年(昭和29)「学校給食法」(昭和29年法律第160号)が公布・施行される詳細

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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、大日本労務報国会が設立された日です。
 大日本労務報国会(だいにほんろうむほうこくかい)は、産業報国運動の一環として、1943年(昭和18)6月2日に結成された、日雇労働者を対象として設立された道府県労務報国会の中央組織です。土木建築業・運輸交通業・鉱業における日雇労働者と、これと不可分の関係にある「労務供給業者」、「作業請負業者」をふくむ組織で、個々に結成されていた旧労務報国会(仮称)および労務供給業聯合会は、新労務報国会に統合されました。
 中央に大日本労務報国会、道府県ごとに道府県労務報国会が設けられ、主な事業は、産業報国精神の高揚、国民動員への協力、会員の教育訓練などとされます。労務供給業者、日雇労働者及びこれを使用する請負業者の、勤労能力の発揮と労務の適正配置がねらいでした。
 これによって、主として常用労働者の働く事業所に組織された産業報国会と日雇労働者を対象として設立された労務報国会とが両立するようになり、「常傭労務者」と「日傭労務者」の双方に戦時勤労組織が作りあげられることになります。

〇「社会運動の状況」内務省警保局編 1942年(昭和17)より

昭和十三年〔一九三八年〕産業報国運動が展開され、昭和十五年十一月八日勤労新体制確立要綱が閣議に於て決定されて以来、産業報国精神を基本とする勤労新体制の組織は着々として樹立され昭和十六年末に於ては従業員百人以上を有する民営事業場に在りては
土木事業を除き九九%の組織を確立し、組織に於ては略所期の目的を達成せり。併し乍ら従業員百人以下の事業場に於ける産業報国会の組織運動は今尚進行中であり、又土木建築、港湾荷役其の他日傭労務者を使用する事業に於ては組織上種々困難なる事情があり、
斯る方面に於ては既に産業報国会の結成を見たるものありと雖も概して永続的性質を有する事業場に限られ、一般的には未組織の状況なりき。蓋しこれは日傭労務の特殊性に因り産業報国会の組織竝に運営が必ずしも適当ならずと思惟せられたる結果に外ならず、元来日傭労務者は産業界の盛衰と極めて密接なる関係を有し、昭和四、五年頃より財界不況の影響を受け其の数漸次増加し昭和十年には最高記録を示したり。自由主義的産業組織に在りては、不況時には失業者が日傭労務に移行し、之に反し一般産業界の活況を示す場合は斯の方面より他に転出する傾向があり、日傭労務者は昭和十一年以来毎年漸減の状況を示せり。併し乍ら日傭労務者と一言に謂ふも之を産業上より見れば其の従事する産業は農林業、土木建築業、交通業が最大多数を占むるのであるが、広く各種産業に亘り其の就労状態も日々転々として職場を異にするもの極めて多く更に職能上より之を見れば特殊の高級技能を有するものより何等技能を有しないもの迄包含するのであって、極めて複雑な様相を示しつつあり、又之等日傭労務者の就業様式も大体職業指導所の登録制度により或は供給業者により配置さるるもの、作業請負業者に属し就業するもの、事業主との直接契約により就業するもの等に大別し得、又日傭労務者に対する報酬も定額制あり、請負制あり、而も継続的事業に規則的に従事せざるものに在りては報酬の高低著しく賃金規則亦極めて困難なる実情にあり。而して此の不規則なる勤労状況や賃金状態は日傭労務者の私生活に影響する所大にして斯る観点からするも適切なる対策を講ずる必要があったのであるが、従来斯の方面に対する各種の施策乃至指導は遺憾ながら徹底せざる傾向ありたり。然るに戦時体制確立の急務、特に近時の顕著なる労力不足に直面するや、国民挙っての確固たる報国精神を基調とする勤労能力の充実発揚を必要とせらるるに至れり。
