ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、安政五カ国条約の一つとされる「日露修好通商条約」が調印された日ですが、新暦では8月19日となります。
 「日露修好通商条約」(にちろしゅうこうつうしょうじょうやく)は、江戸時代後期の1858年(安政5年7月11日)に、ロシア使節プチャーチンと江戸で調印され、1859年(安政6年7月10日)に批准された、2国間条約です。「日米修好通商条約」に準拠していて内容はほぼ同じですが、最恵国条款が双務的条項に改訂されている点が、他の4カ国(アメリカ、フランス、オランダ、イギリス)との条約と異なっています。
 その後、日本政府とロシア政府との交易業務の便宜を図るため、1867年(慶応3)に、江戸において、ロシア全権委任大使のコンスルコルレジスキー、ツウェツニク、エウゲニー、ビューツォフと外国奉行・加賀守江連堯則とのあいだの協議が行われ、同年11月18日に、「魯西亞國新定約書」が調印され、即日施行されました。しかし、この条約は、1895年(明治28)に締結された「日露通商航海条約」によって総て無効になっています。

〇安政五カ国条約(あんせいのごかこくじょうやく)とは?

 幕末の1858年(安政5)に、江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ通商条約の総称で、勅許なく調印されたため「安政の仮条約」とも呼ばれています。安政5年6月19日に、神奈川でアメリカ総領事ハリスと幕府の全権井上清直・岩瀬忠震(ただなり)とが調印した「日米修好通商条約」を嚆矢とし、「日蘭修好通商条約」は7月10日、「日露修好通商条約」は7月11日、「日英修好通商条約」は7月18日、「日仏修好通商条約」は9月3日に調印がおこなわれました。
 この一連の条約の締結により、鎖国体制を堅持していた日本は、世界資本主義の市場の一環に組みこまれることになります。これらの条約は、自由貿易を骨子として開港を規定、関税率協定制度、領事裁判権、片務的最恵国待遇の3条項は不平等なもので、のちの条約改正まで撤廃されませんでした。
 翌年から貿易が開始されると物価騰貴が起き、尊攘派による攘夷運動や幕政批判が激しくなる要因となり、安政の大獄や井伊大老の暗殺(桜田門外の変)を招くに至ります。

☆安政五カ国条約の一覧

・「日米修好通商条約」 対アメリカ合衆国 1858年(安政5年6月19日)調印
・「日蘭修好通商条約」 対オランダ  1858年(安政5年7月10日)調印
・「日露修好通商条約」 対ロシア帝国  1858年(安政5年7月11日)調印
・「日英修好通商条約」 対イギリス  1858年(安政5年7月18日)調印
・「日仏修好通商条約」 対フランス帝国  1858年(安政5年9月3日)調印

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1156年(保元元)保元の乱が起きる(新暦7月29日)詳細
1864年(元治元)思想家・洋学者佐久間象山の命日(新暦8月12日)詳細
1906年(明治39)直江津町(現在の新潟県上越市)明治39年の大火「ながさ火事」で、1,041戸が焼失する詳細
1945年(昭和20)勅令で、文部省に学徒動員局が設置される詳細
1950年(昭和25)日本労働組合総評議会(総評)が結成される詳細
1962年(昭和37)日本初の国産旅客機YS-11(日本航空機製造製)が完成する詳細
1963年(昭和38)「老人福祉法」(昭和38年法律第133号)が公布(同年8月1日施行)される詳細
1973年(昭和48)小説家吉屋信子の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、「日本学術会議法」が公布され、日本学術会議の設置が決められた日です。
 日本学術会議(にほんがくじゅつかいぎ)は、日本における人文・社会科学、自然科学の全分野にわたる科学者の代表機関で、略称はSCJです。大正時代の1920年(大正9)に設立された、学術研究会議を母胎にして、太平洋戦争後の学術体制刷新運動の中で、昭和時代中期の1948年(昭和23)に学術体制刷新委員会の改組案の答申により、「日本学術会議法」が制定されて、翌年に設立されました。
 科学の向上発達を図り、行政・産業・国民生活に科学を反映浸透させることを目的とし、重要事項の審議、政府に対する勧告などを行なうとされています。内閣総理大臣の所轄で、人文科学部門(3部)と自然科学部門(4部)の7部からなり、会員は計210人で、任期は3年、年2回の総会を開催してきました。
 1956年(昭和31)に日本学士院が分離独立し、1983年(昭和58)には、創立以来の会員公選制が改正されて学会推薦制となっています。設立以来、多くの勧告・要望・声明等を採択、特に、1954年(昭和29)の核兵器研究の拒否と原子力研究の三原則(民主・自主・公開)の声明、1980年(昭和55)の科学者憲章の採択などが注目されてきました。
 以下に、制定当初の「日本学術会議法」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日本学術会議法」(昭和23年法津第121号)1948年(昭和23)7月10日公布

 日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。

   第一章 設立及び目的

第一条 この法律により日本学術会議を設立し、この法律を日本学術会議法と称する。
2 日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする。
3 日本学術会議に関する経費は、国庫の負担とする。

第二条 日本学術会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする。

   第二章 職務及び権限

第三条 日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
 一 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
 二 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

