ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、評論家・英文学者・平和運動家中野好夫が亡くなった日です。
 中野好夫(なかの よしお)は、明治時代後期の1903年(明治36)8月2日に、愛媛県松山市道後町において、伊予鉄道に勤務する父・中野容次郎と母・しんの長男として生まれましたが、翌年に父が徳島鉄道に転じたので、徳島県徳島市に転居しました。旧制徳島県立徳島中学校、旧制第三高等学校を経て、1923年(大正12)に東京帝国大学文学部英文科に入学します。
 1926年(大正15)に卒業後、千葉県成田町成田中学校の英語教師となりましたが、胸の疾患で入院して退職、1928年(昭和3)には、東京都郁文館中学に英語教師として再び就職、「演劇改造」の同人に加わり、劇作、劇評をしました。1929年(昭和4)に東京府立女子師範学校、次いで、府立第二高等学校の英語教師を務め、1931年(昭和6)にルーカスの『批評論』を翻訳刊行、1934年(昭和9)には、『バニャン』を刊行、東京女子師範学校助教授となります。
 1935年(昭和10)に東京女子大学講師を兼任、東京帝国大学文学部助教授となり、1940年(昭和15)に評伝『アラビアのロレンス』、1943年(昭和18)に『文学評論集』を刊行しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に『反省と出発』、1947年(昭和22)に『教養と文化』、『エリザベス朝演劇河和』を刊行し、1948年(昭和23)には、東京大学文学部教授となります。
 1949年(昭和24)に「戦争と平和に関する日本の科学者の生命」を起草委員の一人として作成、1950年(昭和25)には、日本英米文学会の会長(~1952年)となりました。1953年(昭和28)に東京大学文学部教授を辞任、雑誌「平和」の編集責任者(~1955年)を勤め、1954年(昭和29)には、渡米して帰国後、南米、ラテン・アメリカ、ヨーロッパを訪ねます。
 1958年(昭和33)に東京女子大学講師を辞め、、1960年(昭和35)に沖縄資料センターを東京に設立、1961年(昭和36)には、『最後の沖縄県知事』を刊行し、1964年(昭和39)には、中央大学文学部教授(~1968年)となりました。1965年(昭和40)に『私の憲法勉強』を刊行、1967年(昭和42)には、日本マスコミ市民会議の常任理事、「明るい革新都政をつくる会」のメンバーとなって美濃部革新都政誕生に貢献、『シェイクスピアの面白さ』を刊行し、第21回毎日出版文化賞を受賞しています。
 1968年(昭和43)に『沖縄問題を考える』の代表編者として刊行、1969年(昭和44)に『戦後資料沖縄』を編纂して刊行、1970年(昭和45)には、「沖縄資料センター設立並びに運営につくした功績」により、沖縄タイムス社から感謝状を受けました。1971年(昭和46)に東京女子大学大学院講師となり、1974年(昭和49)には、『蘆花徳冨健次郎』(全3巻、1972年~74年)で第1回大佛次郎賞を受賞しています。
 1978年(昭和53)に第14回琉球新報賞受賞を受賞、1983年(昭和58)には、「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により、昭57年度朝日賞を受賞しました。その他に、憲法擁護や第五福竜丸の保存運動、原水禁運動の統一などに力を尽くしてきましたが、1985年(昭和60)2月20日に、東京都において、肝臓がんにより、81歳で亡くなっています。

〇中野好夫の主要な著作

・翻訳『雨』サマセット・モーム作(1940年) 
・翻訳『ガリヴァ旅行記』ジョナサン・スウィフト作(1940年) 
・『文学試論集』全三冊(1942~52年)
・『エリザベス朝演劇講話』(1947年)
・翻訳『ベニスの商人』シェークスピア作(1948年)
・『人間の名において』(1954年)
・『ぼらのへそ』(1958年)
・評伝『アラビアのロレンス』(1963年)
・『シェイクスピアの面白さ』(1967年)第21回毎日出版文化賞受賞
・『スウィフト考』(1969年)
・『人間の死にかた』(1969年)
・『蘆花徳冨健次郎(ろかとくとみけんじろう)』全三部(1972~74年)第1回大仏次郎賞受賞
・翻訳『ローマ帝国滅亡史』ギボン作(1976~85年)未完

