ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、平成時代の1991年(平成3)に、前年3月31日をもって休止していたJR宇高連絡船(宇野~高松間)が正式に廃止された日です。
 宇高連絡船(うこうれんらくせん)は、明治時代後期から昭和時代にかけて、日本国有鉄道(国鉄)、分割民営化後は四国旅客鉄道(JR四国)が運行していた鉄道連絡船です。前身としては、1903年(明治36)に山陽鉄道傘下の山陽汽船商社が開設した、岡山港~高松港間と多尾連絡船(多度津港~尾道港間)があり、1906年(明治39)3月31日に公布された「鉄道国有法」によって、国鉄の航路になりました。
 1910年(明治41)6月12日の宇野線開通と共に、鉄道連絡船(営業キロ18.0km)となり、玉藻丸、児島丸(客船)の2隻で営業を開始します。1921年(大正10)から曳航艀による貨車航送が始められ、1930年(昭和5)には、最初の自走貨車航送船(線路から直接貨車を積み込む船)が就航しました。
 1950年(昭和25)には、客載貨車航送船により、乗り換えなしで航送出来るようになります。しかし、1955年(昭和30)5月11日に、連絡船紫雲丸が第三宇高丸と衝突して沈没し、168人が死亡する事故が発生(紫雲丸事故)、その後安全性を考慮して、客載貨車航送は廃止されました。
 1972年(昭和47)にはホバークラフトが就航、通常の連絡船では1時間かかる所要時間を23分で運航、さらに1985年(昭和60)からは高速艇も就航します。1987年(昭和62)の国鉄分割民営化に伴い、四国旅客鉄道(JR四国)の管理となったものの、1988年(昭和63)4月10日の瀬戸大橋の完成により、瀬戸大橋線が開通して陸路で結ばれるようになり、鉄道連絡船の運航は高速艇を除き廃止されました。
 その高速艇も、1990年(平成2)3月31日に利用者の大幅減により高速艇の運航を休止し、1991年(平成3)3月16日に、前日て終わって、正式に廃止されています。

〇宇高連絡船関係略年表

・1903年(明治36)3月18日 身となる山陽汽船商社の岡山港~高松港間および多尾連絡船(多度津港~尾道港間)が就航する
・1906年(明治39)12月1日 「鉄道国有法」に伴い、山陽汽船商社の航路が国有化される
・1910年(明治43)6月12日 官設鉄道宇野線 岡山~宇野間が開通し、岡山港~高松港間と多尾連絡船の両航路を統合し、宇野~高松間の航路を開設し、玉藻丸・児嶋丸が就航する
・1917年(大正6)5月15日 水島丸が就航し、常時2船運航となる
・1921年(大正10)10月10日 貨車渡艀曳航による貨車航送を開始する
・1923年(大正12)6月29日 陽丸が就航し、玉藻丸は高松港に係船となる
・1923年(大正12)7月3日 南海丸が就航する
・1924年(大正13)3月1日 玉藻丸・児嶋丸を瀬戸内連絡急行汽船会社に売却される
・1929年(昭和4)11月23日 第一宇高丸が就航し、陸上設備の完成まで貨車渡艀曳航による貨車航送を続ける
・1930年(昭和5)4月1日 陸上設備の完成により第一宇高丸が貨車航送を開始する
・1934年(昭和9)7月12日 二宇高丸が就航する
・1937年(昭和12)8月12日 一宇高丸が聖川丸(川崎丸株式会社所属)と衝突し、沈没する
・1942年(昭和17)9月26日 関門トンネル開通に伴い、第三・第四・第五関門丸が下関~小森江航路より転属する
・1942年(昭和17)11月4日 第一関門丸が、下関~小森江航路より転属する
・1943年(昭和18)5月12日 南海丸が、座礁し沈没する
・1943年(昭和18)5月21日 第二関門丸が下関~小森江航路より転属する
・1947年(昭和22)7月6日 紫雲丸が就航する
・1947年(昭和22)10月14日 二宇高丸が、第三関門丸と衝突し沈没する
・1948年(昭和23)2月26日 眉山丸が就航する
・1948年(昭和23)6月25日 鷲羽丸が就航する
・1948年(昭和23)12月27日 山陽丸・南海丸・第一~第五関門丸の運航が廃止される
・1949年(昭和24)3月1日 宇野・高松港の第2バース完成により使用開始。同日、紫雲丸型3隻により車両航送開始する
・1949年(昭和24)6月1日 「日本国有鉄道法」施行に伴い、公共企業体日本国有鉄道(国鉄)に移管する
・1950年(昭和25)3月25日 紫雲丸、直島水道にて鷲羽丸と衝突し1度目の沈没をする
・1950年(昭和25)5月10日 第一 - 第五関門丸を日本自動車航送株式会社に売却。
・1950年(昭和25)10月1日 大阪駅~松山駅・須崎駅間に直通準急列車を設定、宇高連絡船では客車を積み込んで航送。乗客が乗った客車の車両航送が開始される
・1955年(昭和30)5月11日 紫雲丸が第三宇高丸と衝突して沈没し168人が死亡する事故が発生(紫雲丸事故・国鉄戦後五大事故の一つ)する
・1972年(昭和47)11月8日 ホーバークラフトが就航する
・1980年(昭和55)10月1日 夜行急行列車「鷲羽」[注釈 1]と接続した高松0時台発及び宇野2時台発の便が廃止される
・1985年(昭和60)3月14日 夜行急行列車「いよ2号」及び窪川駅始発の夜行快速列車と接続する、高松4時頃発の便を臨時運航化する
・1985年(昭和60)12月 多客期、またホーバークラフトが定期検査で休航となる際に、臨時便として高速艇が就航する
・1987年(昭和62)4月1日 国鉄分割民営化に伴い、四国旅客鉄道(JR四国)に移管される
・1988年(昭和63)4月9日 本四備讃線(瀬戸大橋線)の翌日開業に伴い、連絡船とホーバークラフトが終航となり、高速艇は存続する
・1990年(平成2)3月31日 利用者の大幅減により高速艇の運航を休止し、事実上の終航となる
・1991年(平成3)3月16日 JR宇高航路が前日て終わり、廃止される
・2010年(平成22)6月12日 宇高航路100周年を記念し、JR四国の主催で、四国フェリーの船をチャーターし「宇高連絡船メモリアルクルーズ」を開催する
・2019年(令和元)12月16日 四国フェリーが運航を休止し、宇野・高松間の直行航路が109年の歴史に幕を下ろす