第四条 政府は、左の事項について、日本学術会議に諮問することができる。
 一 科学に関する研究、試験等の助成、その他科学の振興を図るために政府の支出する交付金、補助金等の予算及びその配分
 二 政府所管の研究所、試験所及び委託研究費等に関する予算編成の方針
 三 特に専門科学者の検討を要する重要施策
 四 その他日本学術会議に諮問することを適当と認める事項

第五条 日本学術会議は、左の事項について、政府に勧告することができる。
 一 科学の振興及び技術の発達に関する方策
 二 科学に関する研究成果の活用に関する方策
 三 科学研究者の養成に関する方策
 四 科学を行政に反映させる方策
 五 科学を産業及び国民生活に浸透させる方策
 六 その他日本学術会議の目的の遂行に適当な事項

第六条 政府は、日本学術会議の求に応じて、資料の提出、意見の開陳又は説明をすることができる。

   第三章 組織

第七条 日本学術会議は、選挙された二百十人の日本学術会議会員(以下会員という。)をもつて、これを組織する。
2 会員の任期は、三年とする。但し、再選を妨げない。
3 会員には、手当を支給することができる。

第八条 日本学術会議に、会長一人及び副会長二人を置く。
2 会長は、会員の互選によつて、これを定める。
3 副会長は、人文科学部門又は自然科学部門に属する会員のうちから、それぞれ一人を全部の会員の互選によつて定める。
4 会長及び副会長の任期は、会員としての在任期間とする。但し、再選を妨げない。
5 会長又は副会長が欠員となつたときは、新たにこれを互選する。

第九条 会長は、会務を総理し、日本学術会議を代表する。
2 副会長は、会長を補佐し、会長に事故があるときは、会長の指名により、いずれかの一人が、その職務を代理する。

第十条 日本学術会議に、左の区分により、左の七部を置く。

  人文科学部門
   第一部(文学、哲学、史学)
   第二部(法律学、政治学)
   第三部(経済学、商学)
  自然科学部門第四部(理学)
   第五部(工学)
   第六部(農学)
   第七部(医学、歯学、薬学)

第十一条 会員は、前条に掲げる部のいずれかに分属するものとし、各部の定員は、それぞれ三十人とする。
2 各部の定員は、別表の定めるところにより、これを全国区定員と地方区定員とに、全国区定員は、これを専門別定員と専門にかかわらない定員とに分ける。
3 地方区定員は、各地方区において選出された会員一人ずつで、満たされるものとする。

第十二条 各部に、部長及び副部長各々一人並びに幹事二人を置き、その部に属する会員の互選によつて、これを定める。
2 第八条第四項及び第五項の規定は、部長、副部長及び幹事について、これを準用する。

第十三条 部長は、部務を掌理する。
2 副部長は、部長を補佐し、部長に事故があるときは、その職務を代理する。
3 幹事は、部長の命を受け、部務に従事する。

第十四条 日本学術会議に、その運営に関する事項を審議させるため、運営審議会を置く。
2 運営審議会は、会長、副会長、部長、副部長及び幹事をもつて、これを組織する。

第十五条 日本学術会議に、常置又は臨時の委員会を置くことができる。
2 前項の委員会の委員には、手当を支給することができる。

第十六条 日本学術会議に、事務局を置き、日本学術会議に関する事務を処理させる。
2 事務局に、政令の定めるところにより、局長その他所要の職員を置く。
3 前項の職員中、局長並びに一級及び二級の官吏の任免は、会長の申出を考慮して内閣総理大臣がこれを行い、三級官吏以下の任免は、局長がこれを行う。

   第四章 会員の選挙

第十七条 科学者であつて、左の資格の一を有する者は、会員の選挙権及び被選挙権を有する。
 一 学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)又は旧大学令(大正七年勅令第三百八十八号)による大学卒業後二年以上の者
 二 旧専門学校令(明治三十六年勅令第六十一号)による専門学校、旧師範教育令(昭和十八年勅令第百九号)による教員養成諸学校又はこれらの学校と同等以上の学校、養成所等を卒業後四年以上の者
 三 その他研究歴五年以上の者
2 前項の科学者は、科学又は技術の研究者であつて、研究論文若しくは業績報告又はこれに代るべき所属の学会若しくは研究機関の責任者の証明により、研究者であることが証明される者でなければならない。

第十八条 前条の規定により選挙権を有する者(以下有権者という。)は、事務局に備えた各部ごとの名簿に登録しなければ、選挙権を行使することができない。

第十九条 会員の選挙は、全国区と地方区とに分け、各部ごとに、同時に、これを行う。

第二十条 日本学術会議に、選挙管理会を設け、有権者の資格審査、選挙の実施、投票の効力の決定その他選挙に関する事務を行わせる。

第二十一条 前四条に定めるものの外、会員の選挙に関して必要な事項は、日本学術会議の定める選挙規則で、これを定める。

   第五章 会議

第二十二条 日本学術会議の会議は、総会、部会及び連合部会とする。
2 総会は、日本学術会議の最高議決機関とし、年二回会長がこれを招集する。但し、必要があるときは、臨時にこれを招集することができる。
3 部会は、各部に関する事項を審議し、部長がこれを招集する。
4 連合部会は、二以上の部門に関連する事項を審議し、関係する部の部長が、共同してこれを招集する。

