ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、平安時代前期の905年(延喜5)に、15日に完成した初の勅撰和歌集『続万葉集』に対し、醍醐天皇が編纂し直すよう命じ、改めて『古今和歌集』として編輯を行うこととなったと考えられる日ですが、新暦では5月24日となります。
 平安時代前期に醍醐天皇の勅命で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人が撰者となって編集し、905年(延喜5年4月15日)に奏上(注:仮名序では4月18日)された最初の勅撰和歌集で、『古今集』とも呼ばれています。しかし、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は延喜13年(914年)~延喜14年頃とも考えられてきました。
 全二十巻からなり、仮名序と真名序の二つの序文があって、約1,100首を収め、春・夏・秋・冬など13に分類されています。ほとんどが短歌ですが、旋頭歌4首と長歌5首もあり、技巧的・観念的で、繊細・優美な歌が多く、『万葉集』の率直な写生の歌とは異なってきました。
 入集歌数が多いのは、紀貫之(102首)、凡河内躬恒(60首)、紀友則(46首)、壬生忠岑(36首)、素性(36首)、在原業平(30首)の順となっています。この歌集以後、勅撰和歌集が編集され、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれてきました。尚、1205年(元久2)成立の『新古今集』までの初めの8つを「八代集」とも呼んでいます。
 以下に、『古今和歌集』の仮名序を掲載紙ておきますから、ご参照下さい。

<収載されている代表的な歌>
・「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀友則)
・「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(藤原敏行)
・「冬がれの 野辺とわが身を 思ひせば 燃えても春を 待たましものを」(伊勢)
・「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」(壬生忠岑)
・「桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける」(紀貫之)
・「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)