☆鉄道連絡船(てつどうれんらくせん)とは?

 鉄道を敷設することができない海洋や湖沼などの水上の部分に、鉄道の一線区に相当するものとしての航路を開き、両岸の鉄道線を連絡する船舶のことです。
 日本では、1884年(明治17)に福井県の金ヶ崎(敦賀港)~滋賀県長浜まで全通した鉄道路線と、兵庫県神戸~滋賀県大津間の鉄道路線とを琵琶湖の湖上経由(太湖汽船会社の第一・第二太湖丸による)で結んだのが最初でした。しかし、この航路は、1989年(明治22)に、東海道線と長浜~米原間の鉄道の開通によって、陸路で結ばれたために役割を終えます。
 その後、1908年(明治39)に本州と北海道を結ぶ青函航路(青森駅~函館桟橋駅・函館駅)、1910年(明治41)に本州と四国を結ぶ宇高航路(宇野駅~高松桟橋駅・高松駅)、1911年(明治42)に本州と九州を結ぶ関門航路(下関駅~小森江駅)などが開設されましたが、いずれも海底トンネルや海峡橋の建設により鉄道路線として結ばれるなどにより、廃止されました。
 尚、本州と宮島を結ぶ宮島航路は、JR西日本宮島フェリーの航路(鉄道連絡船)として現存していますが、当初から鉄道線を挟んだ輸送を担うものではありません。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)福沢諭吉が執筆したとされる「脱亜論」が『時事新報』に掲載される詳細
1900年(明治33)「私設鐵道法」(明治33年法律第64号)が公布(施行は同年10月1日)される詳細
「鉄道営業法」(明治33年法律第65号)が公布(施行は同年10月1日)される詳細
1934年(昭和9)初めて国立公園(.瀬戸内海国立公園・霧島国立公園・雲仙国立公園)が誕生する詳細
1983年(昭和58)千葉県佐倉市に「国立歴史民俗博物館」が開館する詳細
2005年(平成17)財団法人ダム水源地環境整備センター(現在の水源地環境センター)が「ダム湖百選」を選定する詳細
2006年(平成18)福岡県に新北九州空港(現在の北九州空港)が開港する詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1945年(昭和20)に、小磯国昭内閣により、「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」が閣議決定された日です。
 「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」(だいとしにおけるそかいきょうかようこう)は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)3月15日の小磯国昭内閣による閣議決定で、大都市における疎開を強化するためのものです。1945年(昭和20)3月10日に、アメリカ軍による東京大空襲が行われ、東京の下町が焼け野原になった5日後に出されました。
 これに基づいて、第六次の建物強制疎開が実施され、全国で66万戸が建物疎開の対象として指定されます。これは、防火区域を設定するための空地帯をつくることで、重要施設(官公署や軍事施設、軍需工場)を守るため、その周囲の民家を取り壊して空地をつくるものが主でした。
 これによって、敗戦までに実際に取り壊されたのは14,000戸となりましたが、計画の2.1%に過ぎないものとなります。
 以下に、「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」1945年(昭和20)3月15日閣議決定

