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 今日は、戦国時代の1543年(天文12)に、ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲が伝来した日とされていますが、新暦では9月23日となります。
 これは、戦国時代の日本の種子島に火縄銃型の鉄砲が伝来した事件を指しています。その時に、鉄砲の現物のほか、その製造技術や射撃法なども伝わったとされていました。
 伝来した年代については、西洋側の記録(『日本教会史』、『アジア誌』、『ビーリャロボス艦隊報告』)は 1542年とするものが多いのですが、日本側のほぼ唯一の記録として、江戸時代の1606年(慶長11)に種子島久時 が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(玄昌)に編纂させた『鉄炮記』には、1543年(天文12年8月25日)に、種子島の西岸にある西ノ村の前之浜(現在の鹿児島県熊毛郡南種子町)に南蛮船が来着し、上陸したボルドガル人によってもたらされたとしています。
 この地の領主だった種子島時堯はこれを二挺購入し、家臣に使い方と製造法を修得させ、翌年にはこの地で生産できるようになったので、火縄銃のことを“種子島”とも呼ぶようになりました。
 その後、同じものの製作と使用が広がって、戦国合戦の様相を大きく変えたのです。

〇南浦文之(玄昌)編『鉄炮記』(全文)

 隅州の南に一嶋あり。州を去ること一十八里、名づけて種子と日う。我が祖世々焉に居す。古来相伝う、島を種子と名づくるは、此の島小なりと雖も、其の居民庶くして且つ富み、譬えば播種に一種子を下して生々に窮り無きが如し、この故に名づくと。

 是より先、天文癸卯秋八月二十五丁酉、我が西村の小浦に一大船有り。何れの国より来るかを知らず、船客百余人、其の形類せず、其の語通ぜず、見る者以て奇怪となす。其の中に大明の儒生一人あり、五峰と名づくる者なり、今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶五峰にあい、杖を以て沙上に書して云く、『船中の客、何れの国の人なるやを知らず、何ぞ其の形の異なるや』と。五峯即ち書して云く、『此れはこれ西南蛮種の賈胡あり、粗君臣の義を知ると雖も、未だそお礼貌の其の中に在るを知らず、これ故に其の飲するや杯飲して杯せず、其の食するや手食して箸せず、徒に嗜欲の其の情に□うを知り、文字の其の理に通うを知らざる也、所謂賈胡は一処に到りて轍つ止むとは、これ其の種なり、其の有る所を以て其の無き所に易えんのみ、怪しむべき者には非ず』と。是に於て、織部丞又書して云ふ「此を去ること十又三里にして一津あり。津を赤尾木と名づく。我が由って頼む所の宗子、世々居る所の地なり。津口数千戸あり。戸ごとに富み、家ごとに昌えて、南商北賈、往還織るが如し。今船を此に繋ぐと雖も、要津の深くして且つ漣たざるの愈るに若かず。之を我が祖父恵時と老父時尭とに告げん」と。

 時尭即ち扁艇数十をして之を拏いて、二十七日己亥、船を赤尾木の津に入れしむ。斯の時に丁って津に忠首座なる者あり。日州龍源の徒なり。法華一乗の妙を聞かんと欲して津口に寓止し、終に禅を改めて法華の徒と為り、号して住乗院と日ふ。殆ど経書に通じ、筆を揮うこと敏捷なり。偶々五峯に遇ひ、文字を以て言語を通ず。五峯亦以為へらく「知己の異邦に在る者なり」と。いはゆる同声相応じ、同気相求むる者なり。

 賈胡の 長二人有り、一を牟良叔舎と日い、一を喜利志多佗太と日う。手に一物を携う。長さ二、三尺。其の体たるや、中通り外は直く、しかも重きを以て質となす。其の中常に通ると雖も、其の底密塞を要す。其の傍に一穴有り、火を通すの路なり。形象物の比倫すべきなきなり。 其の用たるや、妙薬を其の中に入れ、添ふるに小団鉛を以てす。先ず一小白を岸畔に置き、親ら一物を手にして其の身を修め、其の目を眇にして、其の一穴より火を放てば、則ち立ち所に中らざるはなし。其発するや掣電光の如く、其鳴るや驚雷の轟の如く、聞く者其耳を掩わざるはなし。一小白を置くものは、射者の鵠を侯中に棲くの比の如し。此の物一たび発せば、銀山も摧くべく鉄壁も穿つべし。姦きの仇を人の国に為す者、之に触るれば則ち立ろに其の魄を喪ふ。況や麋鹿の苗稼に禍する者をや。其の世に用あるもの勝げて数ふべからず。

 時尭之を見て以為へらく「希世の珍なり」と。始め其の何の名なるを知らず。其の何の用為るかを詳にせず。既にして人名づけて鉄砲と為すものは、知らず、明人の名づくる所か。抑々知らず、我が一島の者の名づくる所か。

 一日、時尭重訳して、二人の蛮種に謂って曰く「我、之を能くすと日ふには非ざるも、願はくは之を学ばん」と。蛮種も亦訳を重ねて答へて曰く「君若し之を学ばんと欲せば、我も亦其の蘊奥をつくして以て之を告げん」と。時尭曰く「蘊奥得て聞くべきか」と。蛮種曰く「心を正すと目を眇むるとに在るのみ」と。時尭曰く「心を正すとは先聖の以て人を教ふる所にして、我の以て之を学ぶ所なり。大凡天下の理、事に斯に従はずんば、動静云為自ら差ふこと無き能はず。公のいはゆる心を正す、豈復た異なることあらんや。目を眇むるものは其の明、以て遠きを燭すに足らず。之を如何ぞ、其の目を眇むるや」と。蛮種答へて曰く「夫れ、物は約を守るを要す。約を守る者は、博く見るを以て未だ至らずと為す。目を眇むる者は、之を見るの明らかならざるには非ず。其の約を守りて以て之を遠きに致さんと欲するなり。君、其れ之を察せよ」。時尭喜んで曰く「老子のいはゆる見ること小なるを明と日ふとは、其れ斯の謂か」と。

