ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:高野長英

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 今日は、江戸時代後期の1837年(天保8)に、日本人漂流民を乗せた米国商船を「異国船打払令」に基づいて砲撃した、モリソン号事件が起きた日ですが、新暦では7月30日となります。
 モリソン号事件(モリソンごうじけん)は、日本人漂流民(音吉ら7人)を伴い、通商を求めて、マカオから浦賀沖に来航したアメリカ合衆国の商船モリソン(Morrison)号が、「異国船打払令」に従った浦賀奉行の砲撃を受け、さらに鹿児島湾に入港しようとして砲撃された事件でした。1837年(天保8)に、中国の広東のアメリカ商社オリファント商会は社船モリソン(Morrison)号で、日本人の海難船員のの7名(岩吉、久吉、音吉、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松)を日本に送還し、それを契機に日本との貿易とアメリカ海外宣教団の日本布教の端緒を開こうとします。マカオを出帆し、浦賀沖に至りましたが、「異国船打払令」に基づいて6月28、29日と砲撃され、やむなく鹿児島湾へ回航したものの、再び砲撃を受けて、引き返すことになりました。
 これに関わって、幕府の対外政策を批判して、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語)』を著し、蛮社の獄を引き起こす原因となります。

〇蛮社の獄とは?

 江戸時代後期の1839年(天保10)に、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判します。これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されます。これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。
<蛮社の獄で逮捕された主要な人物>
・渡辺崋山(田原藩年寄)47歳
・高野長英(町医者)36歳
・順宣(無量寿寺住職)50歳
・順道(順宣の息子)25歳
・山口屋金次郎(旅籠の後見人)39歳
・山崎秀三郎(蒔絵師)40歳
・本岐道平(御徒隠居)46歳
・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣)66歳

☆渡辺崋山著『慎機論』とは?

 渡辺崋山が、1838年(天保9)10月15日に参加した、尚歯会の席上で近く漂流民を護送して渡来する英船モリソン号に対し、幕府が撃攘策をもって対応するといううわさを耳にし、これに反対して著したものです。しかし、途中で筆を折り、公開しなかったのですが、蛮社の獄の際、幕吏が渡辺崋山の自宅を捜索して発見し、断罪の根拠とされました。その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。

<『慎機論』抜粋>
 「我が田原は、三州渥美郡の南隅に在て、遠州大洋中に迸出し、荒井より伊良虞に至る海浜、凡そ十三里の間、佃戸農家のみにて、我が田原の外、城地なければ、元文四年の令ありしよりは、海防の制、尤も厳ならずんば有るべからず。然りといへども、兵備は敵情を審にせざれば、策謀のよって生ずる所なきを以て、地理・制度・風俗・事実は勿論、里港猥談・戯劇、瑣屑の事に至り、其の浮設信ずべからざる事といへども、聞見の及ぶ所、記録致し措ざる事なし。近くは好事浮躁の士、喋々息まざる者、本年七月、和蘭甲此丹莫利宋なるもの、交易を乞はむため、我が漂流の民七人を護送して、江戸近海に至ると聞けり。(中略)今天下五大州中、亜墨利加・亜弗利加・亜烏斯太羅利三州は、既に欧羅巴諸国の有と成る。亜斉亜州といへども、僅に我が国・唐山・百爾西亜の三国のみ。其の三国の中、西人と通信せざるものは、唯、我が邦存するのみ。万々恐れ多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、西人より一視せば、我が邦は途上の遺肉の如し。餓虎渇狼の顧ざる事を得んや。もし英吉利斯交販の行はれざる事を以て、我に説て云はんは、『貴国永世の禁固く、侵すべからず。されども、我が邦始め海外諸国航海のもの、或ひは漂蕩し、或ひは薪水を欠き、或ひは疾病ある者、地方を求め、急を救はんとせんに、貴国海岸厳備にして、航海に害有る事、一国の故を以て、地球諸国に害あり。同じく天地を載踏して、類を以て類を害ふ、豈これを人と謂べけんや。貴国に於てはよく此の大道を解して、我が天下に於て望む所の趣を聞かん』と申せし時、彼が従来疑ふべき事実を挙て、通信すべからざる故を諭さんより外あるべからず。斯て瑣屑の論に落ちて、究する所、彼が貪□の名目生ずべし。西洋戎狄といへども、無名の兵を挙る事なければ、実に鄂羅斯・英吉利斯二国、驕横の端となるべし。」

☆高野長英著『夢物語 (戊戌夢物語)』とは?