一、方針

 戦局今後ノ推移ニ鑑ミ防衛並ニ食糧対策等ノ見地ヨリ急速ニ重要都市ノ徹底的人員及建物疎開ヲ決行シ国内自活自戦態勢ヲ促進ス

二、要領

(一)重要都市ニ残留セシムベキモノハ必要ナル機関及人員ニ限定シ他ハ凡テ之ヲ地方特ニ農村等ニ疎開セシメ之ガ戦力化ヲ図ル
 尚右ニ伴ヒ堅牢建築物ノ利用ニ努ムルト共ニ急速且徹底的ナル建物疎開ヲ実施シ戦時都市態勢ヲ確立ス

(二)人員疎開ハ縁故疎開、集団帰農、学童疎開、学徒ノ農村進出等及工場疎開ニ伴フ人員移駐ニ依リ之ヲ実施ス
 之ガ為各都道府県別ニ計画的割当ヲ行ヒ速急ニ之ガ受入態勢ヲ整備ス
 尚疎開ニ伴ヒ残置スベキ荷物ノ保管等ニ関シ特別ノ措置ヲ講ズ

(三)右人員疎開輸送強化ノ為非常措置ヲ講ズ

(四)以上ノ施策ハ即時実行ニ着手シ六月末日迄ニ之ガ大部ヲ完成ス

「註」今次空襲ニ依ル罹災者ハ本施策ノ方針ニ準拠シ速カニ転出セシム

   「内閣制度百年史 下」内閣制度百年史編纂委員会編より

☆太平洋戦争後半の疎開に関する閣議決定一覧

・「都市疎開実施要項」1943年(昭和18)12月21日閣議決定
 建物や人員の疎開を促進するために閣議決定されたもので、京浜、阪神、名古屋、北九州地域の重要都市に於ける疎開区域や人口疎開の対象者を定め、人口疎開政策の具体化が図られ、都市施設の地方分散がおこなわれた。

・「一般疎開促進要綱」1944年(昭和19)3月3日閣議決定
 都市部への空襲が強まる中で、「帝都疎開促進要綱」を同時に定め、人口疎開は府県別受入割当数の決定、老幼者・要保護者の縁故による「引取り」の実施を定めるなど具体的な促進を図ったものでした。

・「老幼者妊婦等ノ疎開実施要綱」1944年(昭和19)11月7日閣議決定
 戦局の悪化に伴う都市部の空襲に備え、老人、子供、妊婦等を地方疎開させ、人員の被害を最小限に止めるためのものです。

・「空襲対策緊急強化要綱」1945年(昭和20)1月19日閣議決定
 1944年(昭和19)のアメリカ軍によるマリアナ諸島攻略により、本土空襲が強化される中で、それに対処するためのものでした。

・「工場緊急疎開要綱」1945年(昭和20)2月23日閣議決定
 戦局の状勢を考えて、計画的、系統的に工場疎開を徹底実施するものとし効果的に分散、地下移設等の方法を講ずると共に緊要工場の地域的総合自立を図り軍需生産の長期確保強化を期するものでした。

<1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲を皮切りに都市部への無差別空襲が始まる>

・「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」1945年(昭和20)3月15日閣議決定
 大都市における疎開を強化するためのもので、第六次の建物強制疎開が実施され、全国で66万戸が建物疎開の対象として指定されます。