翻って日傭労務者の実情を観るに之等労務者は一般的には労働予備軍として考へられつつありたるも我が国産業界の現状に於ては極めて重要なる役割を担当し来り、而も近年此の方面に於ても労働力の不足が現実の問題として顕はれ殊に戦時体制の確立に当っては軍需産業の拡張、産業転換が行はれ、これが基礎的な事業として土木建築事業の活況を見、従来の日傭労務者のみを以てしては不足を来し、半島人の集団移入を為す等、土木建築業労働者の増加は著しきものあり、又大東亜戦争の勃発を機として交通業就中海運状況が従来と一変し、港湾荷役等に於ても其の業務が繁閑極めて複雑なる状況を呈する日傭労務者の不足せる現状に於ては其の補充十分ならず、従って他面に於ては労務者獲得の為の闇賃金の横行を見るに至り、工場労務者の日傭稼等を続出して労働市場を混乱せしむるが如き傾向を惹起すると共に政府竝に関係方面の戦時諸施策の遂行に尠からず支障を生ぜしめつつありたり。
以上の如き実情下に於て日傭労務者の組織化要望は予てより陸海軍・鉄道・逓信各省の現業官庁を関係方面より熾烈に要望されつつあり、厚生省に於ても従来これが組織化の準備を進めつつありたるが、漸く成案を得て、報国精神の昂揚竝に労務の適正配置を目途とせる労務報国会の結成を計画し、〔一九四二年〕九月三十日別記(略)の通「労務報国会設立に関する件依命通牒」竝に「道府県労務報国会の組織竝に事業に関する件」が通牒せられ、茲に於て産業報国運動の一環として、組織上最も困難視されたる日傭労務者の勤労新体制確立を企図したるが、本年中は専ら組織整備等に終始したる為具体的運動なく注意すべき動向等も認められざる状況なり。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)平清盛が遷都を目指して福原(現在の神戸市)への行幸(福原遷都)を決行する(新暦6月26日)詳細
1450年(宝徳2)細川勝元が京都に龍安寺を創建する(新暦7月10日)詳細
1582年(天正10)京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する詳細
1615年(慶長20)画家・海北派の祖海北友松の命日(新暦6月27日)詳細
1716年(享保元)画家・工芸家尾形光琳の命日(新暦7月20日)詳細
1743年(寛保3)陶工・絵師尾形乾山の命日(新暦7月22日)詳細
1859年(安政6)前年締結の「日米修好通商条約」により、横浜・長崎が開港される(新暦7月1日)詳細
1907年(明治40)愛媛県の別子銅山で運搬夫の指導者山田豊次郎が解雇され、別子銅山争議(別子暴動)が始まる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、横浜・名古屋・京都・神戸で砂糖・マッチの配給切符制が実施された日です。
 配給切符制(はいきゅうきっぷせい)は、購入物品に応じて必要な点数を定め、切符と一緒に代金を支払わなければならないシステムにして、買い占めや贅沢を防止しようとしたものでした。1940年(昭和15)4月24日に、価格形成中央委員会で、日用必需品10品目(米、味噌、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など)に配給切符制導入が発表され、6月1日以降、順次実施されます。さらに、翌年1月20日に、「繊維製品配給消費統制規則」が制定公布され、2月1日から衣料に点数切符制が実施(都市居住者は1年に100点、郡部は80点、背広50点、袷48点、ワイシャツ12点、靴下2点、タオル3点など)されました。また、2月21日には「食糧管理法」が公布され、4月からは、米も通帳による配給制となります。やがて、石鹸・煙草から野菜・魚などの生鮮食料品も配給の対象となり、1943年(昭和18)末には、ほとんどの生活物資が配給制となりました。しかも、戦争の激化により配給条件さえ満たされないことも度々あり、多くの国民は配給品だけで生活することは困難で、いわゆる闇取引を誘発し、様々な不正を生み出します。太平洋戦争後も、たばこは1947年(昭和22)まで、米穀については、1982年(昭和57)まで配給制が存続していたものの、1955年(昭和30)頃には、米の生産量が需要量を上回るようになり、配給制の「米穀配給通帳」は有名無実化していきました。

〇戦時下での物資統制関係略年表

<1938年(昭和13年)>
・3月1日 「綿糸配給統制規則」(初の切符制)が出される 
・4月1日 「国家総動員法」が公布される
・5月1日 ガソリン切符制が実施される(「ガソリン1滴は血の1滴」の標語が登場する)
・9月19日 「石炭配給統制規則」が公布される 

