ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、明治時代前期の1888年(明治21)に、「枢密院官制」(明治21年勅令第22号)が公布・施行されて、枢密院が設置され、伊藤博文が初代議長に就任した日です。
 枢密院(すうみついん)は、「大日本帝国憲法」下の国政に関する天皇の最高諮問機関です。1888年(明治21)4月30日に「枢密院官制」(明治21年勅令第22号)が公布・施行により、「大日本帝国憲法」草案審議のために創設、議長・副議長・顧問官により組織され、初代議長に伊藤博文が就任しました。
 憲法・皇室典範・条約・緊急勅令など国政に関する重要事項を審議し、「憲法の番人」と称したものの、実際は藩閥官僚・軍人が多数を占め、藩閥官僚の本拠となり、貴族院と共に政党政治の発達を抑制したとされます。しかし、1931年(昭和6)の満州事変以後、軍部の台頭によって、その影響力は低下し、太平洋戦争敗戦後の1947年(昭和22)5月3日の「日本国憲法」施行に伴い、その前日限りで廃止されました。
 以下に、「樞密院官制」(明治21年勅令第22号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「枢密院官制」(明治21年勅令第22号) 1888年(明治21)4月30日公布・施行

第一章 組織

第一条 枢密院ハ天皇親臨シテ重要ノ国務ヲ諮詢スル所トス

第二条 枢密院ハ第一議長一人第二副議長一人第三顧問官十二人以上第四書記官長一人及書記官数人ヲ以テ組織ス

第三条 枢密院ノ議長副議長顧問官ハ親任書記官長ハ勅任書記官ハ奏任トス

第四条 何人タリトモ年齡四十歲ニ達シタルモノニ非サレハ議長副議長及顧問官ニ任スルコトヲ得ス

第五条 議長ハ書記官ノ內ヲ以テ秘書官ヲ兼ネシムルコトヲ得

第二章 職掌

第六条 枢密院ハ左ノ事項ニ付会議ヲ開キ意見ヲ上奏シ勅裁ヲ請フヘシ
 一 憲法及憲法ニ附屬スル法律ノ解釈ニ関シ及予算其他会計上ノ疑義ニ関スル争議
 二 憲法ノ改正又ハ憲法ニ附屬スル法律ノ改正二関スル草案
 三 重要ナル勅令
 四 新法ノ草案又ハ現行法律ノ廃止改正ニ関スル草案列国交涉ノ条約及行政組織ノ計画
 五 前諸項ニ掲クルモノヽ外行政又ハ会計上重要ノ事項ニ付特ニ勅命ヲ以テ諮詢セラレタルトキ又ハ法律命令ニ依テ特ニ枢密院ノ諮詢ヲ経ルヲ要スルトキ

第七条 前条第三項ニ掲ケタル勅令ニハ枢密院ノ諮詢ヲ經タル旨ヲ記載スヘシ

第八条 枢密院ハ行政及立法ノ事ニ関シ天皇ノ至高ノ顧問タリト雖モ施政ニ干与スルコトナシ

第三章 会議及事務

第九条 枢密院ノ会議ハ顧問官十名以上出席スルニ非サレハ会議ヲ開クコトヲ得ス

第十条 枢密院ノ会議ハ議長之ニ首席シ議長事故アルトキハ副議長之ニ首席ス議長副議長共ニ事故アルトキハ顧問官其席次ニ依リ首席スヘシ

第十一条 各大臣ハ其職権上ヨリ枢密院ニ於テ顧問官タルノ地位ヲ有シ議席ニ列シ表決ノ権ヲ有ス又各大臣ハ委員ヲ差シテ会議ニ出席シ演述及説明ヲ為サシムルコトヲ得但表決ノ数ニ加ラス

