ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、日本初の純洋式大劇場となる(初代)帝国劇場が落成(開館は3月1日)した日です。
 帝国劇場(ていこくげきじょう)は、東京都千代田区丸の内3丁目にある劇場で、通称「帝劇(ていげき)」と呼ばれています。1906年(明治39)に、劇場新設のための委員会(委員長は渋沢栄一)が発足し、1907年(明治40)3月9日には、帝国劇場株式会社が正式に成立して、建設が始まりました。
 1911年(明治44)2月10日に落成しましたが、ルネサンス風のフランス様式を模した劇場で、建坪約2,000㎡、観客席は4階まですべて椅子席(1,700席)で、オーケストラ・ボックスを持つ新しい劇場機構、観劇制度が評判を呼びます。同年3月1日に開館し、6世尾上梅幸、7世松本幸四郎が専属となり歌舞伎を上演する一方、翻訳劇や創作劇を並行して取り上げ、帝国劇場付属技芸学校を設立して女優の養成にも乗り出しました。
 大正時代には、エルマン、クライスラー、パブロワら海外の一流音楽家、舞踊家を招くなど文化交流にも尽くします。しかし、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で、隣接する警視庁から出た火災により外郭を残して焼け落ちたものの、翌年には、横河民輔により改修されて再開しました。
 1930年(昭和5)に松竹の経営となり、間もなく洋画封切館に転用、SYチェーン(松竹洋画系)の基幹劇場となりましたが、1939年(昭和14)には、運営会社を東宝が合併します。翌年に、松竹の賃借期限が切れると共に、東宝の手により元の演劇主体の興行形態に戻されたものの、内閣情報部が庁舎として利用することとなり、9月15日の新国劇の上演をもって休演となりました。
 1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦後、初公演として、六世尾上菊五郎一座の「銀座復興」が行われ、て復活します。1955年(昭和30)には、舞台に巨大映画スクリーン・シネラマが設置され、再びシネラマ主体の洋画ロードショー用の映画館に転じました。1964年(昭和39)に映画「アラビアのロレンス」が上映されましたが、翌年には、都市高層化の波で建物が取り壊され、解体されています。しかし、1966年(昭和41)に敷地内(丸の内3丁目)に新築されたビルの中の1,900の客席をもつ、2代目の大劇場となり、廻り舞台は大小4つの迫りが内部に設置されており、直径16.4m・高さ22mあって、地上1階から地下6階までを貫く構造となりました。
 開場記念公演の「風と共に去りぬ」は6ヶ月のロングランでヒットし、その後ミュージカルや大型娯楽劇を柱に東宝演劇の中心的劇場となります。1969年(昭和44)に「日本レコード大賞」の発表会会場として使用開始(~1984年)され、1989年(平成元)には、「レ・ミゼラブル」が初演され、以後の看板公演になりました。
 2022年(令和4)9月27日に、竣工から約56年を経過したことなどにより、一体的に建て替えることが発表され、2025年(令和7)には、建て替えのために、一時休館の予定(2030年度の開館見込)となっています。

