ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、国民精神総動員運動の一環として節米運動が開始され、週1日の「節米デー」が定められた日です。
 節米運動(せつまいうんどう)は、日中戦争以降の戦時体制下で、物資が不足の中において、食糧確保のために主食の米をできるだけ節約する運動です。1937年(昭和12)10月12日 挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まりました。
 その中で、1939年(昭和14)11月に、先鞭をつけ、京都府で駅弁の代用として焼き芋が用いられましす。1939年(昭和14年)12月1日に、「白米禁止令」(正式名:米穀搗精等制限令)が施行され、7分づき以上の米(種皮や胚芽を7割以上除去した米)の販売が禁止されました。
 1939年(昭和14)8月に、興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、日の丸弁当が推奨されるようになります。同年11月に、節米運動の先鞭をつけ、京都府で駅弁の代用として焼き芋が用いられ、1939年(昭和14)12月1日には、「白米禁止令」(正式名:米穀搗精等制限令)が施行され、7分づき以上の米(種皮や胚芽を7割以上除去した米)の販売が禁止されました。
 1940年(昭和15)1月に、昼食を時々代用食とする旨が記述されるようになり、1940年(昭和15)5月10日から、国民精神総動員運動の一環としての節米運動が開始され、週に1度の「節米デー」が設定されます。1940年(昭和15)7月に、3日に1食は代用食をとること、飯に米以外の具材を1割以上混ぜることを「必ず実行しませう」と、語気が強調され、1940年(昭和15)8月には、東京市の食堂で米飯が全廃され、うどんやパン類のメニューが登場しました。
 1941年(昭和16)4月1日に、六大都市では「米穀割当配給制実施要綱」に基づき、米穀配給通帳が導入され、入手可能な米の量が制限され、節米は必須となり、1942年(昭和17)4月1日から、米穀配給通帳の導入が全国的に開始され、米の販売は完全に統制されることとなります。

〇節枚運動関係略年表

・1918年(大正7) 全国に米騒動が広がり、原内閣はパンの代用食運動を推進する
・1919年(大正8) 白米の節食運動の一環として、医師による日本主食改良会が発足する
・1937年(昭和12)8月24日 「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定される
・1937年(昭和12)10月12日 挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まる
・1939年(昭和14)8月 興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、日の丸弁当が推奨される
・1939年(昭和14)11月 節米運動の先鞭をつけ、京都府で駅弁の代用として焼き芋が用いられる
・1939年(昭和14)12月1日、「白米禁止令」(正式名:米穀搗精等制限令)が施行され、7分づき以上の米(種皮や胚芽を7割以上除去した米)の販売が禁止される
・1940年(昭和15)1月 昼食を時々代用食とする旨が記述されるようになる
・1940年(昭和15)5月10日 国民精神総動員運動の一環として節米運動が開始され、週に1度の「節米デー」が設定される
・1940年(昭和15)7月 3日に1食は代用食をとること、飯に米以外の具材を1割以上混ぜることを「必ず実行しませう」と、語気が強調される
・1940年(昭和15)8月 東京市の食堂で米飯が全廃され、うどんやパン類のメニューが登場する
・1941年(昭和16)4月1日 六大都市では「米穀割当配給制実施要綱」に基づき、米穀配給通帳が導入され、入手可能な米の量が制限され、節米は必須となる
・1941年(昭和16)7月 文部省が発行した冊子『臣民の道』にも、物資の輸入は外米よりも軍需品を優先するよう記述がなされる
・1942年(昭和17)4月1日 米穀配給通帳の導入が全国的に開始される

☆国民精神総動員運動(こくみんせいしんそうどういんうんどう)とは?