☆中野好夫関係略年表

・1903年(明治36)8月2日 愛媛県松山市道後町において、伊予鉄道に勤務する父・中野容次郎と母・しんの長男として生まれる
・1904年(明治37) 父が徳島鉄道に転じたので、徳島県徳島市に転居する
・1910年(明治43) 徳島市立寺島尋常小学校に入学する
・1916年(大正5) 旧制徳島県立徳島中学校へ入学する
・1920年(大正9) 旧制徳島中学校4年修了で、京都に出て旧制第三高等学校文科甲類に入学する
・1923年(大正12) 東京帝国大学文学部英文科に入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学文学部英文科を卒業し、千葉県成田町成田中学校の英語教師となるが、胸の疾患で入院する
・1928年(昭和3) 東京都郁文館中学に英語教師として就職、「演劇改造」の同人に加わり、劇作、劇評をする
・1929年(昭和4) 東京府立女子師範学校、次いで、府立第二高等学校の英語教師を務める
・1930年(昭和5) 土井晩翠の娘・信と結婚する
・1931年(昭和6) ルーカスの『批評論』を翻訳刊行する
・1934年(昭和9) 『バニャン』を刊行、東京女子師範学校助教授となる
・1935年(昭和10) 東京女子大学講師を兼任、東京帝国大学文学部助教授となる
・1939年(昭和14) 「知識人のある傾向について」を「思想」に発表する
・1940年(昭和15) 評伝『アラビアのロレンス』を刊行、妻・信が亡くなる
・1942年(昭和17) 中村勝麻呂の娘・静と再婚する
・1943年(昭和18) 『文学評論集』を刊行する
・1946年(昭和21) 『反省と出発』を刊行する
・1947年(昭和22) 『教養と文化』、『エリザベス朝演劇河和』を刊行する
・1948年(昭和23) 東京大学文学部教授となり、『怒りの花束』、『英米文学論』を刊行する
・1949年(昭和24) 「戦争と平和に関する日本の科学者の生命」を起草委員の一人として作成、『南極のスコット』を刊行する
・1950年(昭和25) 日本英米文学会の会長(~1952年)となる
・1951年(昭和26) 『良識と寛容』を刊行する
・1952年(昭和27) 『私の平和論』を刊行する
・1953年(昭和28) 東京大学文学部教授を辞任、雑誌「平和」の編集責任者(~1955年)を勤める
・1954年(昭和29) 渡米して帰国後、南米、ラテン・アメリカ、ヨーロッパを訪ね、『人間の名において』を刊行する
・1956年(昭和31) 『私の消極哲学』を刊行する
・1957年(昭和32) バーチェット『十七度線の北』を翻訳刊行、『平和と良識』を刊行する
・1958年(昭和33) 東京女子大学講師を辞め、『ぼらのへそ』を刊行する
・1960年(昭和35) 沖縄資料センターを東京に設立する
・1961年(昭和36) 『最後の沖縄県知事』を刊行する
・1964年(昭和39) 中央大学文学部教授(~1968年)となる
・1965年(昭和40) 『私の憲法勉強』を刊行する
・1967年(昭和42) 日本マスコミ市民会議の常任理事、「明るい革新都政をつくる会」のメンバーとなって美濃部革新都政誕生に貢献、『シェイクスピアの面白さ』を刊行し、第21回毎日出版文化賞を受賞する
・1968年(昭和43) 『沖縄問題を考える』の代表編者として刊行する
・1969年(昭和44) 『戦後資料沖縄』を編纂して刊行する
・1970年(昭和45) 「沖縄資料センター設立並びに運営につくした功績」により、沖縄タイムス社から感謝状を受け、新崎盛暉と共著で『沖縄・70年前後』を刊行する
・1971年(昭和46) 東京女子大学大学院講師となる
・1972年(昭和47) 『沖縄と私』、『蘆花徳富健次郎 第一部・第二部』を刊行する
・1973年(昭和48) 『忘れえぬ日本人』を刊行する
・1974年(昭和49) 『蘆花徳富健次郎 第三部』を刊行、『蘆花徳冨健次郎』(全3巻、1972年~74年)で第1回大佛次郎賞を受賞する
・1976年(昭和51) 『沖縄戦後史』、『風雨前後』を刊行、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅰを翻訳刊行する
・1978年(昭和53) 第14回琉球新報賞受賞を受賞、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅱを翻訳刊行する
・1981年(昭和56) ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅲを翻訳刊行する
・1983年(昭和58) 「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により、昭57年度朝日賞を受賞する
・1985年(昭和60)2月20日 東京都において、肝臓がんにより、81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