〇古今和歌集仮名序

やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。よの中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるものきくものにつけていひいだせるなり。はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおにかみをもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをもなぐさむるはうたなり。
このうた、あめつちのひらけはじまりける(時)よりいできにけり。しかあれども、よにつたはれることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり、あらがねのつちにしては、すさのをのみことよりぞおこりける。ちはやぶるかみよには、うたのもじもさだまらず、すなほにして、ことのこゝろわきがたかりけらし。人のよとなりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。
かくてぞはなをめで、とりをうらやみ、かすみをあはれび、つゆをかなしぶこゝろことばおほく、さまざまになりにける。とほきところもいでたつあしもとよりはじまりて年月をわたり、たかき山もふもとのちりひぢよりなりて、あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに、このうたもかくのごとくなるべし。
なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。あさかやまのことばゝうねめのたはぶれよりよみて、このふたうたは歌のちゝはゝのやうにてぞ、(て)ならふ人のはじめにもしける。
そも/\歌のさまむつなり。からのうたにもかくぞあるべき。 そのむくさのひとつにはそへ歌。おほさゝきのみかどをそへたてまつれるうた
なにはづにさくやこのはなふゆごもりいまははるべとさくやこのはな
といへるなるべし。ふたつにはかぞへうた
さくはなに思ひつくみのあぢきなさみにいたづきのいるもしらずて
といへるなるべし。みつにはなずらへうた
きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむ
といへるなるべし。よつにはたとへうた
わがこひはよむともつきじありそうみのはまのまさごはよみつくすとも
といへるなるべし。いつゝにはたゞことうた
いつはりのなきよなりせばいかばかり人のことのはうれしからまし
といへるなるべし。むつにはいはひうた
このとのはむべもとみけりさきくさのみつばよつばにとのづくりせり
といへるなるべし。
いまのよの中、いろにつき人のこゝろはなになりにけるより、あだなるうたはかなきことのみいでくれば、いろごのみのいへにむもれぎの人しれぬことゝなりて、まめなるところにははなすすきほにいだすべき事にもあらずなりにたり。そのはじめをおもへばかゝるべく〔も〕なむあらぬ。いにしへのよゝのみかど、春のはなのあした、あきの月のよごとにさぶらふ人びとをめして、ことにつけつゝ歌をたてまつらしめたまふ。あるははなをそふとてたよりなきところにまどひ、あるは月をおもふとて、しるべなきやみにたどれるこゝろごころをみたまひて、さかしおろかなりとしろしめしけむ。しかあるのみにあらず、さゞれいしにたとへ、つくばやまにかけてきみをねがひ、よろこびみにすぎ、たのしびこゝろにあまり、ふじのけぶりによそへて人をこひ、まつむしのねにともをしのび、たかさごすみのえのまつもあひおひのやうにおぼえ、をとこやまのむかしをおもひいでゝ、をみなへしのひとゝきをくねるにも歌をいひてぞなぐさめける。又春のあしたにはなのちるをみ、あきのゆふぐれにこのはのおつるをきゝ、あるはとしごとに、かゞみのかげにみゆるゆきとなみとをなげき、くさのつゆみづのあわをみて、わがみをおどろき、あるはきのふはさかえおごりて、〔今日は〕ときをうしなひよにわび、したしかりしもうとくなり、あるはまつ山のなみをかけ、野なかの(し)みづをくみ、あきはぎのしたばをながめ、あか月のしぎのはねがきをかぞへ、あるはくれたけのうきふしを人にいひ、よしのがはをひきてよの中をうらみきつるに、いまはふじのやまもけぶりたゝずなり、ながらのはしもつくるなりときく人は、うたにのみぞこゝろをばなぐさめける。
いにしへよりかくつたはれるうちにも、ならのおほむ時よりぞひろまりにける。かのおほむよや、うたのこゝろをしろしめしたりけむ。かの御時に、おほきみ(み)つのくらゐ、かきのもとの人まろなむうたのひじりなりける。これはきみも人もみをあはせたりといふなるべし。あきのゆふべたつたがはにながるゝもみぢをば、みかどの御めににしきとみたまひ、春のあしたよしの山のさくらは、人まろが心には雲かとのみなむおぼえける。又山のへのあか人といふ人ありけり〔と〕。うたにあやしうたへなりけり。人まろはあか人がかみにたゝむことかたく、あか人はひとまろがしもにたゝむことかたくなむありける。 この人々をおきて又すぐれたる人も、くれたけのよにきこえ、かたいとのより/\にたえずぞありける。これよりさきの歌をあつめてなむまえふしふとなづけられたりける。
こゝにいにしへのことをも歌のこゝろをもしれる人、わづかにひとりふたりなりき。しかあれどこれかれえたるところえぬところたがひになむある。 かのおほむときよりこのかた、としはもゝとせあまり、よはとつぎになむなりにける。いにしへの事をもうたをもしれる人よむ人おほからず。いまこのことをいふに、つかさくらゐたかき人をばたやすきやうなればいれず。そのほかにちかきよにその名きこえたる人は、すなはち、そうじやうへぜうは歌のさまはえたれども、まことすくなし。たとへばゑにかけるをむなを見ていたづらに心をうごかすがごとし。ありはらのなりひらは、そのこゝろあまりてことばたらず。しぼめるはなのいろなくてにほひのこれるがごとし。ふんやのやすひではことばゝたくみにてそのさまみにおはず、いはゞあき人のよきゝぬをきたらむがごとし。うぢやまのそうきせんはことばゝかすかにして、はじめをはりたしかならず。いはゞあきの月をみるに、あかつきのくもにあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはしてよくしらず。をのゝこまちは、いにしへのそとほりひめのりうなり。あはれなるやうにてつよからず。いはゞよきをむなのなやめるところあるにゝたり。つよからぬはをうなのうたなればなるべし。おほとものくろぬしは、そのさまいやし。いはゞたきゞおへるやまびとのはなのかげにやすめるがごとし。このほかの人々、そのなきこゆるのべにおふるかづらのはひゝろごり、はやしにしげきこのはのごとくにおほかれど、うたとのみおもひて、そのさましらぬなるべし。
かゝるにいますべらぎのあめのしたしろしめすことよつのときこゝのかへりになむなりぬる。あまねき御うつくしみのなみ〔のかげ〕やしまのほかまでながれ、ひろき御めぐみのかげ、つくばやまのふもとよりもしげくおはしまして、よろづのまつりごとをきこしめすいとま、もろ/\のことをすてたまはぬあまりに、いにしへのことをもわすれじ、ふりにしことを(も)おこしたまふとて、いまもみそなはし、のちのよにもつたはれとて、延喜五年四月十八日に、大内記きのとものり、御書所のあづかりきのつらゆき、さきのかひのさう官おふしかうちのみつね、右衞門のふしやうみぶのたゞみねらにおほせられて、萬葉集にいらぬふるきうた、みづからのをも、たてまつらしめたまひてなむ、 それがなかに、むめをかざすよりはじめて、ほとゝぎすをきゝ、もみぢをゝり、ゆきをみるにいたるまで、又つるかめにつけてきみをおもひ、人をもいはひ、あきはぎなつくさをみてつまをこひ、あふさか山にいたりてたむけをいのり、あるは春夏あき冬にもいらぬくさ/\の歌をなむ、えらばせたまひける。すべて千うたはたまき、なづけて古今和歌集といふ。
かくこのたびあつめえらばれて、山したみづのたえず、はまのまさごのかずおほくつもりぬれば、いまはあすかゞはのせになるうらみもきこえず、さゞれいしのいはほとなるよろこびのみぞあるべき。それまくらことば、はるのはなにほひすくなくして、むなしきなのみあきのよのながきをかこてれば、かつは人のみゝにおそり、かつはうたの心にはぢおもへど、たなびくゝものたちゐ、なくしかのおきふしは、つらゆきらが、このよにおなじくむまれて、この事のときにあへるをなむよろこびぬる。人まろなくなりにたれど、うたのことゝどまれるかな。たとひときうつりことさりたのしびかなしびゆきかふとも、このうたのもじあるをや。あをやぎのいとたえず、まつのはのちりうせずして、まさきのかづらながくつたはり、とりのあとひさしくとゞまれらば、うたのさまを(も)しり、ことのこゝろをえたらむ人は、おほぞらの月をみるがごとくに、いにしへをあふぎていまをこひざらめかも。