第十二条 枢密院ノ議事ハ多数ニ依リ之ヲ決ス但可否平等ノ場合ニ於テ会議首席ノ決スル所ニ依ル

第十三条 議長ハ枢密院ニ属スル一切ノ事務ヲ総管シ枢密院ヨリ発スル一切ノ公文ニ署名ス
 副議長ハ議長ノ職務ヲ補佐ス

第十四条 書記官長ハ議長ノ監督ヲ受ケ枢密院ノ常務ヲ管理シ一切ノ公文ニ副署シ会議ニ付スヘキ事項ヲ審査シテ報吿書ヲ調製シ会議ニ列シ弁明ノ任ニ当ル但表決ノ数ニ加ラス
 書記官ハ会議ニ於テ議事ヲ筆記シ及書記官長ノ職務ヲ補佐シ書記官長事故アルトキハ書記官之ヲ代理ス
 前項ノ筆記ハ出席員ノ姓名会議ノ事件質問答弁及議決ノ要旨ヲ記載スルモノトス

第十五条 特別ノ場合ヲ除クノ外予メ審査報告書ヲ調製シ其会議ニ必要ナル書類ト共ニ之ヲ各員ニ配達シタル後ニ非サレハ会議ヲ開クコトヲ得ス
 議事日程及報告ハ予メ各大臣ニ通報スヘシ

 ※旧字を新字に直してあります。

      「ウィキソース」より

☆伊藤博文(いとう ひろぶみ)とは?

 幕末から明治時代に活躍した政治家で、幼名は利助、のち俊輔、博文は諱です。1841年(天保11)に、周防(現在の山口県)の貧農の家に生まれました。
 後に、父が伊藤家を継いで、士分となりました。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、久坂玄瑞らと尊王攘夷運動に挺身することになります。1863年(文久3)イギリスに留学しましたが、帰国後は開国をとなえ倒幕運動に活躍しました。
 1871年(明治4)岩倉遣欧使節団の全権副使となり、大久保利通の没後は、内務卿となります。その後、大日本帝国憲法の立案に当たり、1885年(明治18)に内閣制度を創設して、初代総理大臣となりました。
 枢密院・貴族院の初代議長を歴任し、のち、立憲政友会を組織して、総裁に就任します。日露戦争後、初代韓国統監となりましたが、1909年(明治42)10月26日、69歳の時にハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

670年(天智天皇9)法隆寺が落雷により全焼する詳細
1183年(文治5)源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川の館を襲い、源義経が自害する(新暦6月15日)詳細
1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1886年(明治19)秋田県で秋田大火(俵屋火事)が起き、死者17名、負傷者186名、焼失戸数3,554戸を出す詳細
1926年(大正15)小説家河野多惠子の誕生日詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の投票で、翼賛政治体制協議会推薦者が381議席を占める詳細
1950年(昭和25)「図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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 今日は、平成時代の2016年(平成28)に、「京都鉄道博物館」が開館した日です。
 「京都鉄道博物館」(きょうとてつどうはくぶつかん)は、京都府京都市下京区の京都梅小路エリアにおいて、西日本旅客鉄道(JR西日本)が梅小路蒸気機関車館(国指定重要文化財)と一体となった施設として計画し、2016年(平成28)4月29日に開館した博物館です。新しく3階建ての本館が建てられ、今までの梅小路蒸気機関車館を含む敷地面積は30,435m²あり、大阪市にあった旧交通科学博物館の車両も移設して、50両の鉄道車両を収蔵してきました。
 その中には、義経号機関車(鉄道記念物)、旧二条駅舎(京都市文化財)、0系新幹線車両(鉄道記念物) 、EF52 1号電気機関車(鉄道記念物)、233号蒸気機関車(鉄道記念物) 、1801号蒸気機関車(鉄道記念物)など明治・大正時代に活躍した鉄道車両の実物や施設を見ることができ、鉄道の歴史を学ぶ上でも重要な施設です。

