ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、安芸灘諸島連絡架橋(安芸灘とびしま海道)を構成する豊浜大橋<543m・3径間連続トラス橋>が開通した日です。
 豊浜大橋(とよはまおおはし)は、安芸灘諸島連絡架橋(安芸灘とびしま海道)を構成し、4号橋として、広島県呉市の豊島と大崎下島を繋ぐ橋です。県の「大崎下島地区広域営農団地農道整備事業」により建設された農道橋で、1992年(平成4)11月30日に開通しました。
 橋長:543.0m、最大支間長:240.0m、幅員:車道5.5m+歩道1.5m、航路限界:23.0mで、上部工形式は、3径間連続下曲弦プラットトラス橋となっていて、トラス橋としては国内第9位の長さ(中央支間長)となっています。大崎下島側には、架橋記念公園(約3万㎡)が整備され、日本一のジャングルジムがあって登ると橋や海峡を一望できる他、多目的グランド、ゲートボール場、テニスコート、芝生公園が整備されました。

〇安芸灘諸島連絡架橋(安芸灘とびしま海道)とは?

 広島県呉市川尻町の本土と安芸灘諸島を8つの橋で結ぶ連続架橋構想で、既に7つの橋が開通しています。西側から順に、1号橋(安芸灘大橋)本州~下蒲刈島、2号橋(蒲刈大橋)下蒲刈島~上蒲刈島、3号橋(豊島大橋)上蒲刈島~豊島、4号橋(豊浜大橋)豊島~大崎下島、5号橋(平羅橋)大崎下島~平羅島、6号橋(中の瀬戸大橋)平羅島~中ノ島、7号橋(岡村大橋)中ノ島~岡村島、8号橋(名称未定)岡村島~大崎上島とされてきました。
 現在、安芸灘大橋だけが有料道路となっていて、広島県道路公社が管理しています。この架橋によって、本土と繋がった島は、西側から順に、下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島、平羅島、中ノ島、愛媛県岡村島の7島となりました。
 8号橋は、岡村島~大崎上島をつなぐ予定ですが、まだ計画段階であって、事業化はされていません。将来的な構想として、岡村島から小大下島、大下島を通って愛媛県今治市(大三島)方面への架橋計画が存在しています。

☆安芸灘諸島連絡架橋(安芸灘とびしま海道)を構成する橋

・1号橋(安芸灘大橋)本州~下蒲刈島[有料]2000年1月18日開通<1175m・3径間2ヒンジ吊り橋>
・2号橋(蒲刈大橋)下蒲刈島~上蒲刈島[無料]1979年10月開通<480m・3径間2連続トラス橋>
・3号橋(豊島大橋)上蒲刈島~豊島[無料]2008年11月18日開通<903m・単径間吊り橋>愛称「アビ大橋」
・4号橋(豊浜大橋)豊島~大崎下島[無料]1992年11月30日開通<543m・3径間連続トラス橋>
・5号橋(平羅橋)大崎下島~平羅島[無料]1995年開通<98.5m・PC斜張橋>愛称「オレンジライン」
・6号橋(中の瀬戸大橋)平羅島~中ノ島[無料]1998年11月6日開通<251 m・ニールセンローゼ橋>
・7号橋(岡村大橋)中ノ島~岡村島[無料]1995年開通<228m・ニールセンローゼ橋>
・8号橋(未定)岡村島~大崎上島 (未定)(未供用)<未定>8号橋は計画段階であり事業化されていない
※将来構想として、岡村島から小大下島、大下島を通って愛媛県今治市(大三島)方面への架橋計画がある

☆日本のトラス橋梁長さベスト10中央支間長による)

