ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:長崎の鐘

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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、作曲家古関裕而の生まれた日です。
 古関裕而(こせき ゆうじ)は、福島県福島市大町において、呉服屋「喜多三(きたさん)」を営む父・古関三郎次と母・ヒサの長男として生まれましたが、本名は勇治(ゆうじ)と言いました。幼い頃よりレコードに親しみ、福島県師範附属小学校(現在の福島大学附属小学校)在学中から卓上ピアノで作曲を始めます。
 1922年(大正11)に福島商業学校へ入学、この頃「喜多三」は廃業しましたが、妹尾楽譜により本格的な作曲・編曲を始め、1926年(大正15)に福島ハーモニカ・ソサエティーに入り、1927年(昭和2)には、ペンネームを「裕而」とつけました。1928年(昭和3)に福島商業学校卒業後、川俣銀行に勤務、福島ハーモニカ・ソサエティーとともに、仙台中央放送局記念番組に出演します。
 1929年(昭和4)に舞踊組曲「竹取物語」ほか4曲をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等に入選しました。1930年(昭和5)に内山金子と結婚、「福商青春歌」を作曲、山田耕筰の勧めでコロムビア専属作曲家として上京、翌年には、早大応援歌「紺碧の空」を作曲、第一回レコード「福島行進曲」 「福島小夜曲(ふくしまセレナーデ)」が発売されます。
 1935年(昭和10)に「船頭可愛や」が初のヒット曲となり、1936年(昭和11)には、「大阪タイガースの歌」(通称:六甲おろし)を作曲しました。1937年(昭和12)に「露営の歌」を作曲、放送劇「当世五人男」初のドラマ曲を作曲、菊田一夫と出会います。
 1938年(昭和13)に中支へ従軍、1940年(昭和15)に「暁に祈る」を作曲、1942年(昭和17)に南方慰問団派遣員となり、1945年(昭和20)には、約1ケ月軍隊生活を送りました。敗戦後、NHK連続ラジオドラマ「山から来た男」で、菊田一夫とコンビを組み、1947年(昭和22)には、NHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の放送が開始(1950年まで)され、主題歌「とんがり帽子」を作曲します。
 1948年(昭和23)に全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」を作曲、1949年(昭和24)には、長崎の原爆投下に対する鎮魂歌「長崎の鐘」を作曲しました。1952年(昭和27)に大ヒットしたNHK連続ラジオドラマ「君の名は」の放送が開始(1954年まで)され、主題歌を作曲、1953年(昭和28)には、第4回NHK放送文化賞を受賞します。
 1956年(昭和31)に「忘却の花びら」がNHK連続ラジオドラマの最後となり、この後は菊田一夫とともに舞台活動へと転進しました。1964年(昭和39)に東京五輪用の行進曲「オリンピックマーチ」を作曲、1969年(昭和44)に紫綬褒章を受章、1972年(昭和47)には、札幌冬季五輪において「純白の大地」を作曲します。
 1973年(昭和48)に朋友の菊田一夫氏が亡くなり、芸術座公演「道頓堀」が名コンビの遺作となり、1979年(昭和54)には、福島市名誉市民となり、勲三等瑞宝章を受章、第31回レコード大賞特別賞を受賞しました。1980年(昭和55)に日劇にて作曲生活50周年記念ショーがあり、自伝「鐘よ 鳴り響け」を主婦の友社より刊行、妻金子が亡くなり、1986年(昭和61)には、30年間音楽を担当したNHKラジオ「日曜名作座」を健康上の理由で降り、作曲生活から引退します。
 1987年(昭和62)に「日曜名作座」を3人で30年間続けた業績に対し、森繁久彌、加藤道子とともに放送文化基金個人部門賞を受賞しました。1988年(昭和63)に画集「風景の調べ」を自費出版、福島市古関裕而記念館が開館しましたが、1989年(平成元)8月18日に、神奈川県川崎市の聖マリアンナ医科大学病院において、80歳で亡くなっています。

〇古関裕而の主要な作曲作品

・早大応援歌「紺碧の空」(1931年)
・「船頭可愛や」(1935年)
・「大阪タイガースの歌(通称:六甲おろし)」(1936年)
・「愛国の花」(1938年)
・「暁に祈る」(1940年)
・「若鷲(予科練)の歌」(1943年)
・鐘の鳴る丘主題歌「とんがり帽子」(1947年)
・全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」(1948年)
・「長崎の鐘」(1949年)
・「イヨマンテの夜」(1949年)
・ドラマ主題歌「君の名は」(1952年)
・「高原列車は行く」(1954年)
・東京五輪用の行進曲「オリンピックマーチ」(1964年)
・札幌冬季五輪用「純白の大地」(1972年)