〇「京都鉄道博物館」の収蔵車両一覧

<プロムナード>
・C62形蒸気機関車26号機 - 1948年、川崎車輛製。
・マロネフ59形二等A・B寝台緩急車1号車 - 1938年、鷹取工場製。
・スシ28形食堂車301号車 - 1933年、日本車輌製造製。
・クハ103形制御車1号車 - 1964年、日本車輌製造製。
・クハ86形制御車001号車 - 1950年、日立製作所製。
・モハ80形電動車001号車 - 1950年、日立製作所製。
・ナシ20形食堂車24号車 - 1970年、日本車輌製造製。
・DD54形ディーゼル機関車33号機 - 1971年、三菱重工業製。
・21形制御電動車1号車 - 1964年、日本車輌製造製。
・16形グリーン車1号車 - 1964年、日本車輌製造製。
・35形普通ビュッフェ合造車1号車 - 1964年、日本車輌製造製。
・22形制御電動車1号車 - 1964年、日本車輌製造製。

<本館>
・230形蒸気機関車233号機 - 1903年、汽車製造製。
・1800形蒸気機関車1801号機 - 1881年、英国キットソン社製。
・521形制御電動車1号車 - 1996年、川崎重工業製。
・クハネ581形制御寝台車35号車 - 1968年、日立製作所製。
・クハ489形制御車1号車 - 1971年、東急車輛製造製。
・EF52形電気機関車1号機 - 1928年、日立製作所製。
・ワム3500形有蓋車7055号車 - 1917年、日本車輌製造製。
・ヨ5000形車掌車5008号車 - 1959年、川崎車輛製。
・EF66形電気機関車35号機 - 1974年、川崎重工業・東洋電機製造製。
・DD51形ディーゼル機関車756号機 - 1972年、日立製作所製。
・キハ81形制御気動車3号車 - 1960年、近畿車輛製。1986年、準鉄道記念物指定。
・キハ80系特急形気動車のボンネット型先頭車。
・122形制御電動車5003号車 - 1989年、日立製作所製。

<トワイライトプラザ>
・EF58形電気機関車150号機 - 1958年、東京芝浦電気製。
・オロネ24形A寝台車4号車 - 1973年、日本車輌製造製。
・EF65形電気機関車1号機 - 1965年、川崎車輛製。
・EF81形電気機関車103号機 - 1974年、日立製作所製。
・スシ24形食堂車1号車 - 1972年、近畿車輛製。
・スロネフ25形A寝台緩急車501号車 - 1975年、富士重工業製。

<扇形車庫>
・1070形蒸気機関車1080号機 - 1902年、英国ダブス製。
・7100形蒸気機関車7105号機 - 1880年、米国H.K.ポーター製。
・8620形蒸気機関車8630号機 - 1914年、汽車製造製。
・9600形蒸気機関車9633号機 - 1914年、川崎造船所製。
・B20形蒸気機関車10号機 - 1946年、立山重工業製。
・C11形蒸気機関車64号機 - 1935年、川崎車輛製。
・C51形蒸気機関車239号機 - 1927年、汽車製造製。
・C53形蒸気機関車45号機 - 1928年、汽車製造製。
・C55形蒸気機関車1号機 - 1935年、川崎車輛製。
・C56形蒸気機関車160号機 - 1939年、川崎車輛製。
・C57形蒸気機関車1号機 - 1937年、川崎車輛製。
・C58形蒸気機関車1号機 - 1938年、汽車製造製。
・C59形蒸気機関車164号機 - 1946年、日立製作所製。
・C61形蒸気機関車2号機 - 1948年、三菱重工業製。
・C62形蒸気機関車1号機 - 1948年、日立製作所製。
・C62形蒸気機関車2号機 - 1948年、日立製作所製。
・D50形蒸気機関車140号機 - 1925年、日立製作所製。
・D51形蒸気機関車1号機 - 1936年、川崎車輛製。
・D51形蒸気機関車200号機 - 1938年、鉄道省浜松工場製。
・D52形蒸気機関車468号機 - 1946年、三菱重工業製。