<1939年(昭和14年)>
・3月25日 「肥料配給統制規則」が公布される 
・4月12日 「米穀配給統制法」公布し、米穀商を許可制にして、米穀取引所を廃止する 
・10月1日 石油配給制が実施される 
 
<1940年(昭和15)>
・4月24日 設置された価格形成中央委員会で、日用必需品10品目(米、味噌、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など)に切符制導入が決定される
・6月1日以降 米、味噌、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など生活必需品10品目について順次、配給切符制が導入される
・5月3日 東京市で外米6割混入米を配給する
・6月5日 東京など六大都市においてマッチ、砂糖の配給制を先行的に開始する
・10月4日、商工省から「砂糖・マッチ配給統制規則」(省令)が公布される
・10月10日 「牛乳および乳製品配給統制規則」が交布される 
・11月1日 砂糖・マッチ切符制の全国実施がされる 
・12月28日 商工省から「洋紙配給統制規則」(省令)が公布される

<1941年(昭和16)>
・1月21日 「洋紙配給統制規則」(省令)が施行される
・4月1日 「生活必需物資統制令」が交布され、六大都市で米穀配給通帳制(1日1人2合3勺=約330g)が実施、米の配給受け取りに必要となる
・5月19日 東京市が夏季ビールの配給は1世帯8本と決定する 
・6月7日 家庭用食用油の切符制が実施される 
・9月1日  東京市で砂糖・マッチ・小麦粉・食用油の集成配給切符制が実施される 
・10月1日 一般家庭用ガスの使用制限が実施される 
・12月16日 「物資統制令」が交布される
 
<1942年(昭和17)>
・1月1日 塩(1ヶ月1人約200g)の通帳制配給、家庭用ガスの使用量割当制が実施される
・1月10日 6大都市で味噌(1ヶ月1人約686g)、醤油(1ヶ月1人約666ml)の切符制配給が実施される
・1月20日 「繊維製品配給消費統制規則」が制定公布される   
・2月1日 衣料に点数切符制が実施される(都市居住者は1年に100点、郡部は80点、背広50点、袷48点、ワイシャツ12点、靴下2点、タオル3点など)、地方でも味噌、醤油の切符制配給が実施される 
・4月1日 六大都市で米穀配給通帳制・外食券制を実施する(1日2合3勺)
・5月 家庭用木炭配給通帳制・酒切符制を実施する
・7月21日 衣料切符制の有効期限を更に1年延長を決定する 
・9月1日 東京市が砂糖・マッチ・小麦粉・食用油の集成配給切符制を実施する
・12月23日 東京でガス割当量超過使用の家庭に閉塞班出動、1戸1孔に封印する

<1943年(昭和18)>
・1月19日 衣料点数引き上げが実施される 
・5月1日 木炭、薪の配給制が実施される 

<1944年(昭和19)>
・8月1日 家庭用の砂糖の配給が停止される 
・8月15日 東京・大阪で防空備蓄米5日分の特別配給を決定する
・11月1日 たばこが隣組配給となる(男子1日6本)
・11月20日 紫蘇糖が隣組を通じ抽選配給となる

<1945年(昭和20)>
・7月1日 戦災に伴い配給機構を整理し、配給品一切を扱う公営綜合配給所を設置する
・7月11日 主食の配給を1割減の2合1勺とする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

980年(天元3)第66代の天皇とされる一条天皇の誕生日(新暦7月15日)詳細
1837年(天保8)生田万の乱が失敗し、国学者生田万が自刃する(新暦7月3日)詳細
1875年(明治8)日本初の気象台「東京気象台」が設置され、気象と地震の観測が開始される(気象記念日)詳細
1903年(明治36)日本最初の洋風近代式公園として、東京の日比谷公園が開園する詳細
1936年(昭和11)日本放送協会(NHK)のラジオ放送で「国民歌謡」が開始される詳細
1949年(昭和24)「日本国有鉄道法」が施行され、日本国有鉄道(国鉄)が運輸省から独立して公社化して発足する詳細
1957年(昭和32)「自然公園法」が制定される詳細
1965年(昭和40)福岡県の三井山野炭鉱ガス爆発事故で、死者237人、負傷者38人を出す詳細
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