 「ウィキソース」より

☆勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)とは?

 天皇の綸旨や上皇・法皇の院宣下命に基づいて編集、奏覧された和歌集のことです。醍醐天皇の勅命によって編纂され、905年(延喜5)に奏上された『古今和歌集』に始まり、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。
 初めの3集(『古今和歌集』・ 『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)を三代集、8集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』)までを八代集、残り13集(『新勅撰集』から『新続古今和歌集』)を十三代集ともいいます。平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んでしたが、次第に衰え、室町時代に入って跡が絶えました。
 尚、14世紀末に南朝側で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされています。勅撰集を作成するには、まず撰和歌所を設置し、勅撰の下命があり、撰者の任命がされました。
 その後、資料が集成され、撰歌と部類配列が行われ、加除訂正の後、目録や序が作成それて清書されます。そして、奏覧され、祝賀の竟宴という過程によって行われました。
 収載されたのは、ほとんどが短歌でしたが、わずかに長歌、旋頭歌、連歌を加えた集もあります。巻数は最初の『古今和歌集』の20巻が継承されましたが、『金葉和歌集』と『詞花和歌集』は10巻となっています。
 部立(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異がありますが、基本的には、最初の『古今和歌集』の部立が受け継がれました。勅撰集に歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉とされ、和歌を発達させた文学史的意義は大きいとされています。