<引込線>
・オハ25 551 - 1977年、富士重工業製。
・オハ46 13 - 1955年、汽車製造製。
・クハ117形制御車1号車 -1979年、川崎重工業製。
・マイテ49形客車2号車

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)経済学者・史学者・政治家田口卯吉の誕生日(新暦6月12日)詳細
1886年(明治19)「華族世襲財産法」(明治19年勅令第34号)が公布される詳細
1895年(明治28) 帝国奈良博物館(現在の奈良国立博物館)が開館する詳細
1912年(明治45)北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)でガス爆発事故が起こり、死者269人を出す詳細
1951年(昭和26)沖縄社会大衆党、沖縄人民党を中心に「日本復帰促進期成会」が結成される詳細
1997年(平成9)「化学兵器禁止条約」が発効する詳細
2006年(平成18)生口島北IC~生口島南IC(生口島道路)の開通で西瀬戸自動車道が全通する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、長岡半太郎、本多光太郎、幸田露伴、横山大観らに初の文化勲章が授与された日です。
 文化勲章(ぶんかくんしょう)は、科学・文芸など文化の発達にすぐれた功績をあげた者に授与される勲章として制定されました。他の勲章のような等級はなく、称号とも結びつかず、当初は年金も伴なわないもので、不定期に発令されていましたが、1949年(昭和24)以降は、原則として毎年1回、11月3日の「文化の日」に授与されるようになります。
 しかし、1951年(昭和26)に、「文化功労者年金法」が制定されてからは、文化勲章受章者は同時に文化功労者として「文化功労年金」を受けるのが例になりました。勲章は、賞勲局よび造幣局の嘱託であった東京高等工芸学校教授の畑正吉がデザインし、橘たちばなに勾玉まがたまを配した形で、綬じゅ(リボン)は淡紫色とされています。
 現在は、文化審議会の意見を聞いた上で、文部科学大臣が選考し、内閣総理大臣に推薦を行い、閣議決定によって、天皇から直接手渡されるようになりました。

〇第1回の文化勲章受章者 1937年(昭和12)4月28日授与

・長岡半太郎(物理学)
・本多光太郎(金属物理学)
・木村栄(地球物理学)
・佐佐木信綱(和歌・和歌史)
・幸田露伴(小説)
・岡田三郎助(洋画)
・藤島武二(洋画)
・竹内栖鳳(日本画)
・横山大観(日本画)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1177年(安元3) 京都で安元の大火(太郎焼亡)が起きる(新暦6月3日) 詳細
1876年(明治9) 松本市の和洋折衷建築の小学校・旧開智学校(国宝)で上棟式が行われる 詳細
1919年(大正8) 横浜大正8年「埋地の大火」が起き、3,248戸を焼失する 詳細
1948年(昭和23) 「夏時刻法」(サマータイム法)が公布・施行される 詳細
1949年(昭和24) 内閣から「当用漢字字体表」が告示され、「当用漢字表」の字体を規定、略字が大幅に採用される 詳細
1952年(昭和27)  「日米安全保障条約」(旧)が発効する 詳細
日本と中華民国の間で「日華平和条約」が調印(同年8月5日発効)され、日中戦争が正式に終了する 詳細
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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、叔父の行家から平家追討のための「以仁王の令旨」を伝えられた日ですが、新暦では5月23日となります。
 以仁王の令旨(もちひとおうのりょうじ)は、平安時代後期の1180年(治承4年4月9日)に、以仁王(後白河天皇の第三皇子)が発したとされる、平家追討のための命令文書です。全国各地に散らばる源氏の人々及び、平氏の専横政治を不満に思った大寺社に向け、平氏一門の討伐を命じたのものでした。
 同年4月27日には、山伏姿の源行家が伊豆国の北条館を訪れ、源頼朝にこれを伝えたと言われています。原文は、『吾妻鏡』や『平家物語』に掲載されているものの、令旨としての形式に不備があり、史料によって文言に異同があるとされてきました。
 以下に、『吾妻鏡』第一巻、治承4年(1180年)4月の条にあるものを掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『吾妻鏡』第一巻 治承4年(1180年)4月の条