国際デー国際連合が定めた世界社会正義の日です詳細
1886年(明治19)歌人石川啄木の誕生日詳細
1913年(大正2)大正2年東京神田三崎町の大火で、家屋全焼2,376戸、半焼54戸を出す詳細
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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、評論家・翻訳家・小説家内田魯庵の亡くなった日です。
 内田魯庵(うちだ ろあん)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月5日)に、江戸・下谷車坂六軒町において、旧幕臣の子として生まれましたが、本名は貢(みつぎ)、別号は不知庵(ふちあん)と言いました。立教学校、東京専門学校、大学予備門 (のちの第一高等学校) などで英語を学んだものの、いずれも中退しています。
 遠縁の翻訳家井上勤の仕事を手伝って語学力を身につけ、1888年(明治21)に、評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場しました。『国民新聞』、『国民之友』にも寄稿して、文芸評論家として活躍します。
 一方で、1889年(明治22)に処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載、1892年(明治25年)には、体系的文学論『文学一斑』を刊行すると共に、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてもデビューしました。1894年(明治27)に三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行、1898年(明治31)には、社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、また、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表します。
 1901年(明治34)に丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集、『ブリタニカ百科事典』の輸入販売に尽力しました。1902年(明治35)に短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博し、1905年(明治38)にトルストイ『復活』、翌年には『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を翻訳出版します。
 その後、1910年(明治43)に起きた大逆事件に対する静かなる抵抗として、翌年にワイルド「悲劇・革命婦人」を朝日新聞に連載し、1913年(大正2)には、トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行いました。晩年は文壇から離れ、読書家・趣味人として生き、1921年(大正10)に随筆集『貘(ばく)の舌』、1922年(大正11)に随筆集『バクダン』、1925年(大正14)には、文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行しています。
 進歩的立場での文明批評や読書文化普及で世に知られましたが、1929年(昭和4年)6月29日に、東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなりました。

〇内田魯庵の主要な著作

・評論『山田美妙大人の小説』(1888年)
・体系的文学論『文学一斑』(1892年)
・社会小説『くれの廿八日』(1898年)
・短編小説集『社会百面相』(1902年)
・随筆集『貘(ばく)の舌』(1921年)
・随筆集『バクダン』(1922年)
・文壇回想録『思ひ出す人々』(1925年)

☆内田魯庵関係略年表

・1868年(慶応4年閏4月5日) 江戸・下谷車坂六軒町において、旧幕臣の子として生まれる 
・1887年(明治20年) 東京専門学校(現在の早稲田大学)を中退する
・1888年(明治21年) 評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場する
・1889年(明治22年) 処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載する
・1890年(明治23年) 春頃、森林太郎(森鴎外)の家を訪ねる
・1892年(明治25年) 体系的文学論『文学一斑』を刊行、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてデビューする
・1894年(明治27年) 三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行する
・1898年(明治31年) 社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表する
・1901年(明治34年) 丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集する
・1902年(明治35年) 短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博す
・1905年(明治38年) トルストイ『復活』を翻訳する
・1906年(明治39年) トルストイの翻訳『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を出版する
・1911年(明治44年) 大逆事件に対する静かなる抵抗としてワイルド『悲劇・革命婦人』を朝日新聞に連載する
・1913年(大正2年) トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行う
・1921年(大正10年) 随筆集『貘(ばく)の舌』を刊行する
・1922年(大正11年) 随筆集『バクダン』を刊行する
・1925年(大正14年) 文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行する
・1929年(昭和4年)6月29日 東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1868年(慶応4)明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
1928年(昭和3)「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする詳細
1945年(昭和20)岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)詳細
1946年(昭和21)GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される詳細
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 今日は、平成時代の2017年(平成29)に、詩人・評論家大岡信の亡くなった日です。
 大岡信(おおおか まこと)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)2月16日に、静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれました。静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)、旧制第一高等学校を経て、1950年(昭和25)に、東京大学文科に入学します。
 在学中に、日野啓三、佐野洋らと『現代文学』を創刊し、1953年(昭和28)に文学部国文科を卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属されました。1954年(昭和29)に、谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加、1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行します。
 1963年(昭和38)に読売新聞社を退職、翌年には、明治大学助教授となり、1969年(昭和44)には、評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞しました。1970年(昭和45)に明治大学教授に昇任、この頃から連句(連詩)をはじめ、1972年(昭和47)には、評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞します。
 1979年(昭和54)に「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞、翌年には、『折々のうた』で菊池寛賞を受賞しました。1987年(昭和62)に明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任、1989年(平成元)には、日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞します。
 1990年(平成2)に『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1993年(平成5)には、『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞めました。1994年(平成6)に第51回恩賜賞・日本芸術院賞、1995年(平成7)に日本芸術院会員、1996年(平成8)に朝日賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞、1997年(平成9)には文化功労者となるなど、数々の栄誉に輝きます。
 さらに、2002年(平成14)に国際交流基金賞、2003年(平成15)に文化勲章、2004年(平成16)にフランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエ受章と続きました。2007年(平成19)に「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了、2009年(平成21)に静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館するなどしたものの、2017年(平成29)4月5日に、静岡県三島市において、呼吸不全のため86歳で亡くなっています。