<勅撰和歌集(二十一代集)一覧>

1 『古今和歌集』20巻・1,100首(醍醐天皇下命) 905年成立(一説905年下命、913-14年成立)[選者:紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑] 
2 『後撰和歌集』20巻・1,425首(村上天皇下命) 951年下命、957-959年成立[選者:大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城]  
3 『拾遺和歌集』20巻・1,351首(花山院下命) 1005-07年成立[選者:花山院] 藤原公任『拾遺抄』を増補したもの 
4 『後拾遺和歌集』20巻・1,218首(白河天皇下命) 1086年成立[選者:藤原通俊]   
5 『金葉和歌集』10巻・650首(白河院下命) 1126年成立(三奏本)[選者:源俊頼](三奏本) 世上に流布したのは10巻665首の二度本 
6 『詞花和歌集』10巻・415首(崇徳院下命) 1151年頃成立[選者:藤原顕輔] 
7 『千載和歌集』20巻・1,288首(後白河院下命) 1188年成立[選者:藤原俊成]  
8 『新古今和歌集』20巻・1,978首(後鳥羽院下命) 1205年成立[選者:源通具、藤原有家、藤原定家、飛鳥井雅経、寂蓮(実際は後鳥羽院親撰)] 
9 『新勅撰和歌集』20巻・1,374首(後堀河天皇下命) 1235年成立[選者:藤原定家]
10 『続後撰和歌集』20巻・1,371首(後嵯峨院下命) 1251年成立[選者:藤原為家]   
11 『続古今和歌集』20巻・1,915首(後嵯峨院下命) 1265年成立[選者:藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良] 
12 『続拾遺和歌集』20巻・1,459首(亀山院下命) 1278年成立[選者:二条為氏]   
13 『新後撰和歌集』20巻・1,607首(後宇多院下命) 1303年成立[選者:二条為世]   
14 『玉葉和歌集』20巻・2,800首(伏見院下命) 1312年成立[選者:京極為兼] 
15 『続千載和歌集』20巻・2,143首(後宇多院下命) 1320年成立[選者:二条為世]   
16 『続後拾遺和歌集』20巻・1,353首(後醍醐天皇下命) 1326年成立[選者:二条為藤、二条為定] 
17 『風雅和歌集』20巻・2,211首(花園院監修、光厳院下命) 1349年成立[選者:光厳院(親撰)]   
18 『新千載和歌集』20巻・2,365首(後光厳天皇下命) 1359年成立[選者:二条為定]
19 『新拾遺和歌集』20巻・1,920首(後光厳天皇下命) 1364年成立[選者:二条為明、頓阿] 
20 『新後拾遺和歌集』20巻・1,554首(後円融天皇下命) 1384年成立[選者:二条為遠、二条為重] 
21 『新続古今和歌集』20巻・2,144首(後花園天皇下命) 1439年成立[選者:飛鳥井雅世] 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1849年(嘉永2)浮世絵師葛飾北斎の命日(新暦5月10日)詳細
1885年(明治18)日清両国間で「天津条約」(李・伊藤条約)が締結される詳細
「専売特許条例」が公布(施行は同年7月1日)される(発明の日)詳細
1900年(明治33)福井「橋南大火」で、死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒の被害を出す詳細
1942年(昭和17)大平洋戦争下で、東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸などが初空襲(ドウリットル空襲)される詳細
1946年(昭和21)国際司法裁判所(略称:ICJ)が開所する詳細
1964年(昭和39)彫刻家朝倉文夫の命日詳細
1970年(昭和45)刑法学者牧野英一の命日詳細
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 今日は、江戸時代前期の1648年(慶安元)に、日光杉並木街道の20万本の植樹が完了した日ですが、新暦では6月8日となります。
 日光杉並木街道(にっこうすぎなみきかいどう)は、五街道の一つ日光街道と例幣使街道、会津西街道の旧日光神領内(栃木県日光市周辺)にあたる部分、総延長35.41kmにおよぶ杉並木のことです。樹齢300年にもおよぶ杉の巨木が両側にびっしりと並び、昼間でも暗くなるような独特の空間を創出しました。
 江戸時代前期の徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた松平正綱が、日光東照宮創建とその遷宮記念に植樹したのが最初とされています。その後、3代将軍家光による日光東照宮大改修前後の1625年(寛永2)頃から約20年間に、熊野山の杉苗を植樹して日光東照宮に寄進しました。それを記念して、松平正綱の嫡男・正信が建立した杉並木寄進碑が4ヶ所に建てられています。
 これらは、1922年(大正11)に「日光杉並木街道 附 並木寄進碑」として国の史跡・天然記念物になり、さらに、1952年(昭和27)には、国の特別史跡、1954年(昭和29)には、特別天然記念物に指定されました。また、1986年(昭和61)に「日本の道100選」、1996年(平成8)に「歴史の道百選」にも選定されています。

