
宇高連絡船(うこうれんらくせん)は、明治時代後期から昭和時代にかけて、日本国有鉄道(国鉄)、分割民営化後は四国旅客鉄道(JR四国)が運行していた鉄道連絡船です。前身としては、1903年(明治36)に山陽鉄道傘下の山陽汽船商社が開設した、岡山港~高松港間と多尾連絡船(多度津港~尾道港間)があり、1906年(明治39)3月31日に公布された「鉄道国有法」によって、国鉄の航路になりました。
1910年(明治41)6月12日の宇野線開通と共に、鉄道連絡船(営業キロ18.0km)となり、玉藻丸、児島丸(客船)の2隻で営業を開始します。1921年(大正10)から曳航艀による貨車航送が始められ、1930年(昭和5)には、最初の自走貨車航送船(線路から直接貨車を積み込む船)が就航しました。
1950年(昭和25)には、客載貨車航送船により、乗り換えなしで航送出来るようになります。しかし、1955年(昭和30)5月11日に、連絡船紫雲丸が第三宇高丸と衝突して沈没し、168人が死亡する事故が発生(紫雲丸事故)、その後安全性を考慮して、客載貨車航送は廃止されました。
1972年(昭和47)にはホバークラフトが就航、通常の連絡船では1時間かかる所要時間を23分で運航、さらに1985年(昭和60)からは高速艇も就航します。1987年(昭和62)の国鉄分割民営化に伴い、四国旅客鉄道(JR四国)の管理となったものの、1988年(昭和63)4月10日の瀬戸大橋の完成により、瀬戸大橋線が開通して陸路で結ばれるようになり、鉄道連絡船の運航は高速艇を除き廃止されました。
その高速艇も、1990年(平成2)3月31日に利用者の大幅減により高速艇の運航を休止し、1991年(平成3)3月16日に、前日て終わって、正式に廃止されています。
1910年(明治41)6月12日の宇野線開通と共に、鉄道連絡船(営業キロ18.0km)となり、玉藻丸、児島丸(客船)の2隻で営業を開始します。1921年(大正10)から曳航艀による貨車航送が始められ、1930年(昭和5)には、最初の自走貨車航送船(線路から直接貨車を積み込む船)が就航しました。
1950年(昭和25)には、客載貨車航送船により、乗り換えなしで航送出来るようになります。しかし、1955年(昭和30)5月11日に、連絡船紫雲丸が第三宇高丸と衝突して沈没し、168人が死亡する事故が発生(紫雲丸事故)、その後安全性を考慮して、客載貨車航送は廃止されました。
1972年(昭和47)にはホバークラフトが就航、通常の連絡船では1時間かかる所要時間を23分で運航、さらに1985年(昭和60)からは高速艇も就航します。1987年(昭和62)の国鉄分割民営化に伴い、四国旅客鉄道(JR四国)の管理となったものの、1988年(昭和63)4月10日の瀬戸大橋の完成により、瀬戸大橋線が開通して陸路で結ばれるようになり、鉄道連絡船の運航は高速艇を除き廃止されました。
その高速艇も、1990年(平成2)3月31日に利用者の大幅減により高速艇の運航を休止し、1991年(平成3)3月16日に、前日て終わって、正式に廃止されています。
〇宇高連絡船関係略年表
・1903年(明治36)3月18日 身となる山陽汽船商社の岡山港~高松港間および多尾連絡船(多度津港~尾道港間)が就航する
・1906年(明治39)12月1日 「鉄道国有法」に伴い、山陽汽船商社の航路が国有化される
・1910年(明治43)6月12日 官設鉄道宇野線 岡山~宇野間が開通し、岡山港~高松港間と多尾連絡船の両航路を統合し、宇野~高松間の航路を開設し、玉藻丸・児嶋丸が就航する
・1917年(大正6)5月15日 水島丸が就航し、常時2船運航となる
・1921年(大正10)10月10日 貨車渡艀曳航による貨車航送を開始する
・1923年(大正12)6月29日 陽丸が就航し、玉藻丸は高松港に係船となる
・1923年(大正12)7月3日 南海丸が就航する
・1924年(大正13)3月1日 玉藻丸・児嶋丸を瀬戸内連絡急行汽船会社に売却される
・1929年(昭和4)11月23日 第一宇高丸が就航し、陸上設備の完成まで貨車渡艀曳航による貨車航送を続ける
・1930年(昭和5)4月1日 陸上設備の完成により第一宇高丸が貨車航送を開始する
・1934年(昭和9)7月12日 二宇高丸が就航する
・1937年(昭和12)8月12日 一宇高丸が聖川丸(川崎丸株式会社所属)と衝突し、沈没する
・1942年(昭和17)9月26日 関門トンネル開通に伴い、第三・第四・第五関門丸が下関~小森江航路より転属する
・1942年(昭和17)11月4日 第一関門丸が、下関~小森江航路より転属する
・1943年(昭和18)5月12日 南海丸が、座礁し沈没する
・1943年(昭和18)5月21日 第二関門丸が下関~小森江航路より転属する