☆古関裕而関係略年表

・1909年(明治42)8月11日 福島県福島市大町において、呉服屋「喜多三(きたさん)」を営む父・古関三郎次と母・ヒサの長男として生まれる
・1914年(大正3) このころ父親が蓄音機を購入、レコードを聴く
・1916年(大正5) 福島県師範附属小学校(現在の福島大学附属小学校)へ入学する
・1918年(大正7) 小学3年から6年まで担任遠藤喜美治先生に唱歌とつづり方を習う
・1919年(大正8) 卓上ピアノで作曲を始める
・1922年(大正11) 福島商業学校へ入学、この頃「喜多三」廃業、妹尾楽譜により本格的な作曲・編曲を始める
・1926年(大正15) 福島ハーモニカ・ソサエティーに入る
・1927年(昭和2) ペンネームを「裕而」とつける
・1928年(昭和3) 福島商業学校卒業後、川俣銀行に勤務、福島ハーモニカ・ソサエティーとともに、仙台中央放送局記念番組に出演する
・1929年(昭和4) 舞踊組曲「竹取物語」ほか4曲をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等に入選する
・1930年(昭和5) 内山金子と結婚、「福商青春歌」を作曲、山田耕筰の勧めでコロムビア専属作曲家として上京する
・1931年(昭和6) 早大応援歌「紺碧の空」を作曲、第一回レコード「福島行進曲」 「福島小夜曲(ふくしまセレナーデ)」が発売される
・1935年(昭和10) 「船頭可愛や」が初のヒット曲となる
・1936年(昭和11) 「大阪タイガースの歌」(通称:六甲おろし)を作曲する
・1937年(昭和12) 「露営の歌」を作曲、放送劇「当世五人男」初のドラマ曲を作曲、菊田一夫と出会う
・1938年(昭和13) 中支へ従軍する
・1940年(昭和15) 「暁に祈る」を作曲する
・1942年(昭和17) 南方慰問団派遣員となる
・1945年(昭和20) 約1ケ月軍隊生活を送る、NHK連続ラジオドラマ「山から来た男」で、終戦後初めて菊田一夫とコンビを組む
・1947年(昭和22) NHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の放送が開始(1950年まで)され、主題歌「とんがり帽子」を作曲する
・1948年(昭和23) 全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」を作曲する
・1949年(昭和24) 「長崎の鐘」を作曲する
・1952年(昭和27) NHK連続ラジオドラマ「君の名は」の放送が開始(1954年まで)され、主題歌を作曲する
・1953年(昭和28) 第4回NHK放送文化賞を受賞する
・1956年(昭和31) 「忘却の花びら」がNHK連続ラジオドラマの最後となり、この後は菊田一夫とともに舞台活動へと転進する
・1964年(昭和39) 東京五輪用の行進曲「オリンピック・マーチ」を作曲する
・1969年(昭和44) 紫綬褒章を受章する
・1972年(昭和47) 札幌冬季五輪において「純白の大地」を作曲する
・1973年(昭和48) 朋友の菊田一夫氏が亡くなり、芸術座公演「道頓堀」が名コンビの遺作となる、「暁に祈る」歌碑が信夫山第1展望台に建立される
・1979年(昭和54) 福島市名誉市民となり、勲三等瑞宝章を受章、第31回レコード大賞特別賞を受賞する
・1980年(昭和55) 日劇にて作曲生活50周年記念ショー、自伝「鐘よ 鳴り響け」を主婦の友社より刊行、妻金子が亡くなる
・1986年(昭和61) 30年間音楽を担当したNHKラジオ「日曜名作座」を健康上の理由で降り、作曲生活から引退する
・1987年(昭和62) 「日曜名作座」を3人で30年間続けた業績に対し、森繁久彌、加藤道子とともに放送文化基金個人部門賞を受賞する
・1988年(昭和63) 画集「風景の調べ」を自費出版、福島市古関裕而記念館が開館する
・1989年(平成元)8月18日 神奈川県川崎市の聖マリアンナ医科大学病院において、80歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、永井隆著の随筆『長崎の鐘』(日比谷出版社)が刊行された日です。
 『長崎の鐘』(ながさきのかね)は、長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)教授だった永井隆が自身の被爆体験を綴った随筆でした。その内容は、長崎市の原爆爆心地に近い長崎医科大学での原爆投下直後の状況と自身が重傷を負い、妻を亡くしながらも、被爆者の救護活動に当たる様子を記録したものです。
 タイトルは廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘から命名したものでした。この作品は、1946年(昭和21)8月には書き上げられていたものの、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲のため、すぐには出版許可が下りず、マニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、ようやく1949年(昭和24)1月30日に、日比谷出版社から出版されています。
 当時としては空前のベストセラーとなり、同年7月には、この書をモチーフとした歌謡曲が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売されて大ヒットしました。さらに、翌年9月23日には、松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画公開されています。
 以下に、永井隆著の随筆『長崎の鐘』の最初の3章を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇永井隆(ながい たかし)とは?

 昭和時代に活躍した医学者・随筆家です。明治時代後期の1908年(明治41)2月3日 島根県松江市において、医師であった父・寛と母・ツネの長男として生まれました。
 松江中学校を経て、松江高等学校に進み、1928年(昭和3)に卒業後、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学します。1932年(昭和7)に長崎医科大学卒業後、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻、助手として放射線物理療法の研究に取り組みました。
 1933年(昭和8)に幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍、翌年帰国し、大学の研究室助手に復帰、洗礼を受け、洗礼名をパウロとし、森山緑と結婚します。1937年(昭和12)に長崎医科大学の講師に就任したものの、日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征、1940年(昭和15)に日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章しました。
 1940年(昭和15)に長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任、1944年(昭和19)には、「尿石の微細構造」で医学博士号を授与されます。1945年(昭和20)6月に被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受け、同年8月9日の長崎原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たりました。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に長崎医科大学教授に就任しましたが、半年後には長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなります。闘病生活を送りながら、1948年(昭和23)に随筆『生命の河』、『この子を残して』、翌年に随筆『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行され、大きな反響を呼びました。
 同年7月には、この書をモチーフとした歌謡曲が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売されて大ヒット、さらに、翌年には、松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画化されます。1949年(昭和24)に長崎市名誉市民の称号を受け、翌年5月14日にローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜されたものの、1951年(昭和26)5月1日に長崎市において、白血病のため43歳で亡くなりました。

〇永井隆の主要な著作

・『生命の河』(1948年)
・『この子を残して』(1948年)
・『長崎の鐘』(1949年)
・『花咲く丘』(1949年)
・『ロザリオの鎖』(1949年)
・『乙女峠』(1951年)

☆永井隆関係略年表

・1908年(明治41)2月3日 島根県松江市において、医師であった父・寛と母・ツネの長男として生まれる
・1908年(明治41)秋 父の医院開業のため、一家で飯石郡飯石村(現在の雲南市三刀屋町)に移り住む
・1920年(大正9) 飯石小学校を優等で卒業し、島根県立松江中学校へ入学する
・1925年(大正14) 松江中学校を卒業して松江高等学校理科乙類に入学する
・1928年(昭和3) 松江高校を優等で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学する
・1931年(昭和6)3月29日 母・ツネが脳溢血で急逝する
・1932年(昭和7) 長崎医科大学を卒業し、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻する
・1932年(昭和7)11月8日 助教授に就任した末次逸馬の下で助手として放射線物理療法の研究に取り組む
・1933年(昭和8) 幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍する
・1934年(昭和9)2月1日 、出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰する
・1934年(昭和9)6月 洗礼を受け、洗礼名をパウロとする
・1934年(昭和9)8月 森山緑と結婚する
・1937年(昭和12) 長崎医科大学の講師に就任する
・1937年(昭和12)7月 日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征する
・1940年(昭和15)2月 日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章する
・1940年(昭和15)4月 長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任する
・1944年(昭和19)3月3日 『尿石の微細構造』で医学博士号を授与される
・1945年(昭和20)6月 被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける
・1945年(昭和20)8月9日 長崎市への原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たる
・1946年(昭和21)1月 長崎医科大学教授に就任する
・1946年(昭和21)7月 長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなる
・1946年(昭和21)11月17日 長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行なう
・1948年(昭和23)4月30日 随筆『この子を残して』を脱稿する
・1948年(昭和23)10月18日、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる
・1949年(昭和24)1月30日 『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行される
・1949年(昭和24)5月27日 昭和天皇に拝謁する
・1949年(昭和24)7月 歌謡曲『長崎の鐘』が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売される
・1949年(昭和24)9月30日 長崎医科大学教授を退官する
・1949年(昭和24)12月3日 長崎市名誉市民の称号を受ける
・1950年(昭和25)9月23日 『長崎の鐘』が松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画公開される
・1950年(昭和25)5月14日 ローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される
・1951年(昭和26)5月1日 長崎市において、白血病のため43歳で亡くなる

〇永井隆著『長崎の鐘』(抄文)