<原文>

治承四年(1180)四月小廿七日壬申。高倉宮令旨。今日到着于前武衛將軍伊豆國北條舘。八條院藏人行家所持來也。武衛裝束水干。先奉遥拝男山方之後。謹令披閲之給。侍中者。爲相觸甲斐信濃兩國源氏等則下向彼國。武衛爲前右衛門督信頼縁坐。去永暦元年三月十一日。配當國之後。歎而送二十年春秋。愁而積四八餘星霜也。而頃年之間。平相國禪閤恣管領天下。刑罸近臣。剩奉遷 仙洞於鳥羽之離宮。上皇御憤。顰惱 叡慮御。當于此時。令旨到來。仍欲擧義兵。寔惟天與取時至行謂歟。爰上総介平直方〔ツネ〕朝臣五代孫北條四郎時政主者。當國豪傑也。以武衛爲聟君。專顯無二忠節。因茲。最前招彼主。令披令旨給。
 下  東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所
   應早追討淸盛法師并從類叛逆輩事
 右。前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣。奉
 最勝王勅偁。淸盛法師并宗盛等以威勢起凶徒亡國家。惱乱百官万民。虜掠五畿七道。幽閉 皇院。流罪公臣。断命流身。沈淵込樓。盜財領國。奪官授軄。無功許賞。非罪配過。或召鈎於諸寺之高僧。禁獄於修學之僧徒。或給下於叡岳絹米。相具謀叛粮米。断百王之跡。切一人之頭。違逆 帝皇。破滅佛法。絶古代者也。干時天地悉悲。臣民皆愁。仍吾爲一院第二皇子。尋天武天皇舊儀。追討 王位推取之輩。訪上宮太子古跡。打亡佛法破滅之類矣。唯非憑人力之搆。偏所仰天道之扶也。因之。如有 帝王三寶神明之冥感。何忽無四岳合力之志。然則源家之人。藤氏之人。兼三道諸國之間堪勇士者。同令与力追討。若於不同心者。准淸盛法師從類。可行死流追禁之罪過。若於有勝功者。先預諸國之使節。御即位之後。必随乞可賜勸賞也。諸國宣承知依宣行之。