 昭和時代前期の1937年(昭和12)7月7日の日中全面戦争突入(盧溝橋事件)以後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動でした。8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、10月12日 に挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まり、翌日から、第1回国民精神総動員強調週間(~19日)が開始されます。
 「ぜいたくは敵だ!」などの標語を街頭・新聞などで掲げ、パンフレットや教育映画・ラジオなど、メディアを使った宣伝に努めました。また、子供向けには、銃後支援、軍事援護、国民貯蓄奨励などを題材にした国策紙芝居が製作され、小学校を中心に上演されます。
 その中で、翌年までに帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加するようになりました。最初は、精神運動の性格が強かったのですが、次第に献金、献品など物的協力に転換していき、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属類回収などが展開されます。
 1939年(昭和14)3月には文部大臣を委員長とする国民精神総動員中央委員会が設置され、道府県には主務課が設けられました。同年8月には興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、さらに翌年4月には、従来の組織を解消して、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収します。しかし、同本部も同年10月には大政翼賛会に吸収されて、運動が引き継がれていきました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

892年(寛平4)菅原道真が『類聚国史』を撰進する(新暦6月2日)詳細
1863年(文久3)長州藩が下関海峡に碇泊中のアメリカ商船に砲撃し、下関事件が始まる(新暦6月25日)詳細
1871年(明治4)「新貨条例」が公布され、「円・銭・厘」の十進法が採用される(新暦6月27日)詳細
1895年(明治28)三国干渉により遼東半島を清に返還する旨の「遼東半島還付の詔勅」が出される詳細
1900年(明治33)『鉄道唱歌』第一集東海道篇が発行される詳細
1930年(昭和5)日本画家下村観山の命日詳細
1949年(昭和24)シヤウプ使節団のシャウプ博士、ヴィックリ一博士、ハットフィールド氏が来日する詳細
1964年(昭和39)国鉄柳ヶ瀬線(長浜~柳ヶ瀬)がこの日限りで廃止され、柳ヶ瀬トンネルの鉄道利用が終了する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1642年(寛永19)に、江戸幕府が譜代大名にも参勤交代を命じた日ですが、新暦では6月5日となります。
 参勤交代(さんきんこうたい)は、江戸時代に、江戸幕府が大名支配の手段として課した大名軍役の一つで、諸大名に時期を定めて江戸に参勤させた制度です。全国250以上ある大名家が2年毎に江戸に参勤し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行うものでした。
 江戸初期に諸大名が自発的に江戸に参勤したことに端を発し、大名は忠誠を示すため、正室と子(男子であれば跡継ぎ)、有力家臣の子弟を人質として江戸に住まわせるようになります。1615年(元和元)に、制定された「武家諸法度(元和令)」により、参勤作法として従者の員数を定めて、100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定されました。
 1634年(寛永11)に、譜代大名の妻子を江戸に移すこととし、翌年には、「武家諸法度(寛永令)」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代が制度化されます。1642年(寛永19)には、制度改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となりました。
 享保の改革の一環として、1722年(享保7)に諸大名に1万石につき100石の上米を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半としましたが、8年後の1730年(享保15)には、参勤交代が旧制に復しました。1862年(文久2)に、再び参勤交代を緩和し、3年一勤百日在府制を実施しましたが、1865年(慶応元)に再び旧に戻そうとしたものの、命令に従う者がなく、事実上の廃絶となりました。
 この制度は、江戸幕府による大名妻子の人質政策であり、往復の旅費や江戸藩邸での巨額の出費は大名の財政を苦しめたものの、一方で江戸の繁栄、交通(街道や宿場等)・経済(貨幣流通や商工業)の発達、中央文化の地方普及を促したとされています。