〇大岡信の主要な著作

・詩集『記憶と現在』(1956年)
・評論『超現実と抒情(じょじょう)』(1965年)
・評論『蕩児(とうじ)の家系』(1969年)藤村記念歴程賞受賞
・評論『紀貫之』(1971年)読売文学賞受賞
・詩集『春 少女に』(1979年)無限賞受賞
・詩集『故郷の水へのメッセージ』(1989年)第7回現代詩花椿賞受賞
・評論『詩人・菅原道真』(1989年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・詩集『地上楽園の午後』(1993年)詩歌文学館賞受賞
・随筆『折々のうた』(1979~2007年)菊池寛賞受賞

☆大岡信関係略年表

・1931年(昭和6)2月16日 静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれる
・1943年(昭和18) 静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)に入学する
・1947年(昭和22) 沼津中学4年から旧制第一高等学校文科丙類に入学する
・1950年(昭和25) 東京大学文科に入学する
・1953年(昭和28) 東京大学卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属される
・1954年(昭和29) 谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加する
・1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行する
・1959年(昭和34) 「フォートリエ展」カタログ作成に協力する
・1962年(昭和37) 武満徹の管弦楽曲のために「環礁」を書き下ろす
・1963年(昭和38) 読売新聞社を退職する
・1965年(昭和40) 明治大学助教授となる
・1969年(昭和44) 評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞する
・1970年(昭和45) 明治大学教授となり、この頃から連句(連詩)をはじめる
・1972年(昭和47) 評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞する
・1979年(昭和54) 「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『折々のうた』で菊池寛賞を受賞する
・1987年(昭和62) 明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任する
・1989年(平成元) 日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞する
・1990年(平成2) 『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1993年(平成5) 『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞める
・1994年(平成6) 第51回恩賜賞・日本芸術院賞を受賞する
・1995年(平成7) 日本芸術院会員となる
・1996年(平成8) 朝日賞を受賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞を受賞する
・1997年(平成9) 文化功労者となる
・2002年(平成14) ことばと文学による国際文化交流と相互理解に多大な貢献をしたとして、国際交流基金賞を受賞する
・2003年(平成15) 文化勲章を受章する
・2004年(平成16) フランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章する
・2007年(平成19) 「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了する
・2009年(平成21) 静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館する
・2017年(平成29)4月5日 静岡県三島市において、呼吸不全のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1880年(明治13)「集会条例」(明治13年太政官布告第12号)が公布される詳細
1939年(昭和14)「映画法」が公布され、脚本の事前検閲、外国映画の上映制限などが決まる詳細
1964年(昭和39)詩人・翻訳家三好達治の命日(達治忌)詳細
1984年(昭和59)染色工芸家芹沢銈介の命日詳細
1998年(平成10)明石海峡大橋が開通する詳細
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 今日は、幕末明治維新期の慶応3年に、小説家・評論家斎藤緑雨の生まれた日ですが、新暦では1868年1月24日となります。
 斎藤緑雨(さいとう りょくう)は、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)で、津藩の医師であった父・斎藤利光、母・のぶの長男として生まれましたが、本名は賢(まさる)と言いました。1876年(明治9)に、8歳の時一家で上京し、東京府中学を経て、明治法律学校(現在の明治大学)に進みましたが、弟たちのために中途で学業を断念し、文筆で立つことを決意します。
 1884年(明治17)に仮名垣魯文の門に入り、今日新聞の編集に携わり、認められて『初夏述懐』を発表しました。1885年(明治18年)に自由之燈に入社して記者となりましたが、翌年には退社し、今日新聞において、初めての小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』を発表します。
 1889年(明治22)に東西新聞に入社し、正直正太夫の名で戯作評論『小説八宗』を著し、批評家デビューし、翌年には、大同新聞に入社し、『大夢』を連載しました。1891年(明治24)に小説『油地獄』を「国会」に、『かくれんぼ』を「文学世界」に書き、小説家としても認められ、翌年には森鷗外の千駄木の観潮楼をしばしば訪ねるようになります。
 1894年(明治27)に両親を相次いで亡くしたものの、翌年には、「時論日報」という新聞の編輯主幹を任されました。1896年(明治29)に森鴎外、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌「めさまし草」に掲載、樋口一葉と手紙のやり取りを始めるようになります。
 1897年(明治30)に小説『あま蛙』を博文館から刊行、翌年には、万朝報に入社し、『眼前口頭』を書き始め、幸徳秋水に知遇を得ました。1899年(明治32)に『一葉全集』(博文館)の校訂を引き受けましたが、翌年には肺結核にかかり、神奈川県鵠沼の旅館東屋で転地療養することとなり、万朝報を辞めています。
 1901年(明治34)に東屋の女中頭だった金澤タケと結婚し、翌年に小唄『おもかげ草』を「明星」に発表しました。1903年(明治36)に小説『みだれ箱』を博文館から刊行、同年に東京・本所横網町の金澤タケ方に寄寓 幸徳秋水のすすめで、週刊「平民新聞」に『もゝはがき』を寄稿することとなります。
 しかし、病状は悪化し、1904年(明治37年)4月13日に東京において、肺結核により、数え年37歳で亡くなり、翌日の「万朝報」に自身が口述筆記させた死亡広告「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段広告仕候也」が掲載されました。