   治承四年四月九日               前伊豆守正五位下源朝臣仲綱

<読み下し文>

治承四年四月小廿七日壬申。高倉宮[1]の令旨[2]、今日前武衛[3]將軍の伊豆國の北條舘[4]于到着す。
八條院[5]の藏人行家持ち來る所也。
武衛水干[6]を裝束し、先ず男山[7]を遙拜し奉る之後、謹みて之を披閲令め給ふ。
侍中[8]者甲斐信濃の兩源氏等に相觸れん爲、則ち彼の國へ下向す。武衛は前右衛門督信頼[9]の縁座の爲、
去る永暦元年三月十一日、當國に配さる之後、歎き而二十年の春秋を送り、愁へ而四八餘の星霜を積む也。
而して、頃年之間、平相國禪閤[10]は恣に天下を管領し、近臣を刑罸し、剩へ仙洞於鳥羽之離宮[11]に遷し奉る。
上皇の御憤り頻に叡慮を惱まし御う。此の時于當り、令旨到來す。仍て義兵を擧げんと欲す。
寔惟天與を取る時に至り行ふと謂ん歟。
爰に上総介直方[12]朝臣の五代の孫、北條四郎時政[13]主者、當國の豪傑[14]也。武衛を以て婿君と爲し、
專ら無二の忠節を顯す。茲に因て、最前に彼の主を招き、令旨[2]を披か令め給ふ。
 下す  東海、東山、北陸、三道諸國の源氏并びに群兵等の所へ
 應えて早く清盛法師并びに從類叛逆の輩を追討の事。
 右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣ず。
 最勝王[15]の勅を奉りて偁う。清盛法師并びに宗盛等、威勢を以て兇徒を起す。國家を亡し、百官万民を惱乱す。
 五畿七道を虜掠[16]し、皇院を幽閇し、公臣を流罪す。命を断ち、身を流す。
 淵に沈め、樓に込め、財を盜り、國を領す。官を奪い軄を授け、巧無きに賞を許し、罪非に過を配す。
 或いは諸寺之高僧於召し釣め、修學之僧徒於禁獄す。或いは叡岳の絹米於給ひ下し、謀叛の粮米を相具す。
 百王[17]之跡を断ち、一人[18]之頭を切る。帝皇に違逆し、佛法を破滅し、古代を絶つ者也。
 時于天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。
 仍て吾一院の第二皇子と爲て、天武天皇の舊儀を尋ね、王位推取之輩を追討す。
 上宮太子[19]の古跡を訪ね、佛法破滅之類を打ち亡ぼさん矣。唯人力之搆へを憑むに非、偏に天道之扶けを仰ぐ所也。
 之に因て、如し帝王三寳神明之冥感有らば、何ぞ忽ち四岳合力之 志 無からんや。
 然らば則ち、源家之人、藤氏之人、兼ては三道諸國之間、勇士に堪えら者、同じく与力し追討令め、
 若し同心不に於て者、清盛法師の從類に准ひ、死流追禁之罪過に行ふ可し、若し勝功有るに於て者、
 先ず諸國之使節に預かり、御即位之後、必ず乞いに随ひ勸賞を賜はる可き也。諸國承知して宣に依て之を行へ

  治承四年四月九日                前伊豆守正五位下源朝臣仲綱[20]

【注釈】

[1]高倉宮:たかくらのみや=以仁王のこと。
[2]令旨:れいじ=皇太子などが出す命令、天皇が出すと宣旨、上皇は院宣。
[3]武衛:ぶえい=兵衛の唐名で、ここでは頼朝を差す。
[4]北条舘:ほうじょうやかた=現在の静岡県伊豆の国市韮山にあった。後の堀越公方も同じ地。
[5]八条院:はちじょういん=鳥羽天皇の娘で名は暲子(後白河の腹違いの妹)。母は美福門院、保元元年鳥羽上皇の遺領の大部分を伝領し、又母の遺領も伝領し、その所領(荘園)は二百四十箇所に及び、経済的にも政治的にも大きな勢力を有した。以仁王を猶子とし、挙兵を支援した。
[6]水干:すいかん=狩衣の変化したもので、水張りにして干した絹の服、下に袴を穿く。
[7]男山:おとこやま=京都府八幡市八幡高坊の岩清水八幡宮。
[8]侍中:じちゅう=蔵人の唐名。
[9]前右衛門督信頼:さきのうえもんのかみのぶより=平治の乱の首謀者。
[10]平相國禪閤:へいしょうこくぜんこう=平清盛のこと。
[11]鳥羽之離宮:とばのりきゅう=12世紀~14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。現在の京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽・竹田・中島の付近。
[12]上総介直方:かずさのすけなおつね=平直方。源氏山の麓の屋敷地現寿福寺を源頼義に譲った人。一般には「なおかた」と皆かなをふっている。
[13]北條四郎時政:ほうじょうのしろうときまさ=父が時家。頼朝の縁で本家のように見えるが、実は京都で彼の代官を務めた従兄弟の平六傔仗時定の方が本家らしい。(奥富説)
[14]當國の豪傑:とうごくのごうけつ=伊豆国の豪傑のことで、北条家の分家で小さな土豪に過ぎないので豪族と書けずに苦心惨憺の上で豪傑と書いた。
[15]最勝王:さいしょうおう=以仁王のこと。
[16]虜掠:りょりゃく=人をとらえ、財物や土地などをかすめとること。
[17]百王:ひゃくおう=天皇家。
[18]一人:いちにん=普通摂関家を指すが誰も切られていない。
[19]上宮太子:じょうぐうたいし=聖徳太子のこと。
[20]仲綱:なかつな=頼政の嫡子。