その直前

 昭和二十年八月九日の太陽が、いつものとおり平凡に金比羅山から顔を出し、美しい浦上は、その最後の朝を迎えたのであった。川沿いの平地を埋める各種兵器工場の煙突は白煙を吐き、街道をはさむ商店街のいらかは紫の浪とつらなり、丘の住宅地は家族のまどいを知らす朝餉の煙を上げ、山腹の段々畑はよく茂った藷の上に露をかがやかせている。東洋一の天主堂では、白いベールをかむった信者の群が、人の世の罪を懺悔していた。
 長崎医科大学は今日も八時からきちんと講義を始めた。国民義勇軍の命令の、かつ戦いかつ学ぶという方針のもとに、どの学級も研究室も病舎も、それぞれ専門の任務をもった医療救護隊に改編され、防空服に身を固め、救護材料を腰につけた職員、学徒が、講義に、研究に、治療に従事しているのだった。いざという時にはすぐさま配置について空襲傷者の収容に当たることになっており、事実これまで何回もそうした経験がある。ことに、つい一週間まえ大学が被爆した時など、学生には三名の即死、十数名の負傷者を出したけれども、学生、看護婦の勇敢な活動によって、入院・外来患者には一人の犠牲者も出さなかったほどである。この大学はもう戦になれていた。
 警戒警報が鳴りわたった。病院の大廊下へ講堂から学生の群が流れだし、幾組かのかたまりになってそれぞれの持ち場へ散っていった。本部伝令がいちはやくメガホンで情報を叫びながら廊下を走り去った。相変わらず今日も南九州に大規模な空襲があるらしい。引きつづいて空襲警報が鳴りだした。空を仰ぐと澄みきった朝空にちかちか目を射る高層雲が光り、どうやら敵機の来そうな気配がする。目に見えぬ音波がうす気味わるく、あとからあとからあちこちのサイレンがうなり出す。もうわかってるよ、そんな不吉な音はもう真っ平だと耳を押さえたくなるまで、うなっては休み、うなっては休む。これは少なくとも勇気を振るいおこす音ではない。
 さるすべりの花が真っ赤だ。夾竹桃の花も真っ赤だ。カンナはまったく血の色だ。病院の玄関を待機所にさだめられている担架隊の医専一年生たちが、この赤い花の陰の防空壕にひそんで、いざという時を待ちかまえている。
「一体全体、戦況はどうなんだろう」鹿児島中学から来たのがいう。
「俺が同級生もずいぶんたくさん予科練でいっとるばって」
「友軍機はどないしとるんやろ」大阪弁が壕のなかから聞こえる。「つまらへんな。こんなこっちゃ、なんぼう頑張ってもあかんで」
 誰も返事をしない。この大阪の考えていることにうすうす気づいていないでもないのだが、しかし祖国日本は今生死の関頭に立っているのではないか。戦争は勝つために始めたにちがいない。まさか負けるつもりで、政府がこんな悲劇の幕を開けたのではなかろう。しかし、サイパン失陥いらい大本営発表の用語に、なにか臭い陰影を帯びていることが、敏感な学生にいつとはなく、ある不安を起こさせていたのは事実である。
「おい、級長、どう思う。この戦争はどうなる」大阪弁の男が壕のせまい口から赤い顔をだした。ロイド眼鏡をかけている。なるほどこれは蛸壷だ。
 級長藤本はさっきから青桐の下に腕組みをしたまま突っ立って、じいっと空をにらみつづけていた。小柄ながら肝のすわった男で、鉄兜から黒巻脚絆のきりりとしまった脚の先まで隙もない厳重な身固め、これまで何回となく血の中から負傷者を担ぎだした体験は、よく級友の輿望をあつめて、この小男が先頭きって飛びこむ煙の中へ、級友は一つの玉になって突っ込んだものだった。おやじの望遠鏡を持ちだして腰につけている。敵機が頭上に来るとそれをおもむろに取りだし、首をぐるぐる回しながら、敵機の行動を報告するのが、この男の趣味である。
「級長、どうなるんやろ、戦争は」大阪がしつこく繰り返した。
「戦争をどうするか――だ」藤本が押さえつけるようにいった。「戦争によって僕たちの運命が決められるんじゃない。僕たちによって戦争の運命が決められるんだ。僕たち相戦う若い者、アメリカの学生と日本の学生との力比べによって、勝利がどちらへ転ぶかが、決まるんだ」
「でもなあ、あんまりやないか、近ごろのざまは。物量の差がひどすぎるさかい、僕らのちっぽけな努力なんざあ、屁にもならん」
「そりゃそうかもしれんたい。しかしだ。とにかく今この下の町へ爆弾が落ちたら、理屈も議論もなか。すぐ飛びだしていって、血止めをせにゃならん。僕は最後まで僕の本分を尽くすばい」藤本が決然といい放った。大阪は納得しなかった。そこへ大きな角材をかついで副級長がやって来た。副級長は小倉中学出身で黙々と仕事をする男、今も監視壕の補強工事のため独りで汗を流しているのだった。
「敵がほんまにここへ上陸して来よったら、どないするん、おい、副級長」
「死生命あり」小倉の男は腰から扇子をとって汗をあおぐ。「生きるも死するも、人に笑われんごと」
 ひっそりとなった。さるすべりも夾竹桃もカンナもよどんだ血のように動かない。その中を脈打つような蝉の声が向こうの山王神社の大楠から流れてくる。
 この日は防空当番教官にあたっていた私が、病院の玄関から入って大廊下を裏門まで見回る。どの病室の入口にも甲斐甲斐しく服装をととのえた看護婦、学生が身構えしている。
 バケツは水でいっぱいだ。水道ホースも延びている。火叩き、鳶口、スコップ、鍬、いざといえば焼夷弾ぐらいはとばかり揃っている。入院患者は防空壕の中へ静かに運ばれてゆく。ラジウム室の前で医専三年の上野君にあう。この男はなかなか勇敢だ。この間の空襲で、婦人科から発火した時は隣の皮膚科の屋上に独りいて、監視の重任を果たしたのだった。私らが婦人科の炎にバケツをもって駆けつけた時、まだ敵機は続いて急降下爆撃をしていたが、上野はその弾の落ちてくる中で「おーい、敵機頭上通過、大丈夫、出て来い、燃えよっぞ」とか、「また来たぞ、落としたぞ、退避、危ないぞ」とか、いちいち叫んで、指導した。
「がんばれよ」と、私は礼を返しながらいった。上野は、はにかんで頭をかいた。
「このあいだは、お袋から叱られましたたい。人様の目につくことをしてよか気になるもんじゃなか。もう子供じゃなかけん……、と」
 裏門には手押しポンプ隊がたむろしていた。すべては、焼夷弾と爆弾とに対してはまずまず大丈夫であった。私は満足して、こんどは病棟の東側を通ってみた。このあいだの爆弾にやられた外科、婦人科、耳鼻科のあとは、人の体の怪我よりもむごたらしかった。その傍らには、ここにもまた夾竹桃が血の色に咲いていて、ひっそりと石炭酸が匂っている。私はふっと不吉な予感を覚えた。
 警報解除のサイレンが、身体じゅうの疑いを解いてくれるためのように鳴りわたった。教室へ帰ってくると、皆ががやがやいいながら鉄兜の紐をほどくところであった。情報係の井上看護婦が、くりっとした眼をなおさらくるくるさせて、ちょっと小首を傾けながら「九州管内敵機なし」とラジオのいったとおりを報告した。赤らんだ頬に軽く汗が浮いて、髪の毛が三すじくっついている。
「ただちに授業始め!」本部伝令が、また叫んで通った。学生はそれぞれ教室に入り、大学は再びひっそりした真理探究の象牙の塔となった。病院の臨床学科のほうは患者が受付に押しよせて、予診をとる学生の白衣がその間を縫うて動いている。私の教室と廊下を隔てた向かい側の内科では、学長角尾教授の臨床講義の快い口調が扉からもれてきている。