〇参勤交代関係略年表

・1596年(慶長元) 藤堂高虎が弟の正高を証人として江戸に送り、参勤交代のはじめとされる
・1600年(慶長5) 関ケ原の戦後、外様大名の江戸参勤が増加する
・1602年(慶長7) 前田利長が母を人質として参勤する
・1615年(元和元) 「武家諸法度(元和令)」が制定されたが、参勤作法として従者の員数を定めただけで100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定する
・1634年(寛永11) 譜代大名の妻子を江戸に移す
・1635年(寛永12) 「武家諸法度(寛永令)」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代を制度化する
・1642年(寛永19) 制度の改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となる
・1722年(享保7) 諸大名に1万石につき100石の上米を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半とする
・1730年(享保15) 参勤交代が旧制に復する
・1862年(文久2) 再び参勤交代を緩和し、三年一勤百日在府制を実施する
・1865年(慶応元)  再び旧に戻したが命令に従う者がなく、参勤交代制度が廃絶となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)江戸幕府が豪商・住友家に別子銅山の採掘を許可する(新暦6月5日)詳細
1841年(天保12)江戸幕府の命により、高島秋帆が徳丸ヶ原洋式軍事演習を行なう(新暦6月27日)詳細
1862年(文久2)江戸幕府が派遣した文久遣欧使節により、ロンドン覚書が締結される(新暦6月6日)詳細
1876年(明治9)明治天皇行幸で東京の上野公園の開園式が行われる詳細
1904年(明治37)小説家武田麟太郎の誕生日詳細
1906年(明治39)書家金子鷗亭の誕生日詳細
1915年(大正4)中国・袁世凱政府が日本の「対華21ヶ条要求」を受諾詳細
1942年(昭和17)「金属類回収令」に基づく閣令「回収物件の譲渡申込期間指定に関する件」が公布される詳細
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 今日は、鎌倉時代の1333年(元弘3)に、新田義貞が上野国で北條氏討伐の旗揚げをした日ですが、新暦では6月20日となります。
 新田義貞(にった よしさだ)は、鎌倉幕府を滅亡させた御家人・武将です。鎌倉時代の1301年(正安3)に、上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)を拠点とする豪族新田朝氏(朝兼)の長子として生まれましたが、小太郎とも言いました。
 1318年(文保2)に父が亡くなり、家督を継いで新田一族の惣領となります。1332年(正慶元/元弘2)に河内(現在の大阪府)の楠木正成攻めの鎌倉幕府の動員令に応じましたが、護良親王の令旨をうけたため、病気を理由に途中で帰国しました。
 翌年討幕の兵を挙げ、関東各地の反幕府勢力を糾合し、鎌倉街道を武蔵に進撃します。小手指原(現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、同年5月22日鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府を滅ぼしました。
 その功により、後醍醐天皇の建武新政では、越後守・上野介などや武者所頭人に任ぜられ、左兵衛佐(のちに左近衛中将)、従四位上の官位を得ます。やがて、足利尊氏と激しく対立するようになり、翌年の中先代 の乱を機に足利尊氏が建武政府にそむくと、関東に下った尊氏を追撃しました。
 箱根竹ノ下の戦いには敗れたものの、その直後、上洛した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収めて、一時は尊氏を九州に敗走させます。しかし、1336年(延元元/建武3)に再起した尊氏に兵庫で敗れて、京都を占領されると、恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠ります。
 落城前に脱出して再挙をはかりますが、1338年(暦応元/延元3年閏7月2日)に、斯波高経との藤島の戦い(現在の福井県足羽郡藤島)において、数え年38歳で討ち死にしました。

〇新田義貞の挙兵から鎌倉幕府滅亡までの略年表(日付は旧暦です)

<1333年(元弘3)>
・5月8日 新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げる
・5月9日 義貞挙兵の報を受けた幕府の評定が鎌倉で行われる
・5月10日 桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府方が迎撃に向かう
・5月11日 小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月12日 久米川の戦い(現在の東京都東村山市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月15・16日 分倍河原の戦い(現在の東京都府中市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月16日 関戸の戦い(現在の東京都多摩市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月18日 反鎌倉幕府方は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始する
・5月21日 新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入る
・5月22日 東勝寺で北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣が自害し、鎌倉幕府が滅亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)第53代の天皇とされる淳和天皇の命日(新暦6月11日)詳細
1680年(延宝8)江戸幕府第4代将軍徳川家綱の命日(新暦6月4日)詳細
1904年(明治37)小樽明治37年「稲穂町の火事」で、2,481戸が焼失する詳細
1911年(明治44)文部省編『尋常小学唱歌』第1学年用(20曲)が発行される詳細
山形明治44年「市北の大火」で、1,340戸が全焼する詳細
1968年(昭和43)富山県神通川流域のイタイイタイ病が、政府によって認定された公害病の第1号となる詳細
1950年(昭和25)詩人・歌人・文芸評論家相馬御風の命日詳細
1955年(昭和30)東京都砂川町(現立川市)で米軍立川基地拡張反対総決起集会が開かれ砂川闘争が始まる詳細
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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、品川駅~横浜駅(現在の桜木町駅)間で鉄道が仮営業を開始し、日本の鉄道の営業運転が始まった日ですが、新暦では6月12日となります。
 日本の鉄道(にほんのてつどう)は、明治時代前期の1870年(明治3)に、東京~京都~神戸間その他の鉄道を政府自ら建設することを正式に決定、同年3月に新橋~横浜間が着工し、1872年(明治5年5月7日)に品川~横浜間が仮開業しました。そして、新橋~横浜間29kmの開通をみた1872年10月14日(明治5年9月12日)明治天皇臨席のもと、新橋(後の汐留貨物駅、現在は廃止)、横浜(現在の根岸線桜木町駅)両駅で盛大な鉄道開業式典が挙行され、お召し列車も運行され、翌日から正式営業に入ります。
 1921年(大正10)10月14日に鉄道開業50周年を記念して東京駅の丸の内北口に鉄道博物館(初代)が開館しました。その翌年から新暦換算日の10月14日が、鉄道省により「鉄道記念日」として制定されることになります。
 1958年(昭和33)から原則として、この日に鉄道記念物が数件ずつが指定され、2018年(平成30)までに、44件の鉄道記念物と51件の準鉄道記念物が指定されました。