<現代語訳>

治承4年(1180年)4月小27日壬申。以仁王の令旨が今日、頼朝様のおられる伊豆の北条館に到着しました。八条院の蔵人である行家が持ってきたものです。
頼朝様は水干を着して、最初に、京都の石清水八幡宮の方角を遙拜した上で、謹んでこれを開封してご覧になりました。
行家は、甲斐国や信濃国の源氏に知らせるために、すぐにその国に向かいました。
頼朝様は藤原信頼の同罪として、永暦元年(1160年)3月11日に伊豆国へ流され、嘆きつつ20年の歳月を送り、愁いながら32歳(4×8)余を迎えました。
この年の間は、平清盛が好きなように天下を掌握していました。意に従わないない近臣に刑罰を科し、さらに後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉しました。上皇はお怒りで悩まれておられました。こんな時に当って、(以仁王の)令旨が到着しました。
この機に、正義の挙兵をしようとしました。これ、天から与えられた好機といえるかもしれません。ここに、平直方の五代の孫となる北条四郎時政殿は伊豆の豪傑であり、頼朝様を婿として、絶対の忠誠を尽くしています。従って、頼朝様は一番最初に時政殿を呼んで令旨を開封しました。

命令する。東海道、東山道、北陸道の三道にある諸国の源氏や群兵らに
早く平清盛とそれに従う一族の反逆の連中を追討すること
右のことは、源仲綱が以仁王の令旨を承って命じる

最勝王(以仁王)の令旨を受けて言います。平清盛と次男の宗盛は力に任せて武力行使をして、国家を亡ぼそうとして、多くの役人や万民を悩ましている。日本国中の財物や土地などをかすめとって、法皇を幽閉して、正義の役人を流罪にした。時に人を殺し、流罪にし、立ち上がれなくし、牢屋に入れ、財産を横領し、国司の権限を取り、官職を剥奪し、無理な義務を負わせ、手柄のない身内に賞を許し、反対派の者には無実の罪を着せた。反対する高徳の僧侶を監禁し、学者としての僧をも幽閉する。延暦寺へ納める絹や米を身内に配り、謀反人である味方の軍隊の食料にする。天皇家をつぶそうとしている。摂関家の首を切って、天皇家に反逆し、仏法を破滅し、聖徳太子以来の歴史を壊してしまう者である。これでは天下の全てが悲しんで、臣下も民も悲しんでいる。従って、私は後白河院の第二皇子として、壬申の乱で正しい皇統を継承した天武天皇の前歴を学び、天下を略奪した連中を追討する。聖徳太子の足跡を学び、佛法を破滅しようとするやつらを討ち滅ぼそう。ただ単に人間としての力を頼りにしているだけではなく、天道の助力があるものだ。天皇家や仏教、神道のご利益があれば、なんで四岳の力をあわせる志が無い訳があろうか。それでは源氏の人々、藤原氏の人々、また東海東山北陸の三道諸国の勇士としての名誉な名に湛えられる人は、同様に力を会わせ追討しろ。もし賛同しないものは、清盛とその仲間と同じように、死罪や流罪や追捕の罪にしてしまう。もし、手柄を立てた者には、まず国衙の役人に届けて、即位後は、必ず望みに合せて恩賞を与えるであろう。諸国の人々は、令旨に従い、行動を起こせ。

     治承四年四月九日   前伊豆守正五位下源朝臣仲綱

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)日本8番目の洋式灯台である江埼灯台が初点灯する(新暦6月14日)詳細
1874年(明治7)浜松明治7年大火「小野組火事」が起き、死者3名、焼失家数1,335軒を出す詳細
1897年(明治30)帝国図書館官制が公布され、上野の東京図書館を帝国図書館とする詳細
1907年(明治40)国際的に活躍した版画家斎藤清の誕生日詳細
1948年(昭和23)衆議院不当財産取引委員会で昭和電工への復金融資をめぐる贈収賄(昭和電工事件)が問題化する詳細
1991年(平成3)国際生命尊重会議で、「胎児の人権宣言」が採択された日で、「世界生命の日」とされる詳細
2013年(平成25)推理作家・評論家佐野洋の命日詳細