・「都市疎開者ノ就農ニ関スル緊急措置要綱」1945年(昭和20)3月30日閣議決定
 大都市の人員疎開の要請に即応し是等疎開人口にして農村に受入るる者に付ては縁故等に依り帰農を為さしむる外左の要領に依り之が適切なる受入を行ひ積極的に其の就農の措置を講じ食糧生産の増強に寄与せしむるものとす

・「現情勢下ニ於ケル疎開応急措置要綱」1945年(昭和20)4月20日閣議決定
 人員疎開では、①老幼姙産婦病弱者(介護者を含む)、②疎開施設随伴者(地方転勤者を含む)、③集団疎開者、④前各号以外の罹災者及強制疎開立退者(但し離職者)を先づ優先的に疎開させ、それ以外の者の疎開は当分の間認めず、工場及事業場は今後他の施設に優先して疎開し、又は堅牢建築等に移転するとしたものです。

・「重要物資等の緊急疎開に関する件」1945年(昭和20)6月26日閣議決定
 戦局がたいへん厳しくなり、都市部が連日のように空襲される中で、重要物資等を緊急疎開させるようにした閣議決定です。

・「空襲激化ニ伴フ緊急防衛対策要綱」1945年(昭和20)7月10日閣議決定
 戦争遂行上必要な機関、施設、工場等の要員である都市要残留者を具体的に調査再検討し、その必要最小限度を定めると共にその要員に対し食糧住宅の供給其の他防衛上必要な措置を講じ、併せて要員絶対確保の方途を実施するものです。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)明治政府が、民政方針を示す「五榜の掲示」の高札を設置する(新暦4月7日)詳細
1875年(明治8)詩人蒲原有明の誕生日詳細
1884年(明治17)「地租条例」が公布される詳細
1890年(明治23)琵琶湖疎水の第一期工事が完成し、全線通水が完了する詳細
1914年(大正3)秋田県内陸南部を震源とする秋田仙北地震(マグニチュード7.1)が起き、大きな被害を出す詳細
1930年(昭和5)神奈川県横浜市に山下公園が開園する詳細
1958年(昭和33)劇作家・演出家・小説家・批評家久保栄の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1979年(昭和54)に、全国の電話で電話自動化が完了し、ダイヤル即時通話ができるようになった日です。
 電話(でんわ)は、音声を電気的信号に変換し、有線または無線により離れた場所に伝送し、これを再び音声に戻すことで、相互に通話できるようにした通信方法です。1837年(天保8)に、アメリカ合衆国のチャールズ・ページが磁気による音声伝達原理を発見、1876年(明治9)に、アレクサンダー・グラハム・ベルが磁石式電話を発明して実用化されました。
 日本では、1877年(明治10)に工部省と宮内省との間19町32間(約2130m)に電線を架設し、日本で初めて電話を実用化、1878年(明治11) に警察電話が開通、1880年(明治13)には、鉄道電話が開通しています。1883年(明治16)に工部省電信局長石井忠亮、国営電話事業の必要性を強く訴え、建議書を政府に提出、1890年(明治23)に、「電話交換規則令」が発せられ、東京と横浜での電話業務開始にともない、初めて電話局内に「電話所」が設置され、1900年(明治33)9月11日に東京の新橋駅(中等待合室前)と上野駅(駅長室前)に1台ずつ、街頭にて初めて設置され「自働電話」と呼ばれました。
 1926年(大正15)に、自動交換方式に対応したダイヤル式電話機が導入され、自動化(ダイヤル式)への移行が開始されます。1952年(昭和27)に日本電信電話公社が設立されて電話通信事業を独占し、1979年(昭和54)には、全国の電話自動化完了し、全国の電話でダイヤル即時通話ができるようになり、自動車電話サービスが開始されました。
 1984年(昭和59)に第二電電、日本テレコム、日本高速通信(KDD)の民営3社が設立され、翌年には、電気通信事業の自由化が開始され、日本電電公社も民営化されて日本電信電話となります。1987年(昭和62)に日本初の携帯電話が発売されるようになり、現在では、広く携帯電話が普及するようになりました。