①港大橋(中央支間長:510m・全長:980m)大阪市港区~住之江区[阪神高速道路]1974年7月15日開通
②東京ゲートブリッジ(中央支間長:440m・全長:2618m)東京都江東区中央防波堤外側埋立地~若洲地区[東京港臨海道路]2012年2月12日開通
③生月大橋(中央支間長:400m・全長:960m)長崎県平戸市平戸島~生月島[長崎県道42号平戸生月線]1991年7月31日開通
④大島大橋(中央支間長:325m・全長:1020m)山口県柳井市~大島郡周防大島町[国道437号]1976年7月4日開通
⑤天草五橋・1号橋(天門橋)(中央支間長:300m・全長:502m)熊本県宇城市宇土半島~上天草市大矢野島[国道266号・国道324号]1966年9月24日開通
⑤黒之瀬戸大橋(中央支間長:300m・全長:502m)鹿児島県阿久根市~出水郡長島町[国道389号]1974年4月9日開通
⑦蒲刈大橋(中央支間長:255m・全長:480m)広島県呉市上蒲刈島~下蒲刈島[蒲刈広域農道]1979年10月開通
⑧与島橋(中央支間長:245m・全長:877m)香川県坂出市羽佐島~与島[瀬戸中央自動車道・JR本四備讃線]1988年4月10日開通
⑨境水道大橋(中央支間長:240m・全長:709m)鳥取県境港市~島根県松江市[国道431号]1972年7月22日開通
⑨豊浜大橋(中央支間長:240m・全長:543m)広島県呉市豊島~大崎下島[大崎下島広域農道]1992年11月30日開通

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)公家・歌人藤原俊成の命日(新暦12月22日)詳細
1888年(明治21)日本とメキシコがアジア以外では初の対等条約となる「日墨修好通商条約」に調印する詳細
1908年(明治41)駐米大使高平小五郎と米国国務長官エルフ・ルートが交換覚書「高平・ルート協定」に調印する詳細
1938年(昭和13)御前会議において、「日支新関係調整方針」が決定される詳細
1945年(昭和20)「ララ物資」第一便としてミルク・衣類など450トンが横浜港に到着する詳細
1947年(昭和22)「職業安定法」が公布(施行は同年12月1日)される詳細
1955年(昭和30)社会運動家・政治学者大山郁夫の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、評論家・児童文学作家古田足日の生まれた日です。
 古田足日(ふるた たるひ)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)11月29日に、愛媛県宇摩郡川之江町(現在の四国中央市)において、8人兄弟の三男として生まれました。1940年(昭和15)に川之江尋常高等小学校を卒業し、愛媛県立旧制三島中学校に入学したものの、中学4年生の時に戦時下の学徒勤労動員で倉絹(倉敷レーヨン)などで働きます。
 旧制第一高等学校を受験しましたが不合格、翌年旧制松山高等学校も受験しましたが不合格となり、1945年(昭和20)に大阪外事専門学校ロシア語科(現・大阪外語大学)へ入学しました。しかし、1948年(昭和23)に中退し、翌年に上京して早稲田大学露文科2年次に編入するも、すぐに休学し、宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の代用教員となります。
 1950年(昭和25)に代用教員を休職しそのまま退職、『ちきりが淵』を書き、「少女クラブ」8月号(講談社)に掲載され、はじめて原稿料をもらいました。1951年(昭和26)に早稲田大学露文科に復学、現代文学研究会に入り、同時に早大童話会に入り、鳥越信、神宮輝夫、山中恒、鈴木実、小桧山奮男らを知り、1953年(昭和28)には、早大童話会機関誌「童苑」第19号を「少年文学」と改題し、その巻頭に『「少年文学」の旗の下に!』と題する、〈少年文学宣言〉を発表したが、早稲田大学を中退、齊藤文惠と結婚しています。
 1954年(昭和29)に小さい仲間の会を結成し、同人誌「小さい仲間」を創刊、1955年(昭和30)に日本児童文学者協会常任理事に就任、翌年には、日本児童文学者協会事務局に勤務(~1959年)、雑誌『日本児童文学』編集長を務めました。1959年(昭和34)に第一次評論集『現代児童文学論―近代童話批判』を出版、第9回日本児童文学者協会新人賞を受賞、1964年(昭和39)には、雑誌「教育研究」で、『進め!ぼくらの海ぞく旗』(全13回)の連載(~翌年2月号)を開始します。
 1966年(昭和41)に『宿題ひきうけ株式会社』を刊行、第7回日本児童文学者協会賞を受賞、1968年(昭和43)に『モグラ原っぱのなかまたち』、1970年(昭和45)には、『ロボット・カミイ』、『大きい1年生と小さな2年生』、『海賊島探検株式会社』を刊行しました。1976年(昭和51)に山口女子大学に新設された文学部児童文化学科の教授に就任(~1980年)し、1978年(昭和53)には、『ダンプえんちょうやっつけた』、『月の上のガラスの町』を刊行しています。
 1980年(昭和55)に『さくらんぼクラブにクロがきた』を刊行、翌年の第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書となりました。1993年(平成5)に「全集 古田足日子どもの本」(全13巻・別巻1)を出版、1994年(平成6)には、第17回巖谷小波文芸賞を受賞しています。
 1997年(平成9)に日本児童文学者協会会長(~2002年)に就任、2004年(平成16)には、戦争体験集「わたしたちのアジア・太平洋戦争」(全3巻)を米田佐代子、西山利佳と共に刊行しました。2008年(平成20)に「子どもの本・九条の会」発足に参加し、代表団員を務めましたが、2014年(平成26)6月8日に、東京都東久留米市の自宅において、心不全のため86歳で亡くなっています。