〇鉄道開業式典(てつどうかいぎょうしきてん)とは?

 明治時代前期の1872年(明治5年9月12日)に、新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成して、挙行された式典です。日本の鉄道は、1870年(明治3)東京~京都~神戸間その他の鉄道を政府自ら建設することを正式に決定、同年3月に新橋~横浜間が着工し、1872年(明治5年5月7日)に品川~横浜間が仮開業しました。
 そして、新橋~横浜間29kmの開通をみた1872年10月14日(明治5年9月12日)に明治天皇臨席のもと、新橋(後の汐留貨物駅、現在は廃止)、横浜(現在の根岸線桜木町駅)両駅で盛大な開業式典を挙行、お召し列車も運行され、翌日から正式営業に入ります。1921年(大正10)10月14日に鉄道開業50周年を記念して東京駅の丸の内北口に鉄道博物館(初代)が開館しました。
 その翌年から新暦換算日の10月14日が、鉄道省により「鉄道記念日」として制定されることになります。しかし、1987年(昭和62)の国鉄分割民営化後、1994年(平成6)から「鉄道の日」と改名され、現在まで各種イベントが開催されてきました。
 尚、この時に鉄道の開業式典が催された新橋駅舎は、1923年(大正12)の関東大震災で被災・焼失し、後に汐留貨物駅となり埋もれていましたが、1965年(昭和40)5月12日に国の史跡に指定され、1986年(昭和61)に汐留貨物駅廃止後に発掘調査が行われています。その後、風化を防ぐために埋め戻され、2003年(平成15)にその上に開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられ、内部は鉄道の歴史に関する「鉄道歴史展示室」となって、見学できるようになりました。
 ここには0哩ポストがありますが、1870年4月25日(明治3年3月26日)に測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれたことを記念し、1936年(昭和11)に日本の鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道が復元されたものです。これは、1958年(昭和33)10月14日に、旧国鉄によって鉄道記念物に指定されました。

☆鉄道記念物(てつどうきねんぶつ)とは?

 鉄道記念物は、1958年(昭和33)に当時の日本国有鉄道(国鉄)制定し、日本の鉄道に関する歴史的文化的に重要な事物等を指定して保存、継承するためのものです。また、1963年(昭和38)に制定された、地方的に重要な事物等を指定する準鉄道記念物というのもありました。
 国鉄分割民営化後は、既存の記念物がJR各社の管理に移されましたが、長らく指定が行われなかったものの、2004年(平成16)以後、にJR各社によって、準鉄道記念物から鉄道記念物への格上げという形で、指定行われています。1958年(昭和33)から原則として10月14日の鉄道記念日(現在の鉄道の日)に数件ずつが指定され、2018年(平成30)までに、44件の鉄道記念物と51件の準鉄道記念物が指定されました。
 これ以外にも、経済産業省が認定している近代化産業遺産の中に鉄道関係のものがありますし、国の重要文化財や史跡に指定されているものもあります。

<鉄道記念物一覧>(44件)