〇帝国劇場関係略年表

・1906年(明治39) 劇場新設のための委員会(委員長は渋沢栄一)が発足する
・1907年(明治40)3月9日 帝国劇場株式会社が正式に成立する
・1911年(明治44) 2月10日に落成し、3月1日に開館する
・1912年(大正元) イタリア人のジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーを招いて歌劇・バレエを上演する
・1915年(大正4) ローシー振付 「夢幻的バレエ」が上演される
・1916年(大正5) ロシアの舞踊が上演される
・1922年(大正11) パヴロワ婦人露国舞踊劇一座の上演が行われる
・1923年(大正12) 関東大震災では隣接する警視庁から出た火災により外郭を残して焼け落ちる
・1924年(大正13) 横河民輔により改修されて再開する
・1929年(昭和4) スペイン舞踏家ラ・アルヘンティーナの来日公演が行われる
・1930年(昭和5) 松竹の経営となり、間もなく洋画封切館に転用、SYチェーン(松竹洋画系)の基幹劇場となる
・1938年(昭和13) 「江口・宮舞踊研究所」旗揚げ公演「麦と兵隊」が行われる
・1939年(昭和14) 運営会社を東宝が合併する
・1940年(昭和15) 松竹の賃借期限が切れると共に、東宝の手により元の演劇主体の興行形態に戻されたものの、内閣情報部が庁舎として利用することとなり、9月15日の新国劇の上演をもって休演となる
・1944年(昭和19) 地下食堂が一般人でも利用できる雑炊食堂として供される
・1945年(昭和20) 太平洋戦争敗戦後の初公演として、六世尾上菊五郎一座の「銀座復興」が行われる
・1946年(昭和21) 東京バレエ団の白鳥の湖(8月9日〜30日、日本初演)が行われる
・1947年(昭和21) 「江口・宮舞踊研究所」伊福部昭作曲「イゴザイダー」が上演される
・1948年(昭和21) 貝谷八百子振付「サロメ」伊福部昭作曲が上演される
・1948年(昭和21) 石井漠振付『さまよえる群像』 伊福部昭作曲が上演される
・1949年(昭和21) 貝谷八百子振付「パスカーナ(憑かれたる城)」伊福部昭作曲が上演される
・1950年(昭和21) 「江口・宮舞踊研究所」 伊福部昭作曲「プロメテの火」が上演される
・1955年(昭和30) 舞台に巨大映画スクリーン・シネラマが設置され、再びシネラマ主体の洋画ロードショー用の映画館に転じる
・1964年(昭和39) 映画「アラビアのロレンス」が上映される
・1965年(昭和40) 都市高層化の波で建物が取り壊され、解体される
・1966年(昭和41) 敷地内(丸の内3丁目)に新築されたビルの中の1,900の客席をもつ大劇場となり、「風と共に去りぬ」が上演される
・1967年(昭和42) 「屋根の上のバイオリン弾き」が上演される
・1969年(昭和44) 「日本レコード大賞」の発表会会場として使用開始される(~1984年)
・1989年(平成元) 「レ・ミゼラブル」が初演され、以後帝劇の看板公演になる
・1992年(平成4) 「ミス・サイゴン」が上演される
・1999年(平成11) オリジナル・ミュージカル「ローマの休日」を上演する
・2022年(令和4)9月27日 竣工から約56年を経過したことなどにより、一体的に建て替えることが発表される
・2025年(令和7) 建て替えのために、一時休館の予定(2030年度の開館見込)となっている

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)鎌倉永安寺で第4代鎌倉公方足利持氏が叔父満貞と共に自害し、鎌倉府が滅亡する(新暦3月24日)詳細
1657年(明暦3)儒学者・政治家新井白石の誕生日(新暦3月24日)詳細
1903年(明治36)病理学者吉田富三の誕生日詳細
1904年(明治37)「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられて、日露戦争に対して正式に宣戦が布告される詳細
1907年(明治40) 薬学者・有機化学者津田恭介の誕生日詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立大会が開かれる詳細
1940年(昭和15)「津田事件」により、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』等の著書4冊が発禁となる詳細
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 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、日本青年会議所が設立された日です。
 日本青年会議所(にっぽんせいねんかいぎしょ)は、20~40歳までの青年経済人の組織する団体で、通称はJCと呼ばれています。1949年(昭和24)9月3日に、「祖国日本の復興」を目指し、東京青年商工会議所(現在の東京青年会議所)が創立され、1951年(昭和26)2月9日に、東京、大阪、前橋、函館、西宮、名古屋、旭川、広島の各地青年会議所が参加した総会で、日本青年会議所が設立されました。
 地域社会に根ざしたボランティア活動が主体とし、地域開発、経済問題、教育問題、国際交流のほか、地域活性化をねらいに地方行革、規制緩和、地方分権、町づくり運動など幅広い地域活動を展開しています。2024年1月1日現在、全国671の各地青年会議所があり、約30,000名の団体となっていて、世界118の国と地域に活動拠点がある国際青年会議所に加盟してきました。

〇JC宣言・綱領・JC三原則

<JC宣言>
日本の青年会議所は
希望をもたらす変革の起点として
輝く個性が調和する未来を描き
社会の課題を解決することで
持続可能な地域を創ることを誓う

<綱領>
われわれJAYCEEは
社会的・国家的・国際的な責任を自覚し
志を同じうする者、相集い、力を合わせ
青年としての英知と勇気と情熱をもって
明るい豊かな社会を築き上げよう