・1947年(昭和22)7月6日 紫雲丸が就航する
・1947年(昭和22)10月14日 二宇高丸が、第三関門丸と衝突し沈没する
・1948年(昭和23)2月26日 眉山丸が就航する
・1948年(昭和23)6月25日 鷲羽丸が就航する
・1948年(昭和23)12月27日 山陽丸・南海丸・第一~第五関門丸の運航が廃止される
・1949年(昭和24)3月1日 宇野・高松港の第2バース完成により使用開始。同日、紫雲丸型3隻により車両航送開始する
・1949年(昭和24)6月1日 「日本国有鉄道法」施行に伴い、公共企業体日本国有鉄道(国鉄)に移管する
・1950年(昭和25)3月25日 紫雲丸、直島水道にて鷲羽丸と衝突し1度目の沈没をする
・1950年(昭和25)5月10日 第一 - 第五関門丸を日本自動車航送株式会社に売却。
・1950年(昭和25)10月1日 大阪駅~松山駅・須崎駅間に直通準急列車を設定、宇高連絡船では客車を積み込んで航送。乗客が乗った客車の車両航送が開始される
・1955年(昭和30)5月11日 紫雲丸が第三宇高丸と衝突して沈没し168人が死亡する事故が発生(紫雲丸事故・国鉄戦後五大事故の一つ)する
・1972年(昭和47)11月8日 ホーバークラフトが就航する
・1980年(昭和55)10月1日 夜行急行列車「鷲羽」[注釈 1]と接続した高松0時台発及び宇野2時台発の便が廃止される
・1985年(昭和60)3月14日 夜行急行列車「いよ2号」及び窪川駅始発の夜行快速列車と接続する、高松4時頃発の便を臨時運航化する
・1985年(昭和60)12月 多客期、またホーバークラフトが定期検査で休航となる際に、臨時便として高速艇が就航する
・1987年(昭和62)4月1日 国鉄分割民営化に伴い、四国旅客鉄道(JR四国)に移管される
・1988年(昭和63)4月9日 本四備讃線(瀬戸大橋線)の翌日開業に伴い、連絡船とホーバークラフトが終航となり、高速艇は存続する
・1990年(平成2)3月31日 利用者の大幅減により高速艇の運航を休止し、事実上の終航となる
・1991年(平成3)3月16日 JR宇高航路が前日て終わり、廃止される
・2010年(平成22)6月12日 宇高航路100周年を記念し、JR四国の主催で、四国フェリーの船をチャーターし「宇高連絡船メモリアルクルーズ」を開催する
・2019年(令和元)12月16日 四国フェリーが運航を休止し、宇野・高松間の直行航路が109年の歴史に幕を下ろす
☆鉄道連絡船(てつどうれんらくせん)とは?
鉄道を敷設することができない海洋や湖沼などの水上の部分に、鉄道の一線区に相当するものとしての航路を開き、両岸の鉄道線を連絡する船舶のことです。
日本では、1884年(明治17)に福井県の金ヶ崎(敦賀港)~滋賀県長浜まで全通した鉄道路線と、兵庫県神戸~滋賀県大津間の鉄道路線とを琵琶湖の湖上経由(太湖汽船会社の第一・第二太湖丸による)で結んだのが最初でした。しかし、この航路は、1989年(明治22)に、東海道線と長浜~米原間の鉄道の開通によって、陸路で結ばれたために役割を終えます。
その後、1908年(明治39)に本州と北海道を結ぶ青函航路(青森駅~函館桟橋駅・函館駅)、1910年(明治41)に本州と四国を結ぶ宇高航路(宇野駅~高松桟橋駅・高松駅)、1911年(明治42)に本州と九州を結ぶ関門航路(下関駅~小森江駅)などが開設されましたが、いずれも海底トンネルや海峡橋の建設により鉄道路線として結ばれるなどにより、廃止されました。
尚、本州と宮島を結ぶ宮島航路は、JR西日本宮島フェリーの航路(鉄道連絡船)として現存していますが、当初から鉄道線を挟んだ輸送を担うものではありません。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1885年(明治18) | 福沢諭吉が執筆したとされる「脱亜論」が『時事新報』に掲載される | 詳細 |
1900年(明治33) | 「私設鐵道法」(明治33年法律第64号)が公布(施行は同年10月1日)される | 詳細 |
「鉄道営業法」(明治33年法律第65号)が公布(施行は同年10月1日)される | 詳細 | |
1934年(昭和9) | 初めて国立公園(.瀬戸内海国立公園・霧島国立公園・雲仙国立公園)が誕生する | 詳細 |
1983年(昭和58) | 千葉県佐倉市に「国立歴史民俗博物館」が開館する | 詳細 |
2005年(平成17) | 財団法人ダム水源地環境整備センター(現在の水源地環境センター)が「ダム湖百選」を選定する | 詳細 |
2006年(平成18) | 福岡県に新北九州空港(現在の北九州空港)が開港する | 詳細 |