・1号機関車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1958年指定]
・1号御料車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1958年指定]
・弁慶号機関車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1958年指定]
・旧長浜駅(長浜鉄道スクエア)滋賀県長浜市[1958年指定]
・0哩ポスト(旧新橋停車場)東京都港区[1958年指定]
・善光号機関車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1959年指定]
・5号御料車(博物館明治村)愛知県犬山市[1959年指定]
・6号御料車(博物館明治村)愛知県犬山市[1959年指定]
・鉄道古文書(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1959年指定]
・佐賀藩製造の機関車模型(佐賀県立博物館)佐賀県佐賀市[1959年指定]
・大阪駅時鐘(京都鉄道博物館)京都府京都市[1960年指定]
・旧逢坂山ずい道東口 滋賀県大津市[1960年指定]
・旧手宮機関庫(小樽市総合博物館)北海道小樽市[1960年指定]
・野辺地防雪原林(東北本線野辺地駅)青森県野辺地町[1960年指定]
・開拓使号客車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1961年指定]
・110号機関車(青梅鉄道公園)東京都青梅市[1961年指定]
・旧長浜駅29号分岐器ポイント部(長浜鉄道スクエア)滋賀県長浜市[1961年指定]
・エドモンド・モレルの墓(横浜市外人墓地)神奈川県横浜市[1962年指定]
・秋田第1号鉄道飛砂防止林(羽越本線桂根駅)秋田県秋田市[1962年指定]
・蒸気動車(キハ6401号蒸気動車)(リニア・鉄道館)愛知県名古屋市[1962年指定]
・西園寺公望自筆の鉄道国有法案説明草稿(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1962年指定]
・2号御料車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1963年指定]
・鉄道助佐藤政養文書(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1963年指定]
・アプト式鉄道(10000号電気機関車)(旧軽井沢駅舎記念館)長野県軽井沢町[1964年指定]
・井上勝の墓(東海寺大山墓地)東京都品川区[1964年指定]
・ウエブ・エンド・トムソン式電気通票器(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1964年指定]
・旧六郷川鉄橋(旧三島社員研修センター)静岡県三島市[1965年指定]
・壱岐丸の号鐘(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1967年指定]
・7号御料車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1967年指定]
・伊予鉄道1号機関車(伊予鉄道梅津寺公園)愛媛県松山市[1967年指定]
・9号御料車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1969年指定]
・10号御料車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1969年指定]
・12号御料車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1969年指定]
・国鉄バス第1号車(リニア・鉄道館)愛知県名古屋市[1969年指定]
・ナデ6141号電動車(鉄道博物館)埼玉県さいたま市[1972年指定]
・義経号機関車(京都鉄道博物館)京都府京都市[2004年指定]
・1801号蒸気機関車(京都鉄道博物館)京都府京都市[2004年指定]
・233号蒸気機関車 (京都鉄道博物館)京都府京都市[2004年指定]
・EF52 1号電気機関車(京都鉄道博物館)京都府京都市[2004年指定]
・0系新幹線車両(21-1, 16-1, 35-1, 22-1) (京都鉄道博物館)京都府京都市[2008年指定]
・しづか号機関車(小樽市総合博物館)北海道小樽市[2010年指定]
・い1号客車(小樽市総合博物館)北海道小樽市[2010年指定]
・大勝号蒸気機関車(小樽市総合博物館)北海道小樽市[2010年指定]
・旧津山扇形機関車庫と転車台(津山まなびの鉄道館)岡山県津山市[2018年指定]

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1073年(延久5)第71代天皇とされる後三条天皇の命日(新暦6月15日)詳細
1703年(元禄16)大坂の竹本座で近松門左衞門作の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演される(新暦6月20日)詳細
1858年(安政5)伊東玄朴ら蘭医83名の醸金で、江戸の上野にお玉ヶ池種痘所が設立される(新暦6月17日)詳細
1875年(明治8)日露が「樺太・千島交換条約」に調印する詳細
1918年(大正7)「軍需工業動員法」が施行される詳細
1936年(昭和11)第69帝国議会の衆議院で斎藤隆夫議員が軍部革正(粛軍)を要請する質問演説(粛軍演説)をする詳細
1988年(昭和63)文芸評論家山本健吉の命日詳細
1991年(平成3)考古学者末永雅雄の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、長岡半太郎が電気工学において、有限長ソレノイド(コイル)のインダクタンスを求めるための係数、長岡係数を提唱した日です。
 長岡係数(ながおかけいすう)は、導線を巻いてインダクタを作るときに使う係数で、無限長ソレノイドのインダクタンスを求める公式により、有限長ソレノイドのインダクタンスを求められるようにしたものです。日本の物理学の父と称される長岡半太郎が、1909年(明治42)5月6日に、発表し、通称「長岡係数」と呼ばれてきました。
 これは、電磁気学の理論を応用物理学、特に電気工学の分野で実用化する上で極めて重要な貢献であり、日本初の物理学における世界的な業績の一つであるとされています。今日でも、コイルの設計などにおいて広く利用されてきました。