〇日本の電話関係略年表

・1877年(明治10)11月 工部省と宮内省との間19町32間(約2130m)に電線を架設し、日本で初めて電話を実用化する
・1878年(明治11) 5月17日  日本初の警察電話が開通する
・1880年(明治13)12月1日 日本初の鉄道電話が開通する
・1883年(明治16) 工部省電信局長石井忠亮、国営電話事業の必要性を強く訴え、建議書を政府に提出する
・1890年(明治23) 「電話交換規則令」が発せられ、東京と横浜での電話業務開始にともない、初めて電話局内に「電話所」が設置される
・1900年(明治33)9月11日 東京の新橋駅(中等待合室前)と上野駅(駅長室前)に1台ずつ、街頭にて初めて設置され「自働電話」と呼ばれた
・1900年(明治33)10月 最初の公衆電話ボックスが京橋(現在の東京都中央区)のたもとに建てられる
・1903年(明治36) 共電式公衆電話機の設置を開始
・1906年(明治39) 太平洋横断海底ケーブルが布設される
・1913年(大正2) 日本の電話加入者が20万271件となる
・1920年(大正9) 日本で電話の需要が急増し、市価が東京で3,450円、大阪で3,500円に騰貴した、戦前の最高値となる
・1925年(大正14)10月1日 交換手が要らないダイヤル自動方式が採用され、「自働電話」が「公衆電話」と改称される
・1926年(大正15) 自動交換方式に対応したダイヤル式電話機が導入され、自動化(ダイヤル式)への移行が開始される
・1951年(昭和26)12月 委託公衆電話が登場する
・1952年(昭和27) 日本電信電話公社が設立される
・1953年(昭和28)1月 ボタン付き硬貨後納式の「青電話」の設置が開始される
・1953年(昭和28)8月 「赤電話」(店頭公衆電話)が登場する
・1955年(昭和30) 10円硬貨前納式の「青電話」の設置が開始される
・1957年(昭和32) 近畿日本鉄道の特急2250系に日本初の列車公衆電話が設置される
・1959年(昭和34) 「ピンク電話」(特殊簡易公衆電話)が登場する
・1965年(昭和40) 東海道新幹線で列車公衆電話サービスが開始される 
・1968年(昭和43) ダイヤル市外通話可能な10円硬貨前納式の大型青電話の設置が開始される
・1969年(昭和34) 押しボタン式電話機(プッシュホン)が登場する
・1972年(昭和47)12月 100円硬貨にも対応した「黄電話」の設置が開始される
・1975年(昭和50) プッシュ式黄電話の設置が開始される
・1979年(昭和54) 全国の電話自動化完了し、全国の電話でダイヤル即時通話ができるようになり、自動車電話サービスが開始される
・1982年(昭和57)12月 磁気カード式公衆電話(磁気テレホンカード使用可)の設置が開始される
・1984年(昭和59) 第二電電、日本テレコム、日本高速通信(KDD)の民営3社が設立される
・1985年(昭和60)  電気通信事業の自由化が開始され、日本電電公社も民営化されて日本電信電話となり、自動車電話を自動車から取り外して持ち運べるようにしたショルダーホンが登場する
・1987年(昭和62) 日本初の携帯電話が発売される
・1988年(昭和63) ISDN方式デジタル電話INSネット64が開始される
・1986年(昭和61) 航空機公衆電話サービスが開始される 
・1993年(平成5) 公衆電話の通話料金が大幅に値上げされる
・1995年(平成7)3月 公衆電話のカード化が完了し、青電話、赤電話、黄電話が姿を消す 
・1999年(平成11)3月 ICカード対応公衆電話の設置が開始される
・2001年(平成13) マイラインが開始される
・2002年(平成14)11月 新規機種の開発の停止
・2005年(平成17) ICカード対応公衆電話の廃止に伴い、磁気テレホンカード式公衆電話の新機種DMC-8Aが出される
・2006年(平成18)3月31日 ICカード対応公衆電話のすべてのサービス終了する
・2007年(平成19) NTTが老朽化している公衆電話約2000台を新型公衆電話DMC-8Aに交換することを決定する
・2012年(平成24)6月29日 NTT東西が公式サイトにて全国の公衆電話の設置場所を公開する
・2016年(平成28年) DMC-8A公衆電話後継機種MC-D8のサービスが開始される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