〇古田足日の主要な作品

・評論集『現代児童文学論―近代童話批判』(1959年)日本児童文学者協会新人賞受賞
・『ぬすまれた町』(1961年)
・『宿題ひきうけ株式会社』(1966年)日本児童文学者協会賞受賞
・『モグラ原っぱのなかまたち』(1968年)
・『ロボット・カミイ』(1970年)
・『大きい1年生と小さな2年生』(1970年)
・絵本『おしいれのぼうけん』(1974年)
・『ダンプえんちょうやっつけた』(1978年)
・『さくらんぼクラブにクロがきた』(1980年)第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書

☆古田足日関係略年表

・1927年(昭和2)11月29日 愛媛県宇摩郡川之江町(現在の四国中央市)において、8人兄弟の三男として生まれる
・1931年(昭和6) 与謝野晶子夫妻が村を訪問する
・1940年(昭和15) 川之江尋常高等小学校を卒業し、愛媛県立旧制三島中学校に入学する
・1943年(昭和18) 学徒勤労動員で倉絹(倉敷レーヨン)などで働き、旧制第一高等学校を受験しましたが不合格となる
・1944年(昭和19) 旧制松山高等学校を受験しましたが不合格となる
・1945年(昭和20) 大阪外事専門学校ロシア語科(現・大阪外語大学)へ入学する
・1948年(昭和23) 大阪外専を中退する
・1949年(昭和24) 上京して早稲田大学露文科2年次に編入するも、すぐに休学し、宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の代用教員となる
・1950年(昭和25) 代用教員を休職しそのまま退職、『ちきりが淵』を書き、「少女クラブ」8月号(講談社)に掲載され、はじめて原稿料をもらう
・1951年(昭和26) 早稲田大学露文科に復学、現代文学研究会に入り、同時に早大童話会に入り、鳥越信、神宮輝夫、山中恒、鈴木実、小桧山奮男らを知る
・1953年(昭和28) 早大童話会機関誌「童苑」第19号を「少年文学」と改題し、その巻頭に『「少年文学」の旗の下に!』と題する、〈少年文学宣言〉を発表したが、早稲田大学を中退、齊藤文惠と結婚する
・1954年(昭和29) 小さい仲間の会を結成し、同人誌「小さい仲間」を創刊する
・1955年(昭和30) 日本児童文学者協会常任理事に就任する
・1956年(昭和31) 日本児童文学者協会事務局に勤務(~1959年)、雑誌『日本児童文学』編集長を務める
・1959年(昭和34) 第一次評論集『現代児童文学論―近代童話批判』を出版、第9回日本児童文学者協会新人賞を受賞する
・1960年(昭和35) 東京都豊島区椎名町のアパートに転居する
・1964年(昭和39) 雑誌「教育研究」で、『進め!ぼくらの海ぞく旗』(全13回)の連載(~翌年2月号)を開始する
・1966年(昭和41) 『宿題ひきうけ株式会社』を刊行、第7回日本児童文学者協会賞を受賞する
・1967年(昭和42) 雑誌「幼児と保育」(小学館)6月号増刊に『ロボット・カミイ』の原型を発表する
・1968年(昭和43) 『モグラ原っぱのなかまたち』を刊行する
・1970年(昭和45) 『ロボット・カミイ』、『大きい1年生と小さな2年生』、『海賊島探検株式会社』を刊行する
・1971年(昭和46) 紙芝居『ロボット・カミイ』シリーズ(全4巻)刊行開始(1971~1974年刊行)する
・1974年(昭和49) 『おしいれのぼうけん』刊行。
・1976年(昭和51) 山口女子大学に新設された文学部児童文化学科の教授に就任(~1980年)する
・1978年(昭和53) 『ダンプえんちょうやっつけた』、『月の上のガラスの町』を刊行する
・1980年(昭和55) 『さくらんぼクラブにクロがきた』を刊行する
・1981年(昭和56) 『さくらんぼクラブにクロがきた』 が第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書となる
・1993年(平成5) 「全集 古田足日子どもの本」(全13巻・別巻1)を出版する
・1994年(平成6) 第17回巖谷小波文芸賞を受賞する
・1997年(平成9) 日本児童文学者協会会長(~2002年)に就任する