〇長岡半太郎(ながおか はんたろう)とは?

 明治時代から昭和時代前期にかけて活躍した物理学者です。幕末の1865年(慶応元年6月28日)に、肥前国大村(現在の長崎県大村市)で、大村藩藩士長岡治三郎の一人息子として生まれました。
 1874年(明治7)に一家とともに上京し、本郷区湯島小学校に入学、共立学校を経て、東京英語学校(東京大学予備門)に進学します。1882年(明治15)に東京大学理学部へ入学し、C.G.ノットの指導の下で全国地磁気測量に参加しました。
 卒業後は、大学院へ進み、磁気のひずみの実験や回折の数理物理学的な研究などを行い、1890年(明治23)に同大の助教授となります。1893年(明治26)から約3年間、ドイツ、オーストリアに留学し、ヘルムホルツ、ボルツマン、プランクらに学び、帰国して、1896年(明治29)に東京帝国大学教授となりました。
 1903年(明治36)に土星型原子模型を発表して注目され、1909年(明治42)に長岡係数を提唱します。1917年(大正6)に理化学研究所創立とともに研究員となり、1931年(昭和6)大阪帝国大学初代総長、1939年(昭和14)帝国学士院長と要職を歴任しました。
 その間、1928年(昭和3)勲二等旭日重光章、1937年(昭和12)第1回文化勲章の受章などの栄誉にも輝きます。実験物理学と理論物理学の両面にわたって活動し、多くの弟子を育てて、日本の物理学の水準を国際的な高さに引き上げましたが、1950年(昭和25)12月11日に、東京都文京区西片町の自宅において、脳出血のため、85歳で亡くなくなり、正三位勲一等旭日大綬章追贈されました。

☆長岡半太郎関係略年表

・1865年(慶応元年6月28日) 肥前国大村(現在の長崎県大村市)で、大村藩藩士長岡治三郎の一人息子として生まれる
・1874年(明治7) 一家とともに上京し、本郷区湯島小学校に入学する
・1882年(明治15) 東京大学理学部へ入学する
・1887年(明治20) 東京帝国大学大学院に進学する
・1890年(明治23) 東京帝国大学の助教授となり、磁気歪を研究してニッケル線に圧と捩りを与えると反磁性化することを確定する
・1892年(明治25) 田中館愛橘と長岡は「濃尾地震に伴ふ等磁力線の変位」を発表する
・1893年(明治26) 約3年間、ドイツ、オーストリアに留学し、ヘルムホルツ、ボルツマン、プランクらに学ぶ
・1896年(明治29) 東京帝国大学教授となる
・1902年(明治35) 長岡と本多光太郎は「鋼、Ni、Co、Ni鋼の磁歪」を発表する
・1903年(明治36) 土星型原子模型を発表して注目される
・1905年(明治38) 正五位となる
・1906年(明治39) 勲四等瑞宝章を受章する
・1909年(明治42) 長岡係数を提唱する
・1910年(明治43) 勲三等瑞宝章を受章する
・1915年(大正4) 正四位となる
・1917年(大正6) 理化学研究所創立とともに研究員となる
・1928年(昭和3) 勲二等旭日重光章を受章する、
・1931年(昭和6) 大阪帝国大学初代総長となる
・1932年(昭和7) 勲一等瑞宝章を受章する
・1934年(昭和9) 貴族院議員(~1947年)となる
・1937年(昭和12) 第1回文化勲章を受章する
・1939年(昭和14) 帝国学士院長となる
・1950年(昭和25)12月11日 東京都文京区西片町の自宅において、脳出血のため、85歳で亡くなり、正三位勲一等旭日大綬章追贈される

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