〇日光杉並木関係略年表

・1625年(寛永2年) 松平正綱が、植樹に着手する
・1648年(慶安元年4月) 松平正綱が、徳川家康の三十三回忌に日光東照宮へ杉並木を寄進する
・1868年(慶応4年4月) 大鳥圭介(旧幕府)軍が野口十文字に陣をはり新政府軍の砲撃にあう
・1922年(大正11年)3月8日 「日光並木街道 附 並木寄進碑」として国の史跡に指定される
・1949年(昭和24年)12月26日 今市地震で十石坂より鹿沼寄りの並木が地すべりを起こす
・1952年(昭和27年)3月29日 国の特別史跡に指定される
・1954年(昭和29年)3月20日 国の天然記念物に指定、指定名称を「日光杉並木街道 附 並木寄進碑」に変更される
・1956年(昭和31年)10月31日 国の特別天然記念物に指定される
・1961年(昭和36年) 日光東照宮が杉並木台帳を作成、1万6500本の杉が登録される
・1975年(昭和50年) 保護用地(杉並木の両外側約20m)公有化事業始まる
・1977年(昭和52年) 日光杉並木街道保存管理計画策定する
・1986年(昭和61年)8月10日 「道の日」にちなみ、栃木県に対して建設大臣より「日本の道100選」の顕彰を受ける
・1992年(平成4年) 保存管理計画を改定する
・1996年(平成8年) 「歴史の道百選」に選定される
・1998年(平成10年) 中空ブロック工法による樹勢回復事業開始され、219m実施する
・2016年(平成28年)3月 杉の数1万2302本に減少する
・2017年(平成29年)3月21日 杉並木保護のため、国道121号(例幣使街道)旧道区間のうち、日光市明神-板橋区間(板橋バイパスに並行する区間の一部)が車両通行止めとされる
・2018年(平成30年)5月16日 杉並木保護のため、国道119号(日光街道)旧道区間のうち、日光市七本桜地内の一部区間が車両通行止めとされる
・2019年(令和元年)8月26日 栃木県は「日光杉並木街道保存活用計画」を策定する
・2025年(令和7年) 植樹400年を記念し、栃木県および日光市で展覧会等のイベントが行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

723年(養老7)開墾地の3代までの私有を認める「三世一身法」が発布される(新暦5月25日)詳細
1616年(元和2)武将・江戸幕府初代将軍徳川家康の命日(新暦6月1日)詳細
1884年(明治17)学習院が宮内省所轄の官立学校となる詳細
1895年(明治28)日清戦争講和の為の「下関条約」(日清講和条約)が調印される詳細
桓武天皇奠都1100年記念事業の一環として、京都において、大日本武徳会が発足する詳細
1918年(大正7)「軍需工業動員法」が公布される詳細
1946年(昭和21)「日本国憲法」の原案となった、政府の「憲法改正草案」が発表される詳細
1952年(昭和27)鳥取大火(死者3名、負傷者3,966名、焼失5,228戸)が起きる詳細
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 今日は、室町時代の1397年(応永4)年に、金閣寺(鹿苑寺)の上棟式が行われた日ですが、新暦では5月13日となります。
 金閣寺(鹿苑寺)(きんかくじ)は、京都府京都市北区にある鹿苑寺の通称で、相国寺の山外塔頭寺院です。室町幕府3代将軍足利義満は別荘北山殿に金閣などの殿楼を造営しましたが、1408年(応永15)の義満の死後、遺言により夢窓疎石を勧請開山とし、禅宗の寺院とされました。
 宗派は臨済宗相国寺派、本尊は聖観世音菩薩で、当時は金閣以外に紫雲殿、天上間、拱北楼、反橋、芳徳殿、天鏡閣、泉殿、護摩堂、懺法堂などが立ち並び、壮観を極めたものの、のちに紫雲殿、天鏡閣は南禅寺に、天上間は建仁寺に、懺法堂は等持寺に移転され、焼失や破壊された建物もあって衰退します。しかし、天正年間(1573~1592年)から再建が始まり、徐々に堂舎の修理、復興が行われ、昭和時代前期には、金閣、方丈(本堂)、不動堂、大書院、夕佳亭などがありました。
 ところが、中心となる金閣は、1950年(昭和25)7月2日に放火によって焼失、現在のものは1955年(昭和30)に同じ様式で再建されたものです。金閣の前の庭は、室町時代初期に改修されましたが、池中の島の配置などに山荘時代の面影を残す名園で、1956年(昭和31)に国の特別史跡・特別名勝に指定されました。
 そして、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇金閣寺(鹿苑寺)関係略年表