・2002年(平成14) 『ひみつのやくそく』を刊行する
・2004年(平成16) 戦争体験集「わたしたちのアジア・太平洋戦争」(全3巻)を米田佐代子、西山利佳と共に刊行する
・2008年(平成20) 「子どもの本・九条の会」発足に参加し、代表団員を務める
・2011年(平成23) 『現代児童文学を問い続けて』を刊行する
・2014年(平成26)6月8日 東京都東久留米市の自宅において、心不全のため86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)新島襄らが京都に同志社英学校(後の同志社大学)を創設する詳細
1890年(明治23)「大日本帝国憲法」が施行される詳細
第1回帝国議会が開会する詳細
1910年(明治43)白瀬矗中尉ら第1回南極探検隊28人が開南丸で東京・芝浦を出港する詳細
1928年(昭和3)文芸評論家・小説家尾崎秀樹の誕生日詳細
1973年(昭和48)大洋デパート火災が起き、死者104名、負傷者124名を出す詳細
2002年(平成14)歴史学者・一連の教科書裁判の原告家永三郎の命日詳細
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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、北海道の新夕張炭鉱若鍋第二斜坑でガス炭塵爆発が起き、死者・行方不明者423人を出した日です。
 新夕張炭鉱若鍋坑ガス炭塵爆発事故(しんゆうばりたんこうわかなべこうがすたんじんばくはつじこ)は、大正時代の1914年(大正3)11月28日に、石狩石炭株式会社が経営する新夕張炭鉱若鍋第二斜坑で起きたガス炭塵爆発事故です。この炭鉱は、石炭の産出が急拡大する一方で、炭鉱の坑道からのガスの発生が多いという特徴も持っていて、札幌鉱務署から度々ガス爆発の災害の危険性の指摘があり、炭鉱側も坑道に風穴を開けたり、常に扇風機で風を送るなど、危険を未然に防ごうと注意を払っていました。
 約600人の人間が若鍋炭坑内で作業中だった、午後3時30分に、ガス炭塵爆発が起き、炭鉱全体を揺るがすような大音響が轟きわたります。坑内全域で大規模に落盤も発生、火焔も走り、多くの者が即死しました。二日後の30日から救援活動が行われ、坑内に充満していたガスが一気に爆発し燃え尽きたので、救援隊員は落盤を排除しながら奥まで進むことが出来たものの、四日後の12月2日午後9時になって、斜坑坑口より約900mの個所で火災が発生したため、遺体の3分の2を残したまま密閉、水没させています。
 この事故は、死者・行方不明者423人、負傷者25人という大惨事となり、北海道の炭鉱史上最悪のものとなりました。

〇1914年(大正3)12月2日付「北海タイムス記事」

慄然惻然措く能ず

会社にては 既報の如く 死体引取人に対し 死者一人に付 埋葬料十円 香典十円を與へ 遺族には労働賃金一日分の百倍を交付すると予め会社対坑夫間に於ける契約として成立し居るものなるが故に 会社は之等の金円を與ふれば 遺族保護の責任を脱し得るに似たるも 保護の実を締め山には未だ遠し
今回の変災たるや 未だ嘗て見ざる惨状を呈し 一家数人の死者を出したる者 少なからず 両親共に死して 五歳 八歳の東西をも弁(わきま)へ難き幼児のみなるあり 六十歳以上の老人のみ残れるもあり
扶助を受けたる金額のみを以て 今後の生計を支え難き 其数 甚少にあらざるべし
之等に対しては契約上の金円を與ふる以外 亦 別に適切の手段を巡らして 同情の実を現はすべきなり
尚 彼らは初めより危険なる坑内の労働に従事する者なり雖も 此の変災なかりせば 尚 幾多の星霜を迎えて 快く天寿を全うし 人生の幸福を享受するを得べかりしに哀れや惨禍 身に及びて 忽ち焦熱の間に悶死し 人としての取扱いを受けずして 一片の煙と化す
一度 位 地を転じて 遺族の心に同化すれば 誰れが慄然として人世の無常を嘆せざるあらむや
彼等は今 生計を支ゆる爲に金円を求むる
夫れよりも尚 渇仰するは 社会人心の同情なり
渾然として暖かき情味に浴せんと欲するは痛切なる彼らの希望なり
実情を目撃する者にして 此の感 切なり
而して会社は先づ 其路に当たるべき責任重大なり

〇新夕張炭鉱(しんゆうばりたんこう)とは?             