<JC三原則>
Ⅰ. 社会への奉仕|Service
Ⅱ. 指導者訓練を基調とした修練 |Training
Ⅲ. 世界との友情|Friendship

☆日本青年会議所関係略年表

・1949年(昭和24)9月3日  「祖国日本の復興」を目指し、東京青年商工会議所(現、東京青年会議所)が創立される
・1951年(昭和26)2月9日 東京、大阪、前橋、函館、西宮、名古屋、旭川、広島の各地青年会議所が参加した総会で、日本青年会議所が設立される
・1952年(昭和27) JCI第2回アジア地域会議を東京にて開催、初の国際会議開催となる
・1953年(昭和28) 「JCデー」として9月3日を制定(1949年9月3日の東京JCの誕生にちなむ)する
・1955年(昭和30) JCソングを制定する
・1956年(昭和31) 南ベトナムに医療団を派遣する
・1957年(昭和32) JCI第12回世界会議を東京にて開催する
・1958年(昭和33) 日本JC初となる会頭選挙を実施する
・1959年(昭和34) 第1回全国理事長会議を東京にて開催する
・1960年(昭和35) 「JC綱領」を制定、日本JCシニアクラブが発足する
・1961年(昭和36) 日本JC創立10周年記念式典を東京にて開催する
・1962年(昭和37) ヨーロッパへEEC視察団派遣する
・1963年(昭和38) 「日本青年会議所新聞」が創刊される
・1964年(昭和39) 機関紙「30億」が創刊される
・1965年(昭和40) 常任理事・評議員制度を施行する
・1966年(昭和41) 第1回政治問題セミナーを開催、JCI第21回世界会議を京都にて開催する
・1967年(昭和42) 第1回京都会議を開催する
・1968年(昭和43) 第1回極東アジアJAYCEEシンポジウムを札幌にて開催する
・1970年(昭和45) 大阪万博に「屋外劇場」を寄贈、初の北方領土視察団を派遣する
・1971年(昭和46) 日本JC創立20周年記念式典を東京で開催、第1回「JCアジアの船」を就航する
・1972年(昭和47) 「ヤングブルー3万人対話集会」各地で開催する
・1973年(昭和48) 「私権の制限」など会頭提言を宝塚にて発表する
・1974年(昭和49) 京都会議で緊急事態宣告「省資源運動」を採択、初の日ソ青年交流会議を東京にて開催する
・1976年(昭和51) 国家問題会議を東京にて開催(「自民党決別宣言」)する
・1978年(昭和53) 全ソ青年団体委員会の招きで代表団が訪ソ(日中条約締結後最初の訪ソ団)する
・1979年(昭和54) 中華全国青年連合会の招きで代表団が訪中する
・1981年(昭和56) 日本JC創立30周年記念式典を京都で開催する
・1983年(昭和58) 「ウォッチ・ザ・議会運動」を全国で展開する
・1984年(昭和59) 教育改革へ向け「教育サミット」を東京にて開催する
・1985年(昭和60) ソマリア難民キャンプを当時の会頭・副会頭が視察、バチカンにてローマ法王・ヨハネ・パウロ2世に謁見、世界青年サミットを広島にて開催する
・1986年(昭和61) JCI第41回世界会議を名古屋にて開催する
・1987年(昭和62) 中国から技術研修生第1陣来日、各地の会員企業で1年間研修、第1回TOYP大賞を制定、「傑出した若者10人」を表彰する
・1988年(昭和63) 第1回国際アカデミーを沖縄にて開催、臨時総会を高知にて開催、「新宣言」を採択する
・1989年(平成元) 「こんな規制いらない運動」を全国で展開、「地球環境グローバルプロジェクト」キャンペーンを開始する
・1990年(平成2) 「地方分権」をテーマに全国理事長が536都市で首長面談、政策提言「変えてしまえ!日本」を発刊する
・1991年(平成3) 「21世紀青年国連」をニューヨークにてJCIと共催、日本JC創立40周年記念式典を東京にて開催する
・1992年(平成4) 京都会議にて「地球市民の時代」幕開けを宣言、リオデジャネイロで開催された地球サミットに公認NGOとして参加する
・1993年(平成5) 京都会議にて「もったいない運動」を提唱、「地球市民財団」を設立する
・1994年(平成6) 「もったいない強化月間」を全国一斉に実施する
・1995年(平成7) 阪神・淡路大震災復興支援活動に全国で延べ5万人以上の会員が参加、「鐘の鳴る丘」ふれあいキャンプ全国で展開する
・1996年(平成8) 京都会議にて「新人間社会の創造」を提唱、阪神・淡路大震災被災地住民の心のケアを目的に神戸にて「ハートネットワークセンター」設立する
・1997年(平成9) 日本海沿岸重油流出災害に対し、JC会館に「情報ネットワークセンター」開設、「今一度、ウォッチ・ザ地方自治」アンケート実施する
・1998年(平成10) アメリカ3都市で「日米地球市民会議」を開催、「8月8日地球市民の日」運動を全国で展開する
