
今日は、江戸時代後期の1841年(天保12)に、将軍・徳川家慶が、享保・寛政の改革にならった幕政改革を上意し、老中・水野忠邦が幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じ、天保の改革が始まった日ですが、新暦では7月3日となります。
天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代後期の1841年(天保12)から、江戸幕府第12代将軍徳川家慶の厚い信任を受け、老中首座の水野忠邦が主導した幕政改革で、享保の改革、寛政の改革と共に江戸幕府の三大改革の一つとされています。内憂外患の深刻な危機の打開をめざし、奢侈一掃と質素倹約を強調、特に都市に厳しい統制を実施しました。
その内容は、株仲間解散、「人返し令」、「異国船打ち払い令」を撤回した「薪水給与令」、「上知令」、印旛沼工事、御料所改革、貨幣改革、日光社参などです。しかし、あまりに急激な改革で、大名・旗本から農民、町人に至るまであらゆる階層の利害と衝突して失敗し、水野忠邦は1843年(天保14年閏9月13日)に老中を罷免されて失脚しました。
その内容は、株仲間解散、「人返し令」、「異国船打ち払い令」を撤回した「薪水給与令」、「上知令」、印旛沼工事、御料所改革、貨幣改革、日光社参などです。しかし、あまりに急激な改革で、大名・旗本から農民、町人に至るまであらゆる階層の利害と衝突して失敗し、水野忠邦は1843年(天保14年閏9月13日)に老中を罷免されて失脚しました。
<天保の改革の主要政策>
【経済政策】
・「倹約令」
ぜいたくや初物の禁止
・「株仲間解散令」
物価引き下げと在郷商人の直接統制を意図する
・「人返し令」
都市に流入した農民を帰村させる
・「上知令」
江戸と大坂周辺を直轄地とする
・印旛沼干拓工事
・御料所改革
・貨幣改革
貨幣を改鋳して質を落とす
【文教政策】
・出版統制
人情本の為永春水、合巻の柳亭種彦を処罰する
・江戸の歌舞伎三座を場末の浅草に移転する
・日光社参
【外交政策】
・「天保の薪水給与令」
「異国船打ち払い令」の緩和
〇水野 忠邦】(みずの ただくに)とは?
江戸時代の大名・老中で天保の改革の主導者です。江戸時代後期の1794年(寛政6年6月23日)に、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男(母は側室中川恂)として、江戸の同藩上屋敷にて生まれましたが、幼名は於菟五郎と言いました。
1805年(文化2)に、長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となり、忠邦と称し、1807年(文化4)に元服、従五位下・式部少輔に叙位・任官します。1812年(文化9)に父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第4代藩主となりました。
1815年(文化12)に奏者番、1817年(文化14)には、遠江国浜松に移封と共に、寺社奉行兼任となります。その後、第11代将軍・家斉のもとで重く用いられるようになり、1825年(文政8)に大坂城代となり、従四位下に昇位し、1826年(文政9)には京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙しました。
1828年(文政11)に西丸老中、1834年(天保5)に本丸老中、1839年(天保10)に老中首座へと登り詰めます。1841年(天保12)に大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を迅速果断に一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行しました。
しかし、きびしい奢侈取り締まりや年貢増などが反発を呼び、1843年(天保14)の「上知令」断行が大名・旗本の反対に遭うなどして、同年閏9月13日に老中を罷免されて失脚します。翌年復職しましたが、まもなく辞任し、1845年(弘化2)には、在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となりました。
そして、出羽国山形に懲罰的転封を命じられましたが、忠邦は山形には同行できないままとなります。その中で、1851年(嘉永4年2月10日)に、江戸において、数え年58歳で亡くなりました。
1805年(文化2)に、長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となり、忠邦と称し、1807年(文化4)に元服、従五位下・式部少輔に叙位・任官します。1812年(文化9)に父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第4代藩主となりました。