・1225年(元仁元) 藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営む
・1397年(応永4) 金閣寺の開祖である足利義満が河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれる
・1399年(応永6) 現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される
・1403年(応永10) 相国寺七重大塔が落雷により焼失すると、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる。
・1408年(応永15) 義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入る
・1409年(応永16) 北山第の一部を破却して三条坊門第に移る
・1416年(応永23) 七重大塔が落雷で再度焼失する
・1419年(応永26) 日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈される
・1420年(応永27) 北山第は足利義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とする
・1467~77年(応仁元~文明9) 応仁の乱で、西軍の陣となり建築物の多くが焼失する
・1485年(文明17) 足利義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録される
・1573~92年(天正年間) 西笑承兌が中興し、主要な建物の再建開始される
・1649年(慶安2) 舎利殿が大修理される
・1894年(明治27) 庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保する
・1897年(明治30) 舎利殿(金閣)が「古社寺保存法」に基づき「特別保護建造物」に指定される
・1929年(昭和4)7月1日 「国宝保存法」施行に伴い(旧)国宝に指定される
・1904~06年(明治37~39) 解体修理が行われる 。
・1925年(大正14)10月8日 庭園が「史蹟名勝天然紀念物保存法」によりに史跡・名勝に指定される
・1935年(昭和10) 満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀が、国賓として来日した際、鹿苑寺を訪れる
・1950年(昭和25)7月2日 放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する(金閣寺放火事件)
・1956年(昭和31)7月19日 庭園が「文化財保護法」により特別史跡・特別名勝に指定される
・1952年(昭和27) 舎利殿(金閣)の再建に着工する
・1955年(昭和30) 舎利殿(金閣)の再建が竣工し、創建当時の姿に復元される
・1986~7年(昭和61~62) 金閣の「昭和大修復」が行われる
・1997年(平成9) 茶室「夕佳亭」の解体修理がおこなわれる
・2005~7年(平成17~19) 方丈の解体修理も行われる
・1994年(平成6)12月 ユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成要素のひとつとして登録される
・2003年(平成15) 茶室「常足亭」 にチタン屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)大隈重信らが立憲改進党を結成する詳細
1889年(明治22)静岡駅~浜松駅間(現在の東海道本線)が開業、長浜駅~大津駅間航路利用で新橋駅~神戸駅が繋がる詳細
1884年(明治31)柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)完成により長浜~敦賀の鉄道(敦賀線、後の北陸本線)が開業する詳細
1910年(明治43)輪島町の大火で、全焼1,055軒、半焼15軒の被害を出す詳細
1937年(昭和12)「朝日新聞」で永井荷風著『墨東綺譚』の連載が開始される詳細
1945年(昭和20)小説家田村俊子の命日詳細
1956年(昭和31)日本道路公団が設立される詳細
2020年(平成32)物理化学者長倉三郎の命日詳細
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 今日は、大正時代の1921年(大正10)に、羽仁もと子が東京・雑司ヶ谷に自由学園を開校した日です。
 自由学園(じゆうがくえん)は、大正時代の1921年(大正10)4月15日に、羽仁吉一・もと子夫妻によって、現在の東京都豊島区雑司ガ谷に創立された私立学校です。小学校を終えた女子のために、当時の「高等女学校令」によらないで設置され、カリキュラムは文部省令にはよらず5つの家族形態に分け、日常生活を小集団で自律的に管理させていく方針をとり、キリスト教的自由主義による徹底的な生活教育を行ってきました。
 1934年(昭和9)に校舎を東京府北多摩郡久留米町(現在の東久留米市)に移転しましたが、旧校舎は「自由学園明日館」として残され、1997年(平成9)に国の重要文化財に指定されています。また現在は、初等部(小学校)、中等科(中学校)、高等科(高等学校)からなり、1949年(昭和24)には高等教育にあたる最高学部が設置されましたが、これは「学校教育法」に定められた大学によらず、2年課程と4年課程からなり、各種学校扱いとなってきました。
 尚、2007年(平成19)には、幼児生活団が認可幼稚園「自由学園幼児生活団幼稚園」として開園しています。また、長年にわたり中等科、高等科は男女別学でしたが、2024年(令和6)に、中等部・高等部を共学化、男子部中等科を募集停止とし、女子部中等科を男女共学の中等科に改組しました。

〇自由学園関係略年表

・1921年(大正10)4月15日 東京府北豊島郡高田町雑司が谷(現在の東京都豊島区西池袋2丁目)に「高等女学校令」によらない学校として開校(女子部)する
・1927年(昭和2) 初等部を開設する
・1934年(昭和9) 校舎を東京府北多摩郡久留米町(現在の東久留米市)に完全移転する(旧校舎は「自由学園明日館」として現存)
・1935年(昭和10) 男子部を開設する
・1938年(昭和13) 北京生活学校を開校する
・1938年(昭和13) 財団法人化(財団法人自由学園)する
・1939年(昭和14) 幼児生活団を開設する
・1945年(昭和20) 北京生活学校を閉校する
・1949年(昭和24) 最高学部を開設する
・1951年(昭和26) 学校法人化(学校法人自由学園)する
・2007年(平成19) 幼児生活団が認可幼稚園「自由学園幼児生活団幼稚園」として開園する
・2024年(令和6) 中等部・高等部を共学化。男子部中等科を募集停止とし、女子部中等科を男女共学の中等科に改組する

☆羽仁 もと子(はに もとこ)とは?