 1899年(明治32)に北海道庁の地理調査班が発見、持田辰之助が鉱業権を獲得し、中野四郎を経て谷七太郎が谷新夕張炭山の第二鉱として1906年(明治39)に開削されます。その後、石狩石炭が事業を継承し、1907年(明治40)に琴平坑(西一番坑・西二番坑・西二番斜坑)と八坂坑(東二番坑・東二番斜坑)を開坑、1913年(大正2)には18万トンの石炭を算出、さらに、1914年(大正3)に平安坑(南坑又は三坑)が開坑し、数千人の坑夫・雑夫が働き、毎日約700人が坑内作業にあたっていました。
 しかし、同年11月28日に、西一番坑及び西二番斜坑において、死者・行方不明者423人を出す大事故が発生、1916年(大正5)に住吉坑(西新坑)が開坑したものの経営は悪化し、石狩石炭は最終的に1920年(大正9)に北炭に合併します。それからもガス爆発の死傷事故が相次ぎ、ガスの処理の問題が解決されず、1930年(昭和5)に一度閉山に至りました。
 その後、1937年(昭和12)に北炭平和炭鉱が旧若鍋炭鉱の鉱区にに開鉱します。戦後の1948年(昭和23)に平和第二炭鉱(第二斜坑)が開鉱、1954年(昭和29)に平和炭鉱、平和第二炭鉱を一鉱、二鉱と改称、1957年(昭和32)に一区、二区とさらに改称されました。
 一区は1964年(昭和39)に終掘しましたが、二区は1964年(昭和39)に北部第二立坑が完成します。1966年(昭和41)には、生産量が106万トンと一度100万tを越えましたが、1968年(昭和43)に坑内火災で31人の方が亡くなる事故が発生してました。1969年(昭和44)には、第二立坑が完成したものの、1975年(昭和50)に閉山に至っています。

☆日本の主な炭鉱事故

<明治時代>
・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者243人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者276人]

<大正時代>
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者101人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1915年4月12日 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者369人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]

<昭和時代>
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天竜坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年9月20日 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年3月9日 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年3月16日 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年2月22日 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者61人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(文治元)源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可する(新暦12月21日)詳細
1835年(天保6)幕末の志士・政治家井上馨の誕生日(新暦では1836年1月16日)詳細
1872年(明治5)「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1878年(明治11)物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細
1897年(明治30)小説家・随筆家宇野千代の誕生日詳細
1951年(昭和26)「旅券法」(昭和26年法律第267号)が公布(施行は同年12月1日)される詳細
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 今日は、明治時代後期の1895年(明治28)に、スウェーデンの化学者ノーベルが、自らの発明したダイナマイトで得た富を人類に貢献した人に与えたいという遺言を書いた日で、「ノーベル賞制定記念日」とされています。
 ノーベル賞(のーべるしょう)は、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベル(1833~96)の遺言と遺産によって、1901年(明治34)から始まった世界で最も権威のある賞です。
 毎年、物理学・化学・生理学および医学・文学・平和の5部門において、顕著な功績のあった人に授与されるようになりましたが、1969年(昭和44)からは、スウェーデン銀行創立300年を記念し、その寄付により経済学賞も同様に授与されるようになり、メダル・賞状・賞金がノーベルの命日に当たる12月10日に贈られてきました。賞の授与機関については、ノーベルの遺志により、物理学部門と化学部門はスウェーデン王立科学アカデミー、生理学・医学部門は王立カロリンスカ医学研究所、文学部門はスウェーデン・アカデミー、平和賞はノルウェー国会ノーベル委員会と定められ、経済学部門については、スウェーデン王立科学アカデミーが賞の授与にあたっています。
 日本人の最初の受賞者は、1949年(昭和24)物理学賞の湯川秀樹「中間子の存在の予想」で、2020年(令和2)までに28名(日本出身の他国籍者含む)が、物理学賞(11名)、化学賞(8名)、生理学・医学賞(5名)、文学賞(3名)、平和賞(1名)にわたって受賞してきました。