・1999年(平成11) 韓国JCとの共同事業「第1回日韓ジュニアサッカーフェスティバル」を横浜にて開催する
・2000年(平成12) 「2000年代運動指針」を福山にて発表、JCI第55回世界会議を札幌にて開催する
・2001年(平成13) 日本JC創立50周年記念式典を大阪にて開催。「JCアクションプラン21」を発信、「新宣言(現JC宣言)」を大阪にて採択する
・2002年(平成14) 教育・経済・地域・拡大の分野でNOMとLOMが協働事業を全国で展開する
・2004年(平成16) JCI第59回世界会議を福岡にて開催する
・2005年(平成17) JC版ローカルマニフェスト型公開討論会を推進、JC版ナチュラル・ステップ協働運動を全国展開、日本国憲法JC草案を作成、姫路にて発表する
・2006年(平成18) 「倫理・道徳教育推進運動」を全国展開、「日韓世界平和推進共同宣言」をソウルにて締結、第55回ASPAC高松大会を開催する
・2008年(平成20) 「憲法タウンミーティング」を全国展開、「地球温暖化防止アクションプラン」を展開する
・2009年(平成21) 領土意識醸成運動「全国一斉100万人署名運動」を展開、国民参加型「憲法タウンミーティング」を全国一斉開催、マニフェスト型公開討論会(チャレンジ300)を展開、第59回 ASPAC長野大会を開催する
・2010年(平成22) 公益法人(公益社団法人)として登記、JCI第65回世界会議を大阪にて開催、「2010年代運動指針」策定、47ブロック協議会災害協定締結する
・2011年(平成23) 東日本大震災復興支援活動に全国から多くの会員が参加、「笑顔デザインプロジェクト~心的外傷後ストレス障害(PTSD)対策支援」など復興に向けた施策を実施、日本JC創立60周年記念式典を名古屋にて開催、記念誌を発刊する
・2012年(平成24) 自助・共助の防災システム「JC-AID」の受注をスタート、第1回復興フォーラム開催を岩手県盛岡市にて開催、領土領海意識醸成セミナーを全国で開催する
・2013年(平成25) 第2回復興フォーラムを宮城県仙台市にて開催、青少年版 領土・領海意識醸成プログラムが文部科学省「教育映像等審査制度」で承認され、全国的に展開する
・2014年(平成26) 第3回復興フォーラムを福島県いわき市にて開催、第64回ASPAC山形大会を開催する
・2015年(平成27) 「ニッポンサイコープロジェクト」リリース、「グローバルリーダー育成塾」を設置する
・2018年(平成31) 第68回ASPAC鹿児島大会を開催する
・2019年(令和元) SDGsアワード特別賞(SDGsパートナーシップ賞)を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1834年(天保5)政治家・佐賀藩士江藤新平の誕生日(新暦3月18日)詳細
1856年(安政3)外交官・政治家原敬の誕生日(新暦3月15日)詳細
1921年(大正10)小説家庄野潤三の誕生日詳細
1946年(昭和21)日本農民組合(日農)が再建結成される詳細
1948年(昭和23)国立国会図書館の組織及び任務、所掌事務などを定めた、「国立国会図書館法」が公布される詳細
1982年(昭和57)経済学者・浮世絵研究家・元文部大臣高橋誠一郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家・アニメ監督・医師手塚治虫の命日詳細
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shyoukonyu01
 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、松根油緊急増産のため、農商省に松根油課が新設された日です。
 松根油(しょうこんゆ)は、針葉樹、特に松の根株を乾留して得られる油状物質です。テレビン油・パイン油などが主成分で、殺虫剤の原料、溶剤などに用いられました。
 太平洋戦争下の日本では、航空用ガソリン(航空揮発油)の代替物としての利用が試みられ、1944年(昭和19)10月20日に、最高戦争指導会議において「松根油等緊急増産対策措置要綱」が決定されます。翌年2月8日には、松根油緊急増産のため、農商省に松根油課が新設され、同年3月16日に、「松根油等拡充増産対策措置要綱」が閣議決定され、6月までに46,978個もの乾留装置が新造されました。
 6~8月頃には、北京市の南苑飛行場にあった第5航空軍の第28教育飛行隊で、日本から送られてきた松根油を混ぜた燃料を積んで試験飛行を行いましたが、とても労力が掛かり収率も悪いので、実用化には至らなかったとされます。
 以下に、「松根油等拡充増産対策措置要綱」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇太平洋戦争下の松根油関係略年表