第二十三条 総会は、会員の二分の一以上の出席がなければ、これを開くことができない。
2 総会の議決は、出席会員の多数決による。
3 部会及び連合部会の会議については、前二項の規定を準用する。

   第六章 日本学士院

第二十四条 日本学術会議に、学術上の功績顕著な科学者を優遇するために、日本学士院を置く。
2 日本学士院は、学術の研究を奨励するため、特にすぐれた論文、著書その他特定の研究業績に対して授賞することができる。
3 日本学士院は、日本学士院会員をもつてこれを組織する。
4 日本学士院会員の数は、百五十人とし、日本学術会議がこれを選定する。
5 日本学士院会員は、終身とする。
6 日本学士院会員には、予算の範囲内で、内閣総理大臣の定めるところにより、年金を支給することができる。

   第七章 雑則

第二十五条 会員は、病気その他やむを得ない事由があるときは、総会の議決によつて退職することができる。
第二十六条 会員に、会員として不適当な行為があるときは、総会における出席会員三分の二以上の議決によつて退職させることができる。
第二十七条 会員に欠員を生じたときは、全国区、地方区ともに、あらかじめ選挙管理会の指定する次点者をもつて補充する。
2 前項による補欠会員の任期は、前任者の残任期間とする。

第二十八条 会長は、総会の議決を経て、日本学術会議の運営に関し、必要な運営規則を定めることができる。

   附 則

第二十九条 この法律のうち、第三十四条及び第三十五条の規定は、この法律の公布の日から、これを施行し、その他の規定は、昭和二十四年一月二十日から、これを施行する。

第三十条 日本学士院規程(明治三十九年勅令第百四十九号)、学術研究会議官制(大正九年勅令第二百九十七号)及び日本学士院会員の待遇に関する件(大正三年勅令第二百五十八号)は、これを廃止する。

第三十一条 従前、日本学士院及び学術研究会議において所掌した事務でその廃止の日に残存するものは、日本学術会議においてこれを処理する。

第三十二条 第二十四条及び第三十条の規定施行の際、日本学士院規程によつて任命された日本学士院会員は、引き続きこの法律による日本学士院会員となつたものとする。

第三十三条 第一回に選出された会員の任期は、第七条第二項の規定にかかわらず、これを二年とする。

第三十四条 第一回の会員選挙は、第四章の規定に従い、学術体制刷新委員会がこれを行う。この場合において、第四項中「日本学術会議」とあるのは、「学術体制刷新委員会」と読み替えるものとする。
2 日本学術会議の第一回総会は、学術体制刷新委員会委員長が、これを招集する。
3 前二項に要する経費は、国庫の負担とする。

第三十五条 第一回の会員選挙のための選挙管理会は、中央選挙管理会及び地方選挙管理会とする。
2 地方選挙管理会は、各地方区にこれを置き、中央選挙管理会の事務の執行に協力するものとする。
3 中央選挙管理会の委員は百四人とし、学術体制刷新委員会において、これを選定する。但し、うち七人は各地方選挙管理会の委員のうちから一人づゝを選定するものとする。
4 地方選挙管理会の委員は、各地方区ごとに十四人以内とし、学術体制刷新委員会地方連絡委員会において、これを選定する。

別表(略)

(大蔵・文部・内閣総理大臣署名)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1821年(文政4)伊能忠敬死後門弟らが編纂していた『大日本沿海輿地全図』が完成し幕府に献上される(新暦8月7日)詳細
1927年(昭和2)岩波文庫が創刊される詳細
1944年(昭和19)横浜事件を契機として、改造社と中央公論社に解散が命じられる詳細
1945年(昭和20)仙台空襲おいて、死者・行方不明者1,000人以上、焼失家屋11,933戸、被災者57,321人を出す詳細
1947年(昭和22)静岡県静岡市の登呂遺跡で総合的な発掘調査が始まる詳細
1948年(昭和23)「温泉法」が制定・公布される詳細
1969年(昭和44)「同和対策事業特別措置法」(昭和44年法律第60号)が公布・施行される詳細
1993年(平成5)小説家井伏鱒二の命日 詳細
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 今日は、平成時代の2001年(平成13)に、東京都江東区青海の国際研究交流大学村内に、国立の「日本科学未来館」が開館した日です。
 日本科学未来館(にっぽんかがくみらいかん)は、東京都江東区青海の国際研究交流大学村内にある、先端の科学技術について紹介する自然・科学博物館です。1995年(平成7)の「科学技術基本法」、1996年(平成8)の「科学技術基本計画」に基づき、1998年(平成10)に文部省、通商産業省、科学技術庁の三省庁が合同で、臨海副都心地区に「国際研究交流大学村」を建設することが決定し、2000年(平成12)には、施設の名称を「日本科学未来館」に決定しました。
 2000年(平成12)に、毛利衛が初代館長に就任(現在は名誉館長)し、2001年(平成13)7月9日に開館しましたが、国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)が運営しています。一般社会からの科学技術の所感・見解などを学会・論文などを通じての研究者へフィードバックするなど科学技術と人々との交流をコンセプトとし、多様なバックグラウンドをもつ科学コミュニケーターなどのスタッフが在籍し、科学コミュニケーションの手法開発、科学コミュニケーターの育成、輩出も主な事業として行ってきました。
 尚、2017年(平成29)11月に、世界科学館サミットを主催し、98の国と地域から828名が参加しています。