1815年(文化12)に奏者番、1817年(文化14)には、遠江国浜松に移封と共に、寺社奉行兼任となります。その後、第11代将軍・家斉のもとで重く用いられるようになり、1825年(文政8)に大坂城代となり、従四位下に昇位し、1826年(文政9)には京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙しました。
1828年(文政11)に西丸老中、1834年(天保5)に本丸老中、1839年(天保10)に老中首座へと登り詰めます。1841年(天保12)に大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を迅速果断に一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行しました。
しかし、きびしい奢侈取り締まりや年貢増などが反発を呼び、1843年(天保14)の「上知令」断行が大名・旗本の反対に遭うなどして、同年閏9月13日に老中を罷免されて失脚します。翌年復職しましたが、まもなく辞任し、1845年(弘化2)には、在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となりました。
そして、出羽国山形に懲罰的転封を命じられましたが、忠邦は山形には同行できないままとなります。その中で、1851年(嘉永4年2月10日)に、江戸において、数え年58歳で亡くなりました。
☆水野忠邦関係略年表(日付は旧暦です)
・1794年(寛政6年6月23日) 唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男(母は側室中川恂)として、江戸の同藩上屋敷にて生まれる
・1805年(文化2年) 長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となる
・1807年(文化4年9月7日) 元服し、従五位下・式部少輔に叙位・任官する
・1812年(文化9年8月) 父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第3代藩主となり、和泉守に遷任される
・1815年(文化12年11月12日) 江戸幕府の奏者番となる
・1817年(文化14年8月) 遠江国浜松6万石に移封される、
・1817年(文化14年9月10日) 寺社奉行兼務となり、左近衛将監に遷任される
・1825年(文政8年) 大坂城代となり、従四位下に昇位する
・1826年(文政9年) 京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙する
・1828年(文政11年) 西丸老中となる
・1834年(天保5年) 本丸老中となる
・1837年(天保8年4月) 家斉が隠居し、第12代将軍に家慶が就く
・1839年(天保10年) 老中首座へと登り詰める
・1841年(天保12年) 大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行する
・1843年(天保14年3月) 「人返し令」を発布する
・1843年(天保14年6月1日) 「上知令」を発布する
・1843年(天保14年閏9月7日) 「上知令」を撤回する
・1843年(天保14年閏9月13日) 老中を罷免されて失脚する
・1844年(弘化元年5月) 江戸城本丸が火災により焼失する
・1844年(弘化元年6月21日) 老中首座に復職する
・1845年(弘化2年2月22日) 老中を辞職する
・1845年(弘化2年9月2日) 在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となり、1万石没収される
・1845年(弘化2年11月30日) 出羽国山形5万石に転封させられる
・1851年(嘉永4年2月10日) 江戸において、数え年58歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1333年(元弘3) | 幕府方の北条泰家軍と反幕府方の新田義貞軍とで、分倍河原の戦いが始まる(新暦6月27日) | 詳細 |
| 1615年(慶長20) | 武将・安土桃山時代の大名長宗我部盛親が斬首される(新暦6月11日) | 詳細 |
| 1868年(慶応4) | 寛永寺の彰義隊が新政府軍の総攻撃(上野戦争)で敗走、新政府が江戸を掌握する(新暦7月4日) | 詳細 |
| 1884年(明治17) | 群馬県陣場ヶ原に農民と自由党員が集結、警察分署と高利貸しを襲撃したが挫折する(群馬事件) | 詳細 |
| 1889年(明治22) | 大槻文彦が編纂した日本初の近代的国語辞典『言海』第一冊が発刊される | 詳細 |
| 1891年(明治25) | 建築家村野藤吾の誕生日 | 詳細 |
| 1912年(明治45) | 長塚節著の『土』が春陽堂から刊行される | 詳細 |
| 1932年(昭和7) | 五・一五事件が起こり、犬養首相が暗殺される | 詳細 |
| 1972年(昭和47) | 「沖縄返還協定」が発効する(沖縄復帰記念日) | 詳細 |