<1944年(昭和19)>
・10月20日 最高戦争指導会議において「松根油等緊急増産対策措置要綱」が決定される

<1945年(昭和20)>
・2月8日 松根油緊急増産のため、農商省に松根油課が新設される
・3月16日 「松根油等拡充増産対策措置要綱」が閣議決定される
・6月 この月までに46,978個もの乾留装置が新造される
・6~8月頃 北京市の南苑飛行場にあった第5航空軍の第28教育飛行隊で、日本から送られてきた松根油を混ぜた燃料を積んで試験飛行を行う

☆「松根油等拡充増産対策措置要綱」 1945年(昭和20)3月16日閣議決定

第一、方針
 戦局ノ推移ハ松根油ノ増産ニ関スル既定計画ノ完遂ノミニ止マルヲ許サザルモノアルニ鑑ミ速カニ拡充増産対策措置ヲ強行シ以テ国内液体燃料ノ確保増強ヲ図ラントス

第二、目標
 昭和二十年度国内都道府県生産確保既定目標十六万竏ヲ四十万竏ニ改訂ス

第三、措置
 第一次増産対策措置要綱ノ実施ヲ強化スルノ外左ノ各項ヲ実施スルモノトス
 一、松根ノ外、□、桧ノ根、針葉樹ノ枝葉樹皮等モ本増産ノ対象トナスコト
 二、所要労務ニ付テハ農山漁村所在労務ヲ動員スル外農業出身工場労務者ノ帰農、農家ノ子弟タル国民学校卒業者ノ確保、中等学校学徒動員ノ強化等ノ方策ヲ講ジ以テ不足労務ノ補填ヲ図ルコト
 三、松根所在町村ニ対シ所要ノ乾溜釜ヲ速カニ設置セシムルコト
 四、所要資材及工作力並二輸送ハ各者協力シテ迅速適確ナル確保措置ヲ講ズルコト
 五、精製工場ノ急速整備ヲ図ルコト
 六、本要綱実施ノ為必要ナル予算的措置ヲ講ズルコト
 七、価格ノ機動的措置ヲ講ズルコト

備考
一、松根採掘跡地ノ処理ニ付テハ国土保安上特段ノ注意ヲナスコト
二、松脂ニ就テモ本要綱ニ準ジ極力増産ヲ企図シ其ノ増産分ハ液体燃料用ニ振向クル如ク措置スルコト
三、本件ハ外地ニ於テモ強力ニ実施スルコト

    「国立国会図書館リサーチ・ナビ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1716年(正徳6)画家伊藤若冲の誕生日(新暦3月1日)詳細
1869年(明治2)新聞発行に関する「新聞紙印行条例」(明治2年太政官布告第135号)が公布される(新暦3月20日)詳細
1882年(明治15)北海道の開拓使が廃止され、函館・札幌・根室の3県が設置される詳細
1899年(明治32)「高等女学校令」が公布される詳細
1904年(明治37)日本海軍の旅順港包囲の奇襲と陸軍の朝鮮半島の仁川上陸により、日露戦争が開始される詳細
1915年(大正3)歌人・小説家長塚節の命日(節忌)詳細
1946年(昭和21)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)へ「憲法改正要綱」(松本私案)が提出される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、童画家・版画家・童話作家・造本作家武井武雄が亡くなった日です。
 武井武雄(たけい たけお)は、明治時代後期の1894年(明治27)6月25日に、長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)西堀の裕福な地主だった父・武井慶一郎、母・さちの子として生まれました。平野村小井川尋常小学校、長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1919年(大正8)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業します。
 1922年(大正11)に東京社が創刊した絵雑誌「コドモノクニ」創刊号のタイトル文字及び表紙絵を担当し、童画家として出発しました。1923年(大正12)に処女童話集『お伽の卵』を刊行、1924年(大正13)には、東京銀座資生堂にて初の個展「武井武雄童画展」を開き、「童画」という言葉を創造します。
 1926年(大正15)に郷土玩具の収集が一万点に及び北原白秋より”蛍の塔”と名づけられ、長篇童話『ラムラム王』を刊行、1927年(昭和2)には、岡本帰一、清水良雄、深沢省三、川上四郎、初山滋、村山知義と共に日本童画協会を結成、特集『花園の車』を刊行しました。1929年(昭和4)に自ら創案した新作の玩具・小手工芸品「イルフ・トイス」展を開催、1930年(昭和5)には、「日本郷土玩具・東西篇」を刊行しています。
 1935年(昭和10)に私刊本『十二支絵本』を創始し、芸術の分野に造本美術を新しく加えることを提唱、1938年(昭和13)には、エッチング(銅版、絵本の名作「地上の祭」)を発刊しました。1941年(昭和16)の4月から3年がかりで『武井武雄愛蔵こけし図譜・全60葉』を刊行開始、1945年(昭和20)には、空襲で池袋の家が全焼、作品および貴重な資料を失ない、岡谷に疎開、文化団体「双燈社」を起こし、芸術文化の運動を行います。
 1946年(昭和21)に日本童画会が結成され会員となり、文化団体「双燈社」を起こし、1948年(昭和23)に東京の荏原に単身仮寓、1949年(昭和24)には、東京都板橋区南常盤台に新居を構え、「一掬庵」と称しました。1959年(昭和34)に児童文化に貢献した功績により紫綬褒章を受章、1962年(昭和37)には、旧同志とともに戦争で解散されていた日本童画協会を復活、この時より毎年秋に白木屋(現東急)にて童画展を開催しています。
 1967年(昭和42)に勲四等旭日小綬章を受章、1968年(昭和43)には、ソ連文化団体の招請により「児童文化訪ソ団」を結成し、その団長としてソビエト各地を歴訪しました。1975年(昭和50)に童画の代表作をのせた本「武井武雄作品集」が東ドイツのライプチッヒにて「世界で最も美しい本」として1975年のグランプリに選ばれ、1979年(昭和54)には、紺綬褒章および賜杯を受けています。
 1982年(昭和57)に第四書票集、書票原画を中心として、市立岡谷美術考古館で「武井武雄作品展」を開催しましたが、1983年(昭和58)2月7日に、東京都板橋区の自宅において、心筋梗塞のため89歳で亡くなりました。