原子爆弾

 地本さんは川平岳で草を刈っていた。ここからは浦上が西南三キロのやや斜め下に見おろされる。浦上の美しい町と丘の上に、真夏の太陽はこともなげに輝いている。地本さんは突然妙な微かな爆音を耳に聞きとめた。鎌をもったまま腰をのばして上を仰いだ。空は大体晴れていたが、ちょうど頭の上には手のひら形をした大きい雲がひとつ浮いている。爆音はその雲の上だ。しばらく見ていると出た。B29だ。手のひら雲の中指にあたるその突端から、ポツリ銀色に光る小さな機影、高度八千メートルくらいかなあと思って見ていたら、あっ落とした。黒い一つの細長いもの。爆弾、爆弾、地本さんはそのままそこへひれ伏した。五秒、十秒、二十秒、一分、時間は息をつめているうちに、だいぶん経過した。
 ぴかり、いきなり光った。大した明るさだった。音は何もしない。地本さんはこわごわ首をもたげた。やった。浦上だ。浦上の天主堂の上あたりに、つい今までなかった大きな白煙の塊が浮かんでいて、それがぐんぐん膨張する。それにもまして地本さんが肝をつぶしたことには、その白煙の下の浦上の丘を山原をこちらへ向けて猛烈な勢いで寄せてくる一つの浪があるのだ。丘の上の家といわず、ありとあらゆるものを将棋倒しに押し倒し、粉砕し、吹き飛ばしつつ、あ、あ、あっという間に、はや目の前の小山の上の林をなぎ倒し、この川平岳の山腹を駆け上がってくる。これはなんだ。まるで目にみえぬ大きなローラーが地ならしをしてころがって来るとしか思われない。今度こそは潰されると地本さんは両手を合わせ、神様神様と祈りながら、またも地面に顔を押しつけた。ががが――とすさまじい響きに耳が鳴ったのと、ひれ伏したままの恰好でふわりと吹き飛ばされたのとが同時だった。五メートルばかり離れた畑の石垣にいやというほど叩きつけられ、地本さんは目をあけて見回した。あたりの立木がみんな目通りの高さからぽきぽき折り倒され、木といわず草といわず、葉はみんなどこへ消えたのやら――さむざむと松脂が匂うばかり。
 古江さんは道ノ尾から浦上へ帰る途であった。ちょうど兵器工場の前を自転車で走っているとき、妙な爆音を聞いたような気がした。ひょいと頭をあげたら、松山町の上あたり、大体稲佐山の高さぐらいの青空に、一点の赤い火の玉を見た。目を射るほどの光輝はなく、ストロンチウムを大きな提灯の中で燃やしているような真っ赤な火の玉だった。それがすーっと地面に近づく。なんだろうと眼鏡に片手をかけて見直す瞬間、すぐ目の前にマグネシウムを爆発させたと思われるばかりの閃光が起こり、身体が宙に浮いた。……水田の中に、これもまた吹き飛ばされた自転車の下敷きとなっている自分に古江さんが気づいたのは、何時間か後であり、一方の目はすっかり盲目になっているのを知った。

 浦上から七キロ離れた小ヶ倉国民学校の職員室で、田川先生は防空日誌に今朝の警報記事を書きこんでいたが、ちょっと顔をあげて窓の外へ目を休めた。目の前に小さな山裾があって、その上に長崎港の空が青かった。その青空が瞬間さっと輝いたのである。その光は鋭く眼を射た。真夏の真昼間の太陽の明るさがその次の瞬間にひどく暗いものに感じられたのだったから、この光度は太陽の何倍かであったにちがいない。昼間に照明弾とはこれいかにとつぶやいて田川先生は腰を浮かしたが、突然異様な物を認めた。「あれ、あれ、あれ、なんだろう」田川先生の叫びに職員室じゅうの先生がたは窓へ走り寄った。長崎の浦上あたりの上空に一点の白雲があらわれ、それが横のほうへも上のほうへも、ものすごい勢いでむくむくむくむくと膨張してゆくではないか。「なんだ、なんだ」と騒いでいるうちに直径一キロ以上のふくれた饅頭ができた。そのとき、だあーんと爆風が到達し、職員室は震駭し、皆はばらばらと硝子片を引きかむった。
「爆弾投下、校舎に命中、退避」田川先生はこう叫んで、そのまま裏山の防空壕へ飛びこんでしまった。そして、ちょうどこの時刻に浦上の自宅では、妻と子供たちが自分の名を呼びながら息絶えつつあることを神ならぬ身の知る由もなく、田川先生は、ぽつねんと冷たい土の中に座っていた。

 大山という地区は長崎港の南、八郎岳の山腹にあって、浦上から八キロ離れている。ここから望むと、浦上の盆地は長崎港のさらに向こうにうっすら霞んで見える。加藤君は牛をつれて草原に出ていた。ぴかりを見たのは、緑の中に草苺の光るのを見つけて一つ二つ頬ばったところだった。びっくりして牛も首をあげた。浦上の空に白い、濃い濃い綿のような雲が生まれ、ぐいぐいと大きくなる。その色はちょうど提灯を綿につつんだようで、外のほうは白かったが、中には燃える赤い火を含んでいた。その白い雲の中には、その他にちかちかちかちかと、美しい放電がひっきりなしに起こっていた。その小さな稲妻の色は赤や黄や紫やさまざまの美しさだった。この新しい雲は饅頭形になり、やがてそのまま上へ上へと昇って、松茸みたいな形になった。そのころ、今度はその白雲の真下の浦上の谷一面から黒い土煙がむくむくと吸い上げられて昇った。上の松茸雲は高く高く青空高く上り、その上で崩れて東に向かって流れ始めた。下の土煙も山より高く上って、その一部は下へまた散り落ち始め、一部は東のほうへ流れた。どこもよく晴れて太陽の光は山と海とを照らしていたが、この雲の真下の浦上だけは大きな雲の陰となり、真っ黒に見えた。やがて、どん! ととどろいて、着物があおられ、木の葉が吹き飛ばされたが、爆風もここまで来るとよほど弱くなっていて、牛があばれだすほどではなかった。しかし加藤君もまた、もう一発の爆弾がすぐ近くに落ちたにちがいないと思った。