<フロアマップ>
(7F)
・コミュニケーションフロア(コンファレンスルーム)
・展望ラウンジ(レストラン)
(6F)
・ドームシアター
(5F)
・常設展示ゾーン 世界をさぐる
(4F)
 吹き抜け
(3F)
・常設展示ゾーン 未来をつくる
・総合案内/”おや?”っこひろば/コ・スタジオ
(2F)
 吹き抜け
(1F)
・企画展示ゾーン
・シンボルゾーン/ミュージアムショップ/コミュニケーションロビー/多目的ルーム

〇「日本科学未来館」関係略年表

・1995年(平成7) 「科学技術基本法」が制定される
・1996年(平成8) 「科学技術基本計画」が策定される
・1998年(平成10)12月 文部省、通商産業省、科学技術庁の三省庁が合同で、臨海副都心地区に「国際研究交流大学村」を建設することが決定する
・2000年(平成12)3月 日本科学未来館のあり方を審議するため、JSTに総合監修委員会を設置し、展示計画、活動方針などについて具体的な検討を重ね、館の整備が進められる
・2000年(平成12)9月 施設の名称を「日本科学未来館」に決定する
・2000年(平成12)10月 毛利衛が初代館長に就任(現在は名誉館長)する
・2001年(平成13)7月9日 日本科学未来館が開館する
・2004年(平成16)7月 名誉館員制度が創設される
・2006年(平成18) スローガン「科学がわかる、世界がかわる」を策定する
・2009年(平成21)11月 行政刷新会議「事業仕分け」の結果を受け、予算を縮減しつつ、JSTによる運営業務直執行体制となる
・2010年(平成22)10月 日本科学未来館の運営体制の見直しが行われ、国際総合監修委員会の設置、「Miraikanメッセージ」を発信。「東京プロトコール」を締結する
・2016年(平成28)4月 常設展の大幅なリニューアルがおこなわれる
・2017年(平成29)11月 世界科学館サミット(SCWS)2017が開催される
・2021年(令和3)4月 浅川智恵子が館長に就任する
・2022年(令和4)7月 Miraikanビジョン2030を発表、スローガン「Mirai can_! 未来は、かなえるものへ。」を策定する
・2023年(令和5)11月 常設展の大幅なリニューアルがおこなわれる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

967年(康保4)律令政治の基本細則「延喜式」が施行される(新暦8月17日)詳細
1185年(元暦2)京都地方で文治地震が起こり、大きな被害が出る(新暦8月13日)詳細
1922年(大正11)小説家・医師森鴎外の命日(鴎外忌)詳細
1945年(昭和20)和歌山大空襲において、和歌山城が消失し、焼失家屋31,137戸、死者・行方不明者1,424人を出す詳細
1955年(昭和30)イギリスのロンドンで、「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出される詳細
1964年(昭和39)「住宅地造成事業に関する法律」が公布(施行は同年9月29日)される詳細
1976年(昭和51)静岡県の大井川鐵道が、日本で初めて蒸気機関車の動態保存運転を開始する詳細
2004年(平成16)日本史学者永原慶二の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1957年(昭和32)に、東京都砂川町(現在の立川市)において、立川基地拡張の為の強制測量で、測量阻止のデモ隊の一部が立ち入り禁止の境界柵を壊し基地内に数メートル立ち入った(砂川事件の裁判の端緒)日です。
 砂川事件(すながわじけん)は、在日米軍立川基地の拡張計画に対し、昭和時代中期の1955年(昭和30)から1969年(昭和44)まで、住民中心に闘われた反対運動に関連したものでした。1955年(昭和30)に在日米軍は日本政府に対し、ジェット爆撃機の発着のためとして、在日米軍立川基地の飛行場拡張を要求します。
 それに対し、拡張予定地内関係者は、砂川基地拡張反対同盟を結成して反対運動を展開、労働組合や学生団体、政党の中にも支援する動きが広まりました。1955年(昭和30)9月13日に、立川基地拡張の為の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊、あわせて5,000人が衝突、負傷者100人を出したのをはじめ、拡張予定地の測量をめぐり警官隊とたびたび衝突することになり、1956年(昭和31)には1,000人超の負傷者を出すに至ります。
 また、翌年7月8日には、デモ隊の一部が立川基地内に侵入したとして、学生や労働組合員が検挙され、その内7人が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反の罪に問われ起訴される砂川事件が起こりました。一審では、1959年(昭和34)に、米軍駐留は憲法違反であり被告全員無罪との判断が示された「伊達判決」が出て、注目されます。
 しかし、その後の上告審では、逆転して、1963年(昭和38)に有罪(罰金2,000円)が確定しました。予定地の地権者のうち23人が最後まで買収を拒否していましたが、米軍は1968年(昭和43)に滑走路延長を取り止め、翌年には日本政府も閣議で計画中止を決めることに至ります。その後、1977年(昭和52)に、米軍立川基地は全面返還されました。