〇武井武雄の主要な著作

・童話集『お噺の卵』(1923年)
・童話『ペスト博士の夢』(1924年)
・童話『ラムラム王』(1926年)
・エッセイ『日本の郷土玩具』(1930年)
・童画・絵本論集『本とその周辺』(1960年)
・画文集『戦中年儘画帖』(1973年)
・画文集『戦後年儘画帖』(1973年)
・『武井武雄作品集』全三冊(1974年)

☆武井武雄関係略年表

・1894年(明治27)6月25日 長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)西堀の裕福な地主だった父・武井慶一郎、母・さちの子として生まれる
・1908年(明治41) 平野村小井川尋常小学校 高等3年終了。
・1913年(大正2) 長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を卒業する
・1919年(大正8) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業する
・1922年(大正11) 東京社が創刊した絵雑誌「コドモノクニ」創刊号のタイトル文字及び表紙絵を担当する
・1923年(大正12) 処女童話集『お伽の卵』を目白書房より刊行する
・1924年(大正13) 東京銀座資生堂にて初の個展「武井武雄童画展」を開き、「童画」という言葉を創造する
・1926年(大正15) 郷土玩具の収集が一万点に及び北原白秋より”蛍の塔”と名づけられる。長篇童話『ラムラム王』を叢文閣より刊行する
・1927年(昭和2) 岡本帰一、清水良雄、深沢省三、川上四郎、初山滋、村山知義と共に日本童画協会を結成、特集『花園の車』をフタバ書房より刊行する
・1929年(昭和4) 自ら創案した新作の玩具・小手工芸品「イルフ・トイス」展を開催する
・1930年(昭和5) 「日本郷土玩具・東西篇」を地平社より刊行する
・1935年(昭和10) 私刊本『十二支絵本』を創始し、芸術の分野に造本美術を新しく加えることを提唱する
・1938年(昭和13) 母、長男、次男を失う、エッチング(銅版、絵本の名作「地上の祭」)を発刊する
・1941年(昭和16) 4月から3年がかりで『武井武雄愛蔵こけし図譜・全60葉』を吾八より刊行開始する
・1945年(昭和20) 5月の空襲で池袋の家が全焼、作品および貴重な資料を失ない、岡谷に疎開、文化団体「双燈社」を起こし、芸術文化の運動を行う
・1946年(昭和21) 日本童画会が結成され、会員となる、文化団体「双燈社」を起こす
・1948年(昭和23) 東京の荏原に単身仮寓する
・1949年(昭和24) 東京都板橋区南常盤台に新居を構え、「一掬庵」と称する
・1959年(昭和34) 児童文化に貢献した功績により紫綬褒章を受章する
・1962年(昭和37) 旧同志とともに戦争で解散されていた日本童画協会を復活、この時より毎年秋に白木屋(現東急)にて童画展を開催する
・1967年(昭和42) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1968年(昭和43) ソ連文化団体の招請により「児童文化訪ソ団」を結成し、その団長としてソビエト各地を歴訪する
・1971年(昭和46) 市立岡谷美術考古館にて「武井武雄作品展」を開催する
・1975年(昭和50) 童画の代表作をのせた本「武井武雄作品集」が東ドイツのライプチッヒにて「世界で最も美しい本」として1975年のグランプリに選ばれる
・1979年(昭和54) 紺綬褒章および賜杯を受ける
・1982年(昭和57) 第四書票集、書票原画を中心として、市立岡谷美術考古館で「武井武雄作品展」を開く
・1983年(昭和58)2月7日 東京都板橋区の自宅において、心筋梗塞のため89歳で亡くなる
・1984年(昭和59) 市立岡谷美術考古館で特別展「武井武雄の世界」(展示作品700点)を開催する
・2015年(平成27) 岡谷市のデザインナンバープレートと家屋調査済証に武井の童画を使用する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1184年(治承8)一ノ谷の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に圧勝する(新暦3月20日)詳細
1681年(天和元)江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が、母・桂昌院の発頓で、江戸に護国寺創建を命じる(新暦3月26日)詳細
1692年(元禄4)孔子を祭る湯島聖堂が完成する(新暦3月17日)詳細
1731年(享保16)俳人・蕉門十哲の一人各務支考の命日(新暦3月14日)詳細
1873年(明治6)「敵討禁止令」(明治6年太政官布告第37号)が布告される詳細
1899年(明治32)「実業学校令」(明治32年勅令第29号)が公布(同年4月1日施行)される詳細
1998年(平成10)長野オリンピック(第18回冬季オリンピック・長野大会)が開幕する詳細
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 今日は、大正時代の1913年(大正3)に、二瀬炭鉱(現在の福岡県飯塚市)でガス爆発事故があり、死者101人・負傷者7人を出した日です。
 二瀬炭鉱ガス爆発事故(ふたせたんこうがすばくはつじこ)は、大正時代の1913年(大正3)2月6日午前2時10分頃に、八幡製鉄所所属の二瀬炭鉱(現在の福岡県飯塚市)中央竪抗潤野坑道分岐点で発生したガス爆発事故です。事故当時、114人ほどが入坑していたとみられますが、助かったのは13人のみで、残りの101人が死亡、負傷者7人とされてきました。
 死者・負傷者の出身県は、県内のほか九州の熊本県、佐賀県、大分県が多く、他に中国・四国地方から出稼ぎに来ている20~30代の人が多く、特に若い女性が2割ほど占めていて、中には遠く大阪、兵庫など近畿地方の人も数人おり、中でも朝鮮半島出身者が混じっていたとされます。この炭鉱では、1903年(明治36)1月にも、ガス爆発事故が発生して死者64人を出していました。