〇斎藤緑雨の主要な著作

・小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』(1886年)
・戯作評論『小説八宗』(1889年)
・『初学小説心得』(1890年)
・小説『油地獄』(1891年)
・小説『かくれんぼ』(1891年)
・『新体詩見本』(1894年)
・小説『門三味線』(1895年)
・小説『あま蛙(がえる)』(1897年)
・随筆『おぼえ帳』(1897年)
・小説『あられ酒』(1898年)
・『眼前口頭』(1898~99年)
・小説『わすれ貝』(1900年)
・随筆集『青眼白頭』(1900年)
・小説『みだれ箱』(1903年)

☆斎藤緑雨関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1868年1月24日(慶応3年12月30日) 伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)で、津藩の医師であった父・斎藤利光、母・のぶの長男として生まれる
・1876年(明治9年) 8歳の時一家で上京する
・1884年(明治17年) 仮名垣魯文の門に入り、今日新聞の編集に携わり、認められて『初夏述懐』を発表する
・1885年(明治18年) 自由之燈に入社して記者となる
・1886年(明治19年) 今日新聞において、初めての小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』を発表する
・1889年(明治22年) 東西新聞に入社し、正直正太夫の名で戯作評論『小説八宗』を著し、批評家デビューする
・1890年(明治23年) 大同新聞に入社し、『大夢』を連載する
・1891年(明治24年) 小説『油地獄』を「国会」に、『かくれんぼ』を「文学世界」に書き、小説家としても認められる
・1892年(明治25年) 森鷗外の千駄木の観潮楼をしばしば訪ねる
・1894年(明治27年) 両親を相次いで亡くす
・1895年(明治28年)9月 「時論日報」という新聞の編輯主幹を任される
・1896年(明治29年) 森鴎外、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌「めさまし草」に掲載、樋口一葉と手紙のやり取りを始める
・1897年(明治30年)5月 小説『あま蛙(がえる)』を博文館から刊行する 
・1898年(明治31年) 万朝報に入社し、『眼前口頭』を書き始め、幸徳秋水を知る
・1899年(明治32年) 『一葉全集』(博文館)の校訂を引き受ける
・1900年(明治33年)10月23日 肺結核にかかり、神奈川県鵠沼の旅館東屋で転地療養する
・1900年(明治33年)11月 万朝報を辞める
・1901年(明治34年)4月13日 東屋の女中頭金澤タケを伴って、タケの実家のある神奈川県小田原に移り、タケと結婚する
・1902年(明治35年)3月 小唄『おもかげ草』を「明星」に発表する
・1903年(明治36年)5月 小説『みだれ箱』を博文館から刊行する
・1903年(明治36年)10月 東京・本所横網町の金澤タケ方に寄寓する
・1903年(明治36年)11月 幸徳秋水のすすめで、週刊「平民新聞」に『もゝはがき』を寄稿することとなる
・1904年(明治37年)4月13日 東京において、肺結核により、数え年37歳で亡くなる
・1904年(明治37年)4月14日 「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也」と孤蝶に口述筆記させた死亡広告が「万朝報」に掲載される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)画家・歌人・随筆家小杉放庵の誕生日詳細