 高野長英が1838年(天保9)に、夢に託して江戸幕府を批判した書物で、「戊戌夢物語」とも呼ばれています。同年10月15日に尚歯会の例会の席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに聞き及び、このモリソン号事件を憂えて書かれ、夢の中で討議を聞いた婉曲な形式をとりました。内容は、イギリスの国勢の情報で、とくにアジア、中国への交易進出問題を取り上げ、鎖国下にある日本に対して漂流民送還を口実に開国を迫っている現状を述べて、これを撃退しようととする打払令がいかに無謀なものであるかを警告したものです。しかし、幕政批判の書として蘭学者弾圧の口実とされ、蛮社の獄の起因となりました。

<『夢物語 (戊戌夢物語)』抜粋>
「冬ノ夜ノ更行マゝニ、人語モ漸ク聞ヘ、履声モ稀ニ響キ、妻戸ニ響ク風ノ音スサマシク最物凄サニ、物思フ身ハ殊更眠リモヤラレス、独リ机ニ倚テ燈ヲ掲テ書ヲ讀ケルニ、夜イタク更ヌレハ、イツシカ眠ヲ催シ気モツカレ夢トナク幻トナク恍惚タル折節、或方ヘ招カレイト、廣キ座敷ニイタリケレハ、碩学鴻儒ト覚シキ人々数十人集會メイロイロ物語シ待ケル。
 其方中ニ甲ノ人乙ノ人ニ向テ云ケルハ。
 近来珍ラシキ噂ヲ聞ニ、英吉利国ノモリソント云モノ頭ト成テ、船ヲ仕出シ日本漂流人七人乗セ、江戸近海ニ船ヲ寄セ、是ヲ餌トシテ交易ヲ願フ由和蘭陀ヨリ申出ントナシ、抑英吉利国ト云フハ如何ナル国ニ候ヤ。
 乙ノ人答ケルハ、
 英吉利国ト申ス国ハ、阿蘭陀国王都アハステルタシムト申所ヨリ百八十里許モ隔リ、順風ノ時ハ一日夜位ニテモ通船イタス所ニテ、国之大サハ日本ホトモコレ有ヨシニ候ヘトモ、寒国ニテ人数ハ日本ヨリ少ク、總括シテ人口一千七百七十萬六千人ト申候。国人敏掟ニシテ事ヲ勉強シ怠惰セス、文学ヲ勤メ工技ヲ研究シ、武術ヲ練磨シ、民ヲ富シ、国ヲ彊クスルヲ先務ト仕候。海濱浅灘礁多ク、外冦入カタク候ニ付、近来歐羅巴大乱ノ時モ、英吉利ハ孤立シテ国民干戈ノ災ヲ免レ申候。
 国都ロンドント申所ハ、至テ繁昌ノ所ニテ、待坊美麗人戸稠蜜ニシテ、人口ノ凡百萬許モ居リ候。由海運ノ都合宜シキ所ニテ、専ラ諸方交易ヲ改メ諸国ニ航海仕リ不毛ヲ開キ人民ヲ蕃殖シ夷人ヲ教導シテ服従セシメ此節ニ至リテハ外国領分ノ人数ハ七千四百廿四萬人ト申候左候得ハ本国四倍ニモ至リ申候。其国々ノ名ハ、一ツハ北アメリカ南アメリカ西側ニ候。二ハ西印度ト名付テ南北アメリカノ間ノ嶋也。三ハアフリカ州ノ内ニテ天竺ノ西南ニ当ル。四ハ新阿蘭陀ト申テ日本極南ニアタリ。五ハアメリカト申候テフラシリト国名コイ子ア并カリホルニア邊ニテ、日本ノ東ニ当ル所也。六ハ又天竺ノ内モコル抔唱候国中ニテ、雲南邏羅ノ南ニテ、天竺ノ地ニ候。七ハ東天竺ト申テ、日本ノ近海南洋ノ諸嶌無人近所ヨリ南ノ嶌ニテ候。