〇二瀬炭鉱(ふたせたんこう)とは?

 現在の福岡県飯塚市中(なか)・伊岐須(いぎす)・潤野(うるの)および嘉穂(かほ)郡穂波(ほなみ)町・稲築(いなつき)町にあった炭鉱で、高雄(現在の飯塚市伊岐須・中・幸袋付近)、潤野、中央(現在の穂波町枝国)、稲築(現在の稲築町漆生)の四坑を総称したものです。炭質は粘結性で、発熱量は60,017,500カロリーと良質炭と劣質炭との差が大きく、製鉄所原料炭および汽缶用炭として用いられました。
 明治時代前期の1874年(明治7)に松本潜が穂波郡相田村で相田炭鉱を経営したのにはじまり、1878~79年(明治11~12年)頃には、福岡県令渡辺清が、官営三池炭鉱技師ポッターを招いて鞍手・嘉麻両郡の地質を調査させた折、松本潜・安川敬一郎兄弟はポッターに相田炭鉱の調査を依頼し、良質炭の存在が判明します。1880年(明治13)に、相田・庄司両村にまたがる鉱区を拡張し、高雄・伊岐須の両炭鉱を起業したとされ、1883年(明治16)には、帆足義方によって潤野炭鉱の採掘が始まりました。
 しかし、1903年(明治36)1月17日にガス爆発事故が発生して死者64人を出したものの、1806年(明治39)8月に新たに穂波村枝国に深さ1,300尺の中央竪坑を開削を開始、1807年(明治40)中の出炭が、3億6,413万8,158斤(約21万8,483t)となります。1908年(明治41)当時、292万余坪の鉱区に高雄の第一坑・第二坑・潤野竪坑を擁し、鉱夫数2,719人(うち女子648人・幼者7人)が働いていて、1910年(明治43)には、中央竪坑(内径18尺5寸の円型煉瓦積構造)が竣工し、三菱方城炭鉱竪坑、筑豊炭鉱伊田竪坑と並んで筑豊の三大竪坑といわれていました。
 1913年(大正2)2月6日に、再びガス爆発を起こし、死者101人・負傷者7人を出しましたが、1919年(大正8)4月に稲築斜坑の開削を開始し、1921年(大正10)には、稲築炭鉱での本格採炭が始まります。1934年(昭和9)に八幡製鉄所は、日本製鐵となりその付属炭鉱となり、1939年(昭和14)には、鉱山部門を日鉄鉱業として独立させ、同社の二瀬鉱業所に属する炭鉱となりました。
 それから戦後に至るまで、中央、潤野、高雄の一・二坑および稲築坑の5坑による原料炭主体の生産態勢を続け、昭和30年代まで年産40万t程度を維持しています。しかし、石油へのエネルギー転換により、石炭産業の斜陽化が叫ばれる中で、1957年(昭和32)3月に稲築坑を渡辺鉱業に分離移譲、1961年(昭和36)には、潤野坑を閉山しました。
 さらに、1963年(昭和38)1月14日に、二瀬炭鉱を閉山し、鉱員533人中240人は第二会社の高雄炭鉱に引き継がれ、1966年(昭和41)には、高雄中央坑・高雄2坑・高雄坑の順に閉山し、二瀬炭鉱の約70年におよぶ歴史の幕が閉じられています。潤野本鉱跡地は、福岡県立嘉穂高等学校・附属中学校などとなり、付近の枝国大田公園に、「製鉄所潤野坑慰霊碑」が建立されました。