 高見さんは牛をひいて木場へ帰ろうと浦上から二キロの踊瀬の道を歩いていて、「ぴか」にやられたのであった。ぴかと光った時に、火鉢にあたるほどの熱さを感じたのだったが、牛も自分も熱傷を受けた。そのあとへ、しゅうとうなって火の玉の雨が降ってきた。その一つは足にあたった。そこで白煙をあげて消えたが、パラフィン蝋燭を吹き消した後のような匂いがした。この火の玉であちらこちらに火事が起こった。

爆撃直後の情景

 大学は爆弾破裂点から三百メートルないし七百メートルの範囲に建物を並べていた。まず爆心圏内にあるとみてよい。基礎医学教室は、爆弾にも近かったし、木造だったから瞬間に押し潰され、吹き飛ばされ、燃やされて、教授も学生も皆死んだ。臨床医学教室のほうは、少し遠かったのとコンクリート建だったために、運よく生き残った者もいくらかはいた。
 時計は十一時を少し過ぎていた。病院本館外来診察室の二階の自分の室で、私は学生の外来患者診察の指導をすべく、レントゲン・フィルムをより分けていた。目の前がぴかっと閃いた。まったく青天のへきれきであった。爆弾が玄関に落ちた! 私はすぐ伏せようとした。その時すでに窓はすぽんと破られ、猛烈な爆風が私の体をふわりと宙に吹き飛ばした。私は大きく目を見開いたまま飛ばされていった。窓硝子の破片が嵐にまかれた木の葉みたいにおそいかかる。切られるわいと見ているうちに、ちゃりちゃりと右半身が切られてしまった。右の眼の上と耳あたりが特別大傷らしく、生温かい血が噴いては頸へ流れ伝わる。痛くはない。目に見えぬ大きな拳骨が室中を暴れ回る。寝台も、椅子も、戸棚も、鉄兜も、靴も服もなにもかも叩き壊され、投げ飛ばされ、掻き回され、がらがらと音をたてて、床に転がされている私の身体の上に積み重なってくる。埃っぽい風がいきなり鼻の奥へ突っ込んできて、息がつまる。私は目をかっと見開いて、やはり窓を見ていた。外はみるみるうす暗くなってゆく。ぞうぞうと潮鳴のごとく、ごうごうと嵐のごとく空気はいちめんに騒ぎ回り、板切れ、着物、トタン屋根、いろんな物が灰色の空中をぐるぐる舞っている。あたりはやがてひんやりと野分ふく秋の末のように、不思議な索莫さに閉ざされてきた。これはただごとではないらしい。
 私は爆弾、少なくとも一トンくらいの大型が病院の玄関付近に落ちたと、さらに判断を新たにした。怪我人は約百名だ。これをどこへ送って、どう処置するか、とにかく教室員を集めなければならぬ。その教室員もおそらく半数はやられているだろう。とにかくこの埋没から脱け出さねばと、膝を動かし、腰を突っ張って苦心しているうち、すうと暗くなって、両眼ともすっかり見えなくなってしまったのである。これには弱った。はじめは眼のあたりに怪我しているのだから、眼底付近に出血でもしたのかなと思ったが、目玉を動かしてみると動く。眼が見えなくなったのではないと決まったら、はじめて慄然とした。すっかりこの建物が倒壊して生き埋めになったにちがいない。生き埋めとはまた張り合いのない、だらしない死に方を与えられたものだ。とにかくできるだけやってみようと、物の破片の底でごそりもそりと命がけのもがきを続ける。しかし、せんべい焼きにはさまれたせんべいのように、かくもびっしゃり圧しひしゃがれていると、身体のどこを支点にどう動こうかと考えることもできない。顔もうっかり動かされない、そこら一面硝子破片のペーパーだ。その上真っ暗闇で、自分の上にどんな物がどんなふうに平衡を保って乗っているのやらわからない。ちょっと右肩を動かしたら、なんだか知らぬが、がらがらと崩れ落ちた。私は「おーい、おーい」と呼んでみた。その声は、まったくわれながら情けない響きを闇の中へ伝えていった。
 隣のレントゲン撮影室には橋本看護婦がいた。運よく図書棚の間にいたので、かすり傷ひとつ負わなかった。万物が魔法によって生物となったかのように、がらがらとものすごく跳ね回る恐ろしい時間は、壁によりそってじっと隠れているうちに、十秒二十秒と経過して、あたり一面埃と土煙とが咽喉をふさぐほどに立ちこめてはいたが、大きな品物は大体また床の上か地の上へ落ちついたらしかった。橋本君はさて救護だと崩れた図書棚の裏からはいだして、あっとたまげてしまった。なにもかも滅茶苦茶だ。がらくたを踏み越え窓から顔を出してみて、さらにどきっと胸を衝かれた。これは一体どうしたというのだ。つい今の今先まで、この窓の下に紫の浪と連なっていた坂本町、岩川町、浜口町はどこへ消えたのか? 白く輝く煙をあげていた工場はないではないか? あの湧き上がる青葉に埋まっていた稲佐山は赤ちゃけた岩山と変わっているではないか? 夏の緑という緑は木の葉、草の葉一枚残らず姿を消しているではないか? ああ地球は裸になってしまった!
 玄関車寄せに群がっていた人々は? と見おろす広場は、所狭いまでに大小の植木がなぎ倒され、それにまざって幾人とも数えきれぬ裸形の死人。橋本君は思わず両手で目をおおった。地獄だ、地獄だ。呻き声ひとつたてるものもなく、まったく死後の世界である。目を押さえているうちにすっかり暗くなってしまった。目をあけて首を回してみるけれども、物音ひとつせず、糸ひとすじも見えぬ真の闇。この世の中にただひとり生き残ったと思ったとたん、背筋がずーんとして足がすくんでしまった。死神の爪はやがて私の頸筋をつかまえるだろう。ふるさとの家がぼうと見えた。母の顔が見えた。橋本君はわっと声をあげて泣きだそうとした。まだ十七歳の女の子だった。と、その時「おーい、おーい」と呼ぶ声が聞こえてきた。すぐ近くの足もとらしくもあり、何枚か壁を隔てた向こうらしくもある。「おーい、おーい」また叫んだ。部長先生の声だ。部長先生が生きている。先生と二人生き残っているのなら、あれだけの玄関の死人の処置もやれるにちがいない。橋本君はたちまち、べそをかく小娘から勇敢な看護婦にたちかえった。そうして声をたよりに隣の室へ行こうとすると、レントゲン撮影台らしい物やら電流コードやら、闇の中のゆくてを阻んで足を運ぶことができない。スコップを置いてあった隅へ手さぐりで行ってみると、どこへ飛ばされたのかなくなっていて、その代わりにメガホンが手に触れた。階下の透視室には鍬もあり、婦長さんたちもいるのを思い出し、これはみんなの加勢を受けるほうがよいと判断して、撮影室を出て行った。毎晩灯火管制で歩きなれた廊下ではあったが、二、三歩行くと、ぐにゃりとしたものにつまずいた。しゃがんで撫でてみると人間。べっとりと血らしいものが手のひらについた。腕を伝わって手首を握ってみると、脈はない。かわいそうに、橋本君は合掌をして、そこからまた二、三歩行くと、またも倒れている人につまづいた。髪がぬらりと手首にねばりつく。まだあたりは真っ暗だ。この闇の、私のまわりに一体何人死んでいるのだろう。橋本君は脈をさぐりながら見えぬ目を開いて、あたりを見回した。
 突然ぽうと赤くなった。窓の外で火が燃えだしたのだった。ちろちろと炎は次第に大きくなる。そのうす赤い火に照らしだされた目の前の光景は! 橋本君は思わず死人の脈を手放して突っ立った。広い病院の廊下に赤い逆光線を受けて、転がっている人の肉体。うつ伏し、横ざま、あおむけ、膝をまげているのもあり、虚空をつかんでいるのもあり、立とうともがいているのもある。橋本君はこれは独力では手がつかぬ。まず救護隊が集まり、組織的な団体活動でなければだめだと悟った。それではとにかく皆を部長先生の埋まっている所へ集めよう。ご免ね、ご免ね、とことわりをいいながら死人をとび越えて、階段を透視室へと下っていった。