800年(延暦19)富士山延暦噴火が始まる(新暦4月11日)詳細
1789年(寛政元)哲学者・経済学者・思想家三浦梅園の命日(新暦4月9日)詳細
1868年(慶応4)「五箇条の御誓文」が出される(新暦4月6日)詳細
1885年(明治18)数学者・数学史家・数学教育家・随筆家小倉金之助の誕生日詳細
1899年(明治32)正岡子規が根岸短歌会を創始する詳細
1929年(昭和4)茨城県新治郡石岡町(現在の石岡市)で石岡大火が発生し、606戸・1,700棟を焼失する詳細
1970年(昭和45)大阪で日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われる詳細
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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、「華族世襲財産法」(明治19年勅令第34号)が廃止された日です。
 「華族世襲財産法」(かぞくせしゅうざいさいほう)は、明治時代前期の1886年(明治19)4月29日に公布(施行は同年8月1日)された、華族所有の財産を保護するために公布された勅令(明治19年勅令第34号)です。華族は、幕末明治維新期の1869年(明治2)の「公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す」(明治2年太政官達)によって、旧公卿・諸侯の身分呼称として定められ、1877年(明治10)5月21日には、華族銀行とも言うべき第十五国立銀行の創設による華族財産の特別保護と管理などが行われるようになりました。
 さらに、1884年(明治17)7月7日に制定された「華族令」(明治17年宮内省達無号)で、日本における公・侯・伯・子・男の5爵による華族制度が確立し、1889年(明治22)制定の「貴族院令」により、公・侯爵全員、および伯・子・男爵は互選で貴族院議員となれる政治的特権が付与されます。しかし、中小の華族層の場合には、杜会的状況の変化や個人的理由によって、その所有財産の安定性は必ずしも確固たるものではなく、この勅令を公布し、華族所有の財産を保護しようとしたものでした。
 これによって、華族は第三者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来るようになり、公告の手続によって世襲財産を設定する義務が生まれます。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権や質権を主張することは出来なかったものの、華族の意志で運用することも出来なくなりました。
 尚、その後、債権者からの抗議もあって、1915年(大正4)には、当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになっています。これらの特権によって、華族は、皇族と並ぶ特殊な身分を形成し、天皇制維持の一基盤となってきたものの、太平洋戦争敗戦後の1946年(昭和21)3月13日に「華族世襲財産法」は廃止され、「華族令」も、「日本国憲法」制定で、1947年(昭和22)5月2日限りで廃止されました。
 以下に、「華族世襲財産法」(明治19年勅令第34号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「華族世襲財産法」(明治19年勅令第34号) 1886年(明治19)4月29日公布、同年8月1日施行