〇砂川事件関係略年表

・1955年(昭和30)3月 在日米軍は日本政府に対し、ジェット爆撃機の発着のためとして小牧・横田・立川・木更津・新潟の5飛行場の拡張を要求する
・1955年(昭和30)5月4日 調達庁東京調達局立川事務所長は砂川町長・「宮伝」こと宮崎傳左衛門に対し立川基地拡張を通告する
・1955年(昭和30)5月6日 拡張予定地内関係者が集まリ協議して絶対反対を決定、砂川基地拡張反対同盟の結成を申し合わせる
・1955年(昭和30)5月8日 基地拡張反対総決起大会を開催する
・1955年(昭和30)5月12日 砂川町議会が基地拡張反対を決議し、全議員が闘争委員になる
・1955年(昭和30)8月2日 砂川町基地拡張反対共闘会議が発足する
・1955年(昭和30)9月5日 砂川町基地拡張反対労働組合支援協議会(砂川支援協)に改組、砂川勤労者組合・東京地評・三多摩労協など51の労働組合と社会党左派・社会党右派・労働者農民党が闘争を支援するまでになる
・1955年(昭和30)9月13日 立川基地拡張の為の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊、あわせて5000人が衝突、負傷者100人を出して砂川事件が始まる
・1956年(昭和31)9月 共産党、日本平和委員会、全学連を正式構成員に加えた21団体の砂川支援団体連絡会議が発足する
・1956年(昭和31)10月13日 砂川町の芋畑で地元農民らと武装警官隊が衝突、1,195人が負傷し13人が検挙される
・1956年(昭和31)10月14日 日本政府は測量中止を決定する
・1957年(昭和32)7月8日 測量阻止のデモ隊の一部が立ち入り禁止の境界柵を壊し基地内に数メートル立ち入る
・1957年(昭和32)9月22日 学生や労働組合員23人が検挙され、うち7人が「日米安全保障条約」に基づく刑事特別法違反の罪に問われ起訴される(砂川裁判)
・1959年(昭和34)3月30日 一審判決で、米軍駐留は憲法違反であり被告全員無罪との判断が示される(伊達判決)
・1959年(昭和34)12月16日 上告審で最高裁判所が統治行為論によって原判決を破棄する
・1961年(昭和36)3月27日 再びの地裁判決では、逆転してに7人の有罪(罰金2,000円)を言い渡す
・1963年(昭和38)12月7日 最高裁は上告棄却を決定し、有罪判決(罰金2,000円)が確定する
・1968年(昭和43)12月 米軍は立川基地の滑走路延長を取りやめる
・1969年(昭和44)10月 米軍は立川基地の横田飛行場(横田基地、東京都福生市)への移転を発表する
・1969年(昭和44)4月 日本政府も閣議で立川基地の滑走路延長計画中止を決める
・1973年(昭和48)1月 第14回日米安全保障協議委員会(SCC)は3年後の立川基地全面返還を決定する
・1977年(昭和52)11月30日 立川基地跡地は日本側に返還される

☆「砂川事件の第1審判決」(伊達判決)1959年(昭和34)3月30日 

一 日本国とアメリカ合衆国との間における安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法第二条と憲法第三一条 

二 日本国とアメリカ合衆国との間における安全保障条約第一条に基くアメリカ合衆国軍隊の駐留と憲法第九条 

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反 

(三二(特わ)第三六七 三六八号 三四・三・三◯ 東京地裁判決) 

被告人 坂田茂 外六名 

参照 日米安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法第二条・日米安全保障条約第一条・第二条・憲法第三一条・第九条 