〇二瀬炭鉱(潤野炭鉱)関係略年表

・1874年(明治7) 松本潜が穂波郡相田村で相田炭鉱を経営する
・1878~79年(明治11~12年)頃 福岡県令渡辺清が,官営三池炭鉱技師ポッターを招いて鞍手・嘉麻両郡の地質を調査させた折,松本潜・安川敬一郎兄弟はポッターに相田炭鉱の調査を依頼し,良質炭の存在が判明する
・1880年(明治13) 相田・庄司両村にまたがる鉱区を拡張し、高雄・伊岐須の両炭鉱を起業したとされる
・1883年(明治16) 帆足義方によって潤野炭鉱の採掘が始まる
・1884年(明治17) 鉱山局技師山際永吾の調査に基いて,相田鉱区をさらに拡大して72万坪とする
・1886年(明治19) 大阪市の商家「加島屋」の広岡信五郎が潤野炭鉱として買収する
・1892年(明治25) 高尾第二坑が創業する
・1895年(明治28) 深さ520尺の潤野竪坑を開坑する
・1897年(明治30) 炭鉱規模は鉱区面積725,062坪、鉱夫数582人、出炭高日産85万斤(約510t)となり、これ以降は出炭量を大きく伸ばし、優良な炭鉱に変貌する
・1899年(明治32) 建設中の官営八幡製鉄所への石炭供給源として国に売却され、高雄炭鉱と潤野炭鉱を併せて、官営製鉄所二瀬炭鉱となる
・1903年(明治36)1月17日 ガス爆発事故が発生して死者64人を出す
・1806年(明治39)8月 新たに穂波村枝国に深さ1,300尺の中央竪坑を開削を開始する
・1807年(明治40) 本年中の出炭が、3億6,413万8,158斤(約21万8,483t)となる
・1908年(明治41) 当時、292万余坪の鉱区に高雄の第一坑・第二坑・潤野竪坑を擁し、鉱夫数2,719人(うち女子648人・幼者7人)が働いていた
・1910年(明治43) 中央竪坑(内径18尺5寸の円型煉瓦積構造)が竣工し、三井田川伊田竪坑、三菱方城と並んで筑豊の三大竪坑といわれた
・1913年(大正2)2月6日 再びガス爆発を起こし、死者101人・負傷者7人を出す
・1919年(大正8)4月 稲築斜坑の開削を開始する
・1921年(大正10) 稲築炭鉱での本格採炭が始まる
・1934年(昭和9) 八幡製鉄所は、日本製鐵となりその付属炭鉱となる
・1939年(昭和14) 鉱山部門を日鉄鉱業として独立させ、同社の二瀬鉱業所に属する炭鉱となる
・1957年(昭和32)3月 稲築坑を渡辺鉱業に分離移譲する
・1961年(昭和36) 潤野坑を閉山する
・1963年(昭和38)1月14日 二瀬炭鉱を閉山し、鉱員533人中240人は第二会社の高雄炭鉱に引き継がれる
・1966年(昭和41) 高雄中央坑・高雄2坑・高雄坑の順に閉山し、それぞれ石炭鉱業合理化事業団に閉山交付金を申請する

☆日本の主な炭鉱事故一覧

<明治時代>
・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者243人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者269人]

<大正時代>
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)ガス爆発事故[死者101人・負傷者7人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1915年4月12日 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者369人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]

<昭和時代>
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天竜坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年9月20日 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年3月9日 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年3月16日 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年2月22日 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者62人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1647年(正保4)武将・茶人・作庭家小堀政一(遠州)の命日詳細
1818年(文化15)北方探検家・著述家松浦武四郎の誕生日(新暦3月12日)詳細
1874年(明治7)明治政府が大久保・大隈両参議提出の「台湾蕃地処分要略」により、台湾出兵を閣議決定する詳細
1907年(明治40)文芸評論家亀井勝一郎の誕生日詳細
1922年(大正11)アメリカ合衆国のワシントンD.C.で、「ワシントン海軍軍縮条約」が締結される詳細
アメリカ合衆国のワシントンD.C.で、「九カ国条約」が締結される詳細
1930年(昭和5)藤森成吉の戯曲を鈴木重吉監督で映画化した「何が彼女をさうさせたか」が封切られる詳細
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