 以上国々夫々役人共ヲ差向ケ支配イタサセ候故其者共ノ乗候船ハ軍船ニテ一船ニ石火矢四五十門モ備ヘ差ツカハシ候由ニテ、其船ノ数ハ二萬五千八百六十艘ト申候。其船ニノリ候上役人ハ、都合十七萬八千六百二拾人、下役人ハ四十萬六千人、水主コンロン等取集括百萬程モコレ有リ。誠ニ廣大ノ事ニ相聞申候。
 右故自然航海ノ術并水軍ニハ殊ノ外熟練仕リ、外国出張次第ニ廣大ニ相成、交易ノ道モ漸々旺盛ニ相成、五大州比駢無之様ニ相成候ニ付、諸方ノ者共是ヲ恐羨ミ申候由。
 支那ニモ前々ヨリ交易仕候ニ付、廣東側ニ地所ヲ給リ、商館ヲ営シ、總督并偖役人ヲ差遣シ置、年々南海諸島并アメリカ産物ヲ数十艘ニ積廣東ヘ輸送イタシ、専ラ茶ト交易仕候、右ヲ本国ヘ送リ候。事ニナシ然ル處イキリスハ雲南邏羅辺ニ領分所有リテ支那ノ属国ニ界ヲ接シ候ニ付、邊民共擾乱仕リ堺ヲ越互ニ闘争接戰仕事時々有之候。故支那人イギリス人ヲ疎ミ申候。
 加フルニホルトカル即日本ノ南蛮ト唱ル国ナリ、阿蘭人廣東ヘ同様交易仕候ニ付、イキリスノ交易盛ニ相成候ヘハ、自然ト自己ノ衰微ニモ相成候。故イロイロ讒言ヲ搆種々誹謗仕候ニ付、元ヨリホルカル和蘭陀ハ、清朝革命ノ此大功モコレ有リ、夫ニ廣ク地面ヲ給リ外ナラヌ親愛ヲ受候モノ儀ニ付、右讒ヲ信シ猶々イキリスハ忌憚ラレ、交易物取捌キ方モ不宜、既ニ乾隆年中ノ比ハ貸ノミ日ニ増シ、崇ク相成交易方立行不申候。ヤウニ至リ候依之本国ニテモイロイロ評議イタシ、以来廣東交易方相休メ候方可然抔申候説モ有之候処、近来イキリスニテ茶殊ノ外流行仕人々相用候儀ニ付支那交易相休メ候得ハ人々迷惑ニ相成、且又イキリス領南海諸嶌天竺及アメリカ辺茶モ多クコレ有レトモ其品支那ニハ遥ニ劣リ其上沢山ニハ産シ不申候、交易相休候事何ハ成カタク、尚亦評議致候處右交易方不取捌儀ハ廣東下役人ノ所為ニテ全ク支那ノ意ニ出ルニハコレ無キヤウ存シシラレ候ニ付、其時嘉慶帝誕生有之間右誕生ヲ賀シ貢物ヲ数多北京ニ呈シ候ヲ名トシテ使節ヲ遣シ直ニ帝ヘ愁訴仕候方可然ト申事ニ一決シ、本国ヨリ人物ヲ撰シコルトマカルテ子リト申者其撰ニ当ル正使ニ仕リ、天文地理医術物産ハ未熟ノ由ニ存、右熟練仕候者ヲ撰ミ同船為仕、右ニ関係仕ル書籍ハ勿論諸器諸物ニ至ルマテ一切相整、其餘支那通用ノ者モ相撰ミ、正使副使ノ船各一艘、兵船案内船一艘、都合四艘ニテ本国ヨリ乗出シ、其序日本朝鮮ヘモ交ヲ結度、国王ノ書簡ヲ相遣候由。右ニテ廣東交易ノ儀宜シク相成候。ヤヤ近来ニテハ、廣東ニ有之候西洋諸国ノ商館ノ内、イキリス尤大ニ相聞ヘ申候。(後略)」