☆日本人のノーベル賞受賞者一覧(受賞時に外国籍の人は除く)

<物理学賞>9名

・1949年 湯川秀樹「中間子の存在の予想」
・1965年 朝永振一郎「量子電気力学分野での基礎的研究」
・1973年 江崎玲於奈「半導体におけるトンネル効果の実験的発見」
・2002年 小柴昌俊「天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」
・2008年 小林誠「小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献」
・2008年 益川敏英「小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献」
・2014年 赤﨑勇「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」
・2014年 天野浩「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」
・2015年 梶田隆章「ニュートリノが質量を持つことを示すニュートリノ振動の発見」

<化学賞>8名

・1981年 福井謙一「化学反応過程の理論的研究」
・2000年 白川英樹「導電性高分子の発見と発展」
・2001年 野依良治「キラル触媒による不斉反応の研究」
・2002年 田中耕一「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」
・2008年 下村脩「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と生命科学への貢献」
・2010年 根岸英一「クロスカップリングの開発」
・2010年 鈴木章「クロスカップリングの開発」
・2019年 吉野彰「リチウムイオン二次電池の開発」

<生理学・医学賞>5名

・1987年 利根川進「多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明」
・2012年 山中伸弥「様々な細胞に成長できる能力を持つiPS細胞の作製」
・2015年 大村智「線虫の寄生によって引き起こされる感染症に対する新たな治療法に関する発見」
・2016年 大隅良典「オートファジーの仕組みの解明」
・2018年 本庶佑「免疫チェックポイント阻害因子の発見とがん治療への応用」

<文学賞>2名

・1968年 川端康成「『伊豆の踊子』『雪国』など、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による叙述の卓越さに対して」
・1994年 大江健三郎「『個人的な体験』『万延元年のフットボール』など、詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにした功績に対して」

<平和賞>1名と1団体

・1974年 佐藤栄作「非核三原則の提唱」
・2024年 日本原水爆被害者団体協議会「核兵器のない世界を実現するための努力と、目撃証言を通じて核兵器が二度と使用されてはならないことを実証したことに対して」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1829年(文政12)歌舞伎作者鶴屋南北(四代目)の亡くなった日ですが、新暦では12月22日詳細
1886年(明治19)洋画家藤田嗣治の誕生日詳細
1890年(明治23)小説家・翻訳家・仏文学者・児童文学者豊島与志雄の誕生日詳細
1942年(昭和17)戦時標語である「国民決意の標語」懸賞募集の入選と佳作が紙面上に発表される詳細
1943年(昭和18)カイロ会談で協議の上、米・英・中国3ヶ国政府首脳によりカイロ宣言が調印される詳細
1986年(昭和61)長崎県の三菱石炭鉱業高島砿業所(高島炭鉱)が閉山する詳細
1998年(平成10)多摩都市モノレール初となる、多摩都市モノレール線(立川北駅~上北台駅間)が開業する詳細
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 今日は、平成時代の1996年(平成8)に、大分県内の大分IC~大分米良IC間の開通により、大分自動車道が全線開通した日です。
 大分自動車道(おおいたじどうしゃどう)は、佐賀県鳥栖市の鳥栖ジャンクション (JCT) を起点とし、大分県速見郡日出町の日出JCTに至る、全長104.7kmのの高速道路(高速自動車国道)で略称は大分道、日本高速道路公団の分割民営化後は西日本高速道路が管理しています。1965年(昭和40)に「九州横断自動車道建設法」が施行され、予定路線に関する法律案の基準が示され、1966年(昭和41)には、九州横断自動車道(長崎市~鳥栖市~大分市)として国幹道の予定路線となりました。
 その東側区間(鳥栖市~大分市)として、建設が進められ、1987年(昭和62)2月5日に鳥栖JCT~朝倉ICが初めて開通します。その後、1989年(平成元)に湯布院IC~日出JCT予定地から別府IC間、1990年(平成2)に朝倉IC~日田IC間、1992年(平成4)には、別府IC~大分IC間がが順次開通しました。
 さらに、1994年(平成6)に日出JCT~速見IC(速見支線)開通により、宇佐別府道路と接続し、1996年(平成8)3月28日には、玖珠IC~湯布院ICが開通します。そして、1996年(平成8)11月26日に大分IC~大分米良IC間の開通により、大分道として全線開通し、2005年(平成17)には、全線4車線化されました。
 しかし、2015年(平成27年)3月1日に、東九州自動車道の豊前IC~宇佐IC間が開通した際に、日出JCT~速見IC(速見支線)がそれに組み込まれ、さらに、2018年(平成30年)8月5日には、日出JCT~大分米良IC間が東九州自動車道に変更されています。
 交通の要衝である鳥栖JCTを起点に、九州北部(福岡・佐賀・長崎・熊本)と日田市・由布市・別府市・大分市を繋ぐ東西軸として機能し、天領と呼ばれた日田市や日本有数の温泉街である湯布院などの観光地を結ぶ観光路線ともなってきました。