 透視室の連中はレントゲン透視台を組み立てている最中だった。びゅうんと奇妙に甲高い爆音を聞いた。看護婦生徒の椿山が「あれ、なんでしょう?」という。「ありゃB29の爆音たい」せっせとペンチを動かしながら技手の史郎がいう。「爆弾落としたぜ」このあいだの爆撃で腿をやられた経験のある長老技手がいう。「かくれようか」「うん」「婦長さん、退避、退避」三人は大きな卓の下へもぐりこんだ。ぴかっ、どん! と来た。「また落ちたばい」史郎の声もがちゃがちゃ室中を暴れ回る爆風にもみ消されてしまう。みんなじっと鎮まるのを待った。椿山が呼吸をしない。「おい、やられたかい?」「いや、あなたは?」「どこも痛くねえ」「おーい、婦長さあん!」大声で呼んでみる。「はーい」とすぐ隣の部屋からいつものとおり愛嬌のいい返事が返ってきた。「ちょっと待ってくださいよ。何やかや私の上に乗っかってるんですもの」
 そのうちに汽車がトンネルにはいる時のように、あたりはごうごううなっていながら、真っ暗になってしまった。向かい合っている椿山の白い顔がたちまちなくなった。
「これは一体なんだい?」長老の声。
「新型爆弾だぞ、例の広島の」史郎の声。
「いや、太陽が爆発したんじゃないかな」長老。
「うん、そうかもしれん。急に気温が下がったごたる」史郎が考え考えいう。
「太陽が爆発したら、世界はどうなります?」
 椿山看護婦がおろおろ声で尋ねた。
「地球も終わりさ」長老がぼっさり答えた。みんな黙って待っているが、やっぱり明るくならない。一分たった。闇の中で時計の秒を刻む音が印象深い。
「それで、ひるめしはどうする?」史郎。
「さっき食っちまったさ。お前持っとるか?」
 長老がこの世の名残りに一口食いたそうにいう。
「うん、死なぬうちに分けて食おうや」
 すると汽車がトンネルを出る時のように、あたりが静かになりながらすうと明るくなって、長老の白い歯が見え、史郎の長い鼻が見え、椿山のちっちゃいえくぼも見えてきて、「ああ、太陽は大丈夫だったんだなあ」と史郎がいい、「しかし昼飯は分けておくれよ」と長老がいって、三人は窮屈な卓の下から、硝子の粉、機械の断片、椅子の残骸、電線の網の中へはいだしてきた。
「いったいどこへ落ちたんだろう? これだけ壊すにはこの室に命中しなきゃならんはずだが、天井に孔もあいとらん」
「爆弾の落下音を聞いたかい?」
「いや聞かなかった」
「それじゃ……空中爆雷かしら?」
「とにかく、すごいやつだぜ、こいつは」
 そこへ隣の室から久松婦長さんが手まりみたいな姿をあらわした。乱れた髪の毛を両手で撫でつけながら「みんな大丈夫?」と聞いた。その後から看護婦生徒の一年生が飛び出して、婦長の腰にしがみついて泣き始めた。
「お馬鹿さんだね、あんた。生きとるじゃないの」
 一年生がしゃくりあげた。友だちが、すぐそばで死んだらしい。
「さあさ、防空頭巾をかむって、繃帯袋を捜していらっしゃい」
 久松婦長さんは、しゅうしゅうと水を噴いている水道管の所へ行って両手を丁寧に洗い、顔を洗い、うがいをした。「なんだかガスを吸ったような気がする」といい、肺の奥まで洗いたいような勢いで、四回も五回もうがいをした。
「椿山さんも来て手を洗いなさいよ。そんな土だらけの汚い手でガーゼを扱ったら、傷がすぐ化膿します。友清さん、あんたも顔と手を洗いなさい。施さん、さっさと用意をしてくださいね。負傷者はだいぶん多いようです」婦長さんが手を拭き拭きいった。
 友清史郎君は「はあ」と答え、施長老は「おい」と答えて、すぐに準備にとりかかった。
 ぱちぱち音が聞こえる。窓際へとんでいった椿山君が「火事です、火事です」と叫んだ。五人はそこに転がっていたバケツを拾うなり水槽へ我おくれじと駆けだした。旧レントゲン教室の疎開跡のまだ材木を片づけていない広場は、まだ炎のたけは低いけれども一面火の海である。五人はかねて防空演習でやりつけたとおり、一方の隅からバケツの水をぶっかけ始めた。しかし火の手はここばかりではなかった。病院の廊下はすっかり吹きとんで跡形もなく、食堂も潰れて一面に火を噴いている。残っているのはぽつんぽつんとコンクリートの病棟ばかり。木造の建物はすべてなくなって、その代わりに炎がたっている。しばらく水をかけていたが、消える面積よりは燃えひろがるほうが速い。とてもバケツ注水では間にあわぬという見通しがついた。
「機械を取り出そう」史郎がいった。
「負傷者の手当てをしよう」と長老がいう。
「入院患者を避難させましょう」と椿山がいう。
 炎はみるみる黒煙をあげて大火になる勢いを見せる。
「部長先生の指揮を受けましょう」と久松婦長がいった。
 そこへ橋本君があらわれた。
「部長先生が生き埋め」皆顔をみ合わせる。
「まあ、あんげん太かとば、どんげんするえ?」と小さい椿山がもらした。
「大丈夫、よかよか」
 長老がそういいざま走りだした。橋本のあとから五人は木を越え机を越え、手をひき、ひかれつつ撮影室へと駆けあがる。正常の通路は潰れ、塞がれ、通れないので、窓をのり越え、パイプにつかまり、回り回って、おやじ救出に走ってゆく。薬局の高窓をのり越えるには人梯子をつくらねばならなかった。長老がガス・メーターをつかんで台になり、その上に史郎君が重なり、その膝、背、肩と伝って、婦長さんも橋本君も椿山君も、よじ登って高窓を越えた。それから史郎がとび上がり、最後にみんなで長老の長い手長海老みたいな両手をひっぱったら、「おっこらしょ」と、いつもの癖の掛け声を出してとび上がってきた。