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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、海上警備隊(海上自衛隊の前身)が海上保安庁の機関として創設された日です。
 海上警備隊(かいじょうけいびたい)は、昭和時代中期の1952年(昭和27)4月26日に海上保安庁に設置された日本近海の海上警備機関です。海上における人命・財産の保護、治安維持のためのもので、陸上の警察予備隊に相当しました。
 発足時約6,000名の定員で、基幹兵力は、アメリカから貸与されたパトロール・フリゲートと上陸支援艇から構成されています。同年8月1日の保安庁の発足により、警察予備隊は保安隊に、海上警備隊は、保安庁警備隊として海上保安庁から独立しました。
 さらに、1954年(昭和29)7月1日に、「防衛庁設置法」と「自衛隊法」施行に伴い、海上自衛隊となっています。

〇海上警備隊関係略年表

<1950年(昭和25)>
・8月10日 - 「警察予備隊令」により警察予備隊が発足する
・10月30日 - アメリカ統合参謀本部において日本の海上警察部隊創設の勧告を承認する

<1951年(昭和26)>
・8月29日 - アメリカ国家安全保障会議で連合軍最高司令官の隷下での沿岸警備部隊の創設を承認
・9月8日 - サンフランシスコで連合国との「サンフランシスコ講和条約」が締結される
・10月19日 - リッジウェイ連合軍最高司令官は吉田首相に、日本での立法措置の必要性を踏まえた上で、PF18隻、LSSL50隻の艦艇貸与の申しでを行い快諾する
・10月20日 - アメリカ側の意向を受けて旧海軍から8名、海上保安庁から2名(その後3名)のY委員会が発足し、アメリカ海軍貸与のPFなどの運用体制に関する協議が開始される
・10月26日 - 正式会合に先立ちアメリカ海軍極東司令部にオフチー参謀長は、日本側委員(Y委員会)である5名(山本、柳沢、秋重、長沢、三田)を招く
・11月2日 - 日米合同委員会の正式会合が行われる

<1952年(昭和27)>
・2月4日 - アメリカ海軍極東司令部で日米合同委員会が開かれ、沿岸警備隊は海上保安予備隊の名称では不可、警備救難監の職掌は海上警備隊を除き、長官を助ける程度に改めることとされる
・4月26日 - 「海上保安庁法の一部を改正する法律」の公布・即日施行により、海上保安庁の機関として創設される
・7月31日 - 運輸省の外局である海上保安庁の組織・装備及び人員(本体組織を含む)を、新設される保安庁に移管するために「海上公安局法」の公布と共に海上公安局法附則第2項で「海上保安庁法」の廃止がなされる
・8月1日 - 総理府の外局として発足した保安庁(防衛庁の前身)に移管され警備隊となる

<1954年(昭和29)>
・7月1日 - 「防衛庁設置法」、「自衛隊法」施行に伴い、海上自衛隊となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(宝亀元)称徳天皇が百万塔陀羅尼を諸寺に分置する(新暦5月25日)詳細
1885年(明治18)俳人飯田蛇笏の誕生日詳細
1898年(明治31)映画監督内田吐夢の誕生日詳細
1939年(昭和14)高等小学校・中学校に通学しない12~19歳の男子に、青年学校への通学が義務化される詳細
1954年(昭和29)黒澤明監督の映画『七人の侍』が公開される詳細
1956年(昭和31)「首都圏整備法」が公布される詳細
1970年(昭和45)「世界知的所有権機関を設立する条約」が発効し、同機関が発足する(世界知的所有権の日)詳細
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