    ※縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
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 今日は、江戸時代後期の1850年(嘉永5)に、医師・蘭学者高野長英の亡くなった日ですが、新暦では12月3日となります。
 高野長英(たかの ちょうえい)は、1804年(文化元年5月5日)に、陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市水沢)において、水沢領主水沢伊達家家臣の父・後藤実慶の三男(母は美代)として生まれましたが、名は譲(ゆずる)と言いました。幼いころ父と死別し、母方の伯父高野玄斎の養子となります。
 1820年(文政3)に、江戸に赴き、蘭方医術を杉田伯元や吉田長淑に学び、1825年(文政8)に長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学びました。1828年(文政11)にシーボルト事件が起こると、いちはやく姿をかくし、各地を転々としてから、1830年(天保元)に江戸に戻り、麹町貝坂で町医者となります。
 1832年(天保3)に翻訳『西説医原枢要』内編5巻を脱稿し、渡辺崋山や江川英龍らと情報交換のため尚歯会に参加して交際を深めました。1836年(天保7)の天保の大飢饉の際、『救荒二物考』で早ソバとジャガイモの栽培を説き、『避疫要法』で伝染病対策を訴えます。
 1837年(天保8)に起きた「モリソン号事件」を聞き、翌年『戊戌夢物語』を書いて幕府の対外強硬策を批判しました。それによって、1839年(天保10)の蛮社の獄で、崋山と共に逮捕され、永牢終身刑の判決を売ヶ投獄されます。
 しかし、1844年(弘化元)の牢屋敷の火災の際、放たれて戻らず、人相を変えながら逃亡生活を続けました。1848年(嘉永元)には、伊予宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、蘭学を講述しながら、兵書『三兵答古知幾(タクチーキ)』などを翻訳します。
 翌年江戸に再潜入し、高橋柳助、沢三伯の名で町医者を営んでいたものの、1850年(嘉永5年10月30日)に、何者かに密告されて町奉行所に踏み込まれ、数え年47歳で自殺しました。

〇高野長英の主要な著作

・『避疫要法』(1832年)
・翻訳『西説医原枢要』(1832年)
・『救荒二物考』(1836年)
・『戊戌夢物語』(1838年)
・獄中記『わすれがたみ』(1839年)
・『蛮社遭厄(そうやく)小記』(1841年)
・『知彼一助』(1847年)
・翻訳『三兵答古知幾(タクチーキ)』(1847年)
・翻訳『家(ほうか)必読』(1848年)
・翻訳『兵制全書』

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 今日は、江戸時代後期の1839年(天保10)に、蛮社の獄で、渡辺崋山らに出頭命令が下され、伝馬町の獄に入れられた日ですが、新暦では6月24日となります。
 これは、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。
 1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判したのです。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。
 そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されたのです。
 これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。
 尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。

〇蛮社の獄で逮捕された主要な人物

・渡辺崋山(田原藩年寄)47歳
・高野長英(町医者)36歳
・順宣(無量寿寺住職)50歳
・順道(順宣の息子)25歳
・山口屋金次郎(旅籠の後見人)39歳
・山崎秀三郎(蒔絵師)40歳
・本岐道平(御徒隠居)46歳
・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣)66歳

〇渡辺崋山著『慎機論』とは?

 渡辺崋山が、1838年(天保9)10月15日に参加した、尚歯会の席上で近く漂流民を護送して渡来する英船モリソン号に対し、幕府が撃攘策をもって対応するといううわさを耳にし、これに反対して著したものです。しかし、途中で筆を折り、公開しなかったのですが、蛮社の獄の際、幕吏が渡辺崋山の自宅を捜索して発見し、断罪の根拠とされました。その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。