主文 

 本件各公訴事実につき、被告人坂田茂、同菅野勝之、同高野保太郎、同江田文雄、同土屋源太郎、同武藤軍一郎、同椎野徳蔵はいずれも無罪。 

理由 

 本件公訴事実の要旨は、東京調達局においては日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法及び土地収用法により内閣総理大臣の使用認定を得て、昭和三十二年七月八日午前五時十五分頃からアメリカ合衆国空軍の使用する東京都北多摩郡砂川町所在の立川飛行場内民有地の測量を開始したが、この測量に反対する砂川町基地拡張反対同盟員及びこれを支援する各種労働組合員、学生団体員等千余名の集団は同日早朝から右飛行場北側境界柵外に集合して反対の気勢をあげ、その中の一部の者により滑走路北端附近の境界柵は数十米に亘つて破壊された。被告人坂田茂、同菅野勝之、同高野保太郎、同江田文雄、同土屋源太郎、同武藤軍一郎は右集団に参加していたものであるが、他の参加者三百名位と意思相通じて同日午前十時四十分頃から同十一時三十分頃までの間に、正当な理由がないのに、右境界柵の破壊された箇所からアメリカ合衆国軍隊が使用する区域であつて入ることを禁じた場所である前記立川飛行場内に深さ四・五米に亘つて立入り、被告人椎野徳蔵は国鉄労働組合の一員として右集団に参加していたものであるが、同日午前十時三十分頃から同十一時五十分頃までの間に、正当な理由がないのに、右境界柵の破壊された箇所から合衆国軍隊が使用する区域であつて入ることを禁じた場所である前記立川飛行場内に深さ二・三米に亘つて立入つたものであるというので、按ずるに、 
 証人提英雄(第三回公判)、同奥田乙治郎(第十回公判)の当公廷における各供述、昭和二十七年七月二十六日附官報号外第七三号、証人青木市五郎(第十三回公判、被告人土屋、同江田、同武藤については同公判調書中の供述記載部分)、同宮崎伝左エ門(第十四回公判、被告人土屋、同江田、同武藤については同公判調書中の供述記載部分)、同井口久(第四回公判、被告人土屋については、同公判調書中の供述記載部分)の当公廷における各供述、井口久作成の実況見分調書(以上は「アメリカ合衆国軍隊が使用する区域であつて入ることを禁じた場所である」との事実の証拠)、証人森生新市蔵(第五回公判、被告人坂田、同江田については同公判調書中の供述記載部分)の当公廷における供述、米軍憲兵司令官作成の立川警察署長宛「立川空軍基地における日本警察使用要請」と題する書面(以上は「正当な理由がない」との事実の証拠)、証人提英雄(第三回公判)、同岩附忠宣(第六回公判)の当公廷における各供述、東京調達局不動産部管理第一課作成の立川飛行場既提供民有地実測地籍図、井口久作成の実況見分調書、公判準備における当裁判所の検証調書、証人山下健三(第五回公判、被告人坂田、同江田については同公判調書中の供述記載部分)、同小室欽二郎、同吉泉勇吉、同中山元次、同大沼孝太郎(以下第六回公判、被告人坂田、同江田については同公判調書中の供述記載部分)、同中川喜英、同福島清吾、同熊倉留吉、同坂本隆二、同池戸憲幸、同小暮乙丸(以上第七回公判、被告人土屋については同公判調書中の供述記載部分)、同石田登、同横瀬治利、同青木勝吉、同谷合精一、同小山覚造(以上第八回公判、被告人土屋については同公判調書中の供述記載部分)、同永広良弘、同福永敏雄、同多田隆之、同大津勇(以上第九回公判、被告人江田については同公判調書中の供述記載部分)、同古館昭一(第十一回公判、被告人土屋、同江田、同武藤については同公判調書中の供述記載部分)、同飯島正則(第十二回公判、被告人江田については同公判調書中の供述記載部分)、同常山貫治、同中川喜英、同石塚通、同中山元次、同後藤広、同山本繁(第十八回公判、被告人土屋、同江田については同公判調書中の供述記載部分)、証人蕪野栄作(第十三回公判、被告人土屋については同公判調書中の供述記載部分)、同樋口徳次(第十四回公判、被告人土屋、同江田、同武藤については同公判調書中の供述記載部分)、同島田浩一郎(第十五回公判、被告人土屋、同江田、同武藤については同公判調書中の供述記載部分)同森田実(第十六回公判、被告人江田については同公判調書中の供述記載部分)、の当公廷における各供述、写真1乃至4、8乃至34、36乃至38、中山元次撮影の写真五十枚、押収に係る十六ミリフイルム(昭和三二年証第七三九号の一)、日記(同証号の三)、八ミリフイルム(同証号の四)(以上は爾余の事実の証拠)によれば 
 被告人坂田茂、同菅野勝之、同高野保太郎、同江田文雄、同土屋源太郎、同武藤軍一郎は共同して昭和三十二年七月八日午前十時三、四十分頃から午前十一時頃迄の間に正当な理由がないのにアメリカ合衆国軍隊が使用する区域であつて入ることを禁じた場所である東京都北多摩郡砂川町所在立川飛行場内に深さ四・五米に亘つて立入り、被告人椎野徳蔵は同日午前十時三十分頃から午前十一時三十分頃迄の間に正当な理由がないのに前記立川飛行場内に深さ二・三米に亘つて立入つたことが認められる。 
 右事実は日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法(以下刑事特別法と略称する。)第二条に該当するが、同法条は、日米安全保障条約に基いてわが国内に駐留する合衆国軍隊が使用する一定の施設又は区域内における合衆国軍隊及びその構成員等の行動、生活等の平穏を保護するため右施設又は区域にして入ることを禁止した場所に対する、正当な理由なき立入又は不退去を処罰するものであるところ、これに対応する一般刑罰法規としては、軽犯罪法第一条第三十二号の正当な理由なく立入禁止の場所等に入つた者に対する処罰規定を見出すことができ、従つて刑事特別法第二条は右の軽犯罪法の規定と特別法、一般法の関係にあるものと解することができる。しかして、両者間の刑の軽重をみるに、軽犯罪法は拘留又は科料(情状により刑を免除又は併科し得る。)を科し得るに止まるのに対し、刑事特別法第二条は一年以下の懲役又は二千円以下の罰金若しくは科料を科し得るのであつて、後者においては前者に比してより重刑をもつて臨んでいるのであるが、この差異は法が合衆国軍隊の施設又は区域内の平穏に関する法益を特に重要に考え、一般国民の同種法益よりも一層厚く保護しようとする趣旨に出たものとみるべきである。そこでもしこの合衆国軍隊の駐留がわが国の憲法に何等牴触するものでないならば、右の差別的取扱は敢えて問題とするに足りないけれども、もし合衆国軍隊の駐留がわが憲法の規定上許すべからざるものであるならば、刑事特別法第二条は国民に対して何等正当な理由なく軽犯罪法に規定された一般の場合よりも特に重い刑罰を以て臨む不当な規定となり、何人も適正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条及び右憲法の規定に違反する結果となるものといわざるを得ないのである。 
そこで以下この点について検討を進めることとする。 