第一條  華族戸主滿二十年以上ノ者ハ此法ニ依リ世襲財産ヲ創設スルコトヲ得但滿二十年以下ノ者ト雖モ前代戸主ノ遺言アルトキハ世襲財産ヲ創設スルコトヲ得

第二條  世襲財産ハ總テ家督相績者ヲシテ之ヲ相續セシムルモノトス

第三條  世襲財産ハ左ニ掲クル所ノ二類ニ限ル但第十五國立銀行旅券ハ第二類ニ準シ世襲財産ト爲スコトヲ得

第一類  田畑山林宅地鹽田牧場池沼等

第二類  政府發行ノ公債證書又ハ政府ノ保證若クハ特別ノ監督ニ屬スル銀行若クハ會社ノ株券

第四條  世襲財産前條二類中ノ一種又ハ數種ニシテ其總額毎年金五百圓ニ下ラサル純收益ヲ生スル財産タルヘシ但其財産中收益ナキ地所ヲ加フルモ妨ケナシ

第五條  世襲財産ノ所有者ハ時ニ世襲スヘキ建物庭園圖書寶器等ヲ以テ世襲財産附屬物ト爲スコトヲ得

第六條  負債償却ノ義務アル財産ハ世襲財産及ヒ附屬物ト爲スコトヲ得ス

第七條  世襲財産ノ所有者ハ宮内大臣ノ認可ヲ得テ其財産ヲ增加スルコトヲ得

第八條  世襲財産ノ所有者ハ宮内大臣ノ認可ヲ得テ第二類ノ財産ヲ更換シテ第一類ノ財産ト爲スコトヲ得但第一類ヲ第二類ト爲スコトヲ得ス

第九條  第一類ノ財産若シ災害又ハ其他ノ事故ニ依リ第四條ノ制限額ヨリ滅シタルトキハ五箇年以?ニ其缺額ヲ補充スヘシ

第十條  第二類ノ財産其元金ノ仕掛ヲ受ケタルトキハ一箇年以内ニ第一類又ハ第二類ノ財産ヲ以テ其缺額ヲ補充スヘシ

第十一條  世襲財産ノ所有者ハ其財産ノ純收益ヲ抵當トシテ負債ヲ爲スコトヲ得但毎年其純收益ノ三分一以上ノ償却ヲ爲スヘキ義務ヲ負擔スルコトヲ得ス

第十二條  世襲財産ノ純收益ハ如何ナル場合ト雖モ債主ヨリ毎年其三分一以上ヲ差押フルコトヲ得ス

第十三條  世襲財政及ヒ附屬物ハ之ヲ賣却讓與シ又ハ質入書入ト爲スコトヲ得ス

第十四條  世襲財産及ヒ附屬物ハ負債ノ抵償トシテ差押フルヨトヲ得ス

第十五條  世襲財産ハ左ノ場合ニ於テハ其效力ヲ失フモノトス

一 戸主死亡ノ後家督相續スヘキ男子ナキトキ

一 爵ヲ奪ハレ又ハ族ヲ除カレ家督相續者ナキトキ

一 第九條第十條ニ掲ケタル缺額ヲ其期限内ニ補充セサルトキ

第十六條  世襲財産及ヒ附屬物ハ其所有者ニ於テ之ヲ廢止スルコトヲ得ス

第十七條  世襲財産ハ宮内大臣之ヲ管理シ華族局ヲシテ其事務ヲ取扱ハシム

第十八條  華族局ハ世襲財産臺帳ヲ備ヘ置キ世襲財産及ヒ之ニ關スル事項ヲ記入スヘシ

第十九條  世襲財産ヲ創設增加更換又ハ補充セントスル者ハ其願書ニ財産目録ヲ添ヘ宮内大臣ニ差出シ其認可ヲ受クヘシ世襲財産附屬物ヲ設ケントスル者亦同シ

第二十條  宮内大臣ハ前條ノ願書目録ヲ審査シ第一類ノ財産及ヒ第二類ノ公債證書ハ所轄ノ地方廳ニ命シ株券ハ銀行若クハ會社ニ命シ世襲財産ト爲スヘキ旨ヲ官報及ヒ其地方一定ノ新聞紙ニ掲ケ一週日間之ヲ公告セシムヘシ

世襲財産附屬物ハ華族局ニ於テ之ヲ公告スヘシ

第二十一條  前條公告ヲ了リタル後三十日ヲ經テ該財産ニ關シ故障ヲ申出ル者ナキトキハ宮内大臣ハ世襲財産臺帳ニ記入セシメ第一類ノ財産ハ所轄ノ地方廳ニ命シ地券臺帳ニ記入セシメ地方廳ハ戸長ニ命シ公證簿ニ記入セシムヘシ第二類ノ公債證書ハ所轄ノ地方廳ニ株券ハ銀行若クハ會社ニ命シ帳簿ニ記入セシムヘシ

華族局ニ於テハ該地券又ハ公債證書若クハ株券ノ券面ニ世襲財産ト爲リタル旨ヲ記入スヘシ

第二十二條  世襲財産其效カヲ失ヒタルトキハ宮内大臣ヨリ地方廳又ハ銀行若クハ會社ニ命シ之ヲ廣告セシムヘシ

世襲財産附屬物ハ華族局ニ於テ之ヲ廣告スヘシ

第二十三條  第二十條及ヒ第二十二條ニ關スル廣告費用ハ其財産所有者ヨリ之ヲ華族局ニ納ムヘシ

第二十四條  世襲財産ニ關スル事件ヲ協議スルカ爲メ戸主及ヒ滿二十年以上ノ相續者若クハ後見人ト親屬三名以上トヲ以テ親屬會議ヲ組織シ豫メ宮内大臣ニ屆出ヘシ但親屬ナキトキハ宮内大臣ノ認可ヲ得テ一族又ハ他ノ華族ヲ以テ親屬會議各員ノ連署ヲ要ス