 現像室では施先生が肺のレントゲン写真をちょうど現像タンクから引き出すところだった。裏山に立っている対空監視の学生が「怪しい飛行機が頭上に侵入しまあす。退避、退避」と突然怒鳴るのを聞いた。妙に甲高い爆音をその次に聞いた。急降下爆撃だと考えてその場に伏せたが、写真が駄目になってはならぬと水洗いして定着タンクに静かに入れた。それから伏せようとするのと、どかんと潰されたのとが同時だった。気がついた時にはぴっしゃり胸を何か材木で挟まれて床にのびていた。どうにかこうにか動いてみると、腰が自由になり、両腕がわがものとなり、それを使って順々に自分の上に積み重なった木材をとりのけて抜け出すことができた。定着タンクの中の写真はどうなったろうと見回すが、眼鏡がとんでしまって、あたり一切はピントがぼけている。そばでいっしょに仕事をしていた森内君はどうしたろう。何べんも呼んでみるが返事がない。そこらの木材の下を捜しても、手もなく足も見えない。うまくはい出したものらしい。がらくたの山を越え、廊下に出てみてびっくりした。まるで知らぬ家へはじめて来たようだ。何もかも様子が変わっている。眼鏡がなくなったせいかしら、と二度も三度も眼をこすっては見回した。

 これまでの話は、コンクリート建築物の中にいて放射線の直射を受けなかった幸運の仲間についてである。屋外にいた者はどうであったろうか。清木先生は、薬学専門部の裏の防空壕を学生と一緒にせっせと掘っていた。先生が掘り役で、学生はその土を外に運び出していた。ちょうどその瞬間、壕の外へ出ていた者は死のくじを引き、中へ入っていた者が生のくじに当たろうとは、誰が予知していたであろう。みんなパンツ一枚の姿でせっせと土に挑んでいた。ここは爆心点から四百メートル。
 ぴかっと壕の奥の土が輝いた。どーと鳴った。壕の入口に笊を持っていた富田君がぷーっと壕の奥へ吹きこまれ、そこにしゃがんで鍬を振っている清木先生の背にどしんとぶつかった。「なんだ。何事だっ!」清木先生は怒ったように叫んで振りむいた。富田君の後ろから木片や布や瓦ががちゃがちゃと飛びこんでくる。大きな角材が先生の背中にどしんと当たり、先生はそのままぱったり泥の上に倒れた。
 幾分か経過したらしい。炎と煙とが渦巻いている壕の中に倒れている自分を、清木先生ははっと意識した。熱い空気がごうごうと壕の中へ吹きこむ。先生はよろめく足をふみしめ、死にもの狂いでその炎を突破した。一気に壕口に届いて、「やれやれ助かった」……と、眼をみはって、口をあんぐりあけたまま、さっきから握りしめていた鍬が手から落ちるのも知らず、その場に呆然と立ちすくんでしまった。
 薬学専門部の大きな幾棟かの校舎がない! 生化学の教室がない! 薬理教室もない! 柵もない! 柵の外の民家は? これもない! 何もかもなくなってしまって、一面の火の林!
 原子を専攻していた理学博士の清木先生もこの瞬間に、これは原子爆弾だ、とは気がつかなかった。まさか米国の科学陣が今日ここまで成功していようとは想像していなかったのである。
 学生は? 清木先生は足もとへ眼を転じ、いきなり氷水をぶっかけられたかのように、全身が凍るのを感じた。この物体のようにころがされているのが私の学生なのか? いや、私はさっき壕の中で背中をやられたっきり、まだ意識を回復していないのだ。悪夢だ、悪夢だ。こんな悲惨な事実が、たとい戦争とはいえあり得るはずがない。先生は腿をつねってみた。自分の脈を握ってみた。どうしても自分の肉体は目醒めているらしかった。これが悪夢でないとしたら一体何だろう。悪夢以上に悪い夢にちがいない。
 先生はまず足もとの黒変した肉体に飛びついた。「おい、おい」返事がない。両肩に両手をかけて引き起こそうとしたら、皮がぺろりと水蜜桃のようにはげた。岡本君は死んでいた。その隣のが「うーん」と呻いて反転した。「村山君、村山君、しっかりしろ」先生はべろべろに皮のはげた学生を膝に抱いた。「先生、ああ、先生」そういったきり村山君ががくっとなった。「あーあっ」先生は深い溜息をつき、村山君の冷えゆく裸身を土の上に横たえ、合掌して、次の荒木君の上にしゃがんだ。荒木君は南瓜のようにぶくぶくに膨れ上がり、ところどころ皮のはげた顔の中に、細い白い眼をみひらいて、「先生、やられました」と静かにいった。「もう駄目らしいです。お世話になりました」
 耳と鼻から血の流れ出ているのがある。頭蓋底をやられて即死らしい。よほど強く地面に叩きつけられたのだろう。口から血泡を吹いているのもある。富田君がその間を水をのませ、言葉をかけつつ、敏捷に立ち回っている。自分の力で動ける者は独りもいない。まだ呻いているからこの学生の次に行って診てやろうと思っているうち、急に黙ったと思ってひょいと見ると、もう目玉を白くひっくり返してしまう。こうして二十人ばかり次々と息絶えていった。二人ではとても救護はできぬ。誰か加勢をしてくれないだろうかと、清木先生は、「おーい、誰か来てくれ!」と北を向いて叫び、東を向いて叫び、西に向かって呼んでみた。じっと耳をすましていると、大気はいまだ安定を回復していないものとみえて、方向の定まらぬ突風が時の間をおいてごーっと吹き回り、その風の音にまじって、そこらのおし潰された屋根の下から、声を限りに助けを求めているのが聞こえる。「助けてくださーい」「苦しいよう」「誰か来てー」「熱いよう、焼けるよう、水かけてー」「お母さーん」
「お母さーん!」
 先生はめまいを感じてまた倒れた。しばらくして目をあけてみると、空いちめん固体のように濃厚な魔雲に埋められ、太陽は光を失い、赤ちゃけた円板に見える。あたりは日暮れのようにうす暗く、ひやりと寒かった。耳をすまして聞くと、助けを求める声はいくつか減って、お母さんを呼ぶ幼児は、もう焼け死んだらしかった。