 日本国憲法はその第九条において、国家の政策の手段としての戦争、武力による威嚇又は武力の行使を永久に放棄したのみならず、国家が戦争を行う権利を一切認めず、且つその実質的裏付けとして陸海空軍その他の戦力を一切保持しないと規定している。即ち同条は、自衛権を否定するものではないが、侵略的戦争は勿論のこと、自衛のための戦力を用いる戦争及び自衛のための戦力の保持をも許さないとするものであつて、この規定は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」(憲法前文第一段)しようとするわが国民が、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想(国際連合憲章もその目標としている世界平和のための国際協力の理想)を深く自覚」(憲法前文第二段)した結果、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を維持しよう」(憲法前文第二段)とする、即ち戦争を国際平和団体に対する犯罪とし、その団体の国際警察軍による軍事的措置等、現実的にはいかに譲歩しても右のような国際平和団体を目ざしている国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等を最低線としてこれによつてわが国の安全と生存を維持しようとする決意に基くものであり、単に消極的に諸外国に対して、従来のわが国の軍国主義的、侵略主義的政策についての反省の実を示さんとするに止まらず、正義と秩序を基調とする世界永遠の平和を実現するための先駆たらんとする高遠な理想と悲壮な決意を示すものだといわなければならない。従つて憲法第九条の解釈は、かような憲法の理念を十分考慮した上で為さるべきであつて、単に文言の形式的、概念的把握に止まつてはならないばかりでなく、合衆国軍隊のわが国への駐留は、平和条約が発効し連合国の占領軍が撤収した後の軍備なき真空状態からわが国の安全と生存を維持するため必要であり、自衛上やむを得ないとする政策論によつて左右されてはならないことは当然である。 
 「{前1文字ママ}そこで合衆国軍隊の駐留と憲法第九条の関係を考察するに、前記のようにわが国が現実的にはその安全と生存の維持を信託している国際連合の機関による勧告又は命令に基いて、わが国に対する武力攻撃を防禦するためにその軍隊を駐留せしめるということであればあるいは憲法第九条第二項前段によつて禁止されている戦力の保持に該当しないかもしれない。しかしながら合衆国軍隊の場合には、わが国に対する武力攻撃を防禦するためわが国がアメリカ合衆国に対して軍隊の配備を要請し、合衆国がこれを承諾した結果、極東における国際の平和と安全の維持及び外部からの武力攻撃に対するわが国の安全に寄与し、且つ一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起されたわが国内における大規模な内乱、騒じよう{前3文字強調}の鎮圧を援助する目的でわが国内に駐留するものであり(日米安全保障条約第一条)、わが国はアメリカ合衆国に対してこの目的に必要な国内の施設及び区域を提供しているのである(行政協定第二条第一項)。従つてわが国に駐留する合衆国軍隊はただ単にわが国に加えられる武力攻撃に対する防禦若しくは内乱等の鎮圧の援助にのみ使用されるものではなく、合衆国が極東における国際の平和と安全の維持のために事態が武力攻撃に発展する場合であるとして、戦略上必要と判断した際にも当然日本区域外にその軍隊を出動し得るのであつて、その際にはわが国が提供した国内の施設、区域は勿論この合衆国軍隊の軍事行動のために使用されるわけであり、わが国が自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれ、戦争の惨禍がわが国に及ぶ虞は必ずしも絶無ではなく、従つて日米安全保障条約によつてかかる危険をもたらす可能性を包蔵する合衆国軍隊の駐留を許容したわが国政府の行為は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意」した日本国憲法の精神に悖るのではないかとする疑念も生ずるのである。 
 しかしながらこの点はさて措き、わが国が安全保障条約において希望したところの、合衆国軍隊が外部からの武力攻撃に対してわが国の安全に寄与するため使用される場合を考えて見るに、わが国は合衆国軍隊に対して指揮権、管理権を有しないことは勿論、日米安全保障条約上合衆国軍隊は外部からのわが国に対する武力攻撃を防禦すべき法的義務を負担するものでないから、たとえ外部からの武力攻撃が為された場合にわが国がその出動を要請しても、必ずしもそれが容れられることの法的保障は存在しないのであるが、日米安全保障条約締結の動機、交渉の過程、更にはわが国とアメリカ合衆国との政治上、経済上、軍事上の密接なる協力関係、共通の利害関係等を考慮すれば、そのような場合に合衆国がわが国の要請に応じ、既にわが国防衛のため国内に駐留する軍隊を直ちに使用する現実的可能性は頗る大きいものと思料されるのである。而してこのことは行政協定第二十四条に「日本区域において敵対行為又は敵対行為の急迫した脅威が生じた場合には、日本国政府及び合衆国政府は、日本区域防衛のため必要な共同措置を執り、且つ安全保障条約第一条の目的を遂行するため、直ちに協議しなければならない。」と規定されていることに徴しても十分窺われるところである。 
 ところでこのような実質を有する合衆国軍隊がわが国内に駐留するのは、勿論アメリカ合衆国の一方的な意思決定に基くものではなく、前述のようにわが国政府の要請と、合衆国政府の承諾という意思の合致があつたからであつて、従つて合衆国軍隊の駐留は一面わが国政府の行為によるものということを妨げない。蓋し合衆国軍隊の駐留は、わが国の要請とそれに対する施設、区域の提供、費用の分担その他の協力があつて始めて可能となるものであるからである。かようなことを実質的に考察するとき、わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、指揮権の有無、合衆国軍隊の出動義務の有無に拘らず、日本国憲法第九条第二項前段によつて禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものといわざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものといわざるを得ないのである。 
 もとより、安全保障条約及び行政協定の存続する限り、わが国が合衆国に対しその軍隊を駐留させ、これに必要なる基地を提供しまたその施設等の平穏を保護しなければならない国際法上の義務を負担することは当然であるとしても、前記のように合衆国軍隊の駐留が憲法第九条第二項前段に違反し許すべからざるものである以上、合衆国軍隊の施設又は区域内の平穏に関する法益が一般国民の同種法益と同様の刑事上、民事上の保護を受けることは格別、特に後者以上の厚い保護を受ける合理的な理由は何等存在しないところであるから、国民に対して軽犯罪法の規定よりも特に重い刑罰をもつて臨む刑事特別法第二条の規定は、前に指摘したように何人も適正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条に違反し無効なものといわなければならない。 
 よつて、被告人等に対する各公訴事実は起訴状に明示せられた訴因としては罪とならないものであるから、刑事訴訟法第三百三十六条により被告人等に対しいずれも無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。 