 明治から昭和時代の教育家・婦人ジャーナリストの先駆者です。明治時代前期の1873年(明治6)9月8日に、青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)で、旧八戸藩士の松岡家に生まれましたが、本名はもとと言いました。
 1879年(明治12)に八戸小学校へ入学、成績優秀で文部省から表彰され、女子で唯一高等科へ進学します。1889年(明治22)に上京して東京府立第一高等女学校2年生に編入、翌年には洗礼を受けてキリスト教徒となりました。
 1891年(明治24)に第一高等女学校を卒業後、「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学します。1892年(明治25)に帰郷し尋常小学校や盛岡女学校の教員をし、その後結婚したものの、半年で離婚しました。
 1897年(明治30)に再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社、1899年(明治32)には、婦人として初めて新聞記者の仕事に携わります。1901年(明治34)に職場で知り合った新聞記者の羽仁吉一と再婚、1903年(明治36)には、夫・吉一と共に女性雑誌「家庭之友」を創刊、長女・説子が誕生しました。
 1904年(明治37)に「家計簿」を創案して出版、1906年(明治39)に「主婦日記」を出版、1908年(明治41)には、雑誌「家庭の友」を「婦人之友」へと改題、婦人之友社を設立、家庭環境改善に大きな役割を果たします。1914年(大正3)に雑司ヶ谷に家と社屋を建てて移り、「婦人之友」の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版しました。
 長女・説子が小学校を終えるのを機に、1921年(大正10)に東京・雑司ケ谷に自由学園を創設、「文部省令」によらない教育施設において、「真の自由人をつくりだすこと」を目的に、生活に立脚した「活(い)きた」教育の開発と実践を試みます。1925年(大正14)に学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に新しい学校施設を建設して移転、1927年(昭和2)には羽仁もと子著作集を刊行しました。
 1928年(昭和3)に自由学園初等部を設立、1930年(昭和5)には、全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立されます。1932年(昭和7)に世界新教育会議(フランス・ニース)に出席、ヨーロッパ各国とアメリカを訪問して帰国、1935年(昭和10)には、凶作の東北6か村で農村セッツルメント運動を始めました。
 1938年(昭和13)に自由学園北京生活学校を開設、「幼児生活展」を全国に開催、1939年(昭和14)には、自由学園に幼児生活団を作ります。太平洋戦争後は、1949年(昭和24)に自由学園男子部最高学部(大学)、翌年に女子部最高学部(大学)を開学、文部省の基準によらない独自の総合的な学園構想実現へ努力しました。
 しかし、1955年(昭和30)10月26日に夫・吉一が75歳で亡くなり、1957年(昭和32)4月7日には、自身も東京において、脳血栓の後、心臓衰弱のため83歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1710年(宝永7)江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布する(新暦5月13日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1730年(享保15)江戸幕府が上米の制を停止し、参勤交代の期間を元の1年おきに戻す(新暦5月31日)詳細
1900年(明治33)日本画家山本丘人の誕生日詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1659年(万治2)に、比叡山山麓に御水尾上皇の山荘・修学院離宮(下の御茶屋)が完成した日ですが、新暦では6月3日となります。
 修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)は、京都府京都市左京区修学院の比叡山麓にある離宮(皇室関連施設)です。江戸時代前期の1655年(明暦元)に、御水尾上皇の山荘として着工され、1659年(万治2)に、下の御茶屋が完成し、完成披露が行われました。
 1661年(寛文元)に、上の御茶屋の大池ができ、1663年(寛文3)に、上の御茶屋の建物が竣工、1668年 (寛文8) に、増築されたものの、1677年(延宝5)には、隣雲亭が焼失しています。1680年(延宝8)に、御水尾上皇が亡くなると、内親王の緋宮光子がその冥福を祈って上と下の御茶屋の中間南に林丘寺を建てました。
 1682年(天和2)に、東福門院(徳川和子)の女院御所奥御対面所が客殿(林丘寺の旧御殿)として移築され、1709年(宝永6)には、止々斎という建物が仙洞御所に移築されています。1824年(文政7)に、光格上皇を迎えるために隣雲亭が再興され、1827年(文政10)には、水野忠邦が屋形を寄進しました。
 1885年(明治18)に、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となって、中の御茶屋と称されるようになり、1964年(昭和39)には、宮内庁が水田を買い上げています。現在は、宮内庁京都事務所が管理しており、桂離宮(かつらりきゅう)と共に、江戸時代に作られた名庭園として知られてきました。