 一年の学生はしずかにノートをとっていた。まだ耳なれぬラテン語の解剖学の講義を受けている自分が、なんだかもう一人前の医者になったような気がして、自分の書いた横文字を自ら誇りたげに見送りながら教授の言葉を追ってペンを走らせていた。かっと光り、どっと潰れた。教授の声がまだ途切れていなかった。頭を上げてあたりを見るひまもなかった。教室にきちんと並んで座ったまま、その位置で重い屋根の下に埋められてしまったのである。級長藤本君は、腰を梁か何かで軽く挟まれている自分を見いだした。しかし真っ暗だ。塵と土煙とを吸いこんではむせて咳をした。机と机との底の狭い空間で、ようやく我が身の自由をとりもどした。すぐ横でうんうん呻いている。おーいおーい、と呼ぶのもいる。しかし八十名の級友のうち、声を数えるといくらも生き残っていないらしい。そのうちに狭い木材の隙間からすうと物の焼ける匂いが流れこんできた。やがて熱っぽい、いがらっぽい煙が流れこんできた。火が燃え始めたらしい。まごまごできぬと焦り始めた。上へぬけ出そうと押してはみるが、梁やら桁やら、椽やら、瓦やら土やら積み重なっていることとて、いっかな動きそうにもない。ぱちぱち近くで火の燃え上がる音がする。焦眉の急とはまさにこの状態であったのか。押してみる、突いてみる、頭と肩と背とを当てて満身の力で伸びようとするが、びくとも動かない。力学を考えてやってみる。重力の大きさをむなしく計算してみる。がらくたの隙間から吸いとる空気は次第に熱くなって、ちろりちろり赤い炎の反射がもれる。突然、海ゆかばを歌いだした者がある。せいいっぱい大声でゆっくり歌いつづけてゆく。藤本君は全身の力を失い、そのままころりと転がって、友の最後の歌に耳をすましていた。
 かえりみはせじ――歌は終わった。「諸君、さよなら――僕は足から燃えだした」あと二分したら、僕も燃えだす。藤本君は運命を知った。合掌してじっとしていると、父の顔が見えた。「じたばたするな」といった。母の笑顔が見えた。弟の正夫が浮かんだ。正夫が僕の代わりに医者になってくれるだろう。レントゲン室の仲間が一人一人思い出された。角帽をかむる日まで、レントゲン技術員として勉強していた教室、ああ、一緒に入学試験を受け、同じく角帽の栄冠を得た親友蛸ちゃんはどうなったろう。レントゲン仲間で朝夕投げ合っていた短い言葉が次々頭に浮かんだ。「あわてるな」この狭いがらくたの空間に一切の自由を奪われ、無抵抗裡に燃やされ、炭化され、灰になろうとして、何をあわてる必要があろう。「縹渺」ここにおいて肉体は寸尺の活動の余地を有しないが、精神は天地宇宙の間にひょうびょうと流れゆくのだ。あと一分の不自由だ。肉の焼ける匂いがする。若い肉体の燃焼する快い匂いだ。僕の匂いもよいだろう。「一大事とは唯今のことなり」まさに然り。「此亦放尿喫飯脱糞之徒耳」藤本君は思わずくすりと笑った。「どうしても問題が解けぬときは、まるで反対を考えてみるんだ」試験勉強の最中に施先生がよく教えた言葉。まるで反対のことを――はて、そうだ。藤本君はもしやと思い床を撫でてみた。床板のつぎ目に指先がかかった。力を入れて引いてみた。果たせるかな、がたりとはげた。爆風が地面に当たり、反射して下から床をあおったので、釘がゆるんでいたのである。うんと引き上げ指を下にかけた。ばりばり快い音をたてて床板が離れ、救いの空気がひやりと飛びこんできた。二枚、三枚わけなく離れ、どすんと身体は床下の土にころがり落ちた。

 細菌学教室の裏の窓をあけて、今停車場から切符を買って帰った山田先生と辻田君とが、風を入れて休んでいた。二人はこれから東京の伝染病研究所へ血清製造法を習いに出張するところだった。いよいよ長崎籠城の日が近まり、こんな方面にも急いで準備をせねばならぬ仕事があった。男子がほとんど戦場に出ているので、この二人の若い女性科学者は、これから大きな責任を負わされることになっていたのだ。テニスコートも夏草に荒れて、スポーツを楽しむなどというのどかさは何年か前に忘れられ、すべては戦争一本であった。コートの向こうにすくすくとのびた楠と松の木立があり、それをすかして今は増産の芋畑に変わった運動場があり、その上に赤い大きな天主堂がそびえている。テニスコートをよこぎりながら、こちらへ手をふる二人のもんぺ姿がある。レントゲン科の看護婦の浜さんと大柳さんらしかった。以前にレントゲン科で技手をしていた辻田君の顔を窓に見いだして合図したものだった。辻田君はつと立ってハンカチを振った。運動場の芋畑にはレントゲン科の山下さんや吉田さんや井上さんがしゃがんで草をとっている。浦上の丘の段々畑には、空襲の[#「空襲の」は底本では「突襲の」]切れ間のしばしを利用して草とりをしている農民の姿が、あちこちに点々と見える。天主堂へは信者が引き続き参詣している。路にもちらちら日傘が光る。
「長崎はいつ見てもきれいですねえ」
「二か月あとで私たちが東京から帰ってきた時、やっぱりこのままでしょうか」
「私はなんだか長崎がなくなりそうな気がする」
「私はなんだか長崎だけは残りそうな気がする」
 そこへ「ピカドン」が来た。

 山田先生はやっとのことで床下へ出て助かった。隣に埋まった辻田君の「苦しい、苦しい」とただ二言いったきりで息絶えたのが夢のようである。細菌教室はたちまち一塊の火となった。脱出したのは山田先生独りだった。内藤教授以下全員即死したものと思われる。
 外にはい出してみるとうす暗く、風がそうそうと空に鳴っていた。見晴らしがきくと思っていたら、松と楠の木立は根こそぎ払われ、あたりの校舎講堂はみな潰れていた。向こうの天主堂は高さ五十メートルもあった鐘塔をはじめとして、全体が三分の一の高さぐらいに吹き払われ、羅馬の廃墟さながらである。石垣に逆さに大の字にひっかかっている人、道路に点々倒れている人、畑にも見渡すかぎり幾人と数えきれぬ死人である。運動場にいた看護婦さんたちは? と見れば、離ればなれに吹き倒され、びくとも動かない。戸外にいた人は即死だった。山田先生はあまり大きな傷を受けてはいなかったにもかかわらず、不思議に身体中が変調をきたし、四、五歩行ったらくたくたと膝をついた。そしてもうどうにでもなれとあきらめて、そこのトタンの上にごろりと寝ころんだ。そばに古いドイツ語の細菌学教科書が落ちていた。もうこんな学問も駄目だ、とそう思って、その本を枕にしいた。そこにそのまま不安な夢と苦悶のうつつとの境をさまよいつつ、救いのあらわれるのをむなしく待つことにした。

 以下略

    「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1823年(文政6)幕臣・政治家勝海舟の誕生日(新暦3月12日)詳細
1902年(明治35) 「第一回日英同盟協約」が調印される詳細
1945年(昭和20)「藷類増産対策要綱」が閣議決定される詳細
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