☆『慎機論』抜粋

「我が田原は、三州渥美郡の南隅に在て、遠州大洋中に迸出し、荒井より伊良虞に至る海浜、凡そ十三里の間、佃戸農家のみにて、我が田原の外、城地なければ、元文四年の令ありしよりは、海防の制、尤も厳ならずんば有るべからず。然りといへども、兵備は敵情を審にせざれば、策謀のよって生ずる所なきを以て、地理・制度・風俗・事実は勿論、里港猥談・戯劇、瑣屑の事に至り、其の浮設信ずべからざる事といへども、聞見の及ぶ所、記録致し措ざる事なし。近くは好事浮躁の士、喋々息まざる者、本年七月、和蘭甲此丹莫利宋なるもの、交易を乞はむため、我が漂流の民七人を護送して、江戸近海に至ると聞けり。 (中略) 今天下五大州中、亜墨利加・亜弗利加・亜烏斯太羅利三州は、既に欧羅巴諸国の有と成る。亜斉亜州といへども、僅に我が国・唐山・百爾西亜の三国のみ。其の三国の中、西人と通信せざるものは、唯、我が邦存するのみ。万々恐れ多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、西人より一視せば、我が邦は途上の遺肉の如し。餓虎渇狼の顧ざる事を得んや。もし英吉利斯交販の行はれざる事を以て、我に説て云はんは、『貴国永世の禁固く、侵すべからず。されども、我が邦始め海外諸国航海のもの、或ひは漂蕩し、或ひは薪水を欠き、或ひは疾病ある者、地方を求め、急を救はんとせんに、貴国海岸厳備にして、航海に害有る事、一国の故を以て、地球諸国に害あり。同じく天地を載踏して、類を以て類を害ふ、豈これを人と謂べけんや。貴国に於てはよく此の大道を解して、我が天下に於て望む所の趣を聞かん』と申せし時、彼が従来疑ふべき事実を挙て、通信すべからざる故を諭さんより外あるべからず。斯て瑣屑の論に落ちて、究する所、彼が貪□の名目生ずべし。西洋戎狄といへども、無名の兵を挙る事なければ、実に鄂羅斯・英吉利斯二国、驕横の端となるべし。」
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 今日は、1839年(天保10)に蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)です。
 蛮社の獄は、江戸時代後期の1839年(天保10)に、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。
 1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判したのです。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。
 そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) の判決が下されたのです。
 尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていました。

〇渡辺崋山とは?
 江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれたのです。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となりしました。家老として藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められます。天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されました。
 しかし、『慎機論』をを著して、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で捕らえられたのです。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しました。
 画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。
 以下に、蛮社の獄の原因となった渡辺崋山著『慎機論』の一部を引用しておきます。

☆渡辺崋山著『慎機論』の一部
「我が田原は、三州渥美郡の南隅に在て、遠州大洋中に迸出し、荒井より伊良虞に至る海浜、凡そ十三里の間、佃戸農家のみにて、我が田原の外、城地なければ、元文四年の令ありしよりは、海防の制、尤も厳ならずんば有るべからず。然りといへども、兵備は敵情を審にせざれば、策謀のよって生ずる所なきを以て、地理・制度・風俗・事実は勿論、里港猥談・戯劇、瑣屑の事に至り、其の浮設信ずべからざる事といへども、聞見の及ぶ所、記録致し措ざる事なし。近くは好事浮躁の士、喋々息まざる者、本年七月、和蘭甲此丹莫利宋なるもの、交易を乞はむため、我が漂流の民七人を護送して、江戸近海に至ると聞けり。

(中略)

今天下五大州中、亜墨利加・亜弗利加・亜烏斯太羅利三州は、既に欧羅巴諸国の有と成る。亜斉亜州といへども、僅に我が国・唐山・百爾西亜の三国のみ。其の三国の中、西人と通信せざるものは、唯、我が邦存するのみ。万々恐れ多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、西人より一視せば、我が邦は途上の遺肉の如し。餓虎渇狼の顧ざる事を得んや。もし英吉利斯交販の行はれざる事を以て、我に説て云はんは、『貴国永世の禁固く、侵すべからず。されども、我が邦始め海外諸国航海のもの、或ひは漂蕩し、或ひは薪水を欠き、或ひは疾病ある者、地方を求め、急を救はんとせんに、貴国海岸厳備にして、航海に害有る事、一国の故を以て、地球諸国に害あり。同じく天地を載踏して、類を以て類を害ふ、豈これを人と謂べけんや。貴国に於てはよく此の大道を解して、我が天下に於て望む所の趣を聞かん』と申せし時、彼が従来疑ふべき事実を挙て、通信すべからざる故を諭さんより外あるべからず。斯て瑣屑の論に落ちて、究する所、彼が貪□の名目生ずべし。西洋戎狄といへども、無名の兵を挙る事なければ、実に鄂羅斯・英吉利斯二国、驕横の端となるべし。

(後略)」
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