〇大分自動車道関係略年表

・1965年(昭和40)5月28日 : 「九州横断自動車道建設法」が施行され、予定路線に関する法律案の基準が示される
・1966年(昭和41)7月1日 : 九州横断自動車道として国幹道の予定路線となる
・1987年(昭和62)2月5日 : 鳥栖JCT~朝倉ICが初めて開通する
・1989年(平成元)7月20日 : 湯布院IC~日出JCT予定地から別府ICが開通する
・1990年(平成2)3月10日 : 朝倉IC~日田ICが開通(杷木IC~日田ICは当初暫定2車線)する
・1992年(平成4)12月3日 : 別府IC~大分ICが開通。
・1994年(平成6)12月15日 : 日出JCT~速見IC(速見支線)開通により、宇佐別府道路と接続する
・1996年(平成8)3月28日 : 玖珠IC~湯布院IC開通により、現在の大分自動車道の区間としては全線開通する
・1996年(平成8)11月26日 : 大分IC~大分米良IC開通により、全線開通する
・1998年(平成10)11月11日 : 杷木IC~日田ICの4車線化がなされる
・1999年(平成11)11月27日 : 大分米良ICで東九州自動車道と接続する
・2000年(平成12)3月21日 : 日田IC~玖珠ICの4車線化がなされる
・2002年(平成14)3月30日 : 速見ICで日出バイパスと接続する
・2002年(平成14)5月25日 : 湯布院IC~日出JCTの4車線化と同時に由布岳PAが供用開始する
・2004年(平成16)8月30日 : 水分PA~湯布院ICの4車線化がなされる
・2005年(平成17)3月19日 : 玖珠IC~水分PAの4車線化工事が完了し、大分自動車道が全線4車線で開通する
・2010年(平成22)2月2日 : 日出JCT~速見IC、大分IC~大分米良ICが無料化社会実験の対象区間に指定される
・2011年(平成23)2月9日 : 日出JCT~大分ICが無料化社会実験の対象区間に指定される
・2015年(平成27)3月 : 東九州自動車道豊前IC~宇佐IC間開通に伴い、速見支線の路線呼称を東九州自動車道に変更する
・2016年(平成28)4月16日 : 未明に熊本地方を震源とするマグニチュード7.3の地震(熊本地震の本震)が発生。由布岳PA付近を中心に土砂崩れや道路の陥没の被害を受け、鳥栖JCT~日出JCT~大分米良IC間と速見IC~日出JCT間が通行止めとなる
・2016年(平成28)4月17日 : 日田IC~玖珠IC間、別府IC - 大分IC間の通行止めを解除する
・2016年(平成28)4月18日 : 玖珠IC~湯布院IC間の通行止めを解除する
・2016年(平成28)4月21日 : 日出JCT~別府IC間、速見IC - 日出JCT間の通行止めを解除する
・2016年(平成28)5月9日 : 湯布院IC~日出JCT間の通行止めを解除。湯布院IC - 日出JCT間で対面通行規制や速度制限が残るものの全線で通行可能になる
・2016年(平成28)9月15日 : 湯布院IC~日出JCT間の通行規制を解除する
・2016年(平成28)11月27日 : 由布岳PA内に由布岳スマートICが供用開始する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)洋画家・小説家・随筆家有島生馬の誕生日詳細
1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1911年(明治44)政治家・外交官小村寿太郎の命日詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細
1993年(平成5)児童文学者・帝塚山学院大学学長庄野英二の命日詳細
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