(裁判官 伊達秋雄 清水春三 松本一郎) 

   「下級裁判所刑事裁判判例集 第1巻3号」最高裁判所事務総局編より

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ashiharayoshinobu01
 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、建築家芦原義信の生まれた日です。
 芦原義信(あしはら よしのぶ)は、大正時代の1918年(大正7)7月7日に、東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれました。府立一中(現在の都立日比谷高等学校)、旧制成城高校を経て、東京帝国大学工学部建築学科へ進み、1942年(昭和17)に卒業後、技術士官として海軍に入ります。
 1945年(昭和20)に復員後、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所しました。1952年(昭和27)に、ハーバード大学大学院に留学し、翌年には、修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所します。
 1954年(昭和29)に日本へ帰国し、法政大学工学部講師となり、1956年(昭和31)には、芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞しました。1959年(昭和34)に法政大学教授に昇進し、翌年には、ロックフェラー奨学金を受けてニューヨークに滞在、1961年(昭和36)には、学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得ています。
 1962年(昭和37)に『外部空間の構成』を刊行、1964年(昭和39)には、「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となりました。1966年(昭和41)に東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなり、1968年(昭和43)には、「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
 1970年(昭和45)に東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章、1979年(昭和54)には、アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞しました。1984年(昭和59)に「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞、1985年(昭和60)に、日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章、1987年(昭和62)には、王立オーストリア建築家協会名誉会員となります。
 1988年(昭和63)に日本芸術院会員となり、1989年(平成元)に勲二等瑞宝章を受章、1990年(平成2)に日本建築学会大賞を受賞、1991年(平成3)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に文化勲章を受章し、2003年(平成15)には、東京大学名誉教授となったものの、同年9月24日に、東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなっています。

〇芦原義信の主要な作品

<建築・設計>
・「中央公論ビル」(1956年)日本建築学会賞受賞
・「駒沢公園体育館・管制塔」(1964年)日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞受賞
・「東京銀座のソニービル」(1966年)
・「モントリオール万博・日本館」(1968年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「国立歴史民俗博物館」(1984年)日本芸術院賞受賞

<著作>
・『外部空間の構成』(1962年)
・『外部空間の設計』(1975年)
・『街並みの美学』(1979年)第33回毎日出版文化賞受賞
・『続 街並みの美学』(1983年)
・『隠れた秩序』(1986年)
・『秩序への模索』(1995年)

☆芦原義信関係略年表

・1918年(大正7)7月7日 東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれる 
・1942年(昭和17) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、技術士官として海軍に入る
・1945年(昭和20) 坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所する
・1952年(昭和27) ハーバード大学大学院に留学する
・1953年(昭和28) ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所する
・1954年(昭和29) 日本へ帰国し、法政大学工学部講師となる
・1956年(昭和31) 芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞する
・1959年(昭和34) 法政大学教授となる
・1960年(昭和35) ロックフェラー奨学金を受けニューヨークに滞在する
・1961年(昭和36) 学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得る
・1962年(昭和37) 『外部空間の構成』を刊行する
・1964年(昭和39) 「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となる
・1965年(昭和40) 武蔵野美術大学建築学科教授となる
・1966年(昭和41) 東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなる
・1968年(昭和43) 「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1970年(昭和45) 東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章する
・1979年(昭和54) アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞する
・1985年(昭和60) 日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章する
・1987年(昭和62) 王立オーストリア建築家協会名誉会員となる
・1988年(昭和63) 日本芸術院会員となる
・1989年(平成元) 勲二等瑞宝章を受章する
・1990年(平成2) 日本建築学会大賞を受賞する
・1991年(平成3) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2003年(平成15) 東京大学名誉教授となる
・2003年(平成15)9月24日 東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなる

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