〇修学院離宮関係略年表

・1655年(明暦元) 御水尾上皇の山荘として、着工される
・1659年(万治2) 下の御茶屋が完成し、完成披露が行われる
・1661年(寛文元) 上の御茶屋の大池ができる
・1663年(寛文3) 上の御茶屋の建物竣工する
・1668年 (寛文8)  増築される
・1677年(延宝5) 隣雲亭が焼失する
・1680年(延宝8) 御水尾上皇が亡くなると、内親王の緋宮光子がその冥福を祈って上と下の御茶屋の中間南に林丘寺を建てる
・1682年(天和2) 東福門院(徳川和子)の女院御所の奥御対面所が客殿(林丘寺の旧御殿)として移築される
・1709年(宝永6) 止々斎という建物が仙洞御所に移築される
・1824年(文政7) 光格上皇を迎えるために隣雲亭が再興される
・1827年(文政10) 水野忠邦が屋形を寄進する
・1885年(明治18) 楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となって、中の御茶屋と称されるようになる
・1964年(昭和39) 宮内庁が水田を買い上げる

☆後水尾天皇(ごみずのおてんのう)とは?

 第108代とされる天皇です。安土桃山時代の1596年(文禄5年6月4日)に、京都において後陽成天皇の第3皇子(母は藤原前子)として生まれましたが、幼称は三宮(名は政仁)と言いました。
 1611年(慶長16)に、後陽成天皇から譲位され16歳で即位し、第108代とされる天皇となります。しかし、1615年(元和元)に江戸幕府により「禁中並公家諸法度」が制定され、所司代、付武家などを通じての干渉が強くなりました。
 1620年(元和6)に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし、外戚となった徳川氏は皇居を造営し、1623年には新たに1万石の御料を進めるなどします。1624年(寛永元)には、和子の皇后宣下が行われ、中宮となりました。
 紫衣事件や前例を無視した春日局の無位無官の身での拝謁強行などによって幕府への不満を募らせ、1629年(寛永6)に、突如わずか7歳の興子内親王(明正天皇)に譲位します。以後明正、後光明、後西、霊元天皇の4代にわたって、約27年間院政を行ないました。
 その中で、学問、詩歌、書道、茶道に深い造詣を示し、智仁親王、烏丸光広らの「伊勢物語」、「源氏物語」などの進講を受け、『伊勢物語御抄』などを著し、古今伝授を受けています。また、宮廷歌壇を確立し、歌集『鴎巣集』を作り、宮廷文化、朝儀復興に強い意欲を示して、『当時年中行事』を著しました。
 仏道にも帰依し、1651年(慶安4)に剃髪、1653~55年に日本屈指の名園として知られる修学院離宮を造営させています。1680年(延宝8年8月19日)に、数え年85歳で亡くなりましたが、陵は京都市東山区今熊野泉山町(月輪陵)に造られました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1526年(大永6)駿河国守護今川氏親が「今川仮名目録」を制定する(新暦5月25日)詳細
1536年(天文5)奥州の伊達稙宗が分国法の一つである「塵芥集」を制定する(新暦5月5日)詳細
1602年(慶長7)連歌師里村紹巴の命日(新暦6月2日)詳細
1867年(慶応3)倒幕派の志士・長州藩士高杉晋作の命日(新暦5月17日)詳細
1875年(明治8)「立憲政体の詔書」(明治8年4月14日太政官第58号布告)が発布される詳細
1909年(明治42)「種痘法」(明治42年法律第35号)が公布(施行は翌年1月1日)される詳細
1921年(大正10)「軌道法」(大正10年法律第76号)が公布(施行は1924年1月1日)される詳細
大正10年函館大火で、死者1名、焼失1,532戸を出す詳細
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