1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、東洋史学者・評論家内藤湖南の生まれた日ですが、新暦では8月27日となります。
 内藤湖南(ないとう こなん)は、秋田県鹿角郡毛馬内町(現在の鹿角市)の南部藩士・儒者内藤調一と容子の次男として生まれましたが、名は虎次郎と言いました。7歳で『二十四孝』と四書を習得し、13歳の時に『日本外史』を通読、さらに詩作を始めたとされます。
 1885年(明治18)に秋田師範高等科を卒業後、綴子(つづれこ)小学校の主席訓導となりましたが、約1年で辞めて、1887年(明治20)には上京して、仏教雑誌「明教新誌」の編集に従事しました。その後、「大同新報」の記者、機関紙「日本人」の編集、「三河新聞」の編集と渡り歩き、1894年(明治27)には、大阪朝日新聞に入ります。
 さらに、「台湾日報」主筆や「万朝報」などの編集で名を馳せ、中国問題の論壇第一人者となりました。1907年(明治40)に狩野亨吉によって京都帝国大学に招かれ、文科大学史学科東洋史学講座講師となります。
 2年後の1909年(明治42)に教授に昇任し、翌年には、狩野亨吉総長の推薦により文学博士となりました。1926年(大正15)に京都帝国大学を定年退官し、帝国学士院会員となり、翌年には、京都帝国大学名誉教授となります。
 この間、数次にわたり、中国、朝鮮、満州、欧州を訪問、敦煌文書などを調査し、狩野直喜と共に、東洋史・支那学における京都学派を育てました。また、邪馬台国の所在地をめぐる論争では、畿内説を主張し、九州説を唱えた東京帝国大学の白鳥庫吉と激しい論争が展開されます。
 定年退官後は、京都府瓶原村(現在の木津川市)の恭仁(くに)山荘に隠棲し、読書著述の日々を過ごしました。その中で、1929年(昭和4)に東方文化学院京都研究所(現在の京大人文科学研究所)評議員となったり、国宝保存会委員などの要職を続けたものの、1934年(昭和9)6月26日に、数え年69歳で亡くなっています。

〇内藤湖南の主要な著作

・『支那史学史』
・『日本文化史研究』
・『中国近世史』
・『清朝史通論』
・『支那論』
・『中国絵画史』
・『燕山楚水(えんざんそすい)』

☆内藤湖南関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1866年(慶応2年7月18日) 秋田県鹿角郡毛馬内(けまない)町(現在の鹿角市)の南部藩士・儒者内藤調一と容子の次男として生まれる
・1872年(明治5年) 7歳で『二十四孝』と四書を習得する
・1878年(明治11年) 13歳の時、『日本外史』を通読し、さらに詩作を始める
・1885年(明治18年) 秋田師範高等科を卒業後、小学校教育に従事する
・1887年(明治20年) 上京して、仏教雑誌「明教新誌」の編集に従事する
・1894年(明治27年) 大阪朝日新聞に入る 
・1907年(明治40年) 京都帝国大学文科大学史学科東洋史学講座講師となる
・1909年(明治42年) 京都帝国大学教授に就任する
・1910年(明治43年) 狩野亨吉総長の推薦により文学博士となる
・1924年(大正13年)2月15日 従四位となる
・1924年(大正13年)2月23日  勲三等瑞宝章を受章する
・1926年(大正15年) 京都帝国大学を定年退官し、帝国学士院会員となる
・1927年(昭和2年) 京都帝国大学名誉教授となる
・1929年(昭和4年) 東方文化学院京都研究所(現・京大人文科学研究所)評議員となる
・1934年(昭和9年)6月26日 数え年69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1871年(明治4)女優川上貞奴の誕生日(新暦9月2日)詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
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