第二十五條  世襲財産ニ關スル願書屆書ハ親屬會議各員ノ連署ヲ要ス

第二十六條  此法施行ノ手續ハ宮内大臣之ヲ定ム

第二十七條  此法ハ明治十九年八月一日ヨリ之ヲ施行ス

   「ウィキソース」より

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kamakurajidaisaikendqibutsu
 今日は、鎌倉時代の1195年(建久6)に、後鳥羽天皇・源頼朝・北条政子らの臨席のもとで、東大寺再建により、大仏殿の落慶法要が行われた日ですが、新暦では4月23日となります。
 東大寺(とうだいじ)は、奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇が741年(天平13年2月14日)に出した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられ、盧舎那仏(東大寺大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。
 特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。
 しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊します。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。
 その後、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、1195年(建久6)には、大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われ、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。
 また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。
 以下に、『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇東大寺大仏関係略年表

・740年(天平12年) 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心する
・741年(天平13年2月14日) 聖武天皇が「国分寺・国分尼寺建立の詔」を発する
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて「大仏造立の詔」を発する
・744年(天平16年11月13日) 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる
・745年(天平17年8月23日) 平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される
・746年(天平18年10月6日) 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う
・747年(天平19年9月29日) 大仏の鋳造が開始される
・749年(天平勝宝元年10月24日) 大仏の鋳造が終了する
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が盛大に開催される
・855年(斉衡2年) 地震で被災し、首が落下する
・861年(貞観3年) 大仏修復が終わり、朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行なう
・1180年(治承4年) 平重衡の兵火によって大仏が焼失する
・1185年(文治元年) 重源らが奔走して大仏を修復し、開眼法要が営まれる
・1195年(建久6年3月12日) 大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われる
・1567年(永禄10年) 松永久秀の兵火によって大仏が焼失する
・1610年(慶長15年) 仮堂で復興していた東大寺大仏殿が大風で倒壊する
・1685年(貞享元年) 公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得る
・1691年(元禄4年) 公慶らによって大仏が再興される
・1692年(元禄5年) 再興された大仏の開眼供養が行われる
・1709年(宝永6年) 再建された大仏殿が落慶する
・1958年(昭和33年)2月8日 「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定される

☆『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述

<原文>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衛門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。

<読み下し文>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽る。午以後雨頻りに降る。又地震。
今日東大寺供養也。雨師風伯[1]之降臨[2]、天衆地類[3]之影向[4]、其の瑞[5]揚焉[6]。
寅一點[7]、和田左衛門尉義盛、梶原平三景時、數万騎の壯士[8]を催し具し、寺の四面の近郭[9]を警固す。
日出以後、將軍家御參堂、御乘車[10]也。

【注釈】

[1]雨師風伯:うしふうはく=雨の神、風の神の意味。
[2]降臨:こうりん=天上に住むとされる神仏が地上に来臨すること。
[3]天衆地類:てんしゅじるい=天上界・地上界の神仏たち。天地の神仏。平家物語の巻第四「山門牒状」に「天衆地類も影向を垂れ」と出てくる。
[4]影向:ようごう=神仏の本体が一時応現すること。神仏が仮の姿をとって、この世に現われること。神仏が来臨すること。また、姿を見せないで現われること。
[5]其の瑞:そのずい=その縁起の良い効験は、
[6]揚焉:けちえん=著しいさま。きわだっているさま。目だつさま。あきらか。
[7]寅一點:とらのいってん=寅は1時00分~3時00分で、その2時間を5等分したのが点。1時00分~1時24分を一点、1時24分~1都48分を二点、1時48分~2時12分を三点、2時12分~2時36分を四点、2時36分~3時00分を五点。
[8]壯士:そうし=意気の豪壮なる者。勇壮な男子。血気のさかんな男。
[9]近郭:きんかく=近くの外回り。
[10]御乘車:ごじょうしゃ=牛車に乗車すること。

<現代語訳>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝の内は、雨だったものの晴れた。しかし、午後はまた雨が激しく降った。また地震があった。
今日は、東大寺大仏殿の落慶法要の日だ。雨の神、風の神が地上に来臨し、天上界・地上界の神仏たちが、この世に現われ、その縁起の良い効験はあきらかだ。
寅の一点(1時00分~1時24分)に、侍所長官の和田左衛門尉義盛と、副官の梶原平三景時が、数万騎の意気の豪壮なる者を指揮して、東大寺の四方の近くの外回りを警備している。
日の出以後に、将軍頼朝様は、お堂(大仏殿)へ、牛車に乗って、参上した。

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