 是の歳、重九の節、日、辛亥に在り、良辰を涓取して、試みに妙薬と小団鉛とを其の中に入れ、一小白を百歩の外に置きて、之が火を放てば、則ち其れ殆ど庶幾いかな。時人、始めにしては驚き、中ごろにしては恐れて之を畏れ、終りにしては翕然として亦曰く「願はくは之を学ばん」と。

 時尭其の価の高くして及び難きを言はずして、蛮種の二鉄炮を求め、以て家珍となす。其の妙薬の擣篩和合の法は、小臣篠河小四郎をして之を学ばしむ。時尭、朝に磨し夕に淬し、勤めて已まず。向の殆ど庶幾きもの、是に於てか百発百中、一も失するもの無し。

 此の時に於て、紀州根来寺に杉の坊某公といふ者あり。千里を遠しとせずして我が鉄砲を求めんと欲す。時尭、人の之を求むるの深きを感ずるや、其の心に之を解して曰く「昔、徐君、季札の剣を好む。徐君、口に敢へて言はずと雖も、季札、心に已に之を知る。終に宝剣を解けり。吾が島偏小なりと雖も、何ぞ敢へて一物を愛しまんや。且つ復た、我が求めずして自ら得るすら喜んで寝ねられず。十襲して之を秘す。而るを況や、来って求めて得ずんば、豈復た心に快からんや。我の欲する所は、亦人の好む所なり。我、豈敢へて独り己に私して匱におさめて之を蔵せんや」と。即ち津田監物丞を遣はし、持して以て其の一を杉の坊に贈らしむ。且つ、妙薬の法と放火の道を知らしむ。時尭、把玩の余り、鉄匠数人をして熟々其の形象を見、月に鍛へ、季に錬りて、新たに之を製せしめんと欲す。其の形制は頗る之に似たりと雖も、其の底の之を塞ぐ所以を知らず。

 其の翌年、蛮種の賈胡、また我が島の熊野一の浦に来る。浦を熊野と名づくるものは、亦、小廬山、小天竺の比なり。賈胡の中に幸ひに一人の鉄匠あり。時尭以為へらく「天の授くる所なり」と。即ち金兵衛清定といふ者をして、其の底の塞ぐ所を学ばしむ。漸く時月を経て、其の巻いて之を蔵むるを知れり。是に於て歳余にして新たに数十の鉄砲を製す。然る後に其の臺の形制と、其の飾の鍵鑰の如き者とを製造す。時尭の意、其の臺と其の飾とに在らず。之を軍を行るの時に用ゐるべきに在り。是に於てか家臣の遐邇に在る者、視て之を效ひて、百発百中する者、亦其の幾許なるを知らず。

 其の後、和泉の堺に橘屋又三郎といふ者あり。商客の徒なり。我が島に寓止するもの一・二年にして、鉄砲を学ぶもの殆ど熟せり。帰郷の後、人皆名いはずして、呼んで鉄砲又と日ふ。然る後、畿内の近邦皆伝へて之を習ふ。翅に、畿内、関西の得て之を学ぶのみに非ず。関東も亦然り。

 我嘗て之を故老に聞く。

 曰く「天文壬寅、癸卯の交、新貢の三大船、将に南の方、大明国に遊ばんとす。是に於て畿内以西の富家の子弟、進んで商客と為るもの殆ど千人、楫師、さを師の船を操ること神の如き者数百人、船を我が小島に艤す。既にして天の時を待ち、纜を解き、橈を斉へ洋を望んで若に向ふ。不幸にして狂風、海を掀り、怒涛、雪を捲いて、坤軸も亦折けんと欲す。吁、時なるか、命なるか。一貢船は檣傾き、楫摧け烏有に化して去る。二貢船は、漸くにして大明国寧波府に達す。三貢船は乗りきることを得ずして我が小島に回る。翌年再び其の纜を解いて南遊の志を遂げ、飽くまで海貨蛮珍を載せて将に我が朝に帰らんとす。大洋の中にして黒風忽ち起こり、西東を知らず。船、遂に飄蕩して東海道伊豆州に達す。州人、其の貨を掠め取る。商客も亦其の所を失ふ。船中に我が僕臣松下五郎三郎といふ者ありて、手に鉄砲を携ふ。既に発して其の鵠に中らざる莫し。州人見て之を奇とし、窺伺傚慕して多く之を学ぶ者あり。茲より以降、関東八州曁び率土の浜、伝へて之を習はざるはなし」と。

 今、夫れ此の物の我が朝に行はるるや、蓋し六十有余年なり。鶴髪の翁なほ明らかに之を記ゆる者あり。是に知る、向に蛮種の二鉄砲、我が時尭、之を求め之を学び、一発、扶桑六十余州を聳動せしめ、且つ復た、鉄匠をして之を製するの道を知らしめて、五畿七道に偏からしむ。然れば則ち、鉄砲の我が種子島に権輿するや明らかなるを、昔、一種子の生々無窮の義を採って、我が島に今以て其の讖に符へりと為す。古曰く「先徳、 善あるに、世に昭々たる能はざるは、後世の過ちなり」と。因って之を書す。

 慶長十一年丙午重九の節

 種子島左近太夫将監藤原久時(花押)

                           『南浦文集』の「鉄砲記」より

 *縦書きの漢文の原文を読み下し文の横書きに改め、段落を